護憲派と改憲派の対立がある。この対立を超えるためには、護憲派が護憲したい本質的な法の精神とは何かという部分を徹底的に解明することが必要である。
それを解明した上で、その本質的な法の精神を損なわせない形で新しい憲法案をつくり出していくことができたならば、当然、現在の憲法よりも質の良い憲法を生み出すことができるはずである。
そのやり方ができるのであれば、護憲派であっても積極的な姿勢を持つことができるのではないだろうか。
護憲派と改憲派の対立を見ると、下記のような問題が感じられる。
〇 改憲派は、法の精神を十分に理解しないまま乱暴な改憲案を提案している場合がある。
〇 護憲派は、法の精神の根本を十分に説明できるほどには理解しておらず、守るべき法の本質を明らかにできていない場合がある。
護憲派は改憲派の法の精神に対する理解不足を感じ取っていると思われる。
しかし、そのどの部分が問題があるのかを十分に説明することができないために、「漠然的護憲」とのレッテルを貼られて軽蔑されている場合があると思われる。
ただ、確かに理解不足な改憲が強行されるよりも、現状維持の方が安全であるとの判断は理解はできる。今より悪くなることはないからである。
しかし、それは努力不足を指摘されることにもなりうる。
改憲派は、人類が積み重ねてきた法の精神に対する学術的理解が十分でない場合が見受けられる。これは勉強不足であると思う。
ただ、護憲派も改憲派の動きに合わせて、護憲したい法の本質とは何かということについてより深い理解を会得し、それを明らかにしていく努力は必要であると思われる。
もっとも問題なのは、護憲派も改憲派も、勉強不足なことである。憲法を取り扱う上で、これが一番危険である。
憲法改正に含まれる論点は、表面的なもので終わるようなものではない。
「人権」という概念が実はもともと存在しておらず、ある一定のレベルの認識へと達した人の手によって、その概念そのものが維持され、運用されているという背景がある。
「人権」とは、その社会の中で宣言的につくられた合意の産物であり、その合意さえも失われるような「人権の根拠が変更されるような改憲」が行われてしまった場合には、法秩序そのものが破壊されるような事態となり得る。
その事態が起こり得ることに対して危機感を持つ人が少ないことは、「人権」という合意の産物が失われた際に、いかに強者に怯えた生活を強いられたり、権力の思いのままに乱暴な扱いを受けたりするなどのあまりの恐ろしい事態に想像が及んでいないからである。
もし「人権」という合意が失われてしまったならば、私たちも強者や権力を持った何者かによって、人間扱いされなくなってしまう恐れがある。
私たち人間は、鳥も食べるし、牛も豚も羊も食べる。馬も食べるし、クジラも魚も食べる。当然、殺して食べるのである。
虫は殺虫剤で殺すこともあるし、カエルは生きたまま解剖の実験に使われることもあるし、マウスも様々な実験に使われて処理されている。
人権がなく、人間扱いされないというのは、そのような形で人間さえも人体実験に使われたり、簡単に殺されたりしてしまっても、それを法によって防ぐことができないということである。
歴史上では、そういったことも当然行われてきたのである。
憲法の条文変更によって起きうるリスクというのは、こういった「現代ではまさかあり得ないだろう」という事態にまで影響を及ぼし得る問題である。今後、どんな改憲項目が議論されたとしても、この「人権という概念の質」自体を守り抜くことは絶対に必要である。
なぜここまでして力説しなくてはならないかというと、人権の根拠を十分に理解しないままに、この「まさか」のレベルの憲法観を持った改憲勢力が存在するからである。
改憲勢力の一部は、そういった大前提の基礎の基礎を通らずに、今ある「人権」というものがもともと"あるもの"であるかのように勘違いした認識の下で改憲案をつくってしまったように見えるのである。
今後、「失われてはじめて気づく」という『勘違い改憲』を行ってしまうことがないように、非常に鋭い眼差しで注視していく必要がある。
改憲派も護憲派もまったく同意できる内容を探し、そこから少しずつ段階的に改憲していくというのはどうだろうか。
この方法であれば、抵抗感は少なく、かつ熟考しながら時間をかけて進めていくことが可能となると思われる。
初歩的で全く問題のなさそうなところを探すことが大切ではないだろうか。それらを、下記に提案する。
(国民投票と国政選挙と同時にすることについて)
【参考】憲法改正は選挙の争点に相応しいか? 2019年05月20日
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① 現行憲法の『歴史的仮名遣い』を現代的仮名遣い(口語?)に修正する。
「堪へ」→「堪え」、「負ふ」→「負う」などという、文字の現代化である。これは、護憲派も改憲派も全く問題なく改憲に賛同できるはずである。ここからゆっくりやればいいのである。
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② 「第11章 補則」の規定を章から「附則規定」に降格させる。
第11章は現在使われていない条文なので、憲法を学ぶ際にも体系から見て違和感がある。そのため、「憲法の附則規定」に降格させるのが妥当であると考える。これは一般の民法や刑法などあらゆる法で採用されている基礎的な形式であり、憲法だけ附則規定が「補則」として章に配置されているのは法体系のアクセシビリティ(見やすさ、使いやすさ、分かりやすさ)を低くしている。憲法を学ぼうとする国民や学習者にこのような混乱を与えてしまうことがないようにしていくと良いと考える。
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③ 章の配置順序を変更する。
◎まずは、現在第10章の「最高法規」の章を一番最初の「第1章」に配置する。
◎次に、天皇を三権の前に持ってくる。すなわち、「国民の権利及び義務」の後、「国会」の章の前である。
(「天皇」の章を第1章に維持したいと主張する保守的護憲派が生まれてくるものと考えられる。ただ、天皇の章が第1章から配置が変わっても、その性質や役割はまったく変わらず、その権威が失われるものではないと考える。)
◎最後に、「改正」の章を第2章の「戦争の放棄」の章の後に持ってくる。
すると、【憲法総則】【人権規定】【統治規定】の順に配置され、憲法典の体系が見やすく整理される。これで、現行憲法の学習を困難にしている体系的な把握のしづらさを解消することができ、国民の多くにも広く理解され受け入れられるものとなるはずである。
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④ 人権保障に関係ない条文の改憲を議論していく。
刑事訴訟関連規定群など、一つの条文にまとめることで憲法が読みやすく分かりやすくなりそうな条文を整理する。アクセシビリティを高める。この際、国民的な議論がなく、人権保障に全くと言っていいほど関連しないものを選ぶ。
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⑤ 議論の多い条文の改正案を議論し、条文改憲を提案していく。
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このように改憲は憲法を"分かりやすく"することから始めるとよいのではないかと考える。
そうすることで、国民の憲法や法の本質に対する理解を徐々に促進していくことができると考える。国民の感じやすい「法」というものへの抵抗感を軽減し、理解を妨げている要因を取り除いていくのである。
すると、国民にとって法の本質を解するための議論に参加するハードルが下がるはずである。無用な疲労感も軽減されるだろう。
そこからがやっと、国民の大多数が議論へ参加できる憲法の条文の議論に移ることができるのではないかと考える。この分かりやすさは、各条文の改正に向けた真の国民的な議論が活発に行われるようにする効果があると考える。
そうした上で、すべての国民に受け入れられるような形で新しい憲法をつくり出していくことが、良質な憲法となると考える。