基本的な論理 4





 ここでは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を中心に、答弁の誤りを確認する。







稲田朋美


〇 防衛大臣 稲田朋美


(下線・太字・色は筆者)


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○稲田朋美君 自由民主党の稲田朋美です。
 自由民主党を代表して、平和安全法制について質問いたします。(拍手)
(略)
 また、昨年七月の閣議決定については、解釈改憲、立憲主義の逸脱という批判がなされています。しかし、この閣議決定は、昭和四十七年の政府見解基本的な論理のみならず、憲法の番人である最高裁判所が示す考え方、すなわち昭和三十四年の砂川事件判決の、我が国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならないをいささかも踏み外すものではなく、解釈改憲というそしりは全く当たりませんし、立憲主義に反するものではないと考えますが、総理の御認識をお伺いいたします
 次に、先日の党首討論において議論になった点について、改めてお伺いいたします。
 まず、今回の法制と海外派兵、すなわち海外における自衛隊の武力の行使についてお伺いいたします。ここで言う海外派兵には、PKOや後方支援は含まれません。
 自衛隊の海外派兵については、政府が長年維持してきた海外派兵の一般的禁止、すなわち武力の行使を目的として自衛隊を他国領域に派遣することは、一般的に、自衛のための必要最小限度を超えるものであり許されないという解釈は、集団的自衛権の一部を容認する今回の法改正でも変わりません
 しかし、例えば、ホルムズ海峡の機雷掃海のように、我が国への直接の攻撃が行われることがなくとも、我が国の存立が危機に陥るような場合において、必要最小限度の解釈の中で、例外的に他国領海で機雷掃海が認められ得るということですが、このような解釈でよいのか、総理にお伺いいたします。

(略)
 さて、次に、この平和安全法制の個別論点についてお伺いいたします。
 まず、集団的自衛権の限定容認について、総理は、これまで、邦人輸送中の米艦防護やホルムズ海峡での機雷掃海を具体例として挙げておられますが、集団的自衛権が限定的に行使可能な存立危機事態の典型例とはどのような事態でしょうか。石油供給が途絶えることなどが、どのような場合に存立危機事態になり得るかについて、あたかも、経済的影響が生じただけで存立危機事態となるといった誤解があるように思われます。この点について、わかりやすく御説明ください。

(略)

 私の政治信条は、伝統と創造です。伝統なき創造は空虚、創造なき伝統は枯渇です。平和安全法制において、守るべき伝統は、憲法九条の平和主義の理念、法の支配の貫徹した立憲主義の堅持、そして専守防衛と一般的な海外派兵の禁止です。創造は、憲法下において、国民の生命と安全そして国家の独立を守り、人間の安全保障に貢献する今回の法整備です。
(略)

 

【筆者】

 まず、これは防衛大臣としての答弁ではないことを押さえる必要がある。ただ、論者の考えを知るために参考とする。

 

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第189回国会 衆議院 本会議 第28号 平成27年5月26日



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○国務大臣(稲田朋美君) 昭和四十七年見解基本的な論理は、憲法九条の下でも、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対する、処する場合、例外的に自衛のための武力の行使が許されるというものであります。
 昭和四十七年に政府見解を示したときには、当時の安全保障環境に照らして、基本的な論理当てはまる場合としては、今委員が御指摘のように、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるというのが当時の事実認識であったことも事実です。
 平和安全法制では、昭和四十七年見解基本的な論理維持し、この考え方を前提として、これに当てはめる場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきた従前の事実認識を改め、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合これに当てはまるとしたものであります。
 このように、昭和四十七年基本的論理全く変わっておりませんし、また唯一の最高裁である砂川判決の考え方と軌を一にするものでございます。

 

【筆者】

 「自衛のための武力の行使が許される」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、「自衛の措置」について述べているだけであり、「武力の行使」の可否については何も述べていないからである。

 「当時の安全保障環境に照らして、基本的な論理に当てはまる場合としては、今委員が御指摘のように、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるというのが当時の事実認識であったことも事実です。」との答弁があるが、誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界を示した規範である。この中に「当てはまる」か否かが対象となるのは、「自衛の措置」のいくつかある選択肢であり、1972年(昭和47年)政府見解の結論部分においては「武力の行使」が当てはめられているものである。また、「自衛の措置」の限界には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを示す説明において使用された文言であるから、「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、この「自衛の措置」の限界の限界の規範の中に「武力の行使」を当てはめるとしても、同様に「我が国に対する武力攻撃」を満たすことが求められることとなる。この「自衛の措置」の限界を示す規範と「武力の行使」の限界のを示す規範との間には、文面上の論理展開しか存在していない。また、「自衛の措置」の限界を示した規範で既に「我が国に対する武力攻撃」を満たすことが求められていることから、これがあたかも「我が国に対する武力攻撃」に限られていないかのように考え方上で、「当時の安全保障環境」や「当時の事実認識」などというものによって「武力の行使」の限界の規範を「我が国に対する武力攻撃」を満たさない規範に変化させることができるかのように考えることはできない。「当時の安全保障環境」によって「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」としていたかのような認識は誤りである。「当時の事実認識であったことも事実です。」との答弁もあるが、「武力の行使」の限界を示す規範は、「自衛の措置」の限界を示す規範から文面上の論理展開によって導き出されているだけであり、そのような「当時の事実認識」などというものは存在しない。「事実です。」と、あたかもそのような「認識」があったかのように説明している点が誤りである。

 「基本的な論理を維持し、この考え方を前提として、これに当てはめる場合」との答弁もあるが、「基本的な論理」と称している部分を「維持」しているのであれば、「基本的な論理」と称している部分によって「存立危機事態」の要件は違憲となる。「これに当てはめる場合」の答弁もあるが、「存立危機事態」は「基本的な論理」と称している部分に論理的に当てはめることができない。

 「これに当てはまるとしたもの」との答弁もあるが、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」は当てはまらない。
 「基本的論理は全く変わっておりませんし、また唯一の最高裁である砂川判決の考え方と軌を一にするもの」との答弁もあるが、「基本的な論理」と称している部分が変わっていないのであれば、「存立危機事態」はここに当てはまらないため違憲となる。また、砂川判決では日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないことを押さえる必要がある。「存立危機事態」での「武力の行使」が砂川判決で根拠付けることができるかのように説明しようとしているのであれば、誤りである。

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○国務大臣(稲田朋美君) 当時は、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に考えられるというのが当時の事実認識でございます。
 しかしながら、基本的な論理に、基本的な論理という意味に当てはまる場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとされてきた従前の事実認識を改め我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある、このことも基本的論理当てはまるというふうに思います。

 

【筆者】

 「当時は、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に考えられるというのが当時の事実認識でございます。」との答弁があるが、誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示しており、これは「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界を超える」ことを説明するために用いられた文言であることから、「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、この「自衛の措置」の限界の規範の中に「自衛の措置」の選択肢の一つとして「武力の行使」を選択したとしても、この規範に拘束されることとなる。この「自衛の措置」の限界を示した規範から「武力の行使」の限界を示す規範の間には、文面上の論理展開しか存在しておらず、「当時の事実認識」などという政策判断が入り込む余地はない。文面上の論理展開は、「当時」もこれまでも現在も将来も変わらないものである。それにもかかわらず、その後、「従前の事実認識を改め」などと、認識を改めることができる可変性のあるものと考えている部分は誤りである。「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範の間には、「事実認識」などという政策判断が入り込む余地は存在しないし、「我が国に対する武力攻撃」を満たさない規範に「改め」ることもできない。

 「存立危機事態」の要件を出して、「基本的論理に当てはまる」と答弁しているが、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、「存立危機事態」の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに当てはめることができない。「当てはまる」と説明している部分が誤りである。

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○国務大臣(稲田朋美君) 憲法九条の解釈として、自衛権は、我が国に対する急迫不正の侵害があって、他に取るべき手段がなくて、必要最小限度です。これは砂川判決の、唯一の最高裁判決である砂川判決の理論です。それがそのまま昭和四十七年基本的な論理になっていて、それを今回の変更で変えるものではないということで、全くそれは法律論として変えているものではないということでございます。

 

【筆者】

 ここで用いられている「必要最小限度」の意味は、「武力の行使」の三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様の意味である。

 「これは砂川判決の、唯一の最高裁判決である砂川判決の理論です。」との答弁があるが、誤りである。まず、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。「武力の行使」の三要件を挙げて、「これは砂川判決の、唯一の最高裁判決である砂川判決の理論です。」と説明することはできない。また、砂川判決は「自衛のための措置」を採ることができるとは述べているが、「武力の行使」の三要件の基準を述べてはいない。

 「それがそのまま昭和四十七年の基本的な論理になっていて、」との答弁があるが、砂川判決は三要件の規範を述べていないし、砂川判決はそのまま1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分になっているわけではない。確かに1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、砂川判決の示した「自衛のための措置」を引き継いでいると思われる部分があるが、砂川判決では見られない憲法13条を援用したり、「自衛の措置」の限界となる規範を示したりしている点で、異なった部分がある。「そのまま」ではないのである。

 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を「今回の変更で変えるものではない」「全くそれは法律論として変えているものではない」としているのであれば、その「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」は当てはまらないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となる。

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第192回国会 参議院 予算委員会 第3号 平成28年10月11日



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○国務大臣(稲田朋美君) 政府が再三説明しております昭和四十七年見解基本的論理とは、憲法第九条の下でも、自国の平和と安全を維持し、存立を全うするために必要な自衛措置をとることを禁じているとは解されない。そして、一方、この自衛権の措置は、あくまでも外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためやむを得ない措置として初めて容認されるもの、そのための必要最小限度の武力の行使は許容されるというものでございます。
 この四十七年の政府見解の論理の組立てからすると、御指摘の外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態は、我が国に対する武力攻撃が発生した場合限定されないということでございます。

 

【筆者】

 「必要最小限度の武力の行使は許容される」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を述べたにとどまり、「武力の行使」については述べていないため、「武力の行使は許容される」と記載されているかのように説明することは誤りである。また、ここで用いられている「必要最小限度」とは、三要件で言えば第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように誤解しやすい表現となっているため注意が必要である。

 「この四十七年の政府見解の論理の組立てからすると、御指摘の外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態は、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限定されない」との答弁があるが、この「外国の武力攻撃」の文言は、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する際に茂一られているものであるから、「集団的自衛権の行使」を可能とすることができる「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれておらず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているものである。そのため、「この四十七年の政府見解の論理の組み立てからすると、」「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限定されているのであり、「限定されない」との説明は論理的に成り立たず、誤りである。論者は「論理の組み立てからすると、」と説明しようとしているが、その「論理の組み立て」を丁寧に読み取ることで、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限定されることは明らかであり、これを怠って結論のみを「限定されない」と説明しようとすることは、手続き上の不正である。

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○国務大臣(稲田朋美君) 何度も恐縮ですけれども、四十七年基本的論理は、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認をされる、そしてその措置は、右の事態を排除するためのとらるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきだ、これが基本的論理でございます。それを、今御指摘の吉國長官は、当時の安全保障環境の事実認識に当てはめられたということでございます。
 昭和四十七年当時の安全保障環境は、北朝鮮は弾道ミサイルや核兵器を保有していなかった、弾道ミサイルに対抗するミサイル防衛という手段もなかった、当時の米軍の兵力数は現在に比べ強大であった、当時は米ソ冷戦構造時代であった、これが吉國長官が答弁をされたときの時代背景であります。その時代背景、その当時の安全保障環境に照らして昭和四十七年見解に言う基本的な論理当てはめれば、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるというのが当時の事実認識であったわけであります。
 しかしながら、しかしながら、今日、我が国を取り巻く安全保障環境は、その昭和四十七年の政府見解がまとめられたときから四十年も過ぎて、想像も付かないほど変化をしており、今や脅威は容易に国境を越えて、もはやどの国も一国のみで自国の安全を守ることはできない時代となったわけであります。
 具体的に、昭和四十七年当時と、その政府見解がまとめられ、今委員がおっしゃった長官の答弁がなされた当時と比べれば、例えば、米軍の規模は、兵員数、艦艇の隻数、航空機の機数のいずれも半分になっております。北朝鮮は、当時保有していなかった弾道ミサイルを大量に保有し、数百発が我が国の大半を射程に収めて、ミサイルに載せるための核開発も行っております。同時に、我が国は当時存在しなかった弾道ミサイル防衛システムを保有するに至り、その運用には従来にない日米の極めて緊密な協力が不可欠となっております。中国は、東シナ海において、尖閣諸島周辺の領海において公船による侵入を繰り返し、また境界未画定海域における一方的な資源開発を行っているところであります。
 そういった安全保障環境の変化を踏まえて、昭和四十七年見解基本的論理当てはまる場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきた従前の事実認識を改め我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこれに当てはまるとしたものでございます。

 

【筆者】

 「必要最小限度の範囲にとどまるべき」との部分について、これは三要件で言えば「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応する意味の「必要最小限度」である。

 「これが基本的論理でございます。」との答弁で示している「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範部分については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の文言を比較的忠実に抜き出して説明するものとなっている。論者は他の答弁で、「基本的な論理」と称している部分が「武力の行使」を許容しているかのように説明したり、「必要最小限度」の文言を用いる際に「右の事態を排除するためのとらるべき」の文言をカットしていたりするため注意が必要である。

 「その時代背景、その当時の安全保障環境に照らして昭和四十七年見解に言う基本的な論理に当てはめれば、」との答弁があるが、誤った前提認識がある。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界を示した規範が存在し、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。ここに「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を当てはめるとしても、この「自衛の措置」の限界の規範に拘束されることとなる。論者はあたかも「自衛の措置」の限界の規範が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないかのように考えて、「武力の行使」の規範を定める際に「その時代背景、その当時の安全保障環境」という政策判断が入り込んだ結果として「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限っていたかのような前提認識を有している点で誤りである。「当てはまる場合」との部分についても、「自衛の措置」の限界の規範の中に「武力の行使」が当てはまっているだけであり、「自衛の措置」の限界の規範が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていない中に「武力の行使」の規範として「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」を当てはめていたかのような理解は誤りである。

 「当時の事実認識であったわけであります。」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解は、「自衛の措置」の限界の規範の中に「武力の行使」を当てはめるという文面上の論理展開が「当時」の法解釈上の「認識」であり、「安全保障環境」などの「当時の事実認識」などというものによって規範が設けられていたわけではない。あたかも「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範の間に「当時の事実認識」などという政策論が入り込む余地があるかのように説明している部分が誤りである。

 「昭和四十七年見解の基本的論理に当てはまる場合として、」との答弁があるが、「存立危機事態」は「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、「当てはまる場合」として説明しようとすることは誤りである。

 「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきた従前の事実認識を改め、」との答弁があるが、「自衛の措置」の限界の規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、「自衛の措置」の選択肢の一つとして「武力の行使」を採るとしても、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」こととなる。これは文面上の論理展開であり、過去も現在も未来も論理は変わりようがないものである。そのため、「従前の事実認識を改め、」などと「事実認識」という政策論が入り込んでいたかのような理解は誤りであるし、「改め」ることができるかのように考えている部分も誤りである。

 「これに当てはまるとしたもの」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」は当てはまらないため誤りである。

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○国務大臣(稲田朋美君) 簡潔にとおっしゃいましたので簡潔に申し上げますが、昭和四十七年当時と今とは安全保障環境を取り巻く状況が変わっております。(発言する者あり)それは関係あるんです。なぜなら、基本的な論理当てはめる場合において安全保障環境が大きく変わっているということは、私は重要だと思います。
 さらに、その吉國法制局長官は、昭和四十七年九月十四日の委員会において、例えば侵略が現実に起こった場合に、これは平和的手段では防げない、その場合に生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が根底からくつがえされるおそれがある、その場合に自衛のための必要な措置をとることを憲法が禁じているものではないと述べるなど、この基本的な論理を含む答弁をされております。安倍内閣の、四十七年見解基本的論理と軌を一にし、また、最高裁の砂川判決と軌を一にする解釈であるというふうに考えております。

 

【筆者】

 「昭和四十七年当時と今とは安全保障環境を取り巻く状況が変わっております。(発言する者あり)それは関係あるんです。なぜなら、基本的な論理に当てはめる場合において安全保障環境が大きく変わっているということは、私は重要だと思います。」との答弁があるが、誤った認識がある。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示しており、「当てはめる」か否かという論点が生まれるものとは、この「自衛の措置」の選択肢としてどのような措置を「当てはめる」かというものである。1972年(昭和47年)政府見解では「武力の行使」を当てはめており、この「武力の行使」に関しても「自衛の措置」の限界の規範に拘束される旨が示されているのである。論者は「自衛の措置」の限界の規範が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないと考えた上で、「安全保障環境」が変わることによって「武力の行使」の限界となる規範が変わるかのように考え、「武力の行使」の限界となる規範を当てはめているかのように考えているようである。しかし、「自衛の措置」の限界を示ししている規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中において用いられた文言であり、ここに「集団的自衛権の行使」を可能とする余地のある「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはない。これにより、「自衛の措置」の限界を示した規範である「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。よって、この「自衛の措置」の限界を示した規範の中に「武力の行使」を当てはめるとしても、同様の規範に拘束されるのであり、「安全保障環境」の変化によって「我が国に対する武力攻撃」を満たさない規範を設定する(論者の認識によれば『当てはめる』)ことはできない。「基本的な論理に当てはめる場合」との部分については、「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範である「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれることはなく、「当てはめる」ことはできない。これにより、「存立危機事態」の要件を「基本的な論理」と称している部分に当てはめることができるかのように考えている部分が誤りである。

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○国務大臣(稲田朋美君) 基本的な論理は、今述べられたところと全く変わっておりません。ただ、当てはめにおいて、当てはめにおいて、当時の安全保障環境と今と大きく変わっているわけであります。
 したがいまして、吉國長官が当時答弁された時代には、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態というのは、我が国に対する急迫不正の侵害以外はなかったというのが昭和四十七年の当てはめであって、今の当てはめはそれだけではない他国に対する侵害であったとしても、新要件の下で、我が国の国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される場合があるということでございますので、何ら矛盾するものではないと考えます。

 

【筆者】

 「基本的な論理は、今述べられたところと全く変わっておりません。」との答弁があるが、「全く変わって」いないのであれば、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲である。

 「当てはめにおいて、当てはめにおいて、当時の安全保障環境と今と大きく変わっている」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界を示した規範であり、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、「武力の行使」を当てはめるとしても、この規範に拘束されるのであり、「安全保障環境」が変わっても、この論理展開は揺るがないものである。それにもかかわらず、「安全保障環境」が変わることで「武力の行使」の限界となる規範が「我が国に対する武力攻撃」を満たさないものに変えることができるかのように考えている部分が誤りである。

 「我が国に対する急迫不正の侵害以外はなかったというのが昭和四十七年の当てはめであって、今の当てはめはそれだけではない」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を記した規範は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「武力の行使」を当てはめるとしても同様の規範に拘束され、「我が国に対する武力攻撃(我が国に対する急迫不正の侵害)」を満たすことが求められる。「基本的な論理」と称している部分がそのまま維持されているのであれば、「我が国に対する武力攻撃(我が国に対する急迫不正の侵害)」を満たさない規範が導き出される余地はないのであり、「今の当てはめはそれだけではない」などと、これを満たさない規範を設定することができるかのように説明している部分が誤りである。

 「何ら矛盾するものではないと考えます。」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらないため、当てはまるかのように考えている点で誤りである。

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第192回国会 参議院 外交防衛委員会 第2号 平成28年10月20日



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○国務大臣(稲田朋美君) 前回るる私が答弁をいたしましたのは、外国の武力の攻撃があって、そして国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるというような急迫不正の事態があった場合に、国民のこれらの権利を守るためやむを得ない措置として初めて容認をされる、そして必要最小限度の範囲にとどまるべきものであるというのは、これは必要な論理であるということを申し上げたわけであります。
 さらに、昭和四十七年九月十四日の委員会において、侵略が現実に起こった場合に、これは平和的手段では防げない、その場合に生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が根底から覆されるおそれがある、その場合に、自衛のために必要な措置をすることを憲法は禁じているものではない。さらには、唯一の最高裁判決であるところの砂川判決においても、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権利の行使として当然のことと言わなければならない、この基本的な論理を申し上げたということでございます。

 

【筆者】

 「必要最小限度の範囲にとどまるべきものである」との部分で使わている「必要最小限度」の意味は、「武力の行使」の三要件でいえば第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。

 砂川判決について「国家固有の権利の行使」と表現しているが、砂川判決は「国家固有の権能の行使」と記載しており、『権能』を『権利』としている点が間違いである。

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○国務大臣(稲田朋美君) まず、平和安全法制が憲法に違反するものではないということを申し上げます。最高裁の判決にも違反しない四十七年当時の基本的論理にも違反しないということを申し上げます。
 その上で、四十七年当時想定をしていたのが、日本が侵略を……
   〔小西洋之君「聞いたことに答えるようにしてください。その防げなかった侵略という言葉が誰に対する侵略かということです」と述ぶ〕

 

【筆者】

 「平和安全法制が憲法に違反するものではない」との答弁があるが、憲法9条の解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらないことから、結果として「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。「憲法に違反するものではない」と主張しているが、憲法に違反するため誤りである。

 「最高裁の判決にも違反しない、四十七年当時の基本的論理にも違反しない」との答弁があるが、最高裁の砂川判決は「自衛の措置」の手段として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」しか挙げておらず、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。また、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。そのため、「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分に違反することとなり、「四十七年当時の基本的論理にも違反しない」との答弁は誤りである。

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○国務大臣(稲田朋美君) その四十七年当時の基本的論理当てはめによれば、我が国に対する侵害というものを当時は指していたということでございます。

 

【筆者】

 「四十七年当時の基本的論理の当てはめによれば、我が国に対する侵害というものを当時は指していた」との答弁があるが、誤った認識に基づく主張である。まず、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示しており、ここに当てはめを行うとしても、それは「自衛の措置」の選択肢である。1972年(昭和47年)政府見解では、「武力の行使」を当てはめており、「自衛の措置」の限界を示した規範に拘束された形で結論となる「武力の行使」の限界となる規範が示されている。論者は「当時は指していた」と主張しているが、「自衛の措置」の限界を示した規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、当時もこれまでも現在も将来も、この規範変わらない。そのため、ここに「武力の行使」を当てはめるとしても、当時もこれまでも現在も将来も「我が国に対する武力攻撃(論者の表現では『我が国に対する侵害』)」に限られるのであり、「当時は指していた」が、今はそうではないと考えることができるかのように主張している点が誤りである。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○国務大臣(稲田朋美君) 当時の基本的論理当てはめた場合、当時の環境の下では、我が国の憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは我が国に対する急迫不正の侵害に限られると。当時の状況基本的論理当てはめればそういう結果であったということでございます。

 

【筆者】

 「当時の基本的論理を当てはめた場合、当時の環境の下では、我が国の憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは我が国に対する急迫不正の侵害に限られると。当時の状況を基本的論理に当てはめればそういう結果であった」との答弁があるが、誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する「自衛の措置」の限界を示した規範部分で「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在する。ここには「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。1972年(昭和47年)政府見解は、この「自衛の措置」の限界を示した規範に「武力の行使」を当てはめるとしても、同様の規範が導かれる旨を示したものであり、この「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範との間には、文面上の論理展開しか存在しない。それにもかかわらず、論者は「自衛の措置」の限界を示した規範が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないかのように考えた上で、「当時の環境下」、「当時の状況」などという政策判断が入り込んだ結果として、「武力の行使」の限界を示した規範が「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」に限ったかのように考えている部分が誤りである。「自衛の措置」の限界を示した規範と「武力の行使」の限界を示した規範との間に、政策判断が入り込む余地はないし、「当時の状況」などというものを当てはめることができる性質を有していない。「当時の状況を基本的論理に当てはめればそういう結果であった」と考えている点が誤りである。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○国務大臣(稲田朋美君) 基本的な論理は、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態が生じたということでございます。
 そして、当時、昭和四十七年当時の状況にその基本的な論理当てはめた場合、我が憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは我が国に対する急迫不正の侵害の場合に限られるということでございます。

 

【筆者】

 「当時、昭和四十七年当時の状況にその基本的な論理を当てはめた場合、我が憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは我が国に対する急迫不正の侵害の場合に限られる」との答弁があるが、誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界を示した規範を有している。この「自衛の措置」の限界を示した規範に「武力の行使」を当てはめるとしても、この規範に拘束されることとなる。この「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範との間には、文面上の論理展開しか存在しておらず、「当時の状況」などという認識や政策判断が入り込む余地はない。論者は「当時の状況」を当てはめようとしているようであるが、「基本的な論理」と称している部分に当てはまめる対象となるのは「自衛の措置」の選択肢であり、「当時の状況」などというものは当てはまるか否かの対象とはならない性質である。「基本的な論理」と称している部分に「当時の状況」やその認識に基づく政策判断を当てはめることができるかのように認識している部分が誤りである。

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第192回国会 参議院 外交防衛委員会 第7号 平成28年12月8日



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○国務大臣(稲田朋美君) 昭和四十七年基本的な法理というのは、我が国の必要な自衛の措置はとれる、すなわち、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとることは禁じているとは到底解せられない。これは、まさしく唯一の憲法判例であるところの砂川判決と軌を一にする基本的な論理であります。
 そして、今読み上げられた箇所は、まさしく昭和四十七年その事実認識の上において、我が国を取り巻く安全保障上の環境においては、当てはめた結果我が国に対する急迫不正の侵害に対する場合に限られているということを述べているだけであって、必要な自衛の措置の範囲は、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものであるということであり、四十七年論理とは全く矛盾するものではないということでございます。

 

【筆者】

 「昭和四十七年のその事実認識の上において、我が国を取り巻く安全保障上の環境においては、当てはめた結果、我が国に対する急迫不正の侵害に対する場合に限られているということを述べているだけ」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、「自衛の措置」の限界を示した規範が含まれており、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中に使われた文言であり、「集団的自衛権の行使」を可能とすることができる「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。また、論者が「我が国に対する急迫不正の侵害に対する場合に限られる」と挙げている部分は、1972年(昭和47年)政府見解の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」の部分であるが、これは「自衛の措置」の限界の規範の中に「武力の行使」を当てはめた場合に文面上の論理展開によって導かれる規範であり、「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範との間に「我が国を取り巻く安全保障上の環境」などという状況認識や政策判断が入り込む余地はない。あたかも「自衛の措置」の限界を示した規範が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないかのように考えた上で、「我が国を取り巻く安全保障上の環境」などという状況認識や政策判断が入った結果として「武力の行使」の限界の規範が「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる(論者の言葉では『我が国に対する急迫不正の侵害に対する場合に限られている』)」としていたかのように考えることは誤りである。「事実認識の上において、」「述べているだけ」との全体の意味であるが、「自衛の措置」の限界を示した規範と「武力の行使」の限界の規範の間には論者のいう「事実認識」なるものは存在しないため、「述べているだけ」などと「事実認識」によって「武力の行使」の限界の規範が示され、述べられたかのように考えることは誤りである。

 「必要最小限度の範囲にとどまるべきもの」との答弁の部分であるが、この「必要最小限度」は「武力の行使」の三要件で言えば第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応する意味である。

 「四十七年の論理とは全く矛盾するものではない」との答弁があるが、「存立危機事態」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に当てはまらないため、「存立危機事態」の要件を1972年(昭和47年)政府見解の下に定めようとしていることは、完全に論理矛盾することとなる。「全く矛盾するものではない」との認識は、誤りである。

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○国務大臣(稲田朋美君) 今申し上げましたように、四十七年基本的な論理は何かといいますと、憲法九条の下でも、我が国の自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするためには、座して死を待つのではなくて、必要な自衛の措置をとることが禁じられているものではないということであります。
 そして、この自衛の措置は、あくまでも外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福の追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の武力の行使は許容されるというものであります。
 確かに、昭和四十七年のその当時の状況に照らせば、個別的自衛権、すなわち我が国に対する武力攻撃があって初めてということに当てはめとしてなりましたけれども今の状況からすれば、集団的自衛権の限定的な場合において認められるということは何ら矛盾するものではないと考えております。

 

【筆者】

 「必要最小限度の武力の行使は許容される」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示しただけであり、「武力の行使」については述べていない。そのため「基本的な論理」と称している部分が「武力の行使は許容される」と述べているかのように説明することは誤りである。また、ここで出てきている「必要最小限度」の意味は、「武力の行使」の三要件で言えば第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味である。9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように誤解しやすい表現となっていることには注意が必要である。

 「昭和四十七年のその当時の状況に照らせば、個別的自衛権、すなわち我が国に対する武力攻撃があって初めてということに当てはめとしてなりましたけれども、今の状況からすれば、集団的自衛権の限定的な場合において認められるということは何ら矛盾するものではない」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、この「自衛の措置」の限界の規範の中に「武力の行使」を当てはめるとしても、同様に「我が国に対する武力攻撃」を満たすことが求められることとなる。この「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範との間には、文面上の論理展開しか存在しておらず、「当時の状況」などという状況認識や政策判断が入り込む余地はない。そのため、あたかも「自衛の措置」の限界の規範が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないかのように考えた上で、「武力の行使」の限界の規範を示す際に際に「当時の状況」などを勘案して「我が国に対する武力攻撃」という規範を設定したかのような理解は誤りである。「当てはめとしてなりましたけれども、」との答弁についても、「自衛の措置」の限界の規範に「武力の行使」を当てはめたものであり、「当時の状況」を勘案した規範を当てはめたかのような認識は誤りである。そのため「今の状況からすれば、」との部分についても、もともと「自衛の措置」の限界の規範が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、「武力の行使」の限界の規範を示す段階でこれを満たさない規範を設定する余地はなく、「今の状況」という状況認識でこれを満たさない規範を設定することができるかのように論じている部分が誤りである。「集団的自衛権の限定的な場合において認められる」との答弁であるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な」という区分は存在しない。「限定的な」「武力の行使」のことをいうとしても、9条の制約の下では1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない「武力の行使」はすべて違憲であり、「限定的な」と称してもこれを満たさないのであれば違憲であることには変わりない。「認められる」と主張しているが、認められないため誤りである。「何ら矛盾するものではない」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」は当てはまらないため、「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしながら「存立危機事態」を定めようとすることは論理矛盾である。「何ら矛盾するものではない」との答弁は誤りである。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○国務大臣(稲田朋美君) この四十七年の見解基本的な論理は、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを憲法九条は禁じているものではないということであります。
 そして、必要な自衛の措置の範囲というのは、まさしく我が国を取り巻く安全環境、そしてそれの当てはめによっても決まるわけであります。その中で、外国の武力攻撃があって、そして国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態四十七年当時は、それを当てはめますと個別的自衛権、すなわち我が国に対する直接の攻撃があった場合に限られるわけですけれども、今の現実、今の我が国を取り巻く現状に照らせば限定的な、ごくごく限定的な場合の集団的自衛権の行使を認めることは何らこの四十七年基本的な論理には違反しないということでございます。

 

【筆者】

 「必要な自衛の措置の範囲というのは、まさしく我が国を取り巻く安全環境、そしてそれの当てはめによっても決まるわけであります。」との答弁があるが、正確な理解を必要とする。まず、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示しており、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中で使われた文言であるから、「集団的自衛権の行使」を可能とする「他国に対する武力攻撃」はここに含まれず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。1972年(昭和47年)政府見解は、この「自衛の措置」の限界を示した規範の中に「武力の行使」を当てはめ、「武力の行使」の限界の規範についても同様に「我が国に対する武力攻撃(我が国に対する急迫不正の侵害)」が導かれることを示している。しかし、論者は「当てはめによっても決まる」として「自衛の措置」の限界を示した規範が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないと考えた上で、「武力の行使」の限界の規範を「我が国に対する武力攻撃」を満たさない規範に変更できると考えている部分に誤りがある。これを満たさない規範を「当てはめ」ることはできない。また、「自衛の措置」の限界の規範から「武力の行使」の限界の規範の間には文面上の論理展開しか存在しておらず、「我が国を取り巻く安全環境」という状況認識や政策判断が入り込む余地はない。そのような要素が入り込んだ結果として「武力の行使」の規範が設定されているかのような認識を有している部分が誤りである。

 「四十七年当時は、それを当てはめますと個別的自衛権、すなわち我が国に対する直接の攻撃があった場合に限られるわけですけれども、今の現実、今の我が国を取り巻く現状に照らせば、限定的な、ごくごく限定的な場合の集団的自衛権の行使を認めることは何らこの四十七年の基本的な論理には違反しない」との答弁があるが、誤りである。「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示しており、これは「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求めている。この「自衛の措置」の限界の中に「武力の行使」を当てはめるとしても、この規範に拘束されることとなる。この「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範の間には文面上の論理展開しか存在しておらず、「今の現実、今の我が国を取り巻く現状」などという状況認識や政策判断が入り込むことはできない。「四十七年当時」「我が国に対する直接の攻撃があった場合に限られる」としてきたのは、「自衛の措置」の限界の規範が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、これを満たすことを求めているからである。「武力の行使」の限界の規範を、これを満たさないものに変更できるかのように考えている部分が誤りである。「限定的な、ごくごく限定的な場合の集団的自衛権の行使を認めること」との答弁があるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な」という区分は存在しない。「限定的な」と称する「武力の行使」についても、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないのであれば「限定的な」と称しても違憲であることは変わらない。「何らこの四十七年の基本的な論理には違反しない」との部分についても、「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに当てはめることはできない。そのため、「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分に違反することとなる。「違反しない」との答弁は誤りである。

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○国務大臣(稲田朋美君) 今委員が述べられた点、吉國長官は、国民の権利が根底から覆るような場合というのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという、当時のですよ、当時の事実認識を前提に答弁をされているわけであって、基本的な論理と当てはめの部分が、両者が一体となった答弁をしているという部分はありますけれども、このような基本的な論理、すなわち基本的な論理とは何かというと、憲法九条の下でも我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとは解されない、これは砂川判決そのものであります。
 そして一方、この自衛の措置は、あくまでも外国からの武力攻撃があって、そして国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて許容されるものであり、そのための必要最小限度の武力の行使は許容される、これが基本的な論理ということであって、これは何ら変わっていないということを申し上げているわけでございます。

 

【筆者】

 「当時のですよ、当時の事実認識を前提に答弁をされているわけであって、」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そして、この「自衛の措置」の限界の規範に「武力の行使」を当てはめるとしても「我が国に対する武力攻撃」を満たすことが求められることが文面上の論理展開によって結論付けられている。そのため、「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範との間には「当時の事実認識」などという状況認識や政策判断が入り込む余地はない。そのため、「当時のですよ、当時の事実認識を前提に答弁をされている」との説明は根拠のない主張であり、誤りである。

 「必要最小限度の武力の行使は許容される」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示したにとどまり、「武力の行使」の可否については何も述べていない。「基本的な論理」と称している部分に「武力の行使は許容される」と記載されているかのような説明は誤りである。また、ここの「必要最小限度」の意味は三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。1972年(昭和47年)政府見解では、「右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と記載されているものであるが、この答弁では正確に抜き出されていないため注意する必要がある。

 「これが基本的な論理ということであって、これは何ら変わっていない」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分が変わっていないのであれば、「存立危機事態」の要件はここに当てはまらないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○国務大臣(稲田朋美君) 昭和四十七年基本的な論理というのは、まさしく今述べましたような、九条の下でも必要な自衛の措置をとることができる、砂川判決そのもの。そして、その自衛の措置は、あくまでも外国の武力攻撃によって国民の生命、自由、幸福追求権が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処して、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認される必要最小限度の武力の行使は許容されるということなんです。
 そして、それを当てはめた場合に、当てはめた場合に四十七年当時は確かに我が国に対する直接の攻撃であった。しかし、今の我が国を取り巻く現状を鑑みたときに、それのみならず、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃があり、これにより我が国の存立が脅かされて、そして国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において認められるというのは、何らその基本的な論理を変えているものではないということを申し上げているわけでございます。

 

【筆者】

 「必要最小限度の武力の行使は許容される」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示しただけであり、「武力の行使は許容される」とは述べていないため誤りである。この「必要最小限度」の意味は、「武力の行使」の三要件で言えは第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味である。

 「それを当てはめた場合に、当てはめた場合に、四十七年当時は確かに我が国に対する直接の攻撃であった。」との答弁があるが、誤った認識がある。まず、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示しているが、「武力の行使」については触れていない。そして、この「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範の中に「武力の行使」を当てはめることによって、「武力の行使」の限界の規範を導き出しているものである。それにもかかわらず、「基本的な論理」と称している部分が「武力の行使」について述べているように考えていることは誤りであるし、その「自衛の措置」の限界の規範には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中で用いられた文言であることから、「集団的自衛権の行使」を可能とする「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれず「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、これが限られていないかのように考えた上で、「武力の行使」の限界の規範を示す段階で初めて「我が国に対する直接の攻撃」に限った(論者の言葉では『当てはめた』)かのように考えている部分は誤りである。

 「今の我が国を取り巻く現状を鑑みたときに、それのみならず、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃があり、これにより我が国の存立が脅かされて、そして国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において認められるというのは、何らその基本的な論理を変えているものではない」との答弁があるが、誤った認識が存在する。まず、「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、「武力の行使」の限界の規範もこれを満たすものに限られる。この「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範の間には、文面上の論理展開しか存在しておらず、「今の我が国を取り巻く現状」という状況認識や政策判断が入り込む余地はない。また、論者の考えるように「自衛の措置」の限界の規範が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないかのように考えることもできないのであるから、「今の我が国を取り巻く現状」という状況認識や政策判断が入り込んだ結果として「武力の行使」の限界の規範を示す段階で「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限ったという性質のものでもない。「存立危機事態」の要件を挙げる形で「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃があり、これにより我が国の存立が脅かされて、そして国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において認められるというのは、」と、あたかも「存立危機事態」での「武力の行使」が「認められる」かのように答弁しているが、「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の枠を超えており、9条に抵触して違憲となることから、認められない。「認められる」かのように答弁することは誤りである。「何らその基本的な論理を変えているものではない」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらないため、「存立危機事態」の要件を定めるのであれば「基本的な論理」と称している部分の意味が変わっているため「変えているものではない」と説明することはできない。逆に、「基本的な論理」と称している部分を変えていないのであれば「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分に抵触して違憲となる。

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第193回国会 参議院 予算委員会 第9号 平成29年3月8日



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○国務大臣(稲田朋美君) まず、四十七年見解ですね、その四十七年見解基本的な論理、これを分かりやすく申し上げますと、憲法九条の下でも……(発言する者あり)

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○国務大臣(稲田朋美君) 外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処する場合には、例外的に自衛のための武力の行使が許されるというものなんです。(発言する者あり)政府見解は。そうなんです。
 平和安全法制においても昭和四十七年の政府見解で示した憲法解釈の基本論理全く変わっていないし、そして、憲法九条についての唯一の最高裁であるところの砂川判決の考え方とも軌を一にしております。憲法の解釈を最終的に確定する権能を有する唯一の機関は最高裁です。これは憲法に規定されていますけれども。そして、平和安全法制はその考え方に沿った判決の範囲内のものであって、憲法に合致したものです。
 また、この平和安全法制は、国権の最高機関である国会で二百時間を超える充実した審議の下、野党三党の賛成も得て成立をし、現行憲法の下で適切に制定されたものであります。平和安全法制に関しては、安倍総理から、その内容及び法の施行について、内閣の長たる内閣総理大臣として、そして自衛隊の最高指揮官としてあらゆる責任を負う覚悟でありますと答弁されております。私も、安倍内閣の一員としてしっかりと職責を果たしていくということでございます。

 

【筆者】

 「基本的な論理」と称している部分について「武力の行使が許されるというものなんです。」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示したにとどまり、「武力の行使」については述べていないため、「武力の行使が許される」と記載されているかのように答弁していることは誤りである。

 「基本論理は全く変わっていない」との答弁があるが、「全く変わっていない」のであれば「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。

 「平和安全法制はその考え方に沿った判決の範囲内のものであって、憲法に合致したもの」との答弁があるが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べておらず、何も述べていないことを根拠に「判決の範囲内のもの」と説明することはできない。もし何も述べていないことを根拠に「判決の範囲内のもの」と説明できるのであれば、砂川判決は「先に攻撃(先制攻撃)」についても何も述べていないことから、9条が存在するにもかかわらず「先に攻撃(先制攻撃)」も「判決の範囲内のもの」と説明できてしまうこととなり、法解釈として成り立たない。よって、このことを理由として「憲法に合致したもの」と説明することはできない。

 「現行憲法の下で適切に制定されたもの」との答弁があるが、「存立危機事態」の要件は9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合せず、政府自身の違憲審査基準によって違憲となるのであり、これを「適切に制定されたもの」とすることはできない。法内容の実体が違憲であれば、「適切」とは言えないのである。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○国務大臣(稲田朋美君) 何度もこの問題について私は委員と議論をしているわけでございます。そして、昭和四十七年見解、この基本的論理、さらには砂川判決についても議論をしているところでございます。その議論がかみ合っていないことは事実でございます。
 しかしながら、私は、この平和安全法制、最高裁にも合致しているし、憲法にも合致しているということをるる述べております。その上で、安倍内閣の一員としてしっかりと職責を果たしていくということに尽きるということでございます。

 

【筆者】

 「この平和安全法制、最高裁にも合致しているし、憲法にも合致しているということをるる述べております。」との答弁があるが、最高裁の砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないのであるから、「武力の行使」を伴う措置について「最高裁にも合致している」と説明することはできない。また、政府自身が採用している1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に「存立危機事態」の要件は適合しないことから、9条に抵触して違憲であり、「憲法にも合致している」とはいえない。「最高裁にも合致しているし、憲法にも合致している」との認識は誤りである。

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第193回国会 参議院 外交防衛委員会 第11号 平成29年4月6日

 
 
 
 

岩屋毅


〇 防衛大臣 岩屋毅


(下線・太字・色は筆者)

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○岩屋委員 ありがとうございました。
 (略)
 したがって、安保法制懇の報告書の内容がこの法案に全部盛られているわけではないんですね。私どもは、相当抑制的なものに仕上がっているというふうに考えております。当然、これまでの政府の憲法解釈の基本的論理枠内で行い得ることのみを法律に盛らせていただいたというふうに思っております。
 この法制懇の報告書からこの法案という形に変わったことに対する先生の御評価、それから、先ほどから御議論があった合憲性ということについても含めて、御所見を賜りたいと存じます。

 

【筆者】

 まず、これは防衛大臣としての答弁ではないことを押さえる必要がある。ただ、論者の考えを知るために参考とする。

 「相当抑制的なものに仕上がっている」との説明があるが、「存立危機事態」の要件は9条に抵触して違憲であることから、論者が「相当抑制的」との評価を行っても違憲であることは変わらない。
 「基本的論理の枠内で行い得ることのみを法律に盛らせていただいた」との説明があるが、「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味することから、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は含まれることはなく、「基本的論理の枠内」とは言えない。そのため、「存立危機事態」を定めているにもかかわらず、「基本的論理の枠内で行い得ることのみを法律に盛らせていただいた」と認識していることは誤りである。

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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第18号 平成27年7月8日



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○国務大臣(岩屋毅君) 改めて当時の吉國法制局長官の答弁を拝見をいたしましたけれども、これは、その当時の安全保障環境に照らして、自衛権の行使が許されるのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる、そういう当時の事実認識に基づく答弁であったというふうに認識をしております。
 他方で、吉國法制局長官は同日の委員会におきまして、侵略が現実に起こった場合に、これは平和的手段では防げない、その場合に、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が根底から覆されるおそれがあると、その場合に自衛のため必要な措置をとることを憲法が禁じているものではないと述べておりまして、その後の四十七年見解で示された基本的な論理を含む答弁をしているところでございます。
 このように、四十七年九月十四日の質疑において吉國法制局長官は、基本的な論理当時の事実認識を基にした結論、当てはめを両者一体として答弁をしていたんだと思います。そこでよく分かりにくいと言われて四十七年見解を作るという展開になっていったと承知をしております。
 この四十七年見解基本的な論理とは、九条の下でも自衛の措置をとることはできるんだと、これは禁じられていないんだとした上で、この自衛の措置はあくまでも外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、必要最小限度の武力の、そのための行使は許容されるというものでございます。
 平和安全法制におきましては、限定的な集団的自衛権の行使が認められるとした点につきまして、最近の安全保障環境、今日の安全保障環境を踏まえて、四十七年見解のこの基本的な論理当てはめる場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合だけではなくて、密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生することによって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が覆される明白な危険がある場合にもこの論理は当てはまるとしたものでございまして、当時の基本的な論理というものは……


○国務大臣(岩屋毅君) 維持されているというふうに考えております。

 

【筆者】

 

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第198回国会 参議院 外交防衛委員会 第12号 令和元年5月9日



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○国務大臣(岩屋毅君) もう四十七年見解基本的な論理というのは詳しくは繰り返しませんけれども、九条の下でも自衛の措置は許されると、そしてそれは、国民の権利を守るためやむを得ない措置として必要最小限度であるというのが基本的な論理でございますが、四十七年見解の作成前あるいは作成後、平成二十六年七月一日の閣議決定までの間において、この基本的な論理そのもののみが示された答弁や政府見解文書が存在するとは承知しておりません。

 

【筆者】

 「必要最小限度である」との答弁があるが、この「必要最小限度」の意味は1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範を示した部分の「必要最小限度」であるから、「武力の行使」の三要件で言えば「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

○国務大臣(岩屋毅君) 四十七年当時の安全保障環境に照らして、吉國長官は、自衛権の行使が許されるのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという事実認識を持っておられたんだと思いますし、それに基づいて答弁をされたんだと思います。
 他方で、吉國長官は同日の委員会において、例えば、ここから先が御発言ですけれども、侵略が現実に起こった場合に、これは平和的手段では防げない、その場合に生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が根底から覆されるおそれがある、その場合に自衛のため必要な措置をとることを憲法が禁じているものではないというふうに述べておられますけれども、これはその後の四十七年見解基本的な論理を含む答弁をされているわけでございます。

 したがって、その基本的な論理その当てはめである結論を区分することなく、両者一体として述べておられたというふうに認識をしております。


【筆者】

 「四十七年当時の安全保障環境に照らして、吉國長官は、自衛権の行使が許されるのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという事実認識を持っておられた」との答弁があるが、誤った理解である。まず、「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中で使われた文言であるから、「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはないため「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られる。そのため、「自衛の措置」の限界の規範を示した部分で既に「我が国に対する武力攻撃」を満たすことが求められているのであるから、「自衛の措置」の選択肢の一つとして「武力の行使」を選択するとしても同様に「我が国に対する武力攻撃」を満たすことが求められる。この「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範との間には文面上の論理展開しか存在しておらず、「当時の安全保障環境」などという状況認識や政策判断が入り込む余地はない。また、「自衛の措置」の限界を示した規範で既に「我が国に対する武力攻撃」を満たすことが求められているのであるから、これが「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求めていないと考えた上で「武力の行使」の限界の規範を示す段階で「当時の安全保障環境に照らして、」初めて「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限ったかのような理解は誤りである。「吉國長官は、」「事実認識を持っておられた」との理解についても、文面上の論理的整合性を突き詰めれば、「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範との間に「事実認識」などという状況認識や政策判断が入り込む余地はないため、根拠のない主張であり、誤りである。論者は「吉國長官は、」と当時の内閣法制局長官がそのような認識を有していたかのような主張をするが、そのような認識をしていたする根拠を提示していないし、1972年(昭和47年)政府見解の論理的整合性を無視する主張となっているため、手続き上の不正である。

 「基本的な論理とその当てはめである結論」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を述べておら、「当てはめ」となるのは「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を当てはめるものである。この「当てはめ」による「結論」とは、「武力の行使」についても「自衛の措置」の限界の規範に拘束されることを示すものであり、「我が国に対する武力攻撃」を満たすことが求められるとするものである。

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○国務大臣(岩屋毅君) この答弁で言うところの侵略というのは、確かにその当時の認識として我が国に対する武力攻撃を指すものだというふうに思います。
 

 しかし、吉國長官が当初、基本的な論理と当てはめであるその結論の部分を一緒に答弁をしておられて、当時の委員からもうちょっと整理をしろと、分かりやすくしろと言われて四十七年見解を作ったわけでございますけれども、その四十七年見解基本的な論理は、もう繰り返しませんけれども、それに照らしたときに、今日の安全保障環境を鑑みれば、他国に対する武力攻撃であっても、基本的論理に言うところの国民の生命、自由、幸福追求の権利を根底から覆すものがあり得るという今日の事実認識に基づいて平和安全法制を作らせていただいたということでございます。

 

【筆者】

 「侵略というのは、確かにその当時の認識として我が国に対する武力攻撃を指すものだというふうに思います。」との答弁があるが、「当時」もこれまでも現在も将来も、「我が国に対する武力攻撃」を意味するものである。「その当時の認識として」としてと限定しようとしているところが誤りである。

 「四十七年見解の基本的な論理は、もう繰り返しませんけれども、それに照らしたときに、今日の安全保障環境を鑑みれば、他国に対する武力攻撃であっても、基本的論理に言うところの国民の生命、自由、幸福追求の権利を根底から覆すものがあり得るという今日の事実認識に基づいて平和安全法制を作らせていただいた」との答弁があるが、誤った理解である。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示しており、その「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中で用いられたものであるから、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。これにより、「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示す規範は、「国民の生命、自由、幸福追求の権利を根底から覆すもの」であれば「自衛の措置」を執ることができるとしているのではなく、必ず「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求めるものである。そのため、「国民の生命、自由、幸福追求の権利を根底から覆すもの」であれば、これを満たさない「他国に対する武力攻撃」を規範とする「武力の行使」が許容されるとする規範ではない。また、「自衛の措置」の限界を示す規範は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、これを限られていないと考えた上で、「武力の行使」の規範を示す段階で「今日の安全保障環境を鑑み」て政策判断として「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」との規範を設定していたかのような理解は誤りである。「平和安全法制を作らせていただいた」について、「存立危機事態」での「武力の行使」を可能とする規定は違憲であり、無効となる。

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第198回国会 参議院 外交防衛委員会 第14号 令和元年5月16日



岸田文雄


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○国務大臣(岸田文雄君) まず、日米安保条約第三条におきましては、「憲法上の規定に従うことを条件として、」というふうに明記をしております。「憲法上の規定に従う」、こういった規定になっているわけですが、一方、七月一日の閣議決定につきましては、我が国を取り巻く国際情勢が大きく変化する中で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くため政府として何をするべきかという問題意識の下に議論を行い、そして、従来の政府見解における憲法第九条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための合理的な当てはめの帰結を導いたものであります。
 このように、憲法の解釈において変更が行われたわけですから、安保条約第三条において「憲法上の規定に従う」とされている部分、これも憲法解釈の変更に従う、これは当然のことだと我々は思っております。


【筆者】

 「基本的な論理の枠内で」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれないため、「基本的な論理」と称している部分の「枠内」に「存立危機事態」の要件は当てはまらない。「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は1972年(昭和47年)政府見解の第二段落に記載された「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明するために用いられたものであり、もしここに「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるとすれば、「集団的自衛権の行使」が可能となる余地が生まれてしまうため、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」とする部分と論理的整合性が保たれなくなる。そのように「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると考えるのであれば、1972年(昭和47年)政府見解そのものを法解釈文章として成り立たない文章として扱うことになるから、これを基にして新たな解釈を導こうとする2014年7月1日閣議決定の内容は、そもそも法解釈として成り立たない文章の上に新たな解釈を重ねようとするものとなり、やはり法解釈として成り立たないものとなる。「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は含まれない。
 「合理的な当てはめの帰結を導いたもの」との答弁もあるが、先ほど述べたように「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は論理的に当てはまることはなく、「合理的な当てはめ」と当てはまるかのように説明することは誤りである。「帰結を導いたもの」との答弁があるが、論理的に当てはまらないことから「帰結」につながらず、導くことはできない。導くことができるかのように説明していることが誤りである。
 「憲法の解釈において変更が行われたわけですから、安保条約第三条において『憲法上の規定に従う』とされている部分、これも憲法解釈の変更に従う、これは当然のことだと我々は思っております。」との答弁があるが、前提に誤りがある。2014年7月1日閣議決定が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、それにもかかわらず、ここに「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることを前提として「存立危機事態」の要件を定めたことは、論理的整合性が保たれていないため法的に正当化することはできず、解釈手続き上の不正・違法があり、「憲法の解釈」の「変更」は無効である。そのため、
「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)が「武力の行使」を行う場合に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことを求めていることを満たさず、結果として9条に抵触して違憲となる。よって、「安保条約第三条」が「憲法上の規定に従う」とあることから、「憲法上の規定」である9条に従うと「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は違憲となるため行うことができない。

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第187回国会 参議院 外交防衛委員会 第2号 平成26年10月16日


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○国務大臣(岸田文雄君) まず、資料としてお示しいただきました部分ですが、この安保条約の第三条の条文と併せて解説についてお示しをいただいたわけです。
 そして、この条文の部分を是非改めて見ていただければ分かりますように、これ条文においては、「憲法上の規定に従うことを条件として、」、この部分だけが明記されております。七月一日の閣議決定においては、我が国を取り巻く国際情勢が大きく変化する中で国民の命と平和な暮らしを守り抜くという観点から、従来の政府見解基本的な論理枠内で検討した結果我が国に対する武力攻撃が発生していなくとも、新三要件を満たす場合には従来の政府見解基本的な論理に基づく必要最小限の自衛のための措置として武力の行使が憲法上許容される、こうした判断に至った次第です。
 ですから、この第三条の規定、憲法上の規定に従うことを条件としてとされておりますので、今申し上げましたような考え方に基づいて、憲法に対する考え方が変わったわけですので、それに従ってこの三条が適用される、こういった考え方に立ったならば、御指摘のようなことは当たらないのではないかと我々は考えております。


【筆者】

 「従来の政府見解の基本的な論理の枠内で検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生していなくとも、新三要件を満たす場合には従来の政府見解の基本的な論理に基づく必要最小限の自衛のための措置として武力の行使が憲法上許容される、こうした判断に至った次第です。」との記載があるが、誤りである。

 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは第二段落で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中で用いられた文言であることから、「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。このことから、「新三要件」の「存立危機事態」に基づく「武力の行使」は「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行うものであることから、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に当てはまらず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分にの枠を超え、9条に抵触して違憲となる。

 「基本的な論理の枠内で検討した結果」などと、あたかも「新三要件」の「存立危機事態」の要件が「基本的な論理の枠内」に当てはまることを前提とした答弁を行っているが、論理的に当てはまらないため誤りである。もし論理的整合性が保たれないにもかかわらず、論者のように「基本的な論理の枠内で検討した結果」などという言葉を述べるだけで当てはまることになるのであれば、「基本的な論理の枠内で検討した結果」と述べるだけで「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」を実施する要件も「基本的な論理の枠内」であると言い切ることができてしまうのであり、法解釈として成り立たない。「基本的な論理の枠内で検討した結果」と述べるだけで論理的整合性が保たれない要件を当てはめることができるかのように論じようとしている部分が誤りである。法解釈は全ての論理的な過程(プロセス)において整合性が保たれていることによって初めて正当化されるのであり、論者のように結論を述べるだけで正当化できるわけではない。

 「従来の政府見解の基本的な論理に基づく必要最小限の自衛のための措置として武力の行使が憲法上許容される」との記載があるが、「必要最小限」の意味を特定する必要がある。

 ①「必要最小限」の意味が従来より政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる意味であれば、三要件(旧)を意味する。そのため、この旧三要件には第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」が存在することから、「従来の政府見解の基本的な論理」の中に当てはまる。この文だけでは確かに意味は通じるが、この意味であれば、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たす「武力の行使」が憲法上許容されるとの意味であるから、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」を行うこととはできず、論者は2014年7月1日閣議決定が新三要件の「存立危機事態」を定めようとしていることと矛盾した答弁を行っていることとなる。

 ②「必要最小限」の意味が三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味であれば、論者は第一要件と第二要件を述べずに突然第三要件を持ち出していることとなり、意味が通じない。

 ③「必要最小限」の意味について、論者は9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのように考えている可能性があるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定であり、政府が「必要最小限度」と考えるだけで9条の制約から逃れることができるのであれば、9条が法規範として政府の行為を制約しようとする趣旨を満たさず、9条の規範性を損なうこととなる。9条の制約は数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準とすると、法解釈として成り立たなくなるため妥当でない。

 よって、どの意味の「必要最小限」を選んでも新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触して違憲とならない旨を説明したものではなく、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠に当てはまらないことにより9条に抵触して違憲となる。

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第187回国会 参議院 外交防衛委員会 第6号 平成26年11月6日


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○岸田国務大臣 おっしゃるとおり、今回の閣議決定は、昭和四十七年の政府見解基本的な論理に基づいて行われています。


【筆者】

 「今回の閣議決定は、昭和四十七年の政府見解の基本的な論理に基づいて行われています。」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に基づいているのであれば、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、これを満たさない「存立危機事態」の要件を定めることはできない。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○岸田国務大臣 おっしゃるように、この集団的自衛権云々の部分は、基本的な論理には含まれていないと理解しております。


【筆者】

 「基本的な論理」と称している部分は日本国の統治権の『権限』がとることのできる「自衛の措置」の限界の規範を示したものである。「集団的自衛権」とは国連憲章51条に記載された「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』である。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○岸田国務大臣 昨年の七月一日の閣議決定においても、昭和四十七年の政府見解、そして今、資料で御指摘になられた答弁書、こうした基本的な論理に基づいて結果を導き出しております


【筆者】

 「基本的な論理に基づいて結果を導き出しております。」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに含まれないため、「基本的な論理」と称している部分から「存立危機事態」の要件を導き出すことはできない。そのため、「結果を導き出しております。」と主張することは論理的整合性が保たれないため誤りである。

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○岸田国務大臣 これは改めて説明しなければなりませんが、昭和四十七年の政府見解、そして御指摘のこの答弁書も同じでありますが、その基本的な論理とは、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置は、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、そして、これらの権利を守るためにやむを得ない措置として初めて容認されるものである、これが基本的な論理であります。
 そして、その論理に当てはめるために実際何が必要とされるかという議論の中で、当時においては、ここにありますように、集団的自衛権は認められない、個別的自衛権だけだということでありました。
 しかし、その後、国際状況の変化の中にあって、新しい脅威が発生する、そして国境を越えてさまざまな脅威が飛んでくる、どの国であっても、一国のみでは国民の命や暮らしを守ることができない、こういった状況判断に基づいて、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るために何が求められるかという考え方に基づいて、その帰結として集団的自衛権の一部が求められる、これが今回の議論の骨格であると考えています。これをしっかりと説明しなければならないと私は考えております。


【筆者】

 「昭和四十七年の政府見解、そして御指摘のこの答弁書も同じでありますが、その基本的な論理とは、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置は、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、そして、これらの権利を守るためにやむを得ない措置として初めて容認されるものである、これが基本的な論理であります。」との記載があるが、誤りである。

 政府が示している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は下記である。


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 憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第 13 条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。
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 論者は下線部分を抜き出しているが、太字部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言を意図的に抜き出さず、あたかも「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分を満たさないにもかかわらず「自衛の措置」をとることができるかのように説明している点が誤りである。
 9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定である。そのため、9条の下では「自衛の措置」や「武力の行使」を行うことを許容する要件を設定する場合には、政府の恣意的な判断が入り込む余地のない基準を設定する必要がある。

 具体的には、我が国の国内の事情を基準としたり、政府が自国の状態を意図的に作出することで要件に該当させることが可能となる「自動性(能動性)」を含む基準を定めてはならない。

 また、ある出来事があったかなかったかという事実の有無を認定する基準について、事態を認定する者の主観的判断に流れてしまうか、主観的判断に流れているのか否かを切り分ける評価を行うことができない「主観性」を含む基準であってはならない。

 さらに、具体的に何を意味しているのか通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがないような曖昧不明確な要件としてはならず、その基準に該当するか否かを誰もが識別することができる「明確性」を有していなければならない。

 そのため、9条解釈においては、我が国政府の意思では基準に該当する事態を作出することのできない外国の行った我が国に対する行為を基準とする「受動性」や、事態を認定する者の主観的判断に流れることのない「客観性」を有する基準、その基準に該当するか否かを誰もが識別することができる「明確性」を有する基準を設定することが求められる。

 この点、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範部分についても、9条解釈において導き出された規範であることから、9条が政府の行為を制約しようとしているこれらの趣旨を満たすものとして設定されたものと考えることが妥当である。

 しかし、論者が1972年(昭和47年)政府見解から抜き出している「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするため」や「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」、「これらの権利を守るための止むを得ない」との部分だけでは、政府が自国の状態判断しただけで「自衛の措置」をとり、「武力の行使」に踏み切ることができることとなる。なぜならば、我が国国内の事情を基準としていることから、政府が自国の状態を意図的に作出することで基準に該当させることが可能となる「自動性」が含まれているし、ある出来事があったかなかったかという事実の有無を認定する基準が抽象的であり、事態を認定する者の主観的判断に流れてしまうか、主観的判断に流れているのか否かを切り分ける評価を行うことができない「主観性」を含むものとなっているし、曖昧不明確であり、具体的に何を意味しているのか通常の判断能力を有する一般人の理解において具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがないものとなっているからである。

 このように、論者が1972年(昭和47年)政府見解から抜き出している「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするため」や「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」、「これらの権利を守るための止むを得ない」との部分だけでは、9条が政府の恣意によって「武力の行使」が行われることを制約しようとしている趣旨を満たさないのであり、9条解釈として成り立たないものとなる。

 1972年(昭和47年)政府見解が9条解釈として成り立つためには、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が不可欠であり、ここにこそ9条の制約の趣旨を生かすための「受動性」「客観性」「明確性」を満たす全ての基準が含まれていると考えることが妥当である。

 そして「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、1972年(昭和47年)政府見解の第二段落で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中において「自衛の措置」の限界の規範として用いられたものであることから、「集団的自衛権の行使」が可能となる余地の生まれる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるとは考えることができず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は含まれず、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠を外れ、9条に抵触して違憲となる。


 「その論理に当てはめるために実際何が必要とされるかという議論の中で、当時においては、ここにありますように、集団的自衛権は認められない、個別的自衛権だけだということでありました。」との記載があるが、誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範を示した部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、この「自衛の措置」の限界の規範に「武力の行使」を「当てはめる」としても、「我が国に対する武力攻撃」を満たすことが求められる。1972年(昭和47年)政府見解は結論部分で「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との「武力の行使」の限界の規範を示しており、この「自衛の措置」の限界の規範を引き継いでいることを確認することができる。

 論者は「自衛の措置」の限界の規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言について、あたかも「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないかのように考え、「武力の行使」の限界の規範を示す結論部分で初めて「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との限界が示されたかのような前提で説明を行おうとしているようである。しかし、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中で用いられた文言であり、「集団的自衛権の行使」を可能とする余地のある「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているため、誤りである。「当時において」との認識であるが、これは文面上の論理展開によって「自衛の措置」の限界の規範の中に「自衛の措置」の選択肢の一つとして「武力の行使」を選択した場合の「武力の行使」の限界の規範を導き出したものであるから、「当時」もこれまでも、現在も、これから将来も、論理的に変わらない基準である。あたかも「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないかのように考えて、政府が「武力の行使」の限界を定める際に「我が国に対する武力攻撃」を満たさないものを裁量判断として定める余地があり、「当時」の政策判断として「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との限界を定めていたかのような認識は誤りである。

 もう一つ、「集団的自衛権は認められない、個別的自衛権だけだということでありました。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解が示している「武力の行使」の限界の規範は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との部分であり、この基準に基づいて行われた「武力の行使」が国際法上の違法性阻却事由の『権利』ある「個別的自衛権」や「集団的自衛権」のどの区分に該当するかというものは「武力の行使」が「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」ことからくる付随的な問題でしかない。そのため、あたかも1972年(昭和47年)政府見解が国際法上の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」という区分を基準として「武力の行使」の可否を決しているかのような認識を有しているのであれば誤りである。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については、たとえ国際法上の「個別的自衛権」の区分に該当して国際法上の違法性が阻却されたとしても、9条の制約を超えたならばその時点で違憲となるため行使できないのである。


 「こういった状況判断に基づいて、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るために何が求められるかという考え方に基づいて、その帰結として集団的自衛権の一部が求められる、これが今回の議論の骨格であると考えています。」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、「自衛の措置」として「武力の行使」を選択するとしても、これを満たさなければならず、国際状況の変化や脅威などの「状況判断」によってもこれを満たさなければならないという規範は揺るがない。もし国際状況の変化や脅威などの「状況判断」によって法規範として示された限界を超えることができるとの主張が通るのであれば、9条の下でも国際状況の変化や脅威などの「状況判断」によって「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」を行うことも同様に可能と主張することができてしまうのであり、法解釈として成り立たない。

 「国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るために何が求められるか」との考え方によって、現在の法規範によって示されている限界の中では対応できないと考えるのであれば、それは適法な手段として憲法改正を行う必要がある。これを行わずに憲法解釈によって導き出された規範を踏み越えることは、解釈過程に不正・違法が存在し、結果としてその踏み越えられた要件に基づく「自衛の措置」や「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。

 「その帰結として集団的自衛権の一部が求められる」との記載があるが、誤りである。まず、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「一部」とそうでない区分が存在するかのように認識は誤りである。また、「その帰結」の部分であるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求めていることから、これを満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や「存立危機事態」での「武力の行使」はここに含まれず、「基本的な論理」と称している部分から「その帰結」としてこれらを導き出すことはできない。そのため、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や「存立危機事態」での「武力の行使」は認められない。「一部」であれば「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」も「基本的な論理」と称している部分の枠内に当てはまるのではないかとの期待があると考えられるが、「基本的な論理」と称している部分は「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求めており、これを満たさないのであれば「自衛の措置」としての「武力の行使」は全て違憲であり、「一部」であれ違憲であることに変わりはない。論者は国際法上の違法性阻却事由の区分を用いて説明しようとするが、9条の下での「自衛の措置」や「武力の行使」の範囲の限界は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことを求めているのであり、これを満たさない形での「武力の行使」を伴う措置は、たとえ国際法上の違法性阻却事由に該当して国際法上で違法性が阻却されようとも、9条に抵触して違憲であることに変わりはないのである。

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○岸田国務大臣 昨年七月一日の閣議決定は、あくまでも、国民の命と暮らしを守るために今現実において何が求められているのか、こういった発想に基づいて議論を行った帰結であります。そして、この基本的な論理は、先ほど説明させていただいたとおりであります。
 当てはめの結果、現実において国民の命や暮らしを守るために何が求められているのか、これは政府としてしっかり説明をし、ぜひ国民の皆様にも御理解をいただかなければならないと思います。御理解をいただきながら、ぜひ政府の対応を進めていきたいと考えています。


【筆者】

 「当てはめの結果、」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、ここに「武力の行使」を当てはめるとしても「我が国に対する武力攻撃」を満たすことが求められるため、これを満たさない「存立危機事態」の要件が当てはまることはない。そのため、「当てはめの結果」などと、「存立危機事態」の要件が当てはまることを前提として説明しようとしている部分が誤りである。

 もし論者のように「当てはめの結果」などと、当てはまることを前提として結論のみを答弁すれば、論理的整合性が保たれていなくとも正当化できることになれば、9条の下でも「当てはめの結果」として「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」をも行うことができてしまうのであり、法解釈として成り立たない。法解釈は論理的整合性を積み重ねる過程によって初めて正当化されるのであり、論者のように「当てはめの結果」と結論を述べるだけで正当化できるわけではない。

 「これは政府としてしっかり説明をし、ぜひ国民の皆様にも御理解をいただかなければならない」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定が新三要件の「存立危機事態」を定めようとしていることは1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとの前提と論理的整合性が保たれていないのであり、これをしっかりと説明したところで、論理的整合性が保たれていない事実は変わらない。論者は「ぜひ国民の皆様にも御理解をいただかなければならない」との認識を有して論理的整合性がない不正・違法な解釈に基づく主張を国民に理解させようとしているが、論者が2014年7月1日閣議決定の解釈手続きに不正・違法があることを理解する必要がある。

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○岸田国務大臣 今の政府、そして七月一日の閣議決定の踏襲しているこの基本的な論理について、最もわかりやすい資料としては、昭和四十七年の政府見解であると思っています。御指摘いただいた資料もそれに触れている部分でありますが、よりわかりやすい資料を活用しながら、国民の皆さんにしっかり説明をしていかなければならないと存じます。
 昭和四十七年の政府見解、先ほど申し上げました、国民の生命、自由及び幸福追求の権利、これをしっかり守るための措置は認められるべきである。そして、その当てはめの結果として、今の現実においては、集団的自衛権の一部も認められるべきであるというこの帰結に至った。こうしたことにつきましては、わかりやすい資料を活用しながら、しっかり説明をしていきたいと考えます。


【筆者】

 「昭和四十七年の政府見解、先ほど申し上げました、国民の生命、自由及び幸福追求の権利、これをしっかり守るための措置は認められるべきである。そして、その当てはめの結果として、今の現実においては、集団的自衛権の一部も認められるべきであるというこの帰結に至った。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解には「自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」ことを前提としており、単に「国民の生命、自由及び幸福追求の権利、これをしっかり守るための措置」であれば「自衛の措置」が許されるとはしていない。また、その「自衛の措置」の限界の規範として「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」を設定しており、これを満たさない中での「自衛の措置」は行うことができない。この「自衛の措置」の限界の規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。そのため、「我が国に対する武力攻撃」を満たさない「存立危機事態」の要件はここに当てはまらず、「その当てはめの結果として」と当てはまるかのような前提で説明しようとしている部分が誤りである。
 「集団的自衛権の一部も認められるべきである」との答弁であるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「一部」とそうでない区分が存在するかのように考えている部分が誤りである。また、日本国も国際法上において「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているのであり、「認められるべき」などと、適用を受ける地位を認められていないかのような前提で説明しているのであれば誤りである。「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を「一部」認めようとしているのかもしれないが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲であり、これを満たさないのであれば「一部」であれ認められないことに変わりはない。
 「この帰結に至った。」とあるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は論理的に当てはまらず、「この帰結」に至らない。そのため、「この帰結に至った。」と結論のみを述べようとしても、結論に至るまでのプロセスに不正・違法があり、論理的整合性が保たれていないのであるから、結論は正当化されない。よって、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を全て違憲としている枠を超え、9条に抵触して違憲となる。

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○岸田国務大臣 まず、我が国政府として、昨年七月一日の閣議決定に至ったその考え方、この基本的な論理、これはしっかり説明をしなければなりません。
 そして、わかりにくいという御指摘がありました。その点については、謙虚に我々も考えてみなければならないと思いますが、この基本的な論理をしっかり説明できなければ、国民の皆様方に御理解いただけることはないと思います。ぜひ、この基本的な論理、そして、そこから導き出した帰結として、集団的自衛権の一部を認める必要があるという結論に至った、この点につきましては丁寧に説明を続けていきたいと存じます。
 今後、こうした閣議決定に基づいて、政府としましても、安全保障法制の整備を行い、国会において議論をお願いすることになります。この議論等を通じましても、ぜひ丁寧にわかりやすく説明を続けていきたいと考えます。


【筆者】

 「この基本的な論理をしっかり説明できなければ、国民の皆様方に御理解いただけることはない」との答弁があるが、その通りである。この点をしっかりと説明できなければ、9条の下で日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われることを法解釈上正当化することができないのであり、違憲・違法・無効となるからである。

 しかし、その後「そこから導き出した帰結として、集団的自衛権の一部を認める必要があるという結論に至った」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は論理的に当てはまらず、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」を導き出すことはできない。論者は「そこから導き出した帰結」と結論のみを述べているが、論理的整合性なく結論のみを述べることで正当化することができるのであれば、「そこから導き出した帰結」として「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」も正当化できてしまうこととなるのであり、法解釈として成り立たない。「結論に至った」との部分についても、論理的整合性が保たれていないのであるから、結論に至ることはなく、解釈手続きの過程を無視して結果のみを正当化しようと主張している点で法解釈として成り立たず、誤りである。解釈手続きの過程を無視することは不正であり、違法である。

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第189回国会 衆議院 外務委員会 第2号 平成27年3月25日


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○国務大臣(岸田文雄君) まず、先ほど来の議論を聞いておりまして、また、今までも外務防衛委員会等様々な委員会におきまして委員の質疑、拝聴しておりました。過去の議事録等も丹念に読み込む、こうした真摯な態度には心から敬意を表し申し上げます。
 その上で一言申し上げるならば、委員のお示しいただきましたこの四十七年の政府見解の資料をちょっと使わせていただきますと、基本的な論理は、国民の生命、自由及び幸福追求の権利、これを守るためにやむを得ない措置、そして必要最小限の限度の範囲内においては日本国憲法は禁じているというものではない、これが基本的な論理です。この論理にこの四十七年の当時の状況を当てはめたならば、ここにありますように、他国に加えられた武力攻撃は認められない、こういった帰結になる。この帰結に基づいて答弁が行われているわけですから、この答弁、幾らこれを指摘してもまさに委員のおっしゃるとおりだと思います。
 ただ、我々今議論しておりますのは、この基本的な論理今現在の状況を当てはめた場合に、安全保障環境が変わり、容易に国境を越えてくる脅威も発生し、新たな脅威も発生する、している、こういった安全保障環境の変化、これをこの基本的な論理当てはめると、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るためには、もちろん三原則しっかり守った上で認められる措置、この中に集団的自衛権の一部も含まれる、こういった議論をしているわけです。
 この整理をした上で議論しませんと、これいつまでたっても何か平行線に終わってしまうのではないか、このように思えてなりません。
 そして、総理の訪米につきましては、これは日米関係においても、あるいは戦後七十年を迎えて……

【動画】小西洋之 横畠裕介の解釈改憲は「憲法違反」 4/20参院


【筆者】

 「四十七年の政府見解の資料をちょっと使わせていただきますと、基本的な論理は、国民の生命、自由及び幸福追求の権利、これを守るためにやむを得ない措置、そして必要最小限の限度の範囲内においては日本国憲法は禁じているというものではない、これが基本的な論理です。」との答弁があるが、誤りである。論者が抜き出そうとしているのは1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を記した規範部分と思われるが、これは「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」である。ここには、論者のように「国民の生命、自由及び幸福追求の権利、これを守るためにやむを得ない措置、そして必要最小限の限度の範囲内」としているだけではなく、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在している。これは1972年(昭和47年)政府見解が第二段落で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中において用いられたものであるから、「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、この「自衛の措置」の限界の規範からは「我が国に対する武力攻撃」を満たさない中での「自衛の措置」としての「武力の行使」が許容される余地はない。

 論者はその後、「この論理にこの四十七年の当時の状況を当てはめたならば、ここにありますように、他国に加えられた武力攻撃は認められない、こういった帰結になる。」との答弁をしているが、これは文面上の論理的整合性の問題であるから、「当時の状況」が入り込む余地はないし、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、これが「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないことを前提として政策判断の余地があるかのように解した上で「当時の状況」を当てはめようとしている点で誤りである。

 また、1972年(昭和47年)政府見解が結論部分で「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としており、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が許されないのは、これを満たさないことを理由としている。1972年(昭和47年)政府見解の結論部分には「わが国に対する急迫、不正の侵害」(我が国に対する武力攻撃)と対比する形で「したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」と記載されている。


 「この基本的な論理に今現在の状況を当てはめた場合に、安全保障環境が変わり、容易に国境を越えてくる脅威も発生し、新たな脅威も発生する、している、こういった安全保障環境の変化、これをこの基本的な論理に当てはめると、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るためには、もちろん三原則しっかり守った上で認められる措置、この中に集団的自衛権の一部も含まれる、こういった議論をしているわけです。」との答弁があるが、誤りがある。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、過去も、これまでも、現在も、これから将来も、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、これが「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないことを前提として、政府の裁量として政策判断が入り込む余地があるかのように認識した上で「今現在の状況を当てはめ」ることができるかのように考えている部分が誤りである。また、1972年(昭和47年)政府見解の文面は「自衛の措置」の限界の規範の中に「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を当てはめた場合に、「武力の行使」の限界の規範は「自衛の措置」の限界の規範に拘束される旨を論理的に示したものであり、この「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範の間には文面上の論理展開しか存在しておらず、政府の裁量判断の余地はないし、政策判断が入り込む余地はない。そのため「今現在の状況」や「安全保障環境」の変化や、「新たな脅威」などを理由とする政策判断が入り込むことはなく、それらの事情を「当てはめ」ることはできないし、それらの事情を「当てはめ」ることによって規範が変化するという性質のものではない。

 「これをこの基本的な論理に当てはめると、」との答弁もあるが、もともと「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範は「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求めているのであるから、これを満たさない要件を導き出すことはできない。また、「自衛の措置」の限界の規範は法解釈上の規範であることから、ここに「今現在の状況」や「安全保障環境」の変化や、「新たな脅威」などを「当てはめる」ことができるという性質を有さない。もし「自衛の措置」の限界の規範の中に、「今現在の状況」や「安全保障環境」の変化や、「新たな脅威」などを理由として政策上行使したいと考える新三要件の「存立危機事態」の要件を「当てはめる」と説明しようとしているのであれば、「自衛の措置」の限界の規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は論理的に当てはまらない。そのため、「この基本的な論理に当てはめると」などと、当てはまることを前提として説明していることは誤りである。

 「この中に集団的自衛権の一部も含まれる」との記載があるが、誤りである。「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念であり、1972年(昭和47年)政府見解という日本国の統治権の『権限』によって行うことのできる「自衛の措置」や「武力の行使」の範囲を確定する限界の規範の中に国際法上の『権利』は含まれない。「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」の「一部」が含まれると主張しているのかもしれないが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲であり、これを満たさないのであれば「一部」であれ「武力の行使」は認められない。「集団的自衛権の行使」とは、「我が国に対する武力攻撃」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、これを満たさず、全て違憲である。これも、「一部」と称しても違憲であることに変わりはない。


 「この整理をした上で議論しませんと、これいつまでたっても何か平行線に終わってしまうのではないか、」との答弁があるが、「整理」できていないのは1972年(昭和47年)政府見解の論理的整合性を突き詰めていない論者の方である。

 「いつまでたっても何か平行線に終わってしまう」原因となっているのは、論者が、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした規定であるにもかかわらず、その9条解釈として示されている1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることを無視し、1972年(昭和47年)政府見解が「自国の存立」や「国民の権利」の危機があれば政府が「武力の行使」に踏み切ることを可能としている文章であるかのように主張しようとしている誤りによるものである。「いつまでたっても何か平行線に終わってしまう」のは、論者がこの点を「整理した上で議論」することができていないからである。

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○国務大臣(岸田文雄君) まず、今、中谷大臣の方から答弁がありました抑止力と我が国の安全保障法制との関係ですが、私もこの基本的な考え方として、一昨年十二月に我が国としまして国家安全保障戦略を初めて策定しました。
 その中にも書いてありますように、まずは我が国として外交において我が国にとって最も好ましい環境をつくり、その上で我が国として切れ目のない安全保障法制と体制をつくり、そしてその議論の中で、国民の自由や命や幸福追求の自由を守るためにこの集団的自衛権の一部も必要なのではないか、こういった議論があり、そしてそれを、切れ目のない体制をつくることによって結果として抑止力にもつながる、これが物の考え方であると思っています。
 そして、この集団自衛権を行使できる際には、これは単に我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生するのみでは足りないわけです。あくまでも、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があることを始め、新三要件を満たす場合のみであります。つまり、憲法第九条の下で許容されるのはあくまでも国民の命と幸せな暮らしを守るための必要最小限の自衛の措置のみですので、こうした措置をとること、これは政府として当然の責務であると認識をしています。
 そして、万が一の事態において、この自衛の措置を十分に対応していく、このことが抑止力を高める、こういったことでありますので、かえってリスクが高まるのではないかという指摘は当たらないと我々は考えています。


【筆者】

 「集団自衛権を行使できる際には、」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)から導き出すことができず、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となるため、これに基づく「集団的自衛権の行使」は行うことができない。そのため、「集団的自衛権を行使できる際には、」と行使できることを前提としている部分が誤りである。


 「憲法第九条の下で許容されるのはあくまでも国民の命と幸せな暮らしを守るための必要最小限の自衛の措置のみですので、こうした措置をとること、これは政府として当然の責務であると認識をしています。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定である。そのため、論者の言うように「国民の命と幸せな暮らしを守るため
」であるからといって、必ずしも「自衛の措置」や「武力の行使」が許されるわけではない。「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることは歴史上幾度も経験しており、9条はこのような理由に基づく「武力の行使」を制約するために設けられた規定なのである。

 「必要最小限」との部分であるが、意味を特定する必要がある。①従来より政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたもののことであれば、これは三要件(旧)を意味するから、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことが必要となるから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や、「存立危機事態」での「武力の行使」は行うことができない。②三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味であれば、これは「武力の行使」の程度・態様であるから、「武力の行使」の発動要件となる部分はその直前に記載された「国民の命と幸せな暮らしを守るため」との部分ということになるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であることから、単に「国民の命と幸せな暮らしを守るため」を理由として「武力の行使」が可能となるとすることは9条解釈として成り立たない。③論者は9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのように考えている可能性があるが、政府が「必要最小限度」と考えるだけで9条の制約を逃れられるとすることは、9条が政府の行為を制約しようとした趣旨を満たさないため、法解釈として成り立たない。そのため、どの意味の「必要最小限度」を考えても「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触しない旨を示したものではなく、論者の答弁は意味が通らない。

 「これは政府として当然の責務であると認識をしています。」との部分についても、政府は憲法によって授権された範囲の『権限』しか行使してはならず、これを超えるものは国民から「厳粛な信託(前文)」を受けていない。そのため、9条に抵触する部分については行使してはならないのであり、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠を超えて9条に抵触する「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や「存立危機事態」での「武力の行使」については、政府に授権された『権限』の範囲を超えており、これを行う「責務」は存在しないし、これを行うことは許されていない。そのため、論者が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や「存立危機事態」での「武力の行使」を行うことについて「当然の責務であると認識」していることは法解釈として誤った認識である。

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第189回国会 参議院 決算委員会 第6号 平成27年4月20日


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○岸田国務大臣 憲法学者の方々の意見についても、これは耳を傾けることは重要だとは思いますが、ただ、憲法の議論を考えました際に、憲法というのは、国民生活、幅広い分野にかかわるものであります。ですから、例えば政治学者あるいは国際法学者初め、さまざまな分野の識者の意見にも耳を傾けなければならないと思いますし、さまざまな実務に通じた方々の意見も幅広く聞くことは大切なのではないかと思います。
 そういった点から、今回、昨年の七月の閣議決定に至るまでも、安保法制懇等を通じまして、幅広い分野の有識者の方々に意見を承ってきた、こういった対応は大切なことであったと思っています。
 いずれにしましても、今回御審議をお願いしている法案につきましては、昭和四十七年の政府見解基本的な論理に基づいたものであり、憲法解釈との論理的整合性は保たれていると私は考えております。


【筆者】

 「昭和四十七年の政府見解の基本的な論理に基づいたものであり、憲法解釈との論理的整合性は保たれている」との答弁があるが、誤りである。

 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に基づけば、この「自衛の措置」の限界の規範には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は当てはまらず、「存立危機事態」の要件は導き出すことができない。そのため、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠を超え、9条に抵触して違憲である。

 「憲法解釈との論理的整合性」については、先に述べたように「あくまで外国の武力攻撃によつて」は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれるとする主張は論理的に成り立たない。そのため「憲法解釈との論理的整合性」は保たれておらず、「憲法解釈との論理的整合性は保たれている」との考えは誤りである。

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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第9号 平成27年6月12日


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○国務大臣(岸田文雄君) まず、今、国会において御議論いただいている平和安全法制につきましては、政府としまして、憲法の基本的な論理の範囲内で我が国の国民の命や暮らしを守るために今現状において何が憲法においてどこまで許されるのか、こうした観点から法案を提出させていただき御議論をいただいております。政府としましては、今議論をお願いしているこの平和安全法制、これはあくまでも憲法の範囲内であり合憲であるという認識の下に御議論をお願いしております。
 そして、この新ガイドライン自体も、憲法の範囲内において、そして我が国においてその時点で適用される法律の範囲内でこれ運用する、これが明記をされています。
 よって、我が国の平和安全法制も、政府としましては、憲法の範囲内であり、新ガイドラインの運用も憲法の範囲内であるということから、これは問題がないものであると認識をいたします。


【筆者】

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第189回国会 参議院 予算委員会 第20号 平成27年8月24日


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○国務大臣(岸田文雄君) 今回御審議をお願いしている平和安全法制ですが、法的な基本的な論理は維持されており法的安定性は維持されていると考えています。
 基本的な論理、要は、我が国憲法においても自衛の措置は認められている、しかし、それは無制限なものではなくして、我が国の存立、そして国民の命、自由そして幸福追求の権利が脅かされる明白な理由が存在する、こういったことに限られるこうしたときにおいては自衛の措置が認められる、これが基本的な論理であると考えています。
 そして、この基本的な論理において、昭和四十七年における安全保障環境を当てはめた場合においては、当時は個別的な自衛権が認められている。それに対して、今のこの安全保障環境、一国の……(発言する者あり)いや、一国のみでは自国の安全を守ることができない、こうした安全保障環境を当てはめることによって限定的な集団的自衛権は認められる、こういったことで憲法における合憲性、これはしっかり守られていると考えているからこそ御審議をお願いしているということであります。


【筆者】

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第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第12号 平成27年8月25日

 

 


左藤章


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○左藤副大臣 お答え申し上げます。
 今、基本的なものはどうかということに相なるんだろうと思います。
 これまでも繰り返し申し上げているとおりでございまして、憲法第九条の解釈に関する従来からの一貫して表明してきた政府基本的論理は、九条は、その文言からすると、国際関係における武力行使を一切禁じているように見えますが、前文で確認している国民の平和的生存権や、第十三条が生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えますと、九条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をすることを禁じているとは解されません。
 一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限の武力行使は容認されるというものでございます。
 ここで言う基本的な、ちょっと、基本的なというふうにおっしゃいますから答えさせてください。憲法九条の政府見解の基本あるいは基礎となる趣旨、すなわち、昭和四十七年の政府見解などで示された、憲法九条のもとにおいて例外的に許容される武力の行使についての考え方であることを端的に表現したものでございます。
 このような趣旨で基本的なという表現を用いていますが、いずれにしても、政府は、昭和四十七年の政府見解などで示された憲法九条の解釈に関する従来の政府見解論理あるいは考え方は維持しています


【筆者】

 論者が「憲法第九条の解釈に関する従来からの一貫して表明してきた政府の基本的論理は、」として取り上げているものは、2014年7月1日閣議決定の文言であるが、この2014年7月1日閣議決定の文章自体が、政府が「従来からの一貫して表明してきた」1972年(昭和47年)政府見解の文言を改変したものとなっているため、論者が示そうとしている「憲法第九条の解釈に関する従来からの一貫して表明してきた政府の基本的論理」を正確に示したものとはなっていない。


① 政府が「従来からの一貫して表明してきた」もの


「1972年(昭和47年)政府見解」の「基本的な論理」と称している部分
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 憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第 13 条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。
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② 2014年7月1日閣議決定が内容を改変しているもの

「2014年7月1日閣議決定」が1972年(昭和47年)政府見解を示す際の表現
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(2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第 13 条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。
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 論者は②の2014年7月1日閣議決定で内容が改変されているものの文章を読み上げていることになるが、これ自体が従来より政府が述べてきた文章とは異なるものとなってしまっていることを理解する必要がある。

 論者の抜き出している「そのための必要最小限の武力行使は容認される」の文言であるが、これは、1972年(昭和47年)政府見解の本来の文章では、「その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」の文言であり、その「右の事態」とは「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」である。2014年7月1日閣議決定の内容は、9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのような誤解を生みやすい形に変えられているため、注意する必要がある。
 論者も「従来の政府見解の論理あるいは考え方は維持しています。」としている通り、1972年(昭和47年)政府見解を維持する必要があることから、2014年7月1日閣議決定の文言のみを見て9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのような理解をすることは誤りである。

 ただ、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、1972年(昭和47年)政府見解の中で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中において「自衛の措置の限界」の規範として示されているものであるから、「我が国に対する武力攻撃」の意味であり、ここに「集団的自衛権の行使」を可能とする「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれていない。これにより、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は当てはまらず、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を逸脱し、9条に抵触して違憲となる。

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○左藤副大臣 基本的な論理基本的な論理で存在をしていると思っています。

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○左藤副大臣 当てはめの問題かもしれませんが、集団的自衛権の行使が憲法上許容されるか否かという点は、あくまで昭和四十七年政府見解で示された基本的な論理の当てはめの帰結であり、基本的な論理そのものの一部ではありません。

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第189回国会 衆議院 外務委員会 第4号 平成27年4月1日

 

 

 

 

 

 

【憲法審査会】



(下線・太字・色・名前は筆者)


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高村正彦

高村委員 現在国会で審議をしている平和安全法制の中に、集団的自衛権の行使容認というものがありますが、これについて、憲法違反である、立憲主義に反するという主張があります。これに対して、昭和三十四年のいわゆる砂川判決で示された法理を踏まえながら、私の考え方を申し述べたいと思います。
 憲法の番人である最高裁判所が下した判決こそ、我々がよって立つべき法理であります。言いかえれば、この法理を超えた解釈はできないということであります。
 砂川判決は、憲法前文の平和的生存権を引いた上で、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」と言っております。しかも、必要な自衛の措置のうち、個別的自衛権、集団的自衛権の区別をしておりません。ここが大きなポイントであります。個別的自衛権の行使は認められるが集団的自衛権の行使は認められないなどということは言っていないわけであります。
 当時の最高裁判事は集団的自衛権という概念が念頭になかったと主張する方もいます。しかし、判決の中で、国連憲章は個別的自衛権と集団的自衛権を各国に与えていると明確に述べていますので、この主張ははっきり誤りであります。
 そして、その上で、砂川判決は、我が国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有するものについては、一見極めて明白に違憲無効でない限り、内閣及び国会の判断に従う、こうはっきり言っているわけであります。
 安全保障について、実際に、どのような方針のもと、どのような政策をとり、それを具体化していくかは、内閣と国会の責任で取り進めていくものなのであります。
 確かに、昭和四十七年の政府見解、そしてその後の政府見解などでは、その時々の安全保障環境に当てはめて、集団的自衛権の行使は必要な自衛の措置に入らない、これを行使することはできないとしています。しかし、安全保障環境が大きく変化している中で、必要な自衛の措置に当たるものにどういうものがあるかについては、国民の命と平和な暮らしを預かる政府、国会として不断に検討していく必要があります。
 例えば、朝鮮半島で有事があったとします。我が国に対する武力攻撃は発生していないものの、我が国のために活動する米軍艦艇が攻撃されることはあり得ます。
 現行法では、我が国に対する攻撃がない限り、すぐ近くで攻撃を受けている米艦を助けることはできません。このような場合に、我が国として何もできないままでいいはずがありません。
 他国に対する武力攻撃を契機とするものであっても、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態は生じ得るのです。国民の命、平和な暮らしを守り抜くためには、このような事態に対応できるようにしなければなりません。
 果たして、憲法解釈の変更は全く許されないのでしょうか。今まで政府が集団的自衛権はだめと言ってきたのだからだめだと言う方がいます。しかし、私が今挙げたような例が日本の国の存立を全うするために必要最小限度でないと思っているのか、あるいは、必要最小限度であったとしても、集団的自衛権と名前がついていればだめだとおっしゃっているのか、私にはわかりません
 少なくとも、憲法の番人である最高裁判所は、憲法九条にもかかわらず、必要な自衛の措置はとり得ると言っています。何が必要かは時代によって変化していくのは当然であります。実際の政策は、憲法の番人たる最高裁判所の判決で示した法理のもと、内閣と国会に委ねられているわけですから、過去の安全保障環境を前提にした当てはめ部分にまで過度に縛られる必要はないわけであります。
 何も、政府が必要なプロセスを踏まないで暴走しているわけではありません。閣議決定によって内閣で意思を統一して、国会に法案を提出して十分に審議する、そして法律ができれば、それに従って政策を実行する、これはプロセスとして最も正当かつ真っ当なものであります。したがって、立憲主義に反するという批判は全く的を射ないものであります。このことを否定することこそ、まさに立憲主義の否定であり、三権分立の否定にほかなりません。
 ところで、先日の憲法審査会における参考人の三名の憲法学者のうち、一人として砂川判決に言及した方はいらっしゃいませんでした。したがって、砂川判決の法理を否定しているのか、この法理の枠外にあると言っているのか、判然としません。
 憲法調査会の場でおのおのの考えを自由に述べていただくことは結構なことであります。私たちとしても、自分たちと異なる意見を持つ方々も尊重します。その一方で、私たちは、憲法を遵守する義務があり、憲法の番人である最高裁判決で示された法理に従って、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、自衛のための必要な措置が何であるかについて考え抜く責務があります。これを行うのは、憲法学者でなく、我々のような政治家なのです。
 一九五四年に自衛隊をつくったときにも、ほとんどの憲法学者は憲法違反だと主張していました。憲法学者は、どうしても憲法九条の条文そのものにこだわることがあると思いますが、先達は、憲法選定権者である日本国民が、侵略されて座して死を待つというようなことをみずから憲法に決めるはずがないという大きな常識に基づいて、自衛隊をつくったのであります。
 憲法学者の言うとおりにしていたら、今も自衛隊はありません、日米安全保障条約もありません。そして、先達の大きな常識のおかげで、自衛隊や日米安全保障条約が抑止力として働いて、平和と安全を維持してきたのであります。
 三名の参考人が主張されたように、昨年七月の閣議決定と、それに基づく平和安全法制の整備は違憲であるとの意見があります。
 しかし、先般の閣議決定における憲法解釈は、我が国を取り巻く安全保障環境の大きな変化を踏まえて、砂川判決の法理のもとに、かつ、これまでの憲法解釈との論理的整合性と法的安定性に十分留意して、昭和四十七年見解などの従来の政府見解における憲法九条の解釈の基本的な論理法理の枠内で、合理的な当てはめの帰結を導いたのであります。
 これまで、その時々の安全保障環境に基づき当てはめを行った結果、集団的自衛権は十把一からげに、認められません、必要な自衛の措置に当たりませんとしてきたものを、集団的自衛権の行使にもいろいろあって、必要な自衛の措置に当たらないものもあれば、一部当たるものもあると言っているだけであります。
 武力の行使は、国際法上、集団的自衛権の行使に該当するもののうち、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られます。これは、基本的論理維持した上でそれぞれの安全保障環境のもとでの当てはめの違いだけであります。
 したがって、合理的な解釈の限界を超えるような便宜的、意図的憲法解釈の変更ではなく違憲であるという批判は全く当たらないということを改めて強調したいと思います。
 憲法の番人は、最高裁判所であって、憲法学者ではありません。もしそれを否定する人がいるとしたら、そんな人はいないと思いますが、憲法八十一条に反し、立憲主義をないがしろにするものであることを申し添えたいと思います。
 終わります。 

【動画】2015 06 11 衆議院憲法審査会「自由討議」


【筆者】

 「最高裁判所が下した判決こそ、我々がよって立つべき法理であります。」との説明があるが、最高裁判所の砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないことから、これに「よって立つ」のであれば、「武力の行使」が可能であるかのように論じることはできない。

 「この法理を超えた解釈はできない」との説明があるが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないことから、これを超える解釈を行うことができないことは当然であるが、これを超えない場合についても砂川判決が「武力の行使」を可能であると述べていることを前提に論じている部分が誤りである。

 「必要な自衛の措置のうち、個別的自衛権、集団的自衛権の区別をしておりません。ここが大きなポイントであります。個別的自衛権の行使は認められるが集団的自衛権の行使は認められないなどということは言っていないわけであります。」との説明があるが、誤りである。まず、「自衛の措置」とは日本国の統治権の『権限』によって行使されるものであるが、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である。この両者は異なるものであるため、「自衛の措置のうち、個別的自衛権、集団的自衛権」というように、「自衛の措置」の『権限』の中に「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』が含まれているとする表現は意味が通じていない。「ここが大きなポイントであります。」との説明についても、全くポイントではなく、むしろ大きな間違いである。「個別的自衛権の行使は認められるが集団的自衛権の行使は認められないなどということは言っていない」との説明があるが、国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由であり、これが行使されるということは、通常国家による「武力の行使」が行われている状態を指す。砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないのであるから、「個別的自衛権の行使は認められるが集団的自衛権の行使は認められないなどということは言っていない」ことは当然である。

 「昭和四十七年の政府見解、そしてその後の政府見解などでは、その時々の安全保障環境に当てはめて、集団的自衛権の行使は必要な自衛の措置に入らない、これを行使することはできないとしています。」との説明があるが、誤った認識である。まず、1972年(昭和47年)政府見解は、「必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」と述べており、「必要な自衛の措置」と考えるからといって無制限に認められるとは解していないのである。論者は1972年(昭和47年)政府見解に「集団的自衛権の行使は必要な自衛の措置に入らない」と記載されているかのように論じているが、1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権の行使」は「自衛の措置の限界をこえる」と記載されているのであり、「必要な自衛の措置に入らない」とは記載されていない。「必要な自衛の措置」を無制限に認めているとは解されないからこそ「自衛の措置の限界」が示されているにもかかわらず、この「自衛の措置の限界」を無視して、1972年(昭和47年)政府見解が「集団的自衛権の行使は必要な自衛の措置に入らない」と判断していたかのように考え、それにより「集団的自衛権の行使」が許されないと結論付けていたかのような認識は誤りである。


 「日本の国の存立を全うするために必要最小限度でないと思っているのか、あるいは、必要最小限度であったとしても、集団的自衛権と名前がついていればだめだとおっしゃっているのか、私にはわかりません。」との説明があるが、誤った認識である。まず、「必要最小限度」の意味を特定する必要がある。

① 従来より政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたものは「武力の行使」の三要件(旧)である。

② 「武力の行使」の三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様に対応する意味。

③ 9条の制約が数量的な「必要最小限度」というものを基準としていると考えている場合。

 論者の説明から推察するに、③の9条の制約が数量的な「必要最小限度」という基準によってなされてると考えているように見受けられるが、9条は政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規定であり、政府が「必要最小限度」と考えたならば「武力の行使」が可能となるとするのであれば、9条が政府の行為を制約しようとする趣旨を満たさないため、法解釈として成り立たない。そのため、9条は数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているわけではない。

 政府答弁でも「集団的自衛権の行使」が許されない旨は、「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる三要件(旧)の第一要件を満たさないことが理由であり、「必要最小限度」の意味は「数量的な概念として申し上げているものではございません。」と述べている。

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○秋山政府特別補佐人 

(略)

 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者) 

 「日本の国の存立を全うするために必要最小限度でない」のか、「必要最小限度であったとしても、集団的自衛権と名前がついていればだめだとおっしゃっている」のかについてであるが、「必要最小限度」の意味は「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる三要件(旧)のことであり、この第一要件を満たさないことにより「集団的自衛権の行使」が「だめだとおっしゃっている」のである。「私にはわかりません。」と論者が分からない理由は、「自衛のための必要最小限度」の意味を理解していないからである。


 「最高裁判所は、憲法九条にもかかわらず、必要な自衛の措置はとり得ると言っています。」と説明しているが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。また、砂川判決が示した「自衛のための措置」とは「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。砂川判決が、「必要な自衛の措置」と考えるならば日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を伴う措置についても可能であると述べているかのように説明することはできない。

 「過去の安全保障環境を前提にした当てはめ部分にまで過度に縛られる必要はない」との説明があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範が示されており、これは「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求めている。1972年(昭和47年)政府見解はその「自衛の措置」の限界の規範の中に「武力の行使」を当てはめることで「武力の行使」の限界の規範を導き出しているのであり、論者のいうように「安全保障環境」を勘案して「武力の行使」の限界の規範を導き出すという性質のものではない。そのため、「武力の行使」の限界の規範は「過去の安全保障環境を前提に」しているわけではないため、論者の「過去の安全保障環境を前提にした当てはめ部分」との認識は誤りである。

 「政府が必要なプロセスを踏まないで暴走しているわけではありません。閣議決定によって内閣で意思を統一して、」との説明があるが、誤りである。2014年7月1日閣議決定の内容は、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれることを前提として「存立危機事態」の要件を定めており、適正手続きを怠った不正な解釈となっている。これに基づいて「存立危機事態」の要件を定めようとすることは適正手続きという「必要なプロセスを踏まない」ものであるから、正当化することはできないのである。

 「法律ができれば、それに従って政策を実行する」との説明があるが、違憲な法律は無効であり、政府は違憲な法律に従って政策を実行してはならない。

 「プロセスとして最も正当かつ真っ当なもの」との説明があるが、誤りである。法解釈は、論理的整合性を積み重る過程を得ることによって正当化される営みである。2014年7月1日閣議決定の内容は解釈過程に不正があり、「プロセス」として正当化できず、論理的整合性が存在していないことから正当性は断絶している。「正当かつ真っ当」とは言えない。

 「立憲主義に反するという批判は全く的を射ないもの」との説明があるが、誤りである。「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合しないため、結果として9条に抵触して違憲となる。違憲な要件を定めることは、「立憲主義に反する」のであり、「批判」は全く的を射るものである。

 「このことを否定することこそ、まさに立憲主義の否定であり、三権分立の否定にほかなりません。」との説明があるが、2014年7月1日閣議決定の解釈過程の不正によって「存立危機事態」の要件は違憲であり、違憲な要件を定めようとしていることは、「立憲主義の否定」である。「三権分立の否定」との説明があるが、三権は憲法によって『権限』を与えられている規範であり、その憲法が禁じている『権限』を行使することはできない。9条が三権の『権限』を制約しており、その範囲は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中でしか「武力の行使」を行ってはならないとするものである。「存立危機事態」での「武力の行使」はこれを満たさないことから、三権に与えられた『権限』の範囲を逸脱しており、三権の権力機関が行使することは正当化することができない。この要件を「行政権」を持つ内閣と「立法権」を持つ国会は定めることはできず、「閣議決定」や「法律」を立法することによっても正当化できない。論者がいかなる意味で「三権分立の否定」と主張しているのかよく分からないが、「三権分立」以前にその三権は9条とその解釈である1972年(昭和47年)政府見解の下では、「存立危機事態」の要件を定める『権限』を有しない。

 「したがって、砂川判決の法理を否定しているのか、この法理の枠外にあると言っているのか、判然としません。」との説明があるが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないことから、「存立危機事態」での「武力の行使」という「武力の行使」を伴う措置について砂川判決の「法理の枠外」なのか枠内なのかを決することはできない。論者は「判然としません。」と主張するが、もともと砂川判決が「武力の行使」について何も述べていないのであるから、砂川判決を根拠として「武力の行使」を伴う措置を正当化できると考えている論者の期待が誤りなのである。

 「私たちは、憲法を遵守する義務があり」との説明があるが、当然その通りである。これにより、憲法規定である9条とその解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)を「遵守する」ことによって、「存立危機事態」の要件は違憲となることが導かれ、これを行使してはならない「義務」があることとなる。

 「最高裁判決で示された法理に従って、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、自衛のための必要な措置が何であるかについて考え抜く責務があります。」との説明があるが、最高裁判決の砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていないし、「最高裁判決で示された法理」に従うのであれば、砂川判決の示した「自衛のための措置」とは「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけであることから、これらを活用することしかできないこととなる。

 「砂川判決の法理のもとに、かつ、これまでの憲法解釈との論理的整合性と法的安定性に十分留意して、昭和四十七年見解などの従来の政府見解における憲法九条の解釈の基本的な論理、法理の枠内で、合理的な当てはめの帰結を導いた」との説明があるが、誤りがある。まず、「基本的な論理、法理の枠内で、」の部分であるが、「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は「枠内」に含ませることができず、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となる。これをあたかも「枠内」に含ませることができるかのように主張することは「論理的整合性」を損なうこととなるから、同時に「法的安定性」も損なわせることとなる。論者は「十分留意して、」と考えているようであるが、事実問題として「論的整合性と法的安定性」は保たれていない。「論理的整合性」が存在しないのであるから、「合理的な当てはめ」ということはできないし、「帰結」を導くこともできない。「帰結を導いた」と導くことができるかのような説明は誤りである。

 「その時々の安全保障環境に基づき当てはめを行った結果、集団的自衛権は十把一からげに、認められません、必要な自衛の措置に当たりませんとしてきた」との説明があるが、誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明しており、その「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範を示している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。なぜならば、もしここに「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるとすれば、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」とする前提部分の説明と論理矛盾を起こすからである。そして、「自衛の措置」の限界の規範に「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を選択するとしても、「自衛の措置」の限界の規範に拘束されることとなる。この「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範との間には文面上の論理展開しか存在せず、「その時々の安全保障環境」という状況認識や政策判断が入り込む余地はない。そのため、論者のように1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範の間に「その時々の安全保障環境に基づき当てはめを行った結果、集団的自衛権は十把一からげに、認められません、必要な自衛の措置に当たりませんとしてきた」との認識は入り込む余地はない。「集団的自衛権の行使」が認められないことは「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との部分からの付随的なものであり、9条が直接的に「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を制約しているかのような理解は誤りである。また、「必要な自衛の措置に当たりませんとしてきた」との部分についても、1972年(昭和47年)政府見解は「必要な自衛の措置」であるからといって無制限に「自衛の措置」が許されるわけではないことを示す文章であり、「集団的自衛権の行使」は「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明しているのであり、「必要な自衛の措置にあたりません」と記載されているかのような理解は誤りである。さらに必要性だけで「自衛の措置」を行うことができるとする前提が存在するかのような主張となっているが、必要性だけで「自衛の措置」を行うことができると考えることは9条が法規範としての制約を有していることを無視するものであるため法解釈として成り立たないし、今までそれを前提に政策判断として「必要な自衛の措置に当たりません」と考えることで限界となる線を引いていたわけでもない。

 「集団的自衛権の行使にもいろいろあって、必要な自衛の措置に当たらないものもあれば、一部当たるものもあると言っている」との説明があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかない。「いろいろあって」などと、いろいろあるかのように説明しようとしている部分が誤りである。また、「必要な自衛の措置に当たらないものもあれば、一部当たるものもある」との部分についても、1972年(昭和47年)政府見解は「必要な自衛の措置」であるからといって「自衛の措置」が無制限に認められるわけではないからこそ「自衛の措置」の限界の規範を示しているのであり、この「自衛の措置」の限界の規範に抵触するのであれば、いくら「必要な自衛の措置」と考えて、それに当たろうが当たるまいが違憲となることには変わりないのである。論者は常々政府が「必要」と考えれば9条の規範性に抵触しないかのように考えている主張が見られるが、もともと「必要」と考えるだけで9条に抵触しないとすることができるわけではないため、誤った理解である。

 「武力の行使は、国際法上、集団的自衛権の行使に該当するもののうち、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られます。」との説明があるが、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」ということは、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を発動するものであるため、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の枠から外れ、9条に抵触して違憲となる。また、9条の下では「我が国を防衛するため」であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。「我が国を防衛するため」を理由とするだけで「武力の行使」が9条に抵触しないかのように説明している部分が誤りである。また、「限られます。」との部分についても、9条に抵触して違憲である「武力の行使」を何らかの形で限ったとしても、違憲である事実は変わらない。

 「基本的論理を維持した上で、それぞれの安全保障環境のもとでの当てはめの違いだけ」との説明があるが、誤りである。まず、「基本的な論理」と称している部分を「維持」しているのであれば、「我が国に対する武力攻撃」を満たすことが求められる。これを満たさない中で「武力の行使」を発動すれば、違憲となる。論者は「それぞれの安全保障環境のもとで」と説明するが、「基本的な論理」と称している部分は「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求めており、論者のように「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求めていないかのような前提認識を有し、「それぞれの安全保障環境」という状況認識や政策判断によって「武力の行使」の発動要件を「我が国に対する武力攻撃」を満たさないものに変える余地があるかのように説明している部分は誤りである。「当てはめの違いだけ」との説明についても、1972年(昭和47年)政府見解は「自衛の措置」の限界の規範に「武力の行使」を当てはめて「武力の行使」の限界の規範を導き出したものである。「自衛の措置」の限界の規範を示した段階で既に「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求めていることから、「武力の行使」を当てはめるとしてもこれを満たすものに限られることとなる。「我が国に対する武力攻撃」を満たさない「存立危機事態」の要件を「自衛の措置」の限界の規範の中に当てはめることができるかのように説明している部分が誤りである。

 「合理的な解釈の限界を超えるような便宜的、意図的憲法解釈の変更ではなく、違憲であるという批判は全く当たらない」との説明があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範である「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味が含まれる余地はない。そのため、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件が当てはまると主張することは「合理的な解釈の限界」を超えるものであり、手続き上の違法が存在する。また、「違憲であるという批判は全く当たらない」との説明であるが、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の示した枠に「存立危機事態」の要件が当てはまらないということは、9条に抵触することを意味し、これは憲法違反であるから、「違憲であるという批判」は全く当たることとなる。「全く当たらない」との認識は誤りである。

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北側一雄

北側委員 公明党の北側一雄でございます。
 我が国の防衛は、主として、自衛隊と日米安保条約に基づく米軍との二つの実力組織によって確保しようとしております。そもそも自衛隊や日米安保条約は憲法違反の疑いがあるという立場の方は別として、このこと自体を否定する人は少ないと思います。
 まずは、具体事例を通して意見を述べたいと思います。
 日米安保条約に基づき、日本防衛のため日本近海の公海上で警戒監視活動をする米艦船への武力攻撃があった場合、自衛隊はこれを排除できるのか。日本にはまだ武力攻撃がないという前提です。これまでも国会で何度も論議されていますが、これに対する対処がどこまでできるのか、必ずしも明らかではありません。
 以下の三つの立場が考えられます。
 第一に、個別的自衛権で対処できず、米艦船への武力攻撃を排除できないという立場です。
 しかし、この考え方で果たして日米防衛協力体制を維持できるのでしょうか。特に、弾道ミサイルや核の開発が進み、軍事技術も飛躍的に高度化するなど、我が国をめぐる安全保障環境が厳しさを増しています。この国と国民を守るためには、平和外交努力とともに、日米防衛協力体制の信頼性、実効性を強化し、抑止力を向上させて、紛争を未然に防止していくこと以外の現実的な選択肢はないと思います。そのためには、少なくともこの事例のような、日本防衛のために活動している米艦船への攻撃を排除できるとしておかないといけないと考えます。
 第二に、個別的自衛権で対処できるという立場です。
 例えば、我が国領海内で行動している米艦船に対する武力攻撃ならば、我が国に対する武力攻撃の着手と評価できるでしょうが、公海上で活動している米艦船への攻撃の場合、我が国に対する武力攻撃の着手と言えるのでしょうか。これは、一般的には疑問と言わざるを得ません。先日の小林参考人の意見は、ホルムズ海峡での機雷掃海の事例まで挙げて個別的自衛権で対処できると言われているようですが、武力攻撃の着手概念を余りに広く解釈されており、国際法上は到底認められない主張と言わざるを得ません。
 第三に、個別的自衛権での対処は困難な場合が多く、国際法上は、集団的自衛権を根拠として米艦船への攻撃を排除すべきとの立場です。
 この立場の最大の課題は、憲法九条との関係です。国連憲章五十一条に定めるフルサイズの集団的自衛権の行使を憲法九条が許容しているとは、とても考えられません。
 憲法九条のもとで自衛の措置はどこまで許されるのか、その限界はどこにあるのか、昨年七月一日の閣議決定に至るまで、与党協議での最大の論点はここにありました。憲法九条一項には、戦争の放棄がうたわれています。二項には、戦力を保持しないと規定しています。この九条のもとで自衛の措置はどこまで許されるのか。
 一九五四年に自衛隊が創設され、一九六〇年に日米安保条約が改定されました。先ほど高村副総裁から紹介があった砂川判決は、この時期の最高裁判決になります。一九五九年です。砂川判決では、憲法前文に記された平和的生存権を確認した上で、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」と述べています。憲法九条と自衛権の問題について触れた唯一の最高裁判決です。
 憲法九条のもとで許容される自衛の措置について、その後、最高裁で判断されることはありませんでした。また、日本の憲法学界でも、自衛隊や日米安保条約がそもそも違憲かどうかという議論はあっても、我が国の安全保障環境を踏まえつつ、憲法九条と自衛の措置の限界について突き詰めた議論がなされたということを、残念ながら私は知りません。
 憲法九条のもとで自衛の措置はどこまで許されるのか。この論議をどこでしてきたかといえば、安保法制が論議になるたびに、専らここ国会の場で、政府との間で論議が積み重ねられてきました。九条と自衛権という重いテーマについて、まさしく国会論議の中で政府見解が形成されてきたわけであります。
 数ある政府見解の中で最も論理的に、詳細に論じているのが、一九七二年の「集団的自衛権と憲法との関係」という内閣法制局の見解です。皆様のお手元にございます資料一でございます。その後の政府見解は、全てこれを踏襲していると言えます。
 この資料一の第三段落のところで、憲法九条、前文の平和的生存権、そして十三条の生命、自由及び幸福追求権に触れた上で、「わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」と、先ほどの砂川判決と全く同様のことを言っております。
 そして、「しかしながら、」という接続詞をあえて使った上で、「だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と見解を述べています。
 今私が引用した部分が、憲法九条のもとで許される自衛の措置についての法理、規範に当たるところで、まさしく政府見解の根幹、基本的な論理に当たるところだと私どもは考えています。
 憲法九条のもとでも自衛の措置が許される根拠やその目的は、憲法十三条にあります。十三条の生命、自由及び幸福追求の権利との文言の淵源はアメリカ独立宣言にありますが、日本国憲法の十四条から四十条に規定される基本的人権を包括的に規定したものです。要するに、国民の基本的人権が外国の武力攻撃によって根底から覆される急迫不正の事態には、その権利を守るために自衛の措置をとることが憲法上許されるということです。
 一九七二年見解では、法理、規範に当たる根幹部分の後に、「そうだとすれば、」と言った上で、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」と結論づけていますが、これは、先ほどの法理、規範を当てはめた部分です。
 現在の安全保障環境から見れば、いまだ我が国に対する武力攻撃に至っていない状況でも、他国に対する武力攻撃があり、これによって国民の基本的人権が根底から覆される急迫不正の事態があり得るとの認識を私どもは共有いたしました。こうした認識のもとで新三要件を提案し、昨年七月の閣議決定に盛り込まれ、今般の安全保障法制の法案にも明記をしているところでございます。
 資料二に、新三要件について添付をさせていただきました。赤字のところが新たに盛り込まれた部分でございます。この新三要件の意味についての答弁が資料三です。
 第一要件の、国民の権利が根底から覆される明白な危険があるとはということにつきまして、これは国会答弁で、「他国に対する武力攻撃が発生した場合において、そのままでは、すなわち、その状況のもと、国家としてのまさに究極の手段である武力を用いた対処をしなければ、国民に、我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況であるということをいう」このように答弁をしております。そしてまた、その判断の基準について、(2)のところで五つの要素を挙げているわけでございます。
 第二要件につきまして、国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとはということにつきましても、他国に対する武力攻撃の発生を契機とする武力の行使についても、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものではないということを明らかにしているものと考えております。」このような答弁がございます。自国防衛に限られる、他国防衛を目的とするものではないということを明確にしているわけでございます。
 第三要件の、必要最小限度の実力行使についても、「必要最小限度とは、我が国の存立を全うし、国民を守るためとあります第二要件を前提とした、我が国を防衛するための必要最小限度ということである」と答弁をしているところでございます。
 冒頭の事例で、日米安保条約に基づき、日本防衛のため日本近海の公海上で警戒監視活動をする米艦船への武力攻撃があった場合、自衛隊はこれを排除できるのかとの問いに対して、私どもは、この新三要件に該当する可能性が高いと考えております。
 以上から、先日の長谷部参考人の意見の中で、従来の政府見解基本的な論理の枠内では説明がつかないなどとの批判がありましたが、これは全く当たらないと言わざるを得ません
 先ほど述べましたように、新三要件は、従来の政府見解基本的な論理維持し、かつ、それを現在の安全保障環境に当てはめて導き出されたものです。
 また、新三要件の意味について不明確との批判がありましたが、新三要件のそれぞれの意味については、総理、内閣法制局長官が、この一年間、一貫してさきのような答弁を繰り返しており、不明確だとは考えておりません
 また、個別的自衛権の行使であれば意味が明確との意見もありましたが、個別的自衛権でも、我が国に対する武力攻撃の着手とは何かについて決して一義的に明らかというわけでなく、長く国会で議論のあることは御承知のとおりです。
 私たち国政に携わる者は、まず、現下の安全保障環境をどう認識するのか、その上で、国と国民を守るため、どのような安保法制を整備する必要があるのか、憲法との適合性をどう図るのか、こうした論議をしなければならないと考えます。
 今後の建設的な議論を期待して、私の意見といたします。
 以上です。 

【動画】2015 06 11 衆議院憲法審査会「自由討議」


【筆者】

 「国連憲章五十一条に定めるフルサイズの集団的自衛権の行使を憲法九条が許容しているとは、とても考えられません。」との説明があるが、論者のいう「フルサイズ」であろうがなかろうが、「集団的自衛権の行使」とは「我が国に対する武力攻撃」を満たさない中での「武力の行使」である。憲法9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない「武力の行使」をすべて違憲としており、「集団的自衛権の行使」であればこれを満たさないためすべて違憲となる。論者がいう「フルサイズ」の「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が認められないことは当然、そうでない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」も違憲である。論者のいう「フルサイズ」でない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の下で許容される余地があるかのように考えている部分が誤りである。

 「砂川判決では、憲法前文に記された平和的生存権を確認した上で、『わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。』と述べています。憲法九条と自衛権の問題について触れた唯一の最高裁判決です。」との説明があるが、砂川判決が日本国の統治権の『権限』が行う「自衛のための措置」について述べているところを引き出して、「憲法九条と自衛権の問題について触れた唯一の最高裁判決です。」と、国際法上の『権利』の概念である「自衛権」を述べているかのように取り扱っている部分は、「自衛のための措置」と「自衛権」の違いを理解していない誤りである。確かに砂川判決は9条との関係で「同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、」と述べている部分があるが、論者の抜き出している「自衛のための措置」について述べた部分とは異なるのである。

 その後、「憲法九条と自衛の措置の限界について突き詰めた議論がなされたということを、」や「憲法九条のもとで自衛の措置はどこまで許されるのか。」、「九条と自衛権という重いテーマ」と述べられているが、「自衛の措置(自衛のための措置)」と「自衛権」の違いを区別しているのかはっきりしない説明が続いている。ただ、政府は「自衛の措置の限界」を1972年(昭和47年)政府見解において述べていることは押さえる必要がある。

 「一九七二年見解では、法理、規範に当たる根幹部分の後に、『そうだとすれば、』と言っ

た上で、『他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない』と結論づけていますが、これは、先ほどの法理、規範を当てはめた部分です。」との説明があるが、正確ではない。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界を示しており、その後「そうだとすれば、」の後に続く部分は、「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を選択した場合の「武力の行使」の限界となる規範である。この「武力の行使」の限界の規範は、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としている部分であり、論者の抜き出している「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」との部分は、国際法上の評価としての「集団的自衛権の行使」が「武力の行使」を伴う措置であることから、憲法上の「武力の行使」の限界の規範が示されたことによって付随的に導き出される結論に過ぎないものである。憲法解釈としての日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の限界を示した結論は、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としている部分なのである。論者は「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」の部分を「先ほどの法理、規範を当てはめた部分」と説明しているが、正確な理解ではない。

 「第一要件の、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」との部分であるが、曖昧不明確な内容であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなることが考えられ、31条の「適正手続きの保障」の趣旨や、41条の立法権の趣旨からも違憲となると考えられる。また、論者は国会答弁の「その状況のもと、国家としてのまさに究極の手段である武力を用いた対処をしなければ、国民に、我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況である」との説明を用いているが、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験しており、9条はそのような「武力の行使」を制約するために設けられた規定であることから、自国の状態を認定することだけで「武力の行使」を発動できるとする基準を設けることは、9条の趣旨を満たさない。そのため、実際に外国が我が国に対して「武力攻撃」を行ったわけでもないにもかかわらず、「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況である」ことを理由としてその外国に対して「武力の行使」を行うことは、9条の趣旨を満たさずに違憲となる。論者は外国が「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」を行っていることに起因していることを理由として正当化できると主張する可能性があるが、「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、未だ9条の規範性を通過しているわけではなく、その9条の規範性を通過していない段階で「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況である」ことを理由として「武力の行使」を発動できる余地は生まれていないのであり、その中での「武力の行使」が違憲であることは変わらない。また、「他国に対する武力攻撃」に起因する「武力の行使」であるということは、『他国防衛』の意図を有する「武力の行使」であり、このような「武力の行使」を実施する組織の実態は9条2項で禁じる「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。もし「他国に対する武力攻撃」に起因する「武力の行使」であるにもかかわらず、『他国防衛』の意図が存在しないのであれば、それは自国都合によって「先に攻撃(先制攻撃)」を行ったものであり、当然違憲である。さらに、「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、それは他国間で紛争が起きただけであり、ここに我が国が「武力の行使」を用いて介入するのであれば、9条1項で禁じられた「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に抵触して違憲となる。これらの論点とは別に、そもそも政府は9条解釈において1972年(昭和47年)政府見解を用いており、この「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在しており、これは「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中において用いられた文言であることから、ここに「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれず、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲である。論者が「存立危機事態」の要件の「国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」部分の意味を説明しようとも、「存立危機事態」の要件が「我が国に対する武力攻撃」を満たさない以上、その中での「武力の行使」が違憲であることは変わらない。

 「他国に対する武力攻撃の発生を契機とする武力の行使」との説明であるが、「他国に対する武力攻撃の発生を契機」としているのであれば、『他国防衛』の意図を有する「武力の行使」であり、それを実施する組織の実態は9条2項の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。もし『他国防衛』の意図がないとするのであれば、「先に攻撃(先制攻撃)」であり、9条1項の禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」や2項後段の禁じる「交戦権」に抵触して違憲である。「他国に対する武力攻撃」が発生しても、未だ9条の規範性を通過していないのであるから、そこでの「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。

 「我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものではない」との説明があるが、誤った認識である。まず、9条の下では「我が国を防衛するため」であるからといって、必ずしも「武力の行使」が許されるわけではない。なぜならば、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験しており、このような「武力の行使」を制約するために9条の規定が設けられているからである。9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないのであれば「我が国を防衛するため」を理由としても正当化することはできず、違憲である。論者は「我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ」るのであれば9条に抵触しないかのような認識を有しているようであるが、9条に抵触しない旨を説明してはおらず、誤りである。「当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものではない」との説明についてであるが、新三要件の第一要件の「存立危機事態」は「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が存在しており、第二要件にてこれを「排除する」ことが示されているのであるから、そこで行われる「武力の行使」は「他国に対する武力攻撃の排除それ自体」に該当するため、これを否定する論者の認識は誤りである。もし「他国に対する武力攻撃の排除」を行っているにもかかわらず、「それ自体を目的とするものではない」として「目的」が違えば9条に抵触しないかのように考えているのであれば、同様に「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」をしているが、「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」を「目的」とするものではないと主張するだけで9条に抵触しないかのように説明することが可能となってしまうのであり、法解釈として成り立たない。論者の認識は誤りである。

 「自国防衛に限られる、他国防衛を目的とするものではないということを明確にしている」との説明があるが、9条の下では『他国防衛』を目的とする「武力の行使」が認められないことは当然、『自国防衛』を目的とする「武力の行使」であるからといって必ずしも許容されるとは限らない。それにもかかわらず「自国防衛に限られる」「ことを明確にしている」ならば、9条に抵触しないかのような前提認識で説明している部分が誤りである。

 「必要最小限度とは、我が国の存立を全うし、国民を守るためとあります第二要件を前提とした、我が国を防衛するための必要最小限度ということである」との説明があるが、第一要件の「存立危機事態」を「排除(第二要件)」するための「必要最小限度(第三要件)」であるから、「存立危機事態」の要件が違憲であることにより、これを「排除(第二要件)」するための「必要最小限度(第三要件)」の「武力の行使」についても、違憲であることには変わりない。論者が「我が国を防衛するための必要最小限度」と表現している部分について、従来より政府が「我が国を防衛するため必要最小限度」と呼んでいたものは「自衛のための必要最小限度」と同じ意味であり、三要件(旧)のことである。この意味からすると、論者は新三要件を定めた後においても、「我が国を防衛するための必要最小限度ということである」と、旧三要件ということであると説明していることになる。論者の主張は論理的整合性が取れていない。

 「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかないなどとの批判がありましたが、これは全く当たらないと言わざるを得ません。」との説明があるが、「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が当てはまると主張していることを「基本的な論理の枠内では説明がつかない」と批判することは論理的整合性の観点から適切妥当であり、これを「全く当たらないと言わざるを得ません。」と否定する論者の認識は、文面上の言葉の意味を意図的に無視するものであり誤りである。

 「新三要件は、従来の政府見解の基本的な論理を維持し、かつ、それを現在の安全保障環境に当てはめて導き出されたものです。」との説明があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば、新三要件の「存立危機事態」の要件はここから導き出すことができない。また、1972年(昭和47年)政府見解は「自衛の措置」の限界の規範に「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を当てはめたものであり、「現在の安全保障環境」を当てはめるという性質を有していない。そのため、「現在の安全保障環境」を当てはめるとする主張は誤りである。また、「自衛の措置」の限界の規範を示した段階で既に「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、これが限られていないかのような認識を有した上で「武力の行使」の限界の規範を示す段階で今まで「安全保障環境」という状況認識や政策判断によって「我が国に対する武力攻撃」に限っていたかのような前提認識は誤りであり、その認識によって「導き出されたもの」としている部分も誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「武力の行使」の限界の規範は、そのような認識によって「導き出されたもの」ではない。単に、「自衛の措置」の限界の規範に制約される形で「武力の行使」の限界の規範が導き出されているだけである。

 「新三要件のそれぞれの意味については、総理、内閣法制局長官が、この一年間、一貫してさきのような答弁を繰り返しており、不明確だとは考えておりません。」との説明があるが、妥当でない。「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分は、曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがない。そのため、政府がこれに「該当する」と言えば該当し、「該当しない」と言えば該当しないこととなるのであり、その適否を判定する基準を持たないことから、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずる恐れがある。このような要件は31条の「適正手続きの保障」の趣旨や41条の立法権の趣旨より違憲となると考えられる。また、このような「武力の行使」の発動要件を曖昧不明確な基準とすることは、9条が政府の自国都合による「武力の行使」を制約しようとする趣旨を満たさないため、9条の規範性を損なうこととなり、9条に抵触して違憲となる。さらに、そもそも1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「我が国に対する武力攻撃」が発生したことを満たすことを求めており、これを満たさない「存立危機事態」の要件に基づいて「武力の行使」を発動することは、「基本的な論理」と称している部分を逸脱するため、9条に抵触して違憲となる。

 「個別的自衛権でも、我が国に対する武力攻撃の着手とは何かについて決して一義的に明らかというわけでなく、」との説明があるが、誤った理解である。9条は政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定であり、「武力の行使」の発動要件を定めるにあたっては、政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを可能とするような要件を定めることはできない。「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分は、自国の状態を認定することで「武力の行使」を発動できるとするものであり、敢えて自国を他国の紛争の影響を受けやすい脆弱性のある状態に置くことでこれに該当させることが可能である。このような要件は、9条が政府の恣意性を排除しようとする趣旨を満たさないため、9条に抵触して違憲である。それに比べて「個別的自衛権」の行使としての「我が国に対する武力攻撃」の『着手』に基準を置くことは、外国の行った我が国に対する行為が基準となっており、受動性が認められ、我が国政府の恣意性が入り込む余地はない。そのため、政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範として合理性を認めることができると考えられる。「着手とは何かについて決して一義的に明らか」でないとしても、これは証拠による客観性や事後的な検証可能性が必要となり、誰が見ても「我が国に対する武力攻撃」に当てはまるとする理由を示すことが求められる。しかし、「存立危機事態」の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」については、外国の我が国に対する具体的な行為を基準としたものではなく、我が国の事情を抽象的に判断するものであり、客観性や事後的な検証可能性を認めることができないし、政府が自国を敢えて脆弱性のある状態に置くことで要件に該当させることが可能となる自動性が含まれている。このような要件に従って「武力の行使」を発動できるとするのであれば、9条が自国都合の「武力の行使」を制約しようとした趣旨を満たさないため、9条に抵触して違憲となる。

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古屋圭司

古屋(圭)委員 自民党の古屋圭司でございます。
(略)
 また、北朝鮮による核開発と日本を射程にしたミサイル配備も大きな脅威であります。
 このように安全保障環境の大きな変化に切れ目なく対応するために、極めて厳しい新三条件のもと、集団的自衛権の行使を現行憲法上の枠内で限定的に必要最低限の範囲で認めようというのが、現在審議中の平和安全法制です。政府は、日本国民の安全と生命を守り抜く責務があります。あくまでもその責務を遂行するための法制であります。
 過日の憲法審査会で、出席した三名の参考人が、集団的自衛権の行使は憲法違反であると述べています。長谷部参考人は、従来の政府見解基本的な論理の枠内では説明がつきませんと述べています。しかし、憲法の条文の枠内で政府見解が変更されたことは、これまでも幾つかの例があります。すなわち、憲法の条文の枠内であれば憲法違反に当たらないという考えもあると思います。
 そこで、国際法と憲法に照らして、我が国の集団的自衛権行使は許されないのか、また九条は集団的自衛権の行使を禁止しているかについて述べます。
 国連憲章及びサンフランシスコ講和条約は、我が国に対して無条件で集団的自衛権を認めています。
 他方、九条は、集団的自衛権について保持も行使も禁止していません。すなわち、主権国家に認められた固有の権利である集団的自衛権を我が国が保持し行使し得るというのが自然です。行使に当たって何らかの制限は、九条二項の戦力の不保持や交戦権の否認に伴うものであります
 もちろん、集団的自衛権と個別的自衛権の関係はさまざまな解釈があります。国内法の正当防衛権と比較すれば、両者は不即不離の関係にあり、切り離して考えること自体が不自然ではないでしょうか

(略)

 憲法九条については、高村委員が指摘の、最高裁の判決が存在をしています。この砂川事件は、九条は主権国家として持つ固有の自衛権は何ら否定していない、我が国が存立を全うするために必要な措置をとることは国家固有の権能の行使として当然としています。
 判決は、自衛権としか述べられておらず、集団的自衛権については言及していないと指摘する人もいます。しかし、問題とされたのは、米駐留軍と旧安保条約の合憲性なので、集団的自衛権を射程に入れての判断であって、判決の言う自衛権の中には、集団的、個別的問わず、さきにも述べたように、不即不離、不可分一体のものと考えれば、一括して自衛権と呼んでも不自然ではないと考えます
 同判決が集団的自衛権の名称を用いていないことを根拠に集団的自衛権について言及したものではないということであれば、個別的自衛権も言及をしていないので、一体この判決の自衛権は何なのかという奇妙なことになってしまうのではないでしょうか
 以上、私の意見陳述といたします。 

【動画】2015 06 11 衆議院憲法審査会「自由討議」


【筆者】

 「極めて厳しい新三条件のもと、」との声明があるが、論者が「極めて厳しい」と評価したところで、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさない「新三要件」の「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は違憲であることは変わらない。

 「集団的自衛権の行使を現行憲法上の枠内で限定的に必要最低限の範囲で認めよう」との説明があるが、「現行憲法上の枠内」であるか否かを決する基準として9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を設定しており、これを満たさない「武力の行使」については「現行憲法上の枠内」とは言えない。「存立危機事態」の要件はこれを満たさないため「現行憲法上の枠内」とは言えず、9条に抵触して違憲となる。たとえ「限定的」と称ししても違憲であるし、その違憲な「武力の行使」の発動要件に従った「武力の行使」の程度・態様が「必要最低限」であろうと、違憲であることは変わらない。「認めよう」との主張があるが、違憲となるため、「現行憲法上の枠内」では認められないものである。

 「憲法の条文の枠内であれば憲法違反に当たらないという考えもある」との説明があるが、確かに「憲法の条文の枠内」であれば「憲法違反に当たらない」ことは当然である。しかし、今回の「存立危機事態」での「武力の行使」については、9条という「憲法の条文の枠内」であるか否かを決する基準である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の規範から外れており、これにより9条に抵触し、「憲法の条文の枠内」とは言えず、違憲となるのである。

 「他方、九条は、集団的自衛権について保持も行使も禁止していません。すなわち、主権国家に認められた固有の権利である集団的自衛権を我が国が保持し行使し得るというのが自然です。行使に当たって何らかの制限は、九条二項の戦力の不保持や交戦権の否認に伴うものであります。」との説明があるが、誤りがある。まず、9条が国連憲章51条に示された『権利』である「集団的自衛権」について何も述べておらず、「禁止」をしたものではないことは確かである。しかし、「集団的自衛権」とは国連憲章51条の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の概念であり、この『権利』を行使することは「武力の行使」が行われている状態を指すこととなる。しかし、9条は国連憲章51条の「集団的自衛権」という『権利』そのものを制約したものではなく、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しているのである。そのため、国際法上は他国と同様に国連憲章51条の適用を受ける地位を有しているという意味では「主権国家に認められた固有の権利である集団的自衛権を我が国が保持し行使し得る」ことはその通りであるが、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する結果として「集団的自衛権の行使」を行うことができない(行う機会がない)のである。論者は国際法上の『権利』を有したならば、日本国の統治権に『権力・権限・権能』が発生すると考えている点で誤りである。「行使に当たって何らかの制限」として論者は9条2項の「戦力不保持」や「交戦権否認」を挙げているが、9条は「集団的自衛権」という『権利』を制限しているものではなく、日本国の統治権の『権限』による「戦争」や「武力による威嚇又は武力の行使」、「戦力」、「交戦権」を制限するものである。国際法上の『権利』の話と、日本国の統治権の『権限』の話を切り分ける必要がある。

 「集団的自衛権と個別的自衛権の関係はさまざまな解釈があります。国内法の正当防衛権と比較すれば、両者は不即不離の関係にあり、切り離して考えること自体が不自然ではないでしょうか。」との説明があるが、「切り離して考えること」をしないことは国際法上の解釈として妥当でない。まず、国際法上の解釈として「個別的自衛権」の要件と「集団的自衛権」の要件は異なる。また、「集団的自衛権」の適用を受けるためには『他国からの要請』が必要であり、これを得ないで行った「武力の行使」は違法となる。このことから、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」は明確に区別される概念とされている。「両者は不即不離」との考え方は、国際法上の解釈とは異なり、論者が勝手にそう主張しているだけである。

 「集団的自衛権を射程に入れての判断であって、判決の言う自衛権の中には、集団的、個別的問わず、さきにも述べたように、不即不離、不可分一体のものと考えれば、一括して自衛権と呼んでも不自然ではないと考えます。」との説明があるが、誤った理解がある。まず、砂川判決が「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」と述べている部分は、9条が国際法上の『権利』を否定したものでないことを示しているだけである。砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」ができるか否かについては何も述べておらず、「自衛権」の意味に「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の両方の意味が含まれていると考えたとしても、「自衛権の行使」として「武力の行使」ができるか否かとは直接的には関係しないものである。国際法上「自衛権」という『権利』が日本国に認められているならば、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能であるかのような前提認識で論じている部分が誤りである。

 「同判決が集団的自衛権の名称を用いていないことを根拠に集団的自衛権について言及したものではないということであれば、個別的自衛権も言及をしていないので、一体この判決の自衛権は何なのかという奇妙なことになってしまうのではないでしょうか。」との記載があるが、前提認識が誤っている。まず、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べておらず、砂川判決から国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を行使する場合における「武力の行使」が可能か否かを読み取ることはできない。「一体この判決の自衛権は何なのかという奇妙なことになってしまう」との説明であるが、「自衛権」とは国際法上の『権利』である。論者は「自衛権」という『権利』と、統治権の『権限』による「武力の行使」の違いを理解する必要がある。

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平沢勝栄

平沢委員 自民党の平沢勝栄でございます。
 先週のこの憲法審査会に三人の先生方が来られまして、現在審議中の安保法制につきまして、集団的自衛権行使の一部容認は、従来の政府見解基本的な論理の枠内では説明がつかず、違憲としたわけでございます。
 従来の政府解釈基本的論理というのは、次のとおりでございます。
 まず第一に、憲法第九条は、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を定めた憲法十三条とあわせまして整合的に解釈しますと、自国の平和及び安全を維持しその存立を全うするための必要な自衛の措置は禁止されていないということでございます。
 第二に、自衛権発動としての武力行使も無制限のものではなく、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される急迫不正の事態に限って、必要最小限の範囲内で認められるとしていることでございます。
 昭和四十七年に、政府は、集団的自衛権と憲法との関係に関する政府見解を出しましたが、その中で、当時の安全保障環境をこの基本的論理に当てはめ、その結果、いわゆる集団的自衛権、つまり他国防衛のための集団的自衛権行使は認められないとしてきましたこの当時は、急迫不正の侵害に該当するのは、我が国が直接武力攻撃を受けた場合しか考えられなかったからであります。
 しかし、日本を取り巻く国際情勢は、この四十年間の間に大きく変わりました。今回は、この間の安全保障環境の変化を踏まえまして、現在の安全保障環境を基本的論理に当てはめてみた結果他国に対する武力攻撃であったとしても、我が国の国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される急迫不正の事態に該当する場合があり得るとの結論に至ったわけでございます。
 以上、見ましたように、今回の憲法解釈の変更は、昭和四十七年見解基本的な論理一切変えていませんので、従来の憲法解釈基本的な論理との整合性は保たれており、法的安定性を損なうものでは全くないと考えております。
 三人の参考人の先生方が安保法案を違憲としたことにつきまして、私たちは、参考意見として謙虚に傾聴する必要があると思います。しかし、同時に、今回提出された安保法制につきましては、合憲と考えておられる学者が大勢おられることも事実です。
 いないと言われる方もおられますので、名前を言わせていただきますと、例えば、日本大学の百地章先生、駒沢大学の西修先生、日本大学の小林宏晨先生、中央大学の長尾一紘先生、日本大学の青山武憲先生、防衛大学の松浦一夫先生、近畿大学の石田栄仁郎先生、麗澤大学の八木秀次先生、日本大学の池田実先生、東裕先生などなどでございます。これらはいずれも、名前を出すことについて御了解をいただいた先生方でございますけれども、そのほかにも、合憲と思いますけれども名前を出すことは差し控えさせてほしいと言われる方も大勢おられました。これは、憲法学界の独特の空気を反映しているのではないかと思いました。
 いずれにしましても、私たちは憲法学者の意見に耳を傾けなければなりませんが、先ほど来出ていますように、最終判断は、学者ではなく、最高裁が行うわけでございます。
(略)
 憲法があって国があるわけでなく、国があって憲法があるわけでございます。私たちは、憲法栄えて国滅ぶの愚を犯してはなりません。憲法を取り巻く社会情勢は大きく変わっています。憲法の基本的原理は維持しつつも、その範囲内で解釈を柔軟に変更していくことは当然のことと考えます。
(略)

【動画】2015 06 11 衆議院憲法審査会「自由討議」


【筆者】

 「第二に、自衛権発動としての武力行使も無制限のものではなく、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される急迫不正の事態に限って、必要最小限の範囲内で認められるとしている」との説明があるが、正確ではない。1972年(昭和47年)政府見解は「自衛の措置」の限界の規範として「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と記載されているが、ここでは「武力の行使」については触れていない。ただ、「自衛の措置」の限界によって「武力の行使」の限界も決せられていることから、「武力の行使」の限界の規範についてもこれを引き継ぐこととなることは確かである。

 「当時の安全保障環境をこの基本的論理に当てはめ、その結果、いわゆる集団的自衛権、つまり他国防衛のための集団的自衛権行使は認められないとしてきました。」との説明かがあるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中に使われた文言であることから「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」が含まれることはなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られる。そのため、「自衛の措置」の限界の規範の中に「武力の行使」を当てはめるとしても、「我が国に対する武力攻撃」を満たすことが求められる。この「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範の間には文面上の論理展開しか存在しておらず、「当時の安全保障環境」という状況認識や政策判断が入り込む余地はない。そのため、「当時の安全保障環境をこの基本的論理に当てはめ」と考えている部分は誤りである。また、「基本的な論理」と称している部分に「武力の行使」を当てはめた結果とは、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」であり、「集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」とされているのはその付随的な結論である。「基本的な論理」と称している部分が直接的に「集団的自衛権」という『権利』を制約しているわけではないことを押さえる必要がある。論者が「他国防衛のための集団的自衛権行使は認められない」と表現していることについて、「集団的自衛権」の違法性阻却事由の『権利』を得るためには、『他国からの要請』が必要であることから、「集団的自衛権の行使」は必然的に『他国防衛』の意図を有するものである。論者が「集団的自衛権」が全て「他国防衛のため」の性質を有することを前提として説明しているのであれば正しい。しかし、あたかも「他国防衛のための集団的自衛権」とそうでないものが存在し、「他国防衛のための集団的自衛権の行使」のみを「認められない」と説明し、そうでないものは認められるかのように考えているのであれば、もともと「集団的自衛権」の概念の中にはそうでないものは存在し得ないため、誤りである。

 「この当時は、急迫不正の侵害に該当するのは、我が国が直接武力攻撃を受けた場合しか考えられなかったからであります。」との説明があるが、前提が誤っている。まず、「自衛の措置」の限界を示した規範には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、この「自衛の措置」の限界の規範の中に「武力の行使」を当てはめるとしても、この「我が国に対する武力攻撃」を満たす規範しか導かれない。このことは、文面上の論理展開によって導き出されるものであるから、状況認識や政策判断が入り込む余地はなく、「当時」もこれまでも現在も将来も変わらないものである。そのため、「自衛の措置」の限界の規範部分は「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求めていないことを前提として、「この当時は、」「考えられなかったから」などと状況認識や政策判断が入り込む余地が存在するところに政策判断として「武力の行使」の限界の規範を定めていたかのような認識に基づいて説明している点が誤りである。

 「現在の安全保障環境を基本的論理に当てはめてみた結果、」との説明があるが、1972年(昭和47年)政府見解は「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範の中に「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を当てはめるものであり、「現在の安全保障環境」という状況認識や政策判断を当てはめるという性質を有していない。そのため、「現在の安全保障環境」を「当てはめてみた結果」と主張することはそもそも文面の論理展開を正確に読み解くことができておらず、誤りである。

 「結論に至った」との説明があるが、「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、これを満たさない「存立危機事態」の要件を導き出せるという「結論」には至らない。「結論に至った」との認識は誤りである。

 「昭和四十七年見解の基本的な論理は一切変えていません」との説明があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を一切変えていないのであれば、「存立危機事態」の要件はここに当てはまらないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。

 「従来の憲法解釈の基本的な論理との整合性は保たれており、法的安定性を損なうものでは全くない」との説明があるが、「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれると主張することは論理的に不可能である。そのため、「基本的な論理との整合性」は保たれておらず「保たれており、」と説明することは誤りである。また、論理的整合性が保たれていないことから、「法的安定性」も損なわれており、「法的安定性を損なうものでは全くない」との説明も誤りである。

 「憲法があって国があるわけでなく、国があって憲法がある」との説明があるが、誤りである。まず、「憲法」がなければ、「国家」は成立していない。そのため、「憲法があって国がある」という説明が正しいものである。「国があって憲法がある」のであれば、そもそも「国」が成立している時点でそこには「憲法」が存在していることとなり、「憲法」によって成立した「国」があって、そこに「憲法がある」と重ねて説明していることになり、意味が通じないのである。「憲法」がなければ、そこは「一定の地域」でしかなく、「国」は存在しないことを理解する必要がある。

 「憲法栄えて国滅ぶの愚を犯してはなりません。」との説明があるが、下記が参考になる。

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憲法が定める、この枠組と道筋が満足できないのであれば憲法を改正するのが正当であり、改正の余地が認められている以上、日本国憲法は「不磨の大典」ではないし、憲法が国家を危うくする、といった議論は憲法の初歩を知らない。
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山口大学経済学部教授・立山紘毅氏  憲法学者アンケート調査


 「憲法の基本的原理は維持しつつも、その範囲内で解釈を柔軟に変更していくことは当然のこと」との説明があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば、「存立危機事態」の要件はここに当てはまらないため定めることはできない。「基本的な論理」と称している部分の「範囲内で解釈を柔軟に変更していくこと」は可能であるとしても、「存立危機事態」の要件は「範囲内」とは言えないため、これを可能とする解釈に変更することは不可能である。

 合憲と論じようとする学者の名前を挙げているが、下記の赤字で示した者については、当サイトでも既に論拠の不備を示している。
日本大学 百地章
駒沢大学 西修
日本大学 小林宏晨
中央大学 長尾一紘
・日本大学 青山武憲
防衛大学 松浦一夫
・近畿大学 石田栄仁郎
・麗澤大学 八木秀次 (← 自衛隊明記について当サイトでも論拠の不備を示している。)
・日本大学 池田実
日本大学 東裕

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國重徹

國重委員 公明党の國重徹でございます。
 まず、冒頭申し上げたいのは、昨年七月一日の閣議決定によっても、他国の防衛それ自体を目的とするいわゆる集団的自衛権の行使は認められない武力の行使が認められているのは、あくまで自国防衛、自国民防衛に限られているということでございます。
 その上で、先ほど北側幹事、平沢幹事からもありましたが、昨年の閣議決定で示された新三要件は、一九七二年、昭和四十七年の政府見解基本的論理維持したものであること、このことを私からも再度強調したいと思います。
 昭和四十七年の政府見解基本的論理の根幹部分は何かといいますと、それは、第三段落の第二文で示されている、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される急迫不正の事態に限って自衛の措置が認められるということでございます。
 この基本的論理を変えるというのであれば、それは憲法を改正する以外にありません。昭和四十七年見解では、この基本的論理を「そうだとすれば、」という接続詞で受けて、当てはめによる結論を示しております。
 具体的には、武力の行使が許されるのは、我が国に対する武力攻撃があった場合、つまり個別的自衛権に限られるとし、いわゆる集団的自衛権の行使は認められないとしております。これは、当時の日本を取り巻く安全保障環境に先ほどの基本的論理を当てはめた結論でございます。
 ただ、昭和四十七年から四十年以上がたち、我が国を取り巻く安全保障環境が大きく変化し、厳しさを増している。そういった中で、憲法解釈の基本的論理維持しながら、国民を守るための自衛の措置はどこまで認められるのか、その限界はどこにあるのか、このことを突き詰めて検討した結果が、昨年七月の閣議決定の新三要件です。
 そして、この新三要件においても、他国の防衛それ自体を目的とするいわゆる集団的自衛権、丸ごとの集団的自衛権の行使は認められておりません
 新三要件のもと自衛の措置が許されるのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合、または我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合のみ、要は、自国防衛、自国民防衛に限られるということでございます。
 このように、昭和四十七年基本的論理である根幹部分をしっかりと維持した上で新三要件を定めておりますので、これは従来の憲法解釈の基本的論理枠内であることは明らかであると考えます。
 なお、昭和四十七年政府見解の第三段落第三文の、武力の行使が許されるのは個別的自衛権に限られ、いわゆる集団的自衛権の行使は認められないという部分が当てはめであって、基本的論理でないということは、「そうだとすれば、」という接続詞が使われているということのほか、文言の違いによっても裏づけられると考えます。すなわち、立法する上での大原則、近代法の大原則として、国民の予測可能性を担保するために、同じ事柄は必ず同じ文言で表現しなければならない、違う文言を使うということはその意味内容が異なるという原則がございます。これは、政府見解を示す場合においても同様と考えられます。
 昭和四十七年政府見解を見ますと、基本的論理とされる第三段落第二文の「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」と、「そうだとすれば、」の接続詞で続く当てはめ部分とされる第三文の「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」を見ると、急迫、不正の事態」と「急迫、不正の侵害」で異なる文言が用いられている。このようにあえて異なる文言を用いているということは、第二文と第三文の間に、基本的論理と当てはめの分水嶺があると捉えるのが合理的でございます
 しかも、事態という文言は侵害を包含する概念であると考えますので、この第三段落第二文の基本的論理で示す「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」というのは、第三文の当てはめで言う「わが国に対する急迫、不正の侵害」、すなわち個別的自衛権の場面以外のものを含んでいると考えます。そう解釈することが、第二文の外国の武力攻撃によつて」の後に、我が国に対するという文言を入れずに、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」としたこととも合致します。
 以上のように、昭和四十七年見解の第三段落の第二文までが基本的論理であって、末尾の第三文は当てはめです。そして、この昭和四十七年政府見解基本的論理は、昨年の閣議決定の新三要件にしっかりと維持されている、従来の憲法解釈との論理的整合性はある、このことを再度強調して、私の発言とさせていただきます。

【動画】2015 06 11 衆議院憲法審査会「自由討議」


【筆者】

 「他国の防衛それ自体を目的とするいわゆる集団的自衛権の行使は認められない、武力の行使が認められているのは、あくまで自国防衛、自国民防衛に限られている」との説明があるが、誤った認識がある。まず、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念であり、これを得るためには『他国からの要請』が必要となる。この『他国からの要請』によって初めて「集団的自衛権」の適用を受けて違法性が阻却されるにもかかわらず、その『他国からの要請』を受けて実施する「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が「他国防衛それ自体を目的とする」ものではないものが存在しているかのように考えている部分が誤りである。「集団的自衛権」に該当すれば、必然的に「他国の防衛それ自体を目的とする」ものに該当するのである。もし論者が「他国の防衛それ自体を目的とするいわゆる集団的自衛権」とそうでないものが存在するかのように考えているのであれば、国際法上はそのような区分は存在しないため、誤りである。また、これとは別に、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす場合にしか許容されておらず、これを満たさない「武力の行使」はすべて違憲である。「集団的自衛権の行使」の場合、これを満たさない「武力の行使」となることから、すべて違憲となる。「武力の行使が認められているのは、あくまで自国防衛、自国民防衛に限られている」との説明があるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規定であり、「自国防衛、自国民防衛」であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。そのため、「あくまで自国防衛、自国民防衛に限られている」と述べたところで、9条の下で許される「武力の行使」であることを示したことにはならない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。これを満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」であるにもかかわらず、「武力の行使が認められているのは、」と、認められるかのように説明している部分が誤りである。

 「一九七二年、昭和四十七年の政府見解の基本的論理を維持したものである」との説明があるが、「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば、ここに「存立危機事態」の要件は当てはまらないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲である。

 「これは、当時の日本を取り巻く安全保障環境に先ほどの基本的論理を当てはめた結論でございます。」との説明があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解は「自衛の措置」の限界の規範に「武力の行使」を当てはめることで、結論として「武力の行使」の限界の規範を導き出したものである。この「自衛の措置」の限界の規範は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、「武力の行使」の限界の規範を導き出す際にも同様に「我が国に対する武力攻撃」が求められこととなる。これは文面上の論理展開であるから、状況認識や政策判断が入り込む余地はない。論者は「自衛の措置」の限界の規範は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られておらず、「武力の行使」の限界の規範を定める段階で「当時の日本を取り巻く安全保障環境」という状況認識や政策判断が行われた結果として「我が国に対する武力攻撃」の意味に限ったかのような理解をしているようであるが、文面上の論理的整合性や論理展開を丁寧に読み取ればそのような理解が入り込む余地はないし、根拠のない話を法の枠外から持ち込もうとしている点で誤りである。

 「憲法解釈の基本的論理を維持しながら、国民を守るための自衛の措置はどこまで認められるのか、その限界はどこにあるのか、このことを突き詰めて検討した結果が、昨年七月の閣議決定の新三要件です。」との説明があるが、誤りである。「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば、「存立危機事態」の要件はここに当てはまらない。「その限界はどこにあるのか」であるが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に「自衛の措置」の限界と「武力の行使」の限界は示されている。この限界の枠内に「新三要件」の「存立危機事態」の要件は含まれないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲である。そのため、9条の下で許される「武力の行使」の限界が「新三要件」であるかのように説明している点が誤りである。

 「新三要件においても、他国の防衛それ自体を目的とするいわゆる集団的自衛権、丸ごとの集団的自衛権の行使は認められておりません。」との説明があるが、誤りである。国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「他国の防衛それ自体を目的とする」「集団的自衛権」と、そうでない「集団的自衛権」が別に存在しているかのような認識は誤りである。また、「集団的自衛権」の適用を受けるためには『他国からの要請』が必要であり、これに基づいて「武力の行使」を実施するにもかかわらず、「他国の防衛それ自体を目的とする」ものでないと主張することはできない。さらに、9条の下では「他国の防衛それ自体を目的とする」「武力の行使」が認められないことは当然であるが、『自国防衛』を目的とする「武力の行使」であっても必ずしも許容されるわけではない。そのため、「他国の防衛それ自体を目的とする」「武力の行使」が否定されたとしても、そうでない「武力の行使」が9条に抵触しないと説明したことにはならない。

 「新三要件のもと自衛の措置が許されるのは、」との説明があるが、「新三要件」の「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の中に含まれないため違憲であり、これに基づく「武力の行使」は許されない。許されるかのように説明している部分が誤りである。

 「自国防衛、自国民防衛に限られるということでございます。」との説明があるが、9条の下では「自国防衛、自国民防衛」のためであるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。そのため、「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触しない旨を説明したことにはならない。

 「昭和四十七年の基本的論理である根幹部分をしっかりと維持した上で新三要件を定めております」との説明があるが、「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば、ここに「存立危機事態」の要件は当てはまらないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。「新三要件」の「存立危機事態」は、違憲となるため定めることができない。「定めております」と定めることができるかのように説明している部分が誤りである。

 「従来の憲法解釈の基本的論理の枠内であることは明らかである」との説明があるが、「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中で用いられた文言であることから「集団的自衛権の行使」を可能とする「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれると主張することは論理的整合性が保たれないため不可能であり、「基本的論理の枠内である」とは言えない。もし論者のように論理的整合性が保たれていないにもかかわらず、「基本的論理の枠内である」と主張することができるのであれば、「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」であっても、「基本的論理の枠内である」と説明することで9条に抵触しないと説明することができてしまうのであり、法解釈として成り立たない。「明らかである」についても、論理的整合性を検討すれば、全く「明らか」ではない。

 「『急迫、不正の事態』と『急迫、不正の侵害』で異なる文言が用いられている。このようにあえて異なる文言を用いているということは、第二文と第三文の間に、基本的論理と当てはめの分水嶺があると捉えるのが合理的でございます。」との説明があるが、誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する文章であり、「集団的自衛権」の定義についても「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止することが正当化されるという地位」と表現しており、自国が直接攻撃されているか否かが圧倒的に重要な論点であることを示している。その中で「自衛の措置」の限界の規範を述べて「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「集団的自衛権の行使」を可能とする「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。もしここに「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるのであれば、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」とする部分と論理的整合性が保たれなくなり、1972年(昭和47年)政府見解そのものが法解釈文章として成り立たなくなってしまうのである。そうなれば、1972年(昭和47年)政府見解が法解釈文章として成り立っていないものと扱うこととなるのであるから、この「基本的な論理」と称している部分を維持して解釈変更を行おうとする試みそのものの前提が崩れることとなるのである。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに含まれない。これにより、「存立危機事態」での「武力の行使」は「基本的な論理」と称している部分の枠を超え、9条に抵触して違憲となる。論者は、「自衛の措置」の限界の規範の中の「急迫、不正の事態」と「武力の行使」の限界の規範の「急迫、不正の侵害」の文言が異なる意味であることに何らかの基準があるのではないかと考えているようであるが、「自衛の措置」の限界を示した規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、それが限られていないことを前提として「武力の行使」の規範を定める段階で初めて「我が国に対する武力攻撃(我が国に対する急迫不正の侵害)」を満たす場合に限ったかのような認識は誤りである。「第二文と第三文の間に、基本的論理と当てはめの分水嶺があると捉えるのが合理的」との説明もあるが、第二文は「自衛の措置の限界」の限界の規範を示しており、第三文は「武力の行使」の限界の規範を定めたものであり、論者のように「自衛の措置」の限界の規範が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないかのように考えた上で、「武力の行使」の限界の規範を定める第三文の段階で初めて「我が国に対する武力攻撃」を満たすことに限ったかのような認識に基づく主張は、前提となっている「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」とする部分と論理的整合性が取れなくなるため誤りである。

 「『外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態』というのは、第三文の当てはめで言う「わが国に対する急迫、不正の侵害」、すなわち個別的自衛権の場面以外のものを含んでいると考えます。そう解釈することが、第二文の『外国の武力攻撃によつて』の後に、我が国に対するという文言を入れずに、『国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態』としたこととも合致します。」との説明があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権」の定義を「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止することが正当化されるという地位」としており、「自国が直接攻撃」されているか否かが圧倒的に重要な論点であることを予め示している。また、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明し、その「自衛の措置」の限界の規範として「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」を示している。この「自衛の措置」の限界の規範が「集団的自衛権の行使」を不可能としているのであるから、この規範の中に「集団的自衛権の行使」を可能とする「自国が直接攻撃されていない」場合が含まれるはずがない。そのため、「自衛の措置」の限界の規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。論者は「自衛の措置」の限界の規範は「わが国に対する急迫、不正の侵害」以外のもの(『我が国に対する武力攻撃』以外のもの)を含んでいると考えているようであるが、1972年(昭和47年)政府見解の冒頭の説明と論理的整合性が取れなくなるものであるため誤りである。

 「昭和四十七年政府見解の基本的論理は、昨年の閣議決定の新三要件にしっかりと維持されている、従来の憲法解釈との論理的整合性はある」との説明があるが、誤りである。「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、「新三要件」の「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに当てはまらないため違憲となる。それにもかかわらず「存立危機事態」の要件を定めようとすることは、論理的整合性は保たれておらず、「論理的整合性はある」と主張することは誤りである。 

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山下貴司

山下委員 自民党の山下貴司です。
 私は憲法担当の司法試験委員をやっておりましたが、自衛権をめぐる憲法解釈は学説と現実が最も乖離している分野の一つと言え、自衛隊についてすら違憲の疑いがあるとする学説がむしろ支配的でした。しかし、学説は結論ではなく、その論理を検討する必要があります。
 日本の憲法学説をリードした宮沢俊義、芦部信喜教授を初め、我が国の憲法学者の通説は、憲法九条について、一項で放棄されている戦争、武力の行使の意義や、二項で保持が禁止された戦力や交戦権の範囲を極めて厳格に解釈し、自衛隊の存在は違憲であるとする学説が通説、現在の自衛隊は九条二項の戦力に該当するなどとしていました。
 先日の長谷部教授も、現在の自衛隊は憲法によって保持が禁止された戦力に当たる、国家に固有の自衛権があるという議論はさほど説得力があるものではないとする一方で、多様な価値観や立場の公平な共存を目指す憲法の基本理念という、文理を離れた曖昧な理由で自衛権を認めるという苦しい解釈をしておられます。
 しかし、そもそも、日本の憲法学界で支配的な解釈の出発点が、従来の政府の解釈とも違い、憲法制定時に、侵略戦争以外の目的であれば戦力を持てると解釈して文民条項の挿入を求めた極東委員会の解釈とも違う、一つの解釈にすぎないのです。
 立法府を担う私たちとしては、学説を含め、多様な意見に耳を傾けなければならないものの、憲法の定める三権分立から、まず前提とすべきは、違憲立法審査権を有する司法府の判断です。それが、最高裁大法廷が全員一致で、個別的と集団的とを区別せずに、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を認めた砂川事件最高裁判決です。そして、同判決の補足意見において、東大法学部長を務め、ICJ判事も務められた田中耕太郎最高裁長官は、一国の防衛も個別的に、すなわちその国のみの立場から考察すべきでない、他国の防衛に協力することは自国を守るゆえんであると判決理由を補足しています。
 これに対し、先日、長谷部教授は、集団的自衛権をめぐる解釈について、従来の政府見解基本的な論理の枠内では説明がつきませんし、法的な安定性を大きく揺るがすものであることを理由に、違憲と述べました。
 しかし、長谷部教授の言う従来の政府見解基本的な論理とは、御自身の論文によれば、日本を防衛するための必要最小限度の実力の保持とその行使を禁ずるものではないということですが、砂川事件判決を敷衍してこの論理を示した四十七年政府提出資料基本的な論理の枠は、自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民の権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるというものであり、これは昨年の閣議決定においても変更はありません。
 ただ、従来は、この論理の当てはめの段階で、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限定していましたが、昨年の閣議決定では、昨今の国際情勢の不安定化を踏まえ、我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される急迫不正の事態は、我が国に対するのみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合であっても生じ得ることから、政府解釈論理の根幹を変えずに、当てはめにおいて、現状に即して限定的に変更したものです。
 また、長谷部教授の、法的安定性を大きく揺るがすゆえに違憲との指摘は、同教授が別の論文で指摘するように、政府解釈の一貫性、論理性を支えてきたのは内閣法制局との認識があると思われますが、実は、内閣法制局は、約八十名の法令担当職員のうち、法曹資格を有するのはわずか数名にすぎず、政府答弁を行った歴代十八名の法制局長官のうち、司法試験に合格した者は、横畠長官を含めわずか七名という行政機関です
 必ずしも法律家の資格を持たない行政官がつくり出した解釈に、どこまで事実上の拘束力を認めるのか、まさに立法府の見識が問われると思います。
 そもそも、内閣による政府解釈の変更の是非については、MSA協定の国会審議において、吉田内閣の自衛権に関する解釈の変更について問われた緒方竹虎副総理が、内閣の閣議によって公式に決めれば、前と解釈が違っても差し支えないと答弁し、続いて答弁に立った佐藤達夫内閣法制局長官、これは憲法制定に携わった方ですが、内閣内閣において正しいと信ずるとてその憲法解釈を打ち出すことは理論上は当然としています。
 私は、憲法条項の許す範囲内で、国民の負託を受けた議会に立脚した内閣が、直面する諸課題に対応するため憲法解釈の変更を行うことは、むしろ立憲主義にかなうものであると考えております
 私たち自民党は、自衛隊、日米安保、PKO等に関し、時には、憲法学者、野党の皆様の激しい批判を乗り越えて、厳しい政治決断をしてきましたが、それが正しかったことは戦後の歴史が証明しています。平和安全法制についても同様に、堂々と正当性を訴えてまいりたいと思います。
 以上です。

【動画】2015 06 11 衆議院憲法審査会「自由討議」


【筆者】

 「最高裁大法廷が全員一致で、個別的と集団的とを区別せずに、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を認めた砂川事件最高裁判決です。」との主張があるが、理解が整理されておらず、誤りである。
 砂川判決は、9条について「これによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、」と述べているが、ここで用いられている「自衛権」の意味は、「わが国が主権国として持つ固有の」自衛権であり、国際法上の『権利』の概念である。日本国がこの国際法上『権利』を有していても、9条は日本国の統治権の『権限』を制約していることには何ら影響がない。論者は「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を有すれば、日本国の統治権に『権力・権限・権能』が生まれると考えている点で誤りである。国際法上の『権利』と憲法上の『権力・権限・権能』の違いを理解する必要がある。
 また、砂川判決が認めた「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけであり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。
 論者が「田中耕太郎最高裁長官は、一国の防衛も個別的に、すなわちその国のみの立場から考察すべきでない、他国の防衛に協力することは自国を守るゆえんであると判決理由を補足しています。」と述べている部分については、下記が参考になる。


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 ―― 当時の田中耕太郎最高裁長官の補足意見、「自衛はすなわち『他衛』、他衛はすなわち自衛」も同じく集団的自衛権についての発言として取り上げられています。

 長谷部 補足意見は、それぞれの国が自衛をしないと世界の平和も保てない、だから「力の空白」によって日本への侵略を誘発しないために、日米安保条約があるのだと言っているだけです。真面目な議論とは思えません。

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谷部恭男教授に聞く 安保法案は、なぜ違憲なのか ――「切れ目」も「限界」もない武力行使


 「砂川事件判決を敷衍してこの論理を示した四十七年政府提出資料の基本的な論理の枠は、自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民の権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるというものであり、これは昨年の閣議決定においても変更はありません。」との主張があるが、この「四十七年政府提出資料の基本的な論理の枠」である「あくまで外国の武力攻撃によって」の部分は「我が国に対する武力攻撃」を意味する。そのため、「これは昨年の閣議決定においても変更はありません。」としているのであれば、ここに「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は当てはまることはなく、「存立危機事態」の要件はこの「四十七年政府提出資料の基本的な論理の枠」によって違憲となる。


 「この論理の当てはめの段階で、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限定していましたが、昨年の閣議決定では、昨今の国際情勢の不安定化を踏まえ、我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される急迫不正の事態は、我が国に対するのみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合であっても生じ得ることから、政府解釈の論理の根幹を変えずに、当てはめにおいて、現状に即して限定的に変更したものです。」との主張があるが、誤った認識に基づく主張となっている。

 まず、「この論理の当てはめの段階で、」との部分であるが、1972年(昭和47年)政府見解は「自衛の措置の限界」によって「集団的自衛権の行使」が憲法上許されない旨を述べる文章であり、論者が「当てはめ」と認識している部分は、「自衛の措置の限界」の中に「自衛の措置」の選択肢の一つとして「武力の行使」を当てはめたものである。1972年(昭和47年)政府見解では、冒頭で「集団的自衛権の行使」が「憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されない」と説明しており、「自衛の措置の限界」としての規範が既に記されている。そして、その「自衛の措置」の限界の規範に「武力の行使」を当てはめることで、「武力の行使」の限界を明らかとし、結果として国際法上の評価でいう「集団的自衛権の行使」が違憲となるとの結論が導かれているものである。

 そのため、論者はその後「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限定していましたが、」と述べているが、論者が「この論理」と称している「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」について述べた部分において既に「自衛の措置の限界」としての規範は記されているのであり、あたかも「基本的な論理」と称している部分では「限界」となる規範が記されておらず、論者が「当てはめ」と称している段階で初めて「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限定」したかのような認識を有していることは誤りである。

 論者は「昨年の閣議決定では、昨今の国際情勢の不安定化を踏まえ、」と述べるが、この1972年(昭和47年)政府見解は、「自衛の措置」の限界の中に「武力の行使」を当てはめ、「武力の行使」の限界を導き出したものであり、その間には文面上の論理展開しか存在しない。そのため、あたかも「国際情勢の不安定化」によって、この「自衛の措置」の限界から「武力の行使」の限界が導き出されるという論理過程が変わり得るかのような主張は誤りである。もし論者のように「国際情勢の不安定化」によって、規範が変わり得るかのように主張することができるのであれば、「国際情勢の不安定化」によって「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」をも正当化し得ることとなるのであり、法解釈として成り立たない。

 「我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される急迫不正の事態は、我が国に対するのみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合であっても生じ得る」と述べている部分であるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範であり「我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される急迫不正の事態」と政府が認識するだけで「武力の行使」が可能となるような発動要件を定めることは9条の趣旨に抵触して違憲となる。また、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合」であったとしても、それだけでは未だ9条の規範性を通過していないのであり、その9条の規範性を通過していない中で「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」を可能とする余地は生まれていないのであり、たとえ政府が「我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される急迫不正の事態」と認識したからといって「武力の行使」に踏み切れば違憲となる。さらに、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」に対応して「武力の行使」を行うということは、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」であり、このような活動を行う実力組織を「陸海空軍その他の戦力」でない説明することはできず、9条2項の禁ずる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。

 「政府解釈の論理の根幹を変えずに、当てはめにおいて、現状に即して限定的に変更したものです。」と述べている部分について、「政府解釈の論理の根幹」とは1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分であるが、ここには「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在しており、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味することから、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が当てはまることはない。そのため、「現状に即して限定的に変更したもの」と、当てはまるかのように主張しているところが誤りである。また、「限定的に」との主張であるが、もともと当てはまらないのであるから、「限定的」などという当てはまる中で「限定」したかのような主張は成り立たない。さらに、「限定」していれば9条に抵触しないのではないかとの期待も込められていると考えられるが、もともと「基本的な論理」と称している部分に当てはまらない要件を定めようとしていることは、9条に抵触して違憲となることを意味するのであり、9条に抵触する要件の内容をいくら「限定」しても、違憲である事実は変わらない。「現状に即して」の部分についても、もともと1972年(昭和47年)政府見解は「自衛の措置」の限界から「武力の行使」の限界を導き出した文面上の論理過程しか存在しないのであり、ここに「現状」などという政策判断が入り込む余地はない。そのため、「現状」に即しようとも、即さないとしても、「自衛の措置」の限界から「武力の行使」の限界が導き出される論理過程は揺らぐことがない。もしこの「自衛の措置」の限界の規範が「現状」に即さないのであれば、それは1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分そのものを解釈変更するか、憲法改正を行う必要がある。それを行わないで、「自衛の措置の限界」を示した「自衛の措置」の規範部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言があたかも「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないかのように考えて、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」も含まれる余地があるかのように主張し、「存立危機事態」での「武力の行使」を可能としようとすることは、文面上の論理過程を意図的に無視しようとした不正な読み方であり、法解釈として成り立たない。

 論者が「私は、憲法条項の許す範囲内で、国民の負託を受けた議会に立脚した内閣が、直面する諸課題に対応するため憲法解釈の変更を行うことは、むしろ立憲主義にかなうものであると考えております。」と述べている部分であるが、1972年(昭和47年)政府見解は9条解釈を記した文章であり、「憲法条項の許す範囲内」か否かを確定するものである。この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。よって、「憲法条項の許す範囲内」とは言えず、9条に抵触して違憲となる。「むしろ立憲主義にかなうものである」と述べている部分についても、法解釈が論理的整合性を保っているのであれば、「立憲主義にかなうもの」ということができるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらず、論理的整合性が存在しないことから、「立憲主義にかなうもの」とは言えない。2014年7月1日閣議決定には、解釈手続き上の不正が存在するため、適法な「憲法解釈の変更」とも言えない。

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北側一雄

北側委員 私や高村さんの意見に対する御意見もございましたので、簡単に私の方から申し述べます。
 まず、砂川判決をどういうふうに位置づけるかという話がきょうも議論になっておりました。日本の憲法九条には、自衛の措置がどこまで認められるのかということについて書いておりません。九条のもとで許される自衛の措置、これについて、一番最初に最高裁判決、この砂川判決が一九五九年に判示があったわけでございます。先ほど来話が出ておりますが、そこで言っておりますのは、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうる」、こう言っているわけでございます。
 一九五九年でございますので、国連憲章は一九四五年、国連憲章五十一条の、個別的自衛権または集団的自衛権という言葉が明確に書いてあるわけでございますが、当然、それをわかった上で、個別的自衛権とも言わず、集団的自衛権とも言わず、今のように表現をしているわけでございます。そういう意味で、それをよくわかった上でこのような表現をとっているというのは、いわば、集団的自衛権、個別的自衛権、そういう観念ではなくて、また、集団的自衛権と言われている、そういう観念を排除しているものではないというふうには少なくとも言えるんだろうと。集団的自衛権というものを排除しているというふうに言えるものではないというふうに思います。
 ただ、砂川判決で言っているのはこの部分だけでございます、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置」、これをさらに、憲法九条のもとでどこまで自衛の措置ができるのか、その限界というものを当然検討する必要があるわけでございまして、そこは、砂川判決は、内閣であり政府であり、また国会に委ねたというふうに私は思います。
 その後、政府見解がるるあるわけでございますけれども、昭和四十七年の見解についてもいろいろ御議論がございました。私が提出しました資料の一をちょっとごらんになっていただきたいと思います。この資料の一の昭和四十七年見解には、集団的自衛権という言葉は四回出てまいります。まず第一行目に「いわゆる集団的自衛権、」と言っております。また、第一段落の最後の方で「右の集団的自衛権」と言っています。第二段落で、先ほど長妻委員からお話がありましたように、「いわゆる集団的自衛権」と言っています。そして、一番最後のところに「いわゆる集団的自衛権」。集団的自衛権という言葉の前に、「いわゆる」というのが三回、そして「右の」というのが一回出てくるわけですね。全てこのような形容がついているわけでございます。
 まず、一番最初に出てくる「いわゆる集団的自衛権、」というのは、集団的自衛権のまさしくこの政府見解での定義をしているところでございます。この定義は何かといえば、国際連合憲章五十一条のいわゆる集団的自衛権、他国防衛を目的とした集団的自衛権も含む、フルサイズの集団的自衛権について、いわゆる集団的自衛権というふうに定義づけをしているわけでございます。
 以下出てくる、あと三回の集団的自衛権も、「右の」とか「いわゆる」と言っているわけでございまして、同じフルサイズの集団的自衛権についてこの政府見解は述べているというふうに私は考えております。
 そういう意味で、先ほど長妻委員がおっしゃった第二段落の「いわゆる集団的自衛権」というのも、まさしくそういうフルサイズの集団的自衛権については、憲法の容認する自衛の措置の限界を超えるものであって許されないとの立場に立っている、こういうふうに私は読めるのではないかというふうに考えているわけでございます。
 いずれにいたしましても、先ほど来私が申し上げましたように、この政府見解の根幹部分、基本的な論理の部分というのは、要するに、憲法十三条との関係で、国民の基本的人権が根底から覆されるようなそうした明白な危険がある場合に、この場合には他国に対する武力攻撃を排除することが許容される、ここの部分がまさしく一番の根幹の部分だというふうに考えております。
 それから、個別的自衛権の問題で、私が提起いたしました米艦防護の問題。日本防衛のために日本の近海で、公海上で日本防衛のために活動している米艦に対して武力攻撃があった場合に日本の自衛隊がこれを排除できるのか、こういう問題提起に対して、個別的自衛権で対処できるじゃないかというのが、幾つか御意見がございました。
 過去もこの議論は相当国会でされているんですね。先ほど長妻委員がおっしゃったように、答弁を見ますと、状況によってはとか、個別具体の事例によればとか、こういう表現になっているんです。では一体、その状況とはどんな状況なのか、個別具体的な事情とはどういう場合なのか、ここが非常に不明確なまま、今日まで来てしまっているわけなんですね。
 我が国領海内での米艦であれば、それは我が国に対する武力攻撃の着手と言えるでしょう。また、一旦我が国に対する武力攻撃があって、その後、米艦が公海上にいて、その米艦に対する攻撃であれば、確かに個別的自衛権と言えるでしょう。ただ、どこまで個別的自衛権で着手と言えるかということについて、極めて曖昧なんですね。はっきりしていないんです。いざ現実にそういうことが起こったときに、やはり、そこの武力攻撃を、我が国防衛のために警戒監視活動をしている米艦船に対して、そこに武力攻撃があった場合に……


○北側委員 それを排除できなかったら、日米防衛協力体制はもう瓦解をしてしまうわけでございまして、私はそこを明確にする必要があるというふうに思って考えております。

 いずれにいたしましても、我が国をめぐる安全保障環境をどう認識しているのか、この国と国民を守るためには安全保障上の必要性はどこにあるのか、あるのかないのか、こうした議論をしっかりとやっていかねばならない、そのように思います

 以上です。 

【動画】2015 06 11 衆議院憲法審査会「自由討議」


【筆者】

  「そこで言っておりますのは、『わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうる』、こう言っている」と述べた後に「個別的自衛権とも言わず、集団的自衛権とも言わず、今のように表現をしている」との説明しているが、日本国の統治権の『権限』による「自衛のための措置」と、国際法上の『権利』である「自衛権」は異なる概念であり、同一視している点で誤りである。また、砂川判決のいう「自衛権」が「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を区別していたとしても、区別していなかったとしても、日本国の統治権の『権限』による「自衛のための措置(自衛の措置)」の範囲については憲法解釈上の問題であり、国際法上の『権利』の区分とは関係がない。


 論者の取り上げる「いわゆる集団的自衛権、」や「右の集団的自衛権」、「いわゆる集団的自衛権」、「いわゆる集団的自衛権」、「集団的自衛権という言葉の前に、『いわゆる』というのが三回、そして『右の』というのが一回出てくる」との部分であるが、このように1972年(昭和47年)政府見解が「いわゆる」の文言を用いていることは、「集団的自衛権」が国際法上の『権利』の概念であり、日本国の統治権の『権限』の中には存在せず、その定義や要件を確定する作業は国際司法裁判所の管轄事項であるため、日本国政府が積極的にその意味を定義したり要件を確定することができない性質であることによるものと思われる。「いわゆる」の意味は、「一般に言う」「よく言う」「俗にいう」などがあり、日本国政府が国際法上の概念を借用して表現する際にこの文言を用いることは自然であると思われる。

 論者はその後、「国際連合憲章五十一条のいわゆる集団的自衛権、他国防衛を目的とした集団的自衛権も含む、フルサイズの集団的自衛権について、いわゆる集団的自衛権というふうに定義づけをしている」と説明しているが、誤りである。国連憲章51条の「集団的自衛権」とは違法性阻却事由の『権利』の区分の概念であり、これを行使する際は『他国からの要請』を必要とする。『他国からの要請』を得ない中で「武力の行使」を実施すれば、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して違法となることから、「集団的自衛権の行使」とは実質的には『他国防衛』を目的とした「武力の行使」を実施するものである。この「集団的自衛権」の性質について、論者は「他国防衛を目的とした」「フルサイズ」のものと、そうでないものが存在するかのように考えようとしているが、「集団的自衛権」に該当すれば国際法上は「集団的自衛権」でしかないし、その実質も『他国からの要請』が求められることから「他国防衛を目的とした」ものしか存在していない。

 「同じフルサイズの集団的自衛権についてこの政府見解は述べている」と説明しているが、誤りである。論者は1972年(昭和47年)政府見解について「フルサイズの集団的自衛権について」述べていると切り分けようとしているようであるが、国際法上は「フルサイズ」か否かという議論は存在しない。「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかないのである。

 「フルサイズの集団的自衛権については、憲法の容認する自衛の措置の限界を超えるものであって許されないとの立場に立っている、こういうふうに私は読めるのではないかというふうに考えている」との説明があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解が「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」としているのは、日本国の統治権が「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としていることから付随的に導かれる結論であり、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』の区分が「フルサイズ」であるか否かなどという話は憲法上の規範には全く関係がないのである。また、9条の下では『他国防衛』を目時とする(論者が『フルサイズ』としている)「武力の行使」が許されないことは当然、たとえ『自国防衛』を目的とする「武力の行使」であっても必ずしも許容されるわけではない。なぜならば、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験しており、9条はこのような「武力の行使」を制約するために設けられた規定だからである。この趣旨を生かした解釈として1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たした中においてしか「武力の行使」を行ってはならないとしているのであり、これを満たさない中で「武力の行使」を行うことはすべて違憲となる。論者は『他国防衛』を目的とする「武力の行使」でないならば9条に抵触しないかのような理解をしているようであるが、『自国防衛』を目的とする「武力の行使」であっても9条に抵触するものが存在する以上、『他国防衛』を目的とする「武力の行使」でない旨を述べたところで、9条に抵触しないことを説明したことにはならない。

 「この政府見解の根幹部分、基本的な論理の部分というのは、要するに、憲法十三条との関係で、国民の基本的人権が根底から覆されるようなそうした明白な危険がある場合に、この場合には他国に対する武力攻撃を排除することが許容される、ここの部分がまさしく一番の根幹の部分だというふうに考えております。」との説明があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解は前文の「平和的生存権」や13条の「国民の権利」の趣旨を示した後に「自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」と述べているが、その後「しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」としているのであり、論者のように「国民の基本的人権が根底から覆されるようなそうした明白な危険がある場合」であれば何でも「自衛の措置(武力の行使)」を発動してよいとしているわけではない。「自衛の措置」の限界を示した規範には、「あくまで外国の武力攻撃によつて」が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、これを満たさないにもかかわらず、論者のように「国民の基本的人権が根底から覆されるようなそうした明白な危険がある場合」と判断するだけで「自衛の措置(武力の行使)」を執ることができるとはしていないのである。論者は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「他国に対する武力攻撃を排除することが許容される」と記載されているかのように説明しているが、そのようなことは全く書かれておらず、誤りである。また、「他国に対する武力攻撃を排除する」ための「武力の行使」とは、『他国防衛』を目的とした「武力の行使」であり、このような「武力の行使」やそれを実施する実力組織の実態は、9条に抵触して違憲となる。

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第189回国会 衆議院 憲法審査会 第4号 平成27年6月11日



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國重徹

國重委員 公明党の國重徹でございます。
(略)
 その上で、一言だけ申し上げますと、昨年七月の閣議決定、また、今般の平和安全保障法制によりましても、他国の防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使は認められておりません。憲法九条のもと、自衛の措置としての武力の行使が認められるのは、あくまで自国防衛を目的とするものに限定されております。
 つまり、新三要件におきましても、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃があったこと、それだけで自衛の措置が認められるのではなくて、これに加えて、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合限定されております。
 そして、この新三要件は、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される急迫不正の事態に限って自衛の措置が認められるという、これまでの政府の憲法解釈基本的論理をしっかりと維持したものであるということをまず申し上げたいと思います。

(略)

 

【筆者】

 「他国の防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使は認められておりません。」との説明があるが、誤った認識となっている。まず、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分であり、これを行使する場合は「武力不行使の原則」に対するものであるから、実質的に「武力の行使」が行われることとなる。この「武力の行使」が「他国の防衛それ自体を目的とする」ものでないと説明していることになるが、9条の下では『他国防衛』を目的とする「武力の行使」が許されないことは当然、『自国防衛』を目的とする「武力の行使」だからといって必ずしも許容されるわけではない。そのため、「他国の防衛それ自体を目的とする」「武力の行使」ではないことを強調したところで、その「武力の行使」が9条に抵触しないことを説明したことにはならない。また、国際法上「集団的自衛権」の違法性阻却事由の『権利』を得るためには、『他国からの要請』が必要となる。この『他国からの要請』を得られなければ、その「武力の行使」は「武力不行使の原則」に抵触して違法となるのである。この『他国からの要請』を必要とする「集団的自衛権」を行使するにもかかわらず、「他国の防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使は認められておりません。」と説明することは、意味が通じておらず、「集団的自衛権」の概念からしてそもそも誤った認識である。

 「憲法九条のもと、自衛の措置としての武力の行使が認められるのは、あくまで自国防衛を目的とするものに限定されております。」との説明があるが、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないのであればたとえ『自国防衛』を目的とするとしても違憲であることは変わらない。そのため、「あくまで自国防衛を目的とするものに限定されております。」と説明したところで、9条に抵触しないことを説明したことにはならない。「憲法九条のもと、自衛の措置としての武力の行使が認められるのは、」と、あたかも認められることを前提としている説明があるが、認められないため誤りである。

 「存立危機事態」の要件を挙げて「限定されております。」と説明しているが、1972年(昭和47年)政府見解の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないのであればたとえ要件の中に「限定」されていると評価される文言が含まれていても、違憲であることは変わらない。論者のように「限定されております。」と説明するだけで9条に抵触しないと主張することができるのであれば、同様に「限定」されている「先に攻撃(先制攻撃)」や「限定」されている「侵略戦争」についても9条に抵触しないと主張することが可能となってしまい、法解釈として成り立たないのである。

 「新三要件は、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される急迫不正の事態に限って自衛の措置が認められるという、これまでの政府の憲法解釈の基本的論理をしっかりと維持したもの」との説明があるが、誤りである。まず、「これまでの政府の憲法解釈の基本的論理」とは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分のことであるが、この「自衛の措置」の限界を示した規範部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中で使われた文言であり、ここに「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるとすると、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」との説明と論理矛盾するため当てはまらず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られる。これにより、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「新三要件」の「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに当てはまらず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分によって違憲となる。論者は「基本的論理をしっかりと維持したもの」と説明するが、「基本的な論理」と称している部分を「しっかりと維持」しているのであれば、「存立危機事態」の要件は違憲となるのである。「新三要件」の「存立危機事態」の要件を「基本的な論理」と称している部分の下で定めることができるかのように説明している点が誤りである。

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第189回国会 衆議院 憲法審査会 第5号 平成27年9月25日



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中谷元

中谷(元)委員

(略)

 しかし、憲法改正につながる観点から調査するということで、憲法審査会の所掌事務でもありますので、あくまでも本日のテーマである立憲主義との関係から意見を申し上げますと、この平和安全法制の定める限定的な自衛の措置は、憲法九条とともに、前文の平和的生存権、十三条の生命、自由、幸福追求の権利を規定する日本国憲法の構造に照らして、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対応するためにやむを得ない措置であり、現行の憲法の枠内のものでございます。
 また、集団的自衛権の行使を一部容認いたしておりますが、それは、あくまでも自衛のための必要最小限度の措置に限られると。集団的自衛権の行使を丸々全部認めるということではなくて他国の防衛それ自体を目的とする行使は認めておりません。あくまでも国民の命と平和な暮らしを守ることが目的でありまして、極めて限定的なものであります。
 これは、法案の中で新三要件、これで明確に示しておりまして、憲法上の明確な歯どめとしておりまして、これを法律に盛り込んでおりますので、こういった点の指摘は当たっていないということで、従来の四十七年の政府見解基本的論理枠内であるということでございます。

(略)

 

【筆者】

  「限定的な自衛の措置」との説明があるが、「限定的」と称したからといってそれだけで9条に抵触しないことを説明したことにはならないことを押さえる必要がある。

 「現行の憲法の枠内のもの」との説明があるが、その「現行の憲法」の9条の枠を示したものが1972年(昭和47年)政府見解であるが、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は含まれない。そのため、「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)のいう「現行憲法の枠内」とはいえない。

 「集団的自衛権の行使を一部容認いたしておりますが、」との説明があるが、国際法上の違法性阻却事由の『権利』としての「集団的自衛権」の区分に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「一部」などという区分が国際法上の区分として存在するわけではないことを押さえる必要がある。

 「あくまでも自衛のための必要最小限度の措置に限られる」との説明があるが、従来より政府は「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)を意味するものとしており、「自衛のための必要最小限度の措置に限られる」のであれば、旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たす必要があることから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことはできない。

 「集団的自衛権の行使を丸々全部認めるということではなくて、他国の防衛それ自体を目的とする行使は認めておりません。」との説明があるが、「集団的自衛権の行使」とは実質的に「武力の行使」が行われることを指しており、その「武力の行使」が「他国の防衛それ自体を目的とする行使は認めておりません。」という制約が付いていたとしても、9条の下では『他国防衛』を目的とする「武力の行使」が認められないことは当然、『自国防衛』を目的とする「武力の行使」であったとしても必ずしも認められているわけでなはい。そのため、「他国の防衛それ自体を目的とする行使は認めておりません。」と『他国防衛』を目的とする「武力の行使」でないことを説明しただけでは、9条に抵触しないことを説明したことにはならない。

 「あくまでも国民の命と平和な暮らしを守ることが目的でありまして、極めて限定的なもの」との説明があるが、「国民の命と平和な暮らしを守ることが目的」と称するだけではその「武力の行使」が9条に抵触しないことを説明したことにはならない。なぜならば、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとする趣旨の規定であり、「国民の命と平和な暮らしを守ることが目的」と政府が判断するだけで「武力の行使」が正当化されるのであれば、9条の趣旨が損なわれ、法解釈として成り立たなくなるからである。また、「極めて限定的なもの」との説明についても、9条の下では「極めて限定的なもの」と称するだけで「武力の行使」が許されるわけではない。なぜならば、もし9条の下でも「極めて限定的なもの」と称するだけで「武力の行使」が許容されるのであれば、「極めて限定的な」「先に攻撃(先制攻撃)」や「極めて限定的な」「侵略戦争」についても9条に抵触しないと説明することができてしまうこととなり、法解釈として成り立たなくなるからである。

 「法案の中で新三要件、これで明確に示しておりまして、憲法上の明確な歯どめとしておりまして、」との説明があるが、「憲法上の明確な歯止め」とは9条の規定そのものである。憲法に抵触しないことを示す「歯止め」として「新三要件」を示そうとしているのかもしれないが、憲法に抵触しないことを示す「歯止め」として示されているのは1972年(昭和47年)政府見解の規範である。9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を記した規範部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「新三要件」の「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の部分は当てはまらない。これにより、「新三要件」の「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範という、憲法に抵触しないことを明らかにするための「歯止め」によって排除され、違憲となる。

 「従来の四十七年の政府見解の基本的論理の枠内であるということ」との説明があるが、「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分に当てはまらず、「枠内」とは言えない。「基本的論理の枠内であるということ」との説明は誤りである。

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遠山清彦

遠山委員 公明党の遠山清彦でございます。
 前回と本日の会議で昨年の平和安全法制と憲法及び立憲主義の関係が話題となっておりますので、私からも一言、意見表明を行いたいと思います。
 憲法九条は、一項で戦争の放棄を定め、二項で戦力の不保持と交戦権の否認を定めております。その文言からすると、憲法九条は国際関係における武力の行使を一切禁じているようにも見えます。しかし、憲法を初めとする法の解釈というものは、およそ一部の条文だけを切り取って行えばよいというものではなく、その全体構造の中で整合的な解釈を追求することが求められるものと理解をしております。
 昭和四十七年に参議院決算委員会に提出された政府見解、いわゆる四十七年見解では、このような体系的な法の解釈という観点から、憲法九条のもとでの武力行使の可否とその限界について、一般論の提示に当たる基本的な論理これを具体的な状況に当てはめた記述とを截然と整理しながら、見事な定式化を行っております。
 まず、基本的な論理では、憲法前文の平和的生存権や十三条の幸福追求権の趣旨をも踏まえれば、以下、引用します。平和主義を具体化した九条も、外国の武力攻撃によって我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態、そのような極限的な場合においては、我が国と国民を守るためのやむを得ない必要最小限度の武力の行使をすることまでをも禁じているとは解されない旨を述べています。
 その上で、「そうだとすれば、」という接続語を用いて、当時の国際環境への当てはめの論述に入り、以下、引用です。「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」「したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」と述べて、当時考えられていた他国防衛を目的とするような集団的自衛権を念頭に、いわゆるフルセットの集団的自衛権を否定しているのであります。
 その後、弾道ミサイルや核の開発が進み、軍事技術も飛躍的に高度化するなど、我が国をめぐる安全保障環境は厳しさを増してきました。このような安全保障環境の変化と、我が国の安全保障に日米防衛協力体制が中核的な役割を果たしていることを踏まえれば、いまだ我が国に対する武力攻撃に至っていない状況でも、新三要件にあるとおり、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が発生することもあり得るとの認識に至ったのであります。
 すなわち、四十七年見解基本的な論理維持した上でそれを現在の安全保障環境に当てはめた結果、このような極めて限定的な事態に対応するための、自国防衛を目的とする集団的自衛権の行使を認めることは、憲法前文や十三条の趣旨を踏まえた、憲法九条に反するものではないと位置づけたものであります。
 ところで、平和安全法制について、憲法違反と言うのではなく、立憲主義に反するとか、非立憲的ななどという批判を、しばしばこの審査会でも耳にいたします。憲法に適合するにもかかわらず、立憲主義に反するという論理が成り立つかはさておき、そもそも国民の権利、自由を守ることが近代立憲主義の本質という観点からいたしますと、国民の生命、自由、幸福追求の権利をいかに守るかという観点から制定された昨年の平和安全法制は、立憲主義違反どころか、まさに立憲主義を具現化したものと評価されるべきものと考えます。
 以上です。

 

【筆者】

 「四十七年見解では、このような体系的な法の解釈という観点から、憲法九条のもとでの武力行使の可否とその限界について、一般論の提示に当たる基本的な論理と、これを具体的な状況に当てはめた記述とを截然と整理しながら、見事な定式化を行っております。」との説明があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、「自衛の措置」の限界の規範を示した部分である。また、「基本的な論理」の次の文は、「自衛の措置」として「武力の行使」を選択した場合に「自衛の措置」の限界の規範の中に「武力の行使」を当てはめたものであり、論者のように「具体的な状況に当てはめた記述」なとど、状況認識や政策判断が入り込んだ結果として「武力の行使」の限界の規範が定められているかのような認識は誤りである。

 「必要最小限度の武力の行使をすること」との説明があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示したにとどまり、「武力の行使」については触れていない。「武力の行使をすること」が「基本的な論理」と称している部分に記載されているかのような認識は誤りである。この点は、2014年7月1日閣議決定においても、1972年(昭和47年)政府見解を正しく抜き出したものとはなっていないため注意が必要である。ここで使われている「必要最小限度」の意味は、1972年(昭和47年)政府見解の「右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」との部分から来ており、「武力の行使」の三要件で言えば第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様に対応するものである。9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているわけではないことを押さえる必要がある。

 「『そうだとすれば、』という接続語を用いて、当時の国際環境への当てはめの論述に入り、」との説明があるが、誤りである。「そうだとすれば、」の文言に続く文は、「基本的な論理」と称している部分に記載された「自衛の措置」の限界の規範の中に「武力の行使」を当てはめる場合の「武力の行使」の規範が導かれているものであり、「当時の国際環境」を当てはめたものではない。「自衛の措置」の限界の規範から「武力の行使」の限界の規範との間には、文面上の論理展開しか存在しておらず、「当時の国際環境」などという状況認識や政策判断が入り込む余地はない。論者が「当時の国際環境」などと主張するものは、法学の枠外から根拠のない話を持ち出して文面上の論理展開や論理的整合性を意図的に無視しようとするものであり、誤りである。

 「当時考えられていた他国防衛を目的とするような集団的自衛権を念頭に、いわゆるフルセットの集団的自衛権を否定している」との説明があるが、「他国防衛を目的とするような集団的自衛権」を「当時考えられていた」ものとし、現在はそうではないかのように主張している点で誤りである。まず、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかない。『他国防衛を目的とする』ものとそうでないものが存在するかのように主張しているが、国際法上そのようなものは存在していない。また、「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を得るためには、『他国からの要請』が必要となる。この『他国からの要請』がなければ、「武力の行使」を発動した場合の「武力不行使の原則」による違法性を阻却することができないことから、『他国からの要請』は「集団的自衛権」を行使する際の必須要件である。このことから「集団的自衛権」を行使するということは、『他国からの要請』に応じて「武力の行使」を発動するものであるから、「他国防衛を目的とする」「武力の行使」となる。それにもかかわらず、論者は「他国防衛を目的とするような集団的自衛権」は「当時」の考え方であり、現在はそうではないものが存在するかのように認識している部分が誤りである。「集団的自衛権」に該当すれば、それは「他国防衛を目的とする」ものしか存在しないのである。また、「いわゆるフルセットの集団的自衛権を否定している」との説明があるが、1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範から、これを満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を否定しているのであり、これを満たさないのであれば「フルセット」であろうがなかろうが「憲法上許されない」のである。「フルセットの集団的自衛権」などという区分はそもそも存在しないが、1972年(昭和47年)政府見解が「フルセットの集団的自衛権」という区分のみを否定し、そうでないものは否定しないとするものであるかのように認識している点が誤りである。

 「我が国に対する武力攻撃に至っていない状況でも、」との説明があるが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であるため、「我が国にに対する武力攻撃に至っていない状況」での「武力の行使」を実施しようとするのであれば、憲法改正を行う必要がある。

 「存立危機事態」の要件を挙げて「あり得るとの認識に至ったのであります。」との説明があるが、1972年(昭和47年)政府見解の下では「存立危機事態」の要件は違憲であるため、「存立危機事態」の要件を定めるのであれば憲法改正の必要がある。

 「四十七年見解の基本的な論理を維持した上で、それを現在の安全保障環境に当てはめた結果、」との説明があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば、「存立危機事態」の要件は違憲となるため定めることができない。また、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を示しており、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、この「自衛の措置」の限界の規範に「武力の行使」を当てはめるとしても、「武力の行使」の限界は「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求められる。この「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範との間には、文面上の論理展開しか存在していないため、「現在の安全保障環境」という状況認識や政策判断が入り込んだものではない。「現在の安全保障環境に当てはめた結果、」と説明しているが、もともと「現在の安全保障環境」が当てはまるような性質を有していないため誤りである。

 「極めて限定的な事態に対応するための、自国防衛を目的とする集団的自衛権の行使を認めることは、憲法前文や十三条の趣旨を踏まえた、憲法九条に反するものではないと位置づけたものであります。」との説明があるが、誤りである。まず、「極めて限定的な事態」の部分であるが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。これを満たさないのであれば、「極めて限定的な事態」を理由としても、そこでの「武力の行使」違憲であることはには変わりない。「自国防衛を目的とする集団的自衛権の行使」の部分であるが、「集団的自衛権」とは『他国からの要請』を得ることで初めて適用を受けるのであり、その性質上必ず『他国防衛』の実質を有する概念であるため、『他国防衛』の意図のない「自国防衛を目的とする集団的自衛権」という区分は存在し得ない。また、「自国防衛を目的とする」「武力の行使」についてであるが、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験しており、9条はこのような「武力の行使」を制約するために設けられた規定であることから、「自国防衛を目的とする」からといって必ずしも「武力の行使」が正当化できるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないにもかかわらず「自国防衛を目的とする」ことを理由にその「武力の行使」が9条に抵触しないかのように説明している点が誤りである。「憲法九条に反するものではないと位置づけたもの」との説明についても、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合せず、結果として「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となるため、「憲法九条に反するものではないと位置づけ」ることができるかのように考えている部分が誤りである。9条に反するものであるし、論者の言うように位置づけることはできない。

 「憲法に適合するにもかかわらず、」との説明があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中で使われた文言であることから「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は当てはまらない。これにより、「存立危機事態」での「武力の行使」は憲法違反である。「憲法に適合するにもかかわらず、」と憲法に適合するかのように説明している部分が誤りである。

 「立憲主義違反どころか、まさに立憲主義を具現化したものと評価されるべきものと考えます。」との説明があるが、誤りである。まず、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に「存立危機事態」の要件は当てはまらず、結果として9条に抵触することから憲法違反であり、憲法違反であることは「立憲主義違反」である。これを否定する論者の認識は誤りである。「立憲主義を具現化」するということは、9条に抵触する「存立危機事態」の要件は違憲・無効として排除される必要があるが、これを定めているにもかかわらず「立憲主義を具現化したものと評価されるべきもの」と考えていることは誤りである。 

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山下貴司

山下委員 自由民主党の山下貴司です。

(略)

 そうしたことに照らせば、私は、憲法上授権されていない権利や権限について憲法上の拘束力を認めるということは、むしろ立憲主義に反するのではないかというふうに考えております。

(略)
従来の憲法の文言の枠内で、従来法的論理の根幹を変更せず、根幹から導かれる副次的な論理や結論的な当てはめを変更することは、法的安定性を必ずしも害するものではありません。
 御指摘の集団的自衛権の解釈変更については、我が国を防衛するため、限定的な集団的自衛権を昨今の国際情勢に即して解釈変更するものでございまして、最高裁砂川事件判決に反するものではなく四十七年資料が示した基本的論理を踏まえつつ安全保障の環境の変容を踏まえて当てはめを変更したにすぎず、これまでの解釈との論理的整合性と法的安定性は保たれております
(略)

 

【筆者】

 「憲法上授権されていない権利や権限について憲法上の拘束力を認めるということは、むしろ立憲主義に反するのではないか」との説明があるが、9条解釈に関わる問題として前提が誤っている。まず、日本国憲法は国民主権原理を採用しており、「国政は、国民の厳粛な信託によるもの(前文)」としていることから、国民からの「厳粛な信託」によって国家権力が発生する。しかし、9条の「日本国民」が「放棄する。」「保持しない。」「認めない。」と示した部については、もともと日本国民が日本国の統治機関に対して授権しておらず、『権力・権限・権能』が発生していない。論者は「憲法上授権されていない権利や権限について憲法上の拘束力を認めるということは、むしろ立憲主義に反するのではないか」と主張するが、9条が明示的に授権していない旨を示し、それらの『権限』の行使を制約しているにもかかわらず、「憲法上の拘束力を認める」ことを否定しようとしている点で、9条が憲法規定として存在している事実を無視するものとなっており、法解釈として成り立たない。明示的に9条が授権しない旨を示しているにもかかわらず、この規定に「拘束力」を認めないとすることは、「立憲主義に反する」ものである。論者は「むしろ立憲主義に反するのではないか」と主張するが、論者の9条を無視する解釈が「立憲主義に反する」ものである。

 「従来の憲法の文言の枠内で、従来の法的論理の根幹を変更せず、根幹から導かれる副次的な論理や結論的な当てはめを変更することは、法的安定性を必ずしも害するものではありません。」との説明があるが、この内容そのものはその通りである。しかし、「従来の憲法の文言」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範を示した部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在しており、これは「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中において使われた文言であるから、「集団的自衛権の行使」が可能とする「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれるはずはなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。このことから、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範の「枠内」で、「法的論理の根幹を変更せず、根幹から導かれる副次的な論理や結論的な当てはめ」を行ったとしても、「我が国に対する武力攻撃」を満たすものに限られることとなり、これを満たさない「存立危機事態」に変更することはできない。もし「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれると主張するのであれば、それは論理的に成り立たないため手続き上の不正であり、「法的安定性」も損なわれることとなる。

 「我が国を防衛するため、限定的な集団的自衛権を昨今の国際情勢に即して解釈変更するもの」との説明があるが、誤りがある。まず、「限定的な集団的自衛権」との説明であるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な集団的自衛権」という区分は存在しない。「限定的」な「武力の行使」のことを述べようとしているのかもしれないが、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないのであれば「限定的」と称しても違憲であることは変わらない。「我が国を防衛するため」との説明もあるが、9条の下では『他国防衛』のための「武力の行使」が許されないことは当然、「我が国を防衛するため」と『自国防衛』のための「武力の行使」であっても必ずしも許容されるとは限らない。先ほども述べたように1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないのであればたとえ「我が国を防衛するため」と称しても正当化されず、違憲となる。「解釈変更するもの」との説明についても、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」を当てはめることはできない。そのため、この「基本的な論理」と称している部分を維持したまま「存立危機事態」の要件を定めることは論理的に不可能であり、今回の形で「解釈変更」することはできない。

 「最高裁砂川事件判決に反するものではなく、」との説明があるが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べておらず、何も述べていないこを根拠に「最高裁砂川事件判決に反するものではなく、」と説明することができるのであれば、「先に攻撃(先制攻撃)」についても砂川判決では何も述べていないことから「最高裁砂川事件判決に反するものではなく、」と説明することが可能となってしまう。そのため、この場面で砂川判決を持ち出して「武力の行使」を伴う措置に関わる「存立危機事態」の要件を正当化しようとすることは、法解釈として成り立たない。

 「四十七年資料が示した基本的論理を踏まえつつ、安全保障の環境の変容を踏まえて当てはめを変更した」との説明があるが、「基本的な論理」と称している部分を「踏まえ」ているのであれば、ここに「存立危機事態」の要件は当てはまらないため、「当てはめを変更した」と当てはめて変更できるかのように論じている部分が誤りである。

 「これまでの解釈との論理的整合性と法的安定性は保たれております。」との説明があるが、「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれるとすることを前提として「存立危機事態」の要件を定めることは「論理的整合性」が保たれていない。また、これにわり「法的安定性」は損なわれており、「論理的整合性と法的安定性は保たれております。」との説明は誤りである。

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第192回国会 衆議院 憲法審査会 第3号 平成28年11月24日



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岡田直樹

○岡田直樹君 ありがとうございます。

(略)
 それから、今、小西先生からもお話がありました平和安全法制のお話でございますけれども、憲法には自衛権の記述がなくて、自衛隊の存在も含めて憲法解釈がなされてまいりました。合憲か違憲かを確定する唯一の機関は、憲法の番人と言われる最高裁であります。自衛隊について示された唯一の最高裁判決は、御存じのとおり、砂川事件判決でありまして、最高裁は、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権能の行使として当然という考えを示したわけであります。
 平和安全法制は、国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があることが条件といたしておりまして、あくまでも砂川判決の言う自衛の措置に限られるというふうに解釈しております。大きく変化した安全保障環境に対して法的安全性にも十分留意して慎重に検討したものでありまして、最高裁判決の範囲内であることは明白であるというふうに思っております。
 また、昭和四十七年の政府見解が示した自衛のための必要最小限度の武力の行使しか認められないという憲法解釈の基本的な論理維持しておりまして立憲主義に反するという御指摘も当たらないと思っております。

(略)

 

【筆者】

 「憲法には自衛権の記述がなくて、」との説明があるが、「自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、日本国の統治権の『権限』とは異なる。そのため、憲法上に「自衛権」の記述がないことは当然である。

 「自衛隊について示された唯一の最高裁判決は、御存じのとおり、砂川事件判決でありまして、」との説明があるが、誤りである。砂川事件判決は米軍の駐留について問われたものであり、日本国の統治権の『権限』が保持する「自衛隊」については何ら関係がないものである。「自衛隊について示された唯一の最高裁判決」などと、砂川判決が「自衛隊」について示したかのような認識は誤りである。「御存じのとおり」との説明があるが、全く存じない。論者は砂川判決を読み直す必要があるだろう。当サイト「砂川判決を読む」をお勧めする。

 「砂川判決の言う自衛の措置に限られるというふうに解釈しております。」との説明があるが、砂川判決の示している「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけであり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。そのため、「武力の行使」を含む「平和安全法制」を「砂川判決の言う自衛の措置に限られるというふうに解釈」というように、砂川判決が「武力の行使」を許容している部分が存在するかのように説明することは誤った認識である。また、本当に「砂川判決の言う自衛の措置に限られるというふうに解釈」するのであれば、砂川判決が示している「自衛のための措置」は「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけであるから、この措置しかとることができないこととなる。

 「最高裁判決の範囲内であることは明白である」との説明があるが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないことから、「武力の行使」を伴う措置について「最高裁判決の範囲内であることは明白である」と述べることはできない。もし何も述べていないことについても「最高裁判決の範囲内であることは明白である」と説明できてしまうのであれば、9条が存在するにもかかわらず、砂川判決が何も述べていない「先に攻撃(先制攻撃)」についても、同様に「最高裁判決の範囲内であることは明白である」と説明できてしまうこととなり、法解釈として成り立たない。まったく「明白」ではない。

 「昭和四十七年の政府見解が示した自衛のための必要最小限度の武力の行使しか認められないという憲法解釈の基本的な論理を維持しておりまして」との説明があるが、正確な理解を必要とする。1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とは述べているが、「自衛のための必要最小限度の武力の行使しか認められない」と直接的に「自衛のための必要最小限度」との表現を使っていない。従来より「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたものは三要件(旧)であり、1972年(昭和47年)政府見解が「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と述べている部分は、この旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」に対応するものであるが、三要件のすべてを示しているわけではないし、「自衛のための必要最小限度」との文言も用いていないことから、正確にはやや違いがあるのである。ただ、論者が「自衛のための必要最小限度の武力の行使しか認められない」という規範を「維持」しているのであれば、旧三要件の範囲の「武力の行使」しか認めていないことを意味し、「存立危機事態」での「武力の行使」は行うことができない。さらに、「基本的な論理を維持しておりまして」と「基本的な論理」と称している部分を「維持」しているのであれば、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。

 「立憲主義に反するという御指摘も当たらない」との説明があるが、憲法9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「武力の行使」以外はすべて違憲としており、これを満たさない「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。憲法違反であるということは、「立憲主義に反する」ということであり、「御指摘」は当たることとなる。「立憲主義に反するという御指摘も当たらない」との説明は誤りである。

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第195回国会 参議院 憲法審査会 第1号 平成29年12月6日



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北村経夫

○北村経夫君

(略)
 国民の命、国の独立と繁栄に責任を持つことが責任政党の取るべき態度だと考えます。その上で申し上げたいことは、平和安全法制について集団的自衛権の限定行使を容認したのは、自衛隊について示された唯一の最高裁判決であります砂川事件判決の考え方の下許容できる範囲で解釈を一部改めたにすぎないということであります。また、昭和四十七年の政府見解が示した自衛のための必要最小限度の武力行使しか認めないという憲法解釈の基本的な論理維持しており立憲主義に反するという指摘は当たらないと考えます。
(略)

 

【筆者】

 「集団的自衛権の限定行使を容認した」との説明があるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定」との区分は存在しないことを押さえておく必要がある。また、「容認した」とあるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分から「存立危機事態」の要件を導き出すことはできないため、「容認」できるかのように説明している部分は誤りである。

 「自衛隊について示された唯一の最高裁判決であります砂川事件判決の考え方の下、」との説明があるが、誤りである。砂川事件判決は、米軍駐留について問われたものであり、日本国の統治権の『権限』によって保持される「自衛隊」について判断を行っていないし、何も示していない。それにもかかわらず、「自衛隊について示された唯一の最高裁判決」と説明することは誤りである。

 「許容できる範囲で解釈を一部改めたにすぎない」との説明があるが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないため、「武力の行使」を伴う措置について砂川判決の「許容できる範囲」と説明することはできない。もし砂川判決が何も述べていない部分について「許容できる範囲」と説明することができるのであれば、砂川判決は「先に攻撃(先制攻撃)」についても何も述べていないことから、「先に攻撃(先制攻撃)」についても砂川判決の「許容できる範囲」と説明できてしまうこととなるのであり、法解釈として成り立たない。「一部改めたにすぎない」との説明についても、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲としており、これを満たさないにもかかわらず「一部改めた」などと改めることができるかのように考えている部分が誤りである。「すぎない」との評価についても、9条に抵触する要件であることにより、たとえ論者が「すぎない」と過小評価しても違憲であることは変わらない。

 「昭和四十七年の政府見解が示した自衛のための必要最小限度の武力行使しか認めないという憲法解釈の基本的な論理を維持しており」との説明があるが、正確な理解を必要とする。従来より「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたものは三要件(旧)を意味している。1972年(昭和47年)政府見解は結論の部分で「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としていることから、旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」に対応するものとなっている。ただ、1972年(昭和47年)政府見解そのものが「自衛のための必要最小限度の武力行使しか認めない」と直接表現しているわけではないことは押さえる必要がある。また、論者が「自衛のための必要最小限度の武力行使しか認めない」という規範を「維持」しているのであれば、「自衛のための必要最小限度」の意味が旧三要件を指すことから、「存立危機事態」での「武力の行使」はこの範囲を超えるため行使することはできない。さらに、「基本的な論理を維持しており」とするのであれば、「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明するために用いられた文言であることから、ここに「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。このことから、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」を当てはめることはできず、「存立危機事態」での「武力の行使」は「基本的な論理」と称している部分によって違憲となる。

 「立憲主義に反するという指摘は当たらない」との説明があるが、「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないことから、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。憲法に違反するということは、立憲主義にも反するということであり、「立憲主義に反するという指摘は当たらない」との認識は誤りである。「指摘」は当たることとなる。

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第196回国会 参議院 憲法審査会 第1号 平成30年2月21日

 

 

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