基本的な論理 2





 ここでは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を中心に、答弁の誤りを確認する。






横畠裕介


〇 内閣法制局長官 横畠裕介


(下線・太字・色は筆者)

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横畠政府参考人 この昭和四十七年の政府見解は、憲法第九条のもとにおいて例外的に許容される武力の行使についての考え方を詳細に述べたものであり、その後の政府の説明も、ここで示された考え方に基づくものでございます。
 そこで、この昭和四十七年の政府見解でございますけれども、お示しのパネルのとおりでございまして、まず一つ目として、憲法は、第九条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において、全世界の国民が、平和のうちに生存する権利を有することを確認し、また、第十三条において、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、国政の上で、最大の尊重を必要とする旨定めていることからも、我が国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとは到底解されないとしております。
 この部分は、御指摘のありました砂川事件の最高裁判決の、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」という判示と軌を一にするものと理解されます。
 次に、二番目でございますが、しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右に言う自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて許容されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためにとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものであるとして、このような極限的な場合に限って例外的に自衛のための武力の行使は許されるという基本となる論理を示しております
 三つ目でございますが、その上で、結論として、そうだとすれば、我が憲法のもとで武力の行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないと言わざるを得ないとして、さきの基本論理に当てはまる極限的な場合としては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという見解が述べられているものと理解されます。

【動画】2014 07 14 衆院予算委「外交・安全保障政策」集中審議


【筆者】

 1972年(昭和47年)政府見解の「自衛のための措置(自衛の措置)」の規範部分(論者が『二番目』と称している部分)を示した後に、「自衛のための武力の行使は許されるという基本となる論理を示しております。」との記載があるが、誤りである。2014年7月1日閣議決定において1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、「自衛のための措置(自衛の措置)」を示したに留まり、未だ「武力の行使」の可否については述べていないからである。あたかも「基本的な論理」と称している部分に「武力の行使は許される」との内容が含まれているかのように説明することは誤りである。「武力の行使」については、論者が「三つ目」と称している「そうだとすれば、我が憲法のもとで武力の行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られる」との部分で初めて示されているのであり、これはいくつかある「自衛のための措置(自衛の措置)」の選択肢の中から「武力の行使」を選択した場合においても、「自衛のための措置(自衛の措置)」の限界による制約を受けることから、「我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られる」との結論が導かれる旨を示したものである。論者は、「基本的な論理」と称している部分で既に「武力の行使」は許容されており、その中で結論として「我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合(我が国に対する武力攻撃が発生した場合)」を当てはめたかのように説明しようとしているが、誤った認識である。正しい理解は「基本的な論理」と称している部分は「自衛のための措置(自衛の措置)」についてしか説明しておらず、この「自衛のための措置(自衛の措置)」の中に「武力の行使」を選択した場合にも「自衛のための措置(自衛の措置)」の規範と同様の制約を受けることから、「我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合(我が国に対する武力攻撃が発生した場合)」しか当てはまらない旨を述べたものである。1972年(昭和47年)政府見解は、この「基本的な論理」と称している部分の直前で、「わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」と示しており、国権の発動として「集団的自衛権の行使」による「武力の行使」を行うことは、「自衛の措置の限界をこえる」と説明しており、単に「武力の行使」として示した規範である「我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合(我が国に対する武力攻撃が発生した場合)」をこえると説明しているのではなく、「自衛の措置の限界をこえる」ことにより、「集団的自衛権の行使」が許されないと示しているものである。このことは、「武力の行使」について説明した「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」の部分と、「自衛の措置の限界」を示した「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、」の部分は同じ「限界」を示したものであることを裏付ける。これにより、「自衛の措置の限界」を示した「外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有しておらず、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」がここに当てはまることはない。

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横畠政府参考人 今般の閣議決定は、憲法第九条のもとでも例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和四十七年の政府見解基本論理維持し、その考え方を前提として、これに当てはまる極限的な場合は我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこれに当たるとしたものであり、その限りにおいて、結論の一部が変わるものでございますが、昭和四十七年の政府見解基本論理整合するものであると考えております。

【動画】2014 07 14 衆院予算委「外交・安全保障政策」集中審議


【筆者】

 「自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和四十七年の政府見解の基本論理を維持し、」との答弁があるが、2つの誤りがある。「昭和四十七年の政府見解の基本論理」と称している部分は「自衛の措置」について説明したものであり、「武力の行使」の可否については述べていない。「武力の行使が許される場合がある」との説明が「基本的な論理」の中に含まれているかのように説明することは誤りである。また、「維持し、」との説明があるが、「自衛の措置」の限界について説明した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有しておらず、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」がここに当てはまり、「維持し」ているかのように説明することは誤りである。

 「これに当てはまる極限的な場合は我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め」との答弁があるが、論理的に「存立危機事態」の要件に「認識を改め」ることはできないため、誤りである。論者は「基本的な論理」の部分で既に「武力の行使」が許されており、その許された「武力の行使」の幅の中に今まで「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限る旨を示していたかのように説明しようとしている。しかし「基本的な論理」と称している部分には未だ「武力の行使」が許容される旨は示されておらず、「自衛の措置」の限界を示しただけである。「これに当てはまる極限的な場合は我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識」とは、「自衛の措置」の限界の中に「武力の行使」を当てはめるとしても、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」との結論が論理的に導かれる旨を示したものであり、論者の説明のように「武力の行使」の許される幅の中に「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限るとの政策判断が働いていたかのように考えることは誤った認識である。1972年(昭和47年)政府見解の「そうだとすれば、……に限られる」の「られる」の文言も、「武力の行使」の限界が「自衛の措置」の限界によって導き出されるということを示した表現であり、もし政策判断によるものだとしたならば、「限られる」ではなく積極的に「限る」と表現することが通常のはずである。また、もし政策判断によるものだとしたならば、「そうだとすれば、」と前の文を引き受ける接続詞を用いることは不自然となるはずである。論者が「これまでの認識」と考えている部分は、これまで文面を論理的に読み解いていただけである。それにもかかわらず、「これまでの認識」の中にあたかも政策判断が働いていたかのように考えようとすることは、文面を正確に読み取ろうとするものではないし、そもそも「基本的な論理」と称している文の直前にある「自衛の措置の限界」との文言との論理的整合性も失わせることとなるものであり、法解釈として成り立たず、妥当でない。「これまでの認識」とは、単に「自衛の措置」の限界である「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に「武力の行使」の限界も拘束される旨を示したものであり、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言も「我が国に対する武力攻撃」を示したものであるから、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに含まれない。よって、「これに当たるとしたもの」などと、これまでの認識を改め」て「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件が当てはまるかのように考えている部分は誤りである。

 「昭和四十七年の政府見解の基本論理と整合するものである」との答弁があるが、誤りである。「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、1972年(昭和47年)政府見解が「わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」ことを説明する際の「自衛の措置」の限界を示した部分であり、ここに「集団的自衛権の行使」を許容する「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃の事例が当てはまることはない。そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味し、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。よって、「存立危機事態」の要件が「昭和四十七年の政府見解の基本論理と整合するものである」との認識は、論理的に整合しないため誤りである。

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横畠政府参考人 先ほどもお答えしたとおり、新三要件は、昭和四十七年の政府見解における基本論理維持し、その考え方を前提としたものであり、御指摘の「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という部分は、昭和四十七年の政府見解の「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」に対応するものでございます。
 これまで、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみが、昭和四十七年の政府見解に言う「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」に当たると解してきたということを踏まえると、第一要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」とは、他国に対する武力攻撃が発生した場合において、そのままでは、すなわち、その状況のもと、国家としてのまさに究極の手段である武力を用いた対処をしなければ、国民に、我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況であるということをいうものと解されます。
 いかなる事態がこれに該当するかは、個別具体的な状況に即して判断すべきものであり、あらかじめ定型的、類型的にお答えすることは困難でありますが、いずれにせよ、この要件に該当するかどうかについては、実際に他国に対する武力攻撃が発生した場合において、事態の個別具体的な状況に即して、主に攻撃国の意思、能力、事態の発生場所、その規模、態様、推移などの要素を総合的に考慮し、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民がこうむることとなる犠牲の深刻性、重大性などから客観的、合理的に判断することになります。
 なお、明白な危険というのは、その危険が明白であること、すなわち、単なる主観的な判断や推測等ではなく、客観的かつ合理的に疑いなく認められるというものであることと解されます。

【動画】2014 07 14 衆院予算委「外交・安全保障政策」集中審議


【筆者】

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横畠政府参考人 今般の閣議決定は、平和主義を具体化した規定でございます憲法第九条のもとでも、極限的な場合に限っては例外的に自衛のための武力の行使が許されるという、先ほど御紹介もございました昭和四十七年の政府見解基本論理維持し、その考え方を前提としたものでございます。
 その意味で、これまでの憲法第九条をめぐる議論と整合する合理的な解釈の範囲内のものであり、憲法の基本原則である平和主義をいささかも変更するものではないと考えております。
 その意味で、昭和四十七年の政府見解基本論理維持し、今回の閣議決定に至ったわけでございますけれども、そこで示されました新三要件を超える、それに該当しないような武力の行使につきましては、現行の憲法第九条の解釈によってはこれを行使するということを認めることは困難であると考えておりまして、そこに及ぶ場合には憲法改正が必要であろうと考えております。

【動画】三要件以外の「集団的自衛権の行使」を認めることは困難 法制局長官 横畠裕介7/14衆院

【筆者】

 「自衛のための武力の行使が許されるという、」「昭和四十七年の政府見解の基本論理を維持し、」との答弁があるが、2つの誤りがある。「昭和四十七年の政府見解の基本論理」と称している部分は「自衛の措置」についてしか述べておらず、未だ「武力の行使」の可否については述べていない。そのため、「基本的な論理」と称している部分があたかも武力の行使が許される」としているかのように説明することは誤りである。また、「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に当てはまらない。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解は「わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」ことを説明する文章であり、「自衛の措置の限界」によって「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が憲法上許されないとする結論が導き出される旨を説明しているのであり、この「自衛の措置の限界」を示した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「集団的自衛権の行使」を可能とする「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃の場合が含まれていると考えることは論理的整合性がないからである。よって、「昭和四十七年の政府見解の基本論理を維持し、」などと、「存立危機事態」の要件があたかも「基本的な論理」の中に当てはまり、「基本的な論理」を維持することができるかのように述べていることは誤りである。

 「その考え方を前提としたものでございます。」との答弁もあるが、「基本的な論理」と称している考え方を前提としているのであれば、「存立危機事態」の要件は論理的に違憲となる。

 「憲法第九条をめぐる議論と整合する合理的な解釈の範囲内のもの」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を示しており、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。よって、「整合」せず、「合理的な解釈」では導かれず、「基本的な論理」と称している部分の「範囲内のもの」とは言えない。よって、「整合する合理的な解釈の範囲内のもの」との答弁は誤りである。もし「整合する合理的な解釈の範囲内のもの」と結論を述べるだけで正当化できてしまうのであれば、「先制攻撃(先に攻撃)」や「侵略戦争」についても「整合する合理的な解釈の範囲内のもの」と述べるだけで9条に抵触しないと正当化することができてしまうのであり、法解釈として成り立たない。法解釈は論理的整合性の積み重ねによって正当性が生み出されるのであり、そのプロセス(過程)に誤りがあるにもかかわらず、「整合する合理的な解釈の範囲内のもの」と述べるだけで正当化できるかのように論じるようとすることはできない。

 「平和主義をいささかも変更するものではない」との答弁があるが、誤りである。「平和主義」の理念は前文に示されており、9条はその理念を具体化した規定であるとされている。「存立危機事態」という9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に論理的に当てはまらない要件を定めたことは、9条に抵触するということであり、9条の規定が損なわれていることを意味する。これは、前文「平和主義」の理念を具体化した9条の規定が損なわれているということであるから、「平和主義」の理念が具体化されていないことを意味するのであり、「平和主義」の理念も同時に損なわれている。よって、「平和主義をいささかも変更するものではない」との答弁は誤りである。

 「昭和四十七年の政府見解の基本論理を維持し、」との答弁があるが、先ほども述べたように「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないのであり、「維持し、」と説明することはできない。

 「新三要件を超える、それに該当しないような武力の行使につきましては、現行の憲法第九条の解釈によってはこれを行使するということを認めることは困難であると考えておりまして、そこに及ぶ場合には憲法改正が必要であろうと考えております。」との答弁があるが、誤りである。まず、新三要件の「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に当てはまらないのであり、既に9条に抵触して違憲である。よって、憲法上「存立危機事態」での「武力の行使」を認めることはできないのであり、「存立危機事態」での「武力の行使」までは憲法上許されるかのように説明していることが誤りである。また、「存立危機事態」の要件は既に1972年(昭和47年)政府見解に抵触して違憲であり、この1972年(昭和47年)政府見解の形以外に妥当な9条解釈も見いだせないのであれば、既に憲法改正が必要な事項である。「存立危機事態」での「武力の行使」までは憲法改正が必要ないかのように論じている部分が誤りである。

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横畠政府参考人 もとより、この考え方につきましては、今後さらに国会における御議論を経て評価されることになると存じますが、私どもといたしましては、先ほども申し上げましたが、昭和四十七年の政府見解で示された基本論理枠内におさまっている、すなわち整合性が保たれている、そういう意味で、解釈によって可能なものであるというふうに考えております。

【動画】安倍と法制局長官 「集団的自衛権の行使」憲法解釈の変更7/14衆院 2014/07

【筆者】

 「枠内におさまっている」「整合性が保たれている」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、1972年(昭和47年)政府見解が「わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」ことを説明する際の「自衛の措置」の限界を示した部分であり、ここに「集団的自衛権の行使」を許容する「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃の事例が当てはまることはない。そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は当てはまらないため、「枠内におさまっている」「整合性が保たれている」と説明することは誤りである。

 「解釈によって可能なものである」との答弁もあるが、論理的に不可能であり、「可能なもの」とすることはできない。

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横畠政府参考人 このたびの閣議決定は、憲法第九条のもとでも例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和四十七年の政府見解基本論理維持し、この考え方を前提として、これに当てはまる極限的な場合は我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこれに当たるとしたものであり、そのような場合があり得るということを前提にするならば、その意味で合理的な解釈であるというふうに認められるということでございます。

【動画】安倍と法制局長官 「集団的自衛権の行使」憲法解釈の変更7/14衆院 2014/07

【筆者】

 「自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和四十七年の政府見解の基本論理を維持し、」との答弁があるが、2つの誤りがある。「昭和四十七年の政府見解の基本論理」と称している部分は「自衛の措置」についてしか説明しておらず、「武力の行使が許される場合がある」とは説明していない。また、「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分に当てはまらず、「維持し、」などと、維持することができるかのように説明することは誤りである。

 「これまでの認識を改め、」との答弁があるが、「これまでの認識」とは、「自衛の措置」の限界による制約によって「武力の行使」の限界を導き出されるという論理的な過程によるものである。また、論者は「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が当てはまる余地があるかのように考えて、「自衛の措置」の規範(論者は『武力の行使』も許されると勝手に考えている部分)が「武力の行使」の限界を示した部分(論者が『結論』や『三つ目』と名付けている部分)よりも広いかのように考え、あたかも「これまでの認識」は政策判断が介入して「武力の行使」の発動要件を「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」としてきたかのように考えているようであるが、「自衛の措置」の限界を示した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有しておらず、「自衛の措置」の限界を示した規範部分が「武力の行使」の限界を示した部分よりも広いかのように考えることはできない。よって、論者の考える「これまでの認識」との認識が誤っているし、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらないことから、「認識を改め」ることはできない。「これまでの認識を改め、」などと、改めることで「存立危機事態」の要件を合憲とすることができるかのように説明している部分が誤りである。

 「これに当たるとしたもの」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらないため、誤りである。

 「そのような場合があり得るということを前提にするならば、」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲となるのであり、「そのような場合」などと、これを満たさない「武力の行使」が可能となる余地があるかのように説明することが誤りである。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範である。論者は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有しないことを認めていないが、これがもし「我が国に対する武力攻撃」に限られないのであれば、結局1972年(昭和47年)政府見解そのものが「自国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ること制約する規範として意味を為さなくなってしまうのであり、法解釈として妥当でなくなってしまう。そのため、このように「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」に限らないものと読むことは、1972年(昭和47年)政府見解を9条解釈として成り立たないものにするのであり、その法解釈として成り立っていない1972年(昭和47年)政府見解を基にして「存立危機事態」の要件を正当化しようとすることはできない。なぜならば、9条の規定が有している趣旨と、9条解釈の枠組みとして示された1972年(昭和47年)政府見解の規範の文言の意味とを乖離させる読み方だからである。法解釈においては、1972年(昭和47年)政府見解という解釈枠組みの規範として示された文言と、9条の規定そのものとを切り離して考えることはできない。論者は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の文言そのものがあたかも憲法上の条文であるかのように考え、それを唯一の根拠として「存立危機事態」の要件を正当化することに利用しようと試み、その上位規範である9条そのものの趣旨と切り離して考えたところに誤りがある。そのため、「そのような場合があり得るということを前提にするならば、」などと、1972年(昭和47年)政府見解の文言と文言のみをつなぎ合わせ、9条の条文そのものの趣旨と離れて規範を創作しようとした手続きは正当化することができない。これにより、「存立危機事態」の要件は、9条の趣旨を適切に反映した1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の本来の意味の中に当てはまらず、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。

 「合理的な解釈である」との答弁もあるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に論理的に当てはまらないのであり、「合理的な解釈である」とは言えない。 

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第186回国会 衆議院 予算委員会 第18号 平成26年7月14日



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政府参考人(横畠裕介君) この点は、今般の閣議決定において示された見解は、昭和四十七年の政府見解基本論理維持したものであると説明させていただいております。
 その根幹となるところは、簡単に言いますと、我が国及び国民に深刻、重大な害が及ぶ、その危険が現実にあるというときに、さすがの憲法第九条においても武力の行使を認めると、さすがの憲法も武力の行使を禁じているということまでは解されないということで一貫しているということでございます。


【筆者】

 「昭和四十七年の政府見解の基本論理を維持したものである」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば、ここに「存立危機事態」の要件は当てはまらないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となる。
 「その根幹となるところは、簡単に言いますと、我が国及び国民に深刻、重大な害が及ぶ、その危険が現実にあるというときに、さすがの憲法第九条においても武力の行使を認めると、さすがの憲法も武力の行使を禁じているということまでは解されないということで一貫している」との答弁があるが、誤りである。まず、「その根幹となるところ」と表現している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範部分は、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」である。ここには「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在しており、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味し、これを満たさないのであれば「自衛の措置」を発動することはできない。よって、論者は単に「我が国及び国民に深刻、重大な害が及ぶ、その危険が現実にあるというとき」に「自衛の措置」を認めているかのように説明しようとしているが、論者が勝手にそう考えているだけであり、根拠のない誤った主張である。次に、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、「自衛の措置」の限界を示したものであり、「武力の行使」の可否については述べていない。よって、「昭和四十七年の政府見解の基本論理」を指して、「その根幹となるところは、」と話しを繋ぎ、「さすがの憲法第九条においても武力の行使を認めると、さすがの憲法も武力の行使を禁じているということまでは解されないということで一貫している」のように、「基本的な論理」と称している部分があたかも「武力の行使」まで許容しているかのように説明することは誤りである。1972年(昭和47年)政府見解において「武力の行使」について初めて示されたのは、「基本的な論理」と称している部分の次の文であり、「そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と記載された部分である。

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政府参考人(横畠裕介君) 今般の閣議決定は、憲法第九条の下でも例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるとする昭和四十七年の政府見解基本論理を維持し、その考え方を前提としております。これに当てはまる極限的な場合は、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこれに当たるとしたものであり、その限りにおいて結論の一部が変わるものでございますけれども、論理的整合性は保たれておると考えております。(発言する者あり)

【動画】横畠裕介 内閣法制局長官の答弁記録 7/15参院

【筆者】

 「自衛のための武力の行使が許される場合があるとする昭和四十七年の政府見解の基本論理を維持し、」との答弁があるが、2つの誤りがある。昭和四十七年の政府見解の基本論理」と称している部分は「自衛の措置」について説明したものであり、「武力の行使」が許されるとは述べていない。また、「維持し、」との答弁についても、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらず、「維持し」ているとは言えない。もし確かに「維持し」ているのであれば、「存立危機事態」の要件はその「基本的な論理」と称している部分によって違憲となる。

 「これまでの認識を改め、」との答弁があるが、「これまでの認識」とは、「自衛の措置」の限界から「武力の行使」の限界が論理的に同一の規範として導かれることであり、あたかも「自衛の措置」の限界を示した規範部分が「武力の行使」の限界を示した規範部分よりも広く、当時の国際情勢などを勘案して政策判断として「武力の行使」の限界を「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきた」かのように考えることはできない。1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言による規範と「武力の行使」の限界を示した「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合(我が国に対する武力攻撃が発生した場合)」規範が同一である理由は、1972年(昭和47年)政府見解が「わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」ことを説明した文章であり、「自衛の措置の限界」を示した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「集団的自衛権の行使」にあたる「我が国に対する武力攻撃」が発生していない場合の武力攻撃が含まれると読むことは論理的整合性が保たれないからである。よって、「これまでの認識」もこれからの認識も、法解釈としての論理法則に基づくのであって、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれることはなく、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」を満たさない「存立危機事態」の要件を正当化する根拠にならない。

 「これに当たるとしたもの」との答弁があるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらない。

 「結論の一部が変わるもの」との答弁があるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、変えることはできない。

 「論理的整合性は保たれておる」との答弁があるが、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有しないにもかかわらず、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに当てはまると説明しようとしていることは論理的整合性は保たれておらず、誤りである。

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政府参考人(横畠裕介君) 今般の閣議決定は、憲法第九条の下でも一定の例外的な場合に自衛のための武力の行使が許されるという昭和四十七年の政府見解基本論理を維持し、この考え方を前提として、これに当てはまる極限的な場合は、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこれに当たるとしたものであり、これまでの憲法第九条をめぐる議論と整合する合理的な解釈の範囲内のものであると考えております。

 したがいまして、今般の閣議決定は、憲法改正によらなければできないことを解釈の変更で行うという意味での、いわゆる解釈改憲には当たらないものでございます。


【筆者】

 「自衛のための武力の行使が許されるという昭和四十七年の政府見解の基本論理を維持し、」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」を説明した部分であり「武力の行使が許される」とは述べていないし、「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、「維持」していると説明することは誤りである。もししっかりと「維持」しているのであれば、「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分によって、違憲となる。

 「これに当たるとしたもの」と、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件が当てはまるかのように説明しているが、当てはまらないため誤りである。

 「整合する合理的な解釈の範囲内のもの」との説明があるが、「基本的な論理」と称している部分に論理的に整合しないし、論理的に整合しないことは合理的でもないし、「基本的な論理」と称している部分の「解釈の範囲内のもの」とも言えない。誤りである。

 「憲法改正によらなければできないことを解釈の変更で行うという意味での、いわゆる解釈改憲には当たらない」との答弁があるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解に当てはまらないのであり、既に「憲法改正によらなければできないこと」に該当する。あたかも「存立危機事態」の要件が憲法の範囲内であるかのように説明していることが誤りである。

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政府参考人(横畠裕介君) まさにその昭和四十七年の政府見解基本論理との整合性が保てるものとしてこの新三要件は定められているものと理解しております。


【筆者】

 「整合性が保てるもの」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有しておらず、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は当てはまらないため、整合性が保たれていない。よって、「整合性が保てるもの」と説明することは誤りである。

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第186回国会 参議院 予算委員会 閉会後第1号 平成26年7月15日



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政府特別補佐人(横畠裕介君) 御指摘の平成十六年六月十八日付けの島聡衆議院議員に対する政府答弁書は、昭和四十七年の政府見解で示された考え方に基づいて、「憲法第九条は、外部からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合にこれを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないと解している。」としているものであり、この「外部からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合」とは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のことを言っており、昭和四十七年の政府見解に言う「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」に対応するものでございます。
 一方、今般の閣議決定も昭和四十七年の政府見解基本論理維持し、その考え方を前提として、これに当てはまる極限的な場合は、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」も、この昭和四十七年政府見解に言う「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」に当てはまるとしたものでございます。
 また、お尋ねの七月十四日の衆議院予算委員会における答弁においては、第一要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」とは、他国に対する武力攻撃が発生した場合において、そのままでは、すなわち、その状況の下、国家としてのまさに究極の手段である武力を用いた対処をしなければ、国民に、我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況であることをいうものと解される旨お答えしたところであり、この他国に対する武力攻撃が発生した場合であっても、国民に、我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況にあるのであれば、昭和四十七年政府見解に言う「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」に当てはまると考えられるということを述べたものでございます。


【筆者】

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第187回国会 参議院 外交防衛委員会 第2号 平成26年10月16日



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政府特別補佐人(横畠裕介君) 昭和四十七年の政府見解、これは維持しています。その前提の上で、これまでは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみ、今その要件に当たると理解していたわけですけれども、その認識を改めまして、他国に対する武力攻撃が発生した場合においても、その四十七年基本的な論理該当するものがあり得るという整理をしたものがこの七月一日の閣議決定でございます。


【筆者】

 「昭和四十七年の政府見解、これは維持しています。」との答弁があるが、維持しているのであれば、「存立危機事態」の要件はこれに当てはまらず、違憲である。

 「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみ、今その要件に当たると理解していたわけですけれども、その認識を改めまして、」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有しないのであり、「自衛の措置」の中の選択肢の一つである「武力の行使」について、これを満たさない要件に改めることはできない。「当たると理解していたわけですけれども、」との答弁があるが、これまでもこれからも「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみ」しか理解することはできない。

 「他国に対する武力攻撃が発生した場合においても、その四十七年の基本的な論理に該当するものがあり得るという整理をしたもの」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」ことを説明する中で「自衛の措置の限界」として示されているものであるから、「集団的自衛権の行使」にあたる「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合以外の武力攻撃がここに含まれることは論理的にあり得ず、「他国に対する武力攻撃が発生した場合」が「四十七年の基本的な論理に該当する」と考えることはできない。よって、「あり得ると整理をしたもの」との認識は、論理的に成り立たないのであって、「整理」することはできない。「整理」することができるかのように説明することは誤りである。

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第187回国会 参議院 外交防衛委員会 第6号 平成26年11月6日



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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 今般の閣議決定は、憲法第九条の下でも例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和四十七年の政府見解基本論理を維持し、この考え方を前提として、これに当てはまる極限的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこれに当てはまるとしたものであり、これまでの憲法第九条をめぐる議論と整合する合理的な解釈の範囲内のものであると考えております。
 なお、このような自衛の措置としての武力の行使は、国際法上は集団的自衛権が根拠、違法性阻却事由となる場合がありますが、自国防衛と重ならない他国防衛のために武力を行使することができる権利として観念されるいわゆる集団的自衛権の行使を認めるものではございません。


【筆者】

 「自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和四十七年の政府見解の基本論理を維持し、」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、「自衛の措置」について示したものであり、「武力の行使」の可否については述べていないからである。「基本的な論理」と称している部分に「武力の行使が許される場合がある」と記載されているかのように説明することは誤りである。


 「この考え方を前提として、これに当てはまる極限的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、」との答弁があるが、誤った理解である。まず、「この考え方を前提として、」の部分であるが、先ほども述べたように、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「武力の行使」の可否について述べておらず、論者の誤った「考え方」を「前提」とすることは誤りとなる。「これに当てはまる」の部分についてであるが、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界となる規範を示しており、ここに示された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味していることから、「これに当てはまる」「武力の行使」の規範は「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」こととなる。これは、「自衛の措置」の限界の規範に「武力の行使」を当てはめることにより得られる論理的な帰結である。

 論者はあたかも「基本的な論理」と称している部分で既に「武力の行使」が許されると示しており、その部分では「我が国に対する武力攻撃」に限られていないかのように考えた上で、裁量判断の余地のある部分に「これまでの認識」という政策判断が介入したことによって「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」との規範が示されていたかのように主張しようとしてる。しかし、1972年(昭和47年)政府見解は「自衛の措置の限界」によって憲法上「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が許されない旨を示した文章であり、その「自衛の措置の限界」を示した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に「集団的自衛権の行使」を可能とする余地のある「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるはずはなく、「自衛の措置」の規範を示した部分は既に「我が国に対する武力攻撃」に限られており、この「自衛の措置」の規範に「武力の行使」を当てはめるとしても、もともと裁量判断の余地はないし、政策判断が介入することもできない。よって、論者が「これまでの認識」という政策判断が介入しているかのような主張は誤りである。また、この部分は単に「自衛の措置」の規範に「武力の行使」を当てはめる場合の論理展開しか存在しないものであるから、この論理展開の意味は当時もこれまでも現在もこれからも変化することのないものであるから、「これまでの認識を改め、」などと、「改め」ることはできない。「改め」ることができるかのような説明は誤りである。


 「これに当てはまるとしたもの」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は論理的に当てはまらないため誤りである。
 「これまでの憲法第九条をめぐる議論と整合する合理的な解釈の範囲内のものである」との答弁があるが、「これまでの憲法第九条をめぐる議論」の指す1972年(昭和47年)政府見解などと論理的に「整合」することはなく、論理的に「整合」することはないということは「合理的」とは言うことができず、「整合する合理的な解釈の範囲内のもの」との主張は誤りである。


 「自国防衛と重ならない他国防衛のために武力を行使することができる権利として観念されるいわゆる集団的自衛権の行使を認めるものではございません。」との答弁があるが、誤りである。

 まず、国際法上「集団的自衛権」に該当するならばそれは「集団的自衛権」でしかない。そのため、「集団的自衛権」に該当する要件を満たすことによって国際法上の「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を行おうとしているにもかかわらず、それを「集団的自衛権の行使を認めるものではございません。」と説明することはできない。

 次に、「自国防衛と重ならない他国防衛のために武力を行使することができる権利として観念されるいわゆる集団的自衛権」の部分であるが、誤った理解である。ここでは論者が勝手に国際法上の「集団的自衛権」の区分を「自国防衛と重なる他国防衛のため」と「自国防衛と重ならない他国防衛のため」とに区別していることになるが、国際法上はどちらも「集団的自衛権」でしかないのであり、法学上は意味が通らない主張となっている。

 「自国防衛と重ならない他国防衛のために武力を行使することができる権利として観念されるいわゆる集団的自衛権」との主張であるが、論者は国際法上の「集団的自衛権」の区分を勝手に『自国防衛』と『他国防衛』に切り分け、『他国防衛』の「武力の行使」でなければ9条の下でも許されるのではないかと期待を込めているように見受けられる。しかし、9条は「武力の行使」を制約する規範であり、国際法上の「自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分とは直接的に関係がない。また、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲となるのであり、『他国防衛』の「武力の行使」が違憲となり許されないことは当然、たとえ『自国防衛』の「武力の行使」であったとしてもこれを満たさないのであれば違憲となり許されない。よって、「自国防衛と重ならない他国防衛のために武力を行使することができる権利として観念されるいわゆる集団的自衛権の行使を認めるものではございません。」と主張したところで、「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触しないことを説明したことにはならない。

 論者自身も、下記の答弁にて、「集団的自衛権」であるか否かは関係がない旨を述べている。それにもかかわらず、「集団的自衛権」の中身を『自国防衛』と『他国防衛』に切り分けて正当化しようとする発想そのものが意味のない主張となっているのである。

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○横畠政府特別補佐人 私の発言についてのお尋ねでございますので、短くお答えさせていただきます。
 憲法上は、個別的自衛権あるいは集団的自衛権という概念はないということを申し上げたものでございます。
 国際法上の概念として、つまり違法性が阻却される場合の要件として、個別的自衛権、つまり自国に対する武力攻撃が発生した場合の自衛権、それから集団的自衛権、密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合の自衛権という概念整理がされているということで、憲法自身にそのような区分があるわけではない
 これまでの憲法解釈において、憲法九条のもとで個別的自衛権の行使のみが許されるというふうにお話ししてきましたのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合においては、まさに自国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される場合に当たることを理由として武力の行使が許されるということを述べてきたもので、我が国に対する武力攻撃が発生した場合の武力の行使であるということで、国際法上の概念をいわばかりてきまして、個別的自衛権の行使が許されると説明してきたということを申し上げたわけでございます。
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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第8号 平成27年6月10日


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○横畠政府特別補佐人
(略)
 ところで、砂川判決は、今御紹介したとおり、固有の自衛権というのみでございまして、個別的自衛権、集団的自衛権という区別をして論じていないわけでございます。このことは、国際法上、国際連合憲章において両者の区別があるわけで、その区別があるものの、憲法におきましてはそもそも自衛権についての規定がなく、その区別自体が憲法上のもの、憲法に由来するものではないということと整合するものと理解されます。
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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第10号 平成27年6月15日


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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 憲法第九条の下で我が国としていかなる場合に武力の行使ができるのかという、その国内法上の問題と、国際法上、ある国の、我が国を含めてでございますけれども、武力の行使が適法である、つまり違法性阻却事由を備えるかということは法的には別の問題であるという整理をしております。
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第189回国会 参議院 予算委員会 第10号 平成27年3月20日

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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 昭和四十七年の政府見解は、まず、憲法第九条の下でも例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという基本論理を示した上で、これに当てはまる場合は、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという当時の認識の下で、結論として、そうだとすれば、我が憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られるとしているものであるということでございます。


【筆者】

 「昭和四十七年の政府見解は、まず、憲法第九条の下でも例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという基本論理を示した上で、」との答弁があるが、誤りである。なぜならば、「昭和四十七年の政府見解」の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」について説明しているものであり、「武力の行使」については説明していないからである。この「自衛の措置(自衛のための措置)」は砂川判決と軌を一にする部分であるが、砂川判決では日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないのであり、軌を一にするものとして説明される「自衛の措置」の部分には、未だ「武力の行使」については示されていないのである。「武力の行使」については、その次の文で「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」として初めて示されるのであり、この「武力の行使」の措置こそが、政府(行政権)が裁判所(司法権)の砂川判決の「自衛の措置」の中に独自に含まれると主張しているものである。「基本的な論理」と称している部分が既に「武力の行使」を許容しているかのように説明することは誤りである。この説明は2014年7月1日閣議決定においても、1972年(昭和47年)政府見解を正確に抜き出しておらず、誤っているため注意が必要である。

 「これに当てはまる場合は、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという当時の認識の下で、」との答弁があるが、誤りである。「武力の行使」について「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」とする文は、その直前で「自衛の措置」の限界が示されていることに付随する論理的な繋がりによるものであり、「当時の認識」などという情勢の変化によって導かれるものではないからである。法解釈の論理的な過程として示されている文面を、あたかも情勢の変化などという法律論ではない事情が規範を確定する基準となっているかのように考えている部分が誤りである。

 「自衛の措置の限界」によって、「集団的自衛権の行使」が否定されるとする根拠は、1972年(昭和47年)政府見解の中に確認することができる。


1972年(昭和47年)政府見解
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 国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第 51 条、日本国との平和条約第5条(c)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない
 ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつているが、これは次のような考え方に基づくものである
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 「集団的自衛権」の定義は、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止することが正当化されるという地位」のことである。上記の通り、「集団的自衛権の行使」が憲法上許されないとする理由は「自衛の措置の限界をこえる」ことによるものであり、それは「自国が直接攻撃されていない」ことが理由である。「自衛の措置の限界をこえる」の文言には、「自国が直接攻撃されて」いるか否かが既に問われており、この「自衛の措置」の範囲を示した「基本的な論理」と称している部分には既に「自国が直接攻撃されて」いるか否かの論点が含まれている。よって、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言には、「我が国に対する武力攻撃」の意味でしかないのであって、ここに「他国に対する武力攻撃」が含まれたならば、1972年(昭和47年)政府見解そのものが「集団的自衛権の行使」について「自衛の措置の限界をこえる」と説明していたことが誤った見解であったということになる。そうなると、2014年7月1日閣議決定は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとされているが、これは1972年(昭和47年)政府見解が誤った見解であることを2014年7月1日閣議決定が自ら認め、その上で1972年(昭和47年)政府見解の文面を抜き出しながらもその意味を改変する作業をしたということとなる。このような作業は、法解釈とは言うことができず、手続き上違法である。

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○政府特別補佐人(横畠裕介君) この昭和四十七年の政府見解の論理の組立てからいたしますと、その基本論理基本論理でございまして、そこから結論を導くための事実認識というのがございまして、そこは先ほど申し上げましたとおり、当時、この基本論理に当てはまる場合としては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると、そういう認識を前提としてこの結論が導かれたものと理解しております。


【筆者】

 「その基本論理は基本論理でございまして、そこから結論を導くための事実認識というのがございまして、」との答弁があるが、「事実認識」というものが法論理の枠外のものを指しているのであれば、誤りである。

 まず、1972年(昭和47年)政府見解は「わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」ことを説明する文章である。この「自衛の措置の限界」との規範によって「集団的自衛権の行使」が憲法上許されないのであるから、「自衛の措置」の限界となる規範を示した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が入る余地はない。もし「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「他国に対する武力攻撃」が含まれると考えた場合、「自衛の措置」の限界を示した規範が「集団的自衛権の行使」を可能としうるものということになり、先ほどの「集団的自衛権の行使」に関して「憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるもの」との説明と矛盾することとなり、文章全体が論理的に成り立たないものとなってしまうのである。よって、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味である。

 論者は「自衛の措置」の限界を示した規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限定されていないと考えた上で、法の枠外にある「事実認識」というものによって政府が政策的に「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」との規範を結論付けていたかのように考えているようである。しかし、先ほども述べたように論理的には「自衛の措置」の限界を示した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」に限定されており、いくつかある「自衛の措置」の選択肢の一つとして「武力の行使」を行う場合にも「自衛の措置」の限界に拘束されるという繋がりが示された文面のものである。ここには、「事実認識」など持ち出す隙もなく、単なる文面上の論理展開のみによって結論を導き出すことのできるものであり、法学の枠外にある「事実認識」などという政策的な意図が入り込んでいるかのような読み方は成り立たない。

 「当時、この基本論理に当てはまる場合としては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると、そういう認識を前提としてこの結論が導かれたもの」との答弁があるが、誤った認識に基づく主張となっている。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」について説明した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有しないのであり、「武力の行使」の規範について述べた結論部分においてもその規範はそのまま引き継がれるのであって、同じ規範である。これは通常の論理展開によって導かれ、確定する結論であるから、「当時」も現在もこれからも全く揺るぎないものである。論者は、「当時」は「当てはまる場合」が「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」と認識していたが、現在やこれからは「当てはまる場合」が「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られないかのように考えているが、「自衛の措置」の限界を記した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」に限られておらず、「武力の行使」の限界について記した結論部分よりも「自衛の措置」の限界が広いかのように読み取ろうとしたところから生まれた誤りである。よって、論者の言う「そういう認識を前提としてこの結論が導かれた」との理解は誤りであり、当時も現在もこれからも「自衛の措置」の限界を記した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」に限られており、「武力の行使」の限界についても「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られ、その結論が導かれるのである。他の結論を導くことができるかのように説明している部分が誤りである。

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○政府特別補佐人(横畠裕介君) この問題は、なかなかその従前の憲法解釈というものについては、その結論部分について歴代、詳細にお答えしているところでございますが、この基本的な論理まで遡ってしっかりと検討したというのは、今回の閣議決定に至る過程の中でございます。
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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 基本論理のこの部分……(発言する者あり)
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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 今回の新三要件の下で認められます我が国の自衛の措置、これはやはり、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られるということでございまして、いわゆる他国を防衛することができる権利として観念される集団的自衛権、フルセットと言っても構いませんが、それを認めたものではありません
 現在におきましても、まさに、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権、フルセットの集団的自衛権は、この四十七年見解基本論理の下においては認められないということでございます。


【筆者】

 「新三要件の下で認められます我が国の自衛の措置、これはやはり、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られるということでございまして、いわゆる他国を防衛することができる権利として観念される集団的自衛権、フルセットと言っても構いませんが、それを認めたものではありません。」との答弁があるが、誤った認識がある

 まず、「我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られるということでございまして、」の部分であるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機などを理由として『自国防衛』を称して政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であり、「我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置」であるからといって、必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。自衛を目的として戦争に踏み切ること(自衛戦争)は幾度も経験しており、政府も従来より9条はこのような行為を制約するものである旨を述べている。


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○政府委員(大森政輔君) そこが個別的自衛権に基づく自衛行動と、それから自衛戦争の違いでございまして、先ほど私が申し上げましたのは、個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います。
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第145回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成11年3月8日


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○政府委員(秋山收君) 

(略)

 自衛戦争というのは、国際法上確立した概念があるものではございませんが、したがいまして、法的な概念ではなく、一般的な概念として、国家が自己を防衛するために行う戦争を指すものと考えております。
 それで、このような戦争一般でございますが、交戦権を当然に伴うものであるとされておりますが、ここに言う交戦権、あるいはこれは憲法九条の交戦権も同じでございますが、単に戦いを交える権利という意味ではございませんで、伝統的な戦時国際法における交戦国が国際法上有する種々の権利の総称でありまして、相手国兵力の殺傷及び破壊、相手国の領土の占領、そこにおける占領行政、それから中立国船舶の臨検、敵性船舶の拿捕などを行うことを含むものを指すものというふうに従来からお答えしてきているところでございます。
 自衛戦争の際の交戦権というのも、自衛戦争におけるこのような意味の交戦権というふうに考えています。このような交戦権は、憲法九条二項で認めないものと書かれているところでございます。
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第145回国会 参議院 外交・防衛委員会 第5号 平成11年3月15日


よって、「我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られる」と述べたところで、その「武力の行使」が9条に抵触しないことを説明したことにはならない。1972年(昭和47年)政府見解においても、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」と言いつつも、「しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」と示しており、たとえ「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置」(論者の言う『我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置』)であったとしても9条の下では必ずしも正当化されるわけではないとしている。そのため、論者が「存立危機事態」に基づく「武力の行使」が「我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られる」ものであると主張しても、それが9条に抵触しないことを根拠付ける説明とはなっていない。


 次に、「いわゆる他国を防衛することができる権利として観念される集団的自衛権、フルセットと言っても構いませんが、それを認めたものではありません。」の部分についても誤りがある。「集団的自衛権」とは国連憲章51条に示された『権利』であり、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由としての概念である。「武力の行使」を行っても、この要件に該当したならば、国際法上「集団的自衛権の行使」として認定され、国際法上の責任を問われないというものである。国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「フルセット」か否かなどという区分は存在していない。

 また、憲法9条は「武力の行使」を制約する規定であり、9条の下で許容される「武力の行使」であれば、たとえその「武力の行使」が国際法上「個別的自衛権」に該当しようが「集団的自衛権」に該当しようが合憲であることは変わらない。国連憲章は改正される可能性を有しているし、国際司法裁判所の判例変更によって「集団的自衛権」が適用されるための要件が厳格化されたり意味が変遷したりする可能性もある。そのため、「武力の行使」が「個別的自衛権」に該当するか「集団的自衛権」に該当するかという議論は、国際法上の話でしかなく、憲法解釈とは直接的には関係がないのである。国際法と憲法では法分野が異なるのであり、論者が「いわゆる……集団的自衛権、フルセット……それを認めたものではありません。」と述べたところで、憲法9条の下で行使できる「武力の行使」の範囲とは直接的には関係がないのである。あたかも「フルセット」と称する「集団的自衛権」でないのであれば、「武力の行使」を行っても9条に抵触しないかのように説明しようとしているところが誤りである。さらに、国際法上「フルセット」か否かという区分は存在しないのであるから、論者が「フルセット」でない「集団的自衛権」と称するものであっても、現在の国際法では結局「集団的自衛権」の区分に該当する。これが「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」であることには変わりないのであるから、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に抵触して違憲となる。

 「いわゆる他国を防衛することができる権利として観念される集団的自衛権」との部分についても、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権」について、「いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止することが正当化されるという地位」と表現しており、「他国を防衛すること」を目的とするか否かを論点としたものではない。「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止すること」であるか否かを論点としたものである。論者は「他国を防衛すること」を目的とするものを「フルセット」の「集団的自衛権」と呼び、9条がそれのみを制約するものと考え、たとえ「集団的自衛権」に該当しようとも『自国防衛』を目的とする「武力の行使」であれば9条に抵触しないかのよう主張しようとしている。しかし、9条は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を制約しているのであり、国際法上の「集団的自衛権」の区分に該当するか、あるいは「フルセット」称しているものであるか否かなどは9条解釈の規範とは直接的に関係がない。また、1972年(昭和47年)政府見解も、9条の下で許される「武力の行使」であるか否かを、「他国を防衛すること」を目的とするか、あるいは『自国防衛』を目的とするかによって判定しているわけでもない。よって、論者の言う「他国を防衛すること」を目的とする「武力の行使」でない旨を示しただけで、その「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触しないことを説明したことにはならない。


 「現在におきましても、まさに、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権、フルセットの集団的自衛権は、この四十七年見解の基本論理の下においては認められないということでございます。」との答弁があるが、「フルセット」の文言を除けばその通りである。1972年(昭和47年)政府見解の下では、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止すること」となる「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を禁じている。これは論者がここで説明している「他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権」と同様の意味である。新三要件の「存立危機事態」に基づく「武力の行使」は、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃(新第一要件)」を「排除(新第二要件)」するための「武力の行使」であり、「他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権」に該当し、「四十七年見解の基本論理の下においては認められない」のである。論者は新三要件の「存立危機事態」に基づく「武力の行使」を「フルセット」でなく限定的なものであるとして9条に抵触しない「武力の行使」であるかのように論じている場面があるが、ここでの論者の説明によれば「四十七年見解の基本論理」に抵触して違憲となることは明らかとなる。

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第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第3号 平成27年3月24日



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○政府特別補佐人(横畠裕介君) この昭和四十七年の政府見解のポイントにつきましては、いわゆる私どもが申し上げておりますその基本的な論理の部分と、いわゆる当てはめ、帰結の部分に分かれているということは御理解いただけているという前提でお答えしたいと思いますが、その基本的な論理の部分につきましては、これはあくまでも憲法上の考え方でございます。憲法第九条の下におきましても、例外的にその武力の行使ができる場合があるかという問題、どのような場合に例外的に武力の行使ができるかということを論じているのがこの基本的な論理の部分でございます。そして、その集団的自衛権という言葉が出てまいりますのは、当てはめ、結論の部分でございます。

【動画】内閣法制局長官 横畠 裕介 小西洋之(民主党)【参議院 国会生中継】 平成27年4月2日 外交防衛委員会


【筆者】

 「例外的にその武力の行使ができる場合があるかという問題、どのような場合に例外的に武力の行使ができるかということを論じているのがこの基本的な論理の部分でございます。」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」について述べたものであり、「武力の行使」の可否については何も述べていないからである。「基本的な論理」と称している部分が「武力の行使ができるかということを論じている」との説明は誤りである。

 上記の一つ前の文で、「基本的な論理の部分と、いわゆる当てはめ、帰結の部分に分かれているということは御理解いただけているという前提でお答えしたいと思いますが、」との答弁があるが、論者は「基本的な論理の部分」と「いわゆる当てはめ、帰結の部分」というものが、「自衛の措置」と「武力の行使」に分かれていることを前提として理解していない。「御理解いただけているという前提でお答えしたいと思いますが、」との答弁については、論者自身が理解していないにもかかわらず、他者自らの誤った前提認識に基づかせて理解させようとしている点で適切な論じ方ではない。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○政府特別補佐人(横畠裕介君) 当時の関係者、政府の認識といたしましては、やはりこの基本的な論理に言いますところの外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態といいますのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという、そういう認識に立っていたものと理解しております。


【筆者】

 「当時の関係者、政府の認識といたしましては、」との答弁があるが、あたかも「当時の関係者、政府の認識」だけが「外国の武力攻撃によって」の文言を「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」と認識していたが、現在やこれからはそうではないかのように説明している点が誤りである。

 1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」ことを説明する中において用いられた文言であり、ここに「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれるのであれば「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界を超える」との説明と矛盾するため妥当でない。

 「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は当時も現在もこれからも、「我が国に対する武力攻撃」を意味し、「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれる余地はない。

 よって、「当時の関係者、政府の認識」が「そういう認識に立っていた」が、現在やこれからは「そういう認識」が変わり、「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれると認識することができるかのように説明しようとしていることが誤りである。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○政府特別補佐人(横畠裕介君) 何度もお答えしていますとおり、昭和四十七年見解におきます基本的な論理の部分につきましては、まさに憲法上の考え方を述べているものでありまして、個別的あるいは集団的自衛権という概念を前提にして論述しているものではないということでございます。


【筆者】

 この答弁はその通りである。それにもかかわらず、論者はなぜ他の答弁で国際法上の概念である「集団的自衛権」を勝手に「フルセットの集団的自衛権」と「限定的な集団的自衛権」に切り分け、あたかも「限定的な集団的自衛権」と称する「武力の行使」であれば憲法上許されるなどと論じようとしているのだろうか。


<論者答弁>

〇 「他国を防衛することができる権利として観念される集団的自衛権、フルセットと言っても構いませんが、」「他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権、フルセットの集団的自衛権」(平成27年3月24日)

〇 「ですから、その限定的な集団的自衛権という考え方自体、昨年七月以前はなかったわけでございます。」(平成27年6月11日)


 1972年(昭和47年)政府見解が「個別的あるいは集団的自衛権という概念を前提にして論述しているものではない」のであれば、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下で許容される「武力の行使」であれば、たとえ国際法上「個別的自衛権」の概念に当てはまろうと「集団的自衛権」の概念に当てはまろうと合憲となるのであり、「限定的な集団的自衛権」という区分を勝手につくり出して正当化しようとする必要はないはずである。「限定的な集団的自衛権」という文言は、聞き手にあたかも「フルセット」という大きな概念から「限定的」という小さい概念に縮小したかのように印象を持たせることで9条に抵触しないかのように主張しようとする印象操作でしかなく、法学上は存在せず、法学上実質的には関係ない言葉である。

 「ですから、その限定的な集団的自衛権という考え方自体、昨年七月以前はなかったわけでございます。」(平成27年6月11日)との答弁についても、もともと「昨年七月以前はなかった」ことは当然、「昨年七月」以後も存在しない概念である。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○政府特別補佐人(横畠裕介君) 繰り返すと長くなるかもしれません、もう既に何度もお答えしているところでございます。まあ、若干繰り返しになりますけれども……(発言する者あり)大事なところでございます。
 昭和四十七年の政府見解基本的な論理の部分でございます、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態といいますのは、従前は我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという認識であったわけでございますけれども、現下の諸情勢の下、そこの認識を改めたというのが昨年の閣議決定の前提でございます。その上で、この基本的な論理はあくまでも維持しているということでございます。


【筆者】

 「従前は我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという認識であったわけでございますけれども、現下の諸情勢の下、そこの認識を改めたというのが昨年の閣議決定の前提でございます。」との答弁があるが、適正な法解釈でないため誤りである。

 まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の規範を示した「外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味し、それ以外の武力攻撃は含まれない。そのため、「自衛の措置」として「武力の行使」を選択したとしても、論理的に「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られるのであり、「現下の諸情勢」があろうともこれを満たさない「武力の行使」の規範に変わりうる余地はない。あたかも「自衛の措置」の規範の「外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」に限られないと考え、「武力の行使」の規範については当時の「諸情勢」という政策判断として「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限っていただけであるかのような認識は誤りである。

 「そこの認識を改めた」との答弁があるが、もともと「武力の行使」の規範を「諸情勢」という政策判断によって「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限っていたわけではなく、「自衛の措置」の限界の規範と同一の規範として示されているものであるから、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」を満たさない中での「武力の行使」を可能とする規範に改めることができるかのように論じることはできず、誤りである。論者は「そこの認識」などと、1972年(昭和47年)政府見解の「武力の行使」の規範部分が文面上の論理展開によって導かれたものではなく、裁量判断の余地のあるところに政策判断として規範が定められていたかのように論じようとしているが、「自衛の措置」の規範を示した段階で既に「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られるとする規範は示されており、「武力の行使」の規範を示す段階でこれを満たさない要件を定める裁量の余地はない。論者は「自衛の措置」の限界を読み誤っているのである。

 「この基本的な論理はあくまでも維持している」との答弁があるが、「維持している」のであれば「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、違憲となる。

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第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第5号 平成27年4月2日



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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 二つお尋ねがございました。
 一つ目が、昭和四十七年見解におけるこの基本的な論理の部分にございます事態という言葉と、結論の部分にございます侵害という言葉を使い分けているその理由でございますけれども、直接それを何か解説、説明したような資料は当局にはございません。
 二点目でございます。
 原本そのものは国会に提出してございますので、原本のコピーということになろうかと思いますけれども、昭和四十七年の政府見解につきましては、当時決裁を行った際のいわゆる原議は存在しております。当局において行政文書として現に保有しております。

 ただ、その文書中には集団的自衛権と憲法との関係と題する昭和四十七年十月十四日付けのタイプ打ちで印刷された文書がございますが、そのうち、文中にもございますソビエト社会主義共和国という文字の後ろに連邦という文字、これが正しいわけでございますけれども、この連邦という文字が手書きで挿入されており、これをそのまま参議院決算委員会の理事会に提出したものなのか、あるいは印刷し直したものを提出したのかは不明でございます。
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第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第6号 平成27年4月7日



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○政府特別補佐人(横畠裕介君) どの部分を意識してのお尋ねかは定かでありませんけれども、先ほど御紹介いただきました昭和四十七年政府見解基本的な理論の中で、「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、」という、そういう場合についての一定の武力の行使というものは憲法九条の下でも許容されているというのが昭和四十七年当時の基本的な論理でございます。
 当時におきましては、それに該当する場合としては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという認識に立っておりましたので、当時の議論はそのようなものになっていると思います。

【動画】小西洋之 横畠裕介の解釈改憲は「憲法違反」 4/20参院


【筆者】

 「一定の武力の行使というものは憲法九条の下でも許容されているというのが昭和四十七年当時の基本的な論理でございます。」との答弁があるが、「昭和四十七年当時の基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」について説明した部分であり「武力の行使」が許容されていると説明するものではないため、誤りである。

 「当時におきましては、それに該当する場合としては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという認識に立っておりましたので、当時の議論はそのようなものになっている」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」について説明した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有しておらず、必然的に「自衛の措置」として「武力の行使」を選択した場合にも、同様の規範に縛られることから、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られることとなるとするものである。「当時におきましては、」「認識に立っておりましたので、」「当時の議論はそのようにものになっている」などと、あたかも「当時」だけのものであるかのように論じようとしているが、「自衛の措置」の規範と「武力の行使」の規範が同じであることは「当時」も現在もこれからも、論理的に変わらないのであり、「当時」「そのような」「認識に立っておりました」などと、「当時」と、現在やこれからとを区別できるかのように論じている部分が誤りである。

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第189回国会 参議院 決算委員会 第6号 平成27年4月20日



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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 昭和四十七年の政府見解、文書として取りまとめて国会に提出したものでございますけれども、それは御指摘のございました昭和四十七年九月十四日の国会での審議が多岐にわたっておりますので、それを論理的に取りまとめて分かりやすくして提出したものでございます。
 この点もこれまで何度もお答えしておりますけれども、御指摘の点も含めまして、まさにその四十七年の政府見解基本的な論理といいますのは、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として武力の行使が可能であるということでございます。
 当時は、そのような状況、要件に当てはまるものとして、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという認識が前提としてございました。その認識を踏まえて、結論といたしまして、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限って必要最小限度の武力の行使ができるという結論を導いていたわけでございまして、この昭和四十七年九月十四日の国会での御指摘の答弁も、そのような基本的な論理及び事実の認識を踏まえた議論であろうかと思います。


【筆者】

 「四十七年の政府見解の基本的な論理といいますのは、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として武力の行使が可能であるということでございます。」との答弁があるが、誤りである。なぜならば、「四十七年の政府見解の基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」について説明したにとどまり、「武力の行使が可能である」とは述べていないからである。

 「当時は、そのような状況、要件に当てはまるものとして、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという認識が前提としてございました。その認識を踏まえて、結論といたしまして、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限って必要最小限度の武力の行使ができるという結論を導いていたわけでございまして、」との答弁があるが、誤りである。まず、四十七年の政府見解の基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界についての規範には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言があり、これは「我が国に対する武力攻撃」に限定されている。そのため、結論部分では「自衛の措置」として「武力の行使」を選択する場合にも同様に「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」旨が示されている。これは「自衛の措置」と「武力の行使」を論理的に繋いだものであり、文面上の論理展開のみを根拠とするものである。論者はあたかも「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」に限られておらず、「当時は、そのような状況、」や「という認識が前提としてございました。その認識を踏まえて、」などという政策判断が行われた結果として「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」旨が示されたかのように考えているようである。しかし、1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権の行使」を「自衛の措置の限界をこえる」ために憲法上許されないとする見解であり、「自衛の措置の限界」を記した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」に限られている。もし「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「他国に対する武力攻撃」が含まれるのであれば、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」とする前提と論理的整合性が取れなくなるため妥当でない。そのため、「自衛の措置」の限界を示した規範と「武力の行使」の限界を示した規範の間に裁量判断の余地はなく、「当時は、そのような状況、」や「という認識が前提としてございました。その認識を踏まえて、」などという政策判断が入り込む余地はない。「自衛の措置」の限界を示した規範と「武力の行使」の限界を示した規範の間には、単なる「自衛の措置」の限界となる「我が国に対する武力攻撃」の枠に「武力の行使」の限界も拘束されるとする論理展開が存在するだけである。

 ここで出てきた「必要最小限度」の意味は、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味である。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○政府特別補佐人(横畠裕介君) ですから、基本的な論理としては、まさに国民の生命、自由及び幸福追求に対する権利が根底から覆される、そのような場合には、憲法九条の下でも自衛の措置、すなわち武力の行使をすることは禁じているものではないという点でございます。


【筆者】

 「基本的な論理としては、」「武力の行使をすることは禁じているものではない」との答弁があるが、誤りである。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、「自衛の措置」についてしか説明しておらず、「武力の行使」の可否については何も述べていないからである。これは、2014年7月1日閣議決定の文面においても、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を正確に抜き出しておらず、誤った理解に基づいて作成されているため注意が必要である。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○政府特別補佐人(横畠裕介君) これも何度も御説明申し上げているところでございますけれども、昭和四十七年の政府見解の構造がございまして、そこはやはり基本的な論理と申している部分でございまして、そこの、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて許容されるというその部分はまさに基本的な論理でございまして、そこの部分は一切変更してございません。
 その上で、その一定の事実認識の下でどのような場合がこれに該当するかというところの認識が変わった結果、結論、つまり当てはめとしての結論が変わったということをるる御説明申し上げているところでございます。


【筆者】

 「その一定の事実認識の下でどのような場合がこれに該当するかというところの認識が変わった結果、結論、つまり当てはめとしての結論が変わった」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「自衛の措置」の限界を示した部分であり、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有しない。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解は「わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」ことを説明する文章であり、もし「自衛の措置の限界」を記した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれる余地があるのであれば、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」とする文言と論理矛盾を起こすからである。論者の言う「結論、つまり当てはめとしての結論」とは、「武力の行使」の限界を示した部分であり、「自衛の措置」の選択として「武力の行使」を当てはめた場合にも、その「武力の行使」は「自衛の措置」の限界に拘束されることが示されたものである。これは法論理としての厳密な論理展開によるものであり、ここに「一定の事実認識」などという法学の枠外から政策判断が入り込む余地はない。「自衛の措置」の限界が既に「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」であるにもかかわらず、これを満たさない「武力の行使」が「一定の事実認識」などという政策判断によって可能となるかのように論じている部分が誤りである。「るる御説明申し上げ」られたとしても、論者の主張は論理的整合性がなく、誤りである。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○政府特別補佐人(横畠裕介君) 答えは同じになるかもしれませんけれども、昭和四十七年見解基本論理で示された要件に該当するものとしては、この御指摘の昭和五十六年当時におきましても、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという事実認識が前提にあってのお答えをしているものと理解しております。


【筆者】

 「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという事実認識が前提にあって」との答弁があるが、誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、「自衛の措置の限界」は既に示されている。「自衛の措置」として「武力の行使」を選択する場合にも、この「自衛の措置の限界」に拘束されるのであり、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」こととなる。これは法論理に基づく当然の帰結であって、裁量の余地はないし、「事実認識」などという政策判断が入り込む余地もない。1972年(昭和47年)政府見解の「武力の行使」の規範について述べた結論部分が「事実認識」などというものによって導かれたと考えることは、根拠のない話を法論理の枠を離れて持ち出した上、それを憲法解釈であると説明しようとしている点で誤りである。論者のように法論理を離れた「事実認識」なるものが「自衛の措置」とその選択肢の一つとしての「武力の行使」の間に入り込む余地があるのであれば、「事実認識」を変えることで「我が国と関係のない他国」に対する武力攻撃の発生や、武力攻撃の危険や恐れを理由として「武力の行使」に踏み切ることを可能とする規範も導くことができてしまうこととなり、法解釈として成り立たない。

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第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第10号 平成27年4月23日



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横畠政府特別補佐人 四十七年政府見解御指摘の部分、「外国の武力攻撃」という部分でございますけれども、これは、憲法九条のもとで例外的に自衛の措置としての武力の行使が認められる、その理由を述べた論理の部分でございます。
 この昭和四十七年見解のそういった基本論理を前提とした結論部分というのが最後に書かれておりまして、「そうだとすれば、」という部分でございますけれども、「そうだとすれば、」というところで初めて「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」という文言が出てきます。つまり、我が国に対するということが明示されるのは、「そうだとすれば、」という部分の結論の部分でございます。そうしますと、前提としての「外国の武力攻撃」という部分は、必ずしも我が国に対するものに限定されていない
 当時におきましては、そのような国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆るような急迫不正の事態というのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという認識を持っていた。それとあわせて、結論の「そうだとすれば、」ということで、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」ということが言われているというふうに理解しております。

【動画】2015 05 27 衆議院平和安全特別委員会


【筆者】

 「四十七年政府見解の御指摘の部分、『外国の武力攻撃』という部分でございますけれども、これは、憲法九条のもとで例外的に自衛の措置としての武力の行使が認められる、その理由を述べた論理の部分でございます。」との答弁があるが、誤りである。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している『外国の武力攻撃』の部分は「自衛の措置」の限界を示す規範であり、「武力の行使が認められる」などとは述べていないからである。

 「この昭和四十七年見解のそういった基本論理を前提とした結論部分というのが最後に書かれておりまして、『そうだとすれば、』という部分でございますけれども、『そうだとすれば、』というところで初めて『わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる』という文言が出てきます。つまり、我が国に対するということが明示されるのは、『そうだとすれば、』という部分の結論の部分でございます。そうしますと、前提としての『外国の武力攻撃』という部分は、必ずしも我が国に対するものに限定されていない。」との答弁があるが、誤りである。論者は先ほど「基本的な論理」と称している部分に「武力の行使が認められる」かのように述べているが、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」についてしか述べておらず、「武力の行使」については未だ述べていない。ここで、「そうだとすれば、」の文言が出てくるのは「自衛の措置」の規範から「武力の行使」の規範に移ることを示すものであり、論者のように「外国の武力攻撃」の部分が「我が国に対するものに限定されていない」と考えて、その後の結論として「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」ことを示すために用いられたものではない。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解は「わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」ことを説明する文章であり、「自衛の措置の限界」を示した「外国の武力攻撃」の部分にもし「他国に対する武力攻撃」が含まれるとしたならば、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」との文言と矛盾することになるからである。よって、「自衛の措置」について示した「外国の武力攻撃」の文言で既に「我が国に対する武力攻撃」に限定されており、限定されていないかのような認識によって「そうだとすれば、」の文言で繋ぎ、後に限定をかけているかのような考え方は誤りである。「前提としての『外国の武力攻撃』という部分は、必ずしも我が国に対するものに限定されていない。」との答弁があるが、「前提」というより「自衛の措置」の限界を示した規範部分であり、「我が国に対するもの」に限定されているものである。

 「当時におきましては、そのような国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆るような急迫不正の事態というのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという認識を持っていた。」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の論理展開は「自衛の措置」の規範から「武力の行使」の規範を段階的に論じた文章であり、「自衛の措置」の規範部分の「外国の武力攻撃」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、「武力の行使」の規範部分の「わが国に対する急迫、不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」と同じである。よって、当時も現在もこれからも、この論理展開の意味は変化する余地はなく、「当時」「という認識を持っていた。」が、そうではない認識を有することが可能であるかのように論じようとしているところが誤りである。また、1972年(昭和47年)政府見解は「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆るような急迫不正の事態」のみに規範を定めたものというわけではない、「外国の武力攻撃」の部分も規範に含まれている。繰り返すが、この「外国の武力攻撃」は「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有していない。

 「それとあわせて、結論の『そうだとすれば、』ということで、『わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる』ということが言われているというふうに理解しております。」との答弁があるが、誤った理解である。「そうだとすれば、」の文言は、「自衛の措置」の規範から「武力の行使」の規範に移ることを示したものであり、1972年(昭和47年)政府見解の文面は、広く設定した規範から、規範を絞り込むという風には論理的に読めないからである。


 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「外国の武力攻撃」の文言は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味する。なぜならば、9条は政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨で設けられている規定であり、この9条の趣旨を損なわせることがないように解釈するためには、政府の恣意性をもった判断が入り込む余地のない基準が求められ、受動性や客観性を満たす、事態の性質面に着目した「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範を設けたものと考えることが妥当だからである。
 もしこの「外国の武力攻撃」の文言に「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるのであれば、1972年(昭和年47)政府見解が実質的に「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」という自国の状態に基準を設定したものとなってしまい、自国の脆弱性を敢えて作出することで事態を認定できてしまう自動性が含まれ、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利」のいかなる段階の危機であるのか具体性のない抽象概念が「根底からくつがえされる」という主観性が含まれる基準となってしまい妥当でない。また、このような要件では、事態の数量面に基準を設定した規範ということになり、政府が「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」を「満たす」と言えば満たし、「満たさない」と言えば満たさないこととなるため、9条が存在しているにもかかわらず、政府の行為を法規範によって制約し、限界付けることができないものとなってしまう。「外国の武力攻撃」の文言を「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると読み取ろうとすることは、1972年(昭和47年)政府見解そのものが、9条の有する政府の自国都合による「武力の行使」を制約しようとした趣旨を満たさない憲法解釈となってしまうため妥当でない。
 また、平和主義を採用する日本国憲法の立場からは、「平和主義を採用していない他国」による他国同士の武力を背景とした争いから生まれた「他国に対して行われる武力攻撃」に規範を設定したり、「他国に対する武力攻撃」に起因する「我が国の存立」や「国民の権利」の危険を判断して「武力の行使」を可能とすることは、結局、「平和主義を採用していない他国」の行う武力を背景とした争いを引き起こす「他国の姿勢」に同調するものとなるのであって、平和主義を背景とした9条の規定の趣旨に反する。
 平和主義を背景とした9条の規定の制約がいかなるものかを確定することを目的として憲法解釈がなされ、その過程が示された1972年(昭和47年)政府見解の「外国の武力攻撃」の文言の中に、「他国に対する武力攻撃」の意味が導かれるとは到底考えることができない。

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横畠政府特別補佐人 この点は、昨年来何度か御説明させていただいておりますけれども、昭和四十七年の政府見解基本論理の部分にございますのが、先ほど申し上げた「外国の武力攻撃によつて、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処」する、この場合に限って憲法九条のもとでも例外的に武力の行使が許されるという、基本的な考え方を述べた部分でございます。
 論理構造上それが基本論理でございまして、その後に、「そうだとすれば、」ということで結論を述べている。基本論理と結論を結びつけるものとして、当時の事実認識があるというふうに考えております。
 当時の事実認識というのはどういうことかといいますと、先ほど申し上げたような、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」というものは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるというふうに当時は考えていたその基本論理と事実認識を合わせて、結論部分の「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」、すなわち個別的自衛権に限られ、「集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」という結論を当時は導いているということでございますが、今般、その事実認識の部分を改めまして、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合も、先ほど申し上げた、基本論理でいいますところの、まさに「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処」するということに当てはまるということであると考えたということでございます。

【動画】2015 05 27 衆議院平和安全特別委員会


【筆者】

 「昭和四十七年の政府見解の基本論理の部分にございますのが、」「武力の行使が許されるという、基本的な考え方を述べた部分」との答弁があるが、誤りである。「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」についてしか説明しておらず、「武力の行使が許される」とは述べていないからである。

 「論理構造上それが基本論理でございまして、その後に、『そうだとすれば、』ということで結論を述べている。基本論理と結論を結びつけるものとして、当時の事実認識があるというふうに考えております。」との答弁があるが、根拠のない誤った認識である。なぜならば、「そうだとすれば、」の文言は、「自衛の措置」の限界の規範について述べた部分と、その「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を選択した場合にも同様の規範に縛られることを示すために用いられた文言であり、この両者の間は段階的に示された法論理によって結び付けられているのであり、「当時の事実認識」などという政策判断が入り込む余地はないからである。法論理に基づく言葉の意味は「当時」も現在も将来も揺らぐことはない。論者が「当時の事実認識があるという風に考えております。」との理解は、根拠がないにもかかわらず、法の枠外に根拠を求めようとする主張であり、文面そのものの論理的整合性を殊更に無視しようとする恣意性が含まれており、法解釈とは言えない。論者自身の政策的な判断を含む主張となっており、解釈上の不正である。

 「当時の事実認識というのはどういうことかといいますと、先ほど申し上げたような、『国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態』というものは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるというふうに当時は考えていた。」との答弁があるが、誤った前提認識がある。1972年(昭和47年)政府見解には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味するから、「自衛の措置の限界」を示した部分で既に「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られている。あたかも「自衛の措置の限界」を示した規範が「我が国に対する武力攻撃」に限られないかのように考え、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」と政府が認めるだけで「自衛の措置」が可能であるかのように論じ、当時の政策判断として「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限っていたかのような主張は、1972年(昭和47年)政府見解の全体の文面を丁寧に読み取れば論理的に整合性が保たれない主張であるため妥当でない。1972年(昭和47年)政府見解は、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する文章であり、「自衛の措置の限界」を示した規範部分に「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれることはないのである。

 「その基本論理と事実認識を合わせて、」との答弁があるが、「自衛の措置」の限界を記した規範部分から「武力の行使」の規範部分は論理的に導かれるのであり、法の枠外にある「事実認識」を勝手に持ち出し、「基本的な論理」と称している部分と勝手に「合わせて」読み取ることはできない。もし「事実認識」を「基本的な論理」と称している部分に合わせることができるのであれば、「事実認識」が変化すれば「我が国と関係のない他国」に対する武力攻撃が発生した場合でも、政府が単に「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」と認めるだけで「武力の行使」が可能となってしまうのであって、法解釈として成り立たない。9条は政府の自国都合による「武力の行使」を制約する趣旨の規定であり、「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として直ちに「武力の行使」が可能となるような要件を定めることができるような規範は認めることができないのである。

 「その事実認識の部分を改めまして、」との答弁があるが、もともと1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の規範と「武力の行使」の規範の間には法論理上の繋がりしか有しておらず、「事実認識」などという政策的な判断は入り込む余地はないのであり、当時「事実認識」という政策的な判断が入っていたかのような前提で論じている部分が誤りである。また、これにより、「事実認識の部分を改めまして」との答弁も、もともと「事実認識」などという政策的な判断が存在しないのであるから、「改め」ることもできないため、誤りである。

 「基本論理でいいますところの、まさに『外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処』するということに当てはまるということである」との答弁があるが、「外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。そのため、「当てはまる」ことはなく、「存立危機事態」の要件は違憲である。「当てはまるということである」との主張は、論理的整合性が成り立たないため誤りである。

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横畠政府特別補佐人 昭和四十七年の政府見解においてお示しした、憲法第九条のもとでも例外的に我が国が武力を行使することができる場合があるという、その考え方の基本的な論理の枠内ということでございまして、その考え方と整合するものであるということでございます。

【動画】横畠裕介・安倍晋三 憲法違反のお二人5/27戦争法案


【筆者】

  「我が国が武力を行使することができる場合があるという、その考え方の基本的な論理の枠内ということ」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」を述べたにとどまり、「武力を行使することができる場合がある」とは述べていないからである。また、「存立危機事態」の要件はこの「基本的な論理」と称している部分に論理的に当てはまらず、「基本的な論理の枠内」とは言えない。「存立危機事態」での「武力の行使」はこの1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないことから、9条に抵触して違憲となる。

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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第3号 平成27年5月27日



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横畠政府特別補佐人 お答えいたします。
 昭和四十七年の政府見解における御指摘の三の部分が基本的論理ではなく結論の部分であると整理しております根拠でございますけれども、これは、三の部分の冒頭にありますとおり、「そうだとすれば、」ということで結論として述べているものでございます。
 基本的論理を前提といたしまして、この結論を導く前提といたしまして、当時におきましては、この基本的論理に該当する場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる、そういう認識を前提にした結論であるというふうに考えております。

【動画】2015 06 05 衆議院平和安全特別委員会


【筆者】

 「当時におきましては、この基本的論理に該当する場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる、そういう認識を前提にした結論である」との答弁であるが、誤った前提認識がある。「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置の限界」が示されている部分であり、「自衛の措置」の選択として「武力の行使」を選択する場合にも同様に「自衛の措置の限界」に拘束されることとなる。ここには文言上の論理展開しか存在しておらず、「当時」は当然、現在も将来も「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」との結論は変わらない。あたかも「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置の限界」の規範が「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られていないかのように読み解き、「武力の行使」の規範について裁量判断の余地があり、「当時」における「そういう認識」などという政策判断として「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限っていたかのように論じることは誤りである。

 「そういう認識を前提にした結論であるというふうに考えております。」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解を最初から最後まで論理的整合性を丁寧に読み解けば、「武力の行使」の規範に関する結論部分は「自衛の措置」の規範部分に論理的に拘束されている意味しか有しておらず、「そういう認識を前提にした議論」などという政策的な判断が入り込む余地はないため、誤りである。論者は「そういう認識を前提に」と主張するのであれば、そのような政策判断がなされていることを裏付ける資料など根拠が必要となるはずであるが、その根拠を示すこともしないで、1972年(昭和47年)政府見解の文面上の整合性を無視して政策論を主張することは解釈上故意に当たる不正である。

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横畠政府特別補佐人 基本的な論理と言っている部分は、まさに規範の部分でございます。規範をどのように理解するかということでございます。
 そして、結論と申し上げている、しかしながらの段落でございますけれども、これは、その規範に想定される事実を当てはめた結果どうなるか、許されるか許されないかという、まさに規範を当てはめた結果の結論について述べているところでございます。
 どういう整理をしているかといいますと、御指摘の一、二の部分は規範についての理解、基本的な論理でございます。その意味で基本的な論理と申しております。今回、規範としての理解の部分は一切変えておりません
 何が変わったのかということでございますけれども、昭和四十七年見解におきまして、その一、二の基本論理を前提といたしまして、その当てはめの結果としての三の結論を導いている。その規範と結論の間にある事実認識というのがございますけれども、そこのところが、これまでは、この一、二の要件に当てはまるまさに極限的な場合、例外としての場合は、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると解していたわけでございます。それが事実認識でございます。
 今般、そこの事実認識を改めまして、必ずしも我が国に対する直接の武力攻撃が発生した場合に限られずに、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合で、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこの一、二に当たり得る、そういうことで結論の部分が一部変わった、そういうことでございます。

【動画】横畠裕介 集団的自衛権「解釈改憲」の記録「結論の部分が一部変わった」

【筆者】

 「これは、その規範に想定される事実を当てはめた結果どうなるか、許されるか許されないかという、まさに規範を当てはめた結果の結論について述べている」との答弁があるが、誤った認識に基づく主張である。「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範であり、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味する。「武力の行使」の限界を示した結論部分について、「その規範に想定される事実を当てはめた」との主張しているが、これは「自衛の措置」の限界の中に「自衛の措置」の選択肢の一つとして「武力の行使」を当てはめたものであり、「想定される事実を当てはめた」などという法学の枠外の問題を当てはめたものではない。

 「その意味で基本的な論理と申しております。今回、規範としての理解の部分は一切変えておりません。」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分を変えていないことにより、「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため違憲となる。

 「その規範と結論の間にある事実認識というのがございますけれども、」との答弁があるが、「自衛の措置」の限界の規範と、「武力の行使」の限界の結論の部分の間には、「自衛の措置」の限界の規範が「武力の行使」を制約するという論理的な繋がりしか存在しておらず、「事実認識」などという法学の枠外にある政策判断は存在しない。

 「それが事実認識でございます。」とも述べているが、法学の枠外の「事実認識」などという話は、1972年(昭和47年)政府見解を丁寧に読み取れば入り込む余地はなく、根拠もない主張であるため、誤りである。

 「そこの事実認識を改めまして、」との答弁があるが、そもそも1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範部分と「武力の行使」の限界を示した結論の部分の間に「事実認識」などという法学の枠外にある認識が入り込む余地はないため、「事実認識」というものが存在しない。そのため「改めまして」などと、存在していることを前提として、改めたかのように論じることは根拠のない話であり、誤りである。

 「当たり得る」との答弁もあるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらない。そのため、「当たり得る」との主張は誤りである。

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横畠政府特別補佐人 憲法審査会における御議論につきましてコメントすることはいたしませんが、一般に憲法第九条に関する憲法学者の方々の御意見は、伝統的に、自衛隊は憲法第九条二項によってその保持が禁じられている戦力に当たり、違憲であるとするものが多いと承知しております。
 昨年七月の閣議決定は、憲法第九条のもとでも例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和四十七年の政府見解基本論理を基礎としたものでありますが、その政府見解は、まさに政府の見解であり、また国会においても御議論をいただいてきたものでございます。それ自体、残念ながら憲法学者の方々の御賛同が得られているというわけでは必ずしもないと認識しております。
 今般、このような昭和四十七年の政府見解維持し、この考え方を前提として、これに当てはまる極限的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこれに当てはまるとしたものであり、国際法上集団的自衛権の行使が認められる場合の全てについてその行使を認めるものではなく、新三要件のもと、あくまでも我が国の存立を全うし国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部限定された場合において、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものでありまして、これまでの政府の憲法解釈との論理的な整合性は保たれており、また法的安定性は同じようにしっかりと保たれているものと考えております。

【動画】横畠裕介 憲法審査会全員「違憲」でも「合憲」と言い張る「憲法破壊者」6/5衆院

【筆者】

 「自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和四十七年の政府見解の基本論理」との答弁があるが、誤りである。「昭和四十七年の政府見解の基本論理」と称する部分は「自衛の措置」について述べたものであり、「武力の行使」については述べていないからである。

 「昭和四十七年の政府見解を維持し、」との答弁があるが、「維持し」ているのであれば、「存立危機事態」の要件は違憲となる。「存立危機事態」の要件を定めようとしているのであれば、「維持し」ているとは言えない。

 「これに当てはまる極限的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、」との答弁があるが、誤った認識に基づく主張である。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界について説明したものであり、既に「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られる旨が示されている。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」と説明する文章であり、「自衛の措置の限界」の規範である「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に「他国に対する武力攻撃」が含まれると考える場合、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」との説明と矛盾してしまうからである。論者のように、「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の規範があたかも「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られていないかのように考え、結論部分で初めて「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限ったかのような主張は、論理的整合性がない。先ほども述べたように、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」についてしか述べておらず、未だ「武力の行使」の可否については述べておらず、結論部分によって初めて「武力の行使」を選択する場合の規範が述べられるのである。よって、この「これに当てはまる」場合とは、「自衛の措置」の中に「武力の行使」を選択肢として当てはめた場合の規範を意味するのであって、論者のように「基本的な論理」と称している部分では「我が国に対する武力攻撃」を満たしていない中で「武力の行使」を実施する裁量の幅があり、結論部分で政策判断として初めて「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」と示したかのような理解は誤りである。そのため、「これに当てはまる」場合とは、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」を満たすものしか当てはまらないのであり、「これまでの認識を改め」ることでこれを満たさない「存立危機事態」の要件を当てはめることができるかのように説明している部分も誤りとなる。

 「これに当てはまるとしたもの」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらない。

 「新三要件のもと、あくまでも我が国の存立を全うし国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部限定された場合において、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものでありまして、」との答弁があるが、誤りである。まず、新三要件の「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に抵触して違憲である。「あくまでも我が国の存立を全うし国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置」との答弁があるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規定であり、「我が国の存立を全うし国民を守るため」の「武力の行使」であったとしても、直ちに正当化されるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。「一部限定された場合において、」との答弁もあるが、これを満たさないのであればたとえ「一部限定された場合」であってもその「武力の行使」は違憲となる。「他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるもの」についても、「他国に対する武力攻撃が発生した」だけでは、未だ9条の規範性を通過していないのであり、これを基に「武力の行使」を正当化することはできない。また、「他国に対する武力攻撃が発生した場合」に「武力の行使」をするのであれば、その他国を防衛するための「武力の行使」か「先制攻撃(先に攻撃)」のどちらかしかないのであり、9条はこれらの「武力の行使」を認めていない。「認めるにとどまもの」との表現についても、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かが違憲となるか否かを決する規範としているのであり、これを満たさないのであれば「認めるにとどまる」などと主張しても違憲でしかないのである。論者の主張によれば、たとえ「侵略戦争」や「先制攻撃(先に攻撃)」を行っていても、「我が国の存立を全うし国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置」と称したり、「一部限定された場合」「にとどまるもの」と主張することで9条に抵触しないと説明することが可能となるのであり、法解釈として成り立たない。

 「これまでの政府の憲法解釈との論理的な整合性は保たれており、また法的安定性は同じようにしっかりと保たれている」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。よって、「論理的な整合性」は保たれておらず、「法的安定性」も全く保たれていない。論者の主張は誤りである。

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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第7号 平成27年6月5日



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○横畠政府特別補佐人 ちょっと、原点というか出発点から御説明させていただきたいと思います。
 憲法第九条は、その文言からいたしますと、我が国が、国際関係において一切の実力、武力の行使を禁じているかのように見えます。それを前提といたしまして、これまで憲法学者の間では、やはり、自衛隊の存在につきまして、憲法第九条第二項が明文でその保持を禁じている陸海空軍その他の戦力に当たって違憲であるという意見が伝統的に多かったというのは、これは紛れもない事実でございます。
 これに対しまして、政府は、国と国民を守るという責務を前提といたしまして、国権の最高機関であり唯一の立法機関である国会の御理解を得つつ法整備をしてきております。その前提といたしまして、やはり、自衛のためのやむを得ない場合の必要最小限度の武力の行使までは憲法第九条は禁じているものではない、そのようなものは許されるということでございます。
 その考え方を整理いたしましたのが、昭和四十七年のいわゆる政府見解でございます。
 その政府見解の内容について、読み上げてもわかりにくいので、若干はしょってポイントを申し上げます。
 一つのポイントは、「憲法は、第九条において、」という段落がございます。そこでは、憲法第九条は、砂川判決で示されているとおり、我が国の自衛権は否定されていない、別の言い方をすれば、無抵抗を定めているものではないという、そこが大前提でございます。
 その上で、「しかしながら、だからといつて、」という段落がございまして、そこにおきましては、そうだからといっても、自衛のためといえば広く我が国が武力の行使が行えるということではないということで、場合の限定目的の限定手続の限定というものがかかるということを明らかにしております。
 場合の限定といいますのは、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」、これに対処するということでございます。
 目的といたしましては、「国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置として」許されるということでございます。

 手段といたしましては、「その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」ということを明らかにしているわけでございます。
 お尋ねの昨年七月の閣議決定は、この昭和四十七年の政府見解基本論理維持して基本論理と申し上げましたけれども、それはまさに、我が国の存立、国民を守るためにやむを得ない場合の武力の行使は許されるという点でございますけれども、その基本論理を維持し、この考え方を前提といたしまして、これに当てはまる極限的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこれに当てはまるとしたものであり、別の言い方をすれば、憲法第九条が、そのような場合にまで自衛のための武力の行使を禁じ、その結果、国民が犠牲になるということもやむを得ないということを命じているのではないと解されるということでございます。
 新三要件は、国際法上集団的自衛権の行使として認められる、他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではございません。あくまでも、我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部限定された場合において、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものでございます。
 集団的自衛権といっても、それは、我が国に明らかな危険が及ぶ場合に我が国を防衛するためのものに限定されているという、そこがポイントでございまして、したがいまして、これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれているということでございます。

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【筆者】

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○横畠政府特別補佐人 海外派兵が一般に許されないとしてきたその考え方は、お示しの昭和四十七年見解の一及び二の基本的な論理から導き出されたものでございます。すなわち、昭和四十七年の政府の見解の一、二の基本的論理から、これまでの自衛権発動の三要件も出てきたものでございます。
 また、今回の新三要件も同じ一、二の基本的な考え方から出てきたものでございまして、それは規範、まさに規範でございます。ということで、変わらないということでございまして、当てはめの問題ではございません。

動画

【筆者】

 憲法上「海外派兵が一般に許されない」というものは、「一般に自衛のための必要最小限度を超える」とされているからである。この「自衛のための必要最小限度」とは「武力の行使」の三要件を意味しており、この「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除(第二要件)」したならばそれ以上は「武力の行使」を行ってはならないとの制約により、「海外派兵が一般に許されない」との基準が導き出されているのである。新三要件を制定し、この第一要件と第二要件が変更されたにもかかわらず、「海外派兵が一般に許されない」との基準が同様に導き出されることはない。なぜならば、新三要件の「存立危機事態」については「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃(新第一要件・存立危機事態)」を「排除(新第二要件)」するための「武力の行使」であり、その「我が国と密接な関係にある他国」への海外派兵は一般に許される旨が導かれるからである。
 「今回の新三要件も同じ一、二の基本的な考え方から出てきたものでございまして、」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に新三要件の「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は当てはまらないため、「同じ一、二の基本的な考え方から」出てくることができるかのように説明することは誤りである。

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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第8号 平成27年6月10日



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○政府特別補佐人(横畠裕介君) ですから、その限定的な集団的自衛権という考え方自体、昨年七月以前はなかったわけでございます。それを前提にその昭和四十七年の政府見解は作られているわけでございます。
 この③の結論部分に至って初めて「わが国に対する」ということが明記されているわけで、その基本理論たる①、②の部分では、②の部分では「外国の武力攻撃」とだけ記述されているということで、やはりその結論のところに至るまでの基本論理としては、そこのところで既にその我が国に対する武力攻撃に限るという前提に立っているならば、これはもう先に結論を述べてしまっているわけで、③の部分は「そうだとすれば、」にはならないはずであるということでございます。


【筆者】

 「その限定的な集団的自衛権という考え方自体、昨年七月以前はなかったわけでございます。」との答弁があるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な」などという区分は存在しない。よって、法学上は「昨年七月以前はなかった」ことは当然、「昨年七月」以後も存在しない。

 「この③の結論部分に至って初めて『わが国に対する』ということが明記されているわけで、その基本理論たる①、②の部分では、②の部分では『外国の武力攻撃』とだけ記述されているということで、やはりその結論のところに至るまでの基本論理としては、そこのところで既にその我が国に対する武力攻撃に限るという前提に立っているならば、これはもう先に結論を述べてしまっているわけで、③の部分は『そうだとすれば、』にはならないはずである」との答弁があるが、誤った認識である。まず、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の規範について示したものであり、未だ「武力の行使」については何も述べていない。そのため、②の部分で「外国の武力攻撃」と記述されている部分が「我が国に対する武力攻撃に限るという前提」があったとしても、「これはもう先に結論を述べてしまっているわけで、」という不自然さはない。「自衛の措置」の限界については既に結論を述べていて当然なのである。③の部分の「そうだとすれば、」以後は、「自衛の措置」の選択肢の一つとして「武力の行使」を選択した場合にも同様の規範に拘束される旨を示したものであり、その「自衛の措置」の規範として「先に結論を述べて」いる部分に「武力の行使」の規範が拘束されているだけである。論者は「この③の結論部分に至って初めて『わが国に対する』ということが明記されている」と強調しようとするが、「この③の結論部分に至って初めて」「武力の行使」について述べているものであり、「我が国に対する」の文言の存否が焦点となっている文章というわけではない。また、1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明している文章であり、この「自衛の措置の限界」を示した「外国の武力攻撃」の部分に「他国に対する武力攻撃」が含まれるのであれば、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界」を超えると説明している部分と論理的に矛盾することとなり、成り立たない。「外国の武力攻撃」の文言は「我が国に対する武力攻撃」に限られており、「③の結論部分」の「わが国に対する急迫、不正の侵害」と同様の規範である。「③の結論部分に至って初めて『我が国に対する』ということが明記されている」ということは、この文章の中で意図して強調されている部分でもないし、文章全体の論理的整合性の観点からも意味の通じない主張である。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○政府特別補佐人(横畠裕介君) 昭和四十七年の政府見解基本的な論理である①、②の部分につきましては、この時点で明確に文章として整理したものでございますけれども、当然それ以前から、自衛隊発足当時からずっとあった考え方であると理解しておりまして、その後もそれが維持されておりまして、昨年七月以降もそのままそれが維持されているというふうに考えておりまして、その限りでの変更はございません。


【筆者】

 「昨年七月以降もそのままそれが維持されている」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分が「維持されている」のであれば、「存立危機事態」の要件はここに当てはまらないため、違憲となる。

 「その限りでの変更はございません。」との答弁があるが、2014年7月1日閣議決定では、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を正しく抜き出しておらず、あたかも「基本的な論理」と称している部分に「武力の行使」を許容している旨が含まれているかのように述べている部分が誤っているものである。「変更はございません。」としているが、2014年7月1日閣議決定でも1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分をそのまま正確に抜き出して資料を作成するべきであって、部分的に抜き出したり、「自衛の措置」についてしか述べていない部分に「武力の行使」を含ませたりした過程は不正である。

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第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第21号 平成27年6月11日



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○横畠政府特別補佐人 個別的自衛権の前提となります我が国に対する武力攻撃が発生した場合、それは言わずもがな、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処する場合であるということで、これまでもそこのところは書いていなかったわけでございます。
 今回は、他国に対する武力攻撃の発生を契機とする武力の行使ということでございますので、単に国際法上の要件となっています自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したことというだけでは大変広過ぎるということでございまして、昭和四十七年見解基本論理に適合する範囲に限定するというために、このたびの新三要件におきましては、他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合という形に限定したものでございます。

動画

【筆者】

 論者は「他国に対する武力攻撃の発生を契機とする武力の行使」について、「自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したことというだけでは大変広過ぎる」と述べている。これはつまり、論者自身も「自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したこと」というだけで「武力の行使」を発動することは、9条に抵触して違憲となると考えていることになる。これによれば、「自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、未だ9条の規範性を通過していないことを論者自身も認めているのである。

 論者はその後「昭和四十七年見解の基本論理に適合する範囲に限定するというため」として、「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合という形に限定した」と主張しているが、誤った認識がある。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味する。そのため、たとえ「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」と考えても、「我が国に対する武力攻撃」を満たさない中での「武力の行使」は違憲となる。「昭和四十七年見解の基本論理に適合する範囲に限定する」というのであれば、要件の中に「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」が含まれていることが必要であり、「存立危機事態」の要件の中にこれが含まれていないにもかかわらず、あたかも「存立危機事態」の要件が「昭和四十七年見解の基本論理に適合する」かのように説明することは論理的整合性がなく誤りである。

 論者は「自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したことというだけでは大変広過ぎる」と考えており、これだけでは9条の規範性を通過していないことを認めている。それでは、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分が、9条の規範性を通過する要件となっているのかを検討する。まず、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験しており、9条はこのような「武力の行使」を制約する趣旨で設けられた規定である。そのため、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」と政府が考えるだけで「武力の行使」を発動できるとするならば、実質的に9条の制約の趣旨を満たす要件とはなっておらず、9条の規範性を損なうことになる。つまり、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」というだけで「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となる。最後に、論者が「大変広すぎる」と考えている「自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したこと」と、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」を「これにより」で繋ぐことで9条に抵触しないことを示す要件となるかを検討する。まず、「自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したこと」に該当しても、9条の規範性を通過していない。そのため、政府が「武力の行使」を発動するか否かを裁量判断する余地は未だ生まれていないのであり、この中で「武力の行使」を行うことは当然に違憲である。そんな中、「これにより」「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という状態が生まれたと政府が考えたとしても、未だ9条の規範性を通過していない中で政府がそう考えたというだけのことである。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定なのであり、9条の規範性を通過していない中で「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」状態であると政府が考えるだけで「武力の行使」を発動することは、9条に抵触して違憲となる。逆に、9条が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨を損なうことのない「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たし、9条の規範性を通過した中で、政府が「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」状態であるか否かを考えて「武力の行使」を発動するか否かに関する政策判断を行うことは可能である。これは9条の規範性を通過し、政府に裁量判断の余地が生まれている中で「自国の存立」や「国民の権利」の危機となる事態であるか否かを考えるものとなっており、9条に抵触しないからである。まとめると、「自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したこと」と「これにより」「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」を組み合わせても9条の規範性を通過している部分は存在しておらず、9条に抵触して違憲である。もし、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」と「これにより」「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」を組み合わせた要件であるならば、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の部分が9条の制約の趣旨を満たし、9条の規範性を通過するための基準として機能するものとなっているから、三要件のその他の要件を満たすことで違憲とならないと考えることができる。論者は「存立危機事態」の要件が9条の規範性を通過する基準を持たないものであるにもかかわらず、「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触しないかのように説明しようとしているため誤りである。

 「という形に限定したものでございます。」との記載があるが、9条に抵触しないことを示す基準を有しないにもかかわらず、「限定」すれば9条に抵触しないと言い張ろうとしている点で誤りである。このような主張であれば、「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」であっても、「限定したもの」と主張すれば9条に抵触しないと同様に説明できてしまうのであって、法解釈として成り立たない。

 「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国連憲章51条に示された国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対して機能する違法性阻却事由の『権利』の概念である。しかし、国連憲章51条が改正されることで「集団的自衛権」の区分がなくなったり、国連憲章そのものが廃止される場合も考えられる。しかし、9条はもともと憲法規定であり、国連憲章の改廃に影響を受けずに日本国の統治権の『権限』を制約し続ける。論者は、「存立危機事態」について「他国に対する武力攻撃の発生を契機とする武力の行使」と表現しているが、もし国連憲章に「集団的自衛権」という『権利』の区分が存在することを理由として、日本国の統治権の『権限』も「他国に対する武力攻撃の発生を契機とする武力の行使」が可能な場合もあるのではないかと考えているとすれば、国際法と憲法の法分野の違いを理解しない誤った理解である。9条は国連憲章の存在や不存在にかかわらず日本国の統治権の『権限』を制約しているのであり、国連憲章に「集団的自衛権」の区分が存在するか否かとは因果関係がないのである。また、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として日本国政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しており、その趣旨を満たすか否かを判定する基準となり得るのは、「外国の行為(攻撃国の行為・武力攻撃)」が「日本国(自国・我が国)」に対するものであるか否かだけである。「他国」に対する「外国の行為(攻撃国の行為・武力攻撃)」については、日本国ではない他国間の問題であり、日本国の憲法9条の制約の範囲を確定する基準としては用いることはできない。論者は「他国に対する武力攻撃の発生を契機とする武力の行使」という表現を用いているが、9条の下で「他国に対する武力攻撃の発生」という他国間の問題を基準として日本国の統治権が「武力の行使」に踏み切ることができる場合があるかのように考えている部分が誤りである。また、他国間の問題が発生した段階で日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」に踏み切るということは、日本国が「先に攻撃」を行ったこととなる。これは、他国間で問題が発生していることを契機として日本国が自らの意思を通すために「武力の行使」に踏み切るものであるから、9条1項が禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に該当し、違憲となる。たとえ要件の中に「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」との文言が含まれていたとしても、他国間で発生した問題を契機とすることによって、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を主張する余地が生まれるかのように考えて「武力の行使」に踏み切ろうとするものであり、政府の自国都合による「武力の行使」を排除しようとする9条の趣旨を満たさず、違憲である。

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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第10号 平成27年6月15日



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○政府特別補佐人(横畠裕介君) かいつまんで申し上げますが、①の部分は我が国は自衛のための固有の権利を有しているということ、②の部分は外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処する場合における自衛のためのやむを得ない必要最小限度の武力の行使までも憲法が禁じているものではない、そのような結果、禁ずることによって国民が犠牲になるということもやむを得ないということを命じているものとは解されないというのがその①、②の基本的な論理と申し上げているところでございます。
 それでは、どのような場合がこれに当たるのかということでございますが、当時におきましては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみがこれに該当するんだという事実認識を持っていたということを申し上げているわけです。その後の安全保障環境の変化等によりまして、今回お示ししております新三要件を満たすようなもの、これにつきましても、この①、②の要件を満たし得るのだという、そういうことを申し上げているわけでございます。


【筆者】

 「①の部分は我が国は自衛のための固有の権利を有しているということ」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解は「わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然」として国際法上の『権利』を有していることは述べているが、「基本的な論理」と称している部分では「自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」と述べており、「固有の権利を有している」とは述べていないからである。論者は国際法上の『固有の権利』と、憲法上の『権限』に基づく「自衛の措置」を使い分けておらず、誤っている。

 「基本的な論理」と称している部分の②について、「必要最小限度の武力の行使までも憲法が禁じているものではない、」との答弁があるが、誤りである。「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」について説明したものであり、「武力の行使」については述べていないからである。

 「どのような場合がこれに当たるのかということでございますが、当時におきましては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみがこれに該当するんだという事実認識を持っていた」との答弁であるが、誤った認識に基づくものである。1972年(昭和47年)政府見解は「自衛の措置」の限界から「武力の行使」の限界へと段階を追って説明している文章であり、「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範は同じである。これは法学上の文面上の論理構造であるから、「当時」も現在も将来も結論が変わり得る性質のものではない。また、ここには「当時におきまして」や「事実認識」などという政策論上の判断が入り込む余地はないのであり、「当時」、裁量判断の余地がある部分に政策論上の「事実認識」によって「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限ったものであるかのような主張は誤りである。「武力の行使」の限界を記した結論部分の「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」の規範は、その前段の「自衛の措置」の限界の規範部分と同様であり、「自衛の措置」の限界の規範である「外国の武力攻撃」の文言も「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られており、裁量判断の余地はない。

 「その後の安全保障環境の変化等によりまして、」との答弁があるが、「自衛の措置」の限界を記した規範部分と、「武力の行使」の限界を記した規範部分への論理展開は文面上の法論理であるから、「安全保障環境の変化等」によって揺らぐものではない。「安全保障環境の変化等」によって、法論理が揺らぐかのように考えていたり、「自衛の措置」の限界について記した「基本的な論理」と称している部分が「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られず、裁量判断の余地があるかのように考えている部分が誤りである。

 

 「この①、②の要件を満たし得る」との答弁があるが、「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、「満たし得る」ことはない。誤りである。

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第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第22号 平成27年6月16日



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○横畠政府特別補佐人 昭和四十七年見解の一、二は基本論理でございます。二の部分の外国の武力攻撃ということについての解釈の結果として三の結論が出てきたということではございませんで、これもるる御説明しているとおりでございまして、この一、二の要件に当てはまる、そのような場合はどういう場合があるのかというこれは事実認識でございますけれども、その点につきましては、当時以降昨年までは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみがこの一、二の要件に当てはまるのだという事実認識のもとで三の結論を導き出していたということでございます。

動画衆議院平和安全特別委員会 2015 06 19

【筆者】

 「二の部分の外国の武力攻撃ということについての解釈の結果として三の結論が出てきたということではございませんで、」との答弁があるが、誤りである。「外国の武力攻撃」の部分は「自衛の措置」の限界となる規範を示した部分であり、この「自衛の措置」の限界は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」と説明される中で示されているものであるから、「他国に対する武力攻撃」は含まれていない。また、「三の結論」の部分については「自衛の措置」の一つとして「武力の行使」を選択した場合の限界を示したものであり、必然的にその「武力の行使」は「自衛の措置」の限界である「外国の武力攻撃」(我が国に対する武力攻撃)」の文言に拘束されていることが示されているものである。「二の部分の外国の武力攻撃ということについての解釈の結果として三の結論が出てきたということではございません」と説明しているが、「外国の武力攻撃」の意味を解釈するという意味で結論が持ち出されたという文面ではないが、この「外国の武力攻撃」は「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、これに従って「武力の行使」の限界を示した「三の結論が出てきた」ものである。「ございません」と否定しているが、その趣旨を否定することは誤りである。

 「これは事実認識でございますけれども、」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界と「結論」と称している「武力の行使」の限界の間には法学上の文面上の論理的な過程しか存在しておらず、「事実認識」などという法学の枠外の要素が入り込んでいるものではない。「事実認識でございますけれども」などと、「事実認識」が存在したとの主張が根拠なく主張されることは、論者がそうであってほしいとの願望によって主張しているものと考えられる。文面上の整合性を見れば成り立たない主張である。

 「当時以降昨年までは、」との答弁であるが、「自衛の措置」の規範から「武力の行使」の規範に段階を追って説明される論理は「当時」も「昨年まで」も現在も将来も変わらないのであり、裁量の入り込む余地があり、政策判断として結論部分を「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限っていたかのような主張は誤りである。

 「当てはまるのだという事実認識のもとで」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の文面は「自衛の措置」の中に「武力の行使」を当てはめたものであり、「基本的な論理」と称している部分に「結論」と称している要件を「事実認識」などという政策判断として当てはめたものではない。よって、「事実認識のもとで」などという主張は根拠のない主張であり、文面上の論理的整合性を無視した不正な読み方である。

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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第12号 平成27年6月19日



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○横畠政府特別補佐人 昭和四十七年の政府見解の二の部分の御指摘でございます。そこの、外国の武力攻撃という文言が表示されているわけでございます。
 四十七年見解の全体の構成につきましてはこれまでもるるお答えしているとおりでありまして、一、二は基本論理。三の結論が出ていますが、その当時の前提の認識といたしましては、一、二に該当する、むしろ二に明示されている国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態というのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合、それしか考えられないんだという事実認識に基づいて三の結論に至っているというふうにまさに書いてあるわけでございます。
 端的に、二の部分の外国の武力攻撃がなぜ我が国に対する武力攻撃に限られないのかというお尋ねでございますけれども、あえてそこで限るとしてしまうと、結論として三、すなわち「そうだとすれば、」という結論に至らない。三のところでまさに、我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られるということで、そこで初めて我が国に対するということが出てくるということでございます。その過程において、なぜ憲法九条のもとで例外的に我が国は武力の行使が可能なのか、まさに基本論理のところにおいてはその限定がないというふうにしか読めないわけでございます。
 裏から申し上げますと、二の部分の外国の武力攻撃というのが我が国に対する武力攻撃に限るんだ、仮にそうだとしますと、今回政府が考えておりますように、外国に対する武力攻撃の場合であっても国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがある、そういう急迫不正の事態というのがあるんだという前提に立ちますと、では、その場合に国民を犠牲にするのか、国民を犠牲にしろと憲法が言っているのか、そういう解釈をするのかという問題になるわけです。そんなことはないだろうというのが結論でございます。

動画安倍晋三・横畠裕介・中谷元:安保法制 6/26大串博志 2015/06


【筆者】(事実認識)

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○横畠政府特別補佐人 何度もお答えしているとおりでございまして、基本論理の部分を変えるというのはまさに憲法改正を必要とすることであろうということでございます。
 三の結論の部分に至っていますのは、まさに当時の事実認識として、繰り返しませんけれども、根底から覆される急迫不正の事態、これに当たるのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみである、そういう事実認識に基づいているということでございます。
 御指摘の吉国法制局長官も昭和四十七年九月十四日の参議院決算委員会におきまして、引用されている部分とは別の箇所でございますけれども、「集団的自衛の権利ということばを用いるまでもなく、他国が――日本とは別なほかの国が侵略されているということは、まだわが国民が、わが国民のその幸福追求の権利なり生命なり自由なりが侵されている状態ではない」というふうに述べています。まさにその事実認識を前提にして、当時の議論がなされていたということでございます。
 加えて、当時の集団的自衛権というものについては、吉国長官は、「他国の侵略を自国に対する侵略と同じように考えて、」「その侵略を排除するための措置をとるというところは、憲法第九条では容認しておらない」、そのような答え方をしているところでございます。

動画安倍晋三・横畠裕介・中谷元:安保法制 6/26大串博志 2015/06


【筆者】(事実認識)(『侵略』の部分、砂川判決)

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○横畠政府特別補佐人 先ほどもお答えしたとおり、憲法第九条のもとにおきまして、九条そのものが、まさにその文言からしますと一切の武力の行使を禁じているかのようにも見えるわけでございます。ですから、自衛隊の違憲論等々いろいろあったわけでございますけれども、今もございます。ですが、九条のもとにおきましても例外として我が国が武力を行使できる場合があるんだということでございます。
 では、なぜかということでございます。それは、我が国の存立とか国民が他国の武力攻撃の結果まさに危機に瀕する、そのような、まさに権利が根底から覆されるという事態に陥るときに何もするなというふうに憲法が命じているはずがないだろうというのが基本的な論理でございます。

動画

【筆者】

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○横畠政府特別補佐人 まさに三の結論、我が国に対する急迫不正の侵害というのが結論の部分でございまして、基本論理の二のところの外国の武力攻撃というのはその前提としてのまさに論理でございまして、二の外国の武力攻撃というのが我が国に対する武力攻撃のこととして限定して読むべきではないということをるる申し上げているわけでございます。
 その意味で、結論の部分、つまり我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限って我が国として武力の行使をすることができるという部分は結論なのでございまして、それ自体が基本論理そのものではないということを申し上げているわけでございます。

動画

【筆者】(限定して読むか)

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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第14号 平成27年6月26日



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○横畠政府特別補佐人 新三要件のもとでの限定された集団的自衛権の行使は、あくまでも我が国の存立を全うし国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものでございます。すなわち、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではないというところが大きなポイントでございます。
 このように、限定された集団的自衛権の行使が憲法に適合すると言えるその理由につきまして、昭和四十七年の政府見解を引用し、これに基づいて説明させていただいております。
 この昭和四十七年の政府見解は、その文言からいたしますと国際関係において一切の実力の行使を禁じているかのように見える憲法第九条のもとでも、例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるということ、それがどのような理由によるのか、また具体的にどのような状況がそれに当たるのかということを整理して述べているものでございます。すなわち、お示しの資料の一の部分でございますけれども、憲法の前文、第十三条に照らしても、憲法第九条が「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」と述べており、これは昭和三十四年の砂川事件の最高裁判決の「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」という判示と軌を一にするものでございます。
 さらに、二の部分におきまして、しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右に言う自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて許容されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためにとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものであるとして、このような極限的な場合に限って、例外的に自衛のための武力の行使が許されるという考え方を述べております。
 この一、二の部分が、憲法第九条のもとでもなぜ例外的に武力の行使が許されるのかという理由、根拠を述べたものでありまして、その意味で基本的な論理と呼んでおるところでございます。
 新三要件は、昭和四十七年の政府見解基本的な論理維持し、この考え方を前提として、これに当てはまる極限的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこれに当てはまるとしたものであり、その結果として昭和四十七年政府見解の三の結論の部分が一部変更されるということでございますが、もとより、他国防衛の権利として観念されるいわゆる集団的自衛権一般の行使を認めるわけではございませんので、結論が真逆になるということではございません
 要するに、これまで、憲法第九条のもとでも、外国の武力攻撃という軍事力を用いた急迫不正な侵害行為によって国民が犠牲になるという極限的な場合には自衛のための武力の行使ができる、ゆえにそのための自衛隊も合憲であるという、その理由と同じ理由で新三要件のもとでの限定された集団的自衛権の行使も合憲であると言えるということを申し上げているわけでございます。

動画横畠裕介「もっと簡潔に」と自民にも言われる始末7/17/1


【筆者】

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○横畠政府特別補佐人 新三要件のもとで認められます限定的な集団的自衛権の行使が憲法に適合するという、その根拠でございますけれども、その根拠の意味いかんでございます。憲法の範囲内であると言える根拠、つまりその論理あるいは考え方としては、まさに昭和四十七年の政府見解で示されている基本的な論理の一及び二のとおり、その考え方でございます。

 さらに、その論理、考え方を支える根拠、裏づけとなるものでございますけれども、その一つとして砂川判決の判示があり、これは昭和四十七年政府見解基本的な論理の一のところに示されているとおりでございます。

動画

【筆者】

 「限定的な集団的自衛権の行使が憲法に適合するという」との答弁があるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な」などという区分は存在しない。また、憲法上では「限定的な」と称すれば「武力の行使」が正当化されるわけでもない。

 「憲法の範囲内であると言える根拠」が、「まさに昭和四十七年の政府見解で示されている基本的な論理」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらない。よって、根拠は存在せず、「憲法の範囲内である」とは言えない。

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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第16号 平成27年7月1日



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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 新三要件の下での限定された集団的自衛権の行使は、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものでございます。すなわち、国際法上は集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではないということでございます。その意味で、国際法上の集団的自衛権の行使一般を認めることは憲法に抵触するという考えは変わっておりません
 このように、新三要件の下での限定された集団的自衛権の行使が憲法に適合すると言える理由につきましては、昭和四十七年の政府見解を引用して、これに基づいて説明させていただいております。この昭和四十七年の政府見解は、その文言からすると国際関係において一切の実力の行使を禁じているかのように見える憲法第九条の下でも、例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるということ、それがどのような理由によるのか、また具体的にどのような状況がそれに当たるのかということを整理して述べているものでございます。
 すなわち、第一に、憲法の前文、第十三条に照らしても、憲法第九条が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとは到底解されないと述べており、これは昭和三十四年の砂川判決の最高裁大法廷判決の、我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権能の行使として当然のことであると言わなければならないという判示と軌を一にする考え方でございます。
 第二に、しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右に言う自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて許容されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものであるとして、このような極限的な場合に限って例外的に自衛のための武力の行使が許されるという考え方を述べております。
 この第一及び第二の部分が、憲法第九条の下でなぜ例外的に武力の行使が許されるのかという理由、根拠を述べた部分であり、その意味で基本的な論理と述べております
 新三要件は、この昭和四十七年の政府見解基本的な論理維持し、この考え方を前提として、安全保障環境の変化の状況を踏まえて慎重に検討し、これに当てはまる極限的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこれに当てはまるとしたものであります。その結果として、昭和四十七年の政府見解の第三の結論の部分が一部変更されるということであります。
 もとより、他国防衛の権利として観念されるいわゆる集団的自衛権一般の行使を認めるわけではないので、もとより結論が真逆になったということでもございません。要するに、これまで憲法第九条の下でも、外国の武力攻撃という軍事力を用いた急迫不正な侵害行為によって国民が犠牲になるという極限的な場合には自衛のための武力の行使ができる、ゆえに、そのための自衛隊も合憲であるというその理由と同じ理由で、新三要件の下での限定された集団的自衛権の行使も合憲であると言えると考えているところでございます。


【筆者】

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第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第4号 平成27年7月29日



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○政府特別補佐人(横畠裕介君) もとより、その当時、新三要件の考え方はございませんでした。先ほど御指摘のあったとおり、新三要件の考え方は、昨年七月以降、政府として取っている考え方でございます。そこで私の申し上げたその論理といいますのはこの昭和四十七年見解基本的な論理の部分のことでございます。


【筆者】

 「新三要件」の「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、違憲である。

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○政府特別補佐人(横畠裕介君) まさに昭和四十七年当時におきましては、その昭和四十七年見解の結論で述べておりますとおり、個別的自衛権といいますか、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみが、ここに言う外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に当たるのだという、そういう事実認識の下で昭和四十七年見解が作成されているわけでございますけれども、その前提となっている、すなわち憲法第九条の下でもなぜ我が国として武力の行使ができるのかというその基本的な論理の部分は、まさにこの基本的論理、この四十七年見解で示された基本的な論理であるという、そういう考え方を当時の担当者は皆持っていたということであろうというお答えをしているわけでございます。

【動画】小西洋之「あなたが法的安定性を壊している」横畠裕介を木端微塵に 8/3


【筆者】

 「ここに言う外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に当たるのだという、そういう事実認識の下で昭和四十七年見解が作成されているわけでございますけれども、」との答弁があるが、誤った理解に基づくものである。論者は1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の規範について述べた「外国の武力攻撃」の文言が「我が国に対する武力攻撃」に限られないと考え、裁量判断として「他国に対する武力攻撃」を含ませる余地があるけれども、当時の「事実認識」などという法学の枠外にある政策判断として「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限っていたかのように考えているが、1972年(昭和47年)政府見解を論理的に丁寧に読み込むと、「外国の武力攻撃」の文言は「集団的自衛権の行使」が許されないとする「自衛の措置の限界」を示した部分であるから、既に「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られており、裁量判断として「他国に対する武力攻撃」を含ませる余地はなく、当時の「事実認識」などという法学の枠外にある政策判断が介入する隙もなく、「自衛の措置」として「武力の行使」を選択する場合にも、当然に「自衛の措置の限界」に拘束されるのであり、「武力の行使」の規範についても同様に「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られると結論付けられているものである。「そういう事実認識の下で昭和四十七年見解が作成されているわけでございます」との答弁があるが、「そういう事実認識の下」などと、政策判断によって「武力の行使」の規範が示されたことを裏付ける資料はなく、勝手に論者が「そういう事実認識」などと、政策判断であったかのように語っているだけである。文面を丁寧に読み取れば「自衛の措置」の規範から「武力の行使」の規範へと段階を追って説明していることはそのまま確認できるのであり、「そういう事実認識」などという法学の枠外の事情がここに介入したことを根拠付けるものはない。法解釈として成り立たず、内閣法制局の立場にありながらも法を超えて政策判断を行っている点で不正である。

 「なぜ我が国として武力の行使ができるのかというその基本的な論理の部分」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」についてしか説明しておらず、「武力の行使ができる」とは述べていないため誤りである。

 「そういう考え方を当時の担当者は皆持っていたということであろうというお答えをしているわけでございます。」との答弁があるが、当時の担当者は「外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有しないと述べており、論者が当時の担当者の考えを持ち出すのであれば、当時の担当者の考えによって「存立危機事態」の要件は違憲となることが裏付けられる。

   【参考】3.「読み替え」が違憲無効であることの立証──作成者が全否定している PDF (P31~)

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○政府特別補佐人(横畠裕介君) この昭和四十七年の政府見解は、その結論でお示ししているとおりでございまして、当時の認識といたしましては、先ほどの基本的な論理に当てはまる具体的な場合としては、(発言する者あり)我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみがこの基本的な論理に……
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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 何度もお答えしているわけでございますけれども、当時の事実認識としては、国民の権利が根底から覆される、そういう事態というのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限るという事実認識だったわけでございます。
 今般、その基本的な論理として重視しておりますのは、憲法第九条の下でも、なぜ、あるいはどういう理由で、また、どういう場合に我が国として武力の行使ができるのかというその基本的な論理をこの四十七年見解も語っているわけでございます。それがまさに基本論理の部分でございます。まさに、我が国の存立を守り、生命、自由及び幸福追求の権利を守るためには武力の行使もやむを得ないということでございます。
 御指摘の、議事録についてのお尋ねでございますけれども、昭和四十七年九月十四日のこの議事録のページ数で申し上げます。議事録のページ数の十二ページの一段目でございますけれども、我が国が他国の武力に侵されて、国民がその武力に圧倒されて苦しまなければならないというところまで命じているものではない、これは当時の認識として我が国に対する武力攻撃が発生した場合のことを述べております。
 ただし、三行目に行きますと……(発言する者あり)三段目ですね、三段目の左の方でございますけれども、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が根底から覆されるおそれがある、その場合に、自衛のために必要な措置をとることを憲法が禁じているものではないということも明言しているわけでございます。
 その他、何か所か該当する部分がございますけれども、念のため申し上げておきますと、先ほどもお答えしたとおり、当時におきましては、そのような国民の権利が根底から覆るような場合というのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるのだという事実認識を前提にしてお答えしているわけでございますので、その辺が両者一体となったお答えをしているという部分がございますが、論理といたしましては、まさに国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される、そういう場合には武力の行使を行うことを憲法は禁じていないという、そこは基本的な論理の部分でございます。

【動画】小西洋之「あなたが法的安定性を壊している」横畠裕介を木端微塵に 8/3


【筆者】

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○政府特別補佐人(横畠裕介君) そこは昨年七月以来何度もお答えしているところでございますけれども、昭和四十七年当時の政府、内閣法制局含めてでございますけれども、事実認識といたしましては、まさにこの基本論理、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される、そういう場合というのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるのだという、そういう事実認識の下で議論していると、先ほど来申し上げているとおりでございます。ですから、議事録の御指摘の部分にはそのようになっている、それはもう当然であろうかと思います。
 この昭和四十七年の政府見解をよく御覧いただければお分かりいただけると思いますけれども、まさに、一つ目におきましては、繰り返しませんが、憲法前文それから十三条を引きまして、我が国が自らの存立を全うし国民が平和のうちに生存する権利までも放棄していないことは明らかであるという、そういうことを明記しているわけでございます。
 さらに、二つ目におきまして、平和主義をその基本原則とする憲法が、右に言う自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであってと言って、先ほど来繰り返しております外国の武力攻撃によって国民の権利等が根底から覆される、そういう急迫不正の事態に対処して、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として武力の行使ができるんだと、そういうことを述べておりまして、それがまさに基本的な論理、なぜ憲法第九条の下でも武力の行使ができるのかということの考え方、論理を述べたのがそこでございます。
 最後の結論に至るプロセスにおきましては、まさにそれに当たる、該当する場合というのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみであるという事実の認識を前提として結論を導いていると、そういうことでございまして、そこの事実認識が近時の安全保障環境の変化によって変わったということを述べているわけでございます。

【動画】小西洋之「あなたが法的安定性を壊している」横畠裕介を木端微塵に 8/3

【筆者】

 「昭和四十七年当時の政府、内閣法制局含めてでございますけれども、事実認識といたしましては、まさにこの基本論理、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される、そういう場合というのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるのだという、そういう事実認識の下で議論していると、先ほど来申し上げているとおりでございます。」との答弁があるが、誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に示されているのは「自衛の措置」の規範には「外国の武力攻撃」の文言があり、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味する。論者はこれが「我が国に対する武力攻撃」に限定されていないかのように考え、「武力の行使」の規範を示した結論部分は当時の「事実認識」による政策判断として「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限るとしたかのように論じようとしているが、1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する文章であり、「自衛の措置」の限界を示した「外国の武力攻撃」の文言の中では既に「他国に対する武力攻撃」は含まれておらず、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られている。もしここに「他国に対する武力攻撃」が含まれているのであれば、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」とする文面と論理的整合性が成り立たなくなるため、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られないかのような読み方は論理的に不可能である。そのため「当時の事実認識」という政策判断が入り込む余地はなく、「自衛の措置」の限界を示した規範がそのまま「武力の行使」の限界を示す規範となるのであり、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される、そういう場合」か否かが判定されているかのような認識は誤りである。「昭和四十七年当時の政府、内閣法制局含めて」「そういう事実認識の下で議論していると、」との答弁があるが、「昭和四十七年当時の政府、内閣法制局含めて」「自衛の措置」の限界の規範である「外国の武力攻撃」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有しておらず、「自衛の措置」の選択肢の一つとして「武力の行使」を選択した場合にも、その「武力の行使」はこの「自衛の措置」の限界の規範に拘束されるとする論理的な過程の認識によって結論を導き出しているものであり、この「自衛の措置」の規範と「武力の行使」の規範の間に裁量的に政策判断が入り込む余地はない。そのため、「事実認識の下で議論している」などと、法学上の規範の枠外から政策判断が入り込んだ議論をしていたかのように説明することは根拠のない主張であり、誤りである。

 「武力の行使ができるんだと、そういうことを述べておりまして、それがまさに基本的な論理、なぜ憲法第九条の下でも武力の行使ができるのかということの考え方、論理を述べたのがそこでございます。」との答弁があるが、誤りである。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」についてしか説明しておらず、「武力の行使ができる」とは述べていないからである。

 「最後の結論に至るプロセスにおきましては、まさにそれに当たる、該当する場合というのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみであるという事実の認識を前提として結論を導いている」との答弁があるが、誤った理解である。「最後の結論に至るプロセス」とは、「自衛の措置」の限界の規範から「武力の行使」の限界の規範を導き出す論理的なプロセスによって「最後の結論に至る」もののであり、「自衛の措置」の限界は「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られているし、「事実の認識」などという法学の枠外から政策判断が働いたことにより結論部分の「武力の行使」の限界を「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限ったわけでもないからである。1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを示した文章であり「自衛の措置の限界」を記した「外国の武力攻撃」の文言は既に「他国に対する武力攻撃」は含まれない。もし含まれるのであれば「集団的自衛権の行使」も「自衛の措置の限界」の範囲内となり得るのであり「こえる」との文言との論理的整合性が保たれなくなるため、妥当でないのである。

 「そこの事実認識が近時の安全保障環境の変化によって変わったということを述べている」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範部分と、結論部分の「武力の行使」の限界の規範の間には法学上、文面上の論理的な繋がりしか存在しておらず、「事実認識」が入り込む余地はない。そのため、当時「事実認識」という政策判断が入り込んでいたわけではないし、「近時の安全保障環境の変化によって」もここに政策判断が入り込む余地はない。当時の「事実認識」によって結論部分の「武力の行使」の限界の規範が示されていたかのように論じることは誤りであり、また、「近時の安全保障環境の変化」によって変えることができるかのように考えていることも誤りである。

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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 繰り返しになるかもしれませんが、憲法第九条は、その文言からいたしますと、まさに一切の武力の行使を禁じているかのように見えます。であるがゆえに、伝統的に憲法学者の方々は、およそ一切の武力の行使はできないのである、もとより自衛隊も違憲であると、そういう説が極めて有力であったわけでございます。単純に文言だけから見ますとそのように見えてしまう、そういう規定であるということは、これは否定し難い。それが出発点でございます。条文でございます。
 ところが、昭和四十七年見解は何を言っているかというと、そのような憲法第九条の文言の下におきましても、実は武力の行使をする、すべき場合があるのだということを述べています。それはなぜかといいますと、さすがの憲法も、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されてしまうような、そういう事態において、日本国が何もするなというふうに命じている、憲法が命じているはずがないであろうと、そういうまさに論理でございます。であるがゆえに、この国民の権利が根底から覆される急迫不正の事態というのは何かという当時の事実認識におきましては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合であるということで結論を出し、そのような議論をずっとしてきたわけでございます。
 昨年七月以降、何が変わったかといいますと、まさにその国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される、そのような場合において、憲法第九条の下でも武力の行使は許されるのだという基本的な論理、それは変わりません。その限りで武力の行使が認められるということは変わりませんが、従前のように我が国に対する武力攻撃の発生を待っていたのでは手遅れになる、そういう場合もあるであろうと。まさに、他国に対する武力攻撃が発生し、それだけでは足りません、それによって我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある、そういう場合には、全く同じ論理に基づきまして、我が国として憲法九条の下におきましても武力の行使が可能であると、そういうことを申し上げているわけでございます。

【動画】小西洋之「あなたが法的安定性を壊している」横畠裕介を木端微塵に 8/3


【筆者】

 「昭和四十七年見解は何を言っているかというと、」「実は武力の行使をする、」「そういうまさに論理でございます。」という答弁があるが、正確な認識を必要とする。確かに「昭和四十七年見解」は結論部分で「武力の行使をする」場合が述べられているが、論者の示す「そういうまさに論理でございます。」の部分である「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界を示したにとどまり、「武力の行使」については触れていない。「基本的な論理」と称している部分で既に「武力の行使をする」場合が許されるかのように説明しようとしているのであれば誤りである。

 「それはなぜかといいますと、さすがの憲法も、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されてしまうような、そういう事態において、日本国が何もするなというふうに命じている、憲法が命じているはずがないであろうと、」との答弁の部分について、1972年(昭和47年)政府見解を正確に抜き出したものでないため不備がある。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と示しており、論者のように「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されてしまうような、そういう事態」という規範ではないからである。「自衛の措置」の規範部分にも「外国の武力攻撃」の文言が存在しており、単なる「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「自衛の措置」を採ることができるわけではないのである。

 「であるがゆえに、この国民の権利が根底から覆される急迫不正の事態というのは何かという当時の事実認識におきましては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合であるということで結論を出し、そのような議論をずっとしてきたわけでございます。」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には「自衛の措置の限界」が示されており、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在している。これは「我が国に対する武力攻撃」に限られており、結論として「自衛の措置」の選択肢の中から「武力の行使」を選択する場合においても、同様に「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られる旨が論理的に示されたものである。この「自衛の措置」と「武力の行使」の間には文面上の論理展開によるものである。論者のように「自衛の措置」の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」に限られていないと考え、この「自衛の措置」の限界を記した規範部分の「国民の権利が根底から覆される急迫不正の事態」との部分のみを抜き出して「国民の権利が根底から覆される急迫不正の事態というのは何か」という疑問が生ずる余地はない。単に「自衛の措置」の限界は「我が国に対する武力攻撃」に限られており、「武力の行使」を選択する場合にも同様に「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られるというだけである。「当時の事実認識におきましては、」との答弁についても、そもそも「当時」も現在も将来も1972年(昭和47年)政府見解は「自衛の措置」の限界の規範から「武力の行使」の限界の規範を論理的に繋いでいるだけであり、「当時の事実認識」の中で「自衛の措置」の限界の規範である「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」に限られていなかったわけではないし、「武力の行使」の限界の規範を定めるにあたって裁量判断の余地もないのであるから、ここで初めて「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限ったわけでもない。論者が勝手に文面上の論理を無視し、「当時の事実認識」などという法学の枠外から根拠を持ち出そうとしているだけである。「そのような議論をずっとしてきたわけでございます。」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範の間に、もともと「当時の事実認識」などという政策判断が入り込む余地はないのであり、「当時の事実認識」などという論者の根拠のない話に基づいて「そのような議論をずっとしてきた」かのように説明することは誤りである。

 「まさにその国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される、そのような場合において、憲法第九条の下でも武力の行使は許されるのだという基本的な論理、それは変わりません。」との答弁があるが、誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解は「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される、そのような場合」であるからといって、「自衛の措置」を執ることを許しているわけではない。「自衛の措置」が許される場合を、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と限っているのである。ここには「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味する。論者はこの部分を抜き出さずに、あたかも「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される、そのような場合」と政府が認定するだけで「自衛の措置」を執ることができるかのように説明している部分があるが、誤りである。次に、「武力の行使は許されるのだという基本的な論理」との答弁について、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、「自衛の措置」について述べるにとどまり、「武力の行使」については述べていない。そのため、あたかも「基本的な論理」と称している部分で「武力の行使は許される」と述べているかのように説明している部分が誤りである。三つ目に、「それは変わりません。」の答弁であるが、「基本的な論理」と称している部分が変わらないのであれば、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」を意味することから、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに含まれず、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となる。「存立危機事態」の要件を定めながら「それは変わりません。」と説明することは論理的整合性が存在しないため、誤りである。

 「その限りで武力の行使が認められるということは変わりませんが、」との答弁があるが、これは「基本的な論理」と称している部分の限りで「武力の行使が認められる」と考えるものであり、「自衛の措置」の限界の中に「武力の行使」を当てはめた場合についてである。ただ、この「自衛の措置」の限界には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味するから、論者のように「存立危機事態」での「武力の行使」が可能であるかのように論じることはできない。

 「従前のように我が国に対する武力攻撃の発生を待っていたのでは手遅れになる、そういう場合もあるであろうと。」との答弁があるが、内容を整理する。まず、「従前」から「我が国に対する武力攻撃」の『着手』があれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たすとされている。そのため、ここで我が国の武力攻撃の現実的な被害の発生を待っていた場合のことを指して、「手遅れになる」と説明しようとしているのであれば、「従前」よりそう解釈されているわけではない。「手遅れになる、そういう場合もあるであろうと。」との答弁があるが、「手遅れ」となることを理由に「武力の行使」に踏み切ることは、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」に踏み切ることと何ら変わらないのであり、9条はこのような「武力の行使」を制約している。「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」に踏み切ることは歴史上幾度も経験しており、9条はそのような自国都合の「武力の行使」を制約するための規定であるから、「手遅れになる」などという理由を持ち出したとしても、直ちに「武力の行使」が許されるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない「武力の行使」をすべて違憲とし、9条が政府の自国都合による「武力の行使」を制約する趣旨が生かされる規範を設けているのである。論者は「手遅れになる」として「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化しようとするが、「存立危機事態」の要件は9条の趣旨とその解釈枠組みである1972年(昭和47年)政府見解に抵触して違憲となるものであるから、この要件を定めるためには憲法改正を行う必要がある。憲法改正を行わず、9条の下でありながら「手遅れになる」との認識によって「武力の行使」が可能となるかのように考えている部分が誤りである。

 「まさに、他国に対する武力攻撃が発生し、それだけでは足りません、それによって我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある、そういう場合には、全く同じ論理に基づきまして、我が国として憲法九条の下におきましても武力の行使が可能であると、そういうことを申し上げているわけでございます。」との答弁があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触しない根拠を示したものではないため、「存立危機事態」を「憲法九条の下におきましても武力の行使が可能である」と説明している部分が誤りである。まず、「他国に対する武力攻撃が発生」についてであるが、これは未だ9条の規範性を通過しておらず、これだけで「武力の行使」が許されることにはならない。論者も「他国に対する武力攻撃が発生し、それだけでは足りません、」と述べているように、「他国に対する武力攻撃が発生」しただけで「武力の行使」に踏み切れば、それは9条に抵触して違憲となることは理解しているようである。次に、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある、そういう場合」についてであるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範であり、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」というだけで「武力の行使」が可能となるのであれば、政府の行為を制約する趣旨を満たさず、9条の趣旨を損なうこととなる。よって、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」というだけでは、未だ9条の規範性を通過していない。よって、「他国に対する武力攻が発生」しても9条の規範性を通過しておらず、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という部分も9条の規範性を通過しておらず、この9条の規範性を通過していないものを「それによって」(これにより)の文言で繋いだとしても、9条の規範性を通過する要件になるわけではない。そのため、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」が9条の下で可能となることはなく、「憲法九条の下におきましても武力の行使が可能であると、そういうことを申し上げている」ことは誤りである。さらに、「全く同じ論理に基づきまして、」との答弁があるが、「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味するから、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに含まれない。そのため、「全く同じ論理」に基づいて「存立危機事態」での「武力の行使」を可能とすることはできないため、誤りである。

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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 昭和四十七年九月十四日の議事録についての御指摘だと思いますけれども、何度もお答えしているとおり、当時におきましては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみが国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される急迫不正の事態であるという、そういう認識の下での議論をさせていただいたわけでございます。
 ですが、その基本的な論理といいますのは、この昭和四十七年見解で整理されております一つ目と二つ目のところということでございます。
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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 基本的論理はこの昭和四十七年の政府見解そのものに示されているわけでございまして、昭和四十七年の政府見解そのものがそれでございますので、四十七年見解がございます。
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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 何についてあるかないかお尋ねなのでしょうか。すなわち、四十七年見解そのもの、四十七年見解そのものがその基本的な論理のところにおきまして今回の新三要件に適合する、そういうものであるということを示しているわけでございます。(発言する者あり)
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○政府特別補佐人(横畠裕介君) まさに国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがある、吉國長官はそう言っていますけれども、そういう場合に武力の行使を行うことを憲法は禁じていない、そこがまさに基本論理でございます。
 繰り返しますけれども、当時の事実認識としては、内閣法制局もそうでございますが、政府におきましても、そのような場合に当たるのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限ると。別の言い方をすれば、我が国に対する武力攻撃が発生するまでは何があっても国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆るおそれはないのだと、言わばそういう事実認識だったということでございます。
 ところが、その事実認識のままでは今日の安全保障環境の下で適切な対応をすることができないのではないかというのが問題意識であろうかと思います。

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第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第6号 平成27年8月3日



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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 長い経緯、歴史のある事柄でございますが、概要のみ御説明いたします。憲法制定時、自衛隊発足時の答弁、昭和四十七年の政府見解、そして昨年七月の閣議決定、その順で御説明したいと思います。
 昭和二十一年六月二十六日の衆議院本会議において、吉田総理は、憲法第九条について、戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定してはおりませぬが、第九条第二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものでありますなどと答弁しております。
 もっとも、これについて吉田総理は、昭和二十六年十月十八日の衆議院平和安保条約特別委員会において、私の当時言ったと記憶しているのは、しばしば自衛権の名前でもって戦争が行われたということを申したと思いますが、自衛権を否認したというような非常識なことではないと思いますなどと答弁しており、政府として我が国の自衛権そのものを否定したことはないと理解しております。
 その後、我が国をめぐる国際情勢の大きな変化を背景に、昭和二十五年には警察予備隊が組織され、昭和二十七年の保安隊への改組を経て、昭和二十九年に自衛隊が発足しております。
 自衛隊発足当初、自衛隊と憲法第九条の関係が大きな議論となっておりますが、大村防衛庁長官は、昭和二十九年十二月二十二日の衆議院予算委員会において、もとより我が国に対する武力攻撃が発生している場合を前提としているわけでございますけれども、答弁として、憲法第九条は、独立国として我が国が自衛権を持つことを認めている、したがって自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではないなどと説明しております。
 一方、集団的自衛権につきましては、国連憲章において初めて登場した概念であり、昭和三十年代におきましては、その内容等についてなお議論があったことから、他国への基地の提供なども集団的自衛権と呼べないことはないのではないかといったような答弁もございます。
 その後、集団的自衛権、個別的自衛権といいますのは、武力の行使に係る概念、すなわち武力を行使する場合の要件であるという理解が定着しております
 その上で、昭和四十七年の政府見解は、憲法の前文及び十三条の規定を踏まえ、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処する場合に限って憲法第九条の下で例外的に自衛の措置としての武力の行使が許されるという基本的な論理を述べた上で、その基本的な論理に当てはまるのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみであるという当時の事実認識を前提として、結論として、憲法第九条の下で自衛の措置としての武力の行使が許容されるのは我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られる、すなわち、いわゆる集団的自衛権の行使は許されないということを述べております。
 昨年七月の閣議決定では新三要件をお示ししておりますけれども、安全保障環境の大きな更なる変化を踏まえまして、昭和四十七年の政府見解基本的な論理、すなわち憲法第九条の下でも例外的に武力の行使が許されると考えられるその理由、根拠ということでございますけれども、これを維持した上で、それを前提として、これに当てはまる極限的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこれに当てはまると判断するに至ったところであり、その結果として昭和四十七年見解の結論の一部が変更されたところでございます。新三要件を満たす場合の限定的な集団的自衛権の行使は憲法上許容されるという考え方に至っているわけでございます。
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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 御意見はいろいろございますけれども、今回の一連の法案は、憲法第九条の下でも例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和四十七年の政府見解基本的な論理維持した上で、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、新三要件の下、一部限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものでございまして、これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれていると考えております。
 したがいまして、憲法に適合するものであって、憲法第九十九条の憲法尊重擁護義務との関係でも問題はないものと考えております。
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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 我々といたしましては、今回の法案が憲法に抵触するものとは考えておりません。これまでの憲法の解釈の範囲内基本的な論理は維持しております法的安定性も保持しております
 新三要件は関係ないと先ほど委員御指摘になりましたけれども、まさに新三要件こそ重要なポイントでございますので、そこを見ていただきたいと思います。
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第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第8号 平成27年8月5日



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政府特別補佐人(横畠裕介君) ③のその後段部分の「したがって、」ということでございますが、③の前段、後段、いずれもその結論であります。
 それ、なぜ結論かといいますと、先ほど申し上げたように、①の部分、②の部分が、憲法の下でも武力の行使が許される場合があるのだ、それがどのような場合なのかというその理由、根拠、基本的論理と申し上げていますけれども、憲法の下でも武力の行使が許される場合があるのだ、その場合はどういう場合であるのかということを説明したところが①、②の部分であるということを申し上げているところでございます。


【筆者】

 「①の部分、②の部分が、憲法の下でも武力の行使が許される場合があるのだ、」「憲法の下でも武力の行使が許される場合があるのだ、その場合はどういう場合であるのかということを説明したところが①、②の部分である」との答弁があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分である「①、②の部分」は「自衛の措置」について述べた部分であり、「武力の行使が許される」とは述べていないからである。

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第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第10号 平成27年8月19日



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政府特別補佐人(横畠裕介君) 御指摘のその法理として存在していたというのは、もしかすると私の答弁かもしれませんが、そこで……(発言する者あり)総理の答弁も同じかもしれませんが、ちょっと確認はしておりませんけれども、私自身そのような趣旨のことを述べたことがありますのでお答えいたしますが、そこで述べている趣旨は、今総理からも詳しくお話がありましたとおり、昭和四十七年の政府見解基本論理の①、基本論理の②、パネルにあるとおりでございますけれども、その考え方は今回も維持しているということでございます。
 そのことを申し上げているわけでございまして、当時の事実認識、安全保障環境の下におきましては、この基本論理の②に明記してあります国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態、これに該当するのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限るんだというのが当時の事実認識だったわけでございます。その部分、その事実認識の部分を今回変えたということで、結論の一部が変更になったという、そういう御説明をさせていただいていることでございます。

【動画】2015 08 25 参議院平和安全特別委員会


【筆者】(事実認識)

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政府特別補佐人(横畠裕介君) 繰り返しになりますが、当時の認識、その後も、昨年七月まででございますけれども、このお示しの昭和四十七年の政府見解基本論理の①、②に該当する場合としては、特に②でございますけれども、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるというその法律論の前提としての事実認識というものが維持されていたわけでございます。


【筆者】(事実認識)

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政府特別補佐人(横畠裕介君) 当時の関係者の心中といいますか、それぞれどのように内心考えていたか、そこは分からないわけでございますけれども、別の言い方をいたしますれば、この基本論理の②のところを見ていただいて、すなわち、他国に対する武力攻撃が発生した場合であっても、仮に国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に当たるものがあるとするならば、憲法はそのような場合においても我が国が自衛の措置をとることを禁じているというふうに解するのかというと、そうではないだろうという整理をしたのが昨年の七月でございます。


【筆者】

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政府特別補佐人(横畠裕介君) 当時の関係者が今日を予測していなければ違憲であるという立論は成り立たないと思います。
 まさに、この昭和四十七年の政府見解の論理構造それ自体を見ていただきたいわけでございます。つまり、結論としていわゆる集団的自衛権の行使は許されないという結論を導いておりますけれども、最終結論ですね、その直前にありますのが、我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られるという、それが結論でございますけれども、なぜそうなのかというその理由、根拠というのを述べているのがこの基本論理の①②の部分なのでございます。
 御紹介がありました当時の吉國長官の答弁で、他国が侵略されているということは、まだ日本国民の幸福追求の権利なり生命なり自由なりが侵されている状態ではないというそういうこと、それ自体は事実認識なのでございますが、そこの事実認識が当時とはやはり違う、残念ながら安全保障環境が変わってしまったということで、結論の部分が違うと。憲法九条の下でも例外的に武力の行使が許される、極めて例外的な場合でございますけれども、その理由、根拠といいますのは、まさに国民を守るため、やむを得ない必要最小限度の武力の行使は許されるというその考え方そのものは変わっていないということで、法的安定性は維持されていると申し上げているわけでございます。


【筆者】(事実認識)

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政府特別補佐人(横畠裕介君) 憲法第九条は、その文言からしますと、まさに国際関係において一切の武力を禁じているかのように見えます。それが出発点でございます。
 その上で、お示しの昭和四十七年の政府見解基本的な論理ⅠとⅡの部分におきまして、その憲法第九条の下におきましても例外的に我が国として武力の行使をすることが可能な場合があるという論理を提示しているわけです。その中身が、まさに国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対して何もするなと憲法が言っているはずがないということでございます。
 お示しの、その「そうだとすれば」というところの中身でございますけれども、まさにその結論とその論理をつなぐものとして、当時の事実認識としては、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に当たるものは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると、その場合だけであるというまさに事実認識を前提としてこの結論が得られているというふうに理解しております。


【筆者】(事実認識)

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第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第12号 平成27年8月25日



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政府特別補佐人(横畠裕介君) 無理やり砂川判決を持ち出してきたというところは違います。
 昭和四十七年見解の前提として、砂川判決で述べられています我が国の自衛権は否定されていないというところを前提として昭和四十七年の見解が組み立てられております。その上で、その基本的な論理の二番目として、憲法九条の下で許される自衛権の行使は限定されているということで、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処する場合に限られるのだということを述べております。
 当時におきましては、繰り返しこれまでも何度も述べておりますけれども、当時におきましてはそれに該当するのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみであるという事実認識の下で、当時の結論、すなわち我が国が武力の行使ができるのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという結論を述べているということでございます。

【動画】参議院平和安全特別委員会 2015 08 26


【筆者】

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第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第13号 平成27年8月26日



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政府特別補佐人(横畠裕介君) 昭和四十七年の政府見解は、その結論は、まさに我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみ武力の行使ができるということでありまして、従来の自衛権発動の三要件そのものが結論でございます。これすなわち、御指摘の、当時の防衛庁の提出ペーパーの内容とも全く整合するものでございます。
 昭和四十七年見解の法理と言い、また①、②の基本論理と申し上げているのは、その結論を導くその前提としての物の考え方でございます。つまり、憲法九条の下でも我が国として自衛権の行使が許される、なぜかということでございまして、我が国として憲法九条の下でも自衛権は否定されていないこと、しかしながら、最小限であって、まさに国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処する必要最小限のもののみが許されるという考え方を述べているわけでございます。
 そこで、その結論に至る前の事実認識当時の事実認識としましては、これに該当する場合は、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという事実認識を前提にしていると述べているわけでございまして、御指摘の元法制局長官の答弁、答弁ではないですね、週刊誌の記事でございますね、この引用部分も、まさに当時の事実認識を述べているものと理解しております。

【動画】2015 09 04 参議院平和安全特別委員会

【動画】横畠裕介「安倍の顧問弁護士」9/4小西洋之


【筆者】(事実認識)

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第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第16号 平成27年9月4日



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政府特別補佐人(横畠裕介君) 大変大事なことでございますので、ちょっと長くなるかもしれませんけれども、説明させていただきたいと思います。
 政府は、従来の自衛権発動の三要件におきまして、我が国に対する武力攻撃が発生した場合には、我が国として武力の行使が許されるとしてきております。およそ国際関係において、一切の実力、すなわち武力の行使を禁じているかのように見える憲法第九条の下でも、そのような場合に武力の行使が許されると解される法的な理由、根拠は何かということでございますが、政府が長年そう言い続けてきたからその限りで合憲になったなどということではございません。
 憲法の基本的原理である平和主義を具体化した憲法第九条も、外国の武力攻撃によって我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態、そのような極限的な場合においては、我が国と国民を守るためのやむを得ない必要最小限度の武力の行使をすることまで禁じているとは解されないということでございます。これが昭和四十七年の政府見解基本的論理あるいは法理と申し上げている考え方でございます。
 また、これは昭和三十四年の御指摘の砂川判決の最高裁判決が言うところの、我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならないという判示とも軌を一にするものでございます。
 これに対して、いかなる場合にも我が国は武力の行使を行うべきではないという考え方があることも承知しております。このような外国の武力攻撃に対して、必要な対処をせずに国民に犠牲を強いることもやむを得ないとする考え方は、国民のいわゆる平和的生存権を明らかにした憲法前文、国民の幸福追求の権利を保障した憲法第十三条に照らしても、国民の安全を確保する責務を有する政府としては到底取り得ない解釈でございます。
 次に、その上で、武力の行使が許されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみである、その場合に限られるのかということは、この基本的論理そのものではなく、一定の事実認識を前提としたこの基本的論理の当てはめの問題であると理解されます。
 まず、これまでは、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に当てはまるのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみであると考えていたわけでございます。そうだとすれば、結論として、武力の行使が許されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみであるということになります。これが従来の自衛権発動の三要件でございます。
 これまではそれでよかったわけでございます。よかったと申し上げたのは、それで我が国と国民を守るための必要最小限度必要な対処ができると考えられていたからでございます。しかし、今日我が国を取り巻く安全保障環境の変化の状況等を考慮すると、これまでとは異なり、他国に対する武力攻撃が発生し、その状況の下、武力を用いた対処をしなければ、国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかであるという事態も起こり得る。そのような事実認識を前提とすれば、そのような事態、すなわち存立危機事態でございますけれども、それ自体が、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に当てはまるものでありますことから、先ほど述べた基本的論理の当てはめの帰結として、あえて我が国に対する武力攻撃の発生を待つことなく、これに対処し、我が国と国民を守るための必要最小限度の武力の行使も許されると解されるわけでございます。これが新三要件でございます。
 新三要件の下で認められる武力の行使は、これまでどおり、自衛隊法第八十八条に規定された我が国防衛のための必要最小限度の武力の行使にとどまるものであり、他国防衛の権利として観念される国際法上の集団的自衛権一般の行使を認めるものではなく、また、我が国防衛のための必要最小限度を超える、被害国を含めた他国にまで行って戦うなどといういわゆる海外での武力の行使を認めることになるといったものではございません
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第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第20号 平成27年9月14日


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政府特別補佐人(横畠裕介君) さきの閣議決定が憲法の基本原理の変更をしたものかどうかという点で前提に相違があると思います。政府としては、その基本原理を変更したものではないと考えているわけでございます。
 少し申し上げますと、政府は、従来の自衛権発動の三要件におきまして、我が国に対する武力攻撃が発生した場合には、我が国として武力の行使が許されると解してきたところであります。およそ国際関係において、一切の実力、すなわち武力の行使を禁じているかのように見える憲法第九条の下でも、そのような場合に武力の行使が許されると解してきた法的な理由、根拠は何かと申し上げますと、政府が長年そう言い続けてきたからその限りで合憲になったということなどではなくて、憲法の基本的原理である平和主義を具体化した憲法第九条も、外国の武力攻撃によって我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態、そのような極限的な場合においては、やむを得ない必要最小限度の武力の行使を行うことまでも禁じているものではないと解されるということでございます。
 これが昭和四十七年の政府見解基本的論理あるいは法理と申し上げている考え方であり、従来の一貫した考え方であり、また昭和三十四年の砂川判決の最高裁判決の、我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならないという判示とも軌を一にするものであります。その基本的な考え方を維持しているものでございます。

【動画】2016 03 08 参議院予算委員会


【筆者】

 「必要最小限度の武力の行使を行うことまでも禁じているものではない」「これが昭和四十七年の政府見解の基本的論理あるいは法理と申し上げている考え方」との答弁があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」についてしか説明しておらず、「武力の行使」については何も述べていないため、「基本的な論理」と称している部分について「武力の行使を行うことまでも禁じているものではない」と説明することは誤りである。

 また、この「基本的な論理」と称している部分について「昭和三十四年の砂川判決の最高裁判決の、我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならないという判示とも軌を一にするもの」と説明しているが、先ほども述べたように「基本的な論理」と称している部分は「武力の行使」は含まれていないし、砂川判決は「武力の行使」の可否については何も述べていないのであるから、あたかも「武力の行使」についても砂川判決と「軌を一にするもの」であるかのように説明することは誤りである。

 「その基本的な考え方を維持しているものでございます。」との答弁もあるが、論者は砂川判決が「武力の行使」そのものを正当化する根拠にはならない点と、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分が「武力の行使」については何も述べていない点を誤っているし、「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらないため「基本的な考え方を維持している」と説明することも誤りである。もし「基本的な論理」と称している部分を「維持している」のであれば「存立危機事態」の要件は違憲となる。

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第190回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成28年3月8日



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政府特別補佐人(横畠裕介君) 御通告がございませんでしたけれども、お答えできる限りにおいて誠実にお答えしたいと思います。
 昭和四十七年見解につきましては、昨年もるる御説明いたしましたけれども、当時の国会において御議論がございまして、政府としての考え方をペーパーにまとめて提出せよという要求がありましたので、それに応えたものであります。
 もう一つの防衛庁提出、作成の資料でございますけれども、これは自衛行動の地理的な範囲の問題につきまして防衛庁がまとめたものでございまして、まさに自衛権の範囲とも密接に関連するということでいわゆる法制局に対して合い議がございまして、法制局としてもそのとおりお答えいただいて結構であるという回答をした結果、国会に提出されたものでございます。
 両者の関係について御説明させていただきたいと思います。
 昭和四十七年政府見解においてのその結論でございます。先ほど基本論理と結論と分けさせていただきましたけれども、その結論の部分といいますのは、当時の事実認識、すなわち他国に対する武力攻撃が発生しただけではいかなる場合でも我が国の安全、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆るということはないのだという当時の事実認識ですね、それを前提といたしまして、我が憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られるということ、すなわち従来の自衛権発動の三要件の第一要件と同じことを述べたものでございます。
 一方、自衛行動の範囲、防衛庁作成の資料でございますけれども、全く同じ、従来のいわゆる自衛権発動の三要件、これを前提といたしまして、我が国に対する外部からの武力攻撃がある場合において、我が国が武力の行使として行う自衛行動の地理的な範囲について述べたものでございます。
 という関係でございまして、両者は整合しているということでございます。

【動画】2016 10 05 参議院予算委員会


【筆者】(事実認識)

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第192回国会 参議院 予算委員会 第1号 平成28年10月5日



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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 今御指摘の点でございますけれども、これは昭和四十七年の政府見解における基本的な論理、すなわち結論の部分の前提となる法理の部分についてのお尋ねに対してお答えしたものでございますけれども、実はこれ、前半省略されておりますけれども、長くなりますので、あえて、あえて読みませんが、本当は前段も読んでいただいた方が趣旨が分かって、後半だけだと誤解を招き、招くおそれはありますが、読みます。
 法理といたしましてはまさに当時から含まれている、それは変えない、変わらないということでございます、憲法第九条の下でもなぜ我が国として武力の行使ができるのかというその基本的な論理の部分は、まさにこの基本的論理、この四十七年見解で示された基本的な論理であるという、そういう考え方を当時の担当者は皆持っていたということであろうというお答えをしているわけでございますと答弁しております。

動画参院予算委員会締めくくり質疑 民進党・新緑風会 小西洋之議員 2018年3月28日

 

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○政府特別補佐人(横畠裕介君) なかなか、このように省略された形態ですと、問いと答えが実はマッチしておりませんので、議事録に基づいて正確にお答えしたいと思います。

 平成十一年七月七日の参議院の特別委員会における、ごめんなさい、間違えました。こっちですね。平成二十七年六月十一日の参議院の外務防衛委員会の議事録でございますけれども、質問者小西議員からは、昭和四十七年見解を作ったときに今お認めになった限定的な集団的自衛権行使を容認する法理が含まれていたんだと、作ったときにですね、そういう理解でよろしいですか。イエスかノーかだけでお答えください。
 それに対して私からは、昭和四十七年当時の担当者の具体的な意識、認識は、先ほどお答え申し上げたとおり、そのような事態というのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという事実認識に立っていたわけでございますので、当時、明確に限定的な集団的自衛権の行使というものがそれに当てはまるという認識はなかったと思いますが、法理といたしましてはまさに当時から含まれている、それは変えない、変わらないということでございますと答えております。
 もう一つの、平成二十七年八月三日の特別委員会、参議院特別委員会におけるやり取りでございますけれども、小西議員からは、あそこに書かれている基本的な論理ですね、七月一日の閣議決定。それが昭和四十七年政府見解にも書かれている。その基本的な論理について、この四名の頭の中にあって、それが昭和四十七年政府見解の中に当時書き込まれていたという答弁をなさっているという理解でよろしいですか。イエスかノーかだけでお答えくださいに対して、私からは、まさに昭和四十七年当時におきましては、その昭和四十七年見解の結論で述べておりますとおり、個別的自衛権といいますか、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみが、ここに言う外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に当たるのだという、そういう事実認識の下で昭和四十七年見解が作成されているわけでございますけれども、その前提となっている、すなわち憲法第九条の下でもなぜ我が国として武力の行使ができるのかというその基本的な論理の部分は、まさにこの基本的論理、この昭和四十七年見解で示された基本的な論理であるという、そういう考え方を当時の担当者は皆持っていたということであろうというお答えをしているわけでございますというやり取りでございます。

動画参院予算委員会締めくくり質疑 民進党・新緑風会 小西洋之議員 2018年3月28日


【筆者】

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第196回国会 参議院 予算委員会 第15号 平成30年3月28日



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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 何年か前にもう何度か、何度もお答えしたかと思いますけれども、昭和四十七年の政府見解そのもの、つまり、吉國長官の答弁、るる答弁がありましたけれども、それを整理して論理的にまとめて提出したその昭和四十七年見解の①部分、②部分というのが基本論理ということでございまして、③のその当てはめによる結論部分とは別の、一応別と区別されるもので、今般というか、新三要件におきましても、①、②の基本論理は維持した上で③の結論部分の一部を変更したということはこれまでも度々説明させていただいているところでございます。

動画小西洋之vs横畠裕介・内閣法制局長官 5/14参院・外防 2019/05/13

 

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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 基本論理四十七年の政府見解において示された基本論理まで遡って突っ込んだ議論をする必要がなかったということであろうかと思います。結論を述べれば足りたということであろうかと思います。

動画

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第198回国会 参議院 外交防衛委員会 第13号 令和元年5月14日




<理解の補強>


【動画】内閣法制局長官 横畠 裕介 小西洋之(民主党)【参議院 国会生中継】 平成27年4月2日 外交防衛委員会 2015/04/02

【動画】横畠裕介「張本人は私です」 2015/06/18

【動画】小西洋之vs横畠裕介・内閣法制局長官 5/14参院・外防 2019/05/13





 お読みいただきありがとうございました。「基本的な論理3」へどうぞ。






 下記は、「基本的な論理」との文言と直接的な関連性はないが、解説を記した。


集団的自衛権の限定行使「砂川判決で許容」 法制局長官が答弁 2015.6.15


 この記事には、誤った前提認識がある。
 砂川判決に「自衛権」の文言があるとしても、これは国際法上の『権利』の適用を受ける地位を9条が否定していないことを確認しただけであり、この「自衛権」の文言を基にして日本国の統治権の『権力・権限・権能』が生まれるわけではない。日本国の統治権の『権限』は憲法上で正当化されるのであり、9条の下にある「立法権」「行政権」「司法権」の範囲だけである。
 また、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないことから、砂川判決を根拠として日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を伴う措置である「個別的自衛権の行使」や「集団的自衛権の行使」を正当化することはできない。

 また、横畠裕介内閣法制局長官の答弁自体も誤った理解である。


【参考】第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第10号 平成27年6月15日



横畠裕介「砂川判決の射程」 2015/07/08


 横畠長官は、砂川判決は「限定された集団的自衛権の行使」までは射程に入っていると述べているが、誤りである。

 砂川判決はそもそも日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否について述べていないのであり、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は当然、「個別的自衛権の行使」としての「武力の行使」でさえも可能とは述べていない。

 このことから、砂川判決において「武力の行使」を含む意味での、横畠長官のいう「限定された集団的自衛権の行使」まで射程に入って正当化されているわけがない。