安保法制懇の間違い



 安保法制懇の「報告書」(平成26年5月15日)の資料を読むにあたって押さえておきたいことを確認する。下記の点を押さえれば、この資料の誤りに気付くことができるはずである。


 これらの混乱により論理的整合性が保たれておらず、その結果、法解釈としての妥当性を導き出すことができていない。論理的な過程を踏まずに強引に結論のみを述べようとしても、理由の整合性が積み重ねられていないのであれば、法解釈として正当性を有することはないのである。



要点① 国際法と憲法の違い

 「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国連憲章51条の違法性阻却事由の『権利(right)』の概念である。これについては、この資料の中でも同様に解説されている。しかし、その『権利(right)』を行使するということは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の権利(right)』を行使することになるから、実質的には国家の統治権の『権限(power)』によって「武力の行使(武力行使)」が行われている状態を意味する。それにもかかわらず、この資料ではいつの間にか「個別的自衛権」や「集団的自衛権」との文言が、あたかも国家の統治権の『権限(power)』であるかのように話がすり替わり、混乱している点が見受けられる。


 国際法の違法性阻却事由の視点から見た「集団的自衛権の行使」という言葉は、実質的に「武力の行使」が行われている状態を意味しており、憲法9条はこの「武力の行使」を制約している規範である。この資料は、作成者が意味を正確に押さえていないことによる混乱の影響もあるが、あえて「武力の行使」という言葉を避け、「集団的自衛権の行使」の実質が「武力の行使」であることを隠そうとしているようにも見受けられる。

 また、「国際法上合法(的)な活動への憲法上の制約はないと解すべき」との表現が何度か見られるが、国際法と憲法を中心とした国内法では法体系が異なるのであり、国際法上合法であるからといって、必ずしも憲法に違反しないとは限らない。これらは、国際法と憲法との法体系の違いを押さえていないことによる誤りである。

 

要点② 「必要最小限度」の意味


 「必要最小限(度)」の意味も混乱して用いているので、予め違いを押さえておきたい。色分けは、下記の「報告書」の分析の中でも使い分けている。


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○秋山政府特別補佐人
(略)
 それから、御質問の後段の、憲法解釈において政府が示している、必要最小限度を超えるか超えないかというのは、いわば数量的な概念なので、それを超えるものであっても、我が国の防衛のために必要な場合にはそれを行使することというのも解釈の余地があり得るのではないかという御質問でございますが、憲法九条は、戦争、武力の行使などを放棄し、戦力の不保持及び交戦権の否認を定めていますが、政府は、同条は我が国が主権国として持つ自国防衛の権利までも否定する趣旨のものではなく、自衛のための必要最小限度実力を保有し行使することは認めていると考えておるわけでございます。
 その上で、憲法九条のもとで許される自衛のための必要最小限度の実力の行使につきまして、いわゆる三要件を申しております。我が国に対する武力攻撃が発生したことこの場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきことというふうに申し上げているわけでございます。
 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものいう説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者) 

 


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━   ← 旧三要件の全てを指す意味
「武力の行使」の旧三要件
① 我が国に対する急迫不正の侵害があること
② これを排除するために他の適当な手段がないこと
③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと     ← 「武力の行使」の程度・態様の意味
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↑  ↑  ↑  ↑  ↑  ↑  ↑  ↑

旧三要件は1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範と対応している
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「自衛のための措置」 〔1972年(昭和47年)政府見解から抜粋〕

あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命・自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。
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①② 「武力の行使」の発動要件   『性質』  (ユス・アド・ベルム / jus ad bellum に相当)

③  「武力の行使」の程度・態様  『数量』  (ユス・イン・ベロ / jus in bello に相当)

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〇 意味を判別できないもの

安保法制懇「報告書」


 上記を押さえた上で、「報告書」の「集団的自衛権の行使」に関わる内容について詳しく分析していこう。


「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」報告書 PDF (https)

 (「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」報告書 PDF (http))


【筆者分析】

 インデント(字下げ)を加えて記載したところは、筆者の分析である。



 (P2)  (これより、下線・太字・色・リンクは筆者)

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 以上の提言には、我が国による集団的自衛権の行使及び国連の集団安全保障措置への参加を認めるよう、憲法解釈を変更することが含まれていたが、これらの解釈の変更は、政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることによって可能であり、憲法改正を必要とするものではないとした

 

【筆者分析】

 法解釈を行うには、十分な論理的整合性や体系的整合性を有する必要がある。「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うのであれば、憲法解釈の枠を超え、憲法改正を必要とする。この報告書は、「芦田修正説」の解釈を採用することを試みている点が見られるが、十分な論理的整合性や体系的整合性を有していない解釈であるために妥当でない。「適切な形」で解釈を行うのであれば、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は違憲となるのである。

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 (P4~)
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Ⅰ.憲法解釈の現状と問題点
 
1.憲法解釈の変遷と根本原則
 
(1)憲法解釈の変遷


(略)

 また、最高裁判所は、1959年12月のいわゆる砂川事件大法廷判決において、「同条(引用注:憲法第9条)は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」という法律判断を示したことは特筆すべきである 3。この砂川事件大法廷判決は、憲法第9条によって自衛権は否定されておらず、我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を採り得ることは国家固有の権利の行使として当然であるとの判断を、司法府が初めて示したものとして大きな意義を持つものである。さらに、同判決が、我が国が持つ固有の自衛権について集団的自衛権と個別的自衛権とを区別して論じておらず、したがって集団的自衛権の行使を禁じていない点にも留意すべきである

 一方、集団的自衛権の議論が出始めたのは、1960年の日米安全保障条約改定当時からである。当初は、同年3月の参議院予算委員会で当時の岸信介内閣総理大臣が、「特別に密接な関係にある国が武力攻撃をされた場合に、その国まで出かけて行ってその国を防衛するという意味における私は集団的自衛権は、日本の憲法上は、日本は持っていない」、「集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えております。」と答弁しているように、海外派兵の禁止という文脈で議論されていた 4。それがやがて集団的自衛権一般の禁止へと進んでいった

 政府は、憲法前文及び同第13条の双方に言及しつつ、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることができることを明らかにする一方、そのような措置は必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとの見解を示すに至った。すなわち、1972年10月に参議院決算委員会に提出した資料 5において、「憲法は、第 9 条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において『全世界の国民が・・・平和のうちに生存する権利を有する』ことを確認し、また、第13条において『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする』旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」とした。続けて、同資料は、「しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。」とし、さらに、「そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」として、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとの見解を示した。

 同様に、政府は、1981年5月、質問主意書に対する答弁書において、「我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている。」との見解を示した 6。加えて、同答弁書は、「集団的自衛権の行使が憲法上許されないことによつて不利益が生じるというようなものではない。」とした。集団的自衛権の行使は憲法上一切許されないという政府の憲法解釈は、今日に至るまで変更されていない。


(略)


 軍事技術が急速に進歩し、また、周辺に強大な軍事力が存在する中、我が国を取り巻く安全保障環境がますます厳しさを増している中で、将来にわたる国際環境や軍事技術の変化を見通した上で、我が国が本当に必要最小限度の範囲として個別的自衛権だけで国民の生存を守り国家の存立を全うすることができるのか、という点についての論証はなされてこなかった点に留意が必要である。また、個別的自衛権と集団的自衛権を明確に切り分け、個別的自衛権のみが憲法上許容されるという文理解釈上の根拠は何も示されていない。この点については、「Ⅱ.あるべき憲法解釈」の章で再び取り上げる。


(略)


【筆者分析】

 砂川判決が述べているのは、9条によっても国際法上の「自衛権」という『権利』は否定されていないことである。砂川判決に対するこの報告書の解説では、「自衛のための措置を採り得ることは国家固有の権利の行使として当然」との記載があるが、『権利』としている点で誤りである。砂川判決は、「自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」と述べており、『権能(power)』を指している。砂川判決では、国際法上の「自衛権」という『権利(right)』と、日本国の統治権の『権能(power)』が区別されている。この報告書はこの違いを区別できていないため、その後も繰り返し誤った認識による間違った主張が繰り返されていくことになる。
 「同判決が、我が国が持つ固有の自衛権について集団的自衛権と個別的自衛権とを区別して論じておらず、したがって集団的自衛権の行使を禁じていない点にも留意すべきである。」との記載もあるが、誤りである。まず、「集団的自衛権の行使」とは、実質的に「武力の行使」を意味する。しかし、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」ができるか否かについては述べていないのである。そのため、「同判決が、我が国が持つ固有の自衛権について集団的自衛権と個別的自衛権とを区別して論じておらず、」などとして国際法上の『権利』を区別していないからといって、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」ができるとは限らないのである。よって、「集団的自衛権の行使を禁じていない」との説明であるが、そもそも「武力の行使」ができるか否かを述べていないのであるから、「集団的自衛権の行使を禁じていない」との説明が、「武力の行使」を禁じていないかのような意味に捉えることはできない。「何も述べていない」との認識が正確である。
 「それがやがて集団的自衛権一般の禁止へと進んでいった。」との記載があるが、9条は砂川判決でも述べているように、「自衛権」それ自体を否定しているわけでないのである。そのため、「集団的自衛権」という『権利』を9条が禁じているかのような論旨は誤りである。9条は「武力の行使」を制約しているのであり、その「武力の行使」の方法が、国際法上の「武力不行使原則」「個別的自衛権」「集団的自衛権」などのどの区分に該当するかという問題は、9条が「武力の行使」を制約していることから現れる副次的な問題でしかないのである。
 「必要な自衛の措置を採ることができることを明らかにする一方、そのような措置は必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとの見解を示すに至った。」との記載があるが、認識に誤りがある。まず、「必要最小限度の範囲にとどまるべきもの」との文言が使われているのは、1972年(昭和47年)政府見解であるが、この見解で用いられている「必要最小限度の範囲にとどまるべきもの」の文言は、「自衛の措置」の程度・態様の意味の「必要最小限度」である。これは、「武力の行使」の三要件でいえば第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。よって、この「自衛の措置」の程度・態様の「必要最小限度」の意味が、あたかも「集団的自衛権の行使は憲法上許されないとの見解を示すに至った。」の結論を導き出しているかのような認識を持っている点は、誤りである。
 政府は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を示し、その第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことが違憲となることから「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が憲法上許されないと結論付けている。しかし、この報告書では「必要最小限度」の意味について、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味するものと、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様の二通りがあることを正確に認知できていない。そのため、「必要最小限度」の意味を理解しないままに、あたかも9条解釈によって導かれる9条の制約範囲が数量的な意味での「必要最小限度」という規範性を有しない漠然とした基準であるかのような勘違いをしたまま論じるものとなっている。
 この報告書では、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範を記した部分の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が「我が国に対する武力攻撃」を意味していることを認識できておらず、発動した「自衛の措置」の程度・態様を意味する「必要最小限度」の文言だけを取り上げて、それを9条の制約基準だと考えている点で誤りである。

 「個別的自衛権と集団的自衛権を明確に切り分け、個別的自衛権のみが憲法上許容されるという文理解釈上の根拠は何も示されていない。」との記載もあるが、認識に誤りがある。9条は「武力の行使」を制約している規定である。そのため、9条の下で許容される「武力の行使」が国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」に該当するかどうかは、9条解釈によって「武力の行使」の範囲が確定する結果によって現れる副次的な問題でしかないのである。そのため、「個別的自衛権と集団的自衛権を明確に切り分け」などとして、9条解釈が国際法上の『権利』の区分を切り分けていることで「武力の行使」の範囲を決しているかのような認識は誤りである。

 「文理解釈上の根拠は何も示されていない。」との説明であるが、1972年(昭和47年)政府見解は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに規範を設定しているのであり、「集団的自衛権の行使」はこれを満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、日本国の統治権の『権限』として行うことはできないこととなる。これにより憲法上許容される「武力の行使」について国際法上の区分で言えば「個別的自衛権の行使」には該当するが、「集団的自衛権の行使」には該当しないとの結論が生まれているのである。そのため、法解釈上の根拠は示されており、「何も示されていない。」との認識は報告書作成者の理解不足によるものである。


(2)


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 (P17~)  (下記、「我が国が1956年9月に国連に加盟した際も」の部分について、政府資料では「『9月』は、正しくは『12月』です。」と訂正されている。【参考】安保法制懇報告書にミス/赤嶺議員が指摘 2014年5月24日)

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Ⅱ.あるべき憲法解釈
 
 上記Ⅰ.で述べた認識を踏まえ、本懇談会は、あるべき憲法解釈として、以下を提言する。
 
1.憲法第9条第1項及び第2項
 
(1)憲法第9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定しており、自衛権や集団安全保障については何ら言及していない。しかしながら、我が国が主権を回復した1952年4月に発効した日本国との平和条約(サン・フランシスコ平和条約)においても、我が国が個別的又は集団的自衛の固有の権利を有することや集団安全保障措置への参加は認められており 12、また、我が国が1956年9月に国連に加盟した際も、国際連合憲章に規定される国連の集団安全保障措置や、加盟国に個別的又は集団的自衛の固有の権利を認める規定(第51条13)について何ら留保は付さなかった

 憲法第9条第1項が我が国による武力による威嚇又は武力の行使を例外なく禁止していると解釈するのは、不戦条約や国際連合憲章(1945年)等の国際法の歴史的発展及び憲法制定の経緯から見ても、適切ではない。1946年に公布された日本国憲法は、20世紀前半の平和主義、戦争違法化に関する国際法思潮から大きな影響を受けている。我が国憲法第9条の規定は、20世紀に確固たる潮流となった国際平和主義の影響を深く受けているのであり、国際社会の思潮と孤絶しているわけではない。不戦条約は、「国際紛争解決ノ為」に戦争に訴えることを非とし、「国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争」を放棄することを規定することで、締約国間の侵略戦争の放棄を約束した。この戦争違法化の流れを汲んで作成された国際連合憲章は、日本国憲法公布の1年前に採択されたものである。国際連合憲章は、加盟国の国際関係における「武力の行使」を原則として禁止したが、国連の集団安全保障措置としての軍事的措置及び個別的又は集団的自衛の固有の権利(第51条)の行使としての「武力の行使」を実施することは例外的に許可している。また、日本国憲法の起草経緯を見れば、憲法第9条の起点となったマッカーサー三原則(1946年2月3日)の第二原則 14は、日本は自らの紛争を解決するための手段としての戦争を放棄する(Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes)となっている。政府も1946年の時点で既に吉田総理が新憲法草案に関し、先述のとおり「戦争抛棄ニ関スル本案ノ規定ハ、直接ニハ自衛権ヲ否定ハシテ居リマセヌ(略)」と述べていた(衆議院本会議(1946年6月26日))のであり、また、自衛隊創設時の国会答弁においては「戦争と武力の威嚇・武力の行使が放棄されるのは『国際紛争を解決する手段としては』ということである。」「他国から武力攻撃があつた場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであつて、国際紛争を解決することとは本質が違う。従つて自国に対して武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。」と述べていたのである(前掲の大村清一防衛庁長官答弁)。

 これらの経緯を踏まえれば、憲法第9条第1項の規定(「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」)は、我が国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇又は武力の行使を行うことを禁止したものと解すべきであり、自衛のための武力の行使は禁じられておらず、また国連PKO等や集団安全保障措置への参加といった国際法上合法的な活動への憲法上の制約はないと解すべきである。


(略)


【筆者分析】

 国際連合憲章について、「武力の行使」を原則として禁止し、「集団安全保障措置としての軍事的措置」と「個別的又は集団的自衛の固有の権利(51条)の行使」としての「武力の行使」を実施することを例外的に許可しているとの認識は正確である。ここでは、『権利』の行使が実質的には「武力の行使」であることを記述できているため、間違いはない。しかし、この報告書の別の場面では、あたかもこの国際法上の『権利』が、国家の統治権の『権限』であるかのように語ったり、9条がこの「武力の行使」を制約しているにもかかわらず、「自衛権」という『権利』を制約しているかのような前提で話を進めている部分があるため、注意して読み解く必要がある。

 「国際法上合法的な活動への憲法上の制約はないと解すべき」との記載があるが、法解釈として妥当でない。まず、国際法上合法であるからと言って、憲法上で違憲・違法であることは当然にあり得ることである。国際法と国内法では法分野が異なるのであり、それぞれの法体系から独自の判断が行われるからである。それにもかかわらず、「国際法上合法な活動」であれば、「憲法上の制約はない」などという論旨は、意味が通じないのである。



(2)憲法第9条第2項は、第1項において、武力による威嚇や武力の行使を「国際紛争を解決する手段」として放棄すると定めたことを受け、前項の目的を達するため」に戦力を保持しないと定めたものである。したがって、我が国が当事国である国際紛争を解決するための武力による威嚇や武力の行使に用いる戦力の保持は禁止されているが、それ以外の、すなわち、個別的又は集団的を問わず自衛のための実力の保持やいわゆる国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべきである。これら(1)及び(2)と同様の考え方は前回2008年6月の報告書でもとられていた。


【筆者分析】

 「自衛のための実力の保持やいわゆる国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべき」との記載があるが、これは「芦田修正説」による自衛のための「戦力」を許容している旨なのか、政府見解のように「戦力」にあたらない「自衛のための必要最小限度の実力組織」を意味するのか明らかでない。また、「個別的又は集団的を問わず」との記載があるが、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国際法上の『権利』であり、「実力の保持」とは直接関係していない。結局これは、「武力の行使」を行う「実力の保持」であり、その「武力の行使」の範囲については、国際法上の「個別的自衛権」にあたる部分も、「集団的自衛権」にあたる部分も、いずれも行おうとするものである。この点、9条1項が「国際紛争を解決する手段としては」と定めている制約について、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を許容する旨であるかの見解を明らかにしておらず、論理的な整合性が保たれた論旨ではない。国際法と憲法では法分野が異なるにもかかわらず、あたかも憲法上で「自衛のための実力の保持」を行えば、憲法9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」の文言が、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』の性質を持つ「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」まで許容しているかのように論じることは、意味が通じないのである。9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している規範であり、この制約は憲法解釈として日本国が独自に行うものである。国際法上の違法性阻却事由の『権利』として許容される「自衛権」の幅とは関係がないのである。それにもかかわらず、憲法解釈によって行われる「国際紛争を解決する手段としては」の文言の意味を、国際法上の「自衛権」という『権利』の区分を用いて基準を確定しようとすることは、法体系の違いを理解していない誤った解釈である。このような読み方をするのであれば、国連憲章が改正された場合には、9条が「武力の行使」を制約している基準も、国連憲章の改正によって影響を受けることとなり、主権国家としての独立性を脅かすこととなる。他にも、国際法上の『権利』を有するからと言って、国家の『権限』がその『権利』を行使するかは別の話である。さらに、たとえ国際法上で許容される「武力の行使」であっても、裁判所は条約を違憲審査できるのであるから、国際法上で「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」が許容されるとしても、憲法がそれを禁じることができるのであり、9条の制約の中身を国際法を基にして読み解こうとすることは妥当性を欠く。



(3)上述の前回報告書の立場、特に(2)で述べた個別的又は集団的を問わず自衛のための実力の保持や、いわゆる国際貢献のための実力の保持は合憲であるという考え方は、憲法第9条の起草過程において、第2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言が後から挿入された(いわゆる「芦田修正」15)との経緯に着目した解釈であるが、政府はこれまでこのような解釈をとってこなかった。再度政府の解釈を振り返れば、前述のとおり、政府は、1946年の制憲議会の際に吉田総理答弁において自衛戦争も放棄したと明言していたにもかかわらず、1954年以来、国家・国民を守るために必要最小限度自衛力の保持は主権国家の固有の権利であるという解釈を打ち出した。この解釈は最高裁判所でも否定されていない。しかし、その後の国会答弁において、政府は憲法上認められる必要最小限度の自衛権の中に個別的自衛権は入るが、集団的自衛権は入らないという解釈を打ち出し、今もってこれに縛られている。集団的自衛権の概念が固まっていなかった当初の国会論議の中で、その概念の中核とされた海外派兵の自制という文脈で打ち出された集団的自衛権不行使の議論は、やがて集団的自衛権一般の不行使の議論として固まっていくが、その際どうして我が国の国家及び国民の安全を守るために必要最小限の自衛権の行使は個別的自衛権の行使に限られるのか、逆に言えばなぜ個別的自衛権だけで我が国の国家及び国民の安全を確保できるのかという死活的に重要な論点についての論証は、上記Ⅰ.1.(1)の憲法解釈の変遷で述べたとおり、ほとんどなされてこなかった。すなわち、政府は「外国の武力攻撃によって国民の生命・自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。」(1972年10月に参議院決算委員会に提出した政府の見解)として、集団的自衛権の不行使には何の不都合もないと断じ、集団的自衛権を行使できなくても独力で我が国の国家及び国民の安全を本当に確保できるのか、ということについて詳細な論証を怠ってきた。

 国家は他の信頼できる国家と連携し、助け合うことによって、よりよく安全を守り得るのである。集団的自衛権の行使を可能とすることは、他の信頼できる国家との関係を強固にし、抑止力を高めることによって紛争の可能性を未然に減らすものである。また、仮に一国が個別的自衛権だけで安全を守ろうとすれば、巨大な軍事力を持たざるを得ず、大規模な軍拡競争を招来する可能性がある。したがって、集団的自衛権は全体として軍備のレベルを低く抑えることを可能とするものである。一国のみで自国を守ろうとすることは、国際社会の現実に鑑みればむしろ危険な孤立主義にほかならない。


(略)


 国際連合憲章では、第2条4により国際関係における武力の行使が禁じられているが、第51条に従って個別的又は集団的自衛のために武力を行使する権利は妨げられない。これは、同条に明記されているとおり、自衛権が国家が当然に有している固有の権利(「自然権」(droit naturel))であるからである 16。また、今日、集団的自衛権は慣習国際法上の権利であるとされており、この点については国際司法裁判所もその判決中で明確に示している(1986年6月「ニカラグア軍事・準軍事活動事件〔本案〕」国際司法裁判所判決 17)。国際社会における諸国間の国力差及び国連安全保障理事会における拒否権の存在やその機能・手法を考えれば、国連の集団安全保障体制が十分に機能するまでの間、中小国は自己に対する攻撃を独力で排除することだけを念頭に置いていたら自衛は全うできないのであって、自国が攻撃された場合のみならず、他国が攻撃された場合にも同様にあたかも自国が攻撃されているとみなして、集団で自衛権が行使できることになっているのである。今日の安全保障環境を考えるとき、集団的自衛権の方が当然に個別的自衛権より危険だという見方は、抑止という安全保障上の基本観念を無視し、また、国際連合憲章の起草過程を無視したものと言わざるを得ないのである。以上を踏まえれば、上述した政府のこれまでの見解である、「(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき」という解釈に立ったとしても、その「必要最小限度」の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の憲法解釈は、「必要最小限度」について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではない。事実として、今日の日本の安全が個別的自衛権の行使だけで確保されるとは考え難い。したがって、必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈して、集団的自衛権の行使を認めるべきである。
 

【筆者分析】

 「1954年以来、国家・国民を守るために必要最小限度の自衛力の保持は主権国家の固有の権利であるという解釈を打ち出した。この解釈は最高裁判所でも否定されていない。」との記載があるが、誤解を招く表現である。確かに、最高裁判所で否定されたという事実はないが、そもそも日本国の統治権の『権限』が「必要最小限度の自衛力の保持」を行うことについて直接司法審査を受けていないのである。そのため、「否定されていない」との文言には注意が必要である。

【参考】現在に至るまで、最高裁判所が自衛隊を合憲と判断したことはない 南野森 2014/3/7
 政府が「必要最小限度の自衛力の保持は主権国家の固有の権利である」と解釈しているとのことであるが、ここで使われている「固有の権利」の意味について、どのような意味で使われているのか注意して読み解く必要がある。出典が示されていないため、どこで示された解釈なのか知りたいところである。まず、「固有の権利」とは、国際法上の『権利』である。この国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、それを根拠として国家の統治権の中に『権力・権限・権能』が発生するわけではない。そのため、国際法上の「固有の権利」の適用を受ける地位を有していることを根拠として、憲法解釈で導かれる日本国の統治権の『権限』による「自衛力の保持」については直接的な関係がない。この点は、報告書の作成者も混乱している部分であるため、根拠があるのか確認する必要があると考える。もう一つ、ここで使われている「必要最小限度の自衛力」とは、通常政府解釈では「自衛のための必要最小限度の実力」と呼ばれているものである。
 その後、「政府は憲法上認められる必要最小限度の自衛権の中に個別的自衛権は入るが、集団的自衛権は入らないという解釈を打ち出し」との記載があるが、認識に混乱が見られる。「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という言葉が使われているが、これは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分であり、その「自衛権の行使」が行われている状態とは、実質的に「武力の行使」が行われていることとなる。憲法9条はこの「武力の行使」を制約する規定であり、9条の下で許容される「武力の行使」については、従来より「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準をが示されていた。この三要件(旧)の第一要件には「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」が存在し、「武力の行使」を行う場合にはこの要件を満たすことが求められることから、国際法上の区分で言えば「個別的自衛権の行使」には該当するが、「集団的自衛権の行使」には該当せず、「集団的自衛権の行使」は行うことができないとされているものである。
 「どうして我が国の国家及び国民の安全を守るために必要最小限の自衛権の行使は個別的自衛権の行使に限られるのか、逆に言えばなぜ個別的自衛権だけで我が国の国家及び国民の安全を確保できるのかという死活的に重要な論点についての論証は、上記Ⅰ.1.(1)の憲法解釈の変遷で述べたとおり、ほとんどなされてこなかった。」との記載があるが、報告書作成者の理解不足による誤った認識である。国際法上の評価としての「自衛権の行使」の意味が実質的に「武力の行使」であることを押さえ、この「武力の行使」を9条が制約していることを理解していれば、「死活的に重要な論点についての論証」は1972年(昭和47年)政府見解で決着しているのである。加えて、『権利』と『権限』の違い、「必要最小限度」が「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の意味と、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味とで、異なる次元で用いられていることを理解すれば、論点は誤りなく理解することができる。この「報告書」作成者がここを理解していないだけである。
 「(1972年10月に参議院決算委員会に提出した政府の見解)として、集団的自衛権の不行使には何の不都合もないと断じ、」との記載があるが、この報告書にも記載されている通り、「集団的自衛権の行使が憲法上許されないことによつて不利益が生じるというようなものではない。」と述べたのは、1981年5月の質問主意書に対する答弁書である。1972年(昭和47年)政府見解には、そのような記載は存在しない。
 「集団的自衛権を行使できなくても独力で我が国の国家及び国民の安全を本当に確保できるのか、ということについて詳細な論証を怠ってきた。」との記載であるが、防衛力の実力の問題と、法学上の問題については切り分けて考える必要がある。たとえ防衛力を強化する場合でも、違憲違法とならない手段を採らなくてはならないのであり、法解釈における法律論上の論証に対して、政策上の「独力で安全を確保できるのか」などという話は馴染まないものである。この点についても、法律論と政策論を切り分けて考えることのできていない混乱が見られる。
 「一国が個別的自衛権だけで安全を守ろうとすれば」との記載や、「集団的自衛権は全体として軍備のレベルを低く抑えることを可能とする」との記載もあるが、この「自衛権」として話を進めている点について、これは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の話であるため、その実質は「武力の行使」であることを押さえておく必要がある。
 「第51条に従って個別的又は集団的自衛のために武力を行使する権利は妨げられない。」との記載があるが、正確である。「武力の行使」を行う『権利』なのである。
 「自衛権が国家が当然に有している固有の権利…であるから」との表現であるが、『権利』を有していても、国家がそれにあたる「武力の行使」の『権限』を有しているとは限らない。この点、あたかも国際法上の『権利』を有していれば、国家に『権限』が生まれるかのような前提で話を進めている点には注意する必要がある。
 「集団的自衛権の方が当然に個別的自衛権より危険だという見方は、抑止という安全保障上の基本観念を無視し、また、国際連合憲章の起草過程を無視したものと言わざるを得ない」との記載があるが、法律論上はそのような見方によって基準を引いているものではないため、法律論としては関係のない話である。
 「政府のこれまでの見解である、『(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき』という解釈に立ったとしても、」との記載があるが、政府が「必要最小限度」の言葉を使う時には、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味する場合と、「武力の行使」を発動した場合の「武力の行使」の程度・態様である三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」を意味する場合がある。これについて、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分が関わる問題の「必要最小限度」とは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準のことである。9条の下では三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で行われる「武力の行使」は全て違憲であり、これを満たさない中で「武力の行使」を行うこととなる「集団的自衛権の行使」は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の中に含まれないのである。

 これにより、この報告書の「『必要最小限度』の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の憲法解釈は、『必要最小限度』について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではない。」との認識は、「必要最小限度」の意味を読み誤ったものである。「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味する「必要最小限度」は、「武力の行使」の発動要件である第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに線を引いたものであり、具体的な法理である。よって、「抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした」との認識は誤りである。これは、報告書作成者が、政府が9条の憲法解釈において、あたかも国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を持ち出して論じているかのような誤解を持っていることによる誤りである。
 「事実として、今日の日本の安全が個別的自衛権の行使だけで確保されるとは考え難い。」との認識については、政策上の話であり、法律論としては何も述べることはない。法律論を論じる際に、政策論の話を持ち出しても、法律の論拠を正当化することはできないのである。この点についても、法律論に対する認識の甘さを見て取ることができる。
 「『必要最小限度』の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈して、集団的自衛権の行使を認めるべきである。」との結論を述べているが、上記の理由で、結論に至るまでの論理が繋がっておらず、意味が通っていないため、結論を正当化することができていない。相変わらず、「必要最小限度」の意味は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味しており、この基準は「武力の行使」を行うにあたっては第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことを求めるものであるから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」はこの要件を満たすことはなく、行うことはできないのである。


(4)なお、上記(3)のような解釈を採る場合には、憲法第9条第2項にいう「戦力」及び「交戦権」については、次のように考えるべきである。

 「戦力」については、自衛権行使を合憲と踏み切った主権回復直後の自衛隊創設後に至る憲法解釈変遷の際に「近代戦争遂行能力」18と定義されたこともあったが、その後は、自衛のための必要最小限度実力を超えるものとされ、1972年11月、吉國一郎内閣法制局長官は、「昭和29年12月以来は、憲法第9条第2項の戦力といたしまして、(略)近代戦争遂行能力という言い方をやめております。」と明言した。現在では「自衛のための必要最小限度実力」の具体的な限度は防衛力整備を巡る国会論議の中で国民の支持を得つつ考査されるべきものとされている 19。客観的な国際情勢に照らして、憲法が許容する武力の行使に必要な実力の保持が許容されるという考え方は、今後も踏襲されるべきものと考える。

 「交戦権」については、自衛のための武力の行使は憲法の禁ずる交戦権とは「別の観念のもの」であるとの答弁がなされてきた 20。国策遂行手段としての戦争が国際連合憲章によりjus ad bellum(戦争に訴えること自体を規律する規範)の問題として一般的に禁止されている状況の中で、個別的及び集団的自衛権の行使や国連の集団安全保障措置等のように国際連合憲章を含む国際法に合致し、かつ、憲法の許容する武力の行使は、憲法第9条の禁止する交戦権の行使とは「別の観念のもの」と引き続き観念すべきものである。ただし、合法な武力行使であってもjus in bello(戦時における戦闘の手段・方法を規律する規範)の問題として国際人道法規上の規制を受けることは当然である。

 

【筆者分析】

 「憲法の許容する武力の行使は、憲法第9条の禁止する交戦権の行使とは『別の観念のもの』と引き続き観念すべき」との記載があるが、素直な文章ではなく、論理性がない。
 なぜならば、「憲法の許容する武力の行使」の意味であるが、憲法規定である「交戦権」の文言が「武力の行使」を禁じる可能性があるからである。

 「憲法第9条の禁止する交戦権の行使」としての「武力の行使」が存在すれば、それは必然的に「憲法の許容する武力の行使」ではないのである。それにもかかわらず、「憲法の許容する武力の行使は、憲法第9条の禁止する交戦権の行使とは『別の観念のもの』」というのは、「交戦権」の意味を確定することによって「憲法の許容する武力の行使」の範囲が確定するという論理的な繋がりを無視しているのである。意味不明である。



2.憲法上認められる自衛権

(1)個別的自衛権の行使に関する見解として、政府は、従来、憲法第9条の下において認められる自衛権の発動としての武力の行使については、①我が国に対する急迫不正の侵害があること、②これを排除するために他の適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと、という3要件に該当する場合に限られるとしている。このように、この3要件を満たす限り行使に制限はないが、その実際の行使に当たっては、その必要性と均衡性を慎重かつ迅速に判断して、決定しなければならない(武力攻撃に至らない侵害への対応については後述する。)。 


【筆者分析】

 「自衛権発動としての武力の行使」についての3要件については誤りはない。9条の下で「武力の行使」を行う場合は、この要件を満たしているは必要がある。しかし、9条の下で発動した「武力の行使」についても、国際法上の「自衛権」の制約である「必要性と均衡性」の基準に従う必要がある。ただ、一般に、この国際法上の「個別的自衛権の行使」として違法性が阻却される「武力の行使」の「必要性・均衡性」の制約の基準よりも、9条の下での「武力の行使」を制約する3要件の方が基準が厳しく、その程度・態様が狭いようである。この記述では、「必要性と均衡性」の文言が、唐突に現れ、それが国際法上の基準であることを明確にしていない点で、認識がぼやけたものとなっている。



(2)集団的自衛権とは、国際法上、一般に、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていない場合にも、実力をもって阻止する権利と解されている。また、集団的自衛権の行使は、武力攻撃の発生(注:着手も含まれる 21。)、被攻撃国の要請又は同意という要件が満たされている場合に、必要性、均衡性という要件を満たしつつ行うことが求められる。

 我が国においては、この集団的自衛権について、我が国と密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われ、その事態が我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときには、我が国が直接攻撃されていない場合でも、その国の明示の要請又は同意を得て、必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加し、国際の平和及び安全の維持・回復に貢献することができることとすべきである。そのような場合に該当するかについては、我が国への直接攻撃に結びつく蓋然性が高いか、日米同盟の信頼が著しく傷つきその抑止力が大きく損なわれ得るか、国際秩序そのものが大きく揺らぎ得るか、国民の生命や権利が著しく害されるか、その他我が国へ深刻な影響が及び得るかといった諸点を政府が総合的に勘案しつつ責任を持って判断すべきである。また、我が国が集団的自衛権を行使するに当たり第三国の領域を通過する場合には、我が国の方針として、その国の同意を得るものとすべきである。さらに、集団的自衛権を行使するに当たっては、個別的自衛権を行使する場合と同様に、事前又は事後に国会の承認を得る必要があるものとすべきである。

 集団的自衛権は権利であって、義務ではないので、行使し得る場合であっても、我が国が行使することにどれだけ意味があるのか等を総合的に判断して、政策的判断の結果、行使しないことがあるのは当然である。我が国による集団的自衛権の行使については、内閣総理大臣の主導の下、国家安全保障会議の議を経るべきであり、内閣として閣議決定により意思決定する必要がある。なお、集団的自衛権の行使を認めれば、果てしなく米国の戦争に巻き込まれるという議論が一部にあるが、そもそも集団的自衛権の行使は義務ではなく権利であるので、その行使は飽くまでも我が国が主体的に判断すべき問題である。この関連で、個別的又は集団的自衛権を行使する自衛隊部隊の活動の場所について、憲法解釈上、地理的な限定を設けることは適切でない。「地球の裏側」まで行くのか云々という議論があるが、不毛な抽象論にすぎず、ある事態が我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるか、かつ我が国の行動にどれだけの効果があるかといった点を総合的に勘案し、個別具体的な事例に則して主体的に判断すべきである。なお、繰り返しになるが、集団的自衛権は権利であって義務ではなく、先に述べたような政策的判断の結果として、行使しないことももちろんある点に留意が必要である。

 

【筆者分析】

 既に「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うことができることが前提となっているが、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」の意味を解釈した場合に、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中での「武力の行使」ができるのかどうかを明らかにする必要がある。これは論理的整合性や体系的整合性の面で妥当ではないが、「芦田修正説」を採用し、自衛のための戦力(実力)の保有が可能であると考えた場合でも同様である。
 また、「政策的判断の結果、行使しないことがあるのは当然」との記載があるが、論理的整合性や体系的整合性の高い1972年(昭和47年)政府見解の論理や「自衛のための必要最小限度の実力組織」についての政府見解からは、行使できるようになっていること自体が違憲となる。そのため、政策的判断の余地はなく、行使できないこととなる。
 「集団的自衛権の行使は義務ではなく権利であるので、その行使は飽くまでも我が国が主体的に判断すべき問題である。」との説明もあるが、9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解や「自衛のための必要最小限度の実力組織」についての政府見解からは、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うことができるとすること自体が違憲となる。
 繰り返し説明されているので繰り返すが、「集団的自衛権は権利であって義務ではなく、先に述べたような政策的判断の結果として、行使しないことももちろんある」との記載があるが、上記政府見解の下では、「政策的判断」以前に、法律論として憲法解釈上違憲となるのであるから、行使しないのではなく、できないのである。

 砂川判決の「裁判官河村大助の補足意見」を参考にすれば、政策論とは「当不当の問題」であり、法律論は「違法の問題」である。


(3)


(4)


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 (P36~)
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Ⅳ. おわりに



(略)

 憲法第9条の解釈は長年にわたる議論の積み重ねによって確立したものであって、その変更は許されず、変更する必要があるならば、憲法改正による必要があるという意見もある。しかし、本懇談会による憲法解釈の整理は、憲法の規定の文理解釈として導き出されるものである。すなわち、憲法第9条は、第1項で、我が国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇又は武力の行使を行うことを禁止したものと解すべきであり、自衛のための武力の行使は禁じられておらず、国際法上合法な活動への憲法上の制約はないと解すべきである。同条第2項は、「前項の目的を達成するため」戦力を保持しないと定めたものと解すべきであり、自衛やいわゆる国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべきである。(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき」であるというこれまでの政府の憲法解釈に立ったとしても、「必要最小限度」の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の憲法解釈は、「必要最小限度」について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではなく、「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使も含まれると解すべきである。
 個別的自衛権の行使に関する見解としては、自衛権発動の3要件を満たす限り行使に制限はないが、その実際の行使に当たっては、その必要性と均衡性を慎重かつ迅速に判断して、決定しなければならない。集団的自衛権については、我が国と密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われ、その事態が我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときには、我が国が直接攻撃されていない場合でも、その国の明示の要請又は同意を得て、必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加し、国際の平和及び安全の維持・回復に貢献することができることとすべきである。そのような場合に該当するかについては、我が国への直接攻撃に結びつく蓋然性が高いか、日米同盟の信頼が著しく傷つきその抑止力が大きく損なわれ得るか、国際秩序そのものが大きく揺らぎ得るか、国民の生命や権利が著しく害されるか、その他我が国への深刻な影響が及び得るかといった諸点を政府が総合的に勘案しつつ、責任を持って判断すべきである。実際の行使に当たって第三国の領域を通過する場合には、我が国の方針としてその国の同意を得るものとすべきである。集団的自衛権を実際に行使するには、事前又は事後の国会承認を必要とすべきである。行使については、内閣総理大臣の主導の下、国家安全保障会議の議を経るべきであり、内閣として閣議決定により意思決定する必要があるが、集団的自衛権は権利であって義務ではないため、政策的判断の結果、行使しないことがあるのは当然である
 軍事的措置を伴う国連の集団安全保障措置への参加については、我が国が当事国である国際紛争を解決する手段としての「武力の行使」には当たらず、憲法上の制約はないと解すべきである。参加に関しては、個々の場合について総合的に検討して、慎重に判断すべきことは当然であり、軍事力を用いた強制措置を伴う国連の集団安全保障措置への参加に当たっては、事前又は事後に国会の承認を得るものとすべきである。

(略)

 このほか、武力攻撃に至らない侵害への対応については「、組織的計画的な武力の行使」かどうか判別がつかない侵害であっても、そのような侵害を排除する自衛隊の必要最小限度の国際法上合法な行動は憲法上容認されるべきである。また、自衛隊の行動については、平素の段階からそれぞれの行動や防衛出動に至る間において、権限上の、あるいは時間的な隙間が生じ得る可能性があることから、切れ目のない対応を講ずるための包括的な措置を講ずる必要がある。以上述べたような考え方が実際に意味を持つためには、それに応じた国内法の整備等を行うことが不可欠である。
 遡ってみれば、そもそも憲法には個別的自衛権や集団的自衛権についての明文の規定はなく、個別的自衛権の行使についても、我が国政府は憲法改正ではなく憲法解釈を整理することによって、認められるとした経緯がある。
 こうした経緯に鑑みれば、必要最小限度の範囲の自衛権の行使には個別的自衛権に加えて集団的自衛権の行使が認められるという判断も、政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることによって可能であり、憲法改正が必要だという指摘は当たらない。また、国連の集団安全保障措置等への我が国の参加についても同様に、政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることによって可能である。

 

【筆者分析】

 「国際法上合法な活動への憲法上の制約はないと解すべきである。」との記載があるが、国際法と憲法では法体系が異なるのであり、国際法上合法であるからといって、憲法上で合憲となるとの論旨は法解釈として誤りである。
 「第2項は、『前項の目的を達成するため』戦力を保持しないと定めたものと解すべき」との「芦田修正説」のような論旨であるが、その後「実力」と述べている点では、「自衛のための戦力の保持」とは表現されていない点でやや違うのかもしれない。しかし、それが現在の政府見解の「自衛のための必要最小限度の実力組織」を意味するのであれば、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行う組織については、「戦力」に抵触するしてしまうため違憲となると思われる。意味が定かでないため、どのような意味なのか捉えることができない。
 政府の憲法解釈である「必要最小限度の範囲にどどまるべき」の部分であるが、政府が許容していたのは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たす中での「武力の行使」であり、政府が「個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれない」と述べてきたことは、この三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか満たさないかによって判定されるものである。よって、この報告書が「抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではなく」と評価している点は、この政府見解の論理を理解していない誤った認識である。

 この報告書の「(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき」との文言から見ると、「自衛の措置」の限界の規範の一部として「必要最小限度」の文言が使われている1972年(昭和47年)政府見解を「その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」の部分を抜き出しているように見えるが、これは「自衛の措置」を発動した場合の程度・態様を意味するものであり、「武力の行使」の三要件でいえば第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味である。この点、この報告書作成者は「必要最小限度」の意味を混乱して用いていると思われる。

 しばらく前にも同じような文言で記載されていたことがあるが、「自衛権発動の3要件を満たす限り行使に制限はないが、その実際の行使に当たっては、その必要性と均衡性を慎重かつ迅速に判断して、決定しなければならない。」の部分については、憲法解釈から導かれる3要件と、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分の制約である「必要性と均衡性」を混ぜ合わせて説明しているものであり、正確な理解を得ることのできない表現となっている。恐らく報告書の作成者も正確に切り分けて考えることができていないと思われる。
 別の個所でも「集団的自衛権」としての「武力の行使」について、「政策的判断の結果、行使しないことがあるのは当然」との記載があったが、ここにも同じ言葉が使われている。論理的整合性や体系的整合性の高い憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解を採用すれば、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、政策的判断以前に、法律論として違憲となるため、行使できない。
 「自衛隊の必要最小限度の国際法上合法な行動は憲法上容認されるべきである。」との記載があるが、国際法と憲法との法体系の違いを理解していない誤った認識である。なぜ国際法で合法となるからといって、憲法上の規定の制約を覆すことができるのか説明していない。「容認されるべき」との言葉であるが、報告書作成者の願望を表現しただけであり、法解釈として成り立たない。
 「憲法には個別的自衛権や集団的自衛権についての明文の規定はなく」との記載があるが、当然である。「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』だからである。憲法上でそれを行使することは、統治権による「武力の行使」であり、憲法上に国際法の文言を書き込んだとしても、国際法上では通用しないのである。
 個別的自衛権の行使について、「憲法改正ではなく憲法解釈を整理することによって、認められるとした経緯がある。」「こうした経緯に鑑みれば、…(略)…政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることによって可能」との記載があるが、誤りである。まず、憲法解釈は、法解釈として意味が通じるか否かが正当性の根拠となる。そのため、以前にも憲法解釈で対応した経緯があったとしても、法解釈として意味が通じなければ不可能である。以前の経緯などというものは、法律論上の正当化根拠にはならないのである。また、「適切な形で新しい解釈を明らかにする」との記載であるが、適切な形で解釈した場合、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は違憲となる。それが「適切な形」なのであるから、「適切な形」で合憲化することを要求しても、不可能である。結局この報告書は、「適切な形」で合憲化できるのであれば、それは合憲だろうとの主張しか行っておらず、「適切な形」を追求した結果、違憲となる場合の結果を受け入れようとしていない点で、法解釈の過程を誤っている。法解釈の妥当性や正当性は、解釈の過程、プロセス、論理の積み重ねの上に成り立つのであり、結論のみを述べて「適切な形」であるかのように装おうとしても無理である。よって、この報告書では否定しているが、「憲法改正が必要だという指摘」は、当たらないのではなく、当たるのである。

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    憲法上
    合憲 違憲
政策上

必要

〇 す る  ✕ できない
不要 ✕ しない  ✕  できない


 〇✕は「武力の行使」について



 この「報告書」では、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」について、憲法上「合憲」と考えた上で、政策上「不要」と考えれば「武力の行使」をしない場合がある旨を述べている。


 しかし、それ以前に「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は、憲法上で「違憲」であり、「武力の行使」はできないのである。

 

 

 お読みいただきありがとうございました。




<理解の補強>

安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会 首相官邸

第八十六回 安保法制懇報告書でみる 「集団的自衛権」の危うさ(前半)
第八十七回 安保法制懇報告書でみる 「集団的自衛権」の危うさ(後半)
安保法制懇報告書を読む 深草徹 PDF

「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」報告書にみる軍国主義思想 2014/05/14

安保法制懇の無責任な報告書は訴訟リスクの塊である (上)――自衛隊員からも国際社会からも疑念? 木村草太 2014年05月21日

「集団的自衛権の解釈変更問題 インタビューに答える」 2014/05/21

集団的自衛権を考える(11)国民安保法制懇メンバーは語る(下) 2014/06/01

「安保法制懇」は何様のつもりか――安倍式政権運営の歪みの象徴 2014年3月24日

立憲主義と平和主義を破壊する安保法制懇報告書 「九条の会」学習会 山内敏弘 2014年5月15日 PDF

憲法が「根底からくつがえされる」――正念場の公明党 2014年6月16日
安倍政権とコピペ文化――安保法制懇はどこで議論していたのか 2014年8月11日

安保法制懇報告書における集団的自衛権論 山内敏弘 2014-10-31

安保法制懇と集団的自衛権 2015.06.23

安保法制懇・葛西氏「戦争でも起きてくれないことには・・・・」 2015年07月05日

砂川判決が集団的自衛権を合憲と判示した…嘘と言える理由 2019.02.14

砂川判決が集団的自衛権を合憲と判示した…が嘘と言える理由 2019.02.14


知っていますか?「集団的自衛権」 2014年4月18日

安倍首相、集団的自衛権で限定的行使容認の方向性示す 2014.05.15

「お飾り」で「正当性ない」安倍首相の「安保法制懇」に対峙する「国民安保法制懇」設立 2014/5/30

結論が決まってる!? 有識者懇談会が設置された メンバーたちの主張 2007.4.25

安保法制懇報告書でみる「集団的自衛権」の危うさ PDF
 (安保法制懇報告書でみる「集団的自衛権」の危うさ PDF)