人権の根拠



人権の根拠について 1


 人権概念は、結局は人によって創造されたものである。


 なぜ人権という認識が生み出されたかといえば、人権がないと弱い自分や弱い他者を強者の脅威から守ることができないからである。人が社会で生きていく中では、誰もがいつでも社会的弱者になりうる可能性を持っている。その強者に脅威を感じる経験こそが、「『人には人権がある』ということに"しておきたい"」との認識を生み出す根源的なモチベーションとなっている。


 そして、その恐怖に裏打ちされた弱者の認識を集め、自分が弱者になった時にも、他者から非道な扱いを受けて苦しい思いをしなくてもいいように、「人には人権がある」という共通認識を人々の間につくり上げていったのである。そうすると、弱者やいつでも弱者になりうる可能性をもったすべての人にとって都合がいいからである。


 そして、この「人には人権がある」という共通認識から、人の人権を保障しようとする法体系のメカニズムを組み上げ、憲法として具現化し、その正当性を基にして法律が立法されていったのである。


 それが共通認識になる以前の時代には、この地球上の人間社会には「人権」という概念は存在しなかったのである。

 また、「人権」という概念に裏付けられた「法」というものも、結局は人の持っている「意志」や「念」によって生み出された創造物である。その概念も、「人権」と同じくもともと地球上には存在しなかったのである。



 しかし、もし人々の持っている「人に人権がある」という認識や意識が失われてしまったらどうなるだろうか。その社会では、法の秩序は失われ、暴力的な力が蔓延することになりかねない。強者から非道な扱いを受けたり、力で抑圧されてしまったりする事態は当然に起きてしまうだろう。


 そうなると、暴力的な力に対しても、暴力的な力で対抗するしか身を守る方法がなくなってしまう。力を有しない弱者は、常に強者の脅威に曝された生活をしなくてはならなくなってしまう。

 また、「人権」という正当性の裏付けを失った「法」は、単に多数派という強者の望みを叶えるための道具として乱暴に使われることになってしまう。多数派の意思によっては、たとえいじめや大量殺人であっても、法の名の下に許容されることになってしまう。「法」という合意事自体が、少数派という弱者の自由や安全を侵害するものへと変容してしまうのである。


 人々の認識の中から「人には人権がある」という合意が失われてしまったならば、それらの強者の乱暴な力を是正して身を守るための正当な根拠がすべてなくなってしまうのである。そうなれば、「法によって人の自由や安全(人権)が守られる」という以前の時代よりも比較的安定した今日の社会を保つこともできなくなってしまうのである。



 ただ、今日でも人間社会では、犯罪によって権利が奪われることがある。所属する組織の中で不当な扱いを受けたり、過酷ないじめに遭うなど、苦しめられることもある。当然に、深刻な人権侵害も起こり得る。それらの人権侵害は、加害者の中に「人には人権がある」との十分な認識がないために引き起こされている場合がほとんどである思われる。


 法秩序がある程度普及している今日でも、人々の意識の中に「人には人権がある」という合意が十分に成り立っていない環境においては、人権侵害のリスクは常に存在するのである。


 このような社会の中の局所的な侵害の事例は、社会全体の中に「人には人権がある」という認識が保たれている限りは、最終的に法によって是正されることになる。「人権」という正当性に裏付けられた法が機能し、それらの侵害を法の名において是正することができるからである。


 しかし、もし社会全体の中で「人には人権がある」という認識が失われてしまったならば、法が機能しなくなることから、それらの侵害を終局的にも是正できない事態に陥ってしまうのである。

 このように、法秩序は「人には人権がある」という人々の合意を根拠にして成り立っているものである。

 そのため、強者の脅威から身を守るための「法」という手段を確保するためには、社会の人々の間から、この合意が決して失われてしまうことがないように極めて慎重に注意を払って維持していくことが必要なのである。人々の意識の中に「人権」という認識が保たれるように維持し続けていかなければならないのである。 


 もしそれをしなければ、強者の理不尽な力から私たちの身の安全を守る術がなくなってしまうからである。

 このことから、人々の意識の中に「人権」という認識が正当性を持った概念として保たれるように働きかけていくことこそが、人権の根拠なのである。



人権の根拠について 2


 「人権」という概念の存在根拠にはいくつかの説がある。


① 「人権は神から人に与えられたものである」との『宗教的な権威性』を根拠にする説

② 「人には生まれながらにして人権がある」という『自然法』を根拠にする説

③ 「『人には人権がある』と法律に書いてあるから人には人権がある」という『法実証主義』を根拠にする説


 しかし、どの説にも欠点がある。


 まず、人権の根拠を①の『宗教的な権威性』に求めた場合、神を信じていない人には人権の根拠を説明できないことになる。この主張は、その社会の中に神を中心とした宗教が広くい行き渡っている場合にしか成り立たない。


 次に、人権の根拠を②の『自然法』に求めた場合、「人には生まれながらにして人権がある」という考え方は、一体誰が言ったのかという問題になる。本当に「人は生まれながらにして人権がある」と言えるのかどうか、それ自体の根拠が分からないのである。


 三つ目に、人権の根拠を③の『法実証主義』に求めた場合、もし「人には人権がある」と法律に書いてなかったならば「人には人権がない」ということになってしまう。明文化された法を絶対視してしまうと、「多数決原理によって法律を改正すれば、少数派の人権を完全に奪うことができ、どんなに非道なことをやってもいい。」という結論にも行きつきやすい。これでは民主制の名の下に行われる多数決原理の絶対視によって数の暴力が横行してしまい、「多数派」という強者の乱暴から弱者を最低限守ることもできなくなってしまう。これはとても受け入れられるものではないだろう。この説が強調されてしまえば、そもそも弱者の一定の安全が確保された「人に人権がある」という人間社会の理想的な状態を目指せるとは思えない。



 このように、法学による人権の存在根拠は、どの説にも欠点があり、明確な説明はなされていない。


 しかし、どの説にも共通しているのは、「『人に人権がある』としておこう」という人の意志の作用が存在することである。実はこの意志こそが、人権概念を生み出している根源的な根拠となるものである。


 歴史を遡れば、もともと人類に人権は存在しなかった。しかし、「人権がないよりも、人には人権があった方がいい」と思っている人々が、その意志から「人権」という概念をつくり出し、今日まで"存在するかのように"維持してきた。これが「人に人権がある」という人権認識の存在根拠である。


 ただ、この意志と人々の中にある合意は壊れやすいものである。なぜならば、もともと「存在しないもの」を、「存在する」と言い続けて保っているものでしかないからである。人権とは、もし「人に人権があるということにしておこう」という人々の意志が失われてしまったならば、結局、「人に人権はない」ことになってしまいかねない危うさを持った概念なのである。


 「人には人権がある」という人々の中の合意が失われてしまったり、壊れてしまったりすることがないように、私たちは常に働きかけを続けていく必要がある。その努力を怠ってしまうと、「人には人権がある」という人々の意識の中の共通認識が失われ、法の効力の正当性を裏付けるものがなくなり、理不尽で悲惨な事態を是正するための力を失ってしまうからである。


 もし「すべての人に人権がある」という合意が失われてしまえば、差別も起きるし、他人の人権を踏みにじる者も出てきてしまう。また、ポピュリズムに先導された大衆の数の暴力によって、少数派が弾圧されたり、殺されたりすることも起きてしまいかねない。力を持った人物やポピュリズムを利用した先導的な政治家によって人権が侵害されたことは歴史上何度も起きている。


 その悲惨な事態を、今は「人権侵害」と言って非難することができる。しかし、人権認識が失われてしまった場合には、そもそも「人権」という概念が存在しないことになるため、「人権を侵害している」という言葉が成り立たない事態に陥ってしまう。すると、その言葉から脅威を是正するための根拠となる正当性を生み出すことができないことになってしまうのである。

 そのため、この「人には人権があるとしておこう」という認識自体を広めていく努力を絶やすことはできない。それは、「人に人権なんてない。」という主張をする人や、「自分には人権があるが、あの人には人権なんてない。」というような思想の持ち主が現れることがあるからである。

 そのような事態を防ぐためにもっとも大切なことは、人権の根拠がどこにあるかを明確に定義することではない。それよりも、「すべての人には人権がある」という人々の中の合意が失われてしまった時にどんな深刻な事態が起きうるのか十分に理解しておくことである。その恐怖に裏打ちされた認識こそが、「人には人権があってほしい」という意志をつくり出し、人々の認識の中に『人権』という概念を意識づける力となるからである。

 

 その「人には人権があるということにしておこう」という認識を人々の意識の中に維持していこうとすることこそが、人々の意識の中に「人には人権がある」という共通認識をつくり上げ、人権概念の存在根拠となる。そしてその『人権』という共通認識を法秩序の正当性の基盤とし、それを保障するための法の原理によって安定した社会を成り立たせていこうとする人々の意識が、法を社会で通用する実力として成り立たせる力となる。


 この過程を通っているからこそ、法というもともと存在しなかった一つの価値観でしかないものが、強者の横暴や乱暴な力から私たちを守ってくれる力となるのである。


 人権とは、もともとこのような人々の中の「認識の戦い」を続けていかなくては維持できない不安定な性質のものである。私たちは理不尽で悲惨な苦痛を引き起こす強者の脅威から自らを守るためには、現代の人類の英知をもってしてもなおこの戦いを避けられないという現実を直視し、人権という認識を獲得し続けるこの戦いに参加せざるを得ないのである。

 




 憲法学者「宮沢俊義」の認識を確認する。

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 人たちは、はじめ、この人権は、神によって与えられたものだと考えた。神によって与えられたものであるから、人によって奪われることはない。神の意志にもとづくものであるから、人の意志でゆずりわたすこともできない。そう考えた。

 ここで神をもち出すことを好まない人たちは、この人権は、人間が自然状態(state of nature)において、自然法にもとづいて、もっていたものだと考えた。人間は、この人権の享有を確実なものにするために、契約を結んで国家を設けた。であるから、人権は、━━歴史的に、または、論理的に━━国家に先立つものである。その結果として、国家の権力によって、人権を制限したり、禁止したりすることは許されない。

 ここで、人権の根拠として神や自然法をもち出したのは、ひとえにその人権がすべての人間の一身に専属的に附着しているものであり、これを実定法によって奪うことが許されないものであることを根拠付けるためである。人権を実定法によって根拠づけようとすれば、その実定法によって人権を否定することも可能だという結論になるから、神とか、自然法とかいう実定法を超えた権威によって、それを根拠づけようというのである。だから、ここで重要なのは、神だの、自然法だのではなくて、人権はすべての人間に生来的に、一身専属的に附着するものであり、実定法で制限することができない、ということである。人権に関するこの命題が成立しさえすれば、その根拠は、神でも、自然法でも、そのほかの何でもさしつかえない8。

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8 宮沢俊義[1971]『憲法Ⅱ』〔新版〕有斐閣 77~78頁。

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自然主義の人権論 人間の本性に基づく規範 内藤淳 2007/4/3 amazon (P4~5)

    【参考】憲法を学ぶにあたって-宮沢俊義「人権の感覚」-

 

 神勅主義を捨てたことについて下記が詳しい。

 

あたらしい憲法のはなし 宮沢俊義 著

 


<理解の補強>

その17 意思と理由 7/26/2018

 


人権の根拠について 3

 

 ある3人の法学者が何やら大衆に向かって「人権の根拠」について話をしてくれるようだ。ちょっとその話を聞いてみようではないか。


ある【法学者】は言った。「人権は、神から人に与えられたものである」と。 <宗教的権威性>

ある【法学者】は言った。「人権は、人が生まれながらに当然に持っているものなのだ」と。 <自然法論>

ある【法学者】は言った。「人権は、法律に書いてあるから存在しているのだ」と。 <法実証主義>


  しかし、大衆の中からある人がその考え方に異議を唱えた。

<宗教的権威性>に対して、 「俺は神なんて信じない。人権は神から与えられたものなんかじゃない。」

<自然法論>に対して、 「人も動物も同じだ。人であるからと言って生まれながらに人権があるなんてことを俺は信じない。そんなもの存在しない。」

<法実証主義>に対して、 「法律は絶対じゃない。『キモイやつ、みんなで殺せば怖くない。』という悪い法律を多数派がつくってしまうこともあるかもしれない。そんな法律ができてしまったら、たとえ法律でも受け入れられるものではない。それでも人に人権があるといえるとは思えない。そもそも人権とは侵すことのできない権利を規定しているのではないか。多数決万能主義ならば、『人に人権がある』というそもそも主張はないに等しい。その社会の人には人権があるというのではなく、法律があるだけだ。」


 これを聞いて、3人の【法学者】は黙り込んでしまった。


 そこに、ある【哲学者】が現れて言った。

 「神がいると思っている人は人権は神から与えられたと思っておけばいい。でも結局、神から与えられたとしておくのが、神を信じている自分にとって都合がいいんでしょ。」

 「人権は生まれながらに存在していると思っている人はそれはそう思っておけばいい。でも結局、そう思っていると『人に人権なんかない』という主張をする人を抑止できるから自分にとって都合がいいんでしょ。」

 「法律に書いてあることが絶対だと思っているならば、そう思っておけばいい。でも結局、今の自分が多数派にいるから、そう思って主張していくことが今の自分にとって都合がいいんでしょ。」


 「法学者の君たちは、人権の真の姿を未だ知らないのだ。私たちの見ている世界はすべて、私たちの脳内で起きている現象なのだよ。人権というものも、結局は我々の脳内でつくり出した概念なんだ。もちろん『人権なんて存在しない』と考えるのも私たちの自由だ。ただ、基本的に人権があるといつでも弱い者になりうる自分たちにとって都合がいいから、人権はあるってことにしておきたいんでしょ。まあ、結局はもともと脳内現象なのだから、それをどうするかは我々次第でしょ。」


 【法学者】は【哲学者】に言い返した。

 「それでは、『人に人権がない』なんて言い出す人がたくさん出てきたらどうするんだ。そんな人たちが弱い者に対してする乱暴な行動を止めるための正当な権限を、法によって生み出せなくなってしまうではないか。そんな社会になっては怖いではないか。」


 そこに、ある【歴史学者】が現れて言った。

 「昔は人に人権がなかったんだよ。強い者が勝手に国を統治していた。ある時はその強い者の気分によって、弱い者が簡単に殺されてしまうこともあったんだ。それが歴史的事実だ。」

 「他にも、多数決原理によって独裁者を生み出し、大量虐殺が行われたこともある。それも歴史的な事実だ。人権なんてものは、あってないようなものだと思うね。」


 【法学者】は言った。

 「いや、人には必ず人権がある。必ずあるはずなんだ。」


  そこに、ある【心理学者】が現れて言った。

 「人には人権があると、あなたがそう思いたいだけではないですか。」

 「人に人権があるというのは、あなたの思い込みではないですか。」


 さらに、そこにある【神学者】が現れて言った。

 「『人権』なんてものは、神学に言う『神』のようなもの。神がいるのかいないのか。それは、結局よく分からないんだ。人に人権があるのかないのか。それも結局はよく分からないんじゃないかな。ただ、人権はあるとしておいた方が都合がいいときがあるんだろうね。人権はあるとしておいた方が、社会の中で弱い者や、いつでも弱い者になりうる自分を理不尽な事態から救い出しやすいんだよ。『人権はある』という前提で社会の制度を作った方がいろいろ安全でしょ。だから、『人権』という概念は、現代人にとっての『神』みたいなものだと思うね。まあ、神がいるってことにしておくように、人権があるってしておいてもいいんじゃないかな。」


 それらを聞いてある【法学者】は学んできた法学に絶望し、落胆した。

 「人権とは、そんなに不安定なものだったのか。それではもし、人々の間から『人には人権がある』という認識が失われてしまったならば、今まで勉強してきた法律学は全部水の泡じゃないか。今まで私は一体何を勉強してきたんだ。」


 ある【法哲学者】が現れて言った。

 「いろいろ苦しい経験や怖い思いをしてきた先人たちは、今までなかった『人には人権がある』という新しい概念をつくり出し、自分を守る術を生み出したのだよ。弱い者が生きていくためにどうしても必要だったんだ。しかし、その通り、『人には人権がある』という認識が人々の間から失われてしまったならば、すべての法体系は崩れ去って意味をなさなくなってしまう恐ろしさがある。そんなことになってしまうことがないように、我々は人権という概念を普及し続けていく必要がある。もともと人権とは、このように不安定で壊れやすい性質のものなんだ。そのため人類は、法によって平穏な紛争解決がなされる現代においてもなお、その法秩序を生み出す根拠となる『人権』という概念を維持していくために戦い続けなくてはならないのだ。暴力的な行為をある程度の形で抑止できている現代の社会においても、私たちは様々な形で力を持っている強者の脅威から身を守るため、『人権』という概念を獲得し続けていくために戦い続けなくてはならないのだよ。」



 このように、「法による正当性」というのは、結局は人々の人権認識の中にある意志の産物でしかない。人々の中の「人には人権がある」という意志が途切れたら、法による正当性はすべて失われてしまうのである。その「人には人権がある」という意志は、強者の乱暴な力によって苦しい思いを経験させられることに対する恐怖に裏打ちされたものである。強者の乱暴な力を法によって制御するには、「人には人権がある」という人々の意志で戦うしかないのである。その意志が途切れてしまったならば、強者による横暴に対して法による歯止めを利かすことがまったくできないのである。


 我々は一面では「人権」というものを主張し、人権思想に守られているように思うことがある。しかし、結局その「人権」という考え方は、我々自身がつくり上げ、今後も常に維持していかなくてはならない性質のものである。そのため、私たちは自分や弱者が強者の乱暴な力に苦しめられるような目に遭うことがないよう、人々の意識の中から「人権」という認識が失われてしまうことがないように、常に注意を払っていかなくてはならないのである。

 







人権の根拠を知った上で


 私たち人類は、歴史的に強者の理不尽な脅威から身を守るため「法」という原理を採用している。人類はその法の原理によって、「乱暴な力」に対し「乱暴な力」を使って戦わなくてはならないような事態を回避し、比較的平穏な社会をつくり出してきたと思いがちである。


 しかし、その「法」という秩序を維持していくためには、人権を踏みにじる強者の脅威に対抗するため、人類が獲得した「人権」という概念が社会に生きる人々の意識の中に常に維持されていくように、私たち自身が戦い続けていかなくてはならないのである。戦いのない世の中をつくろうとしても、結局私たちは生きるためにこの人権獲得の戦いをやめることはできないのである。


 この人権というものの性質については、現行憲法にも記載されている。


日本国憲法
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第97条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第12条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(後段略)
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 さて、人権認識の低い乱暴な強者の脅威に対抗するため、我々も共に、この人権獲得の戦いに挑んでいこうではありませんか。





人権はどのように維持されているのか

 

 人には本当に人権があるのでしょうか。人権は目には見えません。形があるものではありません。それでも人に人権があるのでしょうか。


 これを考える上では、人に人権がない状態を考える必要があります。


 もし人に人権がなかったならば、力を持っている人の個人的な好き嫌いによって自分の生き方を強制されてしまうかもしれません。力を持った人に奴隷のように使われてしまったり、身体を拘束されて人体実験に使われてしまうこともあるかもしれません。力を持った人の一時の気分によって殴られたり、殺されてしまったりするかもかもしれません。


 もし人に人権がなければ、力を持っている人にわがままをしないように要求したり、その乱暴な行いを罰したりすることができません。実際に、歴史をさかのぼればそのようなことが当然のように行われていた時代もありました。(今でも世界では、そのようなことが行われている国や地域も存在しています。)


 そのような苦しい時代を経験した人類は、力を持った乱暴な人から弱い人を守るために、「人には侵すことのできない人権がある」という人々の意識をつくり出しました。人々の意識によってつくり出された「人権」という考え方を武器にして、力を持った乱暴な人や強者の力、恣意的な思いによって濫用されやすい国家の権力に歯止めをかけようとしたのです。


 しかし、「人権」という概念は、人々のつくり出した「意識」の産物でしかないものです。この意識の産物は形あるものではありません。そのため、もし人々の中の「人には侵すことのできない人権というものがある」という意識の合意が失われてしまった場合、いじめや差別などの人権侵害が行われても是正できない事態に陥る危険があります。実際に、歴史上では「人権」という認識が失われ、ナチスのファシズムによって、ホロコーストのような大量虐殺が行われてしまったこともありました。


 このような、失われたり壊れやすい人権というものをしっかりと維持していくためには、悲惨な人権侵害が行われた経験を決して忘れることがないようにしっかりと意識の中に留めおくことが必要です。また、「人には人権がある」という人々の意識の中の合意が決して失われてしまうことのないように、今後も常に気を配っていかなくてはなりません。



 人権がそのような性質のものであることは、現行憲法の条文からも読み取ることができます。


日本国憲法
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第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(後段略)

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 これらの条文は、人権概念が、もともと人によって創造され、その人たちによって現在と将来の世代に与えられ、信託されたものであることを示すものです。一見「普遍的なもの」と見えてしまいやすい人権概念も、実はもともとは存在しなかった合意事でしかないものであり、今後も人々の意識の中からその合意が壊れてしまうことがないように、私たち自身の努力によって維持していかなくてはならないことを暗示しているのです。 




理論的根拠と歴史的根拠の違い


 衆議院憲法調査会事務局の資料を見てみましょう。


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1.97条-基本的人権の由来-

「基本的人権」が侵すことのできない永久の権利として現在および将来の国民に与えられたものであることは、既に11条で規定されているところである。本条(97条)は、かかる「基本的人権」が「過去幾多の試錬に堪へ」てきたもので、まさに「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であ」ることを強調してその由来を明らかにし、「日本国民」はそのことを不断に想起しつつ 「基本的人権」の保持に努めるべきことを示そうとしたものといえよう。ここに「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」とは、イギリスにおける大憲章(マグナ・カルタ)(1215年)、権利請願(1627年)、権利章典(1689年)、アメリカにおける独立革命、なかんずく独立宣言(1776年)とそれと前後する邦の諸憲法の制定および合衆国憲法の制定(1787年)、フランスに おける市民革命・人権宣言(1789年)、さらにその後の全体主義との闘争等々に示される、欧米における自由獲得の苦闘の歴史を指している。…日本国憲法の保障する「基本的人権」がそうした欧米の歴史に基礎をおくものであり、かかる基礎を離れては「基本的人権」はありえぬことを本条は示そうとしているものといえる。

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「憲法と国際法(特に、人権の国際的保障)」に関する基礎的資料 衆議院憲法調査会事務局 平成16年4月 PDF (下線・太字は筆者)

 この資料には「欧米の歴史に基礎をおく」との表現が見られます。人権概念について、このように語られることがあることから、「欧米の歴史」への反発心や根拠としての疑問意識から「人権概念は日本の歴史からつくられるべきものである」、「人権概念は日本独自の概念として定義するべきである」などの主張が見られます。


 しかし、人権概念とは、本来的には歴史的経緯の中で生み出され、その歴史がなければ存在しなかったのかと言われれば、必ずしもそうとは言い切れません。


 なぜならば、それらの歴史とは、人権侵害に関わる大規模で有名・象徴的な出来事として教科書的に語られるものに過ぎず、人権侵害自体は、人類社会のあらゆる場面で常々繰り返されているものだからです。
もちろん日本国内でも同じようなことがあったはずですし、小さいレベルで似たようなことも起きていたはずです。事件として歴史の資料や教科書に刻まれていなくとも、人権という概念は侵害の可能性や危険性の経験の中に確立されてきたものです。


 また、そもそも、人権とは、哲学的な「概念」としての存在であり、歴史そのものではありません。
自然科学、人文科学、社会科学が人類の知の発展の歴史の中で生まれてきたことと同じように、人権概念も人類の知の発展の歴史の中で生まれてきた概念ではあります。


 しかし、その概念の本質は科学(人文科学としての哲学)的な認識のものであり、歴史(歴史学)とは切り離して捉えることのできる性質のものです。これは、自然科学の「相対性理論」という理論自体と、物理学の歴史やアインシュタインの人生を切り離して考えることができることと同じです。人権概念の発展の歴史自体と、人権概念の本質的な性質(理論)自体は、切り離して考えることができるものです。


 このことから、「人権概念は日本の歴史からつくられるべきもの」や、「日本独自の概念とするべき」、「日本の歴史と不可分ものとして成り立つべき」という主張は、突き詰めるところ成り立つものではありません。


 確かに、この資料には「欧米における自由獲得の苦闘の歴史を指している」、「欧米の歴史に基礎をおくものであり、かかる基礎を離れては『基本的人権』はありえぬ」との表現があります。しかし、これは、先ほど述べた例のように、「アインシュタインの人生がなければ、相対性理論の発展はなかった」と言っているようなものであり、人権概念の理論的な根拠それ自体とはやや性質が異なったものです。


 97条の「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」の文言に人類的な意味で欧米の自由獲得の苦闘の歴史に象徴的な事件が含まれているものとは
思われます。しかし、必ずしも欧米での歴史や事件そのものを指しているかと言えば、そこまで明確に示したものと言うことはできないでしょう。


 それよりは、法学的な意味に到達する理論としての人権概念、つまり、「人権概念が条文の存在のみによって定義することができないという極めて取り扱いの難しい性質を持っていること」や、「人権概念を支える背景には、この人権という理論に到達するまでの哲学的な戦いや努力があり、その努力を今後も続けていくことこそが、人権概念の存在根拠そのものとなる」という人権概念の理論的な根拠を示したと捉えることが妥当であると思われます。


 ここは、法学的に条文が読めるか、歴史学的に条文を読んでしまうかの違いです。裁判所が判決を書く際などに見られる、法学の世界の常識としては、法の理論そのものと、歴史的な経緯や歴史学的な視点自体は区別されます。97条に関しても、歴史学的に読むのではなく、法学や法哲学の理論として読み解くことが妥当であると言えるでしょう

 


 憲法学者「長谷部恭男」の表現を見ておきます。

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立憲主義はたしかに西欧起源の思想である。しかし、それは、多様な価値観の公正な共存を目指そうとするかぎり、地域や民族にかかわりなく、頼らざるをえない考え方である。(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』p.178)
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◆2.「立憲主義」の定義 ◇1.各論者による説明 長谷部恭男 (下線・太字は筆者)




虚構の人権観


 下記の資料は、人権の根拠について、「実定法に明記される以前には、人権は存在しなかったのか」、「実定法の制定と同時に人権概念が生まれるのであれば、その普遍性は虚構ではないのか」、「法実証主義と自然法論の人権観」、「有神論としての創造主(神)からの人権観は、自然法と一致するのか」など当サイトに重なる内容が濃縮されている。その論文の一部を見てみよう。

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 しかし、人権が実定法上、明示的に定められるようになったのは、遠い過去のことではない。人権の普遍性を明示的に定めている世界人権宣言(1948年12月10日、国連総会で採択)を普遍的人権の明文化の始まりであるとするなら、それ以前には人権は存在しなかったのか、という問いが生じる。
 実定法は、現実に存在する法を意味し、それは人の手によって書かれ、政治的な過程を経て成立している。そのことの中に、ある人たちは、人為性や虚構性を見る
 法を実定法に限定して考える立場は、法実証主義(実定法論)と呼ばれ、現代の法理論の主流の考え方となっている。それに対して、自然法論と呼ばれる立場があり、その立場の人たちは、実定法の正当性をその成立過程の正当性に求めるだけでなく、実定法がいわば人間の本性や良心(自然法)にかなっているかどうかを問題にする。
 法には自由を保障する面と自由を制限する面があり、法を大きく解釈することには慎重であるべきだが、人権に関する実定法の根拠を考えるとき、どうしても自然法という考え方が議論されることになる。人権の思想は、歴史的には、人間の自然権、すなわち人間が生まれながらにしてもっている権利を認めるところから始まっている。すなわち、人権思想そのものが自然法という概念と深く関わっている

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人権の脆弱性と宗教教育の役割 : とくにキリスト教教育の場合 P44 (下線・太字は筆者)


 憲法の政教分離の観点から、憲法を語る際に宗教をベースにした議論を行うことには、筆者にも一定の抵抗感がある。しかし、深く宗教を理解していくと、宗教的フィクションから距離を置いたドライな宗教議論も存在している。


 「人権」という概念は、法学の中枢に置かれているのであるが、以外にもその理論的根拠については、宗教学の論文からのアプローチの方が明確な考察を行っているものが多いように思われる。


 この論文も、上記の部分の周辺は、かなりまとまっている。 





最高法規を名乗る複数の概念との優劣


 「Aが正しいとする法」と、「Bが正しいとする法」があったとする。

 「どちらの法が正しいか」というのは、それぞれの価値観によって生み出された法であることから、比較不能であり、その優劣を決することはできない。


 しかし、その「Aが正しい」や「Bが正しい」と主張する際の前提として、多様な価値観を認めるための「思想良心の自由」という人権が必要となる。


 この多様な価値観を認めようとする「思想良心の自由」という人権を守ろうとすることに、優越的な価値を見出すことは、「Aが正しい」や「Bが正しい」とそれぞれが主張する上で欠かせない共通項となる。


 これら両者の価値観を取り持つ観念として「人権」を掲げることに、唯一性(普遍性)を見出し、それに裏付けられた法に正当性を認めようとすることにこそ、他の価値観を排することのできる実質的な最高法規性を見出すことができると考えることができる。(実際には、そう考えることを訴えかけることしかできないが。)


 これが第十章「最高法規」に定められた97条の規定の役割である。つまり、「人権」という概念を掲げようとする「自由獲得の努力(97条)」、そしてこの「人権」という価値観を「幾多の試練に堪へ(97条)」ながらも守り抜こうとする意志こそが、「人権」という概念の根拠であり、この憲法の存立(実質的最高法規性)を支えている基盤であることを示すものである。


 この97条の機能は、98条の形式的最高法規性では代替することができない。


 なぜならば、単なる一つの価値観でしかないこの憲法のいう「法」という概念が、他の「憲法を名乗る概念」や「法を名乗る価値観」を排して国法の最上位に君臨して存立することができるとする根拠は、この理論に置くことしか他に方法がないからである。


 98条の形式的最高法規性とは、法律、命令、条例などの国法の最上位にあることを示すものでしかなく、他の価値観を排して存立し、「国民」という枠組みを勝手に設定してその者たちに国権という実力を行使する憲法という価値観そのものの存立を正当化する力を有していないからである。


 (もしこの正当化根拠がなければ、国家権力が暴力的な宗教団体に対して違法性を認定し是正する作用を正当化することができなくなってしまう。なぜならば、「憲法の価値観」と「特定の宗教団体の価値観」とが、同列の価値秩序となってしまい、「特定の宗教団体の価値観」によって行われた暴力的な行為に対して、「憲法の価値観」に裏付けられた国家権力による違法性の認定と是正のための実力を行使することが、「特定の宗教団体の価値観やその独自ルール」よりも上位の正当性を有するとする根拠を失うからである。〔主権概念の国内的最高性の論点にも関わる〕)

 そのため、この「人権」という概念の優越性(普遍性)(存在や価値や正当性)の価値観を守り続けようとする「人類の多年にわたる自由獲得の努力(97条)」こそが、憲法の存立基盤であり、最高法規性の真髄であり、全法体系の効力の源泉なのである。



<参考>


第二十二回 日本国憲法は、どこへ向かうのか? ゲスト 長谷部恭男





国を根拠とすることは妥当か

 

 改憲勢力の一部には、「人権は『国の歴史や伝統、文化』によって生み出されるべきものである」と主張する者がいるようです。

 しかし、
現行憲法は「人権概念は国の歴史や伝統、文化を拠り所としたものである」などという考え方を明確に否定しています。

 現行憲法の人権概念は、97条、11条の「侵すことのできない永久の権利」という文言から読み解くと「人が生まれながらに持つもの」という自然法思想による自然権(前国家的権利)の考え方をベースとしています。

 また、11条の「享有を妨げられない」の文言は、人権概念は、この憲法が制定されることによって構成された国家の権限(国家権力・統治権)によってもやはり奪うことのできないものであることを示しています。

 そして、12条の「不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」の文言からは、その自然権という前提は「不断の努力」によってつくり続けなくてはならないことを示しています。


 これらの規定は、人権概念が「国の歴史や伝統、文化」などを拠り所として生み出される性質のものではないことを示しています。



 そもそも憲法のいう「国家」とは、人々の人権を保障するためにつくられた統治機関のことです。

 それを逆にして、その「国家」(統治機関)を根拠として人々の人権概念を導き出すのであれば、人々の位置づけは「国家のための国民」ということになってしまいます。それでは、人々は「国家からの自由」が保障されないこととなり、人権が侵害された状態となってしまいます。

 このように、「国家」を拠り所とする人権観では、人権の本来的な性質を損なうことになってしまうため、妥当ではありません。


 また、そのような考え方は「国民のための国家」を実現するためにつくられている民主主義の仕組みさえも損なわせてしまいます。


 民主主義に基づく国家の仕組みは、人々が「主権(最高決定権)」を行使して「厳粛な信託(前文)」を行い、「国家(国家権力、統治権)」を生み出すという過程によって成り立っています。

 そして、人々が「国家」を構成する際に必要となる「主権(最高決定権)」という概念は、「人々が人権を有している」という前提がなければ発生しないものです。

 つまり、「人々が人権を有している」とする建前が掲げられていることを前提として、その人々に対して「主権(最高決定権)」が生まれ、その主権を有しているとする主権者が「厳粛な信託(前文)」を行うことによって「国家(国家権力、統治権)」が構成されるのです。

 このことから、「人々が人権を有している」という前提が存在しなければ、「国家(国家権力、統治権)」は構成されず、存在しないのです。

 人々の「主権(最高決定権)」が行使されることによって「国家(統治権)」が生まれていなければ、その国家の領域の範囲や秩序体のあり方を確定する作用が存在しておらず、
共同体としてのまとまりも成立していません。そのような中では、未だ「国の歴史や伝統、文化」なども形成されていません。

 つまり、人々が「主権(最高決定権)」を行使することによって「国家(統治権)」を生み出したという前提がなければ、未だ「国の歴史や伝統、文化」などは存在しないということです。


 それにもかかわらず、「国の歴史や伝統、文化」を拠り所として人権概念を生み出すことなどできるはずがないのです。


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〇 人権概念 ⇒ 国民に主権 ⇒ 国民主権で国家を形成


✕ 国の歴史や伝統、文化 ⇒ 人権概念 ⇒ 国民に主権?(もとも
と国があるのに) ⇒ 国家を形成?

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 「国家」を主体として人々の人権概念が生まれるとすることは、人権概念の性質を損なうことになってしまいます。

 また、これは国民が有しているとする「主権(最高決定権)」を行使することによって「国家(統治権)」が形成されるという考え方に基づくものではないため、国民主権に基づく民主主義の国家ではなくなってしまいます。



 このことから、現行憲法の人権の性質について示している「与へられる(11条)」や「信託された(97条)」の文言を、「『国家』から与えられる」や「『国家』から信託された」かのように読むことは誤りです。


 憲法改正においても、人権概念の性質を「国家」を根拠とするものへと変更することは、理論的な整合性がないため行うべきではないと考えます。

 

<理解の補強>

日本国憲法の基本的人権尊重の基本原理を否定し,「公益及び 公の秩序」条項により基本的人権を制約することに反対する意見書 日本弁護士連合会 2014年(平成26年)2月20日