憲法学の迷子を防止しよう



 「憲法学、意味不明じゃねぇか」「こんなの、勉強して意味があるのか」


 そんな気持ちを持ったことはないでしょうか。筆者も、以前は訳の分からない教科書群に囲まれて、かなりイライラしていました。


 ある程度の体系観が頭の中に入り、憲法学の地図のようなものが出来上がるまでは、苦しい時間です。長い時間迷子になっていると、だんだんと、法学の教員や学界の巨匠の顔が敵に見えてくることがあります。

 「何で、こんなに分かりにくい表現ばかり使うのだよ」「他にもっと分かりやすい資料はないのか」など、いろいろ感じると思います。そんな気持ちは、それはそれで妥当なものです。


 なぜならば、憲法学は未だに未発達な部分もあり、全国民の教養として普及するほどには開かれていないからです。難しすぎるのです。

 筆者も、そう感じている一人ですので、初学者の方がそう感じることを不思議に思いません。筆者も、そのような抵抗感を感じることのないより洗練された憲法学の世界がつくり上げられていくことを願っています。





理解の整理をしていこう

 誤解していると思われる記事等について、いくつか取り上げていきたいと思う。内容は論者の意見を正確に読み取れていない場合もあると思われるので、その程度でお読みいただけたらと思う。


〇 「敵基地攻撃」論で注目。「専守防衛」を改めて考える 2017年04月03日


 「本来、日本国憲法を待つまでもなく、国連憲章以降の国際法においては、憲章2条4項で武力行使が一般的に禁止されている。」との記載があるが、国連憲章は加盟国を拘束するものであり、加盟しなければ2条4項で拘束されることもないと思われる。(ただ、非加盟国が加盟国に対して武力攻撃した場合、加盟国の集団安全保障によって反撃されると思われる。)


 また、自国の憲法中で戦争や武力の行使等をしない旨を規定することは、国連憲章が改正されたり、廃止された場合であっても、戦争や武力の行使をしないこと維持することができるため、意味があると考える。


 また、国際法の機能不全は、論者も認めていると思われる。


   米国のシリア攻撃は国際法に違反しているのか ? 2017年04月09日


 そのため、憲法と国際法の法源が異なることから、自国の法体系の方が安定した効力基盤を有している場合など、自国憲法と国際法とで二重に制約を加えることには意味があると思われる。



〇 憲法学徒への公開質問状 ~芦部信喜は憲法典を超越するか~ 2017年05月01日


 「この芦部『憲法』の冒頭の最初のページの最初の記述で登場する『統治権』なる概念には、実定法上の根拠がない。」との記載がある。実定法上の文言と、講学上の文言が異なることはよくあることであり、それが何を意味するのかを正確に読み解くことが法学の初歩である。もともと実定法上の根拠が必要ない用語である。


 また、大日本帝国憲法の場合では、「統治権」という文言がある。


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第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

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 ただ、この大日本帝国憲法において「統治権」とされているものは、具体的には「立法権」「執行(行政)」「司法権」などのことである。


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第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第57条 司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ
2 裁判所ノ構成ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

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 この「立法権」「行政権」「司法権」は日本国憲法においては、41条、65条、76条1項に記載されており、これらが統治権であることは疑問の余地はない。


 「統治権」という用語や、「国家の三要素」などの概念が普及していることは、「『古くから』東大法学部系の憲法学者の方々によって『言われてきた』」という事実は存在するかもしれないが、その根拠は、学問上の整合性が高い概念だからである。何も「東大法学部系の憲法学者」という人間の権威に根拠を求めているわけではなく、学術上の整合性が高いことによるものである。


 「『統治権』という、日本国憲法典から見れば神秘的としか言いようがない謎めいた概念」との記載があるが、この前提を押さえていれば、特に謎めいてもおらず、神秘的とも言えない。恐らく公務員試験や司法試験の受験者もそれを熟知している。


 「統治権」は「国権」と同じだが、「主権」とは違うという議論も、極めて妥当であると考える。多くの読者が共通認識を持って読み取ることのできているその書籍の示す意味を正確に読み取ることができていないという点では、勉強不足との指摘が起きうることも仕方がない部分もあるのではないだろうか。

 

 日本国憲法中では、「統治権」とほぼ同じ意味の、「国権」という用語が使われていることも確認しておこう。


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第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 (略)

第41条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
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 「統治権」という用語の使用例も見ておこう。

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まず、憲法というものが統治権力を制限することを目的としたものだ(統治権に対する法的制限)という、「立憲主義」の基本を、共通理解として持たなければならない。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
内閣や国会は、統治権の主体として、憲法による制限を受ける「張本人」である。
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「違憲」を「合憲」に変える「解釈変更」は許されない 浦部法穂 2014年7月10日 (太字は筆者)


〇 (続)憲法学徒への公開質問状 ~芦部信喜は憲法典を超越するか~ 2017年05月03日


 まず、用語の意味が押さえられていないので、すべての内容の意味を整理して読み取ることができない。下記で用語の意味を確認してほしい。

 



③ 主権(最高決定権:国民主権)


日本国民

国民

われら

何人

現在及び将来の国民


憲法制定権力

憲法改正権力

( ↑ ここでは「権力」と言うが、これは政府の権能を示したものではない。法を創造する人々の実力のことである。)

① 主権(統治権)

② 主権(統治権に付随する最高独立性)

日本国

国権

国家権力
統治権

統治権力

公権力

立法権・行政権・司法権

三権

政府(広義:立法権・行政権・司法権のこと)
政府(狭義:内閣以下の行政機関のこと)

政府の行為

統治機構

権力

権限

権能



 筆者も、芦部憲法の書籍を初学者に突きつけることは酷だと考えている。内容は比較的正確ではあるが、初学者の場合、「正直、全然面白くない。」⇒「面白くないから読まない。」⇒「結局、分からない。」という方向に行ってしまうことも多いことと思う。


 筆者も、芦部憲法が比較的正確で、他の教科書群よりもかなり洗練されていることも、だいぶ学んだ後になって実感したことである。そのため、書かれた意味が分からないことも、当然にあり得ることである。それを知っていると、まだ学習が嫌にならないで済むのではないかと思われる。

 

〇 憲法学者の憲法解釈の指針は何か:奥野教授の拙論への批判に応える 2019年04月14日


 「『国民の視点』とは何なのか?どこにも説明がない。」との記載がある。ただ、憲法は国民主権原理を採用する以上は国民主権によって正当化される法の枠組みである。国民主権原理を採用する以上は憲法の正当性の法源は主権者である国民に由来するのである。だからこそ、法解釈を行う場合にも国民主権原理に従った形で正当性を導き出す必要がある。「国民の視点」とは、そのような趣旨で用いられたものと思われる。

 よって、論者のように国際法に合わせて9条を読み解こうとする発想は、憲法の正当性の基盤を自国民の主権(最高決定権)に基づく形で解釈するのではなく、国際法(国連憲章)という他国民に由来する法の形式に従属した形で解釈することになるものである。

 「こういった篠田の否定論が正しいとすれば、憲法の解釈にあたっては『アメリカの政策に同調する可能性がある憲法解釈は否定されなければならない』という原則が事前に確立されていなければならない。」との記載があるが、国民主権という原則が事前に確立しているため、論者の解釈を否定することは妥当である。
 「そんな解釈原則が正しいと、学術的に証明されたことは一度もない。」との記載もあるが、国民主権原理を理解できれば既に証明されている。
 「果たして、こういう議論は、本当に学術的な議論なのだろうか。」との記載があるが、学術的な議論である。
 その後の記載は、何を説明しているのかよく分からない。


   【参考】「戦後日本憲法学批判」と向き合う 奥野恒久 (本文・要約)をクリック


〇 長州「正論」懇話会 講演会詳報 ケント・ギルバート氏「憲法9条は制裁 目を覚まして」 2018.11.21

 「憲法には生存権といわれる13条や25条がありますが、いざというとき国民の生命を見捨てることを国に強制する9条の存在は、生存権の規定を台無しにする。だから9条は憲法違反です。」との記載がある。


 まず、9条は憲法規定であり、9条が憲法違反になるということはない。誤った認識である。


 次に、13条や9条の内容が衝突した場合については、憲法体系全体の趣旨を読み解いて論理解釈することが必要となる。規定と規定の衝突があった際に、法秩序全体の精神から妥当な結論を導き出すことは法学の基本である。そこで論理解釈されたものが、1972年(昭和47年)政府見解である。この政府解釈によれば、我が国が「外国の武力攻撃」を受けた際に「自衛の措置」を講じることができるのであるから、9条は「いざという時国民の命を見捨てることを国に強制する」ものではない。


 もう一つ、「生存権(25条)」と「生命権」は区別されることがある。

  【参考】「洗脳」を看過してはならない!嘘を並べた改憲扇動が進行 2018/12/09


<類似した記事>


「憲法9条改正で占領終わる」ケント・ギルバート氏 2019.2.21

 



〇 改憲論議の視点(上) 「解釈」が憲法観ゆがめる 横大道聡 慶応義塾大学教授 2019/10/30

 (改憲論議の視点(上)「解釈」が憲法観ゆがめる 横大道聡・慶応義塾大学教授 2019/10/30)

 

 自由権規約19条は、「公の秩序」によって権利制限が可能である。それに比べて、憲法21条は明示的な制限の可能性は見られない規定となっている。この点、憲法21条の方が保障の範囲が広い。
 また、憲法13条の「公共の福祉」に関しても、学説には「公の秩序」に類似する制約原理である一元的外在制約説から、人権と人権の矛盾抵触を制約原理とする一元的内在制約説まで様々あり、少なくとも「公の秩序」を基準とする自由権規約19条よりは権利制限の範囲は狭く、権利保障の範囲が広い場合が多い。

 自民党改憲案では、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えていたが、権利制限の範囲が広がるとして相当非難の対象となっている。「公益及び公の秩序」よりも、「公共の福祉」の方が権利制限の範囲を狭くし、権利保障の範囲を広く解することが可能な概念である。

 自由権規約19条には制約原理として「道徳の保護」が挙げられている。しかし、このような「道徳」の内容を国家、あるいは国際機関が勝手に決定することで表現の自由を制限できるとすることは、かなり危険である。

 これらの内容から、国際機関から日本国憲法に対する批判が存在したとしても、実質的な内容、学説、運用に関しては自由権規約19条よりも日本国憲法の方が権利保障の内容が手厚い。

 日本国憲法の内容の方が質が高いため、論者はなぜ日本国憲法の規定を批判しているのか、よく分からない。


   【参考】「一元的内在制約説」は通説であるか否かについて Twitter

 世論調査に関して「安保法制を違憲と考えるのが多数派であったのに対して、安保法制を廃止すべきだという回答は少数派にとどまっているという結果が示された。」との記載がある。しかし、論者はこの世論調査の方法が厳密な内容となっていないことを理解していないように思われる。

 まず、「安保法制を違憲と考える」点は、「存立危機事態」での「武力の行使」(集団的自衛権にあたるもの)を違憲と考える者が含まれている。この点、「存立危機事態」での「武力の行使」を違憲と考える者は、「安保法制を違憲と考える」と回答することとなる。これが多数派ということは、「存立危機事態」での「武力の行使」を含む安保法制が違憲であると考える者が多いこととなる。

 次に、「安保法制を廃止すべきだという回答」には、「存立危機事態」での「武力の行使」のみを廃止するのかを問うものではなく、「武力攻撃事態」での「武力の行使」(個別的自衛権にあたるもの)までも廃止するかを問うものとなっている。これに対しては、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲であり廃止するべきであるが、「武力攻撃事態」での「武力の行使」は違憲でないため廃止するべきではないと考える場合、安保法制をすべて廃止した場合には「武力攻撃事態」での「武力の行使」まで廃止することになるため、これを躊躇し、「安保法制を廃止すべきだ」という回答は少数となる。当然である。

 この世論調査は、この点の切り分けができていない中で集計されたものと考えられ、厳密な内容とはなっていない。しかし、それでも「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲であり廃止すべきだと考える国民の意識をそのまま反映している回答であると考えられる面もある。

 それにもかかわらず、論者はこの調査を根拠に憲法に対する国民意識を持ち出して「憲法の規範力が弱くなる」などという議論を論じようというのは、論理的に無理がある。

 論者は下記の動画でも同じことを述べているが、やはり誤った理解であると考えられる。

    【動画】第4回憲法調査会「データに基づく  新時代の比較憲法学」 2020/10/29 (1:25:45より)


    (やや表現が変わっているが、やはり誤った理解である考えられる。)
    【動画】「憲法は今、生きているかーーコロナ禍、自衛権、天皇」」第97回ゴー宣道場 2021/05/03


 「90年以降は自衛隊の海外派兵の合憲性が度々問題となったが、それでも憲法改正は行われなかった。」との記載がある。しかし、論者は「海外派」と「海外派」を間違えていると思われる。この両者は別物である。政府も「海外派兵」に対しては、一貫して「一般に自衛のための必要最小限度を超える」として「自衛のための必要最小限度」という「武力の行使」の三要件(旧)を超えることを理由として違憲と解している。


 憲法の規律密度を向上させたからといって、それを政治が守ろうとするかという規範力の問題には、明確な因果関係があるわけではない。例えば、憲法より論理的、合理的な解釈として導き出された規範を、政治が非論理的、非合理的な規範に変更した場合、それは法解釈上認められない不正な手続きである。これは、憲法の規律密度が低いことに問題があるのではなく、適正手続きがなされていないことに問題があるのである。

 これをあたかも憲法の規定の規律密度が低いことに問題があるかのように論点をすり替えることは、適正手続きの過程に問題があることを無視する提案である。適正手続きを怠る権力者に対しては、いくら規律密度を高めたとしても、結局「条文に直接書かれていない部分に関して適正な手続きを怠る」か、あるいは「法解釈そのものに対する適正な手続きを怠り、条文を不正に解釈する」かのいずれかにしかならない。適正手続きを怠る権力者に対して規律密度を高めることで対策を取ろうとしても、根本的な解決にはならないのである。

 また、規律密度を高めたところで、適正手続きを怠る権力者に対しては、必ずしも有効に作用するわけではない。法は、それを法と認めて自ずと従っている人々が一定数存在することによって初めて効力が生まれる性質のものであり、法に言葉を書き込んだからといって効力が生まれるわけではないからである。この点、それを法と認めて自ずと従っている人が一定数存在することによって初めて効力が生まれる性質が保たれているのであれば、それが条文の形でなく、その条文の解釈によって論理的、合理的に導き出された規範であったとしても同様に効力が生まれているはずであり、規律密度の問題は克服されているはずである。論理的、合理的な解釈として導き出される規範を守ろうとしない権力者が存在することに対しては、非論理的、非合理的な規範を定めた権力者の解釈手続きの不正が非難されるべきなのである。

 デュー・プロセス・オブ・ロー、適正手続きの保障、法律による行政の原理の趣旨、法律留保の原則の趣旨、信義誠実の原則、条理などと呼ばれる、法の一般原則に適う法解釈であるか否かを丁寧に確認すれば済む話であり、法の不備によって法の規範力が低下しているかのような認識は十分な理解を有していないものである。

 論者が、「規律密度を高めることで分かりやすい憲法とするべきではないか」と提案しているのであれば意味は理解できる。しかし、規律密度が低いことを理由として、あたかも日本国憲法が適正手続きを怠っても構わないことを前提とした法形式であるかのように語ったり、それによって法の規範力低下しているかのように説明することは誤りである。

 また、もし論者が、条文の規律密度を高めることで、法の効力が生まれると考えているのであれば、法の効力が一体何から生まれているのかという根本問題を理解していないように見受けられる。法は文字に書いたからといって、人間を物理的に強制する性質を有しているわけではない。論理的、合理的な解釈によって導かれる規範が存在するのであれば、それが条文であろうと、判例であろうと、政府解釈であろうと、法が適用されるか否かに関する法の効力の強弱に違いはないのである。憲法上の条文として文字にすることで初めて効力が生まれると考えたり、効力が強くなると考えることは、法の効力がいかに生まれているのかという法哲学的な視点を欠いていると思われる。


【参考】【凡学一生のやさしい法律学】憲法改正について(2)  2019年11月14日

【参考】【2021年の重要課題】日本の右派ポピュリストが進める改憲論議に乗ってはいけない 2020年12月29日





〇 第189回国会 参議院 憲法審査会 第2号 平成27年3月4日


 百地章の国家論は、「法学的意味の国家」ではなく、「社会学的意味の国家」を論じようとするものとなっている。しかし、法律論としては、「法学的意味の国家」を論じる必要があり、それは国家の統治権(統治機関・広義の政府)を捉える必要がある。通常の憲法学者が述べているのは、この「法学的意味」の国家である。

 百地章は「ところが、戦後、我が国の憲法学者たちの多くは、国家とは何かということについてきちんと論じようとしませんでした。」と述べて、「我が国の憲法学者たち」に対して反感を持っているように感じられる。しかし、百地章が「国家」の意味を「法学的意味」と「社会学的意味」に区別することができておらず、「我が国の憲法学者たち」の説明で使われている「国家」の意味を正しく読み解くことができていないだけである。


【動画】2020年開講 伊藤塾長の体験講義-『基礎マスター憲法1~2』 2020/04/07



 下記の書籍も、主要な論旨は上記と同様であり、同じように誤解が見られる。


憲法の常識 常識の憲法 (文春新書) 百地章 2005/4/20 amazon


 百地章の主張は、全体として「天皇」を中心として国家の「歴史」「伝統」「国柄」を反映した憲法を生み出そうとするものと考えられる。

 しかし、そのような「社会学的意味の国家」の思想を法学の領域に組み込むことができるのであれば、「大阪弁の憲法を作るべき」などという主張が行われたとしても、それらを否定することはできなくなる。また、「キリスト教の神を憲法の中に組み込むべき」や、「閻魔大王についても憲法の中で触れるべき」などと、様々な思想を反映するように求める者も現れることとなる。 


【動画】伊藤塾塾長 伊藤真 特別講義「行政書士と憲法」 2021/2/23

【動画】【司法試験】2021年開講!塾長クラス体験講義~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~<体系マスター憲法1-3> 2021/02/06





疑問

 筆者もまだまだ疑問があります。筆者のメモを書いてみます。

天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか 変わらぬ皇統の重み
 竹田恒泰 2017/12/15 amazon

天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか: 変わらぬ皇統の重み 竹田恒泰 (試し読み)

 

 これを読んで気になったこと。


疑問1
 論者は日本国憲法に対して、大日本帝国憲法との継続性を重視している。しかし、大日本帝国憲法は最高法規ではなく、皇室典範と競合していた。この点の関係をどう位置付けているのか論者の見解を知りたいところである。大日本帝国憲法が最高法規ではなかったという点から見ても、天皇主権から国民主権に変わったと考えるべき点があるのではないか。


疑問2
 大日本帝国憲法下では「華族、その他の貴族の制度」が存在しており、法の下の平等は徹底されていなかった。女性は参政権を得ておらず、臣民の選挙権も十分に保障されていなかった。この観点から見ると、大日本帝国憲法憲法下では国民に人権が十分に保障されていなかったと考えることができる。
 これを、日本国憲法の制定過程において国民に人権が行き渡り、そこから法の下の平等が実現し、国民主権が発生し、憲法の最高法規性が確立し、「華族、その他の貴族の制度」が否定され、女性の参政権も保障されたと考えることの方が、合理的ではないか。
 参政権が人権として十分に保障されていなかったということは、やはり主権者が国民ではなかったと考えることが普通の感覚ではないか。天皇主権と国民主権が対立する関係にないという話も、そもそも参政権が保障されていない体制下であるにもかかわらず、それを国民主権と同じであると主張するのはかなり違和感があるのではないか。
 天皇主権と国民主権が対立関係にないと考えられる点があるとしても、大日本帝国憲法下では人権が広く行き渡っていない以上、国民主権原理とは言い難いものであり、大日本帝国憲法と日本国憲法の間には大きな隔たりがあると考えることの方が自然であるように思われる。

 加えて、大日本帝国憲法下では「不敬罪」が存在したことも忘れてはならない。


疑問3
 論者の天皇と民との関係をたたえる節があるが、この節は他の宗教団体であっても同様の語り口で論じることが可能である。そのため、憲法上に天皇を制度として位置づけていることとは直接的には関連性がないように思われる。教祖と信者の関係を論じているものと変わりなく、これを日本国民が全てその信者の一角であるかのような主張として扱うことは、法学上の議論としては普遍化することができない。
 法学上の議論としては、宗教的感情を持ち込むべきではない。そのような認識は天皇個人の倫理規範としての意味は持つかもしれないが、憲法上の議論、法学上の議論とは関係がない部分が混じっている。
 たとえば、婚姻制度を論じる際に、当事者がお互いを愛し合っていることをいくら語っても、法律上の婚姻制度そのものとは関係がない。愛し合っていなくても、当事者は婚姻関係を継続することができるのである。同様に、天皇と国民の関係を語ろうとも、憲法上の制度として天皇が位置づけられていることと、天皇と民との関係の良さを称えるように論じることは関係がないように思われる。



 この話題の関連分野として下記を取り上げる。

   【参考】「打倒 芦部憲法学」弟子の長谷部恭男早大教授が語る 2020年03月15日

   【参考】尾高・宮沢論争 Wikipedia





書籍の評価


10歳から読める・わかる いちばんやさしい 日本国憲法
 2017/9/20 amazon

 

 書籍全体の構成が整っており、非常に分かりやすく、読んでいて気持ちの良い書籍である。全ページカラーで、漢字のフリガナをすべて付けており、読みやすく、とても印象が良い。挿絵が豊かで素晴らしい。

 ただ、構成が良いことによって、その分、所々気になる点が浮き出て見えることがある。構成をこだわって作ったことにより、逆に文面のミスが浮き出て見えてしまう結果を生み、それより批判を受けることになるというメカニズムは、作者には心苦しいとは思う。しかし、この書籍はその段階を超え、広く普及する品質に仕上げていってほしい。

 この書籍の品質をより向上させることによって、社会に正しい憲法理解を普及していきたいとの思いから、徹底的に指摘させていただく。



P20 (下線は筆者)

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〈第4条〉

①天皇はこの憲法で決められている国事に関することだけをするよ。

天皇は国の政治に関わる権利を持っていないんだ。

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 この解説は『権利』の文言を用いている。しかし、憲法4条1項の原文は「国政に関する権能を有しない。」と『権能』の文言を用いているため、『権利』と表現することは適切ではないと思われる。

 また、『権利』と表現すると、「天皇は国の政治に関わる権利を持っていない」との文面と相まって、あたかも天皇は通常国民が有している「参政権」という『権利』を有していないという意味に受け取ってしまいがちな点で、誤解を招くこととなる。

 確かに国民が有している「参政権」という『権利』を天皇は有しておらず、選挙権と被選挙権を行使することができない。しかし、この憲法4条1項の文意は国家権力(統治権)としての『権力・権限・権能』を有しないことを明確にすることにあるため、正確な表現とは言えないと考える。


 他にも、この書籍のP21においては、「内閣とは、国の行政権(政治を行う権利)を担当する最高機関です。」との記載がある。

 しかし、行政権とは国家権力を三権に分割した一つであり、『権力・権限・権能』とは言えるが、『権利』と表現することは正確ではないと思われる。


 ただ、この書籍のP13では、憲法前文の第一段落を口語的に説明する中において「わたしたちが政治家にパワーをあたえているということだよ。だからそのパワーで手に入れられたよいものはわたしたちのもの。」と、『権力』を(power)の意味で適切に翻訳している。
 この書籍のP21の解説の中では、「これが日本国憲法の特色で、天皇が政治的な権限を持てないようにしています。」と記載されている点は、『権限』の文字を使っているため正確であると思われる。誤解を招くことはない。

 P73では、「65条の行政権とは『政治を行う力』のこと。」との記載がある。先ほどのP21の行政権の説明と異なる。


 この点、書籍全体として統一感がない。この書籍は、この点の『権利(right)』と『権力・権限・権能(power)』を正確に使い分けるべきであると思われる。



 □ P26で、憲法9条1項の「武力による威嚇又は武力の行使」の文言を口語的に「武力でおどしたり、武器を使ったりすること」と説明している。

 もしかすると作者も迷ったのかもしれないが、法学上「武力の行使」と「武器の使用」は異なる概念であるため、「武器を使ったりすること」と翻訳することはやや違和感を感じる。

 また、政府解釈では「武力の行使」の意味を「国家の物的・人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為」と解している。そのため「武器を使ったりすること」とはイメージがやや異なる。
 ただ、「10際から読める・わかるいちばんやさしい日本国憲法」というタイトルのコンセプトからは、そこまで厳密に翻訳する必要はないのかもしれない。

 当サイトは9条解釈をかなり詳しく解説しているため、この点は敏感に考えてしまうところである。


 □ P26で、憲法9条2項後段の「国の交戦権は、これを認めない。」の文を口語的に「日本は戦争をする権利も持たないんだよ。」としている。

 確かにほとんどの憲法学の教科書では「交戦権」を『権利』と訳しているが、この規定は日本国の統治権を制約しようとする趣旨であると考えて、『権力・権限・権能』と表現する方が適切であるように思われる。

 また、「交戦権」の意味を「戦争」という言葉を使って翻訳してしまうと、9条1項の「戦争」の文言と重なるため、初学者は意味を飲み込みづらくなる。この点、改善の余地があるように思われる。


 □ P27で、9条1項が「侵略戦争」を放棄する意味という解釈を取りながら、「しかし、日本から攻めるのではなく、ほかの国から攻められた場合はどうなるのでしょうか。その場合、国を守るために戦うことになります。これを自衛のための戦争といいますが、それに関しては放棄していないというのが、日本政府の解釈です。」と説明している。

 しかし、この文面は誤解を招く表現が見られる。確かに、9条1項を「侵略戦争」を放棄したものと考え、「自衛のための戦争(自衛戦争)」は放棄されていないと考える説が存在する。しかし、この文面は「日本が攻めるのではなく、ほかの国から攻められた場合はどうなるのでしょうか。」という問題提起をしているが、その場合は日本国が武力攻撃を受けている場合であるから、既に9条2項前段、2項後段の制約の及ぶ解釈を導いて「自衛の措置」の範囲を決しなければならない問題である。その問題に対して、「自衛のための戦争」は「放棄していない」と説明することは適切ではない。

 また、日本政府も9条1項では「自衛戦争」は放棄されていないが、9条2項後段によって「交戦権」が禁じられることによって「自衛戦争」も禁じられると解釈している。そのため、この文面は、9条1項の制約範囲と、9条2項前段、2項後段のすべてを含めた制約範囲の解釈を混在させており、適切ではない。

 □ P27で、2項前段が「陸海空軍その他の戦力」を禁じている部分を説明する中において、「仮に戦力を本当に保持していないと、ほかの国が攻めてきたときに守ることができません。しかし実際には、日本には自衛隊という実力組織があります。」「政府は自衛隊を『戦力』にはあたらないから憲法違反ではないと考えています。」との記載がある。

 しかし、この説明では「政府は自衛隊を『戦力』にはあたらないから憲法違反ではない」としていることによって、「戦力を本当に保持していない」ことになり、論理的に「ほかの国が攻めてきたときに守ることができません。」との結論が導かれる。


◇ 「『戦力』を保持しない」 → 「守ることができない」
◇ 「政府は自衛隊は『戦力』ではないとしている」 → 日本国は「『戦力』を保持していない」 → 「守ることができない」


 この書籍の説明では、日本政府は「戦力」にあたらない「実力組織」によって「ほかの国が攻めてきたとき」に日本国を守ろうとしていることと論理矛盾が生じており、適切ではない。


 □ P27で、「政府は自衛隊を『戦力』にはあたらないから憲法違反ではないと考えています。仮に憲法違反にあたるとしても、9条を改正して後半だけを変えればいいという考え方もあります。」との記載があるが、一文目は「政府解釈」を説明しているが、二文目は「憲法改正議論」の話をしている点で、文の意味が途切れているにもかかわらず、「仮に」という文言を用いて一文目と二文目を繋ぎのものと説明しようとしている点で適切ではない。

 このような文面では、あたかも政府が「仮に憲法違反にあたるとしても、9条を改正して後半だけを変えればいい」との政府解釈を行っているかのような誤解を招くこととなる。政府は従来より自衛隊は「戦力」にあたらない範囲であるため憲法違反ではないと説明しているし、憲法改正議論の内容については解釈を行っていない。

 法律書籍において、このような「説明しているようで、説明になっていない文面」は非常に多い。しかし、やはりそのような文面はその分野の専門家によって厳しいチェックを行って駆逐していく必要がある。誤った理解を普及したり、国民を混乱に陥れることは害が大きいからである。

 書籍全体の評価は高くとも、学習者を混乱させる文面には厳しい指摘をせざるを得ない。それは作者の都合よりも学習者の気持ちを優先するべきであるとの思いからである。法律の初学者を法律嫌いにしてしまうことは、社会にとって大きな損失である。作者にはできるだけ文面をより適切な形に変更していくことを検討いただきたい。



 その他、P56で「みなさんが将来、結婚して子供ができたら、きちんと小学校~中学校の9年間、教育を受けさせてあげましょう。」との記載があるが、結婚せずとも子供ができる場合もあるため、「結婚して子供ができたら」という表現がそのままでよいのかやや疑問を感じる。読み手の中には非嫡出子の子供もいるのではないかと感じるのだが、そのままでいいのだろうか。法律関係の書籍としては、私はちょっと敏感になる。子供向けですけれども、私はこれを法律書籍として見てますよ。

 憲法上の条文でも、「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。(26条2項)」と記載されており、自分と血のつながった子供であることを前提とするものとはなっていない。そのため、「結婚して子供ができたら」という表現は、それに該当しない読者に対して心理的な負担感を与えてしまう可能性が考えられる。そのように感じさせてしまうことがあるならば、それは憲法の本来の趣旨ではないはずである。何より、それで憲法を誤解して、憲法を嫌いになってしまう人が一人でも出てしまうのであれば、それは私は悲しいと思う。

 P65で、「そして、選挙で一番多く当選し、内閣総理大臣を支える政党を『与党』といい、それ以外の政党を『野党』といいます。」との記載があるが、「与党」であるか否かは「内閣」に政党の議員が入っているか否かによって区別されると思われる。そのため「選挙で一番多く当選し、」との部分は、厳密ではない。憲法上では国会で国会議員の中から内閣総大臣の指名(67条)を行う際に、多数派政党から選出しなければならないとの規定は存在しない。また、「内閣総理大臣を支える政党」という表現も、入閣するか否かは内閣総理大臣の指名(68条)によるのであるから、「内閣総理大臣を支える」という表現は法的な視点とは異なる。この点に法律書籍としては不安定さを感じさせるものがある。


 P89で、「しかし、これはすなわち、1つの党だけで衆議院全体の3分の2以上の議席を持っていれば、基本的にはどんな法律も作れてしまうということを意味します。」との記載があるが、「基本的には『その党だけの意見で』どんな法律も作れてしまう」という記載をしないと、突然「基本的にはどんな法律も作れてしまう」と表現されても、意味を掴むことができない。筆者には著者が何を示したいのか理解できるが、法学の教養のない初学者がこの文を丁寧に読み取ろうとしても、文意を正確に掴むことができないため、悪文である。

 もう一つ、憲法に定められた統治機構の視点だけを抽出するフィルターをかけて見てみると、憲法では「議席」の概念は存在するが、「政党」の概念は存在しない。例えば、「政党」に所属する者も、議決の場で党の意思とは反対の票を投じることも法律上の制度としては可能であり、党の意思に縛られるか否かはその党の内部の問題である。そのため、憲法の説明をする際に、「政党」を取り上げる場合には、この点をもう少し敏感に区別する必要があると思われる。

 P73で、「『衆議院と参議院とが異なった指名の議決をした場合』とありますが、衆議院と参議院の多数派が逆転した『ねじれ国会』と呼ばれ状態の時には、両議院で別々の人が内閣総理大臣に指名されることもあります。」との記載があるが、「衆議院と参議院の多数派が逆転した『ねじれ国会』」と突然説明されても、意味を飲み込むことができない。説明不足である。「衆議院と参議院」の議席を構成している多数派の政党が異なる場合には、などと説明しなければ、どのような意味で「多数派」という文言が使われているのか掴むことができない。すると、「逆転」などという言葉を使われても、意味を捉えることができない。


 P75で、「与党が選挙に勝てば内閣は国民の支持を得たということになるので内閣はほぼそのまま続きますが、もし選挙に負ければ政権交代です。」との記載があるが、ここで突然「勝てば」や「負ければ」という勝ち負けとしての概念が登場している。しかし、ここでいう勝ち負けが選挙の結果議院の議席の多数派となれるか否かを指していることは筆者には理解できるが、法学や政治学の教養のない初学者がそれを読み取ることができるとは思えない。この点、改善の余地があると思われる。


 すべて丁寧に読んだが、その他はほぼ問題を感じなかった。
 重ねて言うが、この書籍のコンセプトは非常に質が良いので、文面の訂正を続けて内容の品質を向上させ、全国の図書館で生き残っていただきたい。質がいいのでもっと良くなってほしいと思って指摘しているということである。訂正版が、全国の小学校の図書館にも広がっていくことを期待する。そのくらい良い。


【参考】「増刷のたびに少しずつ手を加えており、」 2020年5月23日 Twitter

【参考】「今回の増刷でも文章とイラストをたくさん修正しています。」 2022年4月29日 Twitter

【参考】文章修正・誤植訂正・内容アップデート等の一覧

 





13歳からの天皇制 堀新
 2020/2/27 amazon

私の初著作『13歳からの天皇制』、2月27日発売です!! 2020/02/15


 法律論としての天皇制について非常に分かりやすくまとめられている。内容は13歳向けだとは決して思えないが、分かりやすく記載されているため、興味があれば高校生以上ならば普通に読めると思われる。

 こういう分かりやすい平易な文章で書かれた書籍を、「高橋和之」が書いてくれればいいのに。





立憲主義と日本国憲法 第4版 高橋和之 2017/4/8 amazon

 現在は第五版が出ている。


 「立憲主義と日本国憲法 第4版(高橋和之)」は、重要な情報をできるだけ多く提示しておこうとする意欲は理解できる。人は情報がなければ考えを深めることができないことから、重要な情報がカットされておらず、しっかりと記載されているという事実は重要なことである。

 しかし、この書籍の文章は、一つの項目の中で話を進めている筋道から、途中で別の話に飛ぶことがあり、一体何の話をしていたのか分からなくなるような記述が散見される。しかも、話が飛ぶときに、改行で区切られているわけでもないため、本当に話の筋道が分からなくなる。

 項目のタイトルは分かりやすいが、項目内の情報は整理されていない。改行を加えるべき点や、箇条書きで示すべき点もそのまま並べるなど、読み手は認識を整理することができない。

 憲法の教科書として名高く、内容の質も良いのだから、この書籍を他の憲法学者5人ぐらいには徹底的に批判してもらった方がいいだろう。文章の専門家も入れたほうがいい。

 内容は正確なものが多いし、質も高いのだから、伝わる品質に仕上げないとダメだ。

 この点、長谷部恭男の「憲法講話 24の入門講義」の方が格段に仕上がりが良い。

 内容のレベルを下げるのではなく、構成の分かりづらさ徹底的に改めるという方針でチェックし直してほしい。

 この書籍は、「人権の分類はこれで良いのだろうか?」など、学説が生まれる背景や疑問などが次々に登場する。それは、思考の深さを導くことや、より本質的なものは何かを探り、学問を発展させ、洗練された概念を創造していくために必要な情報にはなると思われる。しかし、初学者に対して、学問上の次々に現れる疑問を提示していくことは、理解を混乱させるだけである。

 憲法の最初から最後までもれなく解説している教科書という意味では質が高いが、入門者向けではない。これを入門と名付けて販売することは、初学者を不安に陥れる弊害が大きい。ベーシックな教科書ではあるが、入門を語ることはやめた方がいいのではないか。


 この書籍の文面は、文の脈絡が分かりづらい。次々に話を持ち出すが、話の内容がもともと体系的に整理されていない。情報の網羅性を意識していることは読み取れるが、読者の理解を導こうという読者目線が感じられない。

 芦部憲法は一文が長すぎる部分があるが、この書籍は一文は短く区切られている点は良いと思う。しかし、文の前後の繋がりが不自然であるし、話が飛びがちである。


 この書籍を読んでいると、長谷部恭男の「憲法講話 24の入門講義」の質の良さを実感する。


 この書籍は、恐らくこれまでは憲法学の世界では最高峰とされる書籍に分類されると思うが、「最高峰がこれですか?」と言いたくなる。「もっといい書籍はないのか」と聞きたくなる。

 内容ではなく、文章の問題。学術的な批判ではなく、文章校正の問題。頭にスッキリ入ってくる文章に整理し直すことを別の誰かに指摘してもらった方がいい。

 長谷部恭男の「憲法講話 24の入門講義」も有斐閣だし、この書籍も有斐閣なのだから、「憲法講話 24の入門講義」の文章を整理した担当者に文章を整理してもらった方がいいだろうと思う。

 この書籍は横書きであることや、芦部憲法の見開きの情報量の少なさに比べたら情報も多いし、項目の区切り方も認識しやすいため、書籍全体の枠組みは好きなんですけどね。


良い点
◇ 重要な情報が省略されずにしっかりと記載されている点は大切である

◇ 専門的な内容として、網羅性があり、情報の漏れがない

◇ 項目の枠組みの形は好きである

◇ 文字サイズを変えて、細かい情報を分けて記載しているところは分かりやすい


悪い点
◇ 文章そのものの読みにくさ
◇ 途中で話が飛ぶところがある
◇ 文章の重複で無意味に話が繰り返されている部分がある


◇ 使われている用語の幅が広く、突然知らない単語が飛び交うため、初学者はついていけなくなる。

 漢字の世界には、『小学校低学年までで習う漢字』『小学校高学年までで習う漢字』『中学校までで習う漢字』『常用漢字』というように、能力に応じて使える漢字の幅が異なる。法学の世界の用語にも、このような能力に応じて使える用語の幅を何段階かに分類した方がいいのではないか。すると、学習者を混乱に陥れることはなくなるはずである。

 漢字の世界も、通常使っている用語は数千種類しかなく、それを分類して読者を導くようにしているはずである。同じように、法学の世界の用語も数千種類しかないはずであり、無限に用語が広がっているわけではない。そのため、漢字のように、読者のレベルに合わせて用語の段階を分類することは可能であると思われる。

 それに比べて、長谷部恭男の書籍は、対象とする読者のレベルに応じてこのような段階の使い分けが自然と為されているように思われる。その点の仕上がりの良さが、長谷部恭男の書籍からは伝わってくることがある。


◇ この書籍は、著者の興味関心の振れ幅に初学者が付き合わされる感覚を覚える。体系的にみると分野ごとの詳しさや用語のレベルに偏りがある。

 他にも、専門用語なのか、その項目だけで出てくる省略用語なのかが分からない。例えば、P82で、


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   3 人権の類型

 人権とは、抽象的には、個人の自律的生に不可欠なものであるが、それが具体的には何かについて憲法自体が個別人権として列挙している。それらの個別人権の特質を一層深く理解すると同時に思考を整理するために、人権を類型化し全体を体系的に把握する努力がなされている。

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との記載がある。この「個別人権」というのはあまり聞いたことがない表現であるが、著者がここでのみ用いている表現なのだろうか。こういう表現の仕方が読者に混乱を与えることとなる。

 また、この文を読み解いて、すんなりと「人権の類型」の話をしていることを飲み込める読者がいるだろうか。こんな言い回しで説明されても、意味分からないだろ。ほんと、読める文章になっていないと、誰か指摘してやれよ。第四版でこれですか。こんな書籍が最高峰の書籍として販売されている水準だから、憲法学者に対する無意味な反感が生まれるのだよ。国民の法学の教養を阻んでいる理由がここにある。

 「じゃあ、あなたが書き直せ」と言われたら、筆者にその能力はないが、全国の書店に最高峰の憲法の書籍として販売されており、全国の図書館に普及しているこの書籍にはもっと高いレベルの品質検査を行うべきである。

◇ 憲法のベーシックな教科書として期待する場合には、体系的な観点からはカットできるような無駄な記述が多い。初学者は、最初は無批判にすべてを飲み込むしかないのであるから、これを全て飲み込ませようとすることは初学者に混乱を与えることになる。初学者向けの書籍ではないと定義し直せば、別に良いのであるが、批判能力の備わっていない初学者にはお勧めすることができない。
 その点も、長谷部恭男の「憲法講話 24の入門講義」の方が良い。



 この書籍の内容は、憲法学者3人ぐらいと、文章の専門家2人ぐらいから一通り批判してもらった上で、校正を改めたら、もっと普遍性の高い良質な内容にアップグレードできるはずである。しかし、そうなっていない点が残念である。

 この書籍は、著者の「~~であるが、○○である」というような独特の言い回しだけが頭に残り、癖が多すぎる。読み終わった後に、内容が頭の中にさっぱり残らず、癖のある言い回しを身に着けることが法律的な思考であるかのような勘違いを引き起こしそうである。

 ただ、学術的な内容そのものには癖はなく、憲法学のベーシックな理解である。それは認める。中身ではなく、文の表現の問題。

 


 この書籍はハードカバーで、表紙がかっこいいため、その水準を期待して本を開いたら、内容が整っていないという残念な感覚に陥る。表紙のデザインと、内容の水準にギャップがある。

 ハードカバーの書籍には、永久保存版のような硬いもの、普遍的なものを期待するでしょ。しかし、その期待に十分に応えられていない内容が含まれている。そこが残念に思わせる点である。「すごい期待したのに、そこら辺の憲法の書籍とあんまり変わらない水準じゃないか」というような感覚である。

 このハードカバーは、憲法の知識のない者に対して権威を見せつけることで気持ちを怯ませ、惑わせようとするには有効かもしれない。しかし、実質を見抜こうとする当サイト筆者から見るとそういうギャップは印象が良くない。

 長谷部恭男の「憲法講話 24の入門講義」は、そのような感覚を抱かせることはない。この点でも、こちらの方が上であると感じる。



 P337の、「統治機構の全体構造」の図であるが、この図を見せられて理解できる読者がいるのか疑問である。当サイトの法学マップの方がはるかに優秀だ。何なら、勝負しよう。

 この書籍、下手すると、芦部憲法より分からない部分があるな。分かるようで分からない。説明しているようであるが、体系観がスムーズに入ってこない。整理されているようで、整理されていない。体系観がスムーズに入ってこないことと、文の脈絡が掴みづらいため、もう少し、薄くまとまった小さい本を読んだ方が有益かもしれないと思わされる場合がある。

 しかも、長谷部恭男の「憲法講話 24の入門講義」の方が、600円も安いじゃないか。とりあえず、長谷部恭男の「憲法講話 24の入門講義」と勝手に勝負させているが、長谷部恭男が勝ちだな。今後、もっと戦って、どんどん良質な本に改善してほしい。


 誤解を避けるために常々繰り返すが、この書籍の内容を批判しているのではない。高橋和之の専門家としての能力を批判しているのではない。文章の伝え方が学習者向けに整理されていないことを批判しているだけである。

 この書籍は、学習者のために改善するべき点が多い。まだまだ伸びしろはある。最高の書籍へと改善しなければならない。

 この著者がこの書籍の文章を改善するだけで、今後の憲法学の世界が格段に分かりやすくなり、人々に普及し、法の支配が実現されていくきっかけになるのだから、そこの努力をもっと行ってほしい。

 内容はとてもいいのだから、文章校正を長谷部品質に仕上げてほしい。




憲法講話 -- 24の入門講義 長谷部恭男 2020/3/2

 

 この書籍は、癖のない文面で内容がスラスラと頭に入ってくる。柔らかく流れるような記述はとても繊細に見える。今までの疲労感の高い憲法の教科書に比べて優しく伝えられているように感じるため、これまで身構えていた自分の感度を設定し直す必要があると感じる。

 今後の憲法学の世界が、このような柔らかい感度で進んでいくと、非常にスマートな世界になるのではないかと思われる。


 他の教科書群では誤解を招きやすい部分についても、一言、一言、初学者を導く優しいステップとなる文が添えられている。これが非常にありがたい。誤解や粗い理解となっていた部分が解きほぐされていく感覚を覚える。

 例えば、P67には「基本権はさまざまな視点から区別することができます。」との記載がある。これまでの学習では、教科書に記述されている用語の「定義」を押し付けられる感覚が拭えないものが非常に多かった。しかし、このような一言ですんなりと前提となる事情を理解することができるようになる。すると、内容を自然に飲み込めるようになる。

 P68で「制度保障(『制度的保障』といわれることもあります)」というように、用語の対応関係を示してくれていることもありがたい。このような用語の対応関係が分からないままにどんどん話を進めていく教科書もあるが、こういう配慮が読者を丁寧に導いてくれる。

 P91で、「二重の基準」論について説明する際に、「説明にはいくつかのものがありますが、最も有力な説明は、民主的政治過程論と呼ばれるものです。」と記載がある。このように、あたかも当然のように語られていた「二重の基準」論の説明が、有力な説明として取り上げられているものであることが丁寧に明らかになり、価値観の押し付けを感じない。この点が自然に読み解ける。「とりあえず、『二重の基準』論を受け入れろ」とでも言いたげな説明をする資料は多いが、そのような抵抗感を感じさせることがない。

 P391で、「硬性憲法と軟性憲法の区別は、イギリスの法学者ジェームズ・ブライスが行ったものですが、……」など、法学上の分類や学説の由来について、そっと説明を加えてくれている点は、本当にありがたい。誰が分類したのかも分からない区分や学説が勝手に飛び交って、あたかも当然のように存在するかのように押し付けてくる教科書は非常に多いが、このような説明が加えられているだけで、その区分を絶対的なものと信じなければならないかのような強迫観念を丁寧に解きほぐしてくれる。読み手の心理的な負担を軽減し、法律嫌いになってしまうことを防ぐことができるため、非常に嬉しい。


 芦部憲法の前提となっている部分を丁寧に知ることができるとても身に染みる書籍である。ちょうど、こういう書籍が欲しかったところである。

 芦部憲法が中華のチャーハンだとすると、長谷部憲法は和風のみそ汁といった感覚だ。ガツガツしている感覚がなく、流れるように飲み込める。身にも染みわたり、受け入れやすい。

 ただ、腹の中に溜まった感じはやや少ない感覚もある。別の教科書と共にセットでいただくことで、よりバランスの良い食事ができるかもしれない。

 芦部憲法では、「~に求められねばならない。」「~が妥当であろう。」「~が通例となっている。」などと、当然のように話を進めてくるため、価値観を押し付けられて、この考え方を受け入れるしか選択肢がないかのように迫ってくる傾向がある。

 それに比べて、この書籍は読者に無用な抵抗感を抱かせるような記述がない。そのため、読んでいる際に抵抗感のあまりに自分の思考が勝手に横に逸れていってしまい、読み進めることに集中できなくなってしまうことがない。芦部憲法に見られる無用な癖がない部分が嬉しい。

 

 芦部憲法は、言葉の意味を勝手に定義して話を進めようとするため、その定義を受け入れられるか否かという読者側の葛藤を呼び起こすことがある。そのため、次々に定義を押し付けられ、その定義を覚えなくてはならないかのような感覚となりがちである。非常に窮屈であり、極端に言えば、学習の際にその定義を信じるか否かを踏み絵にかけられるかのような感覚に追い込まれがちである。

 例えば、下記のような記述がそれである。


芦部憲法 第三版

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P199

3 結社の自由

㈠ 意義  多数人が集会と同じく政治、経済、宗教、芸術、学術ないし社交など、さまざまな共通の目的をもって、継続的に結合することを結社という。……(略)……

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 このように、芦部憲法では突然に定義を押し付けられるし、著者の芦部信喜もその定義を行うことに迷いがない。

 しかし、この書籍はそのようなスタンスがない。毎回その規定が意図しているものの由来を丁寧に遡って説明を始めてくれるため、そのような価値観の押し付けを感じさせないものとなっている。規定が生まれた背景や源流にあるものに深く迫っているため、芦部憲法のような定義の押し付けを解きほぐし、思考の柔軟性を得られる。

 例えば、下記のような記述がそれである。


憲法講話 長谷部恭男

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P123

6 結社の自由

 憲法21条1項は、結社の自由も保障しています。

 結社を肯定的にみるか、否定的にみるかは、国ごとに歴史的経緯が異なっています。典型的な市民革命であるフランス革命は、……(略)……

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 この点で、この書籍は芦部憲法よりも数段上である。


 芦部憲法の「第十八章 憲法の保障」の項目は、構成や話を持ってくる順番、分類や項目の整理など、訳が分からず最悪である。

 しかし、この書籍の「第24講 憲法の保障」の項目は、すべてきれいに整えられており、格段に分かりやすい。これを見ると、いかに芦部憲法の構成が手抜きであるかをまざまざと見せつけられる思いがするほどである。そのくらいに違いがある。

 

 法律書籍には「構造的曖昧文」や、「説明しているようで説明になっていない文」など、読者を煙に巻くような文章が非常に多いが、この書籍はそのような悪文が一切ないと言ってよいぐらいの品質である。

 断続的にではあるが、毎回読み終わるたびに、後味がとても良い。法律書籍の中には「変な言い回しだけが頭に残っている」という感覚にさせられるものが多いが、そのような感覚を抱かせることもない。

 長谷部の解説は、一見掴みどころが無くなって、固体として管理していた理解が液体化して管理しにくくなったような不安を覚えることもある。しかし、しばらくするとそれこそが本質的な理解であることをじわじわと実感させられることがある。

 憲法学のスタンダードな世界、王道の理解へと、ここまで丁寧に、安定的に、そして安心して連れていってくれる構成となっていることは、非常に嬉しい。論理に無理がないし、話が急に飛んだりしない点もスムーズである。

 かなり注意深く読んだが、なかなか粗を見つけることができない点が安心感が高い。

 これだけの内容が一人の憲法学者の頭の中に入っていることが信じられない思いだ。



 この書籍は、本文中で、別の項目にも詳しい記載があるものなどを徹底してリンクを付けてくれているので、学習の際に非常に役立った。実際にリンクに飛んで確認しなくとも、「あっ、さっき読んだところのことだろう。」や、「しばらく読んだら後から出てくるな。」などと、感覚的に分かるため、項目の繋がりを意識することが容易である。

 「(後述3参照)」と記載されているなど、様々な関連性をもれなく繋いでくれているため、あちらで記載されていることと、こちらで記載されていることが、無駄に重複しているという混乱もない。それでいて丁寧にジャンプできるように繋いでくれているため、本当にありがたい。こういう配慮が芦部憲法には欠けている。

 

 芦部憲法でも同じことが記載されてるのに、この書籍を読んでいると初めて腑に落ちることが何度も出てきた。芦部憲法が学習者を憲法学の世界に引きこむことができておらず、その意味を正確に体感させることができていないことに気づかされる。

 芦部憲法には初学者には不要な細かい条文知識が登場することが多い。これらの知識は法制局の職員になろうと考えているのであれば、必要かもしれないが、初学者や一般人には不要である。

 しかし、この書籍はそのような細かい知識はカットされており、読者の理解を導くための没入感が確保されている。憲法学の迷子になってしまうことはない。この点でも、学習する際の体感が非常に快適である。学習体験としては最高レベルにあると思う。

 未だこの書籍に込められた読みやすくするための意図を網羅的に読み解くことができていないため、改善策を提案することが難しい。そのくらいに良い。

 


 敢えて言えば、「事項索引」や「判例索引」のページと同様に、「条文索引」のようなものを入れても良いのではないかと思う。例えば、この書籍の最後には憲法の全文が記載されていることから、その条文ごとにその条文を解説したページを索引できるように「19条 …… P72」というような表記をすると良いのではないだろうかと感じた。 憲法上の条文番号から書籍の中のその条文について解説されているページへとジャンプするための対応関係を記載できると便利なのではないかと思う。

 当サイト筆者は日本国憲法の条文体系が既に頭の中に入っているため、どこに何が書いてあるのかを勘で捉えることができる。しかし、初学者が理解できるのか心配である。

 特に、この書籍は人権規定に関する講の配置が憲法の条文と同じ並びとなっているわけではなく、憲法の10条~40条の規定をバラバラにした後に人権の分類に沿った形で集め直して解説する構成となっている。

 そのため、憲法の条文と解説ページとの対応関係や、この書籍が条文解説を行っている部分の網羅度もイメージしやすくなると思われる。

 また、他の書籍で理解を補うべき部分や、別の書籍と解説を見比べる際にも、条文番号から探すことができるため、便利であるように思う。

 


 この書籍は、人権規定の13条の「包括的基本権」や14条の「平等権」の解説が、人権規定の最初ではなく、間に持ってくるなど、大胆な配置換えが為されている。


    【参考】憲法講話 -- 24の入門講義 日本で生きる,憲法を学ぶ,すべての人に


          第13講 包括的基本権

          第14講 平等原則

 

 確かに、13条に関して、プライバシー権など新しい人権の解説が為されることを考えれば、その配置順序で納得できる部分もある。

 ただ、ここまで大胆に配置換えを行うことができるのであれば、憲法の第一章「天皇」について解説している「第3講 天皇制」に関して、統治機構をまとめて解説している後半部分に配置し、三権を解説する前の「国会」の解説の前あたりに入れても良かったのではないかとも思われる。

 この「第3講 天皇制」に関しては、「第2講 日本憲法史」の国家法人理論との対応関係もあるため、その「第2講 日本憲法史」の近くに配置したいとの気持ちも分からないではない。また、日本国憲法の第一章から第十一章までの並びに合わせることを優先する場合もあると思われる。

 ただ、この辺をより普遍性の高い分類へとさらに整理していくことはできないものだろうか。筆者もいつも憲法の分類をもっと分かりやすくできないかと考えているが、どの憲法の書籍を見ても、「これぞ、完璧な分類だ」と納得できるものを見つけることができないため、なかなかもどかしい気持ちである。

 憲法の教科書の平面的な構成では、読者は正確な憲法理解を会得することは難しいと考え、当サイトでは法学マップで憲法体系図を導入した経緯がある。

 より本質的な仕組みによりダイレクトに捉えられるような構成を生み出すために行う配置換えについて、今後もより良い方法を継続的に探っていきたいと思う。


【動画】第2回憲法調査会「国を創る、憲法を創る、新憲法草案」 2020/10/16 (1:48:54より/表示される時間にズレがあるかもしれない)

【参考】憲法 (佐藤幸治) Wikipedia

(『一般の体系書と異なり統治機構-基本的人権-平和主義の順で叙述されている』)


 最近考えている分類

 

◇ 総論(法の支配、憲法の特質など)

◇ 人権(基本的人権の尊重

◇ 統治(国民主権・天皇・国会・内閣・司法・地方自治)

◇ 平和主義(9条・安保条約など)

◇ 憲法の保障


 芦部憲法のハードカバーは重く、カバンに入れて持ち運ぶことは億劫になる。それに比べて、この書籍はコンパクトなサイズでありながら、芦部憲法と同量(やや少ないぐらい)の学習ができるように十分に詰め込んでおり、内容の質も良いため、書籍そのものを好きになってしまいそうである。

 法学書籍の中には、ハードカバーの厳(いか)つい本は多いが、ソフトカバーで手軽いにもかかわらず、この高度な内容を過不足なく初学者向けにまとめてくれていることは本当にありがたい。


 筆者は、有斐閣アルマの法律書籍は、構成が個性的な印象を受けるため嫌いなものが多い。しかし、この書籍は有斐閣の法律書籍でありながらも、そのような構成の癖が一切ない点で、有斐閣の印象が変わった。

 一講、一講の扉となるページや、項目の区切りのデザインがとてもスマートである。デザインを見ていて目がギラギラしてしまうこともないため、長谷部の文章にダイレクトで接することができる点も印象が良い。また、長谷部の文章も丁寧であるため、非常に気持ちが良い。この完成度には、一つの作品として所有していたい感覚を覚える。

 構成や内容に無駄がない。書籍のデザイン性が最高である。そして、そのデザインが無意味に強調されることもなく、削ぎ落されたデザインの行き着くところを体現しているという感じだ。

 書籍全体から学習を始めようとする意欲を削ぐような要素を感じさせない形となっている。

 手軽さや無駄のなさがあり、内容にダイレクトに接することができる点も嬉しい。

 手に取って、パラパラしているときの感覚が楽しい。いつでも、どこでも読める。ついつい手に取って開きたくなる感覚を覚える。

 芦部憲法などのハードカバーは、書籍を開いて机の上に置いておく形で勉強するには使えるが、そもそも学習意欲が湧いてこない段階では使い勝手が悪すぎる。

 それに比べて、この書籍は、

  ・食事の前の空いた時間

  ・移動中に手が空いた時間

  ・作業の間の隙間時間

  ・たまたま脳に余力がある時間

  ・突然の思い付きで何かを調べたくなった時

  ・

など、そういう細かいタイミングでも、常々開いて読み進めてみようという気持ちを読者に抱かせることに成功しているのではないかと思う。
 筆者は今まで「横書き」の書籍が好きであったが、この書籍を読んでいて、「縦書き」の書籍も思ったより良いのではないかと思えた。

 しかも、これだけのメリットがありながら、価格が芦部憲法より700円も安い。素晴らしい。その値段設定、本当にありがとう。

 憲法講話、この書籍、好きになっちゃいそうだね。無意味に朗読会とか、開いてみたらいいんじゃないか。一般人も、ぼーっと聞いているうちに憲法の世界に慣れることができると思う。

 

 

 ただ、学術書なので仕方がない部分もあるが、スタンダードで平易で分かりやすくも、長くて飽きる部分もある。例えば、自分の興味関心がないテーマの話は、もともと興味がないから吸収しなくなる場合がある。書かれている意味が分からないということではまったくなく、興味がないから吸収しないということである。

 これは著者の問題ではなく、受け手(読者)の問題である。

 しかし、それを放置すると、憲法の体系的な理解、網羅的な理解が得られないことに繋がってしまう。

 すると、学習の際に、「単に情報を得る」という段階からステップアップし、「網羅的な情報から消去法的に不必要な部分を排除していき、真実を見つけだし、本質を抜き取っていく」という段階の思考力を身に着けることが難しくなる。

 この問題を解消するために、この書籍の地図をつくり、図解化しておきたいと感じる。

 この書籍は既にかなり高い水準でまとめられているため、この書籍そのものの体系観は非常に優れており、整理されているのであるが、それを地図として表現し、もっともっと多くの人に体感いただけるような別のアプローチを取り入れていきたいと感じる。

 例えば、ディズニーという会社はもともと映画会社であったが、今ではディズニー・リゾートというテーマパークを作っている。

 同じように、長谷部恭男の「憲法講話 24の入門講義」という書籍を基に、「長谷部ワールド」をつくって新たな憲法体験を提供していくと良いのではないかと思う。 

 ディズニー・リゾートのアトラクションも、ストーリーは映画と同じである。しかし、体験は異なる。そして、より深い理解やその世界観の本質部分に触れることができるようになる。

 同じように、この書籍を基に、別のアプローチを取り入れて、同じことを新たな形で再現し、新たな体験を用意する。そして、より多くの人が、憲法のより深い理解に到達できるように働きかけていく。

 内容は「憲法講話 24の入門講義」と同じでよいので、そのまま体験を新たな形で表現していくべきであると考える。

 この書籍の質の良さをより多くの人にダイレクトに伝えていくための見取り図になるものを作っていくと、もっともっと普及して、法学の世界をより良いものに変えていけるのではないかと思う。


 この書籍の主要部分をいくつか拾って、映像化したい。例えば、統治機構の説明において、当サイトの法学マップのような図を用いて説明した方が初学者にはダイレクトに伝わると思われる部分もある。それを、動画にして伝えられるような作品を作ると良いのではないか。

 国民がそれを見た後に国政を考えることと、それを見ないままに国政を考えることでは、格段に違いが出るはずである。

 「長谷部恭男の憲法講話」という体系化された一本の映画作品を作るべきだな。2時間に収める。

 その映画を見た国民は、「国」、「国」と呼んでいる対象が、漠然とした大きく壮大でよく分からないものというイメージだったものが、より早い段階で実務的で具体化されたものをイメージできるようになるはずである。

 その効果が、視野を変えるはずである。そのレベルまで、大多数の国民の法学への理解の水準を高めることに貢献することができるはずである。

 脚本は長谷部恭男の「憲法講話 24の入門講義」という書籍が既に存在するのであるから、それを映画化するだけだ。映画版「長谷部恭男の 憲法講話 24の入門講義」をつくるべきだ。

 美しい法の世界を、より多くの国民に知ってもらえるようにしていきたい。

 

 有斐閣の担当者、「長谷部ワールド」を作ろう!

 

 

    【内容の疑問】


 さて、ここで内容の疑問に移る。当サイト筆者にも、いくつか疑問を感じている部分がある。

 P2~3に「宗教は人としての正しい生き方を教えてくれるだけでなく、なぜこの世界が存在するのか、自分は何のためにそこで生きるのか、その意味を教えてくれるはずのものです。」との記載されている。

 「宗教」というものに対するこのような説明を疑いなく受け入れることができる人もいるとは思う。 

 
 下記のような説明もそれである。

【動画】【司法試験】2021年開講!塾長クラス体験講義~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~<体系マスター憲法1-3> 2021/02/06

【動画】【司法試験】5月生本開講!塾長クラス体験講義 基礎マスター憲法1-3~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~ 2021/05/14

 

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……(略)……敢えて定義づければ、憲法でいう宗教とは「超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」をいい、個人的宗教たると、集団的宗教たると、はたまた発生的に自然的宗教たると、創唱的宗教たるとを問わず、すべてこれを包含するものと解するを相当とする。……(略)……

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行政処分取消等請求控訴事件 名古屋高等裁判所 昭和46年5月14日 (PDF) (津地鎮祭事件の高裁判決)


 しかし、当サイト筆者は「宗教」に対するこのような定義をそのまま受け入れることはできない。筆者は、憲法学の教科書やテキスト、問題集などで解説されるこのような「宗教」というものに対する定義は、必ずしも正しくないと考え、常々疑いを持ってきた。

 なぜならば、「宗教」というものをどのように定義するかに関わる問題は、その定義が形成される根拠が示されなくては、「宗教」が何であるかを正しく説明したことにはならないはずだからである。

 


 例えば、「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」であるが、これは宗教と言えるだろうか。ご飯を食べるときに「いただきます」と手を合わせることは宗教と言えるのだろうか。自分の中で神聖視している演劇を見ることや、神聖視している山を登ることは宗教と言えるだろうか。芸術活動は宗教ではないのだろうか。

 このように、「宗教」であるのかないのかという明確な境界線は存在していないと考えられる。

 そのため、「宗教」について定義を行おうとしている時点で、既に「宗教」として人々に知れ渡り、一定の価値観の表れがより権威的に表現されているものを対象として考えてしまっており、それを基に「宗教」であるか否かを識別しようとしているように思えてならないのである。

 つまり、キリスト教、イスラム教、仏教、神道などという社会的な認知が広がっているものを対象として、それを「宗教」と捉えた上で、「法学の立場から見ると、『宗教』とはこういうものだ」という風に勝手に定義を行っているだけであるように思われるのである。

 既存の名の知れ渡った「宗教」と呼ばれる対象も、もともとは単なる価値観の集合体でしかなかったものであるはずである。その原始的な過程をたどって、「『宗教』であるか否か」を識別するのではなく、名の通った権威ある「宗教」と呼ばれているものが、たまたま「人としての正しい生き方を教えてくれ」ていたことや、「なぜこの世界が存在するのか、自分は何のためにそこで生きるのか、その意味を教えてくれ」ていたことを理由として、「そういうものが宗教である」という風に勝手な思い込みに基づいて定義を行おうとしてしまっているだけのように思えるのである。

 「宗教」というものを「人としての正しい生き方を教えてくれる」と定義しようとしたならば、そうでない宗教も存在するはずであるし、「なぜこの世界が存在するのか、自分は何のためにそこで生きるのか、その意味を教えてくれるはずのもの」と定義したならば、そうでない宗教も存在するはずであると思われる。


 このように、「宗教」というものを突き詰めて考えるならば、それを明確に定義することは困難であるはずである。

 そのため、人の有しているもともとの「道徳的・倫理的な感情」や「感謝の気持ち」などが思想や芸術などの表現に現れる際の非常に原始的な姿のものに対して、それを「宗教」であるのか、そうでないのかという問題に対しては、明確に定義を行うことができないと考える。
 それにもかかわらず、憲法学に関わる多くのテキストでは、「宗教」とは「○○である」などと、勝手に「宗教」という対象を定義してしまっていることがある。

 しかし、そのような形で定義を行ってしまうことは、法学を名乗る者たちが、自分たちが担当している法の領域の問題とは異なるものとして差別化し、排除しようとした何らかの意図が含まれた思考に基づいて、勝手に対象を作出しているだけであるように思われるのである。

 このような問題点を踏まえると、そもそも「法」という形式を採用して運用しようとする価値観そのものが「宗教」ではないのかという疑問が発生する。

 法学を学んでいる者にとっては、自分たちが行っている思考や作業を「法」であると思っているが、それは単なる思い込みに過ぎず、他者から見れば、それらの思考や作業はすべて「宗教」であると捉えられてしまうことも十分にあり得るはずである。(この問題は『科学』と『宗教』の対立の問題や、『科学』は『宗教』ではないのかという問題にも近い部分があるかもしれない。)

 そうなれば、「法」が「宗教」と区別された形で存在し、かつ「法」が「宗教」よりも主権(国内的最高性)を有する唯一の概念として、他の宗教などの「価値観の集合」に対して優越した形で公共空間を確定する実力(暴力装置)を備えるものとして活動できるとする正当性を示したことにはならないと考えられる。

 先ほど取り上げた「宗教は人としての正しい生き方を教えてくれるだけでなく、なぜこの世界が存在するのか、自分は何のためにそこで生きるのか、その意味を教えてくれるはずのものです。」という説明の仕方は、ある時代に力を有していた特定の「宗教」の価値観から「法」という価値観が分離していくという歴史的な経緯を、歴史学的な視点から示そうとする際の前提認識としては理解することができる。

 しかし、その説明の仕方を、純粋に法学的な観点から法理論として正確であるかを検討しようとすると、法学の視点から「宗教」というものが何であるかを勝手に定義して対象を作出し、それを「法」とは異なるものであると説明しようとするものとなってしまう。そうなると、もともとその「宗教」というものに対する定義が誤っているのではないかという疑問を拭い去ることができなくなる。

 また、このような説明に終始してしまうと、「法」を名乗っている実質的な「宗教団体」が、他の「宗教団体」を排除し、自らがより優越した立場にあることを信者に普及しようとしているに過ぎないような主張に成り下がってしまう恐れがある。

 そうなれば、「法」という秩序そのものが、単なる絶対的な価値観の優越性を争いあう「宗教団体」の抗争の一角に過ぎないものに落ちてしまいかねない危うさがある。

 他にも、哲学の「実存主義」の立場から見ると、「宗教」というものを定義しようとする試みそのものにもともと無理があり、「宗教」に意味や目的を求めることそのものが誤っているという考え方も存在する。その対象としている物事や作用が一体何であるのか、どのようなものとして受け止めるかは、個々人が自分自身の認識の中で行うものであり、完全に客観的・普遍的な意味や定義を定めることはおよそ不可能であり、それらの定義を共有しようとすることに意味はないという考え方もあり得るのである。


 そうなれば、「法」というものが「宗教」とは異なることを純粋に法学的な観点から説明する際には、法理論としての論拠を突き詰めた形で「法」というものを正当化するメカニズムを示すことによって「法」の正当性を根拠付けることが求められているのであり、先ほど取り上げたような歴史的な経緯からアプローチすることによって説明を行おうとする手法は適切でないと考えられる。

 「法」と「宗教」の違いを歴史的な経緯を辿って説明する方法は、法のメカニズムの正当性を法理論として説明したことにはなっていないはずである。

 それは「相対性理論」という理論そのものと、「相対性理論を発見した科学者のアインシュタインの人生」とを区別して考えるべきであることと同じである。

 純粋に「相対性理論」が科学的に正しいか否かだけを考察する際に、アインシュタインの人生を遡って、その理論を発見した経緯を示すことには意味がない。「相対性理論」の理論的な根拠のみを理解する際に、「アインシュタインの人生」を語ることは不要である。

 また、科学的な現象として実在する「相対性理論」という理論そのものと、科学の歴史の間にも直接的な関係はない。

 同じように、「宗教」と「法」の違いを示すことによって行われる「法」を正当化するための法学上の理論的な根拠と、歴史学的な視点から「宗教」と「法」が分離したという経緯とは明確に区別して説明を行うべきであると考える。

    【参考】第7回 自然法と呼ばれるものについて 長谷部恭男 2020年5月19日

       (長谷部の立場はここに記載がある。)



 このように、近代立憲主義を説明する際に「『宗教』とは何であるか」という定義から入る説明の仕方には数々の疑問が生じさせることになるため妥当でないと考える。そのため、当サイトでは「宗教」の定義に立ち入ることは避けている。

 それよりは、「実存主義」の認識や、「価値絶対主義」と「価値相対主義」の視点の違いから説明を行い、多様な価値観を共存させることのできる認識の仕組みを理解し、その仕組みを正当性の基盤として近代立憲主義を確立することの有益性を示していくことの方が、法学的な理論としては正確な認識に到達できるものと考えている。

 その方が、近代立憲主義の多様な価値観の公平な共存を目指そうとする仕組みに唯一性や普遍性、優越性を見出そうとする正当性の観念を示すことに繋がるように思われる。

 この説明の仕方であれば、「『宗教』とは何であるか」などという定義を行うことは不要であるし、「宗教」であるのか「宗教」ではないのか識別することのできない価値観に対しても、一つの価値観として同様に扱うことが可能である。


 宗教であるのか、宗教でないのかを識別しづらい事例。

 

【参考】孔子廟の土地使用料免除は違憲 政教分離訴訟で最高裁 2021年2月24日


 宗教の「定義」の難しさについて記述がある。

 

行政処分取消等 昭和52年7月13日 (津地鎮祭事件) (PDF) (P21)



 ただ、宗教の中には「価値相対主義」を取り入れているものも存在する。「価値相対主義」であることそのものを根拠として「宗教」と異なるものと言い切ってしまうことができるわけではない点に注意が必要である。

 そのため、結局は法学そのもの宗教的感情で見てしまう者や、法学そのものを「価値絶対主義」的な観念に基づくものとして捉えてしまっている者も含めて、「実存主義的な価値相対主義」の認識に至った者が、道徳的・倫理的な共生性の意志を持って、法秩序を運用しているところに、近代立憲主義を支える基盤があると説明することが妥当であるように思われる。


 P4で、「近代立憲主義は、そうした自然な心情や性向を抑えなければ、いわば無理をしなければ、人間らしい社会生活が成り立たないという認識を出発点としています。」との記載がある。


 確かにその通りである。しかし、それは一つの定義や一つの価値観で世界を統一しようとすることの不都合性を相当のレベルで身をもって体感し、人々の中に多様な価値観が存在しており、それらを両立させる仕組みをつくることこそが共存のために必要なものとなることを深く思い知った者にしかなかなか共感しづらい部分であると思われる。

 長谷部は「~~という認識を出発点としています。」と記載しているが、この認識の「出発点」に立てる者は、人類の中でも相当数が限られているように思われる。

 そのため、「~~という認識を出発点としています。」という文脈の意味を、正しくその「出発点」に立った形で理解し、他者に対して説明することのできる者は多くないように思われる。

 すると、その意味を十分に読み解くことができない者は、あたかも「~~という認識を出発点としています。」という文面が、あたかも近代立憲主義の「定義」であるかのように捉えてしまい、それを繰り返すに過ぎない学習を続けることになってしまいかねないように思われる。

 つまり、「近代立憲主義は、~~という認識を出発点とするものである。」というように、それを正しい定義として受け止め、絶対的な価値観であるかのように価値絶対主義的な発想によって考えてしまう者に対して、正確な理解をなかなか導くことができなくなってしまうように思われるのである。


 そのため、当サイトでは、「ローレンス・コールバーグ」の提唱した「道徳性発達理論」を取り入れ、「『法』というものをそれぞれの個人がどのようなものとして捉えているか」という認識の段階構造で説明することが妥当であると考えている。

 その説明を適切に行うことなく、このような説明で済ませてしまうと、結局、各々の個人がこの一文の意味を正確に理解できないままに、社会生活を送る中に起きる実感や共感に根差した理解を会得するのではなく、単なる機械的な言語操作として、誰かの示した定義を繰り返すに過ぎない形で説明を試みる者を生み出すだけになってしまうことが考えられる。
 この点の、憲法の教科書を読んでも、その意味を会得することができない者の抱く、「空回り」してしまう学習体験を防ぐことができるようにならないものだろうか。

 この点の問題を、筆者は常々感じているところである。



 長谷部はP3で「であれば、どのような価値観・世界観を奉ずる人も、人間らしく、公平に扱われる社会をこの世に構築すべきではないか。それが近代立憲主義です。」と説明している。

 しかし、先ほど挙げた「宗教の定義」の事例と同様の問題として、近代立憲主義や人権概念を説明する際に「人間らしく」という言葉を持ち出したところで、そもそも「『人間らしさ』とは何か」という疑問や定義不能な問題が生じることとなる。

 例えば、「遊びふけるのは人間らしい」「平和を望むことは人間らしい」「嘘をつくのは人間らしい」「喧嘩するのは人間らしい」「差別するのは人間らしい」「戦争するのは人間らしい」など、「人間らしさ」をどのように捉えているのかは人によって様々である。

 そのため、このような「人間らしく」という説明は多様な価値観そのものを包括する近代立憲主義や人権概念そのものを説明する際には適切ではないように思われる。

 筆者には長谷部が伝えたいことの意味は分かるのであるが、結局、「『人間らしさ』とはこういうものだ」という話手の前提としている何らかの価値観や信念に基づいて説明を行ってしまうことによって、それ自体が多様な価値観の一つに過ぎないものを持ち出して近代立憲主義を説明しようとしてしまうこととなっている点で不備があるように思われるのである。

 つまり、「人間らしい状態とは何ですか」と聞かれれば「人権が保障された状態です」と答え、「人権が保障された状態とは何ですか」と聞かれれば「人間らしい状態です」と答えても、説明になっていないと考える。

 それよりは、当サイトのように、「考えつくところ、近代立憲主義とは何らかの有益性を感じて法という合意事を人々が採用し続けようとする意識を基盤として成り立っており、その法の正当性を根拠付けている中核部分は多様な価値観を共存させるための基盤をつくることを意図して人権概念を掲げようとする者の意志によって支えられる」というようなスタンスで説明した方が、もともと定義不能なものを軸として近代立憲主義が成り立っていることを伝えることができるために妥当であるように思われる。

 長谷部もそれを理解していることは周辺の記述から読み取れるのであるが、この点を読者に上手く伝えられないものだろうか。

 

 長谷部の「人間らしい」とは、下記のことかもしれない。

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 ハートは、人の世の中には、永遠に変わらないいくつかの特質があると言う。人間らしい暮らしを送るには集住が必要であること、人間が肉体的に傷つきやすい存在であること、身体能力や知的能力において人々の間に大きな差異はないこと、人の利他心には限りがあること、人が生きていく上で必要な資源は稀少であること、社会公共の利益の実現に向けた人々の理解や意思にも限界があること等である*8。これらの特質のため、人々が生きのびていくための社会のルールとして最小限必要なものの範囲がおのずと定まってくる。

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第14回 価値多元論の行方 2020年11月25日 (下線は筆者)


 長谷部はもともと説明不能だと考えているのかもしれない。

第15回 神の存在の証明と措定 2020年12月22日



 もう一つ、「であれば、どのような価値観・世界観を奉ずる人も、人間らしく、公平に扱われる社会をこの世に構築すべきではないか。それが近代立憲主義です。」との説明であるが、確かにその通りである。

 しかし、やや省略した表現となっているため、説明を補足する必要があると感じられる。

 まず、「近代立憲主義」に基づく憲法は、「権利章典」と「統治機構」の二つの構成要素を持っている。そして「どのような価値観・世界観を奉ずる人も、人間らしく、公平に扱われる社会をこの世に構築すべき」との部分は、その「権利章典」の中核部分(根本規範と呼ぶこともある)にある人権概念を構築しようとする意志の本質部分にある考え方について説明したものである。

 しかし、この説明は、憲法に含まれた二つの構成要素の中の「統治機構」の部分とは直接的な関係性を見出しづらい。

 そのため、「どのような価値観・世界観を奉ずる人も、人間らしく、公平に扱われる社会をこの世に構築すべき」との説明から一挙に「それが近代立憲主義です。」という形へとジャンプしてしまうと、学習者は「近代立憲主義」という用語を聞いた際に憲法の構成要素の「統治機構」の部分を思い浮かべている場合があるため、この説明の仕方の因果関係をスムーズに理解することが難しいのではないかと考えられる。

 学習者の理解を正しく導くためには、憲法の構成要素の説明と共に詳細に描き出していく必要があるのではないかと思われる。

 例えば、「どのような価値観・世界観を奉ずる人も、人間らしく、公平に扱われる社会をこの世に構築すべき」という観点から「価値相対主義」に基づいた形で人権という概念が掲げられ、その人権概念を基にして「権利章典」を定め、その「権利章典」の内容を保障するために「統治機構」を設置するという形をとることによって、「近代立憲主義」に基づく憲法典が制定される、という流れをしっかりと説明すると良いのではないかと思われる。

 参考に、下記の資料を挙げる。

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近代立憲主義

国民の権利・自由の保障(多様な価値観の共存)のため〔目的〕に、権力の分立によって権力を制限する〔手段〕という考え方

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「立憲主義、憲法改正の限界、違憲立法審査の在り方」に関する資料  衆議院憲法審査会事務局 平成28年11月 PDF (P1)

 

 当サイト筆者には長谷部の先ほどの説明で十分に共感することができるのであるが、この点の前提認識を十分に共有できていない段階にある人に対してもより理解しやすい文章にしていく必要があると感じられる。


   【この説明はやや雑ではないか】

「どのような価値観・世界観を奉ずる人も、人間らしく、公平に扱われる社会をこの世に構築すべき」
  ↓  ↓

「近代立憲主義」


   【説明を追加してみる】

「どのような価値観・世界観を奉ずる人も、人間らしく、公平に扱われる社会をこの世に構築すべき」
  ↓  ↓

「価値相対主義」に基づく人権概念を構築(掲げる)

  ↓  ↓

人権概念を基にして「権利章典」を定める

  ↓  ↓

「権利章典」を実現するための「統治機構」を定める

  ↓  ↓

その仕組みが「近代立憲主義」(の憲法)

 

 
 ただ、長谷部は国政の目的を「人権保障」と論じるのではなく、「調整問題の解決」と論じていることが多い。そうなると、上記のような「人権保障」を目的として「統治機構」を設置する考え方を直接的に取り入れるには抵抗感があるのかもしれない。


 関連論点で、憲法学者「宍戸常寿」の説明も参考にする。


【動画】第7回憲法調査会「統治機構改革と憲法論議」 2020/11/16 (4:28)

【動画】宍戸常寿「憲法の運用と「この国のかたち」」(2013年度学術俯瞰講義「この国のかたち−日本の自己イメージ」第10回) 2020/04/26



 当サイト筆者の誤解もある思う。しかし、憲法学の世界をより良くしていきたいとの思いから、疑問や意見はどんどん提示していくことにする。


 下記の記事は、上に記したことと関連分野もあるようである。しかし、当サイト筆者のレベルでは一度読んだだけでは難解で付いていくことができない。

    【参考】第14回 価値多元論の行方 2020年11月25日

 
 下記の記事も、上に記したことと関連分野があるようである。しかし、批判されているのか肯定されているのかも分からないほど難解である。


    【参考】第16回 レオ・シュトラウスの歴史主義批判 2021年1月26日



<国家法人説について>


 長谷部は「国家法人説」について、下記のように述べている。

(P7~P8)

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 以上で説明したことを法律学の伝統的な概念を使って言い換えると、国家は法人だということになります。自動車会社や銀行のような株式会社と同様、国家は多くの人々が結集してつくられた法人で、突き詰めれば私たちの頭の中にしか存在しえない拵え事です。株式会社が契約などの行為をするためには代表取締役をはじめとする機関の手を借りる必要があるように、国家が行動するためには、議会や内閣、裁判所などの国家機関の手を借りる必要があります。国家は法人です。株式会社に定款があって株主総会や取締役会などの機関の権限を定めているように、国家には憲法があって議会・内閣・裁判所などの国家機関の権限を定めています。

 国家を法人として捉える見方は、ときに守旧的な政治体制を擁護する言説であるとか、民主政治の発展を阻む狙いがあるなどと言われることがありますが、この見方なくして国家をめる現象を法律学の観点から筋の通った形で説明することは不可能です。……(略)……

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 上記の記載であるが、詳しく明らかにする必要がある。

 まず、国家を法人と見なす場合には、下記の考え方があり得る。


① 国家の統治機関のみを対象として「法人」と考える。

 例えば、企業(私人)が役所(国家の統治機関)に対してパソコン100台を販売する際には、その役所(統治機関)は売買契約の主体となる。この意味で、国家の統治機関(公務員の集団)は「法人」である。

(ここでいう『法人』とは『自然人』ではないという意味。)

 

② 国家の統治機関を中心として国民を含めた形で「法人」と考える。

 私企業に従業員がいるように、すべての国民は国家(国家機関)に仕える従業員の一部であると考える。(私企業の従業員は労働契約〔雇用契約〕によるものであるため、退職することが可能である。しかし、国家の場合は退職することはできないものとなる。)


 ここで長谷部が表現したいものは①の立場と考えられる。そして、「守旧的な政治体制を擁護する言説」として批判したいのは②の立場である。

 しかし、長谷部は私企業である株式会社の株主総会や取締役会などを取り上げて対応関係を説明しようとするが、この説明では私企業の「従業員」の立場を国家の「行政機関の職員」と対応する形で照らし合わせて考えることまでは可能であるとしても、私企業の「従業員」の立場の中に「国民」を含める形で照らし合わせて考えることはできないことに注意する必要がある。私企業の「従業員」の立場の中に「国民」を含めて照らし合わせて考える形を採ると、既に長谷部が批判しようとしている②の立場となってしまうのである。

 長谷部の説明では、この部分に混同が見られるように思われる。明確な対応関係を示したものではないようである。(国民を株主〔会社法に言う社員〕と捉えるのであれば、辻褄が合うかもしれない。)

 そのため、次の版を出版する際には、もう少し整理した方が良いのではないかと思われる。


【参考】憲法撮要 美濃部達吉 昭和21 (国家ノ法律上ノ人格及び其ノ特性)

 

 下記のPDFでも、少しだけ「法人」の概念が述べられている。

 

法律学の始発駅 PDF



(追記) この問題についても触れている。

 

第29回 憲法学は科学か 2022年6月14日


 長谷部の新しい解説を読んで、「法人」の意味を混同しやすい点を図にしてみた。

 



 

【動画】石川健治「天皇と主権 信仰と規範のあいだ」 2017/04/29



 その他、長谷部の人権制約原理に対する疑問については、「人権と同じような言葉」のページに記載した。