自民党改憲草案については、様々な問題が指摘されています。それについては、他のサイトで多くの批判、法的分析がありますので、そちらを見ていただきたいと思います。


    【参考】自民党憲法草案の条文解説

    【参考】自民党憲法改正案の問題点


 ここでは、「日本青年会議所」の改憲草案について、分かる範囲で法的分析を行い、問題点を明らかにできればと思います。



日本青年会議所 改憲草案 法的分析等


JC版 日本国憲法草案 平成二十四年十月十二日(決定)

日本国憲法草案 現行憲法対照 公益社団法人日本青年会議所 平成二十四年十月十二日 (決定)
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 この草案の特徴として、「軍隊の保持」、「非常事態宣言の設置」、「国会を国民議院と評議院に改組」などを挙げることができる。


 現行憲法とまったく同じ規定もあるが、現行憲法から削除されている規定もある。そのため、削除されているものには特に注意を払いながら、忘れずに読み解いていく必要がある。 

日本青年会議所 改憲草案  法的分析等
 前文

 この草案作成者の精神的な拠り所としているところが国家ブランドへの陶酔というようなところにあるのではないだろうか。非常に華美な内容であり、質素さが足りない気がする。質素さは日本の良さとされるものではないかと思う。すべてを失ったときに何が残るのか。そこに、そぎ落とされた物事の本質が残ると思う。そういった視点で考えてみると、これらの文言からはあまりに付加的な要素が多い印象を受ける。

 「美しい国土」とあるが、他国は他国の風景で美しいとは感じていないのだろうか。排他的な心理を感じざるを得ない。「豊かな自然」というのは、日本の自然災害の多さを見ないふりしているような視点も感じてしまう。表面的なプロモーションに終始しており、人権侵害という不幸を是正するために作られるべく法の見据える世の中の残酷な真実を直視し、それをそのまま受け止めようとしていく姿勢のなさには不安を覚える。

 また、歴史も、新たな資料が発見されたり、学説の変遷によって形を変えるものである。それらを絶対的な日本の精神として信じ切るという発想は、もしそれらの正当性が損なわれた際に拠り所を失うものである。大切にしていたダイヤモンドが偽物だと分かった時のがっかりした気持ちをどこかで味わう時が来るかもしれない。何か歴史的な証拠に頼り、自分自身を着飾ろうとするような発想には危うさを感じるものがある。 


 五箇条の御誓文や大日本帝国憲法は、日本国憲法の立憲主義とは性質が異なるものである。ここにこだわるのだろうか。


 法とは、人権救済機能の精神に裏付けられているところにその正当性の本質的な価値が生み出されている。ある意味においては、レスキュー隊の哲学のような、厳しい状況下を何としても救い上げるような姿勢が求められるのである。しかし、この前文の文言は、海外の旅行者に対して提供する日本旅行のパンフレットの前文のようであり、その精神として人権救済の意志が十分でない。法の精神がつくり出す法学の意味での「国家」と、旅行者に紹介する日本の土地でつくられた歴史や伝統、文化などの「国家」を混同してはいないだろうか。法学の意味での国家とは、法の精神によってつくり出された統治機構のことである。これは人権保障を実現するための組織である。日本の土地でつくられた歴史や伝統、文化の意味での国家とは、日本に住む人がつくり上げた生活様式の傾向のことである。その両者は全く別のものである。これを混同してしまっているために、このような前文となってしまうのだと思われる。
 よく「憲法は国のかたちを示すもの」などと言われることがある。しかし、「憲法は、国の『法的な』かたちを示すもの」であり、「国の生活様式や文化圏や経済環境をつくり出すもの」というわけではない。この点を切り分けて考えていないために、旅行者向けのパンフレットのような紹介文となったと思われる。

 基礎法学を学ぶことで、このような混同は防げるものと思われる。

 往々にして、権威を煽り立てるような文言では、その本質を見失う弊害がある。現行憲法の前文では、そのことをよく言い表している文言がある。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し」の文言である。権威は国民に由来しているのである。国に託された権威とは、「豊かな自然」や「美しい国土」、「万世一系の天皇」、「類まれな誇りある国家」、「和を貴び、他者を慮り、公の義を重んじ、礼節を兼ね備え、多様な思想や文化を認め、独自の伝統文化に昇華させ、豊かな社会を築き上げてきた」、「悠々の歴史と誇りある伝統」などというものを拠り所とはしていないのである。加えて表現すると、そもそも国政を示す法学の領域に、このような内容は相いれない。歴史や伝統、文化などというものは、法学の中枢である憲法の領域には関係がないのである。

 法的な評価ではありませんが、妙な自尊心を全面に押し出すと、外国から見ると「ちょっと痛いというか…」というような目で見られてしまうところもあるのではないかと思われます。もう少し程度を抑えた方が諸外国との付き合いの中においては好感を持たれるのではないかと思います。これはスタンスの問題ですので、人によって違うのかもしれませんが、あまりブランド物に頼るのではなく、法の精神の根本を見抜く目を持った方がいいような気もします。どうでしょうか。諸外国に対して自国の主張を訴えるときにブランドや権威で押し切ろうとするのではなく、法のメカニズムや人類的基盤に共通する政治道徳の法則の実質を見抜こうとするフェアな精神みたいなものを軸に置いた方がスポーツマンシップがあると思いませんでしょうか。

参議院で「憲法とは何か」を語る 2015年3月16日 

第一章 天皇  この章は、現行憲法8条〔財産授受の制限〕の規定が削除されていることに注意しておきたい。
 第一条 

 この草案は、現行憲法11条・97条の「基本的人権は(略)侵すことのできない永久の権利」である旨が記載された両規定を削除している。また、9条の「永久にこれを放棄する。」の旨も削除している。そのため、この規定で「この地位は将来にわたって不変のものである」と宣言したところで、その実効性が疑わしい。

 (皇位の継承)
第二条 
 現行憲法2条にあたる規定である。
 現行憲法2条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」
 戦前は大日本帝国憲法と皇室典範の二元的な形式であったが、戦後、現行憲法のこの規定で「国会の議決した皇室典範」という文言が入っていることから、皇室典範も法律と同様に憲法よりも下位に位置づけられる法典となった。しかし、この草案では「国会の議決した」という文言がないことから、戦前の二元的な法形式へと回帰するものであるとも考えられる。
 (天皇の権能)
第三条 
 2項は現行憲法4条2項の規定を持ってきたものであるが、「法律の定めるところにより」が「皇室典範定めるところにより」に変更されている。皇室典範は現行憲法2条にて「議会の議決した皇室典範」とされていることから、法律と同等の規定であるとされていた。しかし、この草案では「議会の議決した」という文言が削除されていることから、皇室典範は法律よりも上位の規定であると定義される可能性を含んでいる。この点、天皇の国事行為に予算が多く使われるなどした場合、国民の税金を使用していることになるが、議会が皇室典範や皇室経済法などの関連規定を改正することができず、無理な出費を強いられる恐れもあるかもしれない。議会の判断が反映されない可能性があるのである。

 3項では、内閣は現行憲法の「助言と承認をする権限」を有していたが、「助言する権限」しか与えられていないため、その助言を振り切って行った天皇や関係する宮内庁等の行為をそのまま責任を負う形となる。この行為に際限がない点は、三権分立の統治原理を超越する第四機関が配置されたと見ることができるだろう。
 (摂政)
第四条 
 現行憲法では「より摂政を」となっているが、「より、摂政を」となっている。これは、現行憲法の日本語の方が皇室典範の定めに摂政が存在するという意味合いを強く関連付けているのでいいのではないだろうか。「、」は必要ないと思われる。
 現行憲法のこの規定に該当する5条には後段があり、「この場合には、前条第1項の規定を準用する。」としている。よって、現行憲法4条1項の「天皇は、この憲法に定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」の規定が準用されることになっている。しかし、この草案には、現行憲法4条1項が削除されている。よって、天皇は「国政(立法・司法・行政のすべてを含む国の政治のこと)」の権限を持ちえる可能性がある。三権に対して何らかの働きかけをする可能性もあり、天皇も投票権を持ちえる可能性も考えられる。
 (天皇の任命権)
第五条 

 1項で内閣総理大臣の指名は、現行憲法の国会の指名から「国民議院の指名」に変更されている。これによって、この憲法のいう評議院の承認を得る必要はなくなった。現行憲法は両議院の議決を必要としている(現行憲法67条)。

 2項は現行憲法6条2項と同じである。 

 (天皇の国事行為)
第六条 
  現行憲法の「助言と承認」が、「助言」だけで良いこととなった。つまり、承認がなくても天皇は国事行為をすることができることから、内閣から助言を受けない場合や助言を受けてもその助言を振り切って国事行為をすることができる可能性を開くものである。つまり、天皇の独断による国会の召集や国民議院の解散、選挙の施行、恩赦の発令、栄典の授与、外交文書の認証、諸外国元首との接遇などを行えることとなる。天皇の意思が国家の意思となり、国民の意思によって天皇の国事行為がなされるという基盤が失われていると考えられる。また、現行憲法1条の「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」の規定も削除されていることから、国民の総意に沿わない行動も許されることとなり得ると読むのが自然ではないだろうか。
 第二章 国民の権利及び義務

 現行憲法の刑事訴訟関連規定群が大幅にカットされている。人権保障機能は大きく低下したと読むことが妥当だろう。刑事訴訟法に規定することで対応すると考えているのかもしれないが、人権保障機能を重視している憲法と法律の役割の違いを比較すると、どうしても法律規定は国会の多数派意志によって人権保障機能を安易に損なわせる可能性が高い。刑事訴訟に関しても国会多数派の意志が重視されることとなり、多数派の制裁的意味合いの強い刑事訴訟法が立法される可能性が高い。分かりやすく表現すれば、「疑わしきは罰せず。」の慎重な姿勢から、「疑わしく、多数派が望めば、被告人の人権も十分には保障されない。」という方向へと傾くことが考えられる。

 また、現行憲法17条〔奴隷的拘束及び苦役の禁止〕も削除されている。ことから、人権保障を強く実現しようとする規定は損なわれていると読むことができる。

 現行憲法にもいくつか「国民への要求」は存在するが、この草案ではそれが明らかに増えている。その点に注目しておきたい。

(国民の要件)
第七条 
 現行憲法10条と同じである。
 (国民の基本的な権利)
第八条 

 現行憲法の「公共の福祉」が「公の利益及び秩序」に変更されている点に注目しておきたい。


 3項で、この草案105条の非常事態宣言が発令された際には、国民の基本的な権利及びその他の権利などの人権が尊重されないことが明確に示された。非常事態宣言の発令と同時に、国民の人権は完全に奪われる可能性を有している。歯止めなき権限であり、事後的な裁判所の審査で是正することもできず、その措置で起きた損害にも原状回復の義務が課されていない非常に無責任なものである。憲法で人権を守る考え方を飛び越える宣言を打ち出すとはそういうこととなる。制限できる人権の項目を具体的に列挙されていないというのはあまりにずさんな内容であると言わざるを得ないだろう。また、そもそも人権とは侵すことのできない永久の権利として存在する自然権的な性質を持つものであり、それを憲法で無制限に制限できることを規定するというのは、そもそも憲法秩序に沿わない考え方であり、改正の限界を超えるものである。人権に関して矛盾した内容を持つものであり、そもそも非常事態宣言の規定自体が無効なものとなりうる。まず、非常時であろうとなかろうと、人権は侵すことのできない永久の権利として自然権的な性質をもって憲法秩序が構成されていることを再確認する必要があると思われる。その上で、制限できる権利はどの部分かを明確に示し、公共の福祉などを理由に非常事態宣言の規定との調和を目指すべきであり、際限のないものは憲法秩序を破壊するために改正の限界を越えるものであると考える。

(共同の責務)
第九条 
 新設の国民に対する義務規定である。

 「利他の精神」という文言は、法的な用語ではない。人権保障のための法秩序の観念と、共同体運営などで心得として普及している観念とを混同しない方がいいだろう。この点、法哲学的な分析を欠いた用語が混じり込んだものと思われる。
 (国民主権)
第十条 
 日本国民に主権が存することを現行憲法では「前文」と「天皇」の章にある1条に「主権の存する日本国民の」という文言で記載されている。この点、この条文によって「国民の権利及び義務」の章に配置したと思われる。この点、根拠となる条文が「天皇」について記載された章の条文に頼るよりは、アクセシビリティは高まり、分かりやすくなったと思われる。「国家の運営に参画する権利」という表現が法的に妥当かどうかは検討の余地がありそうである。
(公務員の選定及び罷免に関する権利)
第十一条 
 
(法の下の平等)
第十二条 
 現行憲法14条の規定である。
 現行憲法の「すべて国民は」の文言が、「国民は」に変わっている。

 現行憲法14条2項「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」が削除されている。
 現行憲法14条3項後段「栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」が削除されている。
 この点は、現在廃止された制度であるため、「華族その他の貴族の制度」の復活に対する抑止力は低下したと読むこともできるが、なくても良いのかもしれない。筆者も一応もう少し勉強します。
(請願権)
第十三条 
 
(国家賠償請求権)
第十四条 

 現行憲法17条の規定である。現行憲法の「不法行為により、損害を受けたとき」の文言が、「不法行為により損害を受けたとき」という風に「、」がなくなっている。

 また、現行憲法では「国又は公共団体」となっているが「国又は地方公共団体」に変わっている。注意したいのは、公共団体地方公共団体とは異なることである。この点、地方公共団体に賠償は求めることができるが、地方公共団体以外の公共団体に対して賠償を求めることができなくなったということである。人権保障の質は下がったと見ることができる。

 公共団体には、例えば「公共組合(土地区画整理組合、土地改良区、商工会、商工会議所、健康保険組合、農業共済団体など)」、「行政法人〔特殊法人〕(公団、公庫、金庫、基金、事業団、地方公社、民営化前の三公社(国鉄・専売公社・電電公社))」などがある。

(思想及び良心の自由)
第十五条 
 現行憲法19条と同じである。
(信教の自由)
第十六条 
 
(表現の自由)
第十七条 
 現行憲法21条と同じである。
(私事に干渉されない権利、人格権及び名誉権)
第十八条 
 「自己の私事についてみだりに干渉されることのない権利」とは、一般に言うプライバシー権のことであると思われる。ただ、「何人も、(略)その人格及び名誉を尊重される権利を有する」とあるが、政治家など公人に対する批判的言動がこの規定に抵触する恐れがあり、表現の自由を損なう恐れがある。確かに、刑法でも侮辱罪や名誉棄損罪などが存在するが、保護法益を限定して適用される考え方である。憲法上の規定とすることは、やや問題性を感じるが、詳しく検討していく必要があるだろう。
(居住、移転、外国への移住及び国籍離脱の自由)
第十九条 

 現行憲法22条が基となっている。
 1項で、現行憲法22条1項の「公共の福祉に反しない限り、」の文言が削除されている。

 現行憲法22条1項の「居住、移転及び職業選択の自由」が、「居住及び移転の自由」となっている。「職業選択の自由」については、この草案の20条に移されている。

 2項で、現行憲法22条2項の「何人も」が「国民は」となっている。また、「離脱する自由を侵されない。」が「離脱する自由を有する。」に変わっている。

(職業選択及び営業の自由)
第二十条 
 現行憲法22条1項の「職業選択の自由」の部分が分離して独立の規定としたものと思われる。現行憲法にはない「営業の自由」が保障されている。しかし、現行憲法22条1項に含まれていた「公共の福祉に反しない限り、」という文言が削除されていることから、「職業選択の自由」や「営業の自由」に対して、公共の福祉を理由とする介入が難しくなったように思われる。例えば、麻薬取引や人身売買など、公序良俗に反する職業や営業活動について、規制を正当化する根拠が損なわれてしまったように見えるのである。確かに、この草案の8条3項の「公の秩序の維持、及び公共の利益」の規定で制限を受けることになるという論理は成り立つと考えられる。しかし、現行憲法が敢えて「居住移転の自由」や「職業選択の自由」に対して「公共の福祉に反しない限り」という文言を入れたのかを考えると、これらに関しては他の人権規定よりも比較的政策的な規制を許しやすい性質のものであることを示したものであると考えられる。この点の調整的な文言が削除されいることに対する人権保障実現への厳格さの変動を細かく検討していく必要がある。
(学問の自由)
第二十一条 
 現行憲法23条と同じである。
(婚姻及び家族に関する原則)
第二十二条 
 1項にて、「家族の維持」「関係の強化」を義務付けていることから、家族での関係が強化されるような活動が求められるものとなる。これは、関係が悪化したり、絶縁するほど関係が悪化している家族関係に憲法が意図を持って家族関係の維持や関係の強化のために介入しようとするものであると思われる。法律によって、離婚が許されない社会となりうる恐れも考えられる。確かに世界には、離婚が認められていない国も存在しているようである。しかし、日本もそうなってしまってもいいのだろうか。精神疾患に陥っている家族などを持つ家庭もあると思うが、「家族の維持」や「関係の強化」を義務付けられるというのは、あまり良い結果を生まないと思われる。国民の精神的な負担感は大きくなってしまうと思われる。この点も、心理学的な教養があれば、このような文言は危険であると気づけるはずである。草案作成者には、心理学(臨床心理学を含む)にも視野を広げて勉強してもらいたい。
 (生存権)
第二十三条 
 「自らの力で生活できない場合」などという文言は、あまりに日常用語であり、法的に明確な境界線を持つ用語としての機能を感じることができない。草案作成者の法学的な理解のバックグラウンドが浅いように感じられる点である。違和感を感じさせるを得ない。
 (環境権)
第二十四条 
 新設の規定である。

 「良好な環境」とは、文化的環境、社会環境、自然環境など、いくつかのものが考えられる。しかし、この規定ではどのような環境を意味しているのか特定されていない。「良好な環境を享受する権利」については、人権保障にとっては良好な規定であるため、どの環境を意味するのか条文中において特定し明らかにする必要はないのかもしれない。しかし、解釈や学説、判例の考え方などに、幅広い考察を求めるものとなる。この条文によって、「教育権」などの分野と同じように、新たな「環境権」「環境権とは何か」というような大きな学問分野が誕生すると思われる。この条文から導かれる莫大な情報の広がりを想定しておきたい。
 ただ、「その保全に努める義務を負う」というように、義務規定を設けた点は国民の自由な意思を抑止する効果がある。例えば、「まちの景観という良好な環境を保つため、洗濯物は庭やベランダに干してはいけない」などの法律や解釈が導かれると、国民の自由は奪われ、その保全に努める義務を負うこととなる。国民に義務を負わせるというのは非常に強力な規定であるため、考察の余地がある。
 (教育を受ける権利及び義務)
第二十五条 

 2項にて、「家庭教育を施す義務」という新たな義務が追加されている。「家庭教育に関する法律」などもこの規定によって生まれる可能性が考えられる。家庭では、子供が休んだり自由に安心して過ごせるように保護することであるなどの考え方よりも、子供を教育するという役割を強く期待されることになる。子供は家でも学校でも教育を強要され、心休まる時間が持てるのか不安である。スパルタである。

 国民には既に勤労の義務を課しているが、勤労に加えて子供に対する家庭教育の義務を負うことになると非常に大変である。これは、外部委託できない性質のものとなる。

(社会貢献の責務)
第二十六条 

 国民に対する新たな義務規定が設けられた。

 教育の成果を生かさないで生きる自由は奪われたと読むことができる。これが厳格適用された場合、「商学部出身者は商人にしかなってはいけない。理系は理系の職種にしか付いてはいけない。その成果を生かした社会貢献に努めなければならない。」との解釈が導かれてしまい、選択の自由も奪われる可能性が考えられる。

(文化の尊重)
第二十七条 

 国民に対する新たな義務規定が設けられた。

 我が国の歴史、伝統及び文化を「尊重しない自由」や「子孫に継承しない自由」を奪われたと読むことができる。
 我が国の歴史、伝統及び文化として「体罰」を行ってきたと解釈する勢力が現れた際、それを尊重しない自由はなく、自分の代で終わりにさせる権利も存在しなくなる。残すべき伝統や文化と、そうでないものを自らが選ぶ権利がないのである。どんな歴史、伝統及び文化であっても尊重しなければならないことから、批判的な発言も許されなくなる。思想良心の自由や表現の自由もかなりの面で奪われていると読むことができるだろう。合理的な考えを排除し、「伝統だから。」との言葉でねじ伏せられる危険性を持っている。皆さんの学校や職場、地域コミュニティーなどにも、そういう人はいなかっただろうか。少し考えてみてほしい。理由を説明できない問題を人に押し付ける際に有効な表現なのである。権力者のつくり出した歴史や伝統に従わざるを得なくなり、反抗する者を抑圧する理由になり得るのである。

 このような規定を設けると、「歴史とは何か」「伝統とは何か」「文化とは何か」が常に社会の関心ごととして重要な要素を占めるようになり、「正当な歴史はこれだ」とか、「正当な伝統、文化はこれだ。その文化は間違っている。」などの対立を生む原因となる。なぜならば、この規定によってその価値観を尊重し、従わざるを得なくなることから、その正当性や確からしさに関心を向けるしかその権威による弊害を制御できなくなるからである。

 多様な考え方を排除し、その唯一の正当性を争い合う社会的な対立を加速させる危険性を有している。それは、望むべき社会像だろうか。

 歴史、伝統、文化などは、そこに価値を感じ、守り抜こうと考える人が自然に集い、その意志の継続性が長らく損なわれなかったことに大きな価値を認められる説得力を生み出すものであると考える。それを、人々に尊重させるように強制し、継承させる責務を負わせてしまったならば、誰もが嫌々次世代へと押し付ける負の連鎖を生む可能性がある。これは悪い伝統といえるだろう。

 例えば、サークルの先輩から「『一気飲み』は我が大学のサークルの歴史であり、伝統であり、文化である。この流れを次世代に受け継いでほしい。」と、押し付けられたとしたら、どうだろうか。尊重義務と継承義務というのは、あまりに無責任な規定であると思わないだろうか。取捨選択の余地がないのである。本当に良いと人々に認められたものは自然に次の世代の人が受け継ぐはずである。悪いものは淘汰されるべきである。そんな中に残ったものこそが、価値ある歴史や伝統、文化ではないだろうか。
 やや法的分析とは離れてしまったかもしれないが、歴史や伝統、文化などを法学の中に組み込むことには人権保障の観点から問題性が高い。このような事柄は、学問分野の切り分けをわきまえることが大切となるだろうと思われる。

(勤労の権利及び義務)
第二十八条 
 現行憲法27条とほぼ同じ規定である。「すべて国民は」が、「国民は」に変わったぐらいである。実質的な意味は変わらないと思われる。
(労使の協調)
第二十九条 

 2項の「労使」とは、「労働者と使用者」のことであると思われる。ここで略称を使うべきなのか違和感を覚えるところである。法律用語としての厳格さを無視していないだろうか。言葉の厳密さに配慮が行き渡っていないのは、解釈など様々な問題を引き起こす可能性を残すものとなり得る。

 2項は、「労使は互いに協調し、社会への貢献並びに勤労者の福利を増進しなければならない。」としているが、「道徳」や「人生の心得」などを法の領域に組み込もうとしたものであると思われる。これは、人権保障とは直接的に関係がないものであり、憲法に書き込むべき性質のものではないと考える。このような文言を入れるのであれば、様々な哲学者の人生の心得も書き込んだ方がいいのではないかという意見も当然に出てくるだろう。法と心得、法と道徳、法と倫理、法と哲学、法と心理、法と宗教などを混同してはいないだろうか。この辺の学問分野の切り分けが十分になされていないと、このような文言が混じり込んでしまうのであると思われる。

 この草案を作成した者にとっての「法」というものへの認識は、そのようなものなのだと思われる。しかし、このような法認識を全国民に適用した場合、下位に置かれる法律や人権救済の観点で様々な不都合が生み出されてしまうものとなってしまう。法認識に対する精度の高い理解を会得する必要があると思われる。

(財産権)
第三十条 

  1項で、「有体又は無体を問わず」とのことである。有体とは、有体物(物理的空間を占める形あるもの)を意味すると思われる。無体とは、無体財産(知的財産権・企業や個人に関する情報)や無体物(音響・香気・電気・熱・光)などを意味すると思われる。


 3項で、「いかなる場合においても、国益を損なうような財産権の行使をしてはならない。」とある。この「国益を損なうような」に当たるものは、「公の利益及び秩序(この草案8条)」「国の安全、公の秩序の維持、及び公共の利益(略)この憲法第九章に定める非常事態の場合(この草案8条)」「国及び共同体の利害並びに世代を超えた利害等を、利他の精神をもって一体となり、解決する共同の責務(この草案の9条)」に該当するものであると考えられる。非常に国家の強い規定である。「いかなる場合も」という強い規定が存在することから、国民が国家と所有権を争う民事裁判を起こすことも不可能となるような恐れがある。その理由は、国益を損なうからである。この強い規定は、国に対して国民が財産権を主張する権利を奪うものであるため、国民は国の政策判断によっていかようにも財産を没収されることとなる。住居を奪われるような事態も当然のように行われると予想される。拡大解釈の余地が大いにある規定であると思われる。

(領土等を保全する権利及び義務)
第三十一条 
  国民一人一人が国家の自衛権を有することを明記したものである。また、国民は領域を保全する責務を負うことから、徴兵制を実施する根拠となる規定であると思われる。「権利及び責務を負い、国は、その義務を負う。」の文言であるが、やや内容が分かりづらい言葉遣いである。「責務」と「義務」の違いが明確でない。「その義務」の「その」がかかる言葉の範囲は、現行憲法の「これを」の言い回しよりも明らかでない点があると思われる。条文を分けるなどし、アクセシビリティを高めて規範としての明確性を改善した方がいいのではないかと思われる。
(納税の義務)
第三十二条 
  現行憲法30条と同じ規定である。
(法定手続の保障)
第三十三条 
 現行憲法31条と同じである。
(裁判を受ける権利)
第三十四条 
 現行憲法32条の「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」の規定を改変したものである。この草案では、この草案の82条で「最高裁判所」「下級裁判所」に加えて、「憲法裁判所」「軍事裁判所」を設けたことから、「憲法の定める裁判所において」という文言にしたと思われる。ただ、現行憲法76条2項前段の「特別裁判所は、これを設置することができない。」の規定を削除したことから、法律や条例などによって設置された特別裁判所によって裁判を受ける可能性を否定されていないことに注目しておきたい。
 この規定の「原則として公開により」という文言は、この草案の90条と関連するものである。人権保障の質は下がったと見ることができる。
(逮捕の要件)
第三十五条 
 現行憲法33条と同じである。
(自白強要の禁止、自白の証拠能力の限界)
第三十六条 
 現行憲法38条2項の条文をこの草案では一つの条文としたと思われる。現行憲法には含まれていないが、「裁判所は、」という文言を入れた点が気になるところである。では、「警察組織」「検察組織」については証拠として提示することができるのであろうか。この点、「裁判所」のみに限定して適用されることとしたならば、警察組織や検察組織などに対して捜査や取り調べなどの行為への人権保護のための抑制作用が働きにくくなる可能性がある。人権保障の質は下がったと見ることができるだろう。
 現行憲法の「自白は、これを証拠と」の文言が、「自白を証拠と」に変わっている。

 現行憲法38条1項「何人も、自己に不利益な供述を強要されない。」の規定は、この草案では削除されている。黙秘権を奪ったと見ることができる。こうなると、刑事訴訟法で対応するつもりなのかもしれないが、憲法上の規定として保護されないことから、法律改正という比較的低いハードルで黙秘権を奪うことは当然に可能であると思われる。
 現行憲法38条3項「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」の規定もこの草案では削除されている。自白に頼った捜査が行われるようになると考えられる。人権保障の質を下げ、捜査機関の証拠収集による科学的・合理的に導き出される論証を重視しないこととなると考えられる。人権保障の質も下がったと見ることができる。
(遡及処罰の禁止)
第三十七条 
 現行憲法39条とほぼ同じである。
 現行憲法の「既に」が「すでに」に変わっている。
 また、「同一の犯罪について、」が、「同一の犯罪については、」に変わっている。
(刑事補償請求権)
第三十八条 
 現行憲法39条の規定にあたるものである。
 現行憲法の「無罪の裁判」が「無罪の判決」に変わっている。ただ、「無罪の判決」とすると、「無罪の判決さえ勝ち取れば補償が貰える」というような意識を促す可能性がある。実際に犯罪行為をしていないのにも関わらず、間違って抑留又は拘留されて有罪判決を下されてしまい、冤罪が発生した際に、判決結果に重点を置くような記載をすることは、無罪性の真実を判決結果で覆い隠すような側面が考えられるのである。「無罪の裁判」という言葉に込められた意味は、「無罪の判決」という結果論を重視する立場とは違う意味を有している点を十分に考えた方がいいと思われる。

(犯罪被害者の救済)
第三十九条 

 新設の規定である。
 (外国人の権利)
第四十条 

 新設の規定である。

 現行法では外国人の人権享有主体性は判例によって根拠づけられており、不安定な位置にあった。これを明確にしたことは外国人の人権を保障しようとする意識が高く、人権保障機能は向上したと思われる。「権利の性質上、日本国民にのみ認められるものを除いて」という部分も、判例の論理に従ったものと思われる。ただ気になる点は、「文言上」と書かれている点である。現在の裁判所の判例では、憲法中の「日本国民」「国民」「何人」などの文言を明確に区切っていないと思われる。この点、注意深く検討しなければ、文言一つで人権が奪われる危険性を含んでいる。一応、「又は性質上」との言葉もあるが、適用方法が人権保障に適しているかを精査する必要があるだろう。

日本国憲法における外国人の人権に関する学説

 第三章 安全保障   なぜこの章を第三章という中途半端な位置に置いたのか疑問がある。「非常事態宣言」や「内閣」の章と密接な関係があるため、その章の中に組み入れるか、隣接して配置した方が見やすいだろう。アクセシビリティに改善の余地があると考える。
 (自衛権)
第四十一条 

 2項で、「個別的及び集団的な自衛権を有し、行使することができる」と示し、個別的自衛権と集団的自衛権の行使を認めたものである。外国からの武力攻撃を受けるリスクは高まることとなる。ただ、この個別的自衛権と集団的自衛権については、「内閣」の持つ「行政権」として行使されるのか疑問がある。行政権であるならば、それは「内閣」の章に配置するべきものである。なぜ軍隊という機関を新たな章として配置するのかという問題である。三権分立を基礎とした憲法の統治原理に対し、新たな機関を書き込むことは軽率に行っていいものではない。そこに権力が集中し、国民の人権を疎かにする可能性があるからである。

 この章は、現行憲法第2章「戦争の放棄」の章を変形させた章をイメージして作ったのだと思われるが、現行憲法の国権抑制について書かれた第二章の規定が、第四権力機関の設置へと変質してしまう提案は、にわかに納得できるものではない。憲法全体の体系が損なわれるからである。

 各条文の文言のみを変化させて憲法を改正しようとするのではなく、憲法コンセプトの全体を見渡した上で改正するべきであると考える。そうでなくては、条文ごとの文言に意識が集中するあまり、全体に貫かれるべき精神がバラバラとなり、全体の整合性が失われるからである。

 この点、この草案も条文の文言を見ただけの断片的な情報だけを基にして改正しようと試みるものであり、憲法という法秩序が組みあがってきた歴史的経緯や学術的なバックグラウンドを理解していない提案であると思われる。「歴史や伝統、文化」を尊重する義務を国民に課すほどの憲法であるならば、この草案作成者も憲法の「歴史や伝統、文化」についてもよく学び、さらに深く勉強してもらいたいものである。

 (軍隊)
第四十二条 
 4項の「国際機関」とは、国連を意味するのかどうかあいまい不明確であると思われる。「国際平和維持のための国際機関」という名目であれば、どのような国際機関であっても参加することができるのだろうか。その正当性について、明確な根拠が求められるはずである。
国際機関 Wikipedia
第四章 国会

 

(国会の地位)
第四十三条 
 
(両院制)
第四十四条 
  衆議院、参議院という名称はなくなった。
 (両議院の組織)
第四十五条 
  日本維新の会の草案のように、国の権限を奪い、地域自治の機能強化を図る案もあるが、この草案は自治体の代表を評議院議員として国会に送り込むことを意図したものであると思われる。どちらの案が良いのか、または両方取り入れた案を新たにつくり出した方が良いのか、それとも現行憲法の参議院制度のままでよいのか。よく考える必要がありそうである。
 (議員及び選挙人の資格)
第四十六条 
 現行憲法44条と同じである。
 (国民議院の議員の任期)
第四十七条 
 現行憲法45条に当たる規定であるが、現行憲法の「衆議院議院」が「国民議院の議員」に変わっている。また、「衆議院解散の場合」も「国民議院解散の場合」となっている。
 (評議院議員の任期及び議決権)
第四十八条 
 
 (選挙等に関する事項)
第四十九条 
 現行憲法47条にあたる規定であるが、「両議院の議員の選挙に関する事項」が、「両議院の議員の選挙又は選定に関する事項」に変わっている。評議院の議員は「法律に定める自治体の代表自治体の代表(この草案45条)」で組織されることから、選挙又は選定が想定されていると考えられる。
 (両議院議員の兼務の禁止)
第五十条 
 現行憲法48条と同じである。
 (議員の歳費)
第五十一条 
 現行憲法49条と同じである。
 (議員の不逮捕特権)
第五十二条 
 現行憲法50条と同じである。
 (議員の発言及び表決の無答責)
第五十三条 
 現行憲法51条と同じである。
(常会)
第五十四条 
 1項は、現行憲法52条1項と同じである。

 2項は新設である。
(臨時会)
第五十五条 
 現行憲法53条と同じである。
(国民議院の解散及び国民議院の議員の総選挙、特別会及び緊急集会)
第五十六条 
 
 (資格争訟の裁判)
第五十七条 
 現行憲法55条と同じである。
(定足数及び表決)
第五十八条 
 現行憲法56条と同じである。
(会議の公開、秘密会、会議録、表決の記載)
第五十九条 
 
罰)
第六十条 
 現行憲法58条と同じである。
(法律案の議決)
第六十一条 
 
(特定の法律案に関する評議院の優越)
第六十二条 
 
 (予算案に関する国民議院の優越)
第六十三条 
  現行憲法60条1項の「さきに」が、「先に」に変わっている。現行憲法の「衆議院」が「国民議院」に、「参議院」が「評議院」に置き換わっている。
(条約締結に関する国民議院の優越)
第六十四条 
 現行憲法61条と同じである。
(議院の国政調査権)
第六十五条 
 現行憲法62条にあたる規定であるが、現行憲法の「両議院は、各々国政に関する調査を行ひ、」が、両議院は、個国政に関する調査を行い、その総議員の三分の一以上の要求があれば、」に変わっている。総議員の3分の1という規定が、現在の国政調査権の行使(委員会を通じて行使されていると思われる)とどう違うのか、今後精査したい。
(国務大臣の議院出席の権利及び義務)
第六十六条 
 現行憲法63条に当たる規定であるが、文言がやや変わっている。
 現行憲法の「両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため」が、いつでも議案について発言するため」と省略されている。内閣総理大臣と過半数の国務大臣は、国民議院の議員から選出される(この草案71条、72条)ことから、省略されたと思われる。
(弾劾裁判所)
第六十七条 
 現行憲法64条と同じである。
(政党)
第六十八条 

 新設の規定である。


 憲法上の「国会」の章の中に政党の規定を設けることが妥当かどうかは検討する必要があるだろう。政党は厳密には国会ではないからである。なぜならば、議院内閣制によって選出される内閣は連立内閣などとして政党色が入り込むものであり、そもそも「立法」「行政」「司法」の三権とは違う性質の団体だからである。日本のこころ改憲草案では、政党についての規定は「国民の権利及び義務」の章の中に配置している。そもそも政党に関する規定が必要かどうかも合わせて検討していく必要があるだろう。

 第五章 内閣  
 (行政権)
第六十九条 

 現行憲法65条と同じである。

 (内閣の組織、国会に対する責任)
第七十条 
 現行憲法66条と同じである。
(内閣総理大臣の指名)
第七十一条 

 現行憲法67条1項にあたる規定であると思われる。

 この草案のいう評議院議員からの内閣総理大臣の選出を否定したものである。現行憲法では参議院議員の総理大臣を排除していないが、評議院議員とは性質が異なるために同じように比較することはできないと思われる。

 この草案の41条で「個別的及び集団的な自衛権を有し、行使することができる」ことから、外国からの武力攻撃を受けるリスクは高まっている。しかし、内閣総理大臣や国務大臣の相当数が戦火によって欠けた際など、国民議院の中からしか内閣総理大臣の選出できないというのはリスクが考えられる。現行憲法では参議院議員の内閣総理大臣も想定されているが、この草案ではその役割は地域代表的な性格の強い評議院となることから、そこからの選出は相応しくない面もあるのかもしれない。しかし、非常事態宣言や軍隊の指揮権を持つ内閣総理大臣の質を確保することは何としても実現するべきものであると思われる。人材不足で国の安全が脅かされる可能性について検討の余地がある思われる。

 参議院の制度を評議院としたために、現行憲法67条2項は削除されている。

(国務大臣の任免及び罷免)
第七十二条 

 現行憲法68条にあたる規定である。
 ただ、国務大臣の過半数について、現行憲法の「国会議員の中から」が、「国民議院の議員の中から」に変更されている。前条と同じく、人材不足となる可能性が考えられる。この点について、可能性を開いておけないのは国家運営上のリスクとなるのではないだろうか。

 2項は、現行憲法68条2項と同じである。

(内閣総理大臣の解散権)
第七十三条 
 現行憲法の『7条解散』の説を明確に規定したものであると考えられる。現行憲法の運用に関して『69条解散』に限定する説を排除したものである。
(内閣不信任決議の効果)
第七十四条 
 現行憲法69条にあたる規定である。
 ただ、現行憲法の「衆議院」が「国民議院」に変わっている。
 文言も、現行憲法の「可決し、」と「否決したときは、」が、「可決され、」と「否決されたときは、」に変わっている。
(内閣総理大臣が欠けたとき及び新国会の召集に伴う内閣の総辞職)
第七十五条 
 現行憲法70条の「衆議院議員総選挙の後に」が、「国民議院の総選挙の後に」に変わっている。また、現行憲法の「総辞職をしなければ」が「総辞職しなければ」に変わっている。
(内閣総理大臣の臨時代理)
第七十六条 

 内閣法9条の規定を持ってきて、新しく加えたものである。

内閣法 条文

(総辞職後の内閣の職務)
第七十七条 
 現行憲法71条に当たる条文である。
 ただ、現行憲法71条の「前二条」が「前三条」に変わっているため、条文のかかる範囲が変わっている点に注意しておきたい。
(内閣総理大臣の職務)
第七十八条 

 現行憲法72条にあたる条文である。

 現行憲法72条の「議案を国会に提出し、」の文言が、「法律案その他の議案を国会に提出し、」に変わっている。

(内閣の職務)
第七十九条 
 
(法律及び政令への署名)
第八十条 
 現行憲法74条と同じである。
(国務大臣の特権)
第八十一条 
 現行憲法75条と同じである。
 第六章 裁判所  
 (司法権と裁判官の職務の独立)
第八十二条 

 司法権の中に、新たに「憲法裁判所」と「軍事裁判所」が設けられた。
 「最高裁判所」及び「憲法裁判所」並びに「下級裁判所」及び「軍事裁判所」が存在するが、終審裁判所はどれになるのか気になるところである。


 最高裁判所と憲法裁判所のどちらが終審裁判所となるのか。また、具体的違憲審査制なのか抽象的違憲審査委の道を開いたものなのか、その権限の役割分担が記載されていない。「憲法裁判所」という名前を持ち出したが、その機能が明記されておらず、他の裁判所との管轄の違いがはっきりしていないのである。例えば、最高裁判所が今までのように具体的違憲審査(付随的違憲審査)を行うことができるのかなど、記載がないのである。憲法裁判所の裁判官は最高裁判所裁判官と兼務させるのかどうかも分からないのである。もしかしたら、最高裁判所で具体的事件に対する違憲審査を行う際に、それをこの草案では「憲法裁判所」と呼んでいるだけなのかもしれない。この草案を読んでも、制度の全体像が見えないのである。草案作成者には司法制度をよく勉強してもらいたい。

 (特別裁判所及び裁判官の職務の独立)
第八十三条 
 1項は、特別裁判所として「憲法裁判所」と「軍事裁判所」として扱われることを示している。
 2項は、1項で特別裁判所の設置を許したことから、現行憲法76条2項の「特別裁判所はこれを設置することができない。」の文言を削除して残った部分の規定である。
 3項は、現行憲法76条3項と同じである。
 (憲法裁判所の法令審査権)
第八十四条 
 
 (憲法裁判所の違憲判断の効力)
第八十五条 
 
 (最高裁判所の規則制定権)
第八十六条 
 
 (最高裁判所及び憲法裁判所の裁判官、任期、報酬)
第八十七条 
 
(下級裁判所及び軍事裁判所の裁判官、任期、報酬)
第八十八条 
 
(裁判官の身分保障)
第八十九条 
 現行憲法の78条と同じである。
 ただ、「職務を執る」が「職務をとる」に変わっている。また、「行ふ」が「行う」に変わっている。
(裁判の公開)
第九十条 
 1項は、現行憲法82条1項と同じである。
 2項では、現行憲法の「害する虞」が「害するおそれ」に変わっている。
 また、現行憲法82条の「常にこれを公開しなければならない。」の文言から「原則としてこれを公開しなければならい。」に変わっている。これによって、国民の公開法廷で人権救済が行われる人権保障機能は低下したとみることができる。
第七章 財政  
 (財政の基本原則)
第九十一条 

 現行憲法83条と同じである。ただ、現行憲法の「基いて」が「基づいて」に変わっている。

 (租税法律主義)
第九十二条 
 現行憲法84条と同じである。
 (国費の支出及び債務負担)
第九十三条 
 現行憲法85条と同じである。ただ、現行憲法の「基く」が「基づく」に変わっている。
 (予算案、継続費)
第九十四条 
 
 (予備費)
第九十五条 
 
 (皇室財産、皇室の費用)
第九十六条 

 現行憲法88条の「すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない。」から文言が変わっている。

 この草案では、皇室の財産授受の制限について定めた現行憲法8条「皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。」の規定が削除されていることにも注意して読み解いておきたい。

(公の財産の支出及び利用の制限)
第九十七条 
 
(決算検査、会計検査院)
第九十八条 
 現行憲法90条と同じである。
 (財政状況の報告)
第九十九条 
 現行憲法91条と同じである。
第八章 地方自治  
 (地方自治の基本原則)
第百条 

 3項にて「地方自治役務負担義務」が設けられた。これによって、国民は「納税の義務」以外にも役務負担義務を課せられることとなる。

 「権利を有し、…義務を負う」との文言であるが、この草案では「権利」と「義務」が対価関係として定められているのである。つまり、義務を果たせない者には人権が存在しないのである。極論で言えば、税金を払えない者は最低限の保護を受けられないこととなる。非人道的であり、そもそもこのような発想は人権思想に相いれない。

 権利と義務が対価関係として成り立つものは、「民法」における債権契約の双務契約についてである。例えば、売買契約において、売主に「引渡し義務」と「代金請求権」、買主に「金銭支払い義務」と「購入物の請求権」が課せられるのである。これらの権利と義務は、私人の持つ私権による契約という法律行為によって発生する関係性である。双務契約には他に、「交換」「賃貸借」「雇用」「請負」「和解」などの契約がある。
 この双務契約の考え方を、地方自治の住民に課すというのは、地方自治のコミュニティーを労働契約か何かと間違えてはいないだろうか。このような双務契約関係を実施するならば、それは民法で実施すべきものである。憲法の人権保障秩序には沿わない考え方である。

 この草案作成者は、恐らく憲法と民法の背景にある思想や理念の違いについて理解がないままに条文案を練り出したのだと思われる。一通り法学の教養を身に着けてから提案しなくては、条文や法体系の整合性に乱れが生じることをよく理解した方がいいだろう。

 (国及び地方自治体の相互協力)
第百一条 

 地方自治体にも国益を追求する義務を課したことから、中央集権的な国家体制を強化する意図が見られるものとなった。この規定から、国益のために地方税を増やすなど、地方が国に対して貢献する義務を負うこととなる。中央集権的な法整備も現在よりも行いやすくなると思われる。地方と国が対立する問題が起きた際は、必ず国が優先される結果となる。

 (地方自治体の機関とその直接選挙)
第百二条 
 2項は、地方自治体における外国人の参政権を否定したものである。現在の判例の論理によれば、地方自治体は地域住民と密接な関係を有するため、外国人に対して一概に参政権を認めないものと解することはできない、などとし、外国人参政権の可能性を否定していない。
 (地方自治体の権能)
第百三条 
 2項は、この草案の92条の「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。」の文言との整合性がない。矛盾である。現行憲法では条例によって租税を課すことに関して明確な記載がないことから、通説では、「条例は議会による民主的な手続きを踏んでいるため、法律に準ずる性格を有することから、違憲性はない。」などとすることによって運用されている。
 しかし、この規定は明確に「条例」と書き込んであることから、92条との整合性を明確化しなくては規定が矛盾したものとなり、明らかな不備である。
 (地方自治体の財務)
第百四条 
 
第九章 非常事態  
 (非常事態の宣言)
第百五条 

 非常事態宣言として憲法中に規定を設けることは、人権侵害が引き起こされる危険性の弊害が大きい。


 この規定に想定されているものも現行法で対応できると考える。

自衛隊の行動 Wikipedia


 1項の、
〇 「わが国に対する他国からの武力行使」については防衛出動で対応が可能である。


〇 「他国からの教唆に伴う内乱、大規模内紛等」については治安出動で対応が可能である。

 それ以前に、刑法『第二章 内乱に関する罪』第77条(内乱)あたりで対応できる。もし警察力で対応できなければ、自衛隊の治安出動で対応できる。

〇 「大規模な自然災害」については災害派遣で対応が可能である。


〇 「その他国家の非常事態と合理的に認められる場合」については9.11テロのようなテロリストによるテロ行為、過激な宗教団体等による組織的な破壊行為、バイオハザードのゾンビウイルスによるパンデミックなどの事態が考えられるだろうか。これも災害派遣や現行法の隔離措置などで対応が可能であると思われる。ゴジラの対応も災害派遣です(外国政府からの攻撃ではないため、防衛出動ではないようです)。ドラキュラも刑法犯で対応可能である。隕石の衝突も災害派遣だろう。日本政府は隕石の衝突に対応する装備は持っていないと思うが、NASAなどにお願いするのが良いと思う。これも非常事態宣言とはあまり関係ないだろう。宇宙人襲来も、災害派遣でしょう。

『シン・ゴジラ』にみる緊急事態法制【ネタバレあり】


追記:書籍「自衛隊と憲法」(木村草太)P96~97によれば、自衛隊法83条の「災害派遣」では「武器の使用」ができないため、ゴジラに対して武器を使用することはできないようです。


追記:「武器」として使用しなければ使うことができるとか。

自衛隊にクマ襲来 その対応の法的根拠は何になる? 武器使用が認められるにも条件アリ 2021/6/20


 他には、警察組織や自衛隊組織などの実力組織が政府転覆を謀って反乱した場合などが考えられるだろうか。これについてはどう対応できるのか筆者ももう少し考えようと思う。ただ、一応は現行法で対応できると思われる。
 一部の警察組織や自衛隊組織が国家転覆を謀った時は、刑法犯で対応できる。しかし、全部の警察組織や自衛隊組織が国家転覆を謀った時は、それらに歯止めをかける実力組織(政治学・社会学における暴力装置)が存在しない。そうなると、非常事態宣言を出したところで、その実効性を担保できない事態となってしまう。政府が暴力装置をコントロールできない場合の最大の危険性はここにある。法秩序の実効性を保障できないのである。これについては、シビリアンコントロールなどの重要性についても関係してくるものである。現行憲法第7章「財政」の財政権限もこういった事態に対する一つの抑止力として大きな機能を占めているだろう。考察を深めたい。

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 「国家の非常事態と合理的に認められる場合」というのは、誰がそれを認めるかといえば、内閣総理大臣と閣議に参加する国務大臣である。これは恣意的な判断にならざるを得ず、この「国家の非常事態と合理的と認められる場合」について裁判所による統制も想定されていない。政治的な事情によるものとならざるを得ないのである。

 非常事態宣言は発令下において、国家が国民に与えた損害について、国家が原状回復を行う義務を設けていない点など、やりたい放題が可能である。歯止めなき権限、責任なき権限を与えることに対して、全く敏感さがないのはいかがなものだろうか。


 非常事態宣言の規定を設けようとする意図が、もし先ほど示したいくつかの法律の規定が複雑であり、運用が難しく非常に面倒であると感じるために、「簡単に権力行使を行えるようにしたい」という思いから生まれたものであるならば、これらいくつかの法律の法体系を一本化してアクセシビリティを高めることで対応すると良いだろう。法のアクセシビリティを高め、運用効率を向上させる提案は、当サイトも全力で応援したい。整理された美しい法体系を整備し、学習効率や運用効率を高めることで国の発展を願う考えには大賛成である。洗練された法をつくり上げていくお考えには全面的に協力させていただきたい。

 (非常事態の宣言の効果)
第百六条 
 この規定でこの草案の第二章「国民の権利及び義務」を制限することができるようになった。よって、戦時中に国民がこの草案19条の「住居及び移転の自由」の権利を行使して都会から戦火の少ない田舎に移住する権利を奪うことができる。また、この草案20条の「職業選択の自由」の権利を制限し、徴兵制や軍への支援義務を設けることも可能である。この草案19条の「外国への移住自由」や「国籍を離脱する自由」を奪い、戦火を逃れれて日本から脱出することもできなくなる。つまり、難民となって国際機関に保護されることもできなくなる恐れがあるのである。この草案30条の財産権を奪われた場合、すべての財産は没収される恐れもある。この草案30条の制限によって令状のない理由なき逮捕を可能とし、身体的拘束を強制される可能性もある。この草案34条の「公正な裁判を受ける権利」も停止されると、国家権力の都合によって直ちに死刑判決が下される恐れもある。この草案14条が停止されると、公務員の不法行為によって損害を受けた時にも、その賠償を求めることができなくなる。さらに、そもそもこの草案7条の規定が停止されると、「日本国民たる要件は法律でこれを定める。」の規定が停止されることから、内閣総理大臣の決定によって日本人であることを排除される恐れもある。選挙権によって民主制の過程を経て権力を是正したり、請願したり、情報公開を申請するなどのこともできなくなる。通常であればもちろんそのような措置はこの草案の12条にもあるように、「法の下の平等」の規定によって不可能であるはずであるが、この12条の規定も停止されることがあるため可能となる。

 この草案の8条1項では、明確に「国民は、国家により個人として、又は共同体の一員として尊重され」とあり、8条3項では、「国民の基本的な権利及びその他の権利については、国の安全、公の秩序の維持、及び公共の利益を損なわない限り、又はこの憲法第九章に定める非常事態の場合を除き、最大限に尊重される。 」とされている。つまり、非常事態宣言の中においては、国民の人権は尊重されないのである。人権を制限できるということは、外国の軍隊が日本に攻めてきたときに、国家によって政府要人や公務員を守るために民間人を人のバリケードとして利用される可能性がある。人権を捨てて人命を国家意思に委ねるに等しい行為である。この規定の1項では、「国民の生命及び財産等の安全を維持する目的のために必要な範囲において」との記載もあるが、この草案の8条1項の「国民は国家により個人として」との記載や8条3項の「公の秩序の維持、及び公共の利益」の記載から、全体の利益のために一部の人権が犠牲にされるものである。国を守るためであれば、民間人の人命のバリケードも許されるのである。
 当然に職業選択の自由も制限されるから、徴兵制が実現される可能性がある。


 2項で、これらの内閣の決定に対する異論を封殺している。そもそもこの草案の15条の思想良心の自由も制限できることから、この規定がなくても内閣は国民に協力させる義務を負わせることができる。

 3項では民主制の過程は機能しなくなる。継続的な任期延長によって国会は解散されず、完全な人治主義の独裁国家の誕生である。人の人権を保障する法の機能が停止されることから、もはや法による統治ではなく、力による統治、暴力による統治となる。法の支配でも法治主義でもないのである。

 このような独裁国家の誕生を国民が是正する措置は、もはや憲法中には存在しない。そのため、自然権を行使してこの草案によってつくられた政府を打倒するしか手段がなくなってくる。現行憲法では97条や11条によって「憲法以前に自然権が存在している」という前提を持っていたが、この草案はそれらの規定を削除しているために自然権の発想を持っていないものである。
 自然権とは、憲法に具現化された条文の規定に拘束されていない権利であるため、その自然権を基にしていない憲法には、そもそも効力は認められないと理解されるのであるが、この憲法ではその存立根拠が存在しない。つまり、法の前提が人々に承認されえないものであるから、そもそも無効な法として支持を失い、この草案の憲法が国民から排除されてしまうこととなりうる。
 自然権的な裏付けがなければ、そもそもこの草案に効力を持たせることができるのか最初から疑問があるが、非常事態宣言を行使した時点で国民の手によって国家崩壊が引き起こされる危険性を常に有している。
 法は条文を規定したからといってそこに法的効力が生み出されるわけではない。法は、その法を支持する国民の存在によって実質的な効力が認知され、維持されているという大前提を理解しなおす必要があると思われる。法律は憲法によって効力を保障されるが、その憲法の効力は国民の認知と理解と支持によって成り立つのである。そのような前提に立たず、憲法も法律と同じように条文化すればその効力が生まれるものであると思い込んではいないだろうか。この点に検討の余地があると思われる。
第1回 憲法はなぜ憲法なのか?
第2回「約束事」がぐらついたら、おしまい

 非常事態宣言を憲法中の規定とし、むやみに人権制限を行うのではなく、法律の「非常事態法」を成立させることを目指すことが妥当であると考える。迅速であらゆる有事に対応できる法律となるはずである。もし公共の福祉に反する法の執行がなされたならば、今まで通り裁判所によって違憲審査を実施し、事前又は事後的に是正し、原状回復や損害賠償をすることで足りると思われる。大切なのは、非常事態法のクオリティである。
 それでも非常事態に関する規定を憲法中に設けたいならば、憲法秩序を停止するほどの事態とは、いかなる事態を想定しているのか明確な説明が求められるだろう。現状では、国民の人権を大切にせずに権力を行使しようとする態度が全面に打ち出されてしまっている。
第十章 改正  
 (憲法改正の手続)
第百七条 
 この草案は憲法改正のハードルを下げたものである。国会のハードルが現行憲法の「各議員の総議員の3分の2以上の賛成」が「各議員の総議員の過半数の賛成」に変わり、軟性憲法となった。これにより、憲法も比較的容易に改正ができることになるため、ポピュリズムによって人権侵害を引き起こされる可能性は高まったと考えられる。なぜならば、憲法とは本来的に国民の人権を守り抜くためにポピュリズムなどによる意思決定の行き過ぎに歯止めをかける役割を持って生み出されたものだからである。発議要件を緩和したことで、熟考度の低い安易な提案を促すこととなり、国民も情報量が十分でない中、人の生死にかかわるほどの重要な人権問題に対して急に答えを出すように選択を迫られる可能性が高くなる。政治の熟考度を下げ、国民の感情的な浮き沈みに人権感覚が左右される不安定な社会を招くこととなると考えられる。

 この規定の『発議』の意味が現行憲法とは違うようなので注意して理解しておきたい。

<この草案>
「内閣」または「法律で定める数の国会議員」または「国会に設置された憲法審査会」が『発議』する → 各議員の総議員の過半数の賛成で『国民に提案』 ⇒ 国民投票

<現行憲法>
(憲法審査会) → 各議員の総議員の3分の2以上の賛成が『発議』する(これが既にこの草案のいう『国民に提案』の意味である) ⇒ 国民投票

 4項は特異な規定である。現行憲法53条の「国会召集決定義務」に違反している内閣が存在しているが、この規定に「この憲法を改正することはできない。」などと書き込んだところで、その実効性を担保できるのか疑問である。こういった単なる文言上の禁止規定を無視し、暴走し、独裁を行い、国民の人権保障を疎かにする為政者が現れるからこそ、憲法は三権分立の統治原理を導入して権力を分散し、相互に均衡・抑制の原理を働かせることにしているのである。「非常事態宣言下において、この憲法を改正することができない。」などという文言が効力を持ちうるかどうかについて、憲法の統治原理から十分に考え直した方がいいだろう。
第十一章 最高法規

  現行憲法97条の「実質的最高法規性」の規定が削除されている。そのため、この草案の存立根拠も存在しない。法実証主義の機械的な法認識を採用する法典であり、「この憲法が人権保障のための法であるがゆえに最高法規である」との法の大前提がないのである。つまり、「人権概念から法が生まれている」という前提が存在せず、この草案のいう「最高法規」の意味は、この憲法と、法律や条約、条例などの間の形式的上下関係しか意味していないのである。憲法保障機能が存在せず、国民の人権を守り抜こうとする憲法理念(コンセプト)が存在しない。現行憲法に比べ、国民の人権が損なわれる危険性は高まったと読めるだろう。


実質的最高法規とは、法の存立根拠を意味する。

憲法 Wikipedia

形式的最高法規とは、法の上下関係を意味する。

法令 Wikipedia

(憲法の最高法規性、条約及び国際法規の遵守)
第百八条 
 1項は、現行憲法98条1項の法令のリストに、『条約』と『条例』が加えられた。この点、現行憲法で明確となっていない法令が追加されたことは好ましいことであると思われる。アクセシビリティは高まり、法学を学んでいない人から見ても簡潔明瞭さが増したと思われる。憲法に対する「条約優位説」も確かに存在するが、条約を誠実に守ろうとするのは憲法であることから、「憲法優位説」を採ることが通説である。この追加は、通説の論理にも従っているため、法的整合性や運用上の不備はないと思われる。

 2項は、現行憲法98条2項と同じである。 
(国旗及び国歌)
第百九条 

 人権保障を目的としてつくられた憲法の中に、「国旗及び国歌」などの規定を設けるのは憲法の果たすべき役割に性質上沿わないと思われる。「国旗及び国歌」は人権とは関係ないからである。この規定を設けると、人権保障を目的とした簡素で洗練された法典をつくり上げる上で、体系美を損なうと思われる。現行の国旗国歌法で規定することが妥当であると考える。

国旗及び国歌に関する法律 条文

(憲法尊重擁護義務)
第百十条 

 「国民と共に憲法を尊重し擁護する義務」を課したことから、憲法尊重擁護せず、また憲法違反をした政治家や公務員が、「国民の中にも憲法をそこまで尊重していない人もいますからね。」などの言い訳が想定される。国民感覚を中心に、国民と同等の水準の尊重擁護しかしなくてよいということになり得ると思われる。「国民に率先して憲法尊重擁護義務を負う」などの規定の方がまだよいものと思われるが、この文言はやや規範意識を緩めるように思われる。
 ただ、そもそも国民の義務として憲法尊重擁護義務を課すということは、国民が憲法を尊重せず極力無関心・無関係に自由に生きる権利を奪ったものである。人権保障の質を低下させていることに注目しておきたい。

 日本国憲法の12条では、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と規定している。国民は人権を保持することで憲法を制定し、それによって政府という統治機関を設置し、それらの者に憲法を守るように規定したのである。国民には「憲法遵守」ではなく、既に「人権保持」を義務付けているため、これで足りるはずである。



 この草案は、「国家」というブランド感を前面に押し出すような発想から生まれていると感じられるものである。恐らく映画やドラマなどの視覚的な美しい映像から着想を得た脳内イメージが先行しているのだろうと思われる。しかし、その内容は論理的に洗練されておらず、全体の整合性も十分とは言えない。表面的なスタイリッシュさを追求するあまり、内側の堅実さを損なわせている面が見受けられるものとなった。


 人間関係で表現するならば表面的な調和を目指しており、その人のありのままを尊重するような態度や内側の本音で語り合おうとするような姿勢が失われた印象を拭うことができない。国民に様々な義務を設けた点からも、非常に要求の多いものとなっている。国民に対しての義務規定を増やせば増やすほど、国民からは新しい意味での「押し付け憲法」という感覚を生み出してしまう原因になってしまうのではないだろうか。このやり方は非常に不安である。



 歴史や伝統、文化などを憲法のような書物で表現し、確定させたいという意欲は理解できる。確かにブランド化された表現は分かりやすく、美しく、人々を納得させる力を有した側面がある。ただそれは、『法』ではない。憲法も多様な秩序観念の一つであり、その内容は極めて相対的なものである。歴史や伝統、文化などの権威をつくり出したいならば、それは『法の枠外』で一つの秩序観念として新しく実施すべきものである。

 例えば仏教では「般若心経」という簡素で本質を突いた書物がある。これは法学とは別の分野で一つの権威として認められているものである。他には、文字でなく仏像という形でその精神を表現した創造物もある。仏教建築も様々な精神を基にしてつくられた芸術である。密教では曼荼羅を表現するなどしている。


 キリスト教では、聖書を持ち、十字架のシンボルを示し、教会の空間芸術でその世界観を表現している。


 イスラム教では、コーランを基にし、モスクの建築でその精神的な拠り所を定めている。これらはそれぞれに一つの秩序である。

 企業経営においても、松下幸之助の言葉、稲盛和夫の言葉など、それぞれに権威を有すると多くの人から認められている。もちろん、それを支持しない者がいても構わない。賛同を強制されない自由を有しているはずである。

 音楽家のライブや、アイドルのパフォーマンスも同じようなものである。詩や歌、ダンスなどに精神を表現し、それらを支持する人がその価値と権威を認めることで成り立っているのである。


 憲法も同じように、国家の法領域を司る一つの秩序観念であり、基本的には尊重する義務などはない。ただ、違法なことをした場合は、この法秩序が現代の人々において支持され、効力を有している以上は捜査機関によって取り締まられるというだけである。その正当性の根拠は、人権概念とそこから導き出された主権を有すると多くの人に認められていることで今のところ社会が成り立っていることによるものである。

 この法秩序に、歴史や伝統、文化を混同させるというのは法の精神を歪めるものとなってしまう。もしそれらを体系化して統合し、権威を持った書物として社会に普及させたいのであれば、法学の枠外において独自の秩序や権威を改めて生み出すことで実現できるはずである。この辺の混同は避けた方が無難だろう。



 この草案の110条では、国民に憲法を尊重擁護義務を負わせている。この点、現行憲法とは性質が異なるものである。現行憲法では、憲法尊重擁護義務を負う主体は国の統治組織に集うものであり、国民に対しては負わせていない。ただ、現行憲法では国民に対して、憲法という法が存立するための実質的な効力発生基盤となる「人権」という概念の保持義務を定めることとしているのである。この草案は、この点の理解に混乱が見られる。現行憲法に込められた法認識の意図にある法哲学の基盤を学び直す必要があると思われる。



 

現行憲法の「人権保持義務」と「憲法尊重擁護義務」



 非常事態宣言についても、国民の人権を第一に考えようとする優しさが足りず、とても受け入れられる完成度には達していないと感じられる。


 憲法保障が損なわれた点について、自動車で表現するならば、事故時に作動するエアバックが失われたようなものである。近年製造されている自動車ならば、どんな事故が起きたとしても、人命を第一に考えて設計がなされている。最近では、自転車や歩行者と衝突した場合にも、車外にまでエアバックが備えられており、衝突した人へのダメージを軽減する自動車が開発されているようである。


 同じように、憲法の法秩序においても、国家運営においてどんな問題が起きたとしても、必ず人権が守られるような安全性を重視した設計思想が求められるのである。しかし、この憲法草案は「自動車守って、人命守らず。」と言えるような設計である。車体をかっこよくして見劣りしないように取り繕いたい気持ちも分かるが、改造がずさんで人命を疎かにしている。もちろんエアバックなどの安全装置を取り付けず、わざわざ人命を守る設計精神に裏付けられた車体構造を採用しないこともできる。以前の時代の自動車は皆そうであった。しかし、現代において、この草案のクオリティでは、プロの整備士に見てもらったならばとても車検には通らないだろう。

 あらゆる規定が国民の人権が損なわれてしまう方向につくり変えられており、率直に言って愛が不足している。これでは国民は明るい気持ちで元気に、そして安心して生活することはとてもできないだろう。国民を管理しようとするのではなく、もっと国民を大切にしてあげてほしい。会社経営で言うならば、「できる上司」になってほしい。それが、いい国をつくる力になると思われる。

 この国の国民をもっと幸せにするためにはどうしたらいいだろうか。そしてその幸せが末長く続くためにはどうしたらいいだろうか。そんな発想で考えてみることをお勧めしたい。すると、きっと誰にとっても気持ちのいい憲法ができると思われる。義務を増やしたり、人権の制限をしたりするのではなく、国民に快く受け入れられ、次の世代の国民にも喜んでもらえるような、安全で優しさの溢れる憲法にしたいと思わないだろうか。


 自動車事故でもそうであると思うが、事故をしたときに、その自動車を開発した人たちの思いが、そのまま事故の現場に形となって出てしまうものである。車体を敢えて潰すことで、車内の人に与える衝撃を弱めていたり、窓ガラスの破片が全身を切ったり刺さったりしないようにバラバラに砕けるようにしたりと、様々な思いが込められている。事故が起きた時に人を第一に守ろうとする配慮が感じられると、とても信頼できる企業であると感じるのではないだろうか。憲法の設計も同じようなものであり、車体の見栄えよりも、事故時に人を守ろうとする設計思想が備わっているかどうかをしっかりと見抜くべきである。車体の見栄えばかりを気にするのは危険である。


 そういった面で、この草案はちょっと強引な内容が多くて怖い感じである。とても自動車の設計は任せられない。そういったところを改善したならば、もっと良くなると思われる。

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