夫婦別姓



   【このページの目次】


〇  氏の制度


〇  「公共の福祉」による審査

・権利の性質による違い

・政策的な合理性

・目的と手段を特定する方法

比較衡量論

二重の基準論

・氏の制度の立法目的と達成手段

・憲法上の具体的な権利と関わるか

・「不利益」は存在するか

・例外を理由にして原則を変えることはできないこと

・「個人の尊厳」の意味の範囲


〇  制度変更の可能性


〇  法制度上の名前の立法例


〇  選択的夫婦別氏制は存在する概念か


〇  夫婦別氏は政策として妥当か 







氏の制度

 「氏」の制度の内容を確認するため、民法上の「氏」の文字のある主要な条文を取り上げる。

民法

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    第二節 婚姻の効力


(夫婦の氏)

第七百五十条 夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻のを称する


(生存配偶者の復氏等)

第七百五十一条 夫婦の一方が死亡したときは、生存配偶者は、婚姻前のに復することができる。

2 第七百六十九条の規定は、前項及び第七百二十八条第二項の場合について準用する。

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    第四節 離婚

     第一款 協議上の離婚


(離婚による復氏等)

第七百六十七条 婚姻によってを改めた夫又は妻は、協議上の離婚によって婚姻前のに復する。

2 前項の規定により婚姻前のに復した夫又は妻は、離婚の日から三箇月以内に戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、離婚の際に称していたを称することができる。


(離婚による復氏の際の権利の承継)

第七百六十九条 婚姻によってを改めた夫又は妻が、第八百九十七条第一項の権利を承継した後、協議上の離婚をしたときは、当事者その他の関係人の協議で、その権利を承継すべき者を定めなければならない。

2 前項の協議が調わないとき、又は協議をすることができないときは、同項の権利を承継すべき者は、家庭裁判所がこれを定める。

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    第三章 親子

     第一節 実子

 

(子の氏)

第七百九十条 嫡出である子は、父母のを称する。ただし、子の出生前に父母が離婚したときは、離婚の際における父母のを称する。

2 嫡出でない子は、母のを称する。


(子の氏の変更)

第七百九十一条 子が父又は母とを異にする場合には、子は、家庭裁判所の許可を得て、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その父又は母のを称することができる。

2 父又は母がを改めたことにより子が父母とを異にする場合には、子は、父母の婚姻中に限り、前項の許可を得ないで、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その父母のを称することができる。

3 子が十五歳未満であるときは、その法定代理人が、これに代わって、前二項の行為をすることができる。

4 前三項の規定によりを改めた未成年の子は、成年に達した時から一年以内に戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、従前のに復することができる。

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    第二節 養子

     第三款 縁組の効力


(嫡出子の身分の取得)

第八百九条 養子は、縁組の日から、養親の嫡出子の身分を取得する。


(養子の氏)

第八百十条 養子は、養親のを称する。ただし、婚姻によってを改めた者については、婚姻の際に定めたを称すべき間は、この限りでない。


     第四款 離縁


(離縁による復氏等)

第八百十六条 養子は、離縁によって縁組前のに復する。ただし、配偶者とともに養子をした養親の一方のみと離縁をした場合は、この限りでない。

2 縁組の日から七年を経過した後に前項の規定により縁組前のに復した者は、離縁の日から三箇月以内に戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、離縁の際に称していたを称することができる。


(離縁による復氏の際の権利の承継)

第八百十七条 第七百六十九条の規定は、離縁について準用する。

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「公共の福祉」による審査

 この「夫婦同氏」の制度について、憲法に違反するか否かを検討する。

 法制度を構築する際には、「公共の福祉」に適合するか否かが問われることになる。

 「公共の福祉」に適合する場合には政策として実現することができるが、「公共の福祉」に反する場合には政策として実現することができない。


 憲法学者「宮沢俊義」によれば、「公共の福祉」の意味は「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理」であるとされている。

 これは、学問上で「一元的内在制約説」と呼ばれている。


 政府答弁でも、下記のように述べられている。


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○政府特別補佐人(山本庸幸君) お答え申し上げます。

 一般に、憲法が保障する基本的人権でありましても、それは無制限のものではなくて、他人の人権との関係で制約を受けることがあるということは当然だと思われております。

 そこで、御指摘の公共の福祉でございますが、憲法十三条や二十九条に規定されておりますけれども、これはまさにそういう人権相互の矛盾や衝突を調整するための原理だというふうに考えられております。

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第183回国会 参議院 予算委員会 第9号 平成25年4月22日



 民法1条1項には「私権は、公共の福祉に適合しなければならない。」と定められている。


民法

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    第一章 通則


(基本原則)

第一条 私権は、公共の福祉に適合しなければならない

2 権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。

3 権利の濫用は、これを許さない。


(解釈の基準)

第二条 この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない。

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 このため、民法の規定からも「公共の福祉」に適合することが求められている。

 




 この考え方を基底として、憲法に違反するか否かを判断するための基準(違憲審査基準)をどのような方法で導き出すかを考える。


 「公共の福祉」の内容は、「立法の目的等に応じて具体的に判断」することが必要となる。

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○政府参考人(宮崎礼壹君) 

(略)

 憲法第十三条は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨、定めております。この規定からも、公共の福祉のため必要な場合に、合理的な限度において国民の基本的人権に対する制約を加えることがあり得るものと解されておるわけでありまして、その場合における公共の福祉の内容や制約の可能な範囲につきましては立法の目的等に応じて具体的に判断されなければならないというふうに、このように考えられております。

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第156回国会 参議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第5号 平成15年7月16日


 よって、法令が「公共の福祉」に適合するものであるか否かを判断する際には、その法令の「立法目的」と「その立法目的を達成するための手段」を具体的に検討することになる。

 

 




権利の性質による違い

 権利の性質に応じて分けて考えるべき点について検討する。


 下記の二つの性質を分けて考える必要がある。

 

① 「生来的、自然権的な権利又は利益、人が当然に享受すべき権利又は利益」

  「法制度を離れた生来的、自然権的な権利又は利益として憲法で保障されているもの」

 

② 「法律によって定められる制度に基づき初めて具体的に捉えられる」「権利利益等」

  「法律(…)に基づく制度によって初めて個人に与えられる、あるいはそれを前提とした自由」


 これは、国(行政府)が下記のように説明しているものである。


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 もっとも、婚姻及び家族に関する事項については、前記2(1)のとおり、憲法24条2項に基づき、法律によって具体的な内容を規律するものとされているから、婚姻及び家族に関する権利利益等の内容は、憲法上一義的に捉えられるべきものではなく、憲法の趣旨を踏まえつつ、法律によって定められる制度に基づき初めて具体的に捉えられるものである。そうすると、婚姻の法的効果(例えば、民法の規定に基づく、夫婦財産制、同居・協力・扶助の義務、財産分与、相続、離婚の制限、嫡出推定に基づく親子関係の発生、姻族の発生、戸籍法の規定に基づく公証等)を享受する利益や、「婚姻をするかどうか、いつ誰と婚姻をするか」を当事者間で自由に意思決定し、故なくこれを妨げられないという婚姻をすることについての自由は、憲法の定める婚姻を具体化する法律(本件諸規定)に基づく制度によって初めて個人に与えられる、あるいはそれを前提とした自由であり、生来的、自然権的な権利又は利益、人が当然に享受すべき権利又は利益ということはできない。このように、婚姻の法的効果を享受する利益や婚姻をすることについての自由は、法制度を離れた生来的、自然権的な権利又は利益として憲法で保障されているものではないというべきである。

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【九州・第1回】被控訴人(被告)答弁書 令和6年1月31日



 下記のようにも説明されている。


① 「生来的な権利」


② 「法制度を待って初めで具体的に捉えられる」「権利利益」

  「法制度をまって初めて具体的に捉えられるもの」

  「一定の法制度を前提とする人格権や人格的利益」

  「具体的な法制度の構築とともに形成されていくもの」

  「法制度において認められた権利や利益」

  「法制度において認められた利益」


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 前記第4 の2 (1)において述べたとおり、婚姻及び家族に関する事項は、憲法24条2項に基づき、法律が具体的な内容を規律するものとされているから、婚姻及び家族に関する権利利益の内容は、憲法上一義的に捉えられるべきものではなく、憲法の趣旨を踏まえつつ定められる法制度を待って初めで具体的に捉えられるものである。 

 この点、平成27年夫婦別姓訴訟最高裁判決は、 「氏に関する上記人格権の内容も、憲法上一義的に捉えられるべきものではなく、憲法の趣旨を踏まえつつ定められる法制度をまって初めて具体的に捉えられるものである」と判示しており、これについては、「一定の法制度を前提とする人格権や人格的利益については、いわゆる生来的な権利とは異なる考慮が必要であって、具体的な法制度の構築とともに形成されていくものであるから、当該法制度において認められた権利や利益を把握した上でそれが憲法上の権利であるかを検討することが重要となるほか、当該法制度において認められた利益に関しては憲法の趣旨を踏まえて制度が構築されたかとの観点において、まだ具体的な法制度により認められていない利益に関してはどのような制度を構築するべきかとの観点において憲法の趣旨が反映されることになることを説示したものと思われる」と解されている(畑・前掲解説民事篇平成27年度(下)737ないし739ページ参照)

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【九州・第1回】被控訴人(被告)答弁書 令和6年1月31日 



 ①は、「国家からの自由」という意味の「自由権」に対応するものである。

 これは、刑法が刑罰を科す場合のように、個々人の有する「国家からの自由」という「自由権」を制限するタイプの法制度における考え方である。


 ②は、何らかの制度を個々人が利用するタイプの法制度における考え方である。

 




 「立法目的」と「その立法目的を達成するための手段」の合理性を審査する際には、権利の性質に応じてこれらを分けて考える必要がある。



①の「国家からの自由」という「自由権」を制約するタイプの規範について妥当するもの

 

◇ 「立法目的」の合理性


「自由権」を規制する「目的」に合理的な根拠はあるか


◇ 「立法目的を達成するための手段」の合理性

 
「目的を達成するための手段」として

・必要最小限度であるか(身体的自由権・精神的自由権など)  【動画】(南野森)  動画】(伊藤真) 

より制限的でない他に選び得る手段がないか

より緩やかな手段がないか 

・必要な限度にとどまるか(経済的自由権など)  【動画】(伊藤真)

・合理的関連性があるか  【動画】(南野森)


【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第15回〜「審査基準論」「二重の基準論」「平等原則」・2021年度後期 2021/12/09

【参考】予備試験・司法試験で求められる「憲法のセンス」 2022/09/30


 刑法上の「重婚罪」や戦前に存在した「姦通罪」については、刑罰として個々人の「自由権」を制約する性質上、「必要最小限度」の規制として正当化されるかどうかの判断となると考えられる。



 日常生活の中で自分の好む「名前」を使用することは自由である。

 例えば、「あだ名」で呼び合うことや、インターネット上のコンテンツで「アカウント名」を利用すること、「芸名」を利用することは自由である。

 このような「名前」を使用することに対して、法律が刑罰法規をもって罰則を定めている場合などについては、「国家からの自由」という「自由権」として、国家による不当な権利制限を主張する余地がある。

 そのため、「あだ名」や「ニックネーム」、「芸名」を使用することを禁じるような法律が立法された場合には、「国家からの自由」という「自由権」として、不当な権利制限を主張することが可能であると考えられる。

 しかし、法制度における「氏名」については、法制度の創設によって定められたものであり、もともと法制度で定められた手続きに従って利用されることが予定されているものである。

 その法制度における「氏名」を使用することによる権利・利益については、法制度が予定する範囲に限られており、これに対してそれ以上の価値や利益を求めることはできない。

 よって、「氏名」の制度について憲法に違反するか否かを検討するとしても、それは「国家からの自由」という「自由権」について審査する場合とは性質が異なることになる。


 これについて、夫婦別姓訴訟(平成27年)の第一審判決では、裁判所は国(行政府)の主張をまとめた部分において下記のように説明している。

 

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(被告の主張)

(略)

[64] また,およそ氏というものはそもそも現行の婚姻制度という法律制度の存在を前提としたものであって,その意味で,氏は制度に依存した存在である。そのため,何らの法律制度を前提としない氏を観念し,それについて公的制度によって侵害されることのない「氏の変更を強制されない自由」などという憲法上保障された自由権を観念することはできないというべきである。

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夫婦別姓訴訟(平成27年) 第一審判決 




②の何らかの制度を個々人が利用するタイプの法制度について妥当するもの

 

◇ 「立法目的」の合理性

 

具体的な制度を設けている「目的」に合理的な根拠はあるか


◇ 「立法目的を達成するための手段」の合理性


「目的を達成するための手段」として

・合理的関連性があるか

・著しく不合理であることが明白でないか


 国(行政府)は、婚姻制度が②のタイプであることを理由として、憲法違反となる場合は、「本件諸規定の立法目的に合理的な根拠がなく、又はその手段・方法の具体的内容が立法目的との関連において著しく不合理なものといわざるを得ないような場合であって、立法府に与えられた裁量の範囲を逸脱し又は濫用するものであることが明らかである場合に限られるというべきである。」(【九州・第1回】被控訴人(被告)答弁書 令和6年1月31日 〔P37〕)と述べている。

 

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 氏を含む婚姻及び家族に関する法制度は、その在り方が憲法上一義的に定められておらず、憲法24条2項により、具体的な内容は法律によって規律されることが予定されているから、原告らが主張する「氏名に関する人格的利益」も、憲法の趣旨を踏まえて定められる法制度を待って初めて具体的に捉えられるものである。このような一定の法制度を前提とする権利ないし利益については、いわゆる生来的な権利とは異なる考慮が必要であって、具体的な法制度の構築と共に形成されていくものであるから、当該法制度において認められた権利や利益を把握した上でそれが憲法上の権利であるかを検討することになる

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【東京】20240906_被告準備書面(1) 令和6年9月6日 PDF



 注意したいのは、②の「法律によって定められる制度に基づき初めて具体的に捉えられる」「権利利益等」について問われている事柄であるにもかかわらず、それがあたかも①の個々人の有する「国家からの自由」という「自由権」を制約する法制度であるかのように誤解して、その法制度の中に存在する規範を撤廃する方向で考えれば、国民の福利に繋がるかのように考えてしまうことである。
 ①の「国家からの自由」という「自由権」を制約するタイプの法制度の場合には、その規制が目的を達成するための手段として合理的であるか否かを検討し、それが合理的であるとはいえない部分については、その規制を撤廃することがその「自由権」を制約されている立場にある国民の福利を最大化することに繋がる場合があるといえる。

 しかし、②のタイプの法制度については、何らかの立法目的を達成するための手段として整合的な形で規範が定められているかについて検討することはできるが、そこに定められている規範を撤廃すれば、直ちに国民の利益に繋がるというものではない。

 むしろ、むやみに規範を撤廃した場合には、制度そのものが立法目的を達成するための手段として機能しなくなったり、制度全体を整合的に理解することが不能となって制度そのものが成り立たなくなるなど、国民に弊害を生じさせることに繋がる。

 そのため、この点を誤解して、②のタイプの法制度について、①の「国家からの自由」という「自由権」を制約するタイプの法制度において存在する規範を撤廃していく論理と同様であるかのように考え、規範を撤廃すれば直ちに国民の福利の最大化に繋がるかのような前提で論じることは誤りである。

 



 




政策的な合理性


 婚姻制度には一定の枠が存在しており、その内容を個々人が自由に決定することができるというものではない。

 このことを、「公共の福祉」の観点からどのように考えればよいのかを検討する。 


 そこで、「氏」の制度の「立法目的」と「その立法目的を達成するための手段」について検討する。 

 




目的と手段を特定する方法


 法律などの法規は、条文という形で法制度を定めている。

 しかし、それらの条文の中では、その法制度が意図している目的について明確に記載されていないことも多い。

 そのため、その法制度を設けることによって、何を実現しようとしているのかを考え、その目的を特定することが必要となる。

 法令の「立法目的」と「立法目的を達成するための手段」の内容を明らかにする際に、「比較衡量論」や「二重の基準論」などの視点を用いることの有用性が提唱されている。

 

 「比較衡量論」や「二重の基準論」などの理論は、それを根拠としてそのまま何らかの結論が導き出されるというものではない。

 そのため、これらの理論は、法令に含まれている「立法目的」と「立法目的を達成するための手段」の内容を特定する際に求められる視点や心得と位置付けることが妥当であると考えられる。



比較衡量論

 

 「比較衡量論」とは、「憲法 芦部信喜 第三版〔P98〕」によれば下記の考え方である。


 「それを制限することによってもたらされる利益とそれを制限しない場合に維持される利益とを比較して、前者の価値が高いと判断される場合には、それによって人権を制限することができる」


 この意味を筆者が補足すると、下記のようになる。


 「その法令(や規定)がある場合と、その法令(や規定)がない場合を比較し、その法令(や規定)がある場合の方が有益であると考えられる場合には、そこにその法令(や規定)の立法目的が存在することは明らかであり、その立法目的を達成するための手段としてその法令(や規定)が存在することを意味していることになるから、『立法目的』と『その立法目的を達成するための手段』を特定することが可能となる。そして、『立法目的』と『その立法目的を達成するための手段』の内容が合理的である場合には、その法令(や規定)を正当化することができる」


 このように、その法令(や規定)がある場合とない場合を比較することによって、「立法目的」と「その立法目的を達成するための手段」の内容を明らかにすることが可能となる。


 上記の「比較衡量論」の説明には「人権を制限する」と記載されている。

 しかし、婚姻制度については国家から個人に対して具体的な侵害行為を行う性質のものではなく、個々人が有する「国家からの自由」という意味の「自由権」を制限するものではないことから、この文面と直接的に対応するものではない。

 そのため、「比較衡量論」の考え方を参考とするとしても、これを、「氏」の制度が存在する場合と存在しない場合を比較して、「氏」の制度を設けていることを正当化することができるかという観点から検討する。

 

 そこで、「氏」の制度を設けることによって得られる利益の内容を明らかにするため、「氏の制度を設けている社会」と「氏の制度を設けていない社会」とを比較し、「氏の制度を設けている社会」の方がよいと判断できるかどうかを検討する。



◇ 「氏」の制度を設けていない社会


 「夫婦」と「親子」により構成される「家族」の単位を示す記号が存在しておらず、その集団を示すための記号が存在しない状態となる。



◇ 「氏」の制度を設けている社会

 (下記で解説。)



 よって、「氏」の制度の立法目的は正当であり、その立法目的を達成するための手段として整合的な形で枠組みを設けていることについては、正当化することができるといえる。



二重の基準論


 「二重の基準論」とは、下記のような理論である。


 「精神的自由権」に対する規制と「経済的自由権」に対する規制の在り方を比較した場合を考える。

 政治部門が「経済的自由権」を規制した場合に、「経済的自由」については一度損なわれたとしても民主制の過程(選挙等)が機能している限りは、国民が民主制の過程を通してその規制を是正することが容易である。そのため、裁判所による法的審査は緩やかなものでよく、結果して裁判所は政治部門による「経済的自由権」に対する規制を正当化する判断を行いやすくなってもよい。

 それに対して、政治部門が「精神的自由権」を規制した場合に、「精神的自由」については一度損なわれると民主制の過程(選挙等)そのものが正常に機能しなくなることから、国民が事後的に民主制の過程を通してその規制を是正することが困難となる。そのため、裁判所による法的審査は厳格に行わなければならず、結果として裁判所は政治部門による「精神的自由権」に対する規制を積極的に違憲と判断することでその規制を取り除き、権利救済を行う必要がある。


【動画】司法試験入門講座 プレ講義 「体系マスター」憲法5 「知る権利、基本的人権の限界」 2020/03/12


 ただ、ここで判断の分かれ目となっているのは、「精神的自由権」や「経済的自由権」という権利の性質というよりも、「民主制の過程を経ることによって是正することができるか否か」の点にあると考えられる。

 

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3. 二重の基準論に対する批判的学説及びそれに対する私見

 

 まず,多くの学説によって二重の基準論の第一の根拠として挙げられる民主政治のプロセスの理論に対しては,次の様な疑問が一部の学説によって提起されている。すなわち,通説はこの民主政治のプロセスの理論により,精神的自由の優越的地位を導いているが,民主政治のプロセスの理論において重要なことは,権利が政治参加に不可欠なものかどうかであって,精神的自由であるかどうかではないのではないか[松井1994:274-275]。

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二重の基準論の批判的検討及び再構成 早稲田大学リポジトリ (P157) (下線は筆者)


 この意味を筆者が補足すると、「民主制の過程を経て立法される法令によって一度その自由や権利が損なわれた場合に、再び民主制の過程を経ることによってその自由や権利を回復することが困難となる性質の事柄については、裁判所の法的な審査の中で、その法令の『立法目的』と『その立法目的を達成するための手段』の内容を特定する際に、そのような性質の自由や権利が損なわれることがないように意識して判断を行うことが必要である」というものである。


 そこで、「生殖」に関わって生じる社会的な不都合を解消するために設けられている婚姻制度の機能においては切り離すことのできない「子供」の存在について検討する。

 「子供」は選挙権を有していないことから、法令によって一度「子供の権利」が損なわれた場合には、それを事後的に民主制の過程を経ることによって是正することが困難となる。

 この点で、「二重の基準論」と類似した側面が見られる。

 そのため、「子供の権利」を損なわせる側面を有する法整備を求めることとなる主張に対しては、その法令の「立法目的」と「立法目的を達成するための手段」の内容を勘案する際に「子供の権利」を保障する側面を重視し、「子供の権利」が損なわれることのない形で判断を行うことが必要となる。

 つまり、親など子供以外の大人の都合を優先するような形で「立法目的」と「その立法目的を達成するための手段」の内容を勘案する事は適切ではないということである。





氏の制度の立法目的と達成手段

 「氏」の制度の「立法目的」と「その立法目的を達成するための手段」との関係について検討する。


 下記が考えられる。

 

◇ 「夫婦同氏」が、婚姻における「貞操義務」を負い合う関係であることが明確になり、他者との間で貞操に関わる問題が生じることを一定程度防ぐ側面がある。


◇ 「夫婦同氏」が、夫婦間で特殊な債権関係を形成する単位であることを公示する役割がある可能性がある。


 「夫婦同氏+親子同氏」は、夫婦間、親子間を代理して契約を行う場合などに、「顕名」の役割を果たす可能性がある。 


◇ 「夫婦同氏+親子同氏」が、共同親権による意思決定を行うことを促し、両親の統一された意思の下に子を監護・教育することに役立つ可能性がある。


◇ 「夫婦同氏+親子同氏」が、子の周囲にいる人々が親権者を特定しやすいという社会生活上で利益をもたらす側面がある。


◇ 「夫婦同氏+親子同氏」は、社会的に扶養義務を負い合う関係のある者として認識されやすいという推定の利益が生じやすい側面がある。また、当事者に対しても自覚を持たせやすいと考えられる。


◇ 
「夫婦同氏+親子同氏」が「近親婚」や「近親交配」に至ることを防ぐ役割や働きを持ち得る可能性がある。


【動画】【ゆっくり解説】「近親相姦」はなぜいけないのか?不思議な遺伝子を解説 2021/11/27


◇ 「夫婦同氏+親子同氏」は、他の家族との交流や同居生活があった際に、家族間の境界線を明らかにすることによって、家族間の関係性に混同が生じることを防いだり、次第に複婚状態に至ることを防ぐ効果が考えられる。


 (スラム街や震災後の避難所の体育館のような場所で複数の家族が生活している場面を想像すれば、家族間の境界線が曖昧になりやすい環境が存在することは理解しやすい。)


◇ 「夫婦同氏(+親子同氏)」が、刑法上の「親族間窃盗」が適用される可能性のある単位を形成していることを公示することによって、その人たちに関わる周囲の人たちが「親族間窃盗」が適用される関係性を形成している単位であることを予め推察することができるという予測可能性の利益をもたらす側面が考えられる。


親族相盗例 Wikipedia



 このような点に「立法目的」と、「その立法目的を達成するための手段」としての「氏」の制度があると考えられる。



〇 夫婦の同居、協力、扶助義務について

 「夫婦同氏」には、夫婦間の「同居、協力、扶助義務」の自覚を持たせる側面が存在するのかもしれない。


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(同居、協力及び扶助の義務)

第七百五十二条 夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。

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 この「同居、協力、扶助義務」については、「裁判上の離婚」の原因や、「扶養義務」にも関係があるかもしれない。


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(裁判上の離婚)

第七百七十条 夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。

一 配偶者に不貞な行為があったとき。

二 配偶者から悪意で遺棄されたとき。

三 配偶者の生死が三年以上明らかでないとき。

四 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。

五 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。

2 裁判所は、前項第一号から第四号までに掲げる事由がある場合であっても、一切の事情を考慮して婚姻の継続を相当と認めるときは、離婚の請求を棄却することができる。

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(扶養義務者)

第八百七十七条 直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。

2 家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合のほか、三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる

3 前項の規定による審判があった後事情に変更を生じたときは、家庭裁判所は、その審判を取り消すことができる。

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〇 夫婦の連帯責任について

 日常家事に関する債務は夫婦で連帯責任となる。


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(日常の家事に関する債務の連帯責任)

第七百六十一条 夫婦の一方が日常の家事に関して第三者と法律行為をしたときは、他の一方は、これによって生じた債務について、連帯してその責任を負う。ただし、第三者に対し責任を負わない旨を予告した場合は、この限りでない。

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 このような、「第三節 夫婦財産制」に関する特殊な債権関係の形成については、社会的に「夫婦同氏」として扱われることと関わっている可能性がある。

 

 「夫婦間の契約の取消権」についても、特殊な法律関係となる。


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(夫婦間の契約の取消権)

第七百五十四条 夫婦間でした契約は、婚姻中、いつでも、夫婦の一方からこれを取り消すことができる。ただし、第三者の権利を害することはできない。

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 「夫婦同氏」とは、このような特殊な債権関係を形成する単位を公示する機能を有している可能性がある。

 

「夫婦の一方と取引した第三者が守られる仕組みです。」 Twitter

夫婦間の約束はいつでも取り消せる!?結婚の問題を弁護士が解説 2018.11.26 



〇 代理との関係について

 民法の「代理」における「顕名」の考え方が、「夫婦同氏」や「親子同氏」に関係していないかも検討の余地がある。

 

顕名主義(けんめいしゅぎ)

顕名主義 

顕名とは?その意味について

代理(代理行為〔代理行為関係〕) Wikipedia

代理(日本法)(代理行為の要件) Wikipedia

顕名主義・顕名とは

民法 - 代理(1)顕名(けんめい)とは?【5分で1点UP】



〇 親子の氏の一致について

 夫婦の氏の一致や、親子の氏の一致に関わる可能性のある条文を考える。

 

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    第四章 親権

     第一節 総則


(親権者)

第八百十八条 成年に達しない子は、父母の親権に服する。

2 子が養子であるときは、養親の親権に服する。

3 親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。ただし、父母の一方が親権を行うことができないときは、他の一方が行う。

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     第二節 親権の効力


(監護及び教育の権利義務)

第八百二十条 親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う


(父母の一方が共同の名義でした行為の効力)

第八百二十五条 父母が共同して親権を行う場合において、父母の一方が、共同の名義で、子に代わって法律行為をし又は子がこれをすることに同意したときは、その行為は、他の一方の意思に反したときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方が悪意であったときは、この限りでない。

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 婚姻中の父母は「共同親権」であり、離婚した父母はそうでない。(追記:法改正された。)この「共同親権」と「夫婦同氏(+親子同氏)」の関係性を明らかにしていく必要があると考えられる。

 





〇 貞操関係の明確化と近親交配の回避について


 夫婦が同一の「氏」であることは、夫婦間で貞操義務を負い合う関係であることが明確になる。

 これにより、夫婦間に他者が入り込んで貞操関係でのトラブルが生じることを一定程度回避することができる側面があると考えられる。

 また、親子間で同一の「氏」であることは、自己の意識の中においても、他者が認識する中においても、親子関係であることが明確かつ継続的に意識されることになる。

 これにより、親子間で近親婚や近親交配に至ることを防ぐ側面あると考えられる。


 さらに、家族で同一の「氏」であることは、兄弟姉妹(兄妹・姉弟)間においても、近親者であることが明確かつ継続的に意識されながら育つことになる。

 これにより、兄妹・姉弟間で近親婚や近親交配に至ることを防ぐ側面があると考えられる。


 これを家族以外の他者との間で区別することが困難となり、関係性に混同が生じやすい形へと変更することは、「生殖」に関わるトラブルを回避しようとする政策的な効果が損なわれることになる。


 憲法24条2項の定める「婚姻及び家族」の制度は、「生殖」に関わって生じる社会的な不都合を解消することを目的として設けられている制度である。

 そのため、その「婚姻及び家族」の制度の内容を「生殖」に関わって生じるトラブルを回避しやすいものとして設計することに何らの不合理はない。

 そのことから、「生殖」に関わる不都合を回避しやすい仕組みとして「氏」を統一するという手段を採用することには、目的を達成するための手段として関連性があり、合理性がないとはいえない。

 





〇 制度が規格化されていることについて

 「氏」の制度については、単一化された制度となっており、個々人が自由に変更することができるというものではない。
 これについては、弱き者や知識の少ない者が混乱したり、支障が生じないようにするところに制度で枠を設ける意義を見出すものとなっていることが考えられる。

 つまり、最も弱い立場にある者や、最も知識の少ない者であっても安心して生活できる基盤をつくるところに焦点を当て、こぼれ落ちる者を極力減らすことができるような制度となるように、複雑さを避け、規格化された形とするところに意義を見出しているということである。

 反対に、強き者や知識のある者は、制度の外で、違法でない範囲で自由に生活すればよいということである。

 

 この単一化された制度となっていることについて多少の不自由を感じる者がいるとしても、それはパターナリズムの観点から最も弱い立場にある者や、最も知識の少ない者を取りこぼさないことに焦点を当ててつくられた制度である以上、致し方ないものである。
 このような制度としていることの政策的な当否については、司法権を行使して判断することのできる範囲のものではない。



〇 制度の規格化と平等性について


 制度が規格化された形で定められているということは、ある家族と別の家族との間に差異が生じないということを意味し、それらある家族と別の家族との間で平等性が実現されているということでもある。


 これを、ある家族と別の家族との間で様々な「氏」の在り方が生じるような制度に変更すると、そこには何らかの差異が生じることになるから、平等性の理念の実現に反する結果を生むことになる。

 このような点も見逃してはならない。



〇 国(行政府)の理解


 国(行政府)は下記のように述べている。


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 夫婦同氏制を定める本件各規定の立法目的については、夫婦は、生活共同体を形成するものであるから、その統体性を示すために、同一の氏を称するものである(中川淳著「親族相続法(改訂版)」69ページ〔乙第1号証〕)とか、氏による共同生活の実態の表現という習俗の継続や家族の一体感の醸成ないし確保にある(東京高裁平成26年3月28日判決〔平成27年大法廷判決の原審判決〕・民集69巻8号2741ページ参照)などといった説明がされている。

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【東京】20240906_被告準備書面(1) 令和6年9月6日 PDF

 

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イ 婚姻制度との関係

 婚姻夫婦は、形の上では二人の間の関係であっても、法律制度としてみれば、家族制度の一部として構成され、身近な第三者ばかりでなく広く社会に効果を及ぼすことがあるものとして位置づけられる。このような法律制度としての性格や、現実に夫婦、親子などからなる家族が広く社会の基本的構成要素となっているという事情などからすると、法律上の仕組みとしての婚姻夫婦も、その他の家族関係と同様、社会の構成員一般からみてもそう複雑でないものとして捉えることができるよう規格化された形で作られていて、個々の当事者の多様な意思に沿って変容させることに対しては抑制的であるべきである。

 このように、複雑さを避け、規格化するという要請の中で仕組みを構成しようとする場合に、法律上の効果となる柱を想定し、これとの整合性を追求しつつ他の部分を作り上げていくことに何ら不合理な点はない。

 この点、現行民法における婚姻は、相続関係(民法890条及び900条等)、日常の生活において生ずる取引関係(同法761条)など、当事者相互の関係にとどまらない意義・効力を有するが、制度としての婚姻を特徴づけるのは嫡出子の仕組み(同法772条以下)であるといえ、これこそが婚姻制度において想定される「法律上の効果となる柱」であるといえる。夫婦の氏に関する規定は、夫婦それぞれと等しく同じ氏を称する程のつながりを持った存在として嫡出子が意義づけられていること(同法790条1項)を反映していると考えられるところ、婚姻制度について、複雑さを避け、規格化するという要請の中で、本件各規定が、法律上の効果となる柱である嫡出子の仕組みとの整合性を追求しつつ、婚姻をする夫婦の氏をそのいずれかの氏とする仕組みを設けていることは、これを社会の多数が受け入れるときには、その原則としての位置づけの合理性を疑う余地は乏しいというべきである(以上につき、平成27年大法廷判決における寺田逸郎裁判官の補足意見参照)

 この点については、平成27年大法廷判決においても、「婚姻の重要な効果として夫婦間の子が夫婦の共同親権に服する嫡出子となるということがあるところ、嫡出子であることを示すために子が両親双方と同氏である仕組みを確保することにも一定の意義があると考えられる。」と判示されているところである。

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【東京】20240906_被告準備書面(1) 令和6年9月6日 PDF

【札幌】240930_答弁書 令和6年9月30日 PDF)


 夫婦別姓訴訟(令和3年)の第一審審判では、裁判所は行政府側の主張をまとめた部分において下記のように説明している。


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4 国分寺市長の主張

(略)

[56] 夫婦同氏制を定める民法750条の立法目的は,同一の氏を称することにより夫婦の生活共同体としての総体性を示すことや,氏による共同生活の実態の実現という習俗の継続や家族の一体感を醸成ないし確保することにある。そして,婚姻制度について複雑さを避け,規格化すべきであるという要請の中で,民法750条が,婚姻制度の法律上の効果となる柱である嫡出推定との整合性を追求しつつ,婚姻をする夫婦の氏をそのいずれかの氏とする仕組み(夫婦同氏制)を設けていることについては,上記2(5)のとおり社会の多数が受入れていることをも踏まえると,十分に合理性を有するものというべきである。

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夫婦別姓訴訟(令和3年) 第一審審判

 





憲法上の具体的な権利と関わるか


〇 「氏」の制度の性質との関係

 「氏」は、法律上の具体的な制度が定められることによって初めて捉えられるものである。

 (下図は「同性婚訴訟 札幌高裁判決の分析」のページで用いた図であるが、具体的な法制度が存在することによって初めて捉えられる事柄と、そうでないものとの違いを示した図である。)

 




 そのことから、「氏」の性質は、個々の自然人が「国家からの自由」という「自由権」として、あるいは、生来的な自然権として有しているものではない。

 また、「氏」の制度は、憲法上の具体的な権利として保障されているものでもない。


 よって、「氏」の制度をどのように定めるか、あるいは「氏」の制度を廃止するか、「氏名」に代わる別の「名前」の制度を構築するかについては、国会の立法裁量に委ねられている事柄であるといえる。

 

【動画】小泉進次郎さん!夫婦別姓議論、経団連の間違った資料を元にしてませんか?|竹田恒泰チャンネル2 2024/09/17



〇 憲法14条の「平等原則」や憲法24条2項の「両性の本質的平等」と関係


 憲法14条1項の「平等原則」や憲法24条2項の「両性の本質的平等」に違反するか否かを審査するとしても、婚姻しようとする男女のどちらの「氏」とするかについては、その者たちの協議によって決めることができることから、法制度そのものに不平等が存在するわけではない。

 


 婚姻する際に、婚姻しようとする男女のどちらの「氏」とするかについて、行政が婚姻届けを受理する際にくじ引きで決めるという制度を設けるなどして、婚姻した場合に「氏」を変更する者の数を男女間で結果として均等になるように設計するという方法そのものは考えられる。

 


【現在の制度】


◇ どちらの「氏」とするかは、婚姻しようとする男女の協議で決める

→ (制度上の不平等は存在しない。協議の結果として改姓する男女の数に統計的な偏りが生じることにはなり得るが、それをもともと許容することを前提として組み立てた制度である。)



【新たな制度の案】


◇ どちらの「氏」とするかは、婚姻届けを受理する際に行政がくじ引きで決める

→ (改姓する男女の数は結果として均等になる。)



 しかし、婚姻しようとする男女がどちらの「氏」とするかを決める方法については、その当事者双方の協議に委ねられるという現在の制度を維持することを望む者もいる。

 婚姻しようとする男女の中には、「氏」に使われている漢字について画数が少ない方を選択するという場合や、「氏」の変更によって有名芸能人と同じ「氏名」となるためそれを避けようとする場合、話し合いの中で徐々に将来の方向性が定まっていく過程を重視する場合など、協議で決めることに価値を見出すことも考えられるからである。

 そのため、必ずしも行政が婚姻届けを受理する際にくじ引きで自動的に決めるという制度に変更することを望む者が多いとは限らない。

 このような制度を選択するか否かについては、国会の立法裁量に委ねられる事柄である。


 また、婚姻する場合にどちらの「氏」とするかをくじ引きで決めるという方法については、婚姻しようとする男女が協議の中で自分たちの「氏」をくじ引きで決めることにするかを話し合い、もしそれを望む場合には各々でくじ引きを実施して決めることも可能である。

 そのため、どちらの「氏」とするかを婚姻しようとする男女の協議に委ねるという手段を失わせてまで、法制度として一律に行政が婚姻届けを受理する際にくじ引きで決めるという制度を採用することで、「氏」を変更する者の数を男女間で結果として均等になるように揃えなければならないとする動機にも欠けるものである。

 そのことから、「氏」を変更する者の数が男女間で結果として均等になるように変えるべきとの主張に基づいて新たな「氏」の制度を組み立てることを考えるとしても、それは結局、現在の婚姻しようとする男女の協議に委ねるという方法よりも個々人の自由度が低下することに繋がるものである。


 このような事情から考えても、どちらの「氏」とするかを婚姻しようとする男女の協議に委ねるという方法について、憲法14条1項の「平等原則」や憲法24条2項の「両性の本質的平等」に違反するとの事情を認めることはできない。



▽ 生物学的な親子関係を特定できるか


 女性が子供を産んだ場合、その子供は確実にその女性の生物学的な子である。

 しかし、その女性から産まれた子供について、男性は自分の生物学的な子であるかについて確信を持つことができない。なぜならば、その女性が他の男性と生殖を行っている可能性を排除できないからである。

 子供との関係においては、男性は女性に比べて立場が弱いのである。

 そうなると、子供との関係を特定しようとする観点からは、男性に比べて女性の方が他の異性(男性)から求愛を受け、生殖に至ること(いわゆる不倫関係)を防ぐ必要性が大きい。

 そのため、女性の方が男性に比べて周囲の人々に対して婚姻した事実を公示し、その女性の周囲にいる男性が抱き得る求愛と生殖の意欲を削ぐことによって、その女性が他の男性から求愛を受けたり、他の男性との間で生殖に至る可能性を防止する必要性が高いと考えられる側面がある。

 「夫婦同氏」の制度の下で、女性側が氏を変更し、男性側の氏を名乗ることによって、女性が対外的に婚姻した事実を公示しておくことには一定の合理性を認めることができる場合があるということである。

 このような生まれてくる子供との関係において、男性は女性に比べて立場が弱いという理由を背景として、婚姻当事者が男性側の氏を選択する方が、女性側の氏を選択する場合に比べて多数派となっている側面があるとしても特に不自然ではない。

 そのため、男性側の氏と女性側の氏のどちらも選択可能な「夫婦同氏」の制度の下で、男性側の氏を選択する場合が多数派となっているという事実を基にして男女不平等となっているのではないかとの議論については、必ずしも男女平等の問題と結び付けて考える必要はないように思われる。

 

「男は誰の子供かは判りませんから」 Twitter


 このような子供との関係における男性の立場の弱さの側面については、夫婦別氏を望む者も認めている。


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 02年に長男が生まれた時は、一時的に夫の名字で婚姻届を出し、長男は夫の名字になった。妻が「自分はへその緒で子どもとつながっている。夫には名字のつながりを持ってほしい」と考えた。出産後には離婚届を出した。06年に双子の男児が生まれた時もそうした。

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名字が違っても「ふつうの家族」 夫婦別姓を訴えるわけ 2021年6月22日 (下線は筆者)



 「氏」の選択の問題とは逆の事例として、離婚する際に、子供に対する親権を女性側が得る場合が多く、男性側が得る場合が少ないという問題がある。

 しかし、その事実を見たとしても、そこには男女間で制度上の差別が存在するということにはならない。

 そのため、個々人が制度を活用した結果として、統計的に男女間で不均衡が生じている場合があるとしても、それは制度そのものに憲法14条1項の「平等原則」や憲法24条2項の「両性の本質的平等」に違反するような事情があるということになるわけではない。

 よって、制度を活用した結果として生じている統計的な偏りを理由として、制度そのものが憲法14条1項の「平等原則」や憲法24条2項の「両性の本質的平等」に違反するなどという主張は採用することができないものである。

 

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選択的夫婦別姓制度の正当性を論じる際に注意すべきことは、法次元における男女不平等と、社会規範・社会意識の次元における男女不平等を明確に区別することである。

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夫婦別姓を求めることは、「男女平等」ではなく「個人の自由」の希求 2023.05.29

 

【参考】「どう考えても、是正すべきは婚姻における男女の改姓比率の不均衡であって、夫婦別姓の導入ではない。」 Twitter

【参考】「次世代は結婚改姓する男性がグンと増えそうだ」 Twitter



▽ 希望の有無で区別していないこと


 「夫婦同氏」の制度であることについて、「夫婦同氏で構わない者」と「夫婦別氏を希望する者」との間で婚姻することができるか否かを区別するもので憲法14条1項の「平等原則」に違反するはずであるとの主張が見られる。

 しかし、婚姻制度は、制度を利用する者について「夫婦同氏で構わない者」と「夫婦別氏を希望する者」とを識別しておらず、そのいずれかの者に対して制度の適用を否定するというような内容を有しているわけではない。

 「夫婦別氏を希望する者」であるとしても、婚姻制度(夫婦同氏)の要件を満たして届出をしたのであれば、婚姻制度は適用されるからである。

 そのため、この主張も法制度としての区別の基準を「夫婦同氏で構わない者」と「夫婦別氏を希望する者」との間に設けているとはいえないことから、そもそも区別取扱いが存在するとはいえないものである。

 よって、このような主張を基に憲法14条1項の「平等原則」に違反するなどという主張は意味の通らないものである。


 これについて、夫婦別姓訴訟(令和3年)の第一審審判では、裁判所は行政府側の主張をまとめた部分において下記のように説明している。


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4 国分寺市長の主張

(略)

[55] 本件規定は,夫婦同氏を希望する者及び夫婦別氏を希望する者のいずれに対しても,婚姻をする場合には,夫又は妻の氏を称するものとすることを定めているものであるから,そもそも,夫婦同氏を希望する者と夫婦別氏を希望する者との別異取扱いをしているものではなく,平等原則を定めた憲法14条1項に違反しない。

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夫婦別姓訴訟(令和3年) 第一審審判

 

 夫婦別姓訴訟(令和3年)の抗告審決定では下記のように説明している。


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[19](1) 抗告人らは,民法750条及び戸籍法74条1号(本件規定)が,夫婦同氏を希望する者と夫婦別氏を希望する者を,条文の文言上明確に,別異に取り扱っており,このような取扱いが,憲法14条1項後段が禁止する,信条に基づく不合理な差別的取扱いに該当する旨主張する。

[20] しかしながら、民法750条は,夫婦が夫又は妻の氏を称することを定め,戸籍法74条1号は,これを受けて夫婦が称する氏を婚姻届の記載内容としているものであるところ,上記各規定は,夫婦となろうとする者の全てに対し一律の取扱いを定めているものであり,そのような者において有する信念や主義等のいかんによって取扱いに差異を設けているわけではない。特定の法制度が定められる場合に,その内容につき様々な受け止め方が生じることや,また,社会の変化に伴ってこれが変化することは当然あり得ることであり,本件規定が設けられていることにより,婚姻し同氏を称する夫婦が存在する一方で,夫婦同氏制度とこれに伴って婚姻後に夫婦が称する同一の氏の届出を行う制度の内容がその意に沿わないために,法律上の婚姻をしないことを選択する者が生じるとしても,そのことは,定められた制度の内容の受け止め方がそれぞれ多様であることにより生じる事象であって,これをもって上記各規定が信条に基づく差別的取扱いを定めているということはできない。そして,上記法制度が憲法に違反するものとはいえないことについては,引用に係る原審判「理由」第3の1(補正後のもの)において説示したとおりである。

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夫婦別姓訴訟(令和3年) 抗告審決定



▽ 現在の制度に対する形で別の制度を持ち出して論じることの誤り

 上記の主張もそうであるが、憲法に違反するか否かを論じようとする中において、現在の制度に対する形で別の制度を持ち出して論じることの問題性について検討する。


 まず、現在の婚姻制度では、男女が婚姻した場合に夫婦が同じ「氏」となる。

 この制度の内容に対して不満を持つ者が、男女が婚姻した場合でも夫婦が同じ「氏」とならない制度を望むという発想に基づき、現在の制度に対するものとして夫婦の「氏」がそれぞれ別であるという意味で「夫婦別氏」という言葉を使い始めることになる。

 そして、その「夫婦別氏」という言葉に対する形で、現在の婚姻制度を「夫婦同氏」の制度と名付け、政策的な議論の中でこれら二つの制度を対比しながら論じられていることがある。


 しかし、そもそも現在の制度は、単に家族の単位を示す記号として「氏」を定めているだけであり、それに伴って必然的に男女が婚姻した場合に夫婦が同じ「氏」となるというだけのものである。

 この制度の仕組みそのものには「夫婦同氏」などというラベルが付けられているわけではない。

 そのため、「夫婦同氏」や、その比較対象として取り上げられることのある「夫婦別氏」などと名付けられているラベルは、法制度上の「名前」について構想される数ある制度イメージの中の一つを政策的な議論として分かりやすく示すために便宜的に用いている言葉に過ぎないものである。

 そのことから、現在の制度の内容は、「夫婦同氏」と「夫婦別氏」という二者択一の選択肢しか存在しないという中で、その中の「夫婦同氏」を選択しているなどという位置づけのものではない。

 現在の制度の内容は、下記のようにありとあらゆる選択肢が存在する中において、家族の単位を示す機能を有する記号を設けることに有用性を見出し、「氏」の制度を定めているというだけものである。


【考えられる名前の制度の例】


・「出身地名+家族名+個人名」の方式

・「部族名+家族名+個人名」の方式

・「家族名+個人名+仕事名」の方式

・家族の単位を示す記号としての「氏」の制度そのものを採用せずに「個人名」だけにする方式

・法制度として名前を管理しない方式

など


    ↓  ↓  ↓

【現在の制度】

・「家族名+個人名」の方式 ⇒ 「氏名」


 そのことから、この「氏」の制度の方式そのものに不満を持つ者がいるとしても、その不満を解消することのできる制度としては、今挙げたような「出身地名+家族名+個人名」や「部族名+家族名+個人名」、「家族名+個人名+仕事名」などの方式や、そもそも家族の単位を示す記号としての「氏」の制度を廃止するなど、あらゆる選択肢が存在するのであり、それらの制度を差し置いて、現在の制度に対する形で「夫婦別氏」と称する制度のみを取り上げて比較して論じれば結論が導き出されるかのような前提で論じることは誤りである。


 また、現在の家族の単位を示す記号としての「氏」の制度について憲法に違反するか否かを審査し、もし憲法上の何らかの規定に違反することになるとすれば、それは単に、その「氏」について定めた制度が失効し、その制度が廃止されることになるものである。

 そうなった場合には、「氏」の制度そのものを無効としたままその状態を維持するか、「氏名」の制度に代わる別の「名前」の制度を構想するかは、その後、国会が立法裁量の中において判断することになるものである。

 それにもかかわらず、この点を差し置いて、現在の婚姻制度が男女が婚姻した場合に夫婦が同じ「氏」となることに着目し、これに対する形で男女が婚姻した場合でも夫婦が同じ「氏」とならない制度を望むという発想に基づいた「夫婦別氏」と称する制度を取り上げて、その制度が存在しないことをもって憲法に違反するなどという主張は、現在の制度の内容が憲法に違反するか否かという問題を超えて、特定の内容を持つ制度の創設を国家に対して求めるものに他ならないのであり、立法権の内容に踏み込む主張であるということになる。

 これは、憲法に違反するか否か、あるいは、法令に違反するか否かという問題しか判断することのできない司法権を行使するという枠の中で論じることのできるものではない。

 そのため、数ある「名前」についての制度の構想の中の一部に過ぎない「夫婦別氏」と称する制度(選択的夫婦別氏と称する制度でも同様)のみを取り上げて、それと現在の制度を比較することによって憲法に違反するか否かについての結論を導き出すことができるかのような前提で論じている主張は、誤りである。

 よって、憲法に違反するか否かという法的な審査として論じる中において、数ある制度の在り方の中の一つに過ぎない「夫婦別氏」と称する制度を持ち出して、それが定められていないことを理由として現在の制度が憲法に違反するなどという主張は、意味の通らないものである。



∵ 具現化不可能な要素を含む懸念のある言葉を用いることの問題

 「夫婦別氏」とは、現在の男女が婚姻した場合に夫婦が同じ「氏」となるという制度に対して不満を持つ者が、男女が婚姻した場合でも夫婦が同じ「氏」とならない制度を望むという発想を基にして名付けられている言葉である。

 しかし、そもそも「氏」の内容は家族の単位を示す記号として設けられているものである。

 そのため、男女が婚姻した場合に夫婦が同じ「氏」ではないということは、「氏」そのものが「家族名」を示す記号として機能しなくなるという点において、もともと意図している「氏」の性質が根本的に変容してしまうものである。

 この機能を損なった時点で、それは「氏」としての機能を果たすものではなく、もともと意図している「氏」の役割とは性質が異なる記号へと変容し、現在の制度の意図している「氏」とは異なる意味に変わってしまうという点で、「夫婦同氏」と「夫婦別氏」というように同等の比較対象であるかのような前提で論じることのできるものではない。

 よって、「夫婦別氏」という言葉は、その言葉が醸し出すイメージを現実の制度として具現化することが不可能な要素が含まれているという懸念について整理されていない点において妥当性を欠く表現であるといえる。



〇 結論

 よって、「氏」の制度について、政策として妥当であるか否かという問題を超えて(国会の立法裁量に委ねられる範囲を超えて)、憲法に違反するということにはならない。





「不利益」は存在するか


 「夫婦同氏」であることについて、「不利益がある」との主張を目にすることがある。
 しかし、「夫婦同氏」について、本当に「不利益」といえるものが存在するのかを検討することが必要である。



〇 家族名は変更されることを前提とした制度であること

 まず、「不利益」が存在するか否かを判断する際には、基準点となる地点がどこにあるかを検討することが必要である。

 なぜならば、基準点を下回った場合には「不利益」が見出される場合があるが、基準点を下回っていないのであればそこに「不利益」があるとはいえないからである。


 そこで考える必要があるのは、「氏」の性質である。


 「氏」は、法制度によって定められたものである。

 逆にいえば、法制度が存在しない場合には、「氏」は存在しないということである。

 そのことから、「氏」は、個々人が前国家的に有している自由や権利に当たるもの(自然権)とは異なるものといえる。

 そのため、「氏」の性質は、「国家からの自由」という「自由権」として保障される性質の自由や権利ではなく、法制度の創設によって初めて具体的に捉えられるものである。

 そして、法律は「氏」の性質について「家族名」を示す記号として定めている。

 これは一定の集団(家族)を他の集団(家族)と識別するための記号として用いられることを予定しており、個々の自然人に対して付けられる「個人名」とは区別されている。

 

 法律によって「氏」の性質をそのようなものとして定めている以上は、「夫婦」となって同一の家族を形成するに至った場合に、その者たちの「氏」が同一となることは法制度が予定するものであるといえる。

 このため、「氏」の性質が家族の単位を示す「家族名」として利用されることを定めている以上は、「夫婦同氏」となることは初めから予定されているといえる。



 そこで、「夫婦」となる者の一方が「氏」の変更が必要となることについて、「不利益」であるとの主張について検討する。

 そもそも「氏」とは「家族名」を示す以上の意味を有しておらず、身分関係の変動が行われ、新たな「家族」の単位を形成する以上は、その「家族名」に変更があることはその性質上予定されていることである。

 そのため、「氏」の性質を「家族」の単位を示す記号として定めているという時点で、婚姻して新たな「家族」の単位を形成する以上は、その制度が予定する形で「氏」(家族名)に変更が必要となるということは初めから予定されていることである。

 そのことから、「家族名」について定めた法制度は、その「家族名」に対して、「家族名」を示す以上の何らかの利益を付与しているものではないことから、その「家族名」が変更されることを指し示して、そこに「不利益」が存在するということにはならない。


 「夫婦同氏」となることについて、「今まで『氏』を含める形で自分の『個人名』だと思って使っていたのに、婚姻すると『氏』の変更が必要となるのは『個人名』だと思って使ってきた自分の価値観に照らしてみれば『不便』に感じる。」との主張であるならば、(そもそも『氏』の性質を的確に認識しておらず、『氏』に対して誤った期待感を抱いて使用していた事実の方を見直す必要があるといえるものではあるが、)何とか主張したいことの意味自体は理解することが可能である。

 しかし、「夫婦同氏」であることについて、そのように「不便である」と主張するのではなく、「不利益である」と表現することは、そもそも「氏」とは「家族名」を示す記号として定められているにもかかわらず、その制度の仕組み対する不満や憤りの感情を表現しているという以外にないのであり、そこには法的な視点で考えると何らの「不利益」と称される状態にあるとはいえないものである。

 そのため、法制度が「氏」を「家族名」として定めている以上は「夫婦同氏」となることはその性質上初めから予定されていることであり、それに対して「不利益」と表現することは誤りである。


 夫婦が同氏となることについて、自分の希望に沿う制度ではなく「不便である」との意見に基づいて新たな法制度を立法する可能性について議論することは可能である。

 しかし、「家族名」を示す記号であるにもかかわらず、新たな「家族」の単位を形成する夫婦が同氏となることをもって、そこに「不利益」が存在するとはいえないものである。

 そのため、これを「不利益」と考えることを理由として憲法上の規定に違反するということにはならないものである。

 

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 氏に関する民法の各規定は、平成27年大法廷判決が判示するとおり、氏の性質に関し、氏に、名とは切り離された存在として、夫婦及びその間の未婚の子や養親子が同一の氏を称するとすることにより、社会の構成要素である家族の呼称としての意義があるとの理解を示すものといえる(前記1(2)ア(イ)参照)

 平成27年大法廷判決が判示するとおり、氏は、個人の呼称としての意義があり、名とあいまって社会的に個人を他人から識別し特定する機能を有するものであることからすれば、自らの意思のみによって自由に定めたり、又は改めたりすることを認めることは本来の性質に沿わないものであり、一定の統一された基準に従って定められ、又は改められるとすることが不自然な取扱いとはいえないところ、上記のとおり、氏に、名とは切り離された存在として社会の構成要素である家族の呼称としての意義があることからすれば、氏が、親子関係など一定の身分関係を反映し、婚姻を含めた身分関係の変動に伴って改められることがあり得ることは、その性質上予定されているものといえる(前記1(2)ア(ウ)参照)

 そして、氏が法制度によって形成されるものである以上、氏に関する利益も現行の法制度によって氏に付与された性質の影響を受けることになるから、氏に関する利益は、一定の身分関係を反映するなどの性質を帯び、したがって、身分関係の変動によって改められることがあり得ることを前提としたものになると解される。

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【東京】20240906_被告準備書面(1) 令和6年9月6日 PDF



〇 個人名に対する不満であること


 例えば、「山田太郎」という氏名を持つ者が、「婚姻しても『氏』を変更したくない」という気持ちを抱いている場合を考える。


 しかし、そもそも「山田」は「家族名」として定められており、婚姻する際にその「氏」が変更される場合があることは法制度上でもともと予定されていることである。

 そのため、その「山田」という「家族名」に対して個人的な愛着があるとしても、新たな「家族」の単位を形成する以上は、それを維持することができないということは、「氏」の性質が「家族名」を示す記号として定められている以上は致し方ないものである。


 これは、会社組織の中で「総務部の佐藤さん」であった者が、後に異動となって営業部に変わった場合に、営業部に所属しながら「総務部の佐藤」と名乗り続けることはできないという規則が定められていることに何らの不合理はないことと同じである。

 営業部に異動となったのであれば、それは「営業部の佐藤」なのであり、営業部に所属しながら「総務部の佐藤」と名乗ることを許すことになれば、組織を「部」に分けて所属を把握しようとする目的に反し、「部」を分けている意味がなくなるからである。


 そして、「山田太郎」という氏名を持つ者であるとしても、「太郎」の部分が「個人名」であることから、その者本人を示す部分は常に「太郎」である。

 この「太郎」の部分は、それまでも「個人名」として機能していたし、これからも「個人名」として機能するものであり、変わることのない部分である。

 それにもかかわらず、「山田」という部分まで含めて自分自身を示す記号であるかのように考えることは、「氏」の性質がもともと「家族」の単位を示す記号として定められているという事実を認識しないままに生じた誤解に過ぎず、その誤解を理由として法制度を変更しなければならないということにはならないものである。


 もし本人がどうしても婚姻した後にも「山田」という部分を自分自身を示すものとして残したいというのであれば、それは自分に対して「太郎」という「個人名」を名付けた者(親など)に対して、「なぜ自分の『個人名』を『山田太郎』として、氏名の全体で『山田 山田太郎』となるようにしなかったのか」と不満を述べるべきものである。

 本人の「氏」(家族名)が「山田」で、「名」(個人名)が「山田太郎」であったならば、婚姻しても「山田太郎」という形で「個人名」として「山田」の部分は残り続けることができるのである。



氏名の例 1 : 山田 太郎


氏名の例 2 : 山田 山田太郎


           ↓ ↓


・ 「個人名」を「山田太郎」にすれば、「山田」の文字は残すことができる。

・ 個人識別機能も「氏名の例 1 」とまったく同じ水準で維持される。



 このことを考えれば、「夫婦同氏」の制度に対して不満や憤りの感情を持つ者がいるとしても、それは結局、自己の「名」である「個人名」として付けられている内容が気に食わないという問題に収束するといえるものである。

 (自己の『個人名』を名付けた親に対して不満を述べるべきものである。)

 このことからしても、「夫婦同氏」であることについて「不利益」と称されるものが存在するとはいえない。

 そのため、ここに「不利益」があることを前提として憲法に違反するということにはならないものである。

 

【動画】左翼が選択的夫婦別姓を求める本当の狙い! 2024/07/27



〇 制度の仕組みにより必然的に生じる事柄であること

 法制度上の名前について、現在の「氏名」の制度よりも便利に感じられる制度がないかどうかを議論していくことは考えられる。

 例えば、「氏名」である「家族名」と「個人名」以外に「出身地名」「部族名」「仕事名」を加えるという方法や、「氏」を廃止して「個人名」だけにする方法などが考えられる。

 しかし、「夫婦同氏」となっていることについては、具体的な法制度として定められている「氏」の性質から生じる必然的なものであり、その仕組みを指し示して、それを「不利益」と表現することはできない。

 このような具体的な法制度の仕組みそのものから必然的に生じる事情については、たとえ現在の「氏名」の制度とは異なる、先ほど挙げた「出身地名」や「部族名」、「仕事名」が加えられた新たな制度が設けられている場合であるとしても同様にその仕組みから必然的に生じることになるものである。

 そのうちのいずれの制度には「不利益」があるが、その他の制度には「不利益」がないなどと区別できるというものでもない。

 また、具体的な制度が創設されていない状態では形成されていない事柄であるにもかかわらず、あたかもその制度の内容を個々人が自由に変更することができるということが基準点であるかのような前提の下に、その制度が自己の望む形となっていないことをもって「不利益」と呼ぶことができるかのように主張することも誤りである。

 そのため、具体的な制度の仕組みそのものから必然的に生じる事情については、ある者が「不利益」という言葉を使って不満や憤りの感情を表現しているとしても、それを法的な視点から見ると「不利益」と呼ぶことのできる事情には当たらないのであり、そのことが理由となって憲法に違反するということにはならないものである。

 よって、「誰かが不利益と主張しているのならば、不利益なのだろう」という認識を前提として憲法に違反するなどと論じることは意味の通らないものである。



〇 制度に対する不満は憲法違反の理由とはならないこと

 上記のことから、「夫婦同氏」であることについて「不利益」という言葉を使って主張されている文章を見つけたとしても、それを読み取る際に、そのまま「不利益」であることを前提として考えることは適切ではなく、すべて「不便に感じている」や「面倒に思っている」という程度の意味に置き換えて認識することが適当である。


 この「不利益」という言葉で表現されているものは、ある個人が特定の法制度を利用しようと考えた場合に、その個人にとってその法制度が自らの望む形で定められていないことを理由に思い通りとはならず、その法制度の利用を控えるという場合について、その者個人の受け止め方として「不利益」などと表現しているものである。

 しかし、法制度は立法目的を達成するための手段として定められるものであり、制度が政策的なものである以上は、その制度が自らの望む形で定められていないという事態が起こり得ることはもともと予定されていることである。

 その状態を法的な視点から客観的に捉えた場合には、その者個人が「不利益」を受けているということにはならない。

 そのため、ここで「不利益」という表現を用いている背景には、法制度が自らの望む形で定められている状態を完全な状態と捉えた上で、現在の法制度がその状態に至っていないという認識を基にして、その完全な状態と設定したゴールまでの距離(その間の差の部分)を「不利益」と呼ぼうとする動機が含まれていることになる。


◇ この判決の認識


自らの望む法制度(ゴール)

  ↑

  ↑ (この差異を『不利益』と表現している。)

  ↑

現在地点

 

 しかし、上記で述べたように、法的な視点から見れば、氏の制度に「不利益」といわれるものは存在してない。


◇ 法律論として客観的な視点


現在地点 ← (『不利益』は存在しない)


 そのため、ある者が「不利益」と表現している場合があるとしても、それは自らの望む形で法制度が定められている状態をゴールと考えることを前提とした上での、そのゴールと現在地点との間の距離について述べているものであり、その者個人が抱いている理想の法制度を前提とする主観的な思いを表現しているに過ぎないものである。

 しかし、そのことを法的な視点から客観的に考えると、そこには「不利益」と称されるものを認めることはできないのである。

 よって、法的な議論においては法制度の性質について客観的な視点から論じることが必要とされており、このようなある個人が現在の法制度をどのように受け止めているかという主観的な立ち位置から見た場合の言葉遣いを用いて表現することは適切ではない。

 法的な議論においては、このような客観性を保つことのできていない色の付いた言葉は取り除いて論じることが必要である。

 このような前提となる認識についての法的な整理を誤ると、その影響で誤った結論を導き出すことに繋がるため注意が必要である。


 このような主張の扱い方について、国(行政府)は下記のように整理している。


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 そうすると、原告らが本件規定により侵害されていると主張する権利又は利益は、憲法24条2項の要請に基づき、異性間の人的結合関係を対象とする婚姻について具体的な内容として定められた権利又は利益であり、結局のところ、これらが侵害されたとする原告らの主張の本質は、同性間の人的結合関係についても、異性間の人的結合関係を対象とする婚姻と同様の

積極的な保護や法的な利益の供与を認める法制度の創設を国家に対して求めるものに他ならない

 従って、本件規定が「婚姻の自由」ないし婚姻に伴う種々の権利及び利益を奪うものとはいえないから、原告らの主張は理由がない。

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【東京二次・第5回】被告第3準備書面 令和4年6月20日


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 そうすると,原告らが「婚姻の自由」として主張するものの内実は,「両性」の本質的平等に立脚すべきことを規定する憲法24条2項の要請に従って創設された現行の婚姻制度の枠を超えて同性間の人的結合関係についても婚姻と同様の積極的な保護や法的な利益の供与を認める法制度の創設を国家に対して求めるものにほかならないであって,国家からの自由を本質とするものではないから,このような自由が憲法13条の幸福追求権の一内容を構成するものと解することはできない。

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【九州・第6回】被告第4準備書面 令和3年l0月29日 PDF


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 控訴人らが本件規定により侵害されていると主張する権利又は利益の本質は、結局のところ、同性間の人的結合関係についても異性間の人的結合関係を対象とする婚姻と同様の積極的な保護や法的な利益の供与を認める法制度の創設を国家に対して求めるものにほかならず、法制度を離れた生来的、自然権的な権利又は人格的生存に不可欠の利益として憲法で保障されているものではないから、このような内実のものが憲法13条の規定する幸福追求権の一内容を構成すると解することはできない。……(略)……

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【札幌・第4回】被控訴人第2準備書面 令和5年6月8日 PDF


 これと同様に、法律論としては、氏の制度について何ら「不利益」と称されるものはないのであり、「不利益」があることを前提として論じることは誤りである。



 「不利益」という言葉が用いられていることの背景にある、法制度が自らの望む形で定められていないことに対する不満や憤りの気持ちをどのように考えるかについては、下記が参考になる。 


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 このように、原告らの主張は、結局のところ、自らの思想、信条、政治的見解等と相容れない内容である本件各行為が行われたことにより、精神的な苦痛を感じたというものであるところ、多数決原理を基礎とする代表民主制を採用している我が国においては、多様な意見を有する国民が、表現の自由、政治活動の自由、選挙権等の権利を行使し、それぞれの立場・方法で国や政府による立法や政策決定過程に参画した上で、最終的には、全国民の代表者として選出された議員により組織される国会において個々の法令が制定されるのであるから、その結果として、ある個人の思想、信条、政治的見解等とは相容れない内容の法令が制定されることは、全国民の意見が一致しているというおよそ想定し難い場面以外では、不可避的に発生する事態である。そうすると、自らの思想、信条、政治的見解等とは相容れない行為が行われたことで精神的苦痛を感じたとしても、そのような精神的苦痛は社会的に受忍しなければならないものというほかない。

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国家賠償請求事件 高知地方裁判所  令和6年3月29日 (PDF


 このように、そのような感覚を抱くことについては、自身の望む法制度が定められていないことに対する不満や憤りの感情(憤慨)と考えるべきものであり、民主主義の下では当然、そのような自らの望む形で法制度が定められていないという事態が生じることは予定されているといえる。

 そのため、このような事柄を述べたとしても、これは憲法上の条文を用いて下位の法令の内容を無効としたり、特定の制度を創設するように国家に対して求めることができるとする根拠となるものではない。

 よって、これを取り上げて、それを憲法に違反すると結論付けるための根拠として論じようとしていることは誤りである。





例外を理由にして原則を変えることはできないこと

 ある立法目的を達成するための手段として一定の規範が導き出され、それが「原則」として定められることになる。
 その後、その「原則」に対して、特定の目的を達成するための手段として別に「例外」的な規範が設けられることがある。


 そこで、「例外」的な規範が存在することを理由として、「原則」となっている規範を維持する理由がないだとか、「原則」となっている規範の立法目的は既に失われているなどとして、「原則」となっている規範を変更するべきであると主張する者が現れることがある。

 しかし、その「例外」の規範の位置付けは、あくまで「原則」の規範が存在し、その「原則」の規範が維持されていることによって初めて「例外」の規範として成り立つことのできる事柄である。

 そのため、その「例外」となっている事象を捉えて、あたかもそれが「原則」の中の一部であるかのような位置づけで認識し、立法目的を再定義しようとする試みによって制度の変更を求めることができるということにはならない。

 「例外」は、あくまで「原則」を損なわせない中に位置づけられることによって「例外」としての立ち位置を保つことができるものである。

 それにもかかわらず、「例外」が存在していることを理由として「原則」の方を変更しようとすることは、そもそもその制度が本来的に意図している目的を達成するための機能を果たさないものへと変容させてしまうことに繋がることになる。

 もしそのようにして「原則」が覆されることになれば、その「原則」が定められている規範の意味そのものを破壊することとなってしまう。

 そのため、「例外」の規範が存在することを理由として、「原則」となっている規範の機能を損なわせるような変更が可能となるということはない。

 そのことから、「原則」として位置付けられている規範と「例外」として位置付けられている規範を区別せずに、「例外」として位置付けられている規範があたかも「原則」の中にあるものとして位置づけられているかのように前提となっている位置づけを捉え変えた上で主張する言説を基にして、「原則」となっている制度の変更を許すことはできない。

 もし「例外」的な事例を理由として「原則」の方を変えようとしても、そのような変更は「原則」となっている規範が目的を達成するための手段として機能することを損なわせることに繋がるため、それが許されるということはない。

 むしろ、このような「原則」と「例外」の間で一貫性が保たれていないというのであれば、「例外」的な事例に関する規定の方が廃止され、もともとの「原則」に関する規定だけが残るという形で解決が図られることになるものである。


 この「原則」と「例外」の関係は、「氏」の制度についても当てはまる。


 「氏」の制度は、「家族名」を示す記号として機能することが予定されており、これが「原則」である。


 その後、「氏」の制度について、離婚した後にも婚姻中の「氏」を継続することができるとする「例外」的な制度や、結婚と離婚、再婚がなされたり、繰り返されたりする中で、親と子の間で「氏」が異なる場合があるという「例外」的な制度が定められることがある。

 また、婚姻しても婚姻前の「氏」を日常的な場面で使い続けることができるという「旧姓使用」の制度が「例外」的な制度として定められることがある。


 ただ、これらの制度は、あくまで「原則」として「氏」は「家族名」として機能することを予定している制度であり、その「原則」が保たれていることによって初めて存立することができるという「例外」として位置付けられた制度である。
 そのため、この「例外」として位置付けられている制度が存在することを理由にして、既に「氏」の制度そのものについての立法目的が変容しているだとか、「氏」の制度から「家族名」としての機能は失われているだとかを主張して、「原則」となっている「家族名」を示すものとしての「氏」の制度そのものを変更することができるということにはならない。

 制度には「原則」と「例外」の関係があり、これらを区別することによって初めて「例外」の制度は成り立つことができるのであり、その「例外」の存在を理由にして「原則」の方を変えるべきであると主張することはできないからである。

 むしろ、「原則」と「例外」の間で一貫性が保たれていないというのであれば、「例外」の方こそが存在を許される理由がなくなり、その結果、その「例外」について定めた制度の方が廃止されるという方向で整理され、「原則」となっている制度のみが残るという形で解決が図られることになるものである。

 そのため、「例外」の存在を理由として「原則」となっている制度の方を変更するように迫る主張は、「例外」が「例外」として成り立つための根拠を破壊してまで制度を変更しようとしている点で誤りである。

 また、このような主張は、「例外」の存在を理由として「原則」となっている制度の内容を自らが望む形へと自由に変更することができるかのような前提で論じている点においても誤りである。


 よって、「例外」の存在を理由として、「原則」となっている制度に不備があるかのように論じ、そのことを根拠として憲法に違反するなどと主張することは意味の通らないものである。



 これまで最高裁判所が憲法に違反すると判断した判例の中には、その論旨において、この「原則」と「例外」の位置付けを逆転させて論じるというトリックを用いているものがある。

 つまり、「例外」として位置付けられている制度が存在することを理由として、あたかもそれが「原則」であるかのような前提の下に論じ始めるなどし、本来の「原則」となっている制度の方について憲法に違反すると述べているのである。(原則と例外の逆転論法)


 しかし、「原則」と「例外」の関係が存在し、その両者の間で一貫性が保たれていないというのであれば、本来であれば「例外」として位置付けられている制度の方こそが制度の理念の一貫性を保つことに沿わないとして廃止するという形で整理され、解決が図られることになるものである。

 それにもかかわらず、その「原則」と「例外」の関係を逆転させて考えて、「原則」となっている制度の方が憲法に違反するかのように述べて、その「原則」について定めた制度の方を変更させることによって解決を図ろうとしているものがあり、誤っているといえる。

 

 ある規定と別の規定が一見矛盾しているように見えるときには、それらの規定を整合的に読み解くために、それらの規定の関係を「原則」と「例外」の関係に整理して認識することが必要となる。

 そして、その「原則」と「例外」の関係が存在する中において、その両者の間で一貫性が保たれていないというのであれば、立法政策としては「例外」として位置付けられている制度の方を制度の機能の一貫性を保つことに沿わないものとして失効させ、「原則」に立ち戻るという形で解決が図られることになるものである。

 それを、「例外」の存在を理由として「原則」の方を覆すことになれば、その制度が本来予定している機能が損なわれ、制度全体を整合的に理解することができないものへと変容させてしまうこととなる。

 これは、制度そのものを一貫性のある筋の通ったものとして成り立たせることを不能としてしまうことになるため、方法として誤りである。


 いくつかの判例においては、この「原則」と「例外」の関係を逆転させて論じてしまっている。

 そのような判断をしている背景には、下記のような事情が存在することが疑われる。
 具体的な事案において裁判所に訴え出た者たちに対して裁判官が感情移入してしまい、その者たちにとって有利な判決を出してあげようとする心情が芽生えたことによって特定の結論を導き出そうと躍起になってしまっており、その特定の結論を導き出すがために「原則」と「例外」を逆転させて「例外」が存在することを理由にして「原則」の目的が変わっているかのように論じるという恣意的な操作に流れてしまっていることが考えられる。

 また、裁判所が人権侵害を訴え出ている者に対して権利を救済するという正義の味方としての立ち位置を世間一般の人々に対して誇示することで自身の存在を大きく見せようとしたり、メディア受けする結論を示すことによって話題性を集めて人々から注目されようとしたり、「憲法に違反する」という内容の判決を出すという大きな権力を行使する事案に携わったという歴史的な名声を得ようとしたり、そのような大きな権力を行使した人物として社会からヒーロー扱いされたいという気持ちに駆られて、特定の結論を導き出すために「原則」と「例外」を逆転させて論じるという恣意的な操作をすることに流れてしまっていることが考えられる。
 つまり、これは論理的な整合性を突き詰めた結果として結論が導き出されているというわけではなく、裁判官の中で「こういう結論にしたい」という動機が先に形成されてしまっており、その特定の結論を導き出すために、判断の過程において必要となる適正な手続きを無視し、この点の「原則」と「例外」の関係を逆転させて論じるというトリックを用いて論理的な不備を誤魔化し、本来導き出されるはずの結論とは逆の結論を述べて決着させてしまっているということである。


 そのため、これまでに出されたいくつかの判例におけるこの点の「原則」と「例外」を逆転させて考えて、「例外」として位置付けられている制度の存在を根拠として「原則」となっている制度の方を憲法に違反するものとして扱って制度の変更を迫っている論旨については、正当化することができるものではないため、見直して修正していく必要があるといえる。



(原則と例外の逆転現象の問題性について参考)

 

【動画】石川健治他 戦争とめよう!安倍9条改憲NO!新春のつどい 2018/01/07


(誤審が駄目なこと、騙されてはいけないこと、手柄主義に陥ってはならないことについて参考)


【動画】袴田さん再審無罪!袴田さんの人生を奪った静岡地検。官僚の責任は追及できないのか?|竹田恒泰チャンネル2 2024/10/06





「個人の尊厳」の意味の範囲

 「個人の尊厳」を用いて何かを是正することができる場合とは、どのような場合であるかを検討する。


 まず、「個人の尊厳」は、自然人であれば誰もが持つとされている。

 そのため、人間であるにもかかわらず法的に自然人として扱われていない状態、例えば、人が物や動物のように扱われたり、奴隷のように扱われたりしている場合には、この意味の「個人の尊厳」を用いてその状態を是正することができる。


 また、「個人の尊厳」は、「全体主義」との対比において「個人主義」に根差すという文脈で使われている。

 そのため、個人が全体の中の一部として扱われたり、個々人が何者かの付属物として扱われたりすることがあれば、この意味の「個人の尊厳」を用いてその状態を是正することができる。

 

 他にも、「個人の尊厳」は、権利や義務を結び付けることのできる法的な主体としての地位を指すものである。

 そのため、「権利能力」を喪失させられたり、「意思能力」を否定されたり、「行為能力」を制限されるようなことがあった場合には、この意味の「個人の尊厳」を用いてその状態を是正することができる。


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 民法は我々の生活関係を権利と義務に分解して規定し、規律するが、この権利及び義務の帰属主体となりうる資格を権利能力という。民法は、権利能力はあらゆる自然人が平等に有するとしているが、このことは近代法によって確立された原則であり、近代法が発達する以前の時代、すなわち奴隷制が存在した時代や、封建時代には、人によっては権利能力を認められない自然人も存在したのである。人は権利能力があって初めて法律的に自由な経済活動が可能となるのであり、その権利能力を自然人に平等に認めるのは、憲法の要請でもある。

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第15課 民法―権利義務の主体(自然人その1) (下線・太字は筆者) 

 

【動画】〔独学〕司法試験・予備試験合格講座 民法(基本知識・論証パターン編)第8講:権利能力と胎児 〔2021年版・民法改正対応済み〕 2021/05/28

【動画】【行政書士試験対策】権利能力//権利・義務の主体となれるのは? 2023/03/25

【動画】民法本論1 01権利能力 2011/04/11 

【動画】2021応用インプット講座 民法5(総則5 権利能力) 2020/11/20


権利主体とは?権利能力の発生要件・意思能力や行為能力との違い・事業者の注意点などを分かりやすく解説! 2023.05.26

 

 このため、もし「権利能力」を喪失させたり、「意思能力」を否定したり、「行為能力」を制限したりする法律が立法された場合には、その内容について、立法目的の合理性と、その立法目的を達成するための手段の合理性を審査し、その立法目的に合理的な根拠がなく、又はその手段・方法の具体的内容が立法目的との関連において著しく不合理なものといわざるを得ないような場合であって、立法府に与えられた裁量の範囲を逸脱し又は濫用するものであることが明らかである場合には、その要件が「個人の尊厳」に反するものとして是正されることは考えられる。 

 

 ただ、「個人の尊厳」を用いることができる場合があるとしても、これらを是正することができるということに留まるものである。

 また、「個人の尊厳」というだけでは、何らの規範的な枠組みを示すものではないことから、この「個人の尊厳」を用いて特定の制度を創設することを国家に対して求めることができるとする根拠となることはないし、当然、これによって具体的な制度の内容を形成することができるというものでもない。



 そして、憲法24条2項には「個人の尊厳」が定められている。

 これは、憲法24条2項の「婚姻及び家族」の枠組みの「要請」に従って立法される法律上の「婚姻及び家族」の制度の内容が「個人の尊厳」を満たすものとなるよう求めるものである。

 ただ、現行の婚姻制度を利用したとしても、その者が自然人としての地位を失って物や動物のように扱われるということはないし、奴隷のように売買される対象となるようなこともない。

 また、その者が集団の中の一部として扱われたり、何者かの付属物として扱われたりすることもない。

 他にも、「権利能力」を喪失したり、「意思能力」が否定されたり、「行為能力」が制限されたりするということもない。


 戦前の明治民法においては、婚姻した場合に妻が「無能力者」(制限行為能力者)となっていたが、この点は新憲法であるこの24条2項の「個人の尊厳」に抵触すると考えられたことから、民法改正の過程で既に改められている。

 そのことから、もし「権利能力」を喪失させたり、「意思能力」を否定したり、「行為能力」を制限したりする要件を持つ婚姻制度が立法された場合には、その内容について、立法目的の合理性と、その立法目的を達成するための手段の合理性を審査し、その立法目的に合理的な根拠がなく、又はその手段・方法の具体的内容が立法目的との関連において著しく不合理なものといわざるを得ないような場合であって、立法府に与えられた裁量の範囲を逸脱し又は濫用するものであることが明らかである場合には、その要件が憲法24条2項の「個人の尊厳」に違反するものとして無効となり、是正されることは考えられるが、現行の婚姻制度を利用したとしても、上記のような事態は生じておらず、「個人の尊厳」が損なわれている状態にあるとはいえないことから、憲法24条2項の「個人の尊厳」に違反するということはない。


 また、「個人の尊厳」というだけでは、何らの規範的な枠組みを示すものではないことから、この「個人の尊厳」を用いて特定の制度を創設することを国家に対して求めることができるとする根拠になるものではなく、当然、これによって具体的な制度の内容を形成することができるということにもならない。


 そのため、この憲法24条2項の「個人の尊厳」の文言を用いて特定の制度を創設するように求めたり、制度の内容を特定の形に形成しようとすることはできない。

 もしそれをするための根拠として用いようとした場合には、憲法24条2項の「個人の尊厳」の文言を用いて是正することができるとする役割の範囲を超えるものとなるため、その結論を正当化することはできない。

 そのことから、この憲法24条2項の「個人の尊厳」の文言を、具体的な制度の創設を求めたり、制度の内容を特定の形に形成しようとする根拠として用いることができるかのように論じることは誤りである。

 

  よって、この憲法24条2項の「個人の尊厳」の文言を用いて「夫婦別氏」と称する特定の制度を立法することを根拠付けようとすることは誤りである。



 その他、「個人の尊厳」の文言を、ある特定の制度を設けることが政策として望ましいと考える意味で用いようとしている主張を見ることがある。

 しかし、どのような制度を設けることが政策として望ましいかということについては、「個人の尊厳」と述べるだけで、何らかの結論を導き出すことができるというものではない。

 もしこのような意味で「個人の尊厳」という言葉を用いようとしているのであれば、同様に、「個人の尊厳」の実現のために氏を自由に変えられるようにするべきであるとか、「個人の尊厳」の実現のために氏の制度を廃止するべきであるなど、様々な政策を「個人の尊厳」と述べるだけで正当化することができてしまうことに繋がる。

 すると、下記のようにあらゆる制度や政策について「個人の尊厳」と結び付けて論じることが可能となる。

 

・ 「個人の尊厳」の実現のため、夫婦同氏とするべきである。

・ 「個人の尊厳」の実現のため、親子同氏とするべきである。

・ 「個人の尊厳」の実現のため、選択的個人名制(夫婦別氏制)とするべきである。 

・ 「個人の尊厳」の実現のため、好きな芸能人と同じ氏に変えられるべきである。

・ 「個人の尊厳」の実現のため、友達と氏を交換できるようにするべきである。

・ 「個人の尊厳」の実現のため、婚姻時に人口の1%を超える氏の選択は制限するべきである。

・ 「個人の尊厳」の実現のため、同一の名が1000人以上重ならないように制限すべきである。

・ 「個人の尊厳」の実現のため、氏名に出身地名を加えるべきである。

・ 「個人の尊厳」の実現のため、氏名に部族名を加えるべきである。

・ 「個人の尊厳」の実現のため、氏名に仕事名を加えるべきである。

・ 「個人の尊厳」の実現のため、氏を廃止するべきである。

・ 「個人の尊厳」の実現のため、名も廃止するべきである。

・ 「個人の尊厳」の実現のため、………。

 
 上記で示した中には、それぞれ政策として両立しないものが含まれており、これらの対立する政策を「個人の尊厳」という同一の理由を持ち出すことによって一つの結論に収束するという性質のものではない。

 そのため、「個人の尊厳」を理由とする形で、特定の結論を導き出すことができるということにはならない。

 そのことから、「個人の尊厳」を持ち出したとしても、それを理由として「夫婦別氏」と称する特定の制度を立法することについて正当化できるということにはならない。


 これと同じ性質を持つ議論として、下記の「全体の奉仕者」(憲法15条)の話が参考になる。


【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第9回〜「在監者の人権」「公務員の人権」・2021年度後期 2021/11/01

 
 ここで述べられているのは、当たり前のことになっている抽象的な原理に対しては誰も反対しないことから、そのフレーズが都合よく利用されてしまい、それを理由にして個別の場合において自分の好む結論を出そうとする言説となっていないかに注意する必要があるというものである。



 憲法学者「宮澤俊義」が「公共の福祉」について説明している部分も参考になる。


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 (九) 要するに、基本的人権は、公共の福祉に反する場合は、保障されないか、または、基本的人権の保障は、公共の福祉のワク内でのみみとめられるか、と問い、これに対して、基本的人権の保障は、公共の福祉のワクによって、制約されるとか、されないとか、答えることによって、問題は少しも解決されない。その公共の福祉が与えられた具体的な事件において、どういう内容をもつかが明らかにされないかぎり、ほんとうの答えは出てこない。公安条例を例にとっていえば、問題は、一般的に基本的人権の保障に公共の福祉のワクがあるかどうかではない。そこで、そういうワクがある、または、ない、と答えただけでは、その公安条例の合憲性の有無は少しも明らかにされない。この点について、たとえば、公共の広場での集会についての届出制を定めることは合憲だが、許可制を定めることは違憲だとする説があるとして、━━事実そういう説が多いようであるが、━━もしそういう解釈をとるならば、届出制も集会の自由に対する制約にはちがいないのであるから、そうした制約がいったい何によって合憲とされるかが説明されなくてはならない。ここで、公共の福祉をもち出すとしても、なぜ届出制が公共の福祉によって是認され、なぜ許可制を定めることが公共の福祉によって否認されるか、を明らかにすることが必要である。したがって、ただ公共の福祉によって基本的人権の保障が制約されるか、という問いに答えるだけでは、問題は、少しも解決されない。さらに、具体的に、個々の人権につき、何が公共の福祉であるかが明らかにされなくてはならないのである。

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憲法Ⅱ 宮沢俊義 (P231~233) (下線・太字は筆者) (この論点は、当サイト「人権と同じような言葉」で説明している。)

 
 これらと同様に、「個人の尊厳」と述べたとしても、そこから具体的な基準となるものが導き出されるという性質のものではないのであり、これをもって
特定の結論を正当化することができるということにはならない。

 

 また、「個人の尊厳」についてある特定の制度を設けることが政策として望ましいと考える意味で用いようとしているのであれば、そもそもどのような政策が望ましいかという問題については、憲法の枠内で政治部門である立法府の国会で議論される事柄である。

 これについては、法令の合憲・違憲、合法・違法しか判断することのできない司法府の裁判所の立場で論じてはならないものである。

 この点について裁判所の立場から口出しすることは、その主張そのものが越権行為であり、司法権の逸脱・濫用として違法となる。

 よって、特定の政策を実施することが望ましいと考える旨として「個人の尊厳」という言葉を用いることはできない。



 最高裁のこれまでの判例の中には、「個人の尊厳」(個人の尊重)と述べて特定の結論を正当化しようとしているものが見られる。

 しかし、上記で説明したように、「個人の尊厳」という言葉を使って論理的な過程が示されるはずの部分をブラックボックスにして覆い隠し、そのまま特定の結論を正当化しようとすることは、実質的に何も説明していないことを意味するのであり、誤った論法である。

 そのため、このような論旨によって特定の結論を述べることによって決着させてしまっている判決の内容については、見直して修正していく必要がある。





制度変更の可能性


 「夫婦同氏」と「夫婦別氏(選択的夫婦別氏)」の二択しか存在しないような議論が見られる。

 しかし、別の選択肢が存在することを忘れてはならない。


 例えば、「氏」はファミリー・ネームとして機能すれば立法目的を達成することができることから、下記の方法が考えられる。


 「名前」は、物事を他のものと区別するために存在する。

 よって、他のものとの間で区別する役割を果たしているのであれば、「名前」としての価値が失われることはない。

 逆に、その「名前」が他のものと区別する機能を果たさなくなったときに、「名前」を付ける意義は失われることになる。


 これを理解するために、下記を例に挙げることができる。
 日本国内で「アメリカ人のあの人」と呼べば、身近な人同士であれば誰を指しているのか理解することができる。

 しかし、アメリカ国内で「アメリカ人のあの人」と呼んだところで、誰のことを指しているのか分からなくなる。

 このように、「名前」はその環境の下で物事を区別するために存在するのであり、その環境下でその機能を果たさなくなった場合には、その環境下で機能する別の「名前」が求められることになる。


 このような前提から、人口の一割を超えた「氏」については、それを他の「家族」との間で区別する役割をほとんど果たさなくなることを理由に、「氏」を付ける立法目的を達成することができないと判断することが可能である。

 その場合に、人口の一割を超えた「氏」については、婚姻する際にその「氏」を継続することを不可能とし、婚姻するもう一方の「氏」を使用しなければならないとする方法が考えられる。

 もし婚姻する両方の「氏」が人口の一割を超えている場合には、「常用漢字」の中から不吉な漢字を外した上で、その残された漢字の中からいくつかの漢字を選択して新しい氏をつくる「創氏」を求める制度とする。

 (行政側が提示したリストの中から、親戚や友人と氏が重なるなどの理由や、個人的に不吉に感じている氏などいくつか忌避する氏を除外してもらった後で、行政がくじ引きや機械によるランダムで氏を指定するという方法も考えられる。)


 このように、「氏」という「名前」を付ける立法目的を捉えることで、その目的の達成に沿わない部分については、新たな制度とすることができると考えられる。

 

 下記のランキングは、「氏」の機能が徐々に失われているランキングということもできる。

【参考】全国名字ランキング


 人口の一割を超えた「氏」について婚姻の際に継続を不能とする制度を立法する場合には、人口の最も多い「氏」の者に予め告知するために、その「氏」の者が人口の一割を超えると思われる時点から少なくとも15年前には立法しておくことが望ましいと思われる。



 このような方法を考えた場合には、「『氏』を変える一方にだけに不利益がある」などという議論は意味を成さないことは容易に理解することができる。

 もともと「氏」とは、「家族」の単位を他の「家族」との間で区別するための制度であり、その機能を果たすか否かが「氏」を維持することが妥当かどうかの価値指標となっているものであり、個々人を表すための記号ではないからである。


 また、「『女性』が不利益を受けている」などという議論も、人口の一割を超えるか否かによって「氏」の継続の可否が決まる制度であることから、男女間の力関係などという議論についても、男女間での制度上の差別がもともとが存在しないこともより明らかとなる。





法制度上の名前の立法例


 法制度上の「氏名」の制度の性質を明らかにするために、「氏名」以外の法制度上の名前の立法例も考えておく。

 







選択的夫婦別氏制は存在する概念か

 「選択的夫婦別氏制」を導入するべきかという議論がある。

 しかし、そもそもこれは意味の通ったものとして存在する概念であるかを検討し直すことが必要である。


 まず、「氏」は、「家族名」として機能することを予定している制度である。

 それを、夫婦が婚姻して同一の家族の構成員となるにもかかわらず、その夫婦の選択によってそれまで「家族名」を示す記号であった「氏」と呼んでいた部分を、個々人のものとして維持することを可能にするというのである。

 しかし、そうなると、それを選択した夫婦については、その夫婦を一つのまとまりとして他の家族との間で区別して識別するための「家族名」にあたる記号が存在しない状態となる。
 これでは、「氏」は「家族名」として機能することを予定している制度であるにもかかわらず、選択的にその「家族名」の制度を離脱して「氏」と呼んでいた部分を「個人名」の一部へと定義し直すことを許す意味を含んでいることになる。

 これは、「選択的夫婦別氏制」と述べているとしても、そこでいう「氏」の内容は「家族名」を示すものとして統一的に機能するものとはなっておらず、選択的に「家族名」の制度から離脱して個人名の一部へと定義し直す者を含む意味に変わってしまっているものである。

 これは、実質的には「選択的夫婦別氏制」というよりも、「選択的個人名制」という表現の方が相応しいように思われる。



【参考】「同姓制と別姓制は両立しない 別姓制の導入は「家族の呼称」の消滅をもたらす」 Twitter

【参考】「選択的夫婦別姓の制度的な意味については、かつて法務省民事局参事官として別姓導入のための民法改正作業に従事した小池信行氏の説明が分かり易い」 Twitter

【参考】「すべての家庭に共通する制度としての「ファミリーネーム」(家名)は消滅するそうです。 選択なんて最初からできない選択的の嘘。」 Twitter

【参考】「①別姓制は姓を「個人の呼称」にする制度変革であり、「家族の呼称」(ファミリーネーム)の廃止を意味します」 Twitter

【参考】「別姓制度の導入は、同姓制度の下でのみ存在する制度としての「家族の呼称」(ファミリーネーム)の廃止を意味するからだ 両者は制度的に両立しない!」 Twitter

 

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「夫婦別姓を認めることになりますと、家族の氏を持たない家族を認めることになり、結局、制度としての家族の氏は廃止せざるを得ないことになる。つまり、氏というのは純然たる個人をあらわすもの、というふうに変質するわけであります。ですから、夫婦別姓論者が反対論者に向かって、別姓を選ぶのは自分たちの勝手なのだ、おまえさん方が反対する理由がないのではないか、ということがあるのですが、この言い方は正しくないのです」(『法の苑』二〇〇九年春)。

 確かに、別姓制度を導入しても希望する夫婦は同じ姓を名乗ることはできる。だが、姓の性格は既に「個人の名称」でしかなくなっているわけだ。喩えれば、制服の自由化後も「制服」は着用できるが、それはもはや学校の制服ではなく、私服の一形態でしかないのと同じである。結局、選択的別姓制度の導入は、制度としての家族の名称(ファミリーネーム)を消滅させる「革命」なのだ。

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経団連よ、損得勘定で「家族の絆」を壊す勿れ 2024/06/11

 

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 現在は、結婚すると親の戸籍から出て新たに夫婦の戸籍を作り、子どもたちもそこに記載されます。婚姻届を出す際に戸籍筆頭者を決め、家族が共通の姓を名乗るのです。「1戸籍1氏(姓)」ですね。これが別姓になると、「1戸籍2氏(姓)」になり、家族共通の姓がなくなります。姓が「ファミリーネーム」から「個人名」に変わってしまうということです。姓の性格の変更は、同姓を選んだ夫婦にも波及し、国民全体の問題になります。別姓を選びたい人だけの問題ではありません。今の戸籍の仕組みを前提とする限り、法制化は困難なのです。

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姓は生き方にかかわるもの 夫婦の姓、さらに考える 2021年1月24日


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 第一は、氏はあくまで家族名(ファミリーネーム)であり、選択的であっても、夫婦別氏を導入すると、一戸籍二氏となり、氏名自体の法的性格が変わり、戸籍は家族世帯の公文書・氏名=家族名+個人名から、個人の公文書・氏名=個人名となってしまいます。まさに、同氏家族を含めて、家族名(ファミリーネーム)がなくなることになります。

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選択的夫婦別氏制度 経団連と共産党が共闘!? 経団連は男女間賃金格差是正に取組め! 2024年06月29日

 

【参考】「「夫婦別姓&親子同姓」という、理論的にはあり得ない制度」 Twitter

【参考】「夫婦別姓選択制の導入は、家族単位戸籍から個人単位戸籍へと道を拓くだろう。」 Twitter

【参考】「一部であれ別姓を導入すると姓の家族の呼称としての意義は薄れ、姓もまた個人化していく。」 Twitter





夫婦別氏は政策として妥当か


 「夫婦別氏」の制度(個人名制)を導入した場合に、どのような婚姻関係となるか、どのような法秩序となるのかを検討する。

 




 「夫婦同氏」の場合は、親と子の氏が同一となる。

 ここには、子に対する親の責任を明確化し、「子の福祉」を向上させようとする側面を見出すことができると考えられる。
 また、「夫婦同氏」は、親子の関係を示すだけでなく、社会的に他者から同一の氏を形成する者(扶養義務を負い合う関係のある者)として認識されることによって、子に対する親の責任を自覚させる側面も考えられる。


 そのため、「夫婦別氏」の制度を導入することを考える場合には、「夫婦同氏」の下で親と子の氏が同一であることによって、子に対する親の責任の自覚を促し、「子の福祉」に貢献しようとする政策効果が損なわれる可能性について検討する必要がある。


 また、「夫婦別氏」を導入し、その夫婦の兄弟姉妹間の氏が異なる場合、下記の問題を検討する必要がある。


◇ 「同一の氏の者は、何らかの近親者に該当するのではないか」との推測が働きにくくなり、近親交配に至る確率が高くなると考えられる。この点、婚姻制度を構築する立法目的の一つである近親交配に至ることを抑制しようとする側面が損なわれる恐れがある。


◇ 生まれたときから兄弟姉妹間で氏が異なる場合においても、扶養義務を負い合う関係を構築できるのか。また、扶養義務を負い合う関係を構築するとしても、同一の氏を共にした期間がない相手に対して扶養義務を負うことは、心理的に許容範囲内であるか。当事者の心理面に対する予測可能性を損ない、不測の経済的な負担を引き受けさせることにならないか。



〇 子供との関係について

 





 似たような問題は既に起きている。

 「女性は現在、心身の不調により、精子提供を受け出産した第2子と暮らすのが困難なことから、第2子を児童福祉施設に預けているということです。」

Twitter Twitter

 



 
 「夫婦別氏」では、上記のような紛争が起き得る。

 「夫婦同氏」は、これらの紛争を未然に回避することが可能となる。

 


【参考】【九州・第6回】被告第4準備書面 ※九州原告主張への反論、札幌地裁判決への反論 PDF (P36~)

【参考】「氏を単なる個人名の一部だと位置づけた場合、どちらかの親の氏を付けることを強制する合理的な理由はなくなる」 Twitter

【参考】推進派が漏らす別姓先進国の不都合 2024/10/15

 




<法律論ではない話>


 法律論上の婚姻制度と直接的に関係するわけではないが、婚姻制度が立法されている趣旨・目的を考える際に参考となる視点を取り上げる。



〇 結婚式に意味はあるか

 結婚式という儀式を行う慣習については、法律論上の問題ではない。
 結婚式という儀式を行う慣習についても、婚姻当事者が周囲の人々に対して新たな関係を形成することを公示することによって、婚姻する相手方を親族(姻族)として迎え入れる自覚を持たせると同時に、周囲の人々が婚姻当事者に対して抱き得る求愛と生殖の意欲を削ぎ、婚姻当事者の間に他者が侵入して婚姻当事者以外の者との間に子供が生まれることを防ぎ、生まれてくる子供の地位を安定化させようとする意味があるように思われる。

 これは単に、婚姻当事者や周囲の人々の認識の中でのみ機能する自覚や意識付けの問題である。



〇 結婚のイメージ


 「結婚」と聞けば、幸せなイメージを抱く者は多いかもしれない。

 しかし、法律論として婚姻制度を設計する際には、常に当事者間の関係が最悪の状態に陥ったときのことを想定し、裁判規範としてどのように解決していくことが妥当であるかという視点から考える必要がある。

 当事者間の利益の調整を適切に行うことができる場合と、できない場合を見極め、どこに基準となる線を引き、予め強行規定として定めておくべきかを検討する必要がある。

 忘れてはならないのは、婚姻当事者の間に生まれた子供(嫡出子)や、婚姻当事者の間に位置付けられた子供(養子)、婚姻当事者以外の者との間に生まれた子供(非嫡出子)の利益の保障をどのように構築するかという部分は欠くことのできない重要な要素となっていることである。


「夫婦別姓は子がかわいそう」と言う人へ 子どもの声は 2021年3月20日


 上記ような記事について、法制度を強行規定として構築する意図は、家族間の仲が最悪の状態になったときにどのように解決するかという視点が重要である。親子間の仲が良い子供の意見を取り上げたところで、あまり意味はない。祖父母に育てられている子供もいるであろう。取材するならば、「あんな奴、父親じゃねぇ」などと言っている子供も取り上げる必要がある。



〇 婚姻制度と「天皇制」や「日本の歴史、伝統、文化」について

 婚姻制度を「天皇制」や「日本の歴史、伝統、文化」と結び付けて考える者がいるかもしれない。

 しかし、法律論として婚姻制度を設計する際には、法主体として権利能力を有する当事者に対して親権者や法定代理人、扶養義務者、損害賠償責任を有する監督者などの地位を付与するか否かという観点から検討する必要がある。

 その法律関係の構成に「天皇制」や「日本の歴史、文化、伝統」はまったく関係がない。

 「天皇制」や「日本の歴史、伝統、文化」などを基に婚姻制度を説明する者の話は、法律論ではないことを押さえる必要がある。


 ただ、法律論上の論点を明らかにした上でいくつかの選択肢が存在する場合に、政策論として「天皇制」や「日本の歴史、伝統、文化」を基にしたやり方、「キリスト教」のやり方、「イスラム教」のやり方などを参考として、その方式を取り入れるか否かという判断は存在し得る。

 この点の、法律論上の論点を洗い出す作業と、政策的な選択肢としてどれを選ぶかという問題は丁寧に切り分ける必要がある。

 

(法律論として皇族の夫婦別氏について検討している動画を見つけた)

 

【動画】選択的夫婦別氏・SNS時代の多様性について~自由民主党武井俊輔衆議院議員 立憲民主党落合貴之衆議院議員 倉山満【チャンネルくらら】 2021/05/17