はじめに
「同性婚訴訟 札幌地裁判決」の内容を分析する。
判決
損害賠償請求事件 札幌地方裁判所 令和3年3月17日 (PDF)
判決文 PDF
札幌地裁判決 令和3年3月17日 同性婚違憲訴訟(全文) PDF
同性愛者に対し,婚姻効の一部も享受する手段を提供しないことは,憲法14条1項に違反するとした裁判例(札幌地判令和3年3月17日) 2023年3月21日
判決要旨
判決要旨 PDF
【判決要旨全文】「同性婚できないのは憲法違反」札幌地裁が日本初の判断 2021年03月17日
「同性婚できないのは憲法違反」札幌地裁が画期的な判断。判決要旨の全文を掲載 2021年03月17日
【判決要旨全文】同性婚認めないのは「合理的根拠を欠く差別」 札幌地裁が違憲判決 2021/3/17
この判決文の内容は、誤った前提認識や、法律論でない部分、判例引用の間違いなど、問題が多岐にわたる。複数ヵ所の誤りを同時に解きほぐすことが必要となるため、初学者には難解であると思われる。
ここでは、その誤りを丁寧に確認していきたい。
ポイント
〇 「性愛」は「内心の自由」の問題
この判決は、「性愛(性的指向)」は「内心の自由(思想良心の自由)」の問題であるにもかかわらず、「性愛(性的指向)」に基づいて当事者を分類している点で、法律論から逸脱しており、誤りである。
〇 「同性愛」と「同性婚」は直接的な関係性はない
この判決は、「性愛」と「婚姻制度」との間には直接的な関係性はないにもかかわらず、「性愛」を満たすことが婚姻制度の立法目的であるかのような前提に立って論じており、誤りである。
〇 「異性婚」や「同性婚」は法律用語ではない
「異性婚」や「同性婚」は法律用語ではないし、「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として成立するか否かの論点が別に存在するにもかかわらず、「同性婚」というように、「同性同士の組み合わせ」が「婚姻」として成立することを前提として論じている点で、論じ方として適切でない。
〇 「法律上の争訟」の範囲を超えている
司法権は「法律上の争訟」しか判断することはできないが、「性的指向が変わることはない。」などと「技術上または学術上に関する争」に決着をつけようとしている点で「法律上の争訟」の範囲を超えている。
〇 「区別取り扱い」そのものがない
この判決は、「本件区別取扱い」などと「区別取扱い」が行われていることを前提として論じているが、その「区別取扱い」の認定そのものが法律論に基づくものではなく、誤っている。法律論上の「区別取扱い」はない。
〇 下位法によって上位法を覆そうとしている
上位法の規定から導き出された解釈(下位法)を根拠として、その上位法を覆そうとする論理的な誤りがある。
〇 婚姻制度の「国の立法目的」と「個々人の利用目的」の混同
婚姻制度を立法する「国の立法目的」と、婚姻制度を利用する「個々人の利用目的」を混同し、婚姻制度を構築している趣旨・目的(意義)を見誤っている。
〇 憲法24条解釈の甘さ
13条や14条の例外として24条を位置付けるなど、様々な解釈の可能性があるにもかかわらず、十分な解釈枠組みを示すことができないままに14条違反と断定しており、整合性が明確となっていない。
〇 司法権からの逸脱
諸外国の動向などについてデータを示したり、国民意識を勘案するなどして判断の適否を論じようとしているが、それはもはや立法府による政策的な議論に任せるべき領域の話題であり、それらに基づいて法内容の適否を論じることは、司法権の範囲を逸脱している可能性がある。
司法権の範囲(法律上の争訟)
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……(略)……第一に、法を適用することによっては解決しえない紛争は、法律上の争訟とは言えず、裁判所の審査権は及ばない。宗教上の教義に関する争い(最判昭和56・4・7民集35巻3号443頁〈板まんだら事件〉)、学問の真理性に関する争い(東京地判平成4・12・16判時1472号130頁)などが、このような事項の例として挙げられる。
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司法権をめぐる論点 長谷部恭男 2004年9月 PDF (太字・下線は筆者)
憲法訴訟に関連する用語等の解説 衆議院憲法調査会事務局 平成12年5月 PDF
「法律上の争訟」に関する判例を確認する。
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裁判所法三条によれば「裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する」ものであり、ここに「法律上の争訟」とは法令を適用することによつて解決し得べき権利義務に関する当事者間の紛争をいうのである。……
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しかし、司法権の固有の内容として裁判所が審判しうる対象は、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に限られ、いわゆる法律上の争訟とは、「法令を適用することによつて解決し得べき権利義務に関する当事者間の紛争をいう」ものと解される(昭和二九年二月一一日第一小法廷判決、民集八巻二号四一九頁参照)。従つて、法令の適用によつて解決するに適さない単なる政治的または経済的問題や技術上または学術上に関する争は、裁判所の裁判を受けうべき事柄ではないのである。国家試験における合格、不合格の判定も学問または技術上の知識、能力、意見等の優劣、当否の判断を内容とする行為であるから、その試験実施機関の最終判断に委せられるべきものであつて、その判断の当否を審査し具体的に法令を適用して、その争を解決調整できるものとはいえない。この点についての原判決の判断は正当であつて、上告人は裁判所の審査できない事項について救済を求めるものにほかならない。……
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国家試験合格変更又は損害賠償請求事件 昭和41年2月8日 (PDF)
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裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であつて、かつ、それが法令の適用により終局的に解決することができるものに限られる(最高裁昭和三九年(行ツ)第六一号同四一年二月八日第三小法廷判決・民集二〇巻二号一九六頁参照)。したがつて、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争であつても、法令の適用により解決するのに適しないものは裁判所の審判の対象となりえない、というべきである。
……(略)……本件訴訟は、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争の形式をとつており、その結果信仰の対象の価値又は宗教上の教義に関する判断は請求の当否を決するについての前提問題であるにとどまるものとされてはいるが、本件訴訟の帰すうを左右する必要不可欠のものと認められ、また、記録にあらわれた本件訴訟の経過に徴すると、本件訴訟の争点及び当事者の主張立証も右の判断に関するものがその核心となつていると認められることからすれば、結局本件訴訟は、その実質において法令の適用による終局的な解決の不可能なものであつて、裁判所法三条にいう法律上の争訟にあたらないものといわなければならない。�
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そして、宗教団体における宗教上の教義、信仰に関する事項については、憲法上国の干渉からの自由が保障されているのであるから、これらの事項については、裁判所は、その自由に介入すべきではなく、一切の審判権を有しないとともに、これらの事項にかかわる紛議については厳に中立を保つべきであることは、憲法二〇条のほか、宗教法人法一条二項、八五条の規定の趣旨に鑑み明らかなところである(最高裁昭和五二年(オ)第一七七号同五五年四月一〇日第一小法廷判決・裁判集民事一二九号四三九頁、前記昭和五六年四月七日第三小法廷判決参照)。かかる見地からすると、特定人についての宗教法人の代表役員等の地位の存否を審理判断する前提として、その者の宗教団体上の地位の存否を審理判断しなければならない場合において、その地位の選任、剥奪に関する手続上の準則で宗教上の教義、信仰に関する事項に何らかかわりを有しないものに従ってその選任、剥奪がなされたかどうかのみを審理判断すれば足りるときには、裁判所は右の地位の存否の審理判断をすることができるが、右の手続上の準則に従って選任、剥奪がなされたかどうかにとどまらず、宗教上の教義、信仰に関する事項をも審理判断しなければならないときには、裁判所は、かかる事項について一切の審判権を有しない以上、右の地位の存否の審理判断をすることができないものといわなければならない(前記昭和五五年四月一〇日第一小法廷判決参照)。したがってまた、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴訟であっても、宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力が請求の当否を決する前提問題となっており、その効力の有無が当事者間の紛争の本質的争点をなすとともに、それが宗教上の教義、信仰の内容に深くかかわっているため、右教義、信仰の内容に立ち入ることなくしてその効力の有無を判断することができず、しかも、その判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものである場合には、右訴訟は、その実質において法令の適用による終局的解決に適しないものとして、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に当たらないというべきである(前記昭和五六年四月七日第三小法廷判決参照)。�
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建物明渡、代表役員等地位確認請求事件 平成元年9月8日 (PDF)
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そこで検討するに、原告の主張する右先行権の意味は必ずしも明らかではないが、ある研究に関し、他者に先んじて当該研究を手掛けた研究者が、他者に対し先駆者としての地位を主張しうるとともに、学会等においても、当該研究の先駆者としての評価を受け、尊重されることをも意味するもののようである。そうすると、原告の主張するこのような先行権の存在を認めるには、まず比較されるべき二つ以上の研究の先後を評価ないし判定しなければならないことになるが、二つ以上の研究の先後の評価ないし判定は、当該対比されるべき研究における時間的な先後の一事のみならず、当該各研究の内容、程度、方法、結果の発表態様、学説若しくは見解の当否若しくは優劣等種々の要素を総合しなければ容易になしえないものであって、このような学問上の評価ないし判定は、その研究の属する分野の学者・研究者等に委ねられるべきものであり、裁判所において審査し、法令を適用して解決することのできる法律上の争訟ではないといわなければならない。したがって、本件において、原告の前記講演が被告佐伯論文よりなされたとして、先行権を有することを前提とする原告の主張は、既にこの点において理由がないというべきである。
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札幌地裁判決の内容
具体的に、判決の誤りを確認する。
〇 項目のタイトルの文字サイズを拡大している部分がある。
〇 法律論として重要でない部分や訴訟手続き上の話などは「灰色」で潰した。
〇 「性愛」「異性愛」「同性愛」「両性愛」「異性愛者」「同性愛者」に色付けした。
〇 「同性愛者のカップル」を太字にした。
〇 「同性間の婚姻」「同性婚」に色付けした。
〇 「婚姻及び家族」「婚姻及び家族に関する事項」「婚姻及び家族に関するその他の事項」を太字にした。
〇 繰り返し出てくる主要な文に色付けているところがある。
〇 リンクを加えた。
【筆者】
インデント(字下げ)を加えて記載したところは、筆者の分析である。
令和3年3月17日判決言渡 同日原本領収 裁判所書記官〔印〕
平成31年(ワ)第267号 損害賠償請求事件
口頭弁論終結日 令和2年10月28日
判決
当事者目録は,別紙1のとおりである。なお,同別紙で定義した用語は,本文においても用いる。
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
被告は,原告らに対し,各100万円及びこれらに対する平成31年2月28日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要等
1 事案の概要
本件は,原告らが,同性の者同士の婚姻を認めていない民法及び戸籍法の規定は,憲法13条,14条1項及び24条に反するにもかかわらず,国が必要な立法措置を講じていないことが,国家賠償法1条1項の適用上違法であると主張し,慰謝料各100万円及びこれらに対する平成29年法律第44号による改正前の民法404条所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
2 前提事実(いずれも当事者間に争いがない。)
(1)性的指向
性的指向とは,人が情緒的,感情的,性的な意味で,人に対して魅力を感じることであり,このような恋愛・性愛の対象が異性に対して向くことが異性愛,同性に対して向くことが同性愛である(以下,性的指向が異性愛である者を「異性愛者」,性的指向が同性愛である者を「同性愛者」という。)。
【筆者】
「2」のタイトル部分で「いずれも当事者間に争いがない。」との記載がある。
しかし、「性的指向」とは、個々人の「内心の自由」の問題であり、その個々人の内心に基づいて当事者を分類することは妥当でない。
これは「当事者間に争い」がなくても、裁判所はこのような法律論でない分類に基づいて論理を組み立てようとしてはならない。
(2)原告らの関係等
ア 原告1及び原告2は,いずれも男性であり,同性愛者である。
原告1及び原告2は,平成31年1月,居住地において婚姻届を提出したが,両者が同性であることを理由に不受理とされた。
イ 原告3及び原告4は,いずれも男性であり,同性愛者である。
原告3及び原告4は,平成31年1月,居住地において婚姻届を提出したが,両者が同性であることを理由に不受理とされた。
ウ 原告5及び原告6は,いずれも女性であり,同性愛者である。
原告5及び原告6は,平成31年1月,居住地において婚姻届を提出したが,両者が同性であることを理由に不受理とされた。
【筆者】
「異性愛者」や「同性愛者」とは、法律上の区分ではない。これを理解するには、下記の事例を考えると分かりやすい。
例えば、原告が「同性愛者」でない場合に、その原告は何らかの不利益を受けていると言えるだろうか。
また、原告が「異性愛者」である場合に、その原告は何らかの不利益を受けていると言えるだろうか。
同様に、原告が「同性愛者」であった場合はどうだろうか。
法律上はもともと「異性愛者」であるのか、「同性愛者」であるのか、そのどちらにも当てはまらないかなどの事柄を審査していないのであるから、それらすべての原告がどの分類に属するかなど一切関知していない。
「異性愛者」や「同性愛者」とは、法律上の区分ではない。(『e-Gov 法令検索』で『同性愛』と検索しても、『0件』である。)
そのため、それらの原告に対して法律論上において、法の下の平等に抵触するような不利益な取り扱いを行っているという事実が存在しないのである。
それらの者が「同性愛者」であるか「異性愛者」であるか、また、それ以外の者であるのかは、自己の思想信条を述べるに過ぎないものである。それらの者は、法律上は単に自己の思想信条に基づいて「同性愛者」や「異性愛者」と名乗っているだけである。
このような自己の思想信条に基づいて法の下の平等に違反するか否かを、法律論として審査することができるのであれば、原告は「キリスト教徒である。」や「イスラム教徒である。」、「仏教徒である。」などという分類に基づいて、その思想信条が満たされる社会基盤があるか否かの当否を主張することができることとなってしまう。
内心の問題に法律が踏み込むのであれば、「動物愛好家である。」、「鉄道オタクである。」、「天文マニアである。」なども通用することとなる。
そのため、もともと「異性愛」や「同性愛」という個々人の思想信条に基づいて、「異性愛者」や「同性愛者」という法律論上の区分ではない分類に二分し、その者たちの間に不平等が存在するか否かを裁判所が法律論として認定しようとする試みそのものが妥当でない。
「同性愛者である。」との記載がある。
しかし、裁判所が当事者の思想の露顕を強制するようなことがあれば、それは許されない。
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思想・良心の自由が不可侵であることの第二の意味は、国民がいかなる思想を抱いているかについて、国家権力が露顕(disclosure)を強制することは許されないこと、すなわち、思想についての沈黙の自由が保障されることである。国家権力は、個人が内心において抱いている思想について、直接または間接に、尋ねることも許されないのである。たとえば、江戸時代のキリスト教徒の弾圧の際に行われた「踏絵」、あるいは、天皇制の支持・不支持について強制的に行われるアンケート調査など、個人の内心を推知しようとすることは、認められない。
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憲法 第三版 芦部信喜・高橋和之補訂 (P140~141) (下線は筆者)
また、思想に基づいて区別取扱いを行うこともしてはならないのであり、「異性愛」や「同性愛」という感情や思想に基づいて当事者を「異性愛者」と「同性愛者」に分類して論じることもしてはならない。
このような主張が通用することになれば、「異性愛者」や「同性愛者」と告白した者に対しては法的な利益を与えるが、それを告白しない者には法的な利益を与えないなどとする措置も可能となってしまい、「思想良心の自由」や「沈黙の自由」を侵害することとなる。
江戸時代の「踏絵」に通じる暴挙である。
【動画】第19回〜「思想・良心の自由」 2022/01/24
3 民法及び戸籍法の関連規定
民法739条1項は,婚姻は戸籍法の定めるところにより届け出ることによってその効力を生ずるとし,同法74条1号は,婚姻をしようとする者は,夫婦が称する氏を届け出なければならない旨規定するなど,婚姻制度を定める民法及び戸籍法の諸規定が全体として異性間の婚姻(以下「異性婚」という。)のみを認めることとし,同性間の婚姻(以下「同性婚」という。)を認める規定を設けておらず,これら民法及び戸籍法の婚姻に関する諸規定(以下,総称して「本件規定」という。)は,婚姻は,異性間でなければすることができない旨規定している。
【筆者】
「異性間の婚姻(以下「異性婚」という。)」や 「同性間の婚姻(以下「同性婚」という。)を認める規定を設けておらず,」との記載がある。
しかし、「異性婚」や「同性婚」という言葉は法律用語ではない。このような言葉が通用するのであれば、「兄弟婚」「姉妹婚」「家族婚」「会社婚」「組合婚」など、「婚」と付けるだけですべて「婚姻」の一種として取り扱えるかのような誤解を生むことになるため、注意する必要がある。
また、憲法24条1項の「両性」「夫婦」の文言によって「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」を認めていない(禁じている・排除している・立法裁量の限界を画している)と解する場合や、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」の文言が「婚姻」の成立条件と解する場合には、「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」として扱うことはできないのであり、あたかも「同性同士の組み合わせ」が「婚姻」として成り立つかのような前提を含む「同性婚」という言葉を用いることは妥当でない。
4 争点及び争点に対する当事者の主張の要旨
本件の争点は次のとおりであり,争点に対する当事者の主張の要旨は,別紙2のとおりである。なお,同別紙で定義した用語は,本文においても用いる。
(1)本件規定は憲法13条,14条1項又は24条に違反するものであるか
(2)本件規定を改廃しないことが国家賠償法1条1項の適用上違法であるか
(3)原告らの損害額
第3 当裁判所の判断
1 認定事実
後掲証拠等によれば,次の事実を認めることができる。
(1)性的指向等
ア 性的指向
性的指向とは,人が情緒的,感情的,性的な意味で,人に対して魅力を感じることであり,このような恋愛・性愛の対象が異性に対して向くことが異性愛,同性に対して向くことが同性愛である。性的指向が決定される原因,又は同性愛となる原因は解明されておらず,遺伝的要因,生育環境等複数の要因が組み合わさって作用している可能性が指摘されているが,精神医学に関わる大部分の専門家団体は,ほとんどの人の場合,性的指向は,人生の初期か出生前に決定され,選択するものではないとしており,心理学の主たる見解も,性的指向は意思で選ぶものでも,意思により変えられるものでもないとしている。同性愛者の中には,性行動を変える者もいるが,それは性的指向を変化させたわけではなく行動を変えたにすぎないものであり,自己の意思や精神医学的な療法によっても性的指向が変わることはない。(前提事実(1),7〔枝番号を含む〕231,233,235,原告1~2,4~6本人)
【筆者】
これらは、すべて「内心の自由」(思想良心の自由)の範囲の問題である。法律は個々人がここでいうどのような「性的指向」を抱く者であるかを審査していない。
また、自分がどのような「性的指向」に属すると考えるかも、「内心の自由」の問題であるし、黙秘権を行使して黙秘することも可能である。
「精神医学に関わる大部分の専門家団体は,ほとんどの人の場合,性的指向は,人生の初期か出生前に決定され,選択するものではないとしており,心理学の主たる見解も,性的指向は意思で選ぶものでも,意思により変えられるものでもないとしている。同性愛者の中には,性行動を変える者もいるが,それは性的指向を変化させたわけではなく行動を変えたにすぎないものであり,自己の意思や精神医学的な療法によっても性的指向が変わることはない。」との記載がある。
しかし、裁判所は「法律上の争訟(裁判所法3条)」しか判断することはできないにもかかわらず、「性的指向が変わることはない。」などと、「法律上の争訟」の範囲を超える「技術上または学術上に関する争」に決着をつけようとしている点で妥当でない。
「法律上の争訟」の範囲について、下記の判例がある。
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しかし、司法権の固有の内容として裁判所が審判しうる対象は、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に限られ、いわゆる法律上の争訟とは、「法令を適用することによつて解決し得べき権利義務に関する当事者間の紛争をいう」ものと解される(昭和二九年二月一一日第一小法廷判決、民集八巻二号四一九頁参照)。従つて、法令の適用によつて解決するに適さない単なる政治的または経済的問題や技術上または学術上に関する争は、裁判所の裁判を受けうべき事柄ではないのである。国家試験における合格、不合格の判定も学問または技術上の知識、能力、意見等の優劣、当否の判断を内容とする行為であるから、その試験実施機関の最終判断に委せられるべきものであつて、その判断の当否を審査し具体的に法令を適用して、その争を解決調整できるものとはいえない。この点についての原判決の判断は正当であつて、上告人は裁判所の審査できない事項について救済を求めるものにほかならない。従つて、この点に目を蔽つて、一途に上告人の答案が正解であり、不合格判定を維持することが放任されるのでは憲法の趣旨に反するものと主張する所論は、正鵠を失するものであって、採用することができない。
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国家試験合格変更又は損害賠償請求事件 最高裁判所第三小法廷 昭和41年2月8日
このように、「学問または技術上の知識、能力、意見等の優劣、当否の判断を内容とする行為」については、「その判断の当否を審査し具体的に法令を適用して、その争を解決調整できるものとはいえない」ため、裁判所の審判できる「法律上の争訟」の範囲を超えるものである。それにもかかわらず、この判決では、「性的指向が変わることはない。」というように、これに決着をつけようとしている点で妥当でない。
これにより、「司法権の範囲」を超えており、違法であると考えられる。
【動画】【憲法_重要判例】(司法権)【板まんだら事件】 2020/11/29
【動画】【行政書士 #3】憲法の統治で一番苦手?裁判所を簡単に攻略!判例の勉強方法もわかりやすく解説(講義 ゆーき大学) 2021/03/12
【動画】行政書士試験対策公開講座 憲法36「裁判所」 2016/03/15
「性的指向」と称するものについて自らの意思で変えることができるかどうかを、それを前提とする判断については、法令を適用することによって終局的に解決することができる問題ではない。
そのため、これは「法律上の争訟」の範囲を超えるものであり、司法権を行使して解決することはできない。
よって、これを前提として何らかの結論を導き出そうとしているこの判決の内容は、憲法76条1項の「司法権」や、裁判所法3条の「法律上の争訟」の範囲を超え、裁判所の有する権限を逸脱した違憲・違法な判断となる。
【動画】2023年度前期・九大法学部「憲法1(統治機構論・後半)」第5回〜裁判所② 2023/07/01
この点について、この判決文では下記のように8回ほど、「性的指向」についての判断が出てくる。
◇ 「1(1)ア」で、「性的指向は意思で選ぶものでも,意思により変えられるものでもない」
◇ 「3(3)ア」で、「性的指向は,自らの意思に関わらず決定される個人の性質であるといえ,」
◇ 「3(3)イ」で、「性的指向は人の意思によって選択・変更できるものではないことに照らせば,」
◇ 「3(3)ウ」で、「性的指向は,人の意思によって選択・変更できるものではなく,また後天的に変更可能なものでもないことが明らかになったこと」
◇ 「3(3)キ(イ)」の第一文で、「同性愛はいかなる意味でも精神疾患ではなく,自らの意思に基づいて選択・変更できるものでもないことは,」
◇ 「3(3)キ(イ)」の第二文で、「自らの意思で同性愛を選択したのではない」
◇ 「3(4)」の第二段落で、「人の意思によって選択・変更できない事柄である性的指向」
◇ 「3(4)」の第四段落で、「人の意思によって選択・変更し得ない性的指向の差異でしかなく,」
しかし、すべて「法律上の争訟」の範囲を超える違法な判断であると考えられる。
下記の記事にも、この問題は学術上の争いがあることを示している。
拙速慎むべきLGBT理解増進法案 2021/5/27
【動画】第19回〜「思想・良心の自由」 2022/01/24
【動画】憲法 人権(学問の自由)ミニ講義【森Tの行政書士合格塾】 2022/04/30
イ 性的指向別の人口
我が国における異性愛以外の性的指向を持つ者の人口は明らかではないが,いわゆるLGBT(男性及び女性の各同性愛者,同性愛と異性愛の双方の性的指向を有する両性愛者及び心の性と体の性が一致していないトランスジェンダーの総称)に該当する人が,人口の7.6%とする調査,5.9%とする調査,8%とする調査などがあり,いずれの調査においても異性愛者の割合は9割を超えている(甲A350)。
【筆者】
「異性愛」や「同性愛」、「両性愛」、「トランスジェンダー」など、すべて「内心の自由」の範囲の問題である。
法律上は国民一人一人がどの分類に属するかなど全く関知しておらず、それらの者に対して異なる取り扱いをしているという事実はない。
これは、国民が「キリスト教」と「イスラム教」、「仏教」、「神道」、「無宗教」などのどの分類に属するかを審査していないことと同じである。「キリスト教」も「イスラム教徒」も「仏教」も「神道」も「無宗教」も、人口の何パーセントかは存在している。
もしそのような思想や信条を審査し、それらを異なる属性に区別し、その区別に従って異なる取り扱いをしているという事実が認められたのであれば、「平等権(14条)」に抵触するか否かを判断する必要性が考えられるが、もともと法的に分類しておらず、法が関知していない部分に対して法的な審査を行うことはできないし、法的な審査として成り立たないことから、法的な審査を行おうとすることもしてはならない。
憲法14条が「法的な差別取扱いを禁止する趣旨のもの」であることは、下記の通りである。
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1 憲法14条1項は,法の下の平等を定めており,この規定が,事柄の性質に応じた合理的な根拠に基づくものでない限り,法的な差別的取扱いを禁止する趣旨のものであると解すべきことは,当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁,最高裁昭和45年(あ)第1310号同48年4月4日大法廷判決・刑集27巻3号265頁等)。
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損害賠償請求事件 最高裁判所大法廷 平成27年12月16日 (PDF) (再婚禁止期間違憲訴訟)
そのため、法が関知していない部分については憲法14条の「平等権」を用いて審査することはできない。
下記の判例も参考になる。
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この点について判決は「婚姻後も夫婦別氏を希望することは『信条』に当たる」と認めたが、「夫婦別氏を希望する者と夫婦同氏を希望する者とに二分し、夫婦別氏の希望を指標として不利益的な取扱いを定めたものではない」「信条の違いに着目した法的な差別的取扱いを定めているものではない」と判断。……(略)……
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第2次別姓訴訟・東京判決 「信条による差別」認めず 宮本有紀 2019年10月15日 (下線は筆者)
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(P1)
「憲法14条1項後段の『信条』とは、宗教上の信仰のほか、政治や人生に関する信念・主義・主張を含むものであるから、婚姻に際して婚姻後も夫婦別氏を希望することは『信条』に当たると考えられる。」
(P2)
「同規定は、……法律婚に関し、同規定の法内容として、夫婦同氏を希望する者と夫婦別氏を希望する者との間でその信条の違いに着目した法的な差別的取扱いを定めているものではないから、同規定の定める夫婦同氏制それ自体に夫婦同氏を希望する者と夫婦別氏を希望する者との間の形式的な不平等が存在するわけではない。」
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第2次夫婦別姓訴訟━━民法750条夫婦同氏の合憲性 近畿大学准教授 池田晴奈 2020年2月14日 (下線は筆者)
(2)明治期における同性愛に関する知見
明治期においては,同性愛は,健康者と精神病者との中間にある変質狂の1つである色情感覚異常又は先天性の疾病であるとされていた。色情感覚異常の著明な症状は,色情倒錯又は同性的色情であり,男子は年少の男子に対して色情を持ち,「鶏姦」(男性問の性的行為)をするものとされ,女子は女子を愛してしまうものであり,これらが変質徴候の第一とされていた。このような色情感覚異常者に対する治療法として,催眠術を施す他,臭素剤を投与する,身体的労働をさせる,冷水浴をさせる,境遇を変化させるなどが行われていた。(甲A187,189)
【筆者】
「異性愛者」も「同性愛者」もその他の「性愛」を有する者も、日本国憲法の下では「思想良心の自由(19条)」によって完全に保障されている。「異性愛者」であろうと、「同性愛者」であろうと、その他の「性愛」を有する者であろうと、婚姻制度を利用することができる。
また、「異性愛者」も「同性愛者」もその他の「性愛」を有する者も、精神病であるかといえば、そういうわけでもない。
これを理解するために他の事例を出すとすれば、「アスペルガー」も「自閉症」も「サイコパス」も、日本国憲法の下では「思想良心の自由(19条)」によって完全に保障されている。「アスペルガー」であろうと、「自閉症」であろうと、「サイコパス」であろうと、婚姻制度を利用することができる。
「アスペルガー」も「自閉症」も「サイコパス」も、精神病であるかといえば、そういうわけでもない。そもそも、精神病と認定できるか否かにも「病気とは何か」という論点もあり、明確な境界線があるわけではない。
「アスペルガー」も「自閉症」も「サイコパス」も人口の何パーセントかは存在している。
「性愛(性的指向)」もこれと同じであり、「内心の自由」に属する問題である。法律は個々人がどれに属するかを審査していないし、それらの者に対して異なる取り扱いをしている事実はない。
また,青年期における同性愛は,愛情に対する欲求が極めて強いために起こることであり,ある程度を超えなければ心配する必要がないが,同性同士の愛情を深め,不純な同性愛に向くこともあり,そのような場合はすこぶる注意すべきことであって,絶対に禁止すべきものとされていた(甲A190)。
【筆者】
「絶対に禁止すべきものとされていた」との記載があるが、少なくとも日本国憲法の下では個々人の内心は「思想良心の自由(19条)」によって完全に保障されているため、「禁止」することはできない。
もし個々人の内心を「禁止」するような法律が立法されたのであれば、19条に違反して違憲となる。
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(二)保障の意味 このような思想・良心の自由を「侵してはならない」とは、第一に、国民がいかなる国家観、世界観、人生観をもとうとも、それが内心の領域にとどまる限りは絶対に自由であり、国家権力は、内心の思想に基づいて不利益を課したり、あるいは、特定の思想を抱くことを禁止することができない、ということである。たとえ民主主義を否定する思想であっても、少なくとも内心の思想にとどまる限り処罰されない、と解すべきである。
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憲法 第三版 芦部信喜・高橋和之補訂 (P140) (下線は筆者)
(3)昭和22年法律第222号による改正(以下「昭和22年民法改正」という。)前の民法の家族法部分(以下「明治民法」という。)における婚姻制度等
ア 明治民法の起草
明治民法の起草に当たっては,フランス民法,イタリア民法,ベルギー民法など8か国の外国法を参照するところから始まったが,その起草過程においては,婚姻は当然に男女がするものであることが前提とされており,同性婚の許否について議論がされた形跡は見当たらない。当時の外国法においては,同性婚を明示的に禁止するものもみられたが,起草者は,同性婚が認められないことは当然であって,あえて民法に規定を置くまでもないと考えていた。(甲A184,186,188)。
【筆者】
「同性婚の許否について議論がされた形跡は見当たらない。」との記載がある。
【参考】「害悪だった近親婚や重婚は明確に法的に禁止したが、同性婚は現実に想定されるような影響がなかったから法に書かずに」 Twitter
イ 明治民法における婚姻
明治民法が制定される以前から,婚姻は,人生における重要な出来事の1つとされ,かつ,既に一定の慣習が存在した。明治民法は,そのような慣習を直ちに改めるのではなく,慣習を踏襲しつつも,慣習の中には,そのまま認めれば弊害となる事柄があったり,慣習によっては決められない不明な点もあったりしたことから,そのような事柄について法により規律するものとして制定された。(乙3)
明治民法においては,家を中心とする家族主義の観念から,家長である戸主に家を統率するための戸主権を与え,婚姻は家のためのものであるとして戸主や親の同意が要件とされ,当事者間の合意のみによってはできないものとされた上,夫の妻に対する優位が認められていた。このような明治民法における婚姻は,終生の共同生活を目的とする,男女の,道徳上及び風俗上の要求に合致した結合関係であり,又は,異性間の結合によって定まった男女間の生存結合を法律によって公認したものであるとされた。したがって,婚姻が男女間におけるものであることはいうまでもないことであるとされ,よって,同性婚を禁じる規定は置かれていなかった。同性婚は,学問を妻とするとか,書籍を配偶者とするなどの比喩を用いる場合と同様に,婚姻意思を全く欠くものとして否認されなければならないとされた。(甲A19,183,188,193,乙4,5)
【筆者】
「同性婚を禁じる規定は置かれていなかった。」との記載がある。
【参考】「害悪だった近親婚や重婚は明確に法的に禁止したが、同性婚は現実に想定されるような影響がなかったから法に書かずに」 Twitter
「同性婚は,学問を妻とするとか,書籍を配偶者とするなどの比喩を用いる場合と同様に,婚姻意思を全く欠くものとして否認されなければならないとされた。」との記載がある。
しかし、「学問」や「書籍」は「自然人」や「法人」ではないことから、民法上の法主体(人)として認められておらず、「権利能力」を有していない。そのため、「学問」や「書籍」に対しては法律関係を構成する(結び付ける)ことができない。
そのため、「学問」や「書籍」と「婚姻」することができない原因となっているものは、「婚姻意思」の存否以前の問題である。
「学問」や「書籍」に対して、「権利能力」を有する法主体同士の間で問題となる「婚姻意思」の存否という観点によって法律関係を検討しようとしている点で妥当ではない。
ウ 明治民法における婚姻制度の目的
明治民法においては,その起草時から,子をつくる能力を持たない男女であっても婚姻をすることができるかという検討・議論がされていた。婚姻の性質を,男女が種族を永続させるとともに,人生の苦難を共有して共同生活を送ることと解すべしとの見解があった一方で,男女が種族を永続させるとの定義は,老齢等の理由により子をつくることができない夫婦がいることを説明できないとの反対の見解が示された。また,子をつくる能力がない男女は,婚姻の材料を欠き,その目的を達し得ないから婚姻し得ないとの見解が示された一方で,そのように婚姻を理解するのは明治民法の趣旨に沿ったものではなく,婚姻とは両者の和合にその本質があり,子をつくる能力は婚姻に必要不可欠の条件ではないとの反対の見解が示された。
このような議論を経て,明治民法においては,婚姻とは,男女が夫婦の共同生活を送ることであり,必ずしも子を得ることを目的とせず,又は子を残すことのみが目的ではないと考えられるに至り,したがって,老年者や生殖不能な者の婚姻も有効に成立するとの見解が確立された。
(以上につき,甲A186,196,199,乙4)
【筆者】
「明治民法においては,婚姻とは,男女が夫婦の共同生活を送ることであり,必ずしも子を得ることを目的とせず,又は子を残すことのみが目的ではないと考えられるに至り,したがって,老年者や生殖不能な者の婚姻も有効に成立するとの見解が確立された。」との記載がある。
しかし、「国が民法で婚姻制度を構築する立法目的」と、「個々人が民法の婚姻制度を利用する際の個々人の目的」は異なることを理解する必要がある。
そのため、「婚姻とは,男女が夫婦の共同生活を送ることであり,必ずしも子を得ることを目的とせず,又は子を残すことのみが目的ではない」との部分は、「個々人が民法の婚姻制度を利用する際の個々人の目的」に過ぎないものである。(『男女が夫婦の共同生活を送る』の部分は、法律上の『婚姻』の成立要件や『同居義務』に関係していると思われる。)
そのため、「必ずしも子を得ることを目的とせず,又は子を残すことのみが目的ではない」との部分や、「老年者や生殖不能な者の婚姻も有効に成立するとの見解が確立され」ていることを根拠として、「同性同士の組み合わせ」についても「婚姻」として成立させることのできる余地があるかのように論じる際の前提として利用しようとしているのであれば、誤りである。
「国が民法で婚姻制度を構築する立法目的」が、「『子の福祉』の実現する社会基盤を形成すること」や「『近親交配』を抑制すること」、「未婚の男女の数の不均衡によって『子を持ちたくても持つ機会に恵まれない者』が生まれないようにすること」などであれば、その婚姻制度を利用する個々人について、「必ずしも子を得ることを目的とせず,又は子を残すことのみが目的ではない」や「老年者や生殖不能な者の婚姻も有効に成立する」との事情が存在するとしても、「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」の中に含まれないと考えられるのである。
「婚姻」の目的は、「婚姻」を行う個々人が勝手に自覚すればよいのであり、問題となる論点は国が法律上の制度として婚姻制度を立法する目的である。
どういう関係を法律上で結び付け、どのような利益をもたらすのかが立法目的となるのであり、「婚姻」する当事者がどのような認識を有しているかは切り分けて考える必要がある。
(4)戦後初期(昭和20年頃)から昭和55年頃までの間における同性愛に関する知見等
ア 医学,心理学領域における同性愛に関する知見
戦後初期においても,鶏姦又は女子相姦は,変態性欲の1つとされた。すなわち,鶏姦や女子相姦は,陰部暴露症などと並んで精神異常者や,色欲倒錯者に多くみられるものであり,病理とされた。
心理学の分野においても,同性愛は,古来より存在し,民族や階級等にかかわらず存在する,性欲の質的異常とされていた。同性愛は,異性愛への心理的成熟以前に,精神的又は肉体的な同性愛を経験しそれが定着した場合に生じることがあるとされ,その後,異性愛者となり,健康な結婚生活を営めるようになる場合が一般的ではあるものの,外的要因によって同性愛に病的に定着してしまうことがあり,それは一般の健康な親愛とは違って,性的不適応の一種であるとされた。そのように病的に同性愛が定着してしまった場合の心理療法として,自己暗示,自己観察,原因の探求などを行うものとされ,異性愛に対する障害を取り去ることが根本的対策であるともされていた。
(以上につき,甲A201,205)
イ 外国における同性愛に関する知見
米国精神医学会が,1952年(昭和27年)に刊行した精神障害のための診断と統計の手引き第1版(DSM-Ⅰ)及び1968年(昭和43)年に刊行した同第2版(DSM-Ⅱ)においては,同性愛は,病理的セクシュアリティーを伴う精神病質人格又は人格障害とされていた(甲A48,215)。
また,世界保健機関が公表した国際疾病分類(ICD)においても,1992年(平成4年)に改訂第10版(ICD-10)が公表されるまでの改訂第9版(I9D-9)以前においては,同性愛は性的偏倚と性的障害の項目に位置付けられていた(甲A29)。
ウ 教育領域における同性愛の扱い
昭和54年1月,当時の文部省が発行した中学校,高等学校の生徒指導のための資料である「生徒の問題行動に関する基礎資料」には,性非行の中の倒錯型性非行として同性愛が示されており,正常な異性愛が何らかの原因によって異性への嫌悪感となったりすること,年齢が上がるに従い正常な異性愛に戻る場合が多いが成人後まで続くこともあること,一般的に健全な異性愛の発達を限害するおそれがあり,また社会的にも健全な社会道徳に反し,性の秩序を乱す行為となり得るもので,現代社会にあっても是認されるものではないことなどが示されていた(甲A26)。
(5)昭和22年民法改正後の民法の家族法(以下「現行民法」という。)における婚姻
ア 昭和22年民法改正
昭和22年民法改正は,明治民法を改正するものであったが,これは次の理由による。
憲法13条及び14条は,全て国民は個人として尊重され,法の下に平等であって,性別その他により経済的又は社会的関係において差別されないことを明らかにし,同法24条では,婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として相互の協力により維持されなければならないこと,及び配偶者の選択,財産権,相続,住居の選定,離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては,法律は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならないことを宣言しているが,明治民法には,この憲法の基本原則に抵触する規定があるので,これを改正する必要があるとされた。すなわち,明治民法においては,家を中心とする家族主義の観念から,家長である戸主に家を統率するための戸主権を与え,婚姻も家のためのものであるとされ,戸主や親の同意が要件とされ,当事者間の合意のみによってはできないものとされ,また,夫の妻に対する優位が認められていたことから,これを,婚姻の自主性を宣言し,個人を自己目的とする個人主義的家族観に基づいた家族基盤の法律的規制に改めるためにされたものである。
もっとも,昭和22年民法改正は,明治民法のうち憲法に抵触する規定を中心に行われ,憲法に抵触しない規定については明治民法の規定を踏襲したものであり,この際に同性婚については議論された形跡はない。
(以上につき,甲A19,142,143,145,146,152,177,乙6,7,弁論の全趣旨)
【筆者】
上記の内容であるが、明治民法から現行憲法下での民法に改正された経緯を示したものであるが、「婚姻」そのものの立法目的を述べたものではないことに注意が必要である。
「この際に同性婚については議論された形跡はない。」との部分であるが、「同性婚」は法律用語ではないし、「同性同士の組み合わせ」については、そもそも「婚姻」として成立するか否かの論点が別に存在するため、「同性婚」というように「同性同士の組み合わせ」が「婚姻」として成り立つことを前提とした用語を用いることは妥当でない。
【参考】「害悪だった近親婚や重婚は明確に法的に禁止したが、同性婚は現実に想定されるような影響がなかったから法に書かずに」 Twitter
イ 昭和22年民法改正当時に考えられていた婚姻
昭和22年民法改正によっても,婚姻は引き続き男女の当事者のみができるものとされ,夫婦関係とは,社会で一般に夫婦関係と考えられているような,社会通念による夫婦関係を築く男女の精神的・肉体的結合であるとされていた。また,婚姻意思とは,当事者に社会の風俗によって定まる夫婦たる身分を与え,将来当事者間に生まれた子に,社会の風習によって定める子たる身分を取得させようとする意思,又は,その時代の社会通念に従って婚姻とみられるような関係を形成する意思であるなどと解されていた。(甲A206,207,乙8,9)
【筆者】
「夫婦関係とは,社会で一般に夫婦関係と考えられているような,社会通念による夫婦関係を築く男女の精神的・肉体的結合である」との部分であるが、民法の規定によって「婚姻」が定められているのであるから、この民法の規定に適合するか否かを「社会通念」によって判断しているものと考えられ、「社会通念」そのものが「婚姻」の内容を定めているわけではないことに注意が必要である。
そのため、民法上で強行規定として定められているにもかかわらず、「社会通念」によって民法上の規定を覆すことができるわけではないことに注意が必要である。
「婚姻意思」であるが、民法上の「婚姻」を成立させるためには届け出が必要である。
民法
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(婚姻の届出)
第七百三十九条 婚姻は、戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号)の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる。
2 前項の届出は、当事者双方及び成年の証人二人以上が署名した書面で、又はこれらの者から口頭で、しなければならない。
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「婚姻意思」がなければ「無効」である。
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(婚姻の無効)
第七百四十二条 婚姻は、次に掲げる場合に限り、無効とする。
一 人違いその他の事由によって当事者間に婚姻をする意思がないとき。
二 当事者が婚姻の届出をしないとき。ただし、その届出が第七百三十九条第二項に定める方式を欠くだけであるときは、婚姻は、そのためにその効力を妨げられない。
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ここでは「婚姻意思とは,当事者に社会の風俗によって定まる夫婦たる身分を与え,将来当事者間に生まれた子に,社会の風習によって定める子たる身分を取得させようとする意思,又は,その時代の社会通念に従って婚姻とみられるような関係を形成する意思である」としているが、民法上の規定に当てはまらない者については、そもそも「婚姻」ではないのであるから、「婚姻意思」を有しているとは言えないことに注意が必要である。
そのため、民法上に規定がないにもかかわらず、「同性同士の組み合わせ」についても「婚姻意思」があれば「婚姻」として取り扱うことが可能となる余地が生まれるというわけではないことに注意が必要である。
ウ 同性婚に対する理解
昭和22年民法改正が行われた頃は,上記イのとおり,夫婦関係とは,社会で一般に夫婦関係と考えられているような,社会通念による夫婦関係を築く男女の精神的・肉体的結合であるとされていたため,同性婚はその意味で婚姻ではないとされた。また,明治民法下と同様に,同性婚は,学問を妻とするとか,芸術と結婚するなどと比喩する場合と同様に,婚姻意思を全く欠くものとして否認されなければならないとされた。(甲A206,207,乙9)
【筆者】
「夫婦関係とは,社会で一般に夫婦関係と考えられているような,社会通念による夫婦関係を築く男女の精神的・肉体的結合であるとされていたため,同性婚はその意味で婚姻ではないとされた。」との記載がある。
しかし、民法上の規定に従って「婚姻」が定められ、それを基に「夫婦関係」に関する解釈が導かれているのであり、この民法上の規定を離れて「社会通念」が「婚姻」や「夫婦関係」の意味を形成しているわけではないことに注意する必要がある。
そのため、「社会通念」によって民法上の規定を覆すことが可能となるわけではないことに注意が必要である。
「同性婚は,学問を妻とするとか,芸術と結婚するなどと比喩する場合と同様に,婚姻意思を全く欠くものとして否認されなければならないとされた。」との記載がある。
しかし、「学問を妻とする」や「芸術と結婚する」については、「婚姻意思」以前の問題である。
民法上の法主体としての地位を認められている自然人の有する「権利能力」は、「出生(民法3条)」によって始まり、「死亡(通説)」によって終わる。
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第二章 人
第一節 権利能力
第三条 私権の享有は、出生に始まる。
2 外国人は、法令又は条約の規定により禁止される場合を除き、私権を享有する。
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権利能力(権利能力の終期) Wikipedia
そのため、「学問」や「芸術」については、民法上で「権利能力」を有する主体としての地位を認められておらず、権利・義務を構成すること(結び付けること)ができないことから、「学問」や「芸術」との間で婚姻関係を結ぶことはできない。
そのため「婚姻意思を全く欠くものとして否認されなければならない」などと、「婚姻意思」があれば「婚姻」することが可能となる余地があるかのような議論を取り上げている点が明らかに妥当でない。このような主張を裁判所が判決文として取り上げることは、言い方は悪いが、ちょっと質が低すぎるのではないか。
(6)昭和48年頃以降における同性愛に関する知見
ア 外国における同性愛に関する知見の変化
米国精神医学会は,1973年(昭和48年),同性愛を同学会の精神障害のリストから取り除くとの決議を行い,1975年(昭和50年)には,米国心理学会も,上記米国精神医学会の決議を支持し,同性愛それ自体では,判断力,安定性,信頼性,一般的な社会的能力又は職業遂行における障害を意味しないとの決議を採択した(甲A1〔枝番号を含む〕,3〔枝番号を含む〕)。
米国精神医学会は,1980年(昭和55年)に刊行した精神障害のための診断と統計の手引き第3版(DSM-Ⅲ)において,同性愛は,同性愛者である患者が,同性愛的興奮の持続したパターンが嫌で,持続的な苦悩の源泉であったと訴える場合のみが精神疾患に当たるものと改訂したが,これも,1987年(昭和62年)に刊行された第3版の改訂版(DSM-Ⅲ-R)においては削除され,同性愛は精神疾患とはされなくなった(甲A27の1~28の2,48,215,217)。
世界保健機関は,1992年(平成4年),同性愛を疾病分類から削除した国際疾病分類改訂第10版(ICD-10)を発表した。世界保健機関は,併せて,同性愛はいかなる意味でも治療の対象とならない旨宣明した。(甲A30の2,48,215,217)
イ 我が国における同性愛に関する知見の変化
我が国においても,昭和56年頃には,同性愛は,当事者が普通に社会生活を送っている限り,精神医学的に問題にすべきものではなく,当事者が精神的苦痛を訴えるときにだけ治療の対象とすれば足りるとの知見が広まり,その後,我が国の精神医学上,精神疾患とはみなされなくなった(甲A48,216,217)。
(7)諸外国及び地域における同性婚等に関する状況
ア 諸外国及び地域における法制度等の状況
(ア)1989年(平成元年),デンマークにおいて,同性婚とは異なるものの,同性の二者間の関係を公証し,又は一定の地位を付与する登録制度(導入した主体によって制度の内容は異なるが,以下,総称して「登録パートナーシップ制度」という。)が導入され,2001年(平成13年)にはドイツ及びフィンランド,2004年(平成16年)にはルクセンブルク,2010年(平成22年)にはアイルランドにおいて登録パートナーシップ制度が導入された(甲A141)。
(イ)また,次の各国は,次に掲げる年に同性婚の制度を導入した(甲A141)。
2000年(平成12年) オランダ
2003年(平成15年) ベルギー
2005年(平成17年) スペイン及びカナダ
2006年(平成18年) 南アフリカ
2008年(平成20年) ノルウェー
2009年(平成21年) スウェーデン
2010年(平成22年) ポルトガル,アイスランド及びアルゼンチン
2012年(平成24年) デンマーク
2013年(平成25年) ウルグアイ,フランス,ブラジル及び英国(イングランド及びウエールズ)
2015年(平成27年) ルクセンブルク及びアイルランド
2017年(平成29年) フィンランド,マノレタ,ドイツ及びオーストラリア
(ウ)米国連邦最高裁判所は,2015年(平成27年)6月25日,いわゆるObergefell事件において,婚姻の要件を異性のカップルに限り,同性婚を認めない州法の規定は,デュープロセス及び平等保護を規定する合衆国憲法修正第14条に違反する旨の判決を言い渡した(甲A155)。
台湾においては,2017年(平成29年),憲法裁判所に当たる司法院が,同性婚を認めない同国民法の規定は,同国憲法に違反する旨の解釈を示し,これに基づき同性婚を認める民法の改正が行われた(甲A101〔枝番号を含む〕,135)。
また,イタリアにおいては,2010年(平成22年),憲法裁判所が,婚姻は異性間の結合を指す旨判断し,2014年(平成26年)にも同様の判断をしたが,同性の当事者間の権利及び義務を適切に定めた婚姻とは別の形式が同国の法制度上存在しないため,この点が同国憲法に違反する旨の判断をし,この結果,2016年(平成28年)に登録パートナーシップ制度を認める法律が成立した(甲A141)。
(エ)ロシアは,2013年(平成25年),同性愛行為は禁止しないが,同性愛を宣伝する活動を禁止するための法改正を行い,2014年(平成26年),憲法裁判所も同性愛行為が同国憲法に違反しない旨の判断をした。
ベトナムにおいでは,2014年(平成26年),それまで禁止の対象となっていた同性との間で結婚式をすることを禁止事項から除く法改正を行ったが,同時に,婚姻は男性と女性との間のものと明記し,法律は同性婚に対する法的承認や保護を提供しないとされた。
また,韓国においては,2016年(平成28年),地方裁判所に相当する地方法院において,同性婚を認めるかは立法的判断によって解決されるべきであり,司法により解決できる問題ではないとの判断をした。同国の2013年(平成25年)の調査においては,同性婚を法的に認めるべきとする者が25%だったのに対し,認めるべきではないとする者が67%に上っていた。
(以上につき,甲141)
イ 日本に所在する外国団体の動向
在日米国商工会議所は,平成30年9月,日本を除くG7参加国においては同性婚又は登録パートナーシップ制度が認められているにもかかわらず,日本においてはこれらが認められていないことを指摘し,外国で婚姻した同性愛者のカップルが,我が国においては配偶者ビザを得られないなど同性愛者の外国人材の活動が制約されているなどとして,婚姻の自由をLGBTカップルにも認めることを求める意見書を公表した。また,同月,在日オーストラリア・ニュージーランド商工会議所,在日英国商業会議所,在日カナダ商工会議所及び在日アイルランド商工会議所も上記意見書に対する支持を表明し,その後,在日デンマーク商工会議所も支持を表明した。(甲A112,131,132)
【筆者】
「在日米国商工会議所は,」との記載がある。
【参考】「在日米国商工会議所意見書にみられるように、露骨に経済的視点からの人権論を言う事に罪悪感を全く持たないのである。」 Twitter
【参考】「人権も経済的利益も混ぜこぜに何でも主張すればするほど、どっかで矛盾を来す。結果的に司法の品位も低下させる。」 Twitter
【参考】「『経済効果があるから同性婚を認めろ』という指摘について、」……「生産性発言と同じロジック」 Twitter
【参考】「理屈として経済的メリットを挙げるのは、そうじゃない感ある」 Twitter
「日本を除くG7参加国においては同性婚又は登録パートナーシップ制度が認められているにもかかわらず,」との記載がある。
【参考】「そしてG8、ロシアを入れないのは何故?」 Twitter
【参考】「議論をするときに『先進国では』とか『欧米では』とか、相対的な基準を示すことってほぼ無意味だと思う」 Twitter
【参考】「『欲しい情報を探す』ので『G7』になってしまうワケです。」 Twitter
【参考】「日本はG7で最も婚外子が少なく、」 Twitter
【参考】「G7がどうこう持ち出すのは、先進国の傲り」 Twitter
(8)我が国の状況
ア 我が国においては,平成27年10月に東京都渋谷区が,同年11月に東京都世田谷区が登録パートナーシップ制度を導入したのをはじめとして,登録パートナーシップ制度を導入する地方公共団体が増加し,現在では導入した地方公共団体数が約60となり,そのような地方公共団体に居住する人口は合計で約3700万人を超えた(甲A75~91,98,119~129,164~170,271~292,311~322,325)。
イ 我が国における,権利の尊重や差別の禁止などLGBTに対する基本方針を策定している企業数の調査において,平成28年の調査結果では173社であったが,令和元年の調査結果では364社であった(甲A387,388)。
【筆者】
【参考】「以前は結婚に多様性を認めないなんて遅れてる系の教えをゆるく支持してた」……「『古い=悪い』って考えからして稚拙にすぎる…」 Twitter
(9)婚姻・結婚に関する統計
ア 婚姻に対する意識調査の結果
(ア)内閣府による平成17年版国民生活白書によれば,独身のときに子供ができたら結婚した方が良いかとの質問に対し,18~49歳のいずれの年齢層においても,そう思うとの回答がおおむね6割となり,そう思わないとの回答は1割に満たなかった。また,いずれ結婚するつもりであると回答した男女は,昭和57年から平成14年までの各年の調査を通じてそれぞれ9割を超えていた。(甲A236)
(イ)厚生労働省が行った平成21年の調査では,「結婚は個人の自由であるから,結婚しでもしなくてもどちらでもよい」という考え方に賛成又はどちらかといえば賛成する者は70%であったが,同省が平成22年に20~49歳を対象として行った調査によれば,「結婚は必ずするべきだ」又は「結婚はしたほうがよい」との意見を持つ者は合計で64.5%に上り,米国(53.4%),フランス(33.6%),スウェーデン(37.2%)を上回った(甲A238)。
(ウ)国立社会保障・人口問題研究所が行った平成27年の調査によれば,結婚することに利点があると思う未婚の者は,男性で64.3%,女性で77.8%であり,その理由として回答が多かったもの(2つまで選択可の選択肢式による調査)は,次のとおりである(甲A345)。
「子供や家族をもてる」(男性35.8%,女性49.8%)
「精神的な安らぎの場が得られる」(男性31.1%,女性28.1%)
「親や周囲の期待に応えられる」(男性15.9%,女性21.9.%)
「愛情を感じている人と暮らせる」(男性13.3%,女性14%)
「社会的信用や対等な関係が得られる」(男性12.2%,女性7%)
(エ)国立社会保障・人口問題研究所が行った平成27年の調査によれば,未婚者に対する「生涯を独身で過ごすというのは,望ましい生き方ではない」との質問には男性の64.7%,女性の58.2%が賛成し,「男女が一緒に暮らすなら結婚すべきである」との質問には男性の74.8%,女性の70.5%が賛成と回答をした(甲A345)
イ 婚姻に関する統計
(ア)厚生労働省が行った平成30年の我が国の人口動態に関する調査によれば,平成28年の婚姻件数は,最も多かった昭和47年の110万組と比較すると約半分となって減少傾向ではあるものの,62万0531組であった(甲A239)。
(イ)厚生労働省が行った平成30年の上記調査によれば,我が国の婚姻率(年間婚姻件数を総人口で除した上で1000を乗じた割合)は,昭和47年以降,増減がありつつも減少傾向にあり,平成28年には5%となったが,イタリア(3.2%),ドイツ(4.9%),フランス(3.6%)オランダ(3.6%)等のヨーロッパ諸国を上回っている。また,出生に占める嫡出でない子の出生割合は,日本は2.3%であり,米国(40.3%),フランス(59.1%),ドイツ(35%),イタリア(30%),英国(47.9%)などよりもはるかに低い割合となっている。(甲A239)
【筆者】
「出生に占める嫡出でない子の出生割合は,日本は2.3%」との記載がある。
これは、日本国の婚姻制度が「子の福祉」を実現することを目的として「嫡出子として生まれること」を重視した制度設計を行っていることによるものと考えられる。
【参考】男女格差を失くすと豊かな一夫多妻的な社会になる 2016.10.05
【参考】表4-18 嫡出でない子の出生数および割合:1920~2015年
「フランスでは、結婚せず子供を作る人が半数。」 Twitter
そのため、日本国の中で婚姻制度に期待されているものは、他国の例とは比較にならないほどの背景の違いがある。
「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」とすること(いわゆる同性婚)について考える際に外国の事例を参考とする場合には、この違いを押さえる必要がある。
(ウ)厚生労働省が昭和61年から平成30年までに行った調査によれば,昭和61年以降の児童のいる世帯が全世帯に占める割合は年々減少し,昭和61年には46.2%であったものが,平成30年には22.1%まで減少した(甲A240)。
(10)同性婚の賛否等に関する意識調査の統計
ア 河口和也広島修道大学教授を研究代表者とするグループが行った平成27年の調査によれば,男性の44.8%,女性の56.7%が同性婚に賛成又はやや賛成と回答したが,男性の50%,女性の33.8%は同性婚に反対又はやや反対と回答した。この調査においては,20~30代の72.3%,40~50代の55.1%は同性婚に賛成又はやや賛成と回答したが,60~70代の賛成又はやや賛成の回答は32.3%にとどまり,同年代の56.2%は同性婚に反対又はやや反対と回答した。(甲A104の2)
イ 毎日新聞社が平成27年に行った調査によれば,同性婚について,男性の38%,女性の50%が賛成と回答したのに対し,男性の49%,女性の30%が反対と回答した(甲A105)。
ウ 日本放送協会が平成27年に行った調査によれば,同性同士が婚姻することを認めるべきかとの質問に対し,51%がそう思うと回答し,41%がそうは思わないと回答した(甲A107)。
エ 朝日新聞社が平成27年に行った調査によれば,同性婚を法律で認めるべきかとの質問に対し,49%が認めるべきだと回答し,39%が認めるべきではないと回答した。同回答においては,18~29歳及び30代においては,認めるべきだとの回答が7割に上ったが,60代では認めるべきだ,認めるべきではないのいずれの回答も42%であり,70歳以上では,認めるべきではないとの回答が63%を占めた。(甲A109)
オ 国立社会保障・人口問題研究所が平成30年に行った全国家庭動向調査によれば,同性愛者のカップルにも何らかの法的保障が認められるべきだとの調査項目に対し,全く賛成又はどちらかといえば賛成と回答した者は75.1%であり,全く反対又はどちらかといえば反対と回答した者は25.·0%であった。また,同性婚を法律で認めるべきだとの調査項目については,全く賛成又はどちらかといえば賛成と回答した者は69.5%であり,全く反対又はどちらかといえば反対と回答した者は30.5%であった。(甲A174)
2 本件規定が憲法24条又は13条に違反するか否かについて(争点(1)関係)
(1)婚姻及び家族に関する事項は,国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ,それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断を行うことによって定められるべきものである。したがって,その内容の詳細については,憲法が一義的に定めるのではなく,法律によってこれを具体化することがふさわしいものと考えられる。憲法24条2項は,このような観点から,婚姻及び家族に関する事項について,具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねるとともに,その立法に当たっては,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきであるとする要請,指針を示すことによって,その裁量の限界を画したものといえる。また,同条1項は,「婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として,相互の協力により,維持されなければならない。」と規定しており,婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものと解される。婚姻は,これにより,配偶者の相続権(民法890条)や夫婦間の子が嫡出子となること(同法772条1項等)などの重要な法律上の効果が与えられるものとされているほか,近年家族等に関する国民の意識の多様化が指摘されつつも,国民の中にはなお法律婚を尊重する意識が幅広く浸透していると考えられることをも併せ考慮すると,上記のような婚姻をするについての自由は,憲法24条1項の規定の趣旨に照らし,十分尊重に値するものと解することができる。(最高裁平成25年(オ)第1079号同27年12月16日大法廷判決・民集69巻8号2427頁〔以下「再婚禁止期間違憲訴訟大法廷判決」という。〕)
ところで,憲法24条1項は「両性の合意」,「夫婦」という文言を,また,同条2項は「両性の本質的平等」という文言を用いているから,その文理解釈によれば,同条1項及び2項は,異性婚について規定しているものと解することができる。そこで,上記のような婚姻をするについての自由が,同性間にも及ぶのかについて検討しなければならない。
【筆者】
「異性婚について規定しているものと解することができる。」との記載があるが、「異性婚」という言葉は法律用語ではない。
「上記のような婚姻をするについての自由が,」の記載がある。
しかし、この「婚姻をするについての自由」というものは24条から直接的に導き出すことができると考えるものなのか、具体的な法律が制定されることによって、それを利用するか否かの自由のことを前提としているのかを明らかにする必要がある。
前提として、先ほど挙げられた「平成27年12月16日最高裁判決」が、「その内容の詳細については,憲法が一義的に定めるのではなく,法律によってこれを具体化することがふさわしいものと考えられる。」と述べ、「憲法24条2項は,このような観点から,婚姻及び家族に関する事項について,具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねるとともに,その立法に当たっては,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきであるとする要請,指針を示すことによって,その裁量の限界を画したものといえる。」としているのであるから、「婚姻するについての自由」についてもその具体的な制度を利用するか否かについて述べたものと考えられる。
また、同じく先ほど挙げられた「平成27年12月16日最高裁判決」が、「同条1項は,『婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として,相互の協力により,維持されなければならない。』と規定しており,婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものと解される。」と述べている部分についても、同様に法律によって具体化された制度を利用するか否かについて述べられたものと考えられる。
令和3年6月23日の最高裁の「決定」の「補足意見」においても、「婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたもの」のいう「婚姻」は「法律婚」のことであり、これは「法制度のパッケージとして構築されるもの」について述べたものとしている。
裁判官深山卓也,同岡村和美,同長嶺安政の補足意見
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また,憲法24条1項は,婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものであるところ,ここでいう婚姻も法律婚であって,これは,法制度のパッケージとして構築されるものにほかならない。そうすると,仮に,当事者の双方が共に氏を改めたくないと考え,そのような法律婚制度の内容の一部である夫婦同氏制が意に沿わないことを理由として婚姻をしないことを選択することがあるとしても,これをもって,直ちに憲法24条1項の趣旨に沿わない制約を課したものと評価することはできない。
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市町村長処分不服申立て却下審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件 最高裁判所大法廷 令和3年6月23日 (PDF)
そうなると、「上記のような婚姻をするについての自由が,同性間にも及ぶのかについて検討しなければならない。」との部分の「婚姻をするについての自由」とは、法律によって具体化された具体的な制度を利用するか否かに関する自由に過ぎず、憲法上で保障されている個々人の「具体的な権利」を示す意味の「自由」とは異なる。
「婚姻をするについての自由」は法律規定に則った形でしか存在しないということである。
すると、「同性間にも及ぶのかについて」の部分について、「及ぶ」か否か以前に、「同性間」については法律によって具体化された制度に該当しないのであるから、「同性間」の当事者はそもそもここでいう「婚姻をするについての自由」を有していないことになる。「及ぶ」という表現からは、「憲法上で保障された具体的な権利・自由」を主張することのできる地位が、「同性間」にも「及ぶ」か否かを論じるかのように聴こえるが、もともとここでいう「婚姻するについての自由」の意味は、「憲法上で保障された具体的な権利・自由」とは異なることから、「及ぶ」との表現が当てはまらない事例である。
そのため、「同性間」の当事者は、「婚姻するについての自由」を有していないことになる。
この点の議論を深めるためには、「婚姻」は、法律の具体的な規定がなくても独立して成立する法形式であるのか、法律の具体的な規定が実定法として定められることによって初めて成立する法形式なのかを明らかにする必要がある。それを明らかにすることなしには、「婚姻」に関する「自由」が、憲法24条から直接導き出される性質なのか、具体化された法律規定によってつくられた制度を利用することができるか否かの範囲に留まるものなのか、その意味を確定することはできない。
【参考】「結婚という制度によって、結婚の権利を作り出しているよね つまり制度がなければ権利もない」 Twitter
(2)同性愛は,明治民法が制定された当時は,変質狂などとされて精神疾患の一種とみなされ,異性愛となるよう治療すべきもの,禁止すべきものとされていた(認定事実(2))。明治民法においては,同性婚を禁じる規定は置かれていなかったものの,これは,婚姻は異性間でされることが当然と解されていたためであり,同性婚は,明治民法に規定するまでもなく認められていなかった(認定事実(3)ア,イ)。また,同性愛は,戦後初期の頃においても変態性欲の1つなどとされ,同性愛者は精神異常者であるなどとされており(認定事実(4)ア),このことは外国においても同様であった(認定事実性)イ)。昭和22年5月3日に施行された憲法は,同性婚に触れるところはなく,昭和22年民法改正に当たっても同性婚について議論された形跡はないが,同性婚は当然に許されないものと解されていた(認定事実(5)ア~ウ)。
【筆者】
「明治民法においては,同性婚を禁じる規定は置かれていなかったものの,これは,婚姻は異性間でされることが当然と解されていたためであり,同性婚は,明治民法に規定するまでもなく認められていなかった」や「同性婚について議論された形跡はないが,同性婚は当然に許されないものと解されていた」との記載がある。
【参考】「害悪だった近親婚や重婚は明確に法的に禁止したが、同性婚は現実に想定されるような影響がなかったから法に書かずに」 Twitter
この段落では、「同性愛」と「同性婚」を結び付けて考える前提に立っているが、「同性愛」の感情を抱く者であっても「男女二人一組の婚姻(いわゆる異性婚)」を行うことは可能であるし、「人を愛する感情」や「性愛」を抱かない者であっても婚姻制度を利用することはできるのであるから、そもそも前提認識が誤っている。
その国家の中で法律上の制度として「婚姻」の形を定めているか否かの問題に対して、「異性愛」や「同性愛」という思想や感情が関与しなければならないとの前提に立つ論じ方は、法律論上の話ではないため、妥当でない。
そのため、「同性愛」が「精神疾患の一種」であろうとなかろうと、また、「同性愛者」が「精神異常者」であろうとなかろうと、法律上は既に立法されている婚姻制度そのものを利用することは可能なのである。
医学的な知見や精神的な問題、社会的な文化の問題、個々人の思想や信条などの内心の問題と、法律上の制度としての「婚姻」という法形式を因果関係なく結び付けて論じようとしている点で誤った前提認識があり、法律論として妥当でない。
【参考】「同性婚に慎重なのは、何も同性愛者を嫌悪しているからではない」 Twitter
【参考】「同性愛を肯定する事と同性婚に法的保護を与える事は次元が違う」 Twitter
【参考】「同性愛者へ自然に接することと、同性婚に現行法下で賛成することは、本質的に意味が違う。」 Twitter
【参考】「『同性婚に賛成かどうか』という問いは『同性愛に賛成かどうか』と混同されやすい」 Twitter
【参考】「『同性愛』と『同性婚』は全く別のもの」 Twitter
【参考】「同性婚に反対することや慎重になることを、同性愛(者)差別にすり替える論法」 Twitter
上記の事実経過に照らすと,まず,明治民法下においては,同性愛は精神疾患であることを理由として,同性婚は明文の規定を置くまでもなく認められていなかったものと解される。そして,昭和22年民法改正の際にも,同性愛を精神疾患とする知見には何ら変化がなく,明治民法下と同様の理解の下,同性婚は当然に許されないものと理解されていたことからすると,昭和21年に公布された憲法においても,同性愛について同様の理解の下に同法24条1項及び2項並びに13条が規定されたものであり,そのために同法24条は同性婚について触れるところがないものと解することができる。以上のような,同条の制定経緯に加え,同条が「両性」,「夫婦」という異性同士である男女を想起させる文言を用いていることにも照らせば,同条は,異性婚について定めたものであり,同性婚について定めるものではないと解するのが相当である。そうすると,同条1項の「婚姻」とは異性婚のことをいい,婚姻をするについての自由も,異性婚について及ぶものと解するのが相当であるから,本件規定が同性婚を認めていないことが,同項及び同条2項に違反すると解することはできない。
【筆者】
「上記の事実経過に照らすと,まず,明治民法下においては,同性愛は精神疾患であることを理由として,同性婚は明文の規定を置くまでもなく認められていなかったものと解される。」との記載がある。
しかし、先ほども述べたように、「同性愛」が「精神疾患」であろうとなかろうと、「異性愛」や「同性愛」という思想や感情と法律上の婚姻制度そのものとは直接的な関係はない。「婚姻」を成立させるために「恋愛感情」や「性愛」は必要ないのである。
また、「明治民法」に「同性愛は精神疾患である」と説明しているような規定があるわけでもなく、「明治民法下においては,同性愛は精神疾患であることを理由として,同性婚は明文の規定を置くまでもなく認められていなかったものと解される。」などと、「同性愛」が「精神疾患」であるという認識に基づいて「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」が認められていなかったかのように解している点で誤りである。
法律の立法目的は様々な要素が考えられるにもかかわらず、「同性愛は精神疾患である」という認識が一部存在したという理解によってのみ、「同性愛」とは直接的な因果関係のない「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」が許容されなかったかのように論じている点で妥当でない。
「明治民法下と同様の理解の下,同性婚は当然に許されないものと理解されていた」との記載がある。
しかし、民法上の規定が「婚姻」を「男女二人一組」としていることから「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」が許容されていなかっただけであり、「明治民法下と同様の理解」のように、「同性愛は精神疾患であることを理由として」「認められていなかった」と断定している部分が誤っていると考えられる。
「昭和21年に公布された憲法においても,同性愛について同様の理解の下に同法24条1項及び2項並びに13条が規定されたものであり,そのために同法24条は同性婚について触れるところがないものと解することができる。」との記載がある。
まず、「異性愛」や「同性愛」という用語は、昭和21年だけでなく、現在においても法律用語として分類されていない。そのため、法律関係を論じる中において、「異性愛」や「同性愛」という法律用語でない分類に基づいて当事者を区分し、「異性愛」や「同性愛」という認識に基づいて「婚姻」という法形式を形成することが可能であるかのような前提に基づいて論じようとしている部分が適切ではない。
次に、「同性愛」と「同性婚」とは直接的な関係はない。そのため「同性愛」に対するどのような理解があったとしても、それと直接的に「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」の可否は連動する関係にない。
三つ目に、憲法19条では「思想良心の自由」を定めている。そのことから、「異性愛」も「同性愛」も、それ以外の「性愛」も、どのような宗教を信仰していようとも、無宗教であろうとも、どのような思想・信条を抱いていようとも、たとえ「精神疾患」と認められるような者の思考に対しても、すべて「思想良心の自由」が保障されている。
そのため、「同性愛」に対して「精神疾患」との認知があろうとも、なかろうとも、「同性愛」そのものは「思想良心の自由」によって保障されているのであり、憲法が「同性愛」を想定していないかのような前提認識に基づいて論じることは明らかに誤りである。
このような「思想良心の自由」を保障している憲法においては、13条においても、「異性愛」や「同性愛」、その他の「性愛」、あらゆる宗教、思想・信条、感情など、すべて想定されている。
しかし、そのような「内心の自由」の問題と、「権利能力」を有する法主体としての地位を有する自然人の間において「婚姻」が成立するか否かはまったく別の問題である。
そのため、憲法24条が「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」を想定しているか否かについては、「同性愛」という思想や感情とは明確に切り離して考えるべきものである。
ここでは、「そのために同法24条は同性婚について触れるところがないものと解することができる。」と述べられている。
しかし、 憲法24条が「両性」「夫婦」「相互」の文言を用いていることは、意図的に「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」や「三人以上の組み合わせによる婚姻(いわゆる複婚)」を排除し、婚姻制度を「男女二人一組」の形に限定しようとする趣旨が含まれている可能性がある。
なぜならば、婚姻制度には「男女二人一組」の形とすることによって「近親交配」に至るリスクを抑制しようとする趣旨が含まれているが、「女性同性婚」が許容された場合にはこの意図が損なわれることが考えられるからである。また、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」が許容された場合には、婚姻制度を構築する趣旨から「生殖と子の福祉」が失われることにより、「『同性同士の三人以上の組み合わせ』による『婚姻』(同性複婚)」や「『異性の三人以上の組み合わせ』による『婚姻』(異性複婚)」を許容しなければならなくなることが考えられるからである。
そのため、「同性愛」を「精神疾患」と見なしていたとの認識のみを理由として、「同法24条は同性婚について触れるところがないものと解すること」は、憲法19条が「思想良心の自由」を定めている事実からしてもあり得ず、また、憲法24条も意図的に「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」や「『三人以上の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる複婚)」を排除しようとしている趣旨が含まれている可能性を考慮していない点で妥当でない。
「同条の制定経緯に加え,」との部分であるが、先ほども述べたように、この判決の示す「制定経緯」の認識は妥当な理解に基づくものではない。
「同条は,異性婚について定めたものであり,同性婚について定めるものではない」との記載がある。
しかし、「異性婚」や「同性婚」は法律用語ではない。また、24条の「両性の合意のみ」を満たすものが「婚姻」であり、それ以外のものは「婚姻」ではない可能性があるにもかかわらず、「同性婚」などと、「同性同士の組み合わせ」が24条の意味を離れて独立して「婚姻」として成立し得る余地があることを前提とした言葉を用いている点で論じ方として適切ではない。
「同条1項の『婚姻』とは異性婚のことをいい,婚姻をするについての自由も,異性婚について及ぶものと解するのが相当である」との記載がある。
まず、「異性婚」は法律用語ではない。
次に、「婚姻をするについての自由」であるが、24条には「婚姻をするについての自由」という文言は記載されていないため、憲法上保障される個々人の「具体的権利」として「婚姻するについての自由」というものを直接的に導き出すことができるのかは明らかでない。この24条1項の規定は、「制度的保障」や「立法裁量の限界を画するもの」である可能性も考えられるのである。
また、「婚姻するについての自由」の意味は、先ほど「2(1)」で述べられている「平成27年12月16日最高裁判決」の記述から来ているものと思われるが、その判決で示された「婚姻するについての自由」とは、法律規定によって具体化された婚姻制度を利用するか否かの「自由」をいうものである可能性がある。
そのため、24条1項について、異性間の「婚姻」について述べているものであるとの前提があるとしても、その24条1項の規定が直接的に根拠となって個々人に対して憲法上保障される「具体的権利」の性質を意味するものとは限らない(特定されていない)のであり、24条1項が直接的に「婚姻をするについての自由」という「具体的権利」を保障しているかのような認識に基づいて説明している点は論点を十分に整理していないと考えられる。
「婚姻をするについての自由も,異性婚について及ぶものと解するのが相当である」との部分について、ここでいう「異性婚」のような、「男女の組み合わせ」に対して述べられたものであるとしても、24条1項を基にして直接的に「具体的権利」としての「婚姻するについての自由」というものが保障されるという意味で「及ぶ」と解している部分は、論点を十分に整理していないものと思われる。
「本件規定が同性婚を認めていないことが,同項及び同条2項に違反すると解することはできない。」との記載がある。
まず、「同性婚」は法律用語ではない。
「同項及び同条2項に違反すると解することはできない。」との部分については、確かに違反すると解することはできない。
(3)また,憲法24条2項は,婚姻及び家族に関する事項について,具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ね,同条1項はその裁量権の限界を画したものと解されることは上記(1)において説示したとおりであり,同条によって,婚姻及び家族に関する特定の制度を求める権利が保障されていると解することはできない。同性婚についてみても,これが婚姻及び家族に関する事項に当たることは明らかであり,婚姻及び家族に関する個別規定である同条の上記趣旨を踏まえて解釈するのであれば,包括的な人権規定である同法13条によって,同性婚を含む同性間の婚姻及び家族に関する特定の制度を求める権利が保障されていると解するのは困難である。
【筆者】
「憲法24条2項は,婚姻及び家族に関する事項について,具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ね,同条1項はその裁量権の限界を画したものと解されることは上記(1)において説示したとおり」との記載がある。
そこで、「上記(1)」の記載を確認する。
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憲法24条2項は,このような観点から,婚姻及び家族に関する事項について,具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねるとともに,その立法に当たっては,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきであるとする要請,指針を示すことによって,その裁量の限界を画したものといえる。また,同条1項は,「婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として,相互の協力により,維持されなければならない。」と規定しており,婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものと解される。
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このように、「上記(1)」では、2項について「国会の合理的な立法裁量に委ねるとともに,」、「その裁量の限界を画したもの」としているが、1項については「その裁量権の限界を画したもの」とは述べていない。
また、24条1項が「その裁量権の限界を画したもの」であるとするならば、1項の「両性の合意のみ」の文言を満たさない「同性同士の組み合わせ」については、「婚姻」とすることができない。
それにより、24条の示す「婚姻」は、14条の「平等権」は及ばない憲法上の例外ということになる。
「同条によって,婚姻及び家族に関する特定の制度を求める権利が保障されていると解することはできない。」との記載がある。ここでは、24条を憲法上保障された「具体的権利」と解しているわけではないようである。
「同性婚についてみても,これが婚姻及び家族に関する事項に当たることは明らか」との記載がある。
しかし、「同性同士の組み合わせ」については、24条1項の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」を満たさないことから、「婚姻」として成立しない可能性があり、「同性婚」というように、あたかも「同性同士の組み合わせ」が「婚姻」の一種であることを前提として論じようとしている点で適切ではない。
そのため、「同性婚についてみても,これが婚姻及び家族に関する事項に当たることは明らか」とは断定できない。
敢えてこのような論じ方が可能であるとする前提をとれば、同様に「婚姻適齢に満たない者の婚姻」や「近親婚」、「複婚」についても「婚姻及び家族に関する事項に当たることは明らか」と論じる必要がある。
「婚姻及び家族に関する個別規定である同条の上記趣旨を踏まえて解釈するのであれば,包括的な人権規定である同法13条によって,同性婚を含む同性間の婚姻及び家族に関する特定の制度を求める権利が保障されていると解するのは困難である。」との記載がある。
この「婚姻及び家族に関する個別規定である同条の上記趣旨」とは、24条が「国会の合理的な立法裁量に委ねるとともに,」、「その裁量の限界を画したもの」としている趣旨のことを指していると思われる。
すると、13条という「包括的な人権規定」に対して、24条は例外を示す「個別規定」であり、立法裁量の限界を画していることになるから、13条を根拠として「同性婚を含む同性間の婚姻及び家族に関する特定の制度を求める権利」が保障されていると解することは困難との見解と思われる。
そうなると、総則的な意味を有する14条の「平等権」に対しても、24条は例外を示す「個別規定」であり、立法裁量の限界を画していることになるから、14条を根拠として「同性婚を含む同性間の婚姻及び家族に関する特定の制度を求める権利」が保障されていると解することは困難となるはずであり、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」はできないはずである。
「包括的な人権規定である同法13条」との記載があるが、裁判所はこれまでに13条を「包括的な人権規定」であると示したことはあっただろうか。
実質的にも,後記3(2)アで詳説するとおり,婚姻とは,婚姻当事者及びその家族の身分関係を形成し,戸籍によってその身分関係が公証され,その身分に応じた種々の権利義務を伴う法的地位が付与されるという,身分関係と結び付いた複合的な法的効果を同時又は異時に生じさせる法律行為であると解されるところ,生殖を前提とした規定(民法733条以下)や実子に関する規定(同法772条以下)など,本件規定を前提とすると,同性婚の場合には,異性婚の場合とは異なる身分関係や法的地位を生じさせることを検討する必要がある部分もあると考えられ,同性婚という制度を,憲法13条の解釈のみによって直接導き出すことは困難である。
【筆者】
「婚姻とは,婚姻当事者及びその家族の身分関係を形成し,戸籍によってその身分関係が公証され,その身分に応じた種々の権利義務を伴う法的地位が付与されるという,身分関係と結び付いた複合的な法的効果を同時又は異時に生じさせる法律行為である」との記載がある。
この「婚姻」という「法律行為」の性質は、民法や戸籍法などの具体的な法律規定が立法され、「婚姻」の法的効果の内容が形成されることによって、その「法律行為」の性質がここで意味が示されたものである。
そのため、その民法や戸籍法などの示している具体的な法律規定(実定法)を離れて、ここで示された「法律行為」の性質が独立して存在するかのような前提によって、「同性同士の組み合わせ」についても同様にそれらの「法律行為」を形成できるかのように論じている部分は誤っていると考えられる。
つまり、「婚姻」という法律行為の内容を「婚姻当事者及びその家族の身分関係を形成し,戸籍によってその身分関係が公証され,その身分に応じた種々の権利義務を伴う法的地位が付与されるという,身分関係と結び付いた複合的な法的効果を同時又は異時に生じさせる法律行為」とするか否かは、国会が法律を立法することによって形成する問題であり、その法律上の規定を離れて、このような「法律行為」が独立して存在するかのような主張に基づいて、それを「同性同士の組み合わせ」に当てはめようとすることはできないということである。
条文を解釈することによって導き出された定義であるにもかかわらず、その定義を根拠として元の条文の意味を改変したり、憲法に違反することを示す論拠として用いることはできないのである。これは、下位法によって上位法の意味を覆そうとする試みであり、法の階層構造を損なわせることとなる。
そのため、「同性婚の場合には,異性婚の場合とは異なる身分関係や法的地位を生じさせることを検討する必要がある部分もある」との記載があるが、そもそも現在の民法や戸籍法に基づいて示された「婚姻とは,婚姻当事者及びその家族の身分関係を形成し,戸籍によってその身分関係が公証され,その身分に応じた種々の権利義務を伴う法的地位が付与されるという,身分関係と結び付いた複合的な法的効果を同時又は異時に生じさせる法律行為である」という説明は、既に「男女二人一組」を前提とした制度に基づく枠組みなのであり、この「男女二人一組」に当てはまらないものについては、ここで言う「婚姻」に該当しない。
これにより、「同性婚の場合には,」との記述もあるが、そもそも「同性同士の組み合わせ」については、ここで現行の民法や戸籍法の示す「婚姻」の意味の中に含まれていない。
そのため、「同性婚の場合には,」や「身分関係や法的地位」などと、「男女二人一組」以外の「婚姻」の形や、「男女二人一組」以外の形で「身分関係や法的地位」を生じさせる制度が存在するかのような前提で論じたり、現行の民法や戸籍法などの具体的な制度を離れて、独立して「身分関係や法的地位」を定めることができるかのような前提で論じている部分が誤りであると考えられる。
「生殖を前提とした規定(民法733条以下)や実子に関する規定(同法772条以下)など,本件規定を前提とすると,同性婚の場合には,異性婚の場合とは異なる身分関係や法的地位を生じさせることを検討する必要がある部分もあると考えられ,」との記載がある。
まず、「同性婚」や「異性婚」は法律用語ではない。また、「同性婚」という言葉は、「同性同士の組み合わせ」が「婚姻」として成立することを前提とするものであるが、24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」を満たさない「同性同士の組み合わせ」については、「婚姻」として成立しない可能性がある。この点も押さえる必要がある。
「同性婚の場合には,異性婚の場合とは異なる身分関係や法的地位を生じさせることを検討する必要がある部分もあると考えられ,」という部分であるが、これは既に「同性同士の組み合わせ」について「身分関係や法的地位」を伴う何らかの「法律行為」として成立することを前提とする論じ方となっている。
しかし、「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として成立しなかったり、立法裁量によって政策的に禁じたり、意図的に制度を構築しないこともあり得るのであり、「同性同士の組み合わせ」について「身分関係や法的地位」を伴う何らかの「法律行為」が成立することを前提として論じていることは、結論を先取りしようとするものであり妥当でない。
したがって,同性婚を認めない本件規定が,憲法13条に違反すると認めることはできない。
3 本件規定が憲法14条1項に違反するか否かについて(争点(1)関係)
(1)憲法14条1項は,法の下の平等を定めており,この規定は,事柄の性質に応じた合理的な根拠に基づくものでない限り,法的な差別的取扱いをも禁止する趣旨のものであると解すべきである(最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁,最高裁昭和45年(あ)第1310号同48年4月4日大法廷判決・刑集27巻3号265頁,再婚禁止期間違憲訴訟大法廷判決等)。
【筆者】
「法的な差別的取扱いをも禁止する趣旨のものである」との記載がある。
しかし、この判決で話題になっている「異性愛」や「同性愛」とは、個々人の内心の問題であり、法は内心の問題に立ち入って個々人を審査しておらず、「異性愛者」や「同性愛者」、その他の「性愛」を抱く者などと区別しているという事実はない。
そのため、「法的な差別的取り扱い」そのものが存在しておらず、「事柄の性質に応じた合理的な根拠に基づくもの」か否かについても検討する余地がない。
「性愛(性的指向)」に基づいて自然人を分類し、それらの思想や感情を保護の対象とするべきかは、もっぱら何らかの立法目的に基づいて国会による法整備がなされることによって初めて区別されるものであり、そのような「性愛(性的指向)」に基づいて法律上で個々人を分類していないのであれば、「法的な差別取り扱い」そのものが存在しないのである。
(ただ、『性愛〔性的指向〕』という個々人の内心に基づいて自然人を分類するような法律を立法し、制度を構築することは、『思想良心の自由』や『信教の自由』、『政教分離』に反して違憲となるのではないかとの論点も考えられる。)
法が「同性愛者」と「異性愛者」を区別していないことについて、国は下記のように述べている。
【動画】同性婚法制化求める 否認は違憲 2021.3.22
【参考】【札幌・第7回】被告第4準備書面 令和2年10月21日
法律上は、今回の裁判所の判決の内容よりも、ここで述べられている国の説明の方が妥当である。
上記とは別のアプローチで、個々人は「異性」との間で「婚姻」することはできるが「同性」との間で「婚姻」することができないことに対する不当性を主張するという場合が考えられる。
これについては、憲法24条1項の「両性」「夫婦」の文言を通過するか否かや、婚姻制度を立法する趣旨・目的との整合性の観点からの合理的な理由の有無について、憲法を含めた立法政策として検討するべきものである。
この点は、裁判所において14条の「平等権」に違反するか否かを論じる対象ではない。
前記2(1)のとおり,婚姻及び家族に関する事項は,国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ,それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断を行うことによって定められるべきものであるから,憲法24条2項は,婚姻及び家族に関する事項について,具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねたものである。このことに加え,前記2(2)及び(3)のとおり,同条及び13条によって,同性間の婚姻をするについての自由や同性婚に係る具体的制度の構築を求める権利が保障されているものではないと解されることにも照らすと,立法府は,同性間の婚姻及び家族に関する事項を定めるについて,広範な立法裁量を有していると解するのが相当である。
【筆者】
「立法府は,同性間の婚姻及び家族に関する事項を定めるについて,広範な立法裁量を有していると解するのが相当である。」との記載がある。
しかし、「同性間の婚姻」と述べている部分は、「同性同士の組み合わせ」が「婚姻」として成立することを前提として論じているが、24条1項の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」の文言を「婚姻」の成立条件と解する場合、「両性」を満たさない「同性同士の組み合わせ」については、そもそも「婚姻」として成立しない可能性がある。
また、この判決文では「2(3)」において、24条1項についても「同条1項はその裁量権の限界を画したものと解される」と示していることから、「両性」や「夫婦」を満たさない「同性同士の組み合わせ」については「裁量権の限界」を超え、法律上において「婚姻」とすることができない可能性がある。
そのため、ここで「立法府」が「広範な立法裁量を有している」のように、「同性間の婚姻」についても立法裁量の範囲内の問題であるかのような前提に立った論じ方は、この論点を明らかにしないままに根拠なく「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」とすることができるとする前提に立っており、法律論上の正当性を導き出すことができていない。
そのため、「広範な立法裁量を有していると解するのが相当である。」とあるが、「解するのが相当である。」とは言えない。
もう一つ、「このことに加え,前記2(2)及び(3)のとおり,同条及び13条によって,同性間の婚姻をするについての自由や同性婚に係る具体的制度の構築を求める権利が保障されているものではないと解されることにも照らすと,」の文であるが、ここに書く必要があるのだろうか。文脈から考えても、あまり意味はないように思われる。
具体的な制度の構築を13条を基にした憲法上で保障された「具体的権利」として主張することができないことから、制度を構築するか否かについても立法府の裁量判断の余地があると言いたいのだろうか。文脈が明確でなく、悪文である。
(2)ア 戸籍法は,婚姻は届出によってできるものとし(同法74条),婚姻の届出があったときは,夫婦について新戸籍を編製し(同法16条1項),当該戸籍には,戸籍内の各人について,夫又は妻である旨が記載され(同法13条1号,6号),子が出生した場合にはこれを届け出なければならず(同法49条1項),子は親の戸籍に入ることとされ(同法18条),戸籍の正本は市役所等に備え置くこととされており(同法8条2項),戸籍によって婚姻した男女や子の身分関係を公証している。また,民法は,婚姻に関する規定を設け(同法731条以下),婚姻は戸籍法の定めるところにより届け出ることによってその効力を生ずるとした(同法739条1項)上で,三親等内の姻族も親族とし(同法725条3号),同居の親族の扶け合いの義務(同法730条),夫婦間の夫婦財産制(同法755条以下),夫婦相互の同居・協力・扶助義務(同法752条),夫婦の子に関する嫡出の推定(同法772条),夫婦の子に対する親権(同法818条以下),配偶者の相続権(同法890条)など,婚姻当事者及びその家族に対して,その身分に応じた権利義務を伴う法的地位を付与している。
以上のことからすると,婚姻とは,婚姻当事者及びその家族の身分関係を形成し,戸籍によってその身分関係が公証され,その身分に応じた種々の権利義務を伴う法的地位が付与されるという,身分関係と結び付いた複合的な法的効果を同時又は異時に生じさせる法律行為であると解することができる(以下,上記の法的効果を併せて「婚姻によって生じる法的効果」という。)。
【筆者】
ここで示されている「婚姻」に関する解釈(定義?)であるが、これは上記の「戸籍法」や「民法」の規定から導かれる解釈である。そのため、この「民法」や「戸籍法」という法律上に具体化されている規定を離れて、ここで示されているような「婚姻」という抽象的な概念が実定法の上位に存在しているわけではない。あくまで、この民法上の規定の趣旨を解すれば、「婚姻」とはそのような「法律行為」であるというだけである。(『嫡出推定〔民法772条〕』は『法律行為』なのだろうか。)
つまり、ここで示されている「婚姻」に関する解釈(定義)も、「民法」や「戸籍法」などの法律の規定を変更することによって、変わり得るということである。
そのため、ここで示されている「婚姻」の解釈(定義)を、そのまま「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」とすることができるか否かの議論に当てはめて論じることが可能となるわけではないことに注意が必要である。
イ ところで,本件規定は,異性婚についてのみ定めているところ,異性愛者のカップルは,婚姻することにより婚姻によって生じる法的効果を享受するか,婚姻せずそのような法的効果を受けないかを選択することができるが,同性愛者のカップルは,婚姻を欲したとしても婚姻することができず,婚姻によって生じる法的効果を享受することはできない。そうすると,異性愛者と同性愛者との間には,上記の点で区別取扱いがあるということができる(以下「本件区別取扱い」という。)。
【筆者】
「本件規定は,異性婚についてのみ定めているところ,異性愛者のカップルは,婚姻することにより婚姻によって生じる法的効果を享受するか,婚姻せずそのような法的効果を受けないかを選択することができるが,」との記載がある。
まず、「異性婚」は法律用語ではない。
また、法律上は「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのか、それ以外の何者かであるかなど、まったく審査・分類しておらず、法律はそれらを関知していない。「異性愛者」であろうとも、なかろうとも、婚姻の消極要件に該当しないのであれば、誰でも「婚姻」することができるのである。
そのため、「異性愛者のカップルは,婚姻することにより婚姻によって生じる法的効果を享受するか,婚姻せずそのような法的効果を受けないかを選択することができるが,」などと、個々人が異なる扱いを受けているかのような前提で論じている部分が誤りである。
また、「カップル」という「二人一組」を前提とする言葉を用いているが、法律上は『権利能力」を有する法主体をどのように結び付けるかという視点から考える必要があり、「カップル」という「二人一組」を前提とする言葉を用いて当事者を指し示すことが可能であるかのような前提で論じることは妥当でない。単に、現在の法制度の上では「婚姻」が「二人一組」を前提としているだけであり、民法上の「組合」のように、三人以上の複数名でも行うことのできる「法律行為」も存在するのである。そのため、「異性愛者のカップル」と「同性愛者のカップル」を比べようとも(『性愛』と婚姻制度は直接的な関係はないことにも注意)、そもそも「婚姻」の形は法政策上の選択でしかないものであるから、現在の法制度に存在しない「同性同士の組み合わせ」を論じるのであれば、現在の法制度に存在しない「三人組のトリオ」や「四人組」などについても同様に論じるべきである。あたかも「婚姻」の形を「二人一組」の形に限定し、「男女二人一組」と、「同性同士の二人一組」の間の違いを比べたところで、その比べる対象がそれに限定されるかのような前提で論じている点が妥当でない。
「同性愛者のカップルは,婚姻を欲したとしても婚姻することができず,婚姻によって生じる法的効果を享受することはできない。」との記載がある。
もともと「同性愛者のカップル」という表現は法律用語ではないため、この分類が法律論として通用するわけではないが、敢えてこの分類に従って考えるとしても、「男性(同性愛者=ゲイ)」と「女性(同性愛者=レズビアン)」は現行法において「婚姻(いわゆる異性婚)」を行うことは可能であり、「同性愛者のカップルは,婚姻を欲したとしても婚姻することができず,」との論じ方は事実ではなく、誤りである。
また、「同性愛者」であるとしても、「婚姻を欲した」のであれば「婚姻」することはできるし、「婚姻によって生じる法的効果」を享受することは可能である。
このように、この判決文は法律上の分類でない個々人の思想・信条に基づいて当事者を勝手に「異性愛者」と「同性愛者」に二分して論じようとしている都合により、論理的整合性が保たれなくなってしまっているのである。
「そうすると,異性愛者と同性愛者との間には,上記の点で区別取扱いがあるということができる」との記載がある。
しかし、法は「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのか、その他の者であるのかを審査しておらず、制度を利用している者に対して何らかの異なる取り扱いをしている事実はない。
また、婚姻制度は「恋愛感情」や「性愛」を抱いていなくとも利用することができるのであり、「異性愛」や「同性愛」という思想や感情に基づかなければ「婚姻意思」を満たさないというわけでもない。
そのため、法律用語ではないのであるが、ここでいう「異性愛者」と「同性愛者」や、その他の者に対して「区別取扱い」をしていないのであり、「区別取扱いがあるということができる」との認定は事実誤認に基づく断定であり、妥当でない。
「(以下「本件区別取扱い」という。)」との部分であるが、区別取り扱いの認定そのものが誤っていることから、以下、すべての論拠が誤っていることになる。
以上のことからすると,立法府が,同性間の婚姻及び家族に関する事項について広範な立法裁量を有していることは,上記(1)で説示したとおりであるが,本件区別取扱いが合理的根拠に基づくものであり,立法府の上記裁量権の範囲内のものであるかは,検討されなければならない。
【筆者】
「立法府が,同性間の婚姻及び家族に関する事項について広範な立法裁量を有していることは,上記(1)で説示したとおりであるが,」との記載がある。
しかし、先ほども示したが、「同性間の婚姻」としている部分は、あたかも「同性同士の組み合わせ」が「婚姻」として成立することを前提として論じているが、24条1項の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」の文言を「婚姻」の成立条件と解する場合、「両性」を満たさない「同性同士の組み合わせ」については、そもそも「婚姻」として成立しない可能性がある。
また、この判決文では「2(3)」において、24条1項についても「同条1項はその裁量権の限界を画したものと解される」と示していることから、「両性」や「夫婦」を満たさない「同性同士の組み合わせ」については「裁量権の限界」を超え、「婚姻」とすることができない可能性がある。
そのため、ここで「立法府」が「広範な立法裁量を有している」のように、「同性間の婚姻」についても立法裁量の範囲内の問題であるかのような前提に立った論じ方は、妥当でないし、「上記(1)で説示したとおり」との記載もあるが、適切に「説示」できていない。
「本件区別取扱いが合理的根拠に基づくものであり,立法府の上記裁量権の範囲内のものであるかは,検討されなければならない。」との記載がある。
しかし、そもそも「本件」について、「戸籍法」や「民法」は当事者が「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのか、その他の何者かであるのか、まったく審査しておらず、法律上で関知していないのであるから、それらの者に対して「区別取り扱い」がなされているという事実はない。
そのため、憲法14条の「平等権」の観点からの「合理的根拠に基づくもの」であるのか否かを審査する余地がない。そもそも、婚姻制度は個々人の内心の問題に踏み込んでいないのである。
「立法府の上記裁量権の範囲内のものであるかは,」の部分であるが、それは立法府の14条に抵触しない範囲の「裁量権」のことを示しているのか、24条の立法裁量の限界に抵触しない範囲の「裁量権」のことを述べているのか、その両方のことを述べているのか明確でなく、悪文である。
また、その両方を示しているとしても、14条の「平等権」に対する憲法上の例外として24条が位置付けられているのであれば、結局は24条の立法裁量の限界に抵触するか否かの問題となる。この点の解釈の構造をより詳しく明らかにしなくては、明確な基準を導き出すことができない。
ウ この点,被告は,同性愛者であっても,異性との間で婚姻することは可能であるから,性的指向による区別取扱いはないと主張する。
【筆者】
「被告は,同性愛者であっても,異性との間で婚姻することは可能であるから,性的指向による区別取扱いはないと主張する。」との記載がある。
ただ、国は下記のように述べている。
【動画】同性婚法制化求める 否認は違憲 2021.3.22
そのため、裁判所は国の主張の意味をよく理解できておらず、原告と被告(国)の主張を拾い間違えたと思われる。
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このような観点から本件諸規定をみると、本件諸規定は、一人の男性と一人の女性との間の婚姻を定めるものであり、その文言上、婚姻の成立要件として当事者に特定の性的指向を有することを求めたり、当事者が特定の性的指向を有することを理由に婚姻を禁じたりするものではなく、その趣旨・内容や在り方自体が性的指向に応じて婚姻制度の利用の可否を定めているものとはいえないのであるから、性的指向に基づいて法的な差別的取扱いをするものと評価することは相当ではない。
また、前記②の主張にいう「形式的平等」とは、人の現実のさまざまな差異を一切捨象して原則的に一律平等に取り扱うことを意味する(野中俊彦ほか・憲法I(第5 版) 282 ページ)ところ、前記のとおり、本件諸規定は、その規定上、全ての人に対して一律に婚姻制度の利用を認めており、性的指向に応じてその利用の可否を定めているものではないから、本件諸規定それ自体に性的指向に応じた形式的な不平等が存在するものではない。
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【大阪・第12回】被告第6準備書面 令和4年2月21日 PDF
確かに,本件規定の下にあっては,同性愛者であっても異性との間で婚姻をすることができる。
【筆者】
「同性愛者」は法律用語ではないし、法律は「同性愛者」であるのか、そうでないのかを審査していない。法律上の分類でないものに基づいて当事者を勝手に分類して論じている点で、法解釈とは言えない。法律論でないものに基づいて裁判を行っている点で、「法の支配」「法治主義」を逸脱している。
このような法律論でないものを交えて論じることができるのであれば、その性質は法を離れた宗教裁判となりうる。分かりやすく言えば、方向性は違うが、認定方法は「魔女裁判」と変わらない。「原告は『魔女』である。」などと認定し、「魔女」と認められる者に対する何らかの利益を与えるべきか否かを問うているのである。裁判所がこのような法律論に基づかない形で認定を行うことは非常に危険である。
「木村草太」でさえ、「魔女裁判」の危険性を説いている。
【動画】木村草太氏講演会
「沖縄で憲法を考える」(音声) 2016/04/10
「同性愛」を抱くか否かは「思想良心の自由」の範囲内の問題であり、法律論としては当事者を思想・信条に基づいて分類して論じるべきではない。
また、「性愛(性的指向)」という内心の問題と婚姻制度の間には直接的な関係性はない。
【参考】急増する「魔女狩り」の犠牲者 焼き殺されるケースも
コンゴ 2021年10月9日
しかしながら,性的指向とは,人が情緒的,感情的,性的な意味で人に対して魅力を感じることであり,このような恋愛・性愛の対象が異性に対して向くことが異性愛,同性に対して向くことが同性愛である。また,婚姻の本質は,両性が永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真撃な意思をもって共同生活を営むことにあると解される(最高裁昭和61年(オ)第260号同62年9月2日大法廷判決・民集41巻6号1423頁参照)。これらのことからすれば,同性愛者が,性的指向と合致しない異性との間で婚姻することができるとしても,そのような婚姻が,当該同性愛者にとって婚姻の本質を伴ったものにはならない場合が多いと考えられ,そのような婚姻は,憲法24条や本件規定が予定している婚姻であるとは解し難い。さらに,婚姻意思(民法742条1号)とは,当事者間に真に社会観念上夫婦であると認められる関係の設定を欲する効果意思であると解される(最高裁昭和42年(オ)第1108号同44年10月31日第二小法廷判決・民集23巻10号1894頁参照)ところ,同性愛者が,恋愛や性愛の対象とならない異性と婚姻したとしても,婚姻意思を伴っているとは認め難い場合があると考えられ,そのような婚姻が常に有効な婚姻となるのか,疑問を払拭できない。
【筆者】
まず、「性的指向」の説明があるが、これは個々人の内心の問題であり、「思想良心の自由(19条)」の範囲内の問題である。ここでは「恋愛・性愛」や「異性愛」、「同性愛」なども示されているが、このような思想や感情は、法制度としての婚姻制度とは直接的な関係はない。個々人の思想や感情の問題と、法制度の枠組みは区別して考えることが必要である。
「婚姻の本質は,両性が永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真撃な意思をもって共同生活を営むことにあると解される(最高裁昭和61年(オ)第260号同62年9月2日大法廷判決・民集41巻6号1423頁参照)。」の部分について検討する。
この「婚姻の本質」は、憲法24条から直接導き出されたものか、民法上の規定に基づいて導き出されたものかによって、意味が異なってくると考えられる。
これが民法の規定に基づいて導き出された説明であれば、この説明を基にして、民法上で規定されていない「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」とすることができるか否かを論じることはできない。
また、憲法24条から直接導き出された定義であるとしても、憲法24条の「両性」や「夫婦」の文言が立法裁量の限界を画するものとしての意味を有しているのであれば、ここで示された定義もそれを前提とした説明であることから、この説明を基にして「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」の中に含めることはできない。
このように、この「婚姻の本質」と称するものを根拠として、「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」とすることができるか否かを論じることは、この「婚姻の本質」が示された前提となっている事柄を明らかにしない限りは不可能である。
そこで、この「婚姻の本質」として示されている「両性が永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真撃な意思をもって共同生活を営むこと」の説明がどこから生まれているのかを考えると、民法上の「裁判上の離婚(民法770条1項1号)(貞操義務)」や「同居、協力及び扶助の義務(民法752条)」を基にした説明と考えられることから、民法上の規定から導き出されたものと思われる。
そうなると、この「婚姻の本質」と称するものは民法上の規定を基に示されたものと考えられることから、この「婚姻の本質」というものが民法上の規定を離れて独立して確立した意味を有しているわけではない。
そのため、民法上の規定を離れて、この「婚姻の本質」というものを根拠として「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」とすることが可能となるか否かを検討することはできない。
他にも、「婚姻の本質」として示されている「両性が永続的な精神的及び肉体的結合を目的として」との部分であるが、「両性」に当てはまらない「同性同士の組み合わせ」については、この「婚姻の本質」に該当しないという部分も注目するべきである。
もう一つ、「婚姻の本質」を上記のように定義し、これに適合するか否かのみを判断して婚姻制度が立法された趣旨・目的を検討しないのであれば、ここで取り上げた「婚姻の本質」に合致するのであれば、「婚姻適齢に満たない者」や「近親者」との婚姻を求める者についても、同様に「婚姻」として認める必要がでてくる。
婚姻制度が立法された趣旨・目的を検討し、制度全体の整合性を保つことできる境界線を見極めることなしに、ここで挙げられた「婚姻の本質」と定義している文言に当てはまるか否かのみによって結論を導き出そうとすることは、婚姻制度の全体の整合性を損なうこととなるため妥当でない。
「同性愛者が,性的指向と合致しない異性との間で婚姻することができるとしても,そのような婚姻が,当該同性愛者にとって婚姻の本質を伴ったものにはならない場合が多いと考えられ,」との記載がある。
これは、裁判所は「婚姻」を「性的指向」の「合致」であると考えているということだろうか。では、「性的指向」が「合致」していないのであれば、「婚姻」が成立しないということだろうか。
また、「婚姻の本質」についても、先ほど述べたように民法上の規定を解釈することによって導き出された説明と考えられるが、民法上の規定では「性的指向」の「合致」を求める規定は存在していない。そのため、「性的指向」の「合致」がなければ「婚姻の本質」を満たさないかのような認識は誤りであるし、「性的指向」の「合致」がなければ、民法上で規定された戸籍上の「男女二人一組」の「婚姻」が成立しないわけでもないと考えられる。
「そのような婚姻は,憲法24条や本件規定が予定している婚姻であるとは解し難い。」との記載がある。
しかし、「憲法24条や本件規定」は立法目的が存在しており、その立法目的に整合的な形で規範が定められ、その要件に該当する場合にはその制度を利用できるとしているだけである。
そのため、その制度を利用する者がどのような利用を行うかは、個別的に審査しているわけではない。
「婚姻意思(民法742条1号)とは,当事者間に真に社会観念上夫婦であると認められる関係の設定を欲する効果意思であると解される(最高裁昭和42年(オ)第1108号同44年10月31日第二小法廷判決・民集23巻10号1894頁参照)ところ,同性愛者が,恋愛や性愛の対象とならない異性と婚姻したとしても,婚姻意思を伴っているとは認め難い場合があると考えられ,そのような婚姻が常に有効な婚姻となるのか,疑問を払拭できない」との記載がある。
この「同性愛者が,恋愛や性愛の対象とならない異性と婚姻したとしても,婚姻意思を伴っているとは認め難い場合があると考えられ,」との部分であるが、これは裁判所が「恋愛や性愛」を満たすことを「婚姻」の目的であると考えているということなのだろうか。裁判所が「恋愛」という感情を法律論として認めるということなのだろうか。また、「恋愛感情」や「性愛」を有していなければ、「婚姻」は成立しない可能性を認めているということだろうか。このように論じるのであれば、異性間においても「恋愛」や「性愛」を有していない場合には、法律論として「婚姻」を合意できないということなのだろうか。
その「真に社会観念上夫婦であると認められる関係」とは、「恋愛や性愛」に基づく関係のことをいうと確定しようとしているのだろうか。
「婚姻意思」には、「恋愛や性愛」が必要であると裁判所が言っているということなのだろうか。
【参考】「結婚がラブ、つまり個人の性愛の結実とするならば、それを社会が承認、支援する必要は無い」 Twitter
【参考】「同性が好き、異性が好きって国が保護すべきなん?」 Twitter
【参考】「国が個人間の恋愛に介入・承認する必要がそもそもない」 Twitter
【参考】「家族や家庭を作るとき、土台に恋愛感情が必要なんだろうか…同居、協力、扶助は恋愛感情がなくてもできる」 Twitter
【参考】「愛がなくても二人の合意さえあれば法的に結婚出来るので『愛の有無』は論点がズレてる」 Twitter
【参考】「『愛し合う』が前提だとしたら、お見合い結婚や政略結婚が偽装になってしまう。」 Twitter
【参考】「『異性婚には性的指向の前提はない』」……「婚姻=異性婚について『異性愛者でないから認められない』ということはありません」 Twitter
【参考】「性的指向をあたかも『自然に』個人に与えられるものように扱っており、性的指向のカテゴリーが持たされている社会的文脈を透明化してしまう。」 Twitter
【参考】「性的指向を不変の所与のように強調するのは、」 Twitter
【参考】「性的指向のマイノリティなら『LGBA』なのにそうならないのって、Aを加えたら今の結婚制度そのものを否定しなきゃいけなくなる」 Twitter
【参考】「世界は同性愛者と異性愛者だけで構築されているわけではない」 Twitter
【参考】「人間以外に性的指向が向いてる人はどうすんの?」 Twitter
「そのような婚姻が常に有効な婚姻となるのか」との部分であるが、婚姻制度の立法目的に従って定められた要件に当てはまるか否かの問題であり、立法目的との整合性を離れて論じている部分で妥当でない。
上記のような性的指向や婚姻の本質に照らせば,同性愛者が,その性的指向と合致しない異性との間で婚姻することができるとしても,それをもって,異性愛者と同等の法的利益を得ているとみることができないのは明らかであり,性的指向による区別取扱いがないとする被告の主張は,採用することができない。
【筆者】
「同性愛者が,その性的指向と合致しない異性との間で婚姻することができるとしても,それをもって,異性愛者と同等の法的利益を得ているとみることができないのは明らか」との記載がある。
しかし、法律上は「同性愛者」であるのか「異性愛者」であるのかをまったく審査していないのであるから、法律上の取り扱いの中ではもともと一人の「国民(自然人)+戸籍上の性別」としてしか認識されていない。
そのため、どのような「国民」も婚姻の消極要件に該当しない限りは、婚姻制度を利用することができるのであり、「同等の法的利益」を得ていることになる。
その中で、「同性同士」で法律関係を結びたいと考えることは、また別の問題である。
そのため、「同等の法的利益を得ているとみることができないのは明らか」との記載があるが、法律は「同性愛者」と「異性愛者」を審査していないし、いずれの者に対しても「国民(自然人)」として「同等の法的利益」を与えている点で、二重の誤りがある。
「性的指向による区別取扱いがないとする被告の主張は,採用することができない。」との部分であるが、実際に法律上は個々人の「性的指向」を審査していないのであるから、「性的指向による区別取扱い」はないのであり、これを「採用することができない。」とすることは、法律論に基づかない主張となっており、妥当でない。
(3)そこで,本件区別取扱いが合理的根拠を有するといえるかについて検討する。
【筆者】
法律上は当事者を「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのか、それ以外の者であるのかを一切審査しておらず、「区別取扱い」そのものがない。
社会の中に「『男女』で『婚姻』を求める者」と、「『同性同士』で『婚姻』を求める者」が存在し、その者たちの間で何らかの差異が生じていることが正当化できるか否かであるが、それはどのような婚姻制度を構築するかという立法政策の問題であるから、婚姻制度の立法目的との整合性を検討するべき問題である。
これは、「『婚姻適齢に満たない者』との間で『婚姻』を求める者」や、「『近親婚』を求める者」、「『複婚』を求める者」、「『婚姻』しない者」との間で何らかの差異が生じていることを正当化できるか否かと同様の問題である。
ア 同性愛は,現在においては精神疾患とはみなされておらず,さらには,性的指向の決定要因は解明されていないものの,人がその意思で決定するものではなく,また,人の意思又は治療等によって変更することも困難なものであることは,確立された知見に至ったということができる(認定事実(1)ア,(6))。そうすると,性的指向は,自らの意思に関わらず決定される個人の性質であるといえ,性別,人種などと同様のものということができる。
【筆者】
「性的指向は,自らの意思に関わらず決定される個人の性質であるといえ,性別,人種などと同様のものということができる。」との記載がある。
しかし、「性的指向」とは個々人の「内心の自由(思想良心の自由)」の範囲内のものであり、「性別,人種などと同様のもの」とは言えない。
【参考】「本来人種の分類権なんて誰にも無いはずだ。安易に人種のことを『自らの意思に関わらず決定される個人の性質』なんて言うのは、今の時代背景を考慮すればお粗末」 Twitter
また、そもそも法律は「性的指向」を審査していないし、個々人がどのような「性的指向」を有しているのかによって個々人の属性を分類していないため、「性的指向」によって異なる取り扱いをしている事実はない。
分かりやすい例を出せば、この判決のいうような「自らの意思に関わらず決定される個人の性質」として、「星占い」がある。
法律論でない区分に基づいて当事者を分類して論じようとするという意味で、これと同じである。もともと法律は個々人がどの星座に属するのかを審査していないし、「さそり座」であろうと「しし座」であろうと、異なる取り扱いをしていないのである。
もともと「内心の自由」の問題であるから、それを信じるか否かも、個々人の自由である。
「動物占い」もある。
「チーター」であろうと、「コアラ」であろうと、法律は個々人をこのように分類していないし、異なる取り扱いをしている事実はない。
「血液型占い」もある。
B型が差別されているように感じても、法律はABO型を審査していないし、血液型によって個々人に対して異なる取り扱いをしている事実はない。(ただ、医学的には輸血の可否については違いがあるようである。)
【参考】「LGBTなんてくくりがまずいらない」ゲイバー店員・カマたくが指摘する“違和感” 2021.04.22
【参考】「僕はGである事を自分の個性だとしか思えない」 Twitter
【参考】「僕には彼らが主張するLGBTへの差別やいじめが、本当にLGBT特有だと思えません。」 Twitter
【参考】「結婚出来ない事が差別と捉えてもいません。」 Twitter
【参考】「そのうちブスと美人だって差別されてるとか」 Twitter
このような人の意思によって選択・変更できない事柄に基づく区別取扱いが合理的根拠を有するか否かの検討は,その立法事実の有無・内容,立法目的,制約される法的利益の内容などに照らして真にやむを得ない区別取扱いであるか否かの観点から慎重にされなければならない。
【筆者】
「人の意思によって選択・変更できない事柄に基づく区別取扱い」との記載がある。
まず、「人の意思によって選択・変更できない事柄」の部分であるが、この判決は「異性愛」と「同性愛」しか想定していないようであるが、このような人の内心の問題は確定的な性質を有しているわけではない。
セクシュアル・フルイディティとは?【性に関することはすべて変化する?!】 2020/4/29
【動画】「LGBTQ+について知っておきたいこと」ゲスト講師:北丸雄二さん(ジャーナリスト) 2021/9/13
【動画】#11 松浦大悟がダンディに語るLGBT 2021/12/06
「たぶん」の人もいる。
「たぶん私はパンセクシャル(全性愛者)」
【古市憲寿×みたらし加奈】同性婚ができなくてもラブラブな関係を保つ秘訣とは? 2021.2.17
「決めていない」人もいる。
「体は女性、性自認は『決めていない』、相手の性別に関係なく恋愛感情を抱く『パンセクシュアル』だ。」
同性婚「権利認めて」「平等示すチャンス」 LGBTQ当事者たちの思い 2021/5/3
「男ではなく女ともいえない」という人もいる。
「戸籍上は女性だが、自身の性については『男ではなく女ともいえない』と自認する。」
同性パートナーと「内縁関係認めないのは違憲」 提訴へ 2021年6月1日
「恋愛的指向」と「性的指向」に分けて考えている人もいる。
【動画】恋愛的指向と性的指向を分けて考えてみた 2021/05/11
性的指向と恋愛指向の混同は人権侵害である 2021.01.04
「友愛」と「性愛」は違いがないのではないかとの考え方もある。
【動画】「LGBTQ+について知っておきたいこと」ゲスト講師:北丸雄二さん(ジャーナリスト) 2021/9/13
そのため、このような人の内心に基づいて当事者を分類しようとしていることそのものが法律論として判断できる枠組みを超えており、妥当でない。
これは、個々人の内心の問題であるから、宗教的な教義が正しいものであることを裁判所に認めてもらおうする主張と変わらないのであり、司法権の範囲を超えている。
司法(司法権の範囲) Wikipedia
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本件訴訟は、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争の形式をとつており、その結果信仰の対象の価値又は宗教上の教義に関する判断は請求の当否を決するについての前提問題であるにとどまるものとされてはいるが、本件訴訟の帰すうを左右する必要不可欠のものと認められ、また、記録にあらわれた本件訴訟の経過に徴すると、本件訴訟の争点及び当事者の主張立証も右の判断に関するものがその核心となつていると認められることからすれば、結局本件訴訟は、その実質において法令の適用による終局的な解決の不可能なものであつて、裁判所法三条にいう法律上の争訟にあたらないものといわなければならない。
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内心の問題を訴訟の場に持ち込むのであれば、下記のような主張も同様に取り扱う必要が出てくる。
【参考】「『同性婚は(カトリック信徒の)信教の自由を侵害する』なる言説」 Twitter
台湾の「宗教上の理由で同性婚を認めるべきではない」とする意見が存在することについて
【動画】「同性婚訴訟から考える憲法」志田陽子さん(武蔵野美術大学 教授) 2020/5/3
ただ、そもそも法律上は国民(自然人)を「異性愛者」であるか「同性愛者」であるのか、それ以外の者であるのかなど、まったく審査しておらず、そのような分類に基づいて異なる取り扱いがなされているという事実がないのであるから、上記のような形で「司法権の範囲」を超えるか否かを検討する以前に、「『区別取扱い』が存在しない」と判断して終わる問題である。
【参考】「異性を愛するか同性を愛するかで、結婚制度を利用できるかどうかに違いはありません。」 Twitter
次に、「区別取扱い」の部分であるが、今述べたように、もともと「区別取扱い」をしていないのであるから、「区別取扱い」が存在するとした認定そのものが誤っている。
「合理的根拠を有するか否かの検討は,その立法事実の有無・内容,立法目的,制約される法的利益の内容などに照らして真にやむを得ない区別取扱いであるか否かの観点から慎重にされなければならない。」との部分について、「区別取扱い」が存在するのであれば、そのような検討がなされることは考えられる。
しかし、そもそも「区別取扱い」がないのであるから、これらの検討をする必要がない。また、法律論上は不必要に検討して何らかの結論を導き出そうとすることもしてはならない。
イ 現在においても,法律婚を尊重する意識が幅広く浸透しているとみられるが(最高裁平成24年(ク)第984号,985号同25年9月4日大法廷決定・民集67巻6号1320頁参照),このことは,①明治民法から現行民法に至るまで,一貫して,婚姻という制度が維持されてきたこと,②婚姻するカップルが年々減少しているとはいえ,いまだ毎年約60万組のカップルが婚姻しており,諸外国と比較しても,婚姻率は高く,婚姻外で生まれる嫡出でない子の割合は低いこと(認定事実(9)イ(ア)~(エ),③各種の国民に対する意識調査においても,婚姻(結婚)をすることに肯定的な意見が過半数を大きく上回っていること(認定事実(9)ア(ア) (エ)),④内閣も,法律婚を尊重する意識が国民の間に幅広く浸透していると認識していること(甲A261),⑤法令においては,婚姻の届出をしていないが,事実上婚姻関係と同様の事情にある者について,婚姻している者と同様に扱う例が多数見られ(児童手当法3条2項,犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律5条1項1号,児童扶養手当法3条3項,母子及び父子並びに寡婦福祉法6条1項,厚生年金保険法3条2項,国民年金法5条7項など),事実上婚姻関係と同様の事情にある者に対しては,婚姻している者と同様の権利義務を付与することが法技術的には可能であるにもかかわらず,なお婚姻という制度が維持されていることの各事情からもうかがわれるものといえる。
このことからすると,婚姻することにより,婚姻によって生じる法的効果を享受することは,法的利益であると解するのが相当である。
【筆者】
何らかの「法的効果」を享受し、「法的利益」を得られるとしても、それは婚姻制度の立法目的との整合性との関係において、要件に該当する者と該当しない者が生まれているだけである。
そのため、婚姻制度の立法目的との整合性を勘案しないままに、特定の当事者を拾い上げて、「法的効果」や「法的利益」の存否の不平等を論じることはできないことに注意が必要である。
そして,このような婚姻によって生じる法的効果を享受する利益は,それが異性間のものであれば,憲法24条がその実現のための婚姻を制度として保障していることからすると,異性愛者にとって重要な法的利益であるということができる。異性愛者と同性愛者の差異は,性的指向が異なることのみであり,かつ,性的指向は人の意思によって選択・変更できるものではないことに照らせば,異性愛者と同性愛者との間で,婚姻によって生じる法的効果を享受する利益の価値に差異があるとする理由はなく,そのような法的利益は,同性愛者であっても,異性愛者であっても,等しく享有し得るものと解するのが相当である。
【筆者】
「異性愛者にとって重要な法的利益であるということができる。」との部分であるが、法律上は「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのか、それ以外の者であるのかは審査しておらず、誰もが「婚姻」することが可能であり、その「法的利益」を得ることができる。
また、「異性愛者にとって」との部分は、婚姻制度は「性的指向」の「合致」がなければ利用することができないとの前提を含んだものとなっている点で妥当でない。
「異性愛者と同性愛者の差異は,性的指向が異なることのみであり,」との部分であるが、そもそも「異性愛者」や「同性愛者」との二分論で論じている点で誤りである。「異性愛」や「同性愛」だけでなく、「両性愛」や「多性愛」、「全性愛」など様々な分類が議論されているし、「性愛を有しない者」もいる。また、そもそもこれらは「内心の自由」の範囲内の問題であり、法律上は関知していない。
「異性愛者と同性愛者との間で,婚姻によって生じる法的効果を享受する利益の価値に差異があるとする理由はなく,そのような法的利益は,同性愛者であっても,異性愛者であっても,等しく享有し得るものと解するのが相当である。」との記載がある。
この文の「異性愛者」と「同性愛者」とは法律用語ではなく、法律はそれらを区別していないが、この文そのままの意味としてはその通りである。
つまり、「そのような法的利益は,同性愛者であっても,異性愛者であっても,等しく享有し得るものと解するのが相当である。」との部分について、確かに、どのような個々人に対しても、「婚姻によって生じる法的効果を享受する利益の価値」や、その「法的利益」については、「等しく享有し得るもの」である。
ただ、法律上は「異性愛者」と「同性愛者」を分類していないのであるから、個々人の「婚姻によって生じる法的効果を享受する利益の価値」に差異はない。
何らかの違いがあるとしても、それは個々人が「異性との間で婚姻という法律関係を形成することができるが、同性との間では婚姻という法律関係を形成することができない」という点にある。これは立法政策において定められた規定の性質の問題であり、個々人の取り扱いに差異を設けたものではない。この違いを理解する必要がある。
したがって,本件区別取扱いは,このように異性愛者であっても同性愛者であっても,等しく享有し得る重要な利益である婚姻によって生じる法的効果を享受する利益について,区別取扱いをするものとみることができる。
【筆者】
日本語の文脈であるが、「本件区別取扱いは,……区別取扱いをするものとみることができる。」となっている。
「本件区別取扱い」の段階でもともと「区別取扱い」としていることを、重ねて「区別取扱いをするものとみる」としており、意味がよく分からない。
この「本件区別取扱い」とは、「(2)イ」で示された、下記の文である。
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イ ところで,本件規定は,異性婚についてのみ定めているところ,異性愛者のカップルは,婚姻することにより婚姻によって生じる法的効果を享受するか,婚姻せずそのような法的効果を受けないかを選択することができるが,同性愛者のカップルは,婚姻を欲したとしても婚姻することができず,婚姻によって生じる法的効果を享受することはできない。そうすると,異性愛者と同性愛者との間には,上記の点で区別取扱いがあるということができる(以下「本件区別取扱い」という。)。
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これについて、「このように異性愛者であっても同性愛者であっても,等しく享有し得る重要な利益である婚姻によって生じる法的効果を享受する利益について,区別取扱いをするものとみることができる。」としていることになるが、やはり文脈の意味が非常に分かりづらい。
また、「等しく享有し得る重要な利益である婚姻によって生じる法的効果を享受する利益について,」との部分であるが、文を区切り、文脈を丸ごと整理できなかったのだろうか。説明が多すぎて、意味を掴みづらい。
◇ 「等しく享有し得る重要な利益である婚姻」 → 「婚姻によって生じる法的効果を享受する利益」
また、もともと法律は「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのか、それ以外の者であるのか審査しておらず、どのような思想や感情を抱いている者に対しても「等しく享有し得る重要な利益である婚姻によって生じる法的効果を享受する利益」を与えている。
そのため、「区別取扱い」そのものがないのであり、「区別取扱いをするものとみることができる。」との認識は事実誤認である。
ウ 明治民法下においては,婚姻とは,終生の共同生活を目的とする,男女の道徳上及び風俗上の要求に合致した結合関係などとされ(認定事実(3)イ),昭和22年民法改正当時においても,夫婦関係とは,社会で一般に夫婦関係と考えられているような,社会通念による夫婦関係を築く男女の精神的・肉体的結合とされており(認定事実(5)イ),我が国においては,同性婚は,明文の規定を置かずともそのような社会通念に照らして当然のこととして認められないと解されてきた(認定事実(3)イ,(5)イ,ウ)。
【筆者】
「明治民法下においては,」や「昭和22年民法改正当時においても,」とあるが、これは民法上の規定を解釈することによって導き出された説明であり、民法上の規定を離れて独立して「婚姻」という法的効果が存在するわけではないと考えられる。
また、「我が国においては,同性婚は,明文の規定を置かずともそのような社会通念に照らして当然のこととして認められないと解されてきた」との記載があるが、「同性婚」は法律用語ではないし、「同性同士の組み合わせ」については民法上も「婚姻」として定められていなかったのであるから、「婚姻」の一種であるかのような「同性婚」という言葉を使うことは適切ではない。
「社会通念に照らして」の部分であるが、もともと民法上の強行規定が存在する事柄に関しては、「社会通念」が関与する余地はない。
そのため、民法上において「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として認められていなかったのであるから、「社会通念」を理由として「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」が認められていなかったかのような説明は妥当でない。
そのことから、この「社会通念」が原因であることを根拠とする形で、「社会通念」が変化したならば、民法上において「婚姻」として認められていないとしても、「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」として認めることができる余地が生まれるかのような説明を導くことはできないことに注意が必要である。
その理由について検討するに,同性愛は,明治民法下においては,変質狂などとされた精神疾患の一種とされ,これは治療すべきものであり,また禁止すべきものとされていたのであり(認定事実(2)),昭和22年民法改正がされた頃以降においても,同様に精神疾患とされ,治療すべきもの,禁止すべきものとされていたものであること(認定事実性)ア~ウ)からすれば,同性愛とは精神疾患にり患した状態であり,同性愛者間において婚姻を欲したとしても,それは精神疾患が原因となっているためであって,同性愛者間においては社会通念に合致した正常な婚姻関係を営むことができないと考えられたことから,法令によって禁止するまでもないとされたものと解される。
【筆者】
「その理由について検討するに,同性愛は,明治民法下においては,変質狂などとされた精神疾患の一種とされ,これは治療すべきものであり,また禁止すべきものとされていたのであり」との部分である。
これについて、「異性愛」や「同性愛」、その他の「性愛(性的指向)」、「性自認」、「変質狂」の思想、「精神疾患」にあると認められている者の思想も、日本国憲法の下ではすべて「思想良心の自由(19条)」によって保障されている。
そのため、日本国憲法の下では、「同性愛」や「変質狂」、「精神疾患」について「禁止すべきもの」とされている事実はない。
そのことから、「昭和22年民法改正がされた頃以降においても,同様に精神疾患とされ,治療すべきもの,禁止すべきものとされていたものであること」との「禁止すべきものとされていた」との部分については明確に誤りである。
裁判所がこの点を法律論として見誤るとは、本当に大丈夫だろうか。
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○味村政府委員
(略)
思想、良心の自由と申しますのは内心的な自由でございますから、どういう思想を持っているかという内心の思想によりまして、その特定の人、その思想の持ち主を処罰するとか、そういうことをするのは憲法違反でございますけれども、この問題はそうではございませんで、公共の福祉のために放送いたしておりますNHKの維持のために受信料を取るという手段としてこういう契約強制ということがあるわけでございまして、これは決して憲法十九条に違反するようなものではございません。
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第84回国会 衆議院 逓信委員会 第6号 昭和53年3月1日
【動画】司法試験入門講座 プレ講義 「体系マスター」憲法5 「知る権利、基本的人権の限界」 2020/03/12
【動画】【司法試験】2021年開講!塾長クラス体験講義~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~<体系マスター憲法4-6> 2021/02/09
「同性愛とは精神疾患にり患した状態であり,同性愛者間において婚姻を欲したとしても,それは精神疾患が原因となっているためであって,」との部分であるが、少なくとも日本国憲法の下では「同性愛」は「思想良心の自由(19条)」によって保障されている。それは、「同性愛」が「精神疾患」であると否とにかかわらず、保障されている。なぜならば、「思想良心の自由(19条)」は、「精神疾患」と認められている者の内心についても当然に保障しているからである。
「同性愛者間においては社会通念に合致した正常な婚姻関係を営むことができないと考えられたことから,」との部分であるが、「同性愛」であることと婚姻制度を利用できるか否かは直接的な関係がない。それは、婚姻制度は民法上の要件に該当するか否かによって利用の可否が判断されるのであり、「同性愛」という思想に基づいて判断されている事実はないからである。
また、ここでいう「社会通念」であるが、それは民法上の規定が存在することを前提としてその「婚姻関係」の形に適合するか否かを「社会通念」によって判断しているものであり、民法上の規定を離れて「社会通念」そのものが「婚姻」の意味を定義しているわけではないと考えられる。そのため、「同性愛者」であっても婚姻制度を利用することは可能であることに注意が必要である。
それとは別に、「同性同士の組み合わせ」については民法上の「婚姻」の要件を満たさず、「婚姻」として扱われていないのであるから、「社会通念」が登場するまでもなく、「婚姻」として成立していない。そのため、「社会通念」によって「同性同士の組み合わせ」が「婚姻」として認められていなかったかのような説明は妥当でないと考えられる。
「法令によって禁止するまでもないとされたものと解される。」との記載がある。
その「法令によって禁止するまでもないとされた」理由について、「同性愛」が「精神疾患」と見なされていたことによるものであると断定している点が妥当でない。
国が婚姻制度を構築する立法目的が「子の福祉が実現される社会基盤を構築すること」にあると考える場合など、一般的・抽象的に当事者間で「自然生殖」を想定することができない「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として想定していなかったなどの理由も考えられる。
そのため、この説明を基にして、以前は「同性愛」が「精神疾患」と見なされていたが、現在はそのように見なされていないことから、直ちに「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」として取り扱うことができる余地が生まれるかのような結論を導き出すことができるわけではないことに注意する必要がある。
しかしながら,平成4年頃までには,外国及び我が国において,同性愛は精神疾患ではないとする知見が確立したものといえ(認定事実(6)ア,イ),さらに,性的指向は,人の意思によって選択・変更できるものではなく,また後天的に変更可能なものでもないことが明らかになったこと(認事実(1)ア,(6)ア,イ)からすると,同性愛が精神疾患であることを前提として同性婚を否定した科学的,医学的根拠は失われたものということができる。
【筆者】
まず、「同性愛」と「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」との間には直接的な関係性はない。そのため、「同性愛」が「精神疾患」と見なされなくなったからといって、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」に直接的に繋がるわけではない。
また、先ほども述べたように、「同性同士の組み合わせ」が「婚姻」として認められていなかったことは、婚姻制度を構築する立法目的が「子の福祉が実現される社会基盤を構築すること」にある場合など、当事者間で「自然生殖」が想定されない「組み合わせ」については「婚姻」として想定していなかったことなどが考えられる。そのことから、「同性愛」が「精神疾患」と見なされなくなったとしても、同様の立法目的に従えば、「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として想定されないことに変わりはない。
そのため、「同性愛」が「精神疾患」であるか否かによって、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」の可否が変わるかのように論じようとしているのであれば、誤った認識である。
エ(ア)現行民法では,婚姻当事者である夫婦のみにとどまる規定だけではなく,実子に関する規定(民法772条以下),親権に関する規定(同法818条以下)などが置かれ,婚姻した夫婦とその子について特に定めていること,戸籍法が,子の出生時の届出(同法49条1項)や,子の親の戸籍への入籍(同法18条)などについて規定していることからすると,本件規定は,夫婦が子を産み育てながら共同生活を送るという関係に対して,法的保護を与えることを重要な目的としていると解することができる。
【筆者】
これについては特に述べることはない。婚姻制度に対する「個々人の利用目的」がどうであろうと、婚姻制度を構築した「国の立法目的」に従う形で「本件規定」が設けられたことは、その通りであると考えられる。
「目的」の意味の多義性について、当サイト「同性婚訴訟 福岡地裁判決の分析」で詳しく解説している。
しかしながら,現行民法は,子のいる夫婦といない夫婦,生殖能力の有無,子をつくる意思の有無による夫婦の法的地位の区別をしていないこと,子を産み育てることは,個人の自己決定に委ねられるべき事柄であり,子を産まないという夫婦の選択も尊重すべき事柄といえること,明治民法においても,子を産み育てることが婚姻制度の主たる目的とされていたものではなく,夫婦の共同生活の法的保護が主たる目的とされていたものであり(認定事実(3)ウ),昭和22年民法改正においてこの点の改正がされたことはうかがわれないこと(認定事実(5)ウ)に照らすと,子の有無,子をつくる意思・能力の有無にかかわらず,夫婦の共同生活自体の保護も,本件規定の重要な目的であると解するのが相当である。特に近時においては,子を持つこと以外の婚姻の目的の重要性が増しているとみることができ,子のいる世帯数は年々減少している(認定事実(9)イ(ウ))にもかかわらず,いまだ婚姻件数は毎年60万件を超えて婚姻率も諸外国と比べて比較的高く(認定事実(9)イ(ア),(イ)),子を持つこと以外に婚姻(結婚)の利点を感じている者が多数いるとみられること(認定事実(9)ア(ウ)には,それが表れているということができる。
【筆者】
「現行民法は,子のいる夫婦といない夫婦,生殖能力の有無,子をつくる意思の有無による夫婦の法的地位の区別をしていないこと,」との記載がある。
確かに、現行民法はそれらによって「法的地位の区別をしていない」。
しかし、「現行民法は,子のいる夫婦といない夫婦,生殖能力の有無,子をつくる意思の有無による夫婦の法的地位の区別をしていないこと,」を理解できるのであれば、現行民法は「異性愛」を抱くいわゆる「異性愛者」であるかや、「同性愛」の感情を抱くいわゆる「同性愛者」であるか、それ以外の感情を抱く者であるのかによって、「法的地位の区別をしていない」ことにも気づくべきである。
「しかしながら,現行民法は,子のいる夫婦といない夫婦,生殖能力の有無,子をつくる意思の有無による夫婦の法的地位の区別をしていないこと,子を産み育てることは,個人の自己決定に委ねられるべき事柄であり,子を産まないという夫婦の選択も尊重すべき事柄といえること」との記載がある。
「しかしながら、」と文を繋いでいることから、一つ前の文の「本件規定は,夫婦が子を産み育てながら共同生活を送るという関係に対して,法的保護を与えることを重要な目的としている」という部分に対する逆説を述べようとしているものと思われる。
しかし、一つ前の文については、婚姻制度を整備する「国の立法目的」を述べたものであり、ここの文で述べられているのは、婚姻制度を利用する「個々人の利用目的」を審査していないことを述べたものであり、この両者は性質が異なる。
そのため、婚姻制度に対する「個々人の利用目的」を根拠として、婚姻制度の「国の立法目的」を覆したり、変更したりできるわけではないことに注意する必要がある。
「明治民法においても,子を産み育てることが婚姻制度の主たる目的とされていたものではなく,夫婦の共同生活の法的保護が主たる目的とされていたものであり(認定事実(3)ウ),昭和22年民法改正においてこの点の改正がされたことはうかがわれないこと(認定事実(5)ウ)」との記載がある。
しかし、ここで述べている「子を産み育てることが婚姻制度の主たる目的とされていたものではなく」とは、婚姻制度を利用しようとする者が婚姻制度を利用する際の「主たる目的」として「子を産み育てること」を有しているか否かによって、婚姻制度を利用できるか否かを判断するべきであるか否かについて述べられたものである。これは、婚姻制度に対する「個々人の利用目的」について検討されたものであり、婚姻制度を構築する「国の立法目的」とは異なる。
「夫婦の共同生活の法的保護が主たる目的とされていたものであり」との部分であるが、それは「国の立法目的」に従って婚姻制度が整備され、その婚姻制度を利用する当事者(夫婦)の関係を法的に保護しようとしているだけであり、その婚姻制度を整備する「国の立法目的」を飛ばして、単に当事者(夫婦)の共同生活だけを法的に保護しようとしているわけではないことに注意が必要である。
ここでも、婚姻制度を整備する「国の立法目的」が「子の福祉が実現される社会基盤を構築する」ことにある場合などは、当事者間で「自然生殖」が想定されない「同性同士の組み合わせ」については一般的・抽象的な「国の立法目的」の対象外である。
そのため、婚姻制度を整備する「国の立法目的」を離れて、「子を産み育てることが婚姻制度の主たる目的とされていたものではなく,夫婦の共同生活の法的保護が主たる目的とされていた」という部分を根拠として、「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」として扱うことが可能となるかのような論理を導くことはできないことに注意する必要がある。
「子の有無,子をつくる意思・能力の有無にかかわらず,夫婦の共同生活自体の保護も,本件規定の重要な目的であると解するのが相当である。」との記載がある。
しかし、「本件規定」は、婚姻制度を整備する「国の立法目的」に従って定められているのであり、その「本件規定」が「子の有無,子をつくる意思・能力の有無にかかわらず,夫婦の共同生活自体の保護」を行っているとしても、それを根拠として「国の立法目的」が「子の有無,子をつくる意思・能力の有無にかかわらず,夫婦の共同生活自体の保護」であるとは断定することはできないことに注意する必要がある。
婚姻制度を整備する「国の立法目的」が「子の福祉が実現される社会基盤を構築すること」などにある場合、その「国の立法目的」に従って整備された「本件規定」が「子の有無,子をつくる意思・能力の有無にかかわらず,夫婦の共同生活自体の保護」を行っているとしても、それが遡って「国の立法目的」に置き替わるわけではない。
「特に近時においては,子を持つこと以外の婚姻の目的の重要性が増しているとみることができ,」や「子を持つこと以外に婚姻(結婚)の利点を感じている者が多数いるとみられること」との記載がある。
しかし、それは「個々人が婚姻制度を利用する際の個々人の目的」を指すものであり、「国が婚姻制度を構築することによって達成しようとした目的」とは異なることに注意が必要である。婚姻制度を利用する「個々人の利用目的」が「近時」においてそのような傾向がみられるとしても、婚姻制度を構築する「国の立法目的」は変わらないのである。
「目的」の意味の多義性について、当サイト「同性婚訴訟 福岡地裁判決の分析」で詳しく解説している。
(イ)このような本件規定の目的は正当であるが,そのことは,同性愛者のカップルに対し,婚姻によって生じる法的効果の一切を享受し得ないものとする理由になるとは解されない。
【筆者】
「このような本件規定の目的は正当である」との部分については、「エ(ア)」の第一文で述べられた「本件規定は,夫婦が子を産み育てながら共同生活を送るという関係に対して,法的保護を与えることを重要な目的としている」との部分を指しているものと思われる。
しかし、「本件規定の目的」とは、「本件規定」を含む民法や戸籍法が立法された「国の立法目的」に従って定められていることに注意が必要である。
「そのことは,同性愛者のカップルに対し,婚姻によって生じる法的効果の一切を享受し得ないものとする理由になるとは解されない。」との記載がある。
まず、「同性愛者」であるが、法律用語ではない。法律は「異性愛」や「同性愛」などの思想や感情にはまったく感知しておらず、それらの思想や感情を抱く者を「異性愛者」と「同性愛者」に区別していない。そのため、たとえ「異性愛者」や「同性愛者」と名乗る者も、婚姻制度を利用することができるのであり、「婚姻によって生じる法的効果の一切を享受」し得る立場にいる。そのことから、「同性愛者」と名乗る者に対して「婚姻によって生じる法的効果の一切を享受し得ないものとする理由になるとは解されない。」などと、「婚姻によって生じる法的効果」が与えられていないかのような前提で論じている部分が誤りである。
次に、「カップル」であるが、これも法律用語ではない。法律上は「権利能力」を有する法主体となる「自然人」(あるいは『法人』)をどのような法律関係で結び付けるかという視点から捉える必要があり、「カップル」というような単位では法律関係を構成することはできない。
また、「カップル」という言葉を用いると、あたかも「婚姻」の形は必ず「二人一組」でなければならないかのような印象を受けやすいが、他国の例では「男性一人と女性四人まで」という複婚の形も存在する。そのことから、法主体となる「自然人」をどのように結び付けるかという法律関係を構成する段階で、「カップル」という「二人一組」の形を前提として論じようとすることは、この論点を先取りしようとするバイアスの入りやすい言葉を用いていることに注意が必要である。
すなわち,婚姻の本質は,両性が永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真撃な意思をもって共同生活を営むことにあるが,異性愛と同性愛の差異は性的指向の違いのみであることからすれば,同性愛者であっても,その性的指向と合致する同性との間で,婚姻している異性同士と同様,婚姻の本質を伴った共同生活を営むことができると解される。上記ウで説示したとおり,本件規定が同性婚について定めなかったのは,昭和22年民法改正当時,同性愛は精神疾患とされ,同性愛者は,社会通念に合致した正常な婚姻関係を築けないと考えられたためにすぎないことに照らせば,そのような知見が完全に否定されるに至った現在において,本件規定が,同性愛者が異性愛者と同様に上記婚姻の本質を伴った共同生活を営んでいる場合に,これに対する一切の法的保護を否定する趣旨・目的まで有するものと解するのは相当ではない。なぜなら,仮にそのように解したときには,本件規定は,誤った知見に基づいて同性愛者の利益を否定する規定と解さざるを得なくなるからである。
【筆者】
「婚姻の本質は,両性が永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真撃な意思をもって共同生活を営むことにあるが,」との記載がある。
しかし、これは民法上の規定を解釈することによって導き出された説明であり、民法上の規定を離れて独立した意味を有するものではない。そのため、この説明に基づいた形で、民法上の規定が「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」としていないことの不当性を主張することが可能となるわけではないことに注意が必要である。
「異性愛と同性愛の差異は性的指向の違いのみであることからすれば,」との記載がある。しかし、法律上は「異性愛」や「同性愛」、それ以外の「性愛」など、思想や感情に対しては一切関知していないのであり、裁判所がこのような個々人の内心の問題に対して法律上の評価を下してはならない。
また、「異性愛」と「同性愛」というように、明確に二分できるわけでもなく、それ以外の「性愛」のバリエーションも存在すると考えられている。また、「性愛」とそうでない思想や感情などについても、結局は個々人の内心の問題であるから、明確に切り分けることができる性質のものではない。それらの思想や感情は「思想良心の自由(19条)」として保障されるものではあるが、法律上の分類として区分けされている性質のものではない。
単なる事実の存否、個人の主観的意見の当否、学問上の論争、技術上の論争、宗教の教義などについては、「司法権の範囲」を超えることから、裁判所がこれらの問題に決着をつけようとしてはならない。
それにもかかわらず、裁判所が「異性愛と同性愛の差異は性的指向の違いのみである」などと述べることは、これらの論争に決着をつけようとする行為であり、「司法権の範囲」を超えており(越権行為)、正当化することができないと考えられる。
「同性愛者であっても,その性的指向と合致する同性との間で,婚姻している異性同士と同様,婚姻の本質を伴った共同生活を営むことができると解される。」との記載がある。
まず、「同性愛者」と「異性愛者」は法律用語ではないし、法律はそれらの区分によって自然人を分類していない。
「その性的指向と合致する同性との間で,婚姻している異性同士と同様,」との部分であるが、婚姻制度を構築する「国の立法目的」は「性的指向」の「合致」であるとは特定されていないし、婚姻制度は個々人がどのような「性愛(性的指向)」を有するものであるのかを審査していないし、婚姻制度を利用する個々人についても「性的指向」の「合致」がなければ「婚姻」することができないわけでもない。そのため、「婚姻している異性同士」が必ずしも「性的指向」が「合致」しているわけでもない。このことから、「性的指向と合致する同性との間で,」などと、「婚姻」するために「性的指向」の「合致」が必要となることを前提とした論じ方は適切ではない。
「婚姻の本質を伴った共同生活を営むことができると解される。」との部分であるが、先ほども述べたように、この「婚姻の本質」とは、「国の立法目的」に従って導き出された民法上の個別の規定を解釈した結果として導き出された説明である。そのため、この「婚姻の本質」は民法上の規定を離れて独立した意味を有しているわけではないことから、当然、この「婚姻の本質」を根拠としてその民法上の規定を覆す根拠となることはない。この「婚姻の本質」の上位法として、民法が存在するのであり、民法よりも上位法としてここで示された「婚姻の本質」の説明(定義)が位置付けられているわけではないのである。そのことから、この「婚姻の本質」の説明は、民法上の「男女二人一組」を前提として述べられたものであり、「同性との間で,」という「同性同士の組み合わせ」については、この「婚姻の本質」の範囲に含まれない。ここでは、「同性同士の組み合わせ」について「婚姻の本質を伴った共同生活を営むことができると解される。」と記載されてるが、この「婚姻の本質」は民法上の「男女二人一組」を前提とするものであるから、これに当てはまらない「同性同士の組み合わせ」については「婚姻の本質を伴った共同生活を営むこと」はできない。
また、「婚姻の本質」をいくら突き詰めたところで、婚姻制度そのものの立法目的を乗り越えて「婚姻の本質」を語ることはできないことにも注意が必要である。
【参考】「裁判所が婚姻の本質なるものを定義して、それが同性婚の裁判で14条違反かどうかを言うのに使うのはちょっと虫がよすぎないかな」 Twitter
「本件規定が同性婚について定めなかったのは,昭和22年民法改正当時,同性愛は精神疾患とされ,同性愛者は,社会通念に合致した正常な婚姻関係を築けないと考えられたためにすぎないことに照らせば,」との記載がある。
まず、「同性婚」は法律用語ではない。
次に、「同性愛」についてであるが、日本国憲法の下では「思想良心の自由(19条)」によって完全に保障されている。たとえその「同性愛」が「精神疾患」とされているとしても、その思想や感情そのものは「思想良心の自由(19条)」によって完全に保障されている。
「同性愛者は,社会通念に合致した正常な婚姻関係を築けないと考えられた」との部分について、たとえ「同性愛」の思想や感情を持ついわゆる「同性愛者」であったとしても、民法上の婚姻制度は同様に利用することができるのであり、「社会通念に合致した正常な婚姻関係を築けないと考えられた」との認識は誤りである。
法律上は個々人を「異性愛者」や「同性愛者」などに分類していないし、それらの分類に基づいて「婚姻」の可否を区別していない。たとえ「精神疾患」を抱えている者であるとしても、民法上の婚姻制度を利用することは可能である。
三つ目に、「同性愛」という思想や感情と、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」の間には、直接的な関係性はない。そのため、「同性愛者」であるとしても、「男女二人一組」の「婚姻(いわゆる異性婚)」を行い、「婚姻の本質」を満たすことは可能である。
たとえ「同性愛」が「精神疾患」とされていても、「同性愛者」とされる者であるとしても、民法上の婚姻制度は利用できるのであるから、「社会通念に合致した正常な婚姻関係」を築くことは可能である。
四つ目に、「本件規定が同性婚について定めなかったのは,昭和22年民法改正当時,同性愛は精神疾患とされ,同性愛者は,社会通念に合致した正常な婚姻関係を築けないと考えられたためにすぎないことに照らせば,」という全体の文であるが、「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」として認めていないことの理由を勝手に断定している点で妥当でない。
「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」として認めていない理由としては、下記が考えられる。
◇ 「女性同性婚」が可能となった場合、婚姻制度を「男女二人一組」に限定することによって、子供の父親を極力特定しようとする意図が損なわれることが考えられる。これによって、父親が不明の子供が増えたり、知らず知らずのうちに「近親交配」が行われたりすることが考えられる。
◇ 「女性同性婚」が可能となった場合、事実上の複婚関係が形成されやすくなると考えられる。これは、未婚の男女の不均衡が発生し、「子を持ちたくても持てない者」を減らそうとする趣旨が損なわれると考えらる。
このように、「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」として認めていないことは、婚姻制度の全体の整合性を保つ観点から定められたものである可能性がある。
それにもかかわらず、「本件規定が同性婚について定めなかったのは,昭和22年民法改正当時,同性愛は精神疾患とされ,同性愛者は,社会通念に合致した正常な婚姻関係を築けないと考えられたためにすぎないことに照らせば,」のように、「異性愛」や「同性愛」という法律論上の区分でないものを用いて論じたり、それが「精神疾患」であるか否かという観点のみによって「婚姻関係を築けないと考えられた」と断じている部分は、誤った前提認識に基づいて論じるものとなっており、妥当でない。
【参考】「同性愛は昔は精神疾患だったけど今はそうじゃない、という論理を繰り返してる」……「何かを正当化する為に何かを原因にする論法のようで読んでいてすっきりしない」 Twitter
「そのような知見が完全に否定されるに至った現在において,本件規定が,同性愛者が異性愛者と同様に上記婚姻の本質を伴った共同生活を営んでいる場合に,これに対する一切の法的保護を否定する趣旨・目的まで有するものと解するのは相当ではない。」との記載がある。
しかし、先ほども述べたように、「同性愛」と「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」との間には直接的な関係性はないのであり、「同性愛は精神疾患とされ」ていたという「知見が完全に否定されるに至った」としても、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」が可能か否かは別問題であり、それを理由として「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」が可能となるとは限らないし、そうしなければならないということにもならない。
また、「上記婚姻の本質を伴った共同生活を営んでいる場合に,」との部分についても、「同性同士の組み合わせ」に関しては「婚姻」として成立していない場合も考えられるし、「婚姻の本質」の意味が民法上の規定から導き出された説明であることからすれば、ここでいう「婚姻の本質」とは「男女二人一組」を前提とする意味である。
そのため、「同性同士の組み合わせ」についてはここでいう「婚姻の本質」に当てはまらず、「同性同士の組み合わせ」については、ここでいう「婚姻の本質を伴った共同生活」を営むことはできないということになる。
もう一つ、「同性愛者が異性愛者と同様に上記婚姻の本質を伴った共同生活を営んでいる場合に,」との部分であるが、ここでいう民法上の規定から導き出された「男女二人一組」を前提とする「婚姻の本質」について、例えば「男性(同性愛者=ゲイ)」と「女性(同性愛者=レズビアン)」が「婚姻(いわゆる異性婚)」をしている場合については、法律上の「男女の二人一組」の要件を満たす場合であるから、「婚姻の本質を伴った共同生活」を営むことは可能である。これに対しては、「これに対する一切の法的保護を否定する趣旨・目的まで有するものと解するのは相当ではない。」との認識は当然その通りである。
ただ、このような場合分けが生まれてしまう理由は、もともとこの判決が「異性愛者」や「同性愛者」という法律上の区分でないものを持ち出し、「異性愛」や「同性愛」という思想や感情を「婚姻」と結び付けて考えてしまう誤りが存在するからである。この点を誤ったことにより、すべての整合性がとれなくなってしまっているのである。
さらに、「婚姻の本質」の意味が民法上の規定から導き出された説明であることからすれば、民法上に婚姻制度を構築する際の立法目的を離れた形で独立して「婚姻の本質」を語ることはできず、婚姻制度の立法目的が「子の福祉の実現される社会基盤をつくること」にある場合などは、当事者間で「生殖」が想定されない「同性同士の組み合わせ」に対しては「婚姻」として成立しない場合が考えられる。
そのことから、「婚姻の本質」と称する説明をいくら突き詰めたところで、そこから「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」とする根拠を見出すことはできない。
「なぜなら,仮にそのように解したときには,本件規定は,誤った知見に基づいて同性愛者の利益を否定する規定と解さざるを得なくなるからである。」との記載がある。
この「そのように解したとき」とは、「本件規定が,同性愛者が異性愛者と同様に上記婚姻の本質を伴った共同生活を営んでいる場合に,これに対する一切の法的保護を否定する趣旨・目的まで有するものと解する」こと、を指していると思われる。
しかし、「婚姻の本質」が民法上の規定から導き出された説明であり、その民法が「男女二人一組」を前提としていることから、「同性同士の組み合わせ」についてはここでいう「婚姻の本質」に該当しない。そのため、「同性同士の組み合わせ」については、ここで言う「婚姻の本質を伴った共同生活」を営むことはできない。
次に、法律上は「異性愛者」であるか「同性愛者」であるかを審査していないことから、ある「男性(同性愛者=ゲイ)」とある「女性(同性愛者=レズビアン)」が「婚姻」し、「異性愛者と同様に上記婚姻の本質を伴った共同生活を営んでいる場合」が考えられる。それについては、「これに対する一切の法的保護を否定する趣旨・目的まで有するものと解する」ことは、完全に誤りである。
「本件規定は,誤った知見に基づいて同性愛者の利益を否定する規定と解さざるを得なくなる」との部分であるが、法律上は「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのか、それ以外の者であるのかなど、一切審査しておらず、関知していないのであるから、この判決が「本件規定」の中に「同性愛者の利益を否定する規定」が存在するとの認識を有していることは誤った知見に基づいていると解さざるを得ない。
もう一つ、法律上は「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのか、それ以外の者であるのかを審査していないし、婚姻制度は「異性愛者」も「同性愛者」も、それ以外の者も、「精神疾患」を有している者も利用することができるのであるから、「誤った知見」が「同性愛者の利益を否定」しているとの事実はない。
また、「本件規定」が「同性との間で婚姻を求める者」に対して「一切の法的保護を否定する趣旨・目的まで有するもの」であるか否かであるが、民法上では「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」として認めていないし、ここでいう「婚姻の本質」についても民法上の「男女二人一組」を前提とするものであることから、「一切の法的保護を否定する趣旨・目的まで有するもの」ということができる。
これについては、民法が「婚姻適齢に満たない者との間で婚姻を求める者」や「近親者との間での婚姻(近親婚)を求める者」、「複数人での婚姻(複婚)を求める者」に対して、法的保護を否定する趣旨・目的を有していることと同様と考えられる。
そのため、「一切の法的保護を否定する趣旨・目的まで有するものと解するのは相当ではない。」との認識は誤りとなると考えられる。
(ウ)このことは,憲法24条の趣旨に照らしても同様であり,同条が異性婚についてのみ定めた理由は,本件規定に関して上記(イ)で説示したところと同様であることは,前記2(2)で説示したとおりである。これに加え,そもそも同条は,異性婚について定めるものであり,同性婚について触れるものではないことも併せ考慮すれば,同条は,同性愛者が異性愛者と同様に上記婚姻の本質を伴った共同生活を営んでいる場合に,これに対する一切の法的保護を否定する趣旨まで有するものとは解されない。
【筆者】
ここでは、憲法24条について「同条が異性婚についてのみ定めた理由は,本件規定に関して上記(イ)で説示したところと同様であることは,前記2(2)で説示したとおり」としている。
しかし、憲法24条が「両性」「夫婦」「相互」の文言を用いていることは、下記のような事態を防ごうとするものである可能性がある。
◇ 婚姻制度の「男女二人一組」の限定がなくなり、「女性同性婚」が可能となった場合、子供の父親を極力特定しようとする意図が損なわれることが考えられる。これによって、父親が不明の子供が増えたり、知らず知らずのうちに近親交配が行われたりすることが考えられる。
◇ 婚姻制度の「男女二人一組」の限定がなくなり、「女性同性婚」が可能となった場合、事実上の複婚関係が形成されやすくなると考えられる。これは、未婚の男女の不均衡が発生し、「子を持ちたくても持てない者」を減らそうとする趣旨が損なわれると考えらる。
そのため、婚姻制度の全体の整合性を保つ観点から憲法24条は婚姻を「男女二人一組」の形に限定している可能性が考えられ、その場合の理由は「上記(イ)で説示した」や「前記2(2)で説示した」ような意図とは異なることが考えられる。
その点、「上記(イ)」や「前記2(2)」で示されたことだけが「同条が異性婚についてのみ定めた理由」であるかのような認識は誤りである。
そのため、「上記(イ)」や「前記2(2)」で示された前提が覆されたとしても、それを根拠として「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」とすることが可能となるわけではないことに注意が必要である。
「これに加え,そもそも同条は,異性婚について定めるものであり,同性婚について触れるものではないことも併せ考慮すれば,」との記載がある。
まず、「異性婚」や「同性婚」は法律用語ではない。
次に、「『男女二人一組(いわゆる異性婚)』の『婚姻』」について定めるものであり、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」について触れるものではないと置き換えたとしても、24条1項の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」の文言を婚姻の成立条件と解す場合など、「両性」を満たさない「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として成立しない。そのため、「同性婚」のようにあたかも「同性同士の組み合わせ」が婚姻として成り立つことを前提とする言葉を用いることは適切ではないことに注意が必要である。
「同条は,同性愛者が異性愛者と同様に上記婚姻の本質を伴った共同生活を営んでいる場合に,これに対する一切の法的保護を否定する趣旨まで有するものとは解されない。」との記載がある。
まず、法律上は「同性愛者」であるか「異性愛者」であるかを審査していない。
次に、「婚姻の本質」は、民法上の規定を解釈することによって導き出された説明であるから、その民法が「男女二人一組」の「婚姻」しか認めていないのであれば、「男女二人一組」でなければ「婚姻の本質」は成立しない。そのため、「同性同士の組み合わせ」については、「婚姻の本質を伴った共同生活」を営むことはできない。(『同性愛者』が生物学上の『男女二人一組』を形成して『婚姻』することは可能であることに注意。)
憲法24条1項には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」の文言があり、これが婚姻の成立条件と解する場合には、「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として認められないことから、「同性同士の組み合わせ」に対して「一切の法的保護を否定する趣旨まで有するもの」である可能性がある。
そのため、24条が「男女二人一組(いわゆる同性婚)」を定めていることに関する立法経緯の誤った認識前提を基にして論じることや、婚姻制度とは直接的な関係がなく法律上でも分類していない「異性愛者」や「同性愛者」という区分けを用いて論じることは妥当でないし、「同性同士の組み合わせ」に関して「一切の法的保護を否定する趣旨まで有するものとは解されない。」と結論付けることもできない。
(エ)以上のとおり,本件規定の目的や憲法24条の趣旨に照らせば,これらの規定は,同性愛者のカップルに対する一切の法的保護を否定する理由となるものとはいえない。
【筆者】
「本件規定の目的や憲法24条の趣旨に照らせば,」との記載がある。
しかし、「本件規定」である民法そのものは「男女二人一組」を前提としており、その「本件規定」そのものの「目的」は、「男女二人一組」の法律関係を形成することにある。そのため、「同性同士の組み合わせ」については、「本件規定」の「目的」の範囲に含まれておらず、「一切の法的保護を否定する理由となるもの」である。
また、「本件規定」である民法は、それが立法された「立法目的」が別に存在しており、その「立法目的」が「子の福祉が実現される社会基盤を構築すること」などにある場合については、一般的・抽象的な意味において当事者間で「自然生殖」を想定することができない「同性同士の組み合わせ」については、その「立法目的」の対象とする範囲に含まれておらず、「一切の法的保護を否定する理由となるもの」である可能性がある。
これとは別に、「同性愛者のカップル」であるが、「男性(同性愛者=ゲイ)」と「女性(同性愛者=レズビアン)」の組み合わせによる「婚姻(いわゆる異性婚)」については、「本件規定」である民法上の「男女二人一組」に該当することから、その「同性愛者のカップル」に対する「一切の法的保護を否定する理由となるものとはいえない。」との認識は妥当である。
「憲法24条の趣旨」であるが、これは「両性」「夫婦」「相互」の文言によって、婚姻制度を「男女二人一組」の形に限定している可能性がある。
すると、「同性同士の組み合わせ」については、「憲法24条の趣旨」の範囲を超えており、立法裁量の限界に抵触して違憲となる場合が考えられる。
そのため、「憲法24条の趣旨」についても、「一切の法的保護を否定する理由となるもの」である可能性がある。
これとは別に、「同性愛者のカップル」であるが、「男性(同性愛者=ゲイ)」と「女性(同性愛者=レズビアン)」の組み合わせによる「婚姻(いわゆる異性婚)」については、憲法24条の「両性」「夫婦」「相互」の文言を確実に満たすことから、その「同性愛者のカップル」に対する「一切の法的保護を否定する理由となるものとはいえない。」との認識は妥当である。
「本件規定の目的や憲法24条の趣旨に照らせば,これらの規定は,同性愛者のカップルに対する一切の法的保護を否定する理由となるものとはいえない。」との記載がある。
まず、「異性愛」や「同性愛」は個々人の思想や感情であり、「内心の自由」に属する問題である。
また、法律上はそれらの思想や感情を抱くか否かによって「異性愛者」や「同性愛者」などと分類していない。
さらに、「カップル」の文言についても、法律上は「権利能力」を有する「法主体」を単位として法律上の地位を付与できるか否かを検討しなければならないのであり、「カップル」という法律上の用語でないものを用いて論じようとしている点で妥当でない。
このような「カップル」という単位に基づいて論じることが認められるとすれば、「トリオ(三人組)」や「四人組」にも法的効果を及ぼすべきであるなどという議論を呼び起こすことになる。
そのため、「本件規定の目的や憲法24条の趣旨に照らせば,これらの規定は,同性愛者のカップルに対する一切の法的保護を否定する理由となるものとはいえない。」と述べるのであれば、同じように「本件規定の目的や憲法24条の趣旨に照らせば,これらの規定は,」、「婚姻適齢に満たない者との婚姻」や「近親者との婚姻(いわゆる近親婚)」、「三人以上の組み合わせによる婚姻(いわゆる複婚)」についても、「一切の法的保護を否定する理由となるものとはいえない。」と述べるつもりがあるのかを検討する必要がある。
オ 我が国においては,平成27年10月の東京都渋谷区に始まり,登録パートナーシップ制度を導入する地方公共団体が増加し,現在はその数が約60に及び,そのような地方公共団体に居住する住民の数は約3700万人を超えるに至った(認定事実(8)ア)。また,年齢層による差異があるとはいえ,同性婚を法律によって認めるべきとの国民の意見は,平成27年の調査と比較して平成30年には増加しているとみることができ,かつ平成27年の調査当時からおおむね半数に達していたものであり,特に,比較的若い世代において肯定的意見が多くみられる(認定事実側ア~オ)。さらに,同性愛者のカップルに何らかの法的保障が認められるべきだとの意見に肯定的な回答は75%に上り(認定事実同オ),我が国の企業のうち,権利の尊重や差別の禁止などLGBTに対する基本方針を策定している企業数は,平成28年から平成30年までの間に約2倍となった(認定事実(8)イ)。
【筆者】
「登録パートナーシップ制度を導入する地方公共団体」との記載がある。
ただ、地方公共団体は法律の範囲内でしか活動することはできず、「条例」を制定する場合についても「法律の範囲内(憲法94条)」に限られる。
憲法
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第八章 地方自治
第九十二条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
第九十四条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
そのため、「民法」や「戸籍法」という法律の解釈を行ったり、法律が憲法に抵触するか否かを論じる場面で、地方自治体の「登録パートナーシップ制度」など、法律の範囲内でしか運用できない事柄を持ち出して論拠を固めようとすることは妥当でない。
このような論じ方は、法律論上の正当性を導き出すプロセスとしては適切ではない。
ここでは、「(認定事実(8)ア)」、「(認定事実側ア~オ)」、「(認定事実同オ)」、「(認定事実(8)イ)」と、認定事実を取り上げている。
しかし、このような国民意識を背景として法律上の規定の合法・違法、あるいは合憲・違憲の判断が変わることはないし、また、変わるようなことがあってはならない。
なぜならば、「法の支配」や「法治主義」の理念においては、「人の支配」や「人治主義」を防ぐために、法の中に一定の規範を見出し、その規範の中に具体的な事柄を当てはめることによって結論を導き出すことが必要だからである。
「法の支配」や「法治主義」の理念においては、司法権の判断が「国民意識」などによって結論が変わるものとなってはならないのである。
もし「国民意識」によって、法律上の合法・違法、あるいは合憲・違憲の判断が変わり得るのであれば、「殺人」や「窃盗」を行った者に対する刑法の適用においても、「国民意識」によって合法・違法の結論が変わり得ることとなり、妥当でないからである。
それらの「国民意識」とは、立法権の行使における立法裁量のある事柄で、どのような規範を立法するか否かという段階や、行政権の行使における自由裁量の余地のある事柄に関して、規範を適用するか否かという段階において考慮することができるものに過ぎず、司法権を行使する裁判所が「国民意識」を背景として合法・違法の判断を変えるようなことがあってはならない。司法権は、合法・違法のみを判断することが可能であり、立法裁量や行政裁量に関する事柄の当否については判断を行ってはならず、もし判断を行った場合には、「司法権の限界」を超える越権行為となる。「国民意識」によって変わり得る事柄に関しては、司法権によって判断を下せる範囲を超えるということである。
上記各事実は,いずれも国民の意思を代表するものとはいえないが,性的指向による区別取扱いを解消することを要請する国民意識が高まっていること,今後もそのような国民意識は高まり続けるであろうことを示しているといえ,このことは,本件区別取扱いが合理的根拠を有するといえるかを検討するに当たって考慮すべき事情であるといえる。
【筆者】
「性的指向による区別取扱いを解消することを要請する国民意識が高まっている」との記載がある。
しかし、法律上は個々人の「性的指向」を審査していないし、個々人を「性的指向」に分類していないのであるから、法律上において「性的指向による区別取扱い」がなされているという事実はない。そのため、そのような「性的指向による区別取扱い」がなされていることを前提として、その「区別取扱いを解消することを要請する国民意識が高まっている」との認識は誤った理解である。
「このことは,本件区別取扱いが合理的根拠を有するといえるかを検討するに当たって考慮すべき事情であるといえる。」との記載がある。
しかし、法律上は「性的指向」によって「区別取扱い」をしていないことから、「本件区別取扱いが合理的根拠を有するといえるか」のように、「区別取扱い」をしていることを前提として「合理的根拠」の有無を論じることはできない。
さらに、「このことは,……考慮すべき事情であるといえる。」との文脈であるが、司法権が判断することのできる法的問題の範囲は、合法・違法(あるいは合憲・違憲)の問題に限られており、その法律に抵触するか否かに関しては、「国民の意思」や「国民意識」によって左右されてはならない事柄である。
そのため、今回の事例はそもそも「区別取扱い」自体がないことから、その「区別取扱い」があることを前提とした「合理的根拠」の存否を判断することができないのであるが、別の事例で「区別取扱い」があるとしても、その「合理的根拠」を検討する中においては、「国民の意思」や「国民意識」を「考慮」して判断を下してはならない。
「国民の意思」や「国民意識」を「考慮」することができるのは、立法府において立法裁量が存在する事柄に関してどのような法律を立法するかや、行政府が行政裁量が存在する事柄に関してどのように法律を適用するかという、政治部門が自由裁量判断を行う余地が残されている場合に限られるのである。
司法府の裁判所が、規範に抵触するか否かという法的判断において、「国民の意思」や「国民意識」を「考慮すべき事情である」としていることは、「司法権の限界」を超える越権行為であると考えられる。
カ 同性愛が精神疾患の一種ではないとする知見が確立して以降,諸外国においては,同性婚又は同性間の登録パートナーシップ制度を導入する立法が多数行われ,婚姻は異性婚に限るとする司法判断がみられる一方で,同性婚を認めない法制は憲法に反するとする司法判断も示されるようになり,このような例は,いわゆるG7参加国等の先進国に多くみられるものといえる(認定事実(7)ア)。また,我が国に所在する外国団体も,我が国における外国人材の活動が制約されているとの懸念を示す意見を表明するに至っている(認定事実(7)イ)。
【筆者】
まず、「同性愛」については、それが「精神疾患の一種」として扱われているか否かにかかわらず、日本国憲法の下では「思想良心の自由(19条)」によって保障されている。
次に、「同性愛」と「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」の間には直接的な関係性はない。そのため、「同性愛」が「精神疾患の一種ではないとする知見」が確立したとしても、それを根拠として「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる異性婚)」が可能となるわけではないし、可能としなければならないわけでもない。
「諸外国」の事例であるが、憲法そのものが異なるし、法制度そのものの合憲・違憲の判断においては、直接的な影響はない。また、日本国憲法の下にある日本国の法令解釈において、外国の事例をそのまま当てはめることができるわけではなく、日本国の法令そのものを解釈する必要がある。
「いわゆるG7参加国等の先進国」との記載もあるが、「G7」という枠組みと日本国憲法における「法の支配」や「法治主義」の原理とは直接的な関係性はないのであり、その外国が「先進国」であろうとなかろうと、日本国憲法の下での法的判断そのものは何ら影響はないし、影響を受けるようなことがあってはならない。
そのような事柄は政治部門において政策判断の過程で考慮されることがあるとしても、裁判部門である司法府の裁判所が法的判断の過程で考慮することは、「司法権の限界」を超えた越権行為となることに注意が必要である。
上記のような諸外国やその関連団体の動向は,婚姻やカップルの在り方に関する文化,価値観,宗教観などが我が国と異なることから,直ちに我が国における同性愛者のカップルに対する法的保護の在り方に影響する事情とし得るものではない。しかしながら,諸外国及び地域において,同性愛が精神疾患ではないとの知見が確立されて以降,同性愛者のカップルと異性愛者のカップルとの間の区別取扱いを解消するという要請が高まっていることを示すものといえ,このことも,本件区別取扱いが合理的根拠を有するといえるかを検討するに当たって考慮すべき事情であるといえる。
【筆者】
「上記のような諸外国やその関連団体の動向は,婚姻やカップルの在り方に関する文化,価値観,宗教観などが我が国と異なることから,直ちに我が国における同性愛者のカップルに対する法的保護の在り方に影響する事情とし得るものではない。」との記載がある。
趣旨そのものはその通りである。しかし、「カップルの在り方」や「同性愛者のカップル」との部分は、「カップル」という「二人一組」を前提とした用語を用いており、妥当でない。法律関係を形成する際には、法主体となっている自然人(あるいは法人)をどのように結び付けるかという視点から考える必要があり、その法律的な視点に「カップル」という「二人一組」を前提としなければならないとの制約は存在しないのである。法律上は「権利能力」を有する「法主体」となっている自然人(または法人)を単位として法律関係を構成する必要があり、「カップル」という法律用語ではない区分に基づいて論じようとしている点で、法律論として適切でない。
また、「同性愛者のカップル」の「同性愛者」について、法律上は「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのか、それ以外の者であるのかを審査していないのであるから、法律上存在しない区分を用いて「同性愛者のカップルに対する法的保護」を論じようとすることは妥当でない。そのため、「同性愛」という思想や感情と、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」の間には直接的な関係性はないのであるが、「同性愛者のカップル」ではなく、「同性同士の組み合わせ」に対して「法的保護」を行うことは可能か否かという視点から検討する必要がある。
「同性愛が精神疾患ではないとの知見が確立されて以降,同性愛者のカップルと異性愛者のカップルとの間の区別取扱いを解消するという要請が高まっていることを示すものといえ,」との記載がある。
まず、「異性愛者」や「同性愛者」という言葉は法律上の区分でないため、これに基づいて論じようとしている点で適切でない。
また、「同性愛者のカップルと異性愛者のカップルとの間の区別取扱い」の部分であるが、法律上は「権利能力」を有する法主体である自然人(あるいは法人)をどのような法律関係で結び付けるかという視点から構成する必要があり、「カップル」という法主体としての地位を有しない区分に基づいて、その間の「不平等」の存否を論じることはできない。
さらに、「区別取扱いを解消するという要請」の部分について、法律上は「同性愛者」であるのか「異性愛者」であるのかを審査しておらず、「区別取扱い」をしている事実はない。そのため、法律論上で「異性愛者」や「同性愛者」という区分に基づいて当事者が区別されているかのような前提に基づいて論じようとしている点で適切でない。
「このことも,本件区別取扱いが合理的根拠を有するといえるかを検討するに当たって考慮すべき事情であるといえる。」との記載があるが、今回の事例では「本件区別取扱い」そのものが存在しないことから、「合理的根拠を有するといえるか」否かを検討することはできないし、検討することができない事例について無理に検討しようとすることもしてはならない。
この段落は、「諸外国やその関連団体の動向は,……直ちに我が国における……に影響する事情とし得るものではない。しかしながら,諸外国及び地域において,……という要請が高まっていることを示すものといえ,このことも,……を検討するに当たって考慮すべき事情であるといえる。」との文脈となっている。
しかし、「影響する事情とし得るものではない。」が、「考慮すべき事情であるといえる。」というのは、結局、「考慮」することによって「影響」しているのではないかと思われる。十分に意味がよく分からない。
結局、今回の事例は「区別取扱い」がないので「区別取扱い」があることを前提として論じることは妥当でないという前提があるが、「本件区別取扱いが合理的根拠を有するといえるかを検討するに当たって」、「諸外国やその関連団体の動向」を「考慮すべき事情である」としていることになるから、それはもはや法規範に抵触するか否かの合法・違法(あるいは合憲・違憲)という判断を超えて、政策的な当否を論じようとするものとなっている。
これは、政治部門の立法府や行政府に任せるべき問題であり、司法府である裁判所が司法権を行使して判断できる範囲を超えており、越権行為となると考えられる。
【参考】「司法権の超越は地方裁判所であっても看過すべきではない」 Twitter
キ(ア)同性愛を精神疾患の1つとし,禁止すべきものとする知見は,昭和55年頃までは,国際的にも我が国においても通用していたものであり,それは教育の領域においても広く示されていたものであった(認定事実(4)ウ)。近時の調査によれば,同性婚を法律で認めるべきとの国民の意見が多数になりつつあるものの,60歳以上の比較的高い年齢層においては,同性婚を法律で認めることについて否定的意見を持つ国民が多数を占めている(認定事実(10)ア,エ)。このように,国民の総意が同性婚に肯定的であるというには至らないのは,明治時代から近時に至るまで,同性愛は精神疾患でありこれを治療又は禁止すべきものとの知見が通用しており,そのような結果,同性婚を法律によって認めることに対する否定的な意見や価値観が国民の間で形成されてきたことが,理由の1つであると考えられる。同性愛を精神疾患とする知見は,現在は,科学的・医学的には否定されているものであるが,上記のような経緯もあって,同性婚に対する否定的な意見や価値観が形成され続けてきたことに照らせば,そのような意見や価値観を持つ国民が少なからずいることもまた考慮されなければならない。特に,婚姻とは,明治民法以来,社会の風俗や社会通念によって定義されるものと解されていたのであるから(認定事実(3)イ,(5)イ),立法府は,異性婚と同様の同性婚を認めるかについてその裁量権を行使するに当たり,上記のような否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずいることを斟酌することができるものといえる。
【筆者】
「同性愛を精神疾患の1つとし,禁止すべきものとする知見は,昭和55年頃までは,国際的にも我が国においても通用していたものであり,それは教育の領域においても広く示されていたものであった」との記載がある。
しかし、日本国憲法の下では「同性愛」についても、「精神疾患」についてもすべて「思想良心の自由(19条)」で完全に保障されており、「禁止すべきものとする知見」は存在しない。もし「同性愛」や「精神疾患」そのものに対して法律上で「禁止すべきもの」としているような規定が存在するのであれば、「思想良心の自由(19条)」に違反して違憲である。
憲法
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第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
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そのため、「禁止すべきものとする知見」が「我が国においても通用していた」との理解は、法律論としてはあり得ない。
「近時の調査によれば,同性婚を法律で認めるべきとの国民の意見が多数になりつつあるものの,60歳以上の比較的高い年齢層においては,同性婚を法律で認めることについて否定的意見を持つ国民が多数を占めている」との記載がある。
この文の一文前では「同性愛」の話をしていたが、この文以降は「同性婚」の話に変わっている。しかし、「同性愛」と「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」の間には直接的な関係性はないのであり、勝手に結び付けて考えている点で妥当でない。
ここでは、「同性愛」に対する知見と「同性婚」に対する価値観を並列に述べている。
そして、「同性婚について否定的意見を持つ国民」や、「同性婚に対する否定的な意見や価値観が国民の間で形成されてきた」、「そのような否定的な意見や価値観を持つ国民」との記載がある。
しかし、「同性愛」と「『同性同士の組み合わせ』による『婚姻』(いわゆる同性婚)」の間には、直接的な因果関係はない。「同性愛」の結果として「『同性同士の組み合わせ』による『婚姻』(いわゆる同性婚)」に至ることに価値があると考えるか否かは、まったく慣習や文化としての個々人の価値観の問題である。
そのため、「同性愛」は肯定的であるが、「同性婚」には否定的な国民、あるいはその逆など、様々なパターンが考えられるにもかかわらず、「同性愛」と「同性婚」に相関関係があるかのように論じている点で妥当でない。
また、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」に否定的な意見や価値観を持つ国民の中には、それを許容する場合には、婚姻制度を「男女二人一組」の形に限定することによって「近親交配」に至るリスクを軽減しようとする意図が損なわれることや、婚姻制度を構築する趣旨から「生殖と子の福祉」が失われることによって「『同性同士の三人以上の組み合わせ』による『婚姻』(同性複婚)」や「『異性の三人以上の組み合わせ』による『婚姻』(異性複婚)」を許容しなければならなくなることなどを理由としていることが考えられる。
そのため、あたかも「同性愛を精神疾患の1つとし,禁止すべきものとする知見」によってのみ、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」に否定的な意見や価値観が形成されているかのような前提で論じている点で妥当でない。
「このように,国民の総意が同性婚に肯定的であるというには至らないのは,明治時代から近時に至るまで,同性愛は精神疾患でありこれを治療又は禁止すべきものとの知見が通用しており,そのような結果,同性婚を法律によって認めることに対する否定的な意見や価値観が国民の間で形成されてきたことが,理由の1つであると考えられる。」との記載がある。
しかし、「同性愛」と「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」には直接的な関係性はないにもかかわらず、結び付けて考えてしまっている点で妥当でない。
【参考】「同性婚に慎重なのは、何も同性愛者を嫌悪しているからではない」 Twitter
【参考】「同性愛を肯定する事と同性婚に法的保護を与える事は次元が違う」 Twitter
【参考】「同性愛者へ自然に接することと、同性婚に現行法下で賛成することは、本質的に意味が違う。」 Twitter
【参考】「『同性婚に賛成かどうか』という問いは『同性愛に賛成かどうか』と混同されやすい」 Twitter
【参考】「『同性愛』と『同性婚』は全く別のもの」 Twitter
【参考】「同性婚に反対することや慎重になることを、同性愛(者)差別にすり替える論法」 Twitter
また、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」に「否定的な意見や価値観」が存在する理由としては、それを許容した場合に、婚姻制度を「男女二人一組」の形に限定することによって「近親交配」に至るリスクを軽減しようとする意図が損なわれることや、婚姻制度を構築する趣旨から「生殖と子の福祉」が失われることによって「『同性同士の三人以上の組み合わせ』による『婚姻』(同性複婚)」や「『異性の三人以上の組み合わせ』による『婚姻』(異性複婚)」を許容しなければならなくなることなどが考えられる。
そのため、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」に「否定的な意見や価値観」が存在する理由は、必ずしも「同性愛は精神疾患でありこれを治療又は禁止すべきものとの知見が通用して」いたことよるものとは限らないことを押さえる必要がある。
「同性愛を精神疾患とする知見は,現在は,科学的・医学的には否定されているものであるが,上記のような経緯もあって,同性婚に対する否定的な意見や価値観が形成され続けてきたことに照らせば,そのような意見や価値観を持つ国民が少なからずいることもまた考慮されなければならない。」との記載がある。
先ほども述べたとおり、「同性愛」と「同性婚」には直接的な関係性はない。そのため、「同性愛」に対する「否定的な意見や価値観」があることと、「同性婚に対する否定的な意見や価値観」との間に直接的な関係性はない。「同性愛」に肯定的な意見や価値観を持ち、「同性婚に対する否定的な意見や価値観」を持つ者もいるはずだからである。
【参考】「ゲイだけど同性婚の必要性が全くわからない。」 Twitter
【参考】「私も同性愛者ですが同性婚に反対です。私も同性愛者差別者になるんでしょうかね(笑)おかしな話ですよね。」 Twitter
また、この判決の立場からは「『同性同士の組み合わせ』による『婚姻』(いわゆる同性婚)」を行う者は、必ず「同性愛」という思想や感情であることを前提とした認識を持っているようであるが、そもそも法律は「異性愛」や「同性愛」やその他の「性愛」を有する者など、一切関知していないのであるから、そうなるとは限らない。ここでも、「異性愛」や「同性愛」などの個々人の「内心の自由」に関する事柄を、法律上の婚姻制度と結び付けて考えてしまう誤りがあるのである。
「特に,婚姻とは,明治民法以来,社会の風俗や社会通念によって定義されるものと解されていたのであるから(認定事実(3)イ,(5)イ),立法府は,異性婚と同様の同性婚を認めるかについてその裁量権を行使するに当たり,上記のような否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずいることを斟酌することができるものといえる。」との記載がある。
「婚姻とは,明治民法以来,社会の風俗や社会通念によって定義されるものと解されていた」の部分であるが、これは民法が存在することを前提として、その民法で定められた「婚姻」に該当するか否かを「社会通念」によって判断していたものである。そのため、民法上の規定を離れて「社会通念」が「婚姻」の具体的な内容を定めているわけではない。
「立法府は,異性婚と同様の同性婚を認めるかについてその裁量権を行使するに当たり,上記のような否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずいることを斟酌することができるものといえる。」との部分について、検討する。
日本国憲法24条1項には「両性」「夫婦」「相互」の文言があり、これが「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる異性婚)」を認めない旨である場合には、「立法府」は「同性婚を認めるかについて」の「裁量権」を有していないことになる。また、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」の文言があり、これを「婚姻」の成立条件と解する場合には、「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として成立しないことになるため、「立法府」は「同性婚を認めるかについて」の「裁量権」を有していないことになる。そのため、この論点を明らかにしないままに、「立法府」が「同性婚を認めるかについて」の「裁量権」を有していることを前提として論じていることは妥当でない。
また、この判決文の「2(3)」では、24条について「同条1項はその裁量権の限界を画したものと解される」と述べていることも押さえる必要がある。この前提に立てば、「同性同士の組み合わせ」については、24条1項の「両性」「夫婦」「相互」の文言を満たさないため「婚姻」とすることはできず、「立法府」は「同性婚を認めるかについて」の「裁量権」を有していないことになるのである。
(イ)しかしながら,繰り返し説示してきたとおり,同性愛はいかなる意味でも精神疾患ではなく,自らの意思に基づいて選択・変更できるものでもないことは,現在においては確立した知見になっている。同性愛者は,我が国においてはごく少数であり,異性愛者が人口の9割以上を占めると推察されること(認定事実(1)イ)も考慮すると,圧倒的多数派である異性愛者の理解又は許容がなければ,同性愛者のカップルは,重要な法的利益である婚姻によって生じる法的効果を享受する利益の一部であってもこれを受け得ないとするのは,同性愛者のカップルを保護することによって我が国の伝統的な家族観に多少なりとも変容をもたらすであろうことを考慮しても,異性愛者と比して,自らの意思で同性愛を選択したのではない同性愛者の保護にあまりにも欠けるといわざるを得ない。
【筆者】
「しかしながら,繰り返し説示してきたとおり,同性愛はいかなる意味でも精神疾患ではなく,自らの意思に基づいて選択・変更できるものでもないことは,現在においては確立した知見になっている。」との記載がある。
しかしながら、繰り返し述べている通り、法律上は「同性愛」や「異性愛」やその他の「性愛」を持つ者や、どのような思想を有する者でも、どのような宗教を信じる者であるとしても、異なる取り扱いをしている事実はない。そのため、「同性愛」が「精神疾患」であろうとも、なかろうとも、「自らの意思に基づいて選択・変更できるもの」であろうとも、なかろうとも、婚姻制度を利用できるか否かの結論は変わらない。
「圧倒的多数派である異性愛者の理解又は許容がなければ,同性愛者のカップルは,重要な法的利益である婚姻によって生じる法的効果を享受する利益の一部であってもこれを受け得ないとするのは,」との記載がある。
しかし、法律上は「異性愛者」であるか「同性愛者」であるのかを審査してないことから、「異性愛者」であっても「同性愛者」であっても、その他の「性愛」を有する者でも、有しない者でも、どのような思想や感情を有する者であっても、どのような宗教を信じる者であっても、婚姻制度を利用することができる。
そのため、ここでいう「同性愛者」であるとしても、「重要な法的利益である婚姻によって生じる法的効果を享受する利益」のすべてを有しているのであり、「これを受け得ないとするのは,」などと、受けることができないかのような前提で論じている部分が誤りである。
もしこの判決文がいうような形で、法律が個々人を「異性愛」を有する者であるか「同性愛」を有する者であるのかを審査し、その者たちを「異性愛者」と「同性愛者」に二分し、その「同性愛者」と区分けしたものに対して「婚姻によって生じる法的効果を享受する利益」を与えていないとの事実が認められたならば、「平等権(14条)」に抵触する事案であるかを検討する必要があると考えられる。
しかし、今回の事例では法律は個々人が「異性愛」を有するのか「同性愛」を有するのかを審査していないのであるから、個々人を「異性愛者」と「同性愛者」に二分している事実はない。むしろ、この判決の内容自体が当事者をどのような思想・信条を有するかによって「異性愛者」と「同性愛者」に二分しようとしていることそのものが、基底的に個々人を思想・信条によって差別する意識を前提として論じるものとなっており、「平等権(14条)」に違反する可能性がある。
さらに、婚姻制度を構築している立法目的は「性愛(性的指向)」を満たすためであるとは特定されていないし、そのような特定の価値観を保護するために法律を立法することは「政教分離(20条1項後段・3項、89条)」に反して違憲となると考えられる。
そのため、この判決文が婚姻制度の立法目的を「性愛(性的指向)」を満たすためであるとの前提を置いて論じようとしていること自体が、「政教分離(20条1項後段・3項、89条)」に反して違憲となる。
この判決文は、民法や戸籍法の婚姻制度が「平等権(14条)」に反して違憲であると主張している。
しかし、実際には、この判決文が個々人を「異性愛者」と「同性愛者」に二分して婚姻制度を「異性愛者」と「同性愛者」との間で異なる取扱いをするものと扱おうとしていること自体が「平等権(14条)」に違反しているし、この判決文が民法や戸籍法に定められた婚姻制度を「性愛(性的指向)」を満たすという特定の価値観を保護するための制度であるという前提によって論じようとしていること自体が、「政教分離(20条1項後段・3項、89条)」に反して違憲となっているということである。
「圧倒的多数派である異性愛者」との記載があるが、「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのかは、法律上審査されていないし、国が全国民を対象としてそのどちらの分類に該当するかなど調査している事例はない。そのため、法律論上で「異性愛者」が「圧倒的多数派」であるか否かなどを論じることはできないと考える。
「異性愛者と比して,自らの意思で同性愛を選択したのではない同性愛者の保護にあまりにも欠けるといわざるを得ない。」との記載がある。
まず、「自らの意思で同性愛を選択したのではない」との部分は、強調表現であり、この文の比較対象は「異性愛者」と「同性愛者」であることを押さえる必要がある。
「自らの意思で同性愛を選択したのではない」との部分は、これまでに、下記のように繰り返し述べられてきている。
◇ 「1(1)ア」で、「性的指向は意思で選ぶものでも,意思により変えられるものでもない」
◇ 「3(3)ア」で、「性的指向は,自らの意思に関わらず決定される個人の性質であるといえ,」
◇ 「3(3)イ」で、「性的指向は人の意思によって選択・変更できるものではないことに照らせば,」
◇ 「3(3)ウ」で、「性的指向は,人の意思によって選択・変更できるものではなく,また後天的に変更可能なものでもないことが明らかになったこと」
◇ 「3(3)キ(イ)」の第一文で、「同性愛はいかなる意味でも精神疾患ではなく,自らの意思に基づいて選択・変更できるものでもないことは,」
そのため、この部分で「同性愛者」の説明をする際に、「自らの意思で同性愛を選択したのではない」と、さらに繰り返すことは不要である。
この判決文の文章は、このような強調表現を用いることに大きく振れており、法内容の論理が非常に掴みづらいものとなっている。 法内容を説明し、論理的な過程を明らかにする上では、これほどの強調表現は不要である。むしろ、論理的な説明ができないことから、このような強調表現を用いることで、何とか正当化できることを装っているのではないかとさえ感じられるほどに余計である。
このことから、「自らの意思で同性愛を選択したのではない」を取り除くと、単に「異性愛者と比して,……同性愛者の保護にあまりにも欠けるといわざるを得ない。」と言っているだけである。
次に、その「異性愛者と比して,……同性愛者の保護にあまりにも欠けるといわざるを得ない。」との意味を検討する。
法律は「異性愛者」と「同性愛者」を審査しておらず、異なる取り扱いをしている事実はないことから、ここでいう「異性愛者」も「同性愛者」も同様に婚姻制度を利用することができる。そのため、「異性愛者」と「同性愛者」の婚姻制度における「保護」はまったく同様であり、「保護にあまりにも欠けるといわざるを得ない。」との認識は誤りである。
この段落には、二か所「同性愛者のカップル」と記載されている。
しかし、法律上「カップル」という単位はない。法律上は「権利能力」を有する法主体である「自然人」あるいは「法人」の間をどのような法律関係で結び付けるかという視点から論じる必要がある。
また、「カップル」という言葉は「二人一組」を意味しているが、「自然人」を法律関係で結び付ける際には「三人以上の組み合わせ」もあり得るのであり、現在の婚姻制度の下で認められていない当事者間の「二人一組」を論じるのであれば、それに限られず、現在の婚姻制度の下で同様に認められていない「三人以上の組み合わせ」についても論じる必要がある。「カップル」というように「二人一組」の形に限定する形で、比較対象として取り上げていることそのものが妥当でない。
上記オで説示したとおり,性的指向による区別取扱いを解消することを要請する国民意識が高まっていること,今後もそのような国民意識は高まり続けるであろうこと,外国において同様の状況にあることも考慮すれば,上記(ア)で述べた事情は,立法府がその裁量権を行使するに当たって斟酌することができる一事情ではあるといえるものの,同性愛者に対して,婚姻によって生じる法的効果の一部であってもこれを享受する法的手段を提供しないことを合理的とみるか否かの検討の場面においては,限定的に斟酌されるべきものといわざるを得ない。
【筆者】
「上記(ア)で述べた事情は,」とは、「上記(ア)」の「否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずいること」を指していると思われる。
この「否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずいること」を「立法府がその裁量権を行使するに当たって斟酌することができる一事情」であるとしているということは、この事例については、この判決の内容は立法府の「立法裁量」に属する問題であると認定していることになるように思われる。
すると、この「立法裁量」に属する問題に対して、この判決は司法府の司法権を行使して「合理的とみるか否か」、つまり、政策論上の当否を判断しようとしていることになるから、「司法権の限界」を超える越権行為となる可能性がある。
司法権は、法規範に抵触するか否かに関する合法・違法の問題のみを取り扱うことができ、「立法裁量」や「行政裁量」に属する問題は「司法権の限界」を超えるため、法的判断を行うことができないのである。
「同性愛者に対して,婚姻によって生じる法的効果の一部であってもこれを享受する法的手段を提供しないこと」との記載がある。
しかし、法律上は「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのか、それ以外の者であるかによって婚姻制度の利用の可否を区別していないことから、「同性愛者」も「婚姻によって生じる法的効果」の全部を得ることができる。そのため、「同性愛者に対して,婚姻によって生じる法的効果の一部であってもこれを享受する法的手段を提供しないこと」のように、「同性愛者」に対して「婚姻によって生じる法的効果」が全く与えられていないことを前提として論じている点で誤りである。
これとは別に、「同性同士の組み合わせ」については、婚姻制度の対象外であることから、「婚姻によって生じる法的効果」はすべて得ることはできない。
「婚姻によって生じる法的効果の一部であってもこれを享受する法的手段を提供しないことを合理的とみるか否かの検討の場面においては,限定的に斟酌されるべきものといわざるを得ない。」との記載がある。
ここで、「限定的に斟酌されるべきもの」としているのは、「否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずいること」と考えられる。
しかし、この判決は区別できていないが、「同性愛」と「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」との間には直接的な関係はないのであり、「同性愛」に肯定的な意見や価値観を有する国民が、同時に「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」に対して否定的な意見や価値観を有していることもあり得る。
また、その「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」に対して否定的な意見や価値観を有している理由としては、下記の理由が考えられる。
◇ 「女性同性婚」が可能となった場合、婚姻制度を「男女二人一組」に限定することによって、子供の父親を極力特定しようとする意図が損なわれる。これにより、父親が不明の子供が増えたり、知らず知らずのうちに「近親交配」が行われたりするリスクが上がり、遺伝的な劣勢を有する個体が高い確率で発現する恐れがある。
◇ 「女性同性婚」が可能となった場合、事実上の複婚関係が形成されやすくなると考えられる。これは、未婚の男女の不均衡が発生し、「子を持ちたくても持てない者」を減らそうとする趣旨が損なわれると考えらる。
◇ 「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」とすることが認められた場合には、婚姻制度を構築する趣旨から「生殖と子の福祉」が無くなることから、「近親婚」や「複婚」を禁じる理由がなくなり、それを許容しなければならなくなる。
それにもかかわらず、「上記(ア)」の「同性愛は精神疾患でありこれを治療又は禁止すべきものとの知見が通用」していたとの理由のみによって、「同性愛」と直接的には関係しない「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」に「否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずいること」を、勝手に「限定的に斟酌されるべきものといわざるを得ない。」と軽視することは、著しく妥当性が不足している。
ただ、そもそも法律上はここでいう「異性愛者」や「同性愛者」を区別しておらず、異なる取り扱いをしている事実はないことから、「平等権(14条)」に抵触するか否かを判断することはできないし、判断しようとしてもならない事例であることから、「合理的とみるか否かの検討」を行うことはできないし、行ってもならない。
「上記(ア)で述べた事情」である「否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずいること」について「限定的に斟酌されるべきものといわざるを得ない。」としている。
しかし、先ほども述べたように、「同性愛」と「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」との間には直接的な因果関係はないし、同性婚に「否定的な意見や価値観を有する国民」は必ずしも「同性愛」に対して「否定的な意見や価値観」を有しているわけではない。また、同性婚に「否定的な意見や価値観を有する国民」の中には、「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」を許容した場合には、婚姻制度を「男女二人一組」の形に限定することによって極力「近親交配」に至ることを抑制しようとする意図が損なわれることや、婚姻制度を構築する趣旨から「生殖と子の福祉」が失われることによって、「近親者間の婚姻」を否定することができなくなったり、「『同性同士の三人以上の組み合わせ』による『婚姻』(同性複婚)」や「『異性の三人以上の組み合わせ』による『婚姻』(異性複婚)」を許容しなければならなくなることなどを理由としていることも考えられる。
そのため、このような意図に基づく立法府(国会)の合理的な裁量権に託される事柄に対して、「同性愛」が「精神疾患」であるか否かという「『同性同士の組み合わせ』を『婚姻』とすること(いわゆる同性婚)」とは直接的な因果関係のない話を持ち出して、同性婚に「否定的な意見や価値観を有する国民」の無理解であるかのように断定し、それらの意見や価値観を「限定的に斟酌されるべきもの」と取り扱うことは、司法府(裁判所)の役割を超える越権行為であると考えられる。
ク 被告は,同性愛者のカップルであっても,契約や遺言により婚姻と同様の法的効果を享受することができるから,不利益はない旨主張する。
【筆者】
「同性愛者のカップルであっても,契約や遺言により婚姻と同様の法的効果を享受することができるから,」との部分であるが、そもそも婚姻制度は「同性愛者」も利用することができるのであり、「婚姻」の「法的効果」そのものを享受することができる。
また、そもそも「性愛(性的指向)」は法律上の区分ではないし、法律は「性愛(性的指向)」を審査していないことが前提ではあるが、ここでいう「同性愛者のカップル」という視点から見ても、「男性(同性愛者=ゲイ)」と「女性(同性愛者=レズビアン)」の「二人一組」は、婚姻制度を利用することができる。そのことから、その「同性愛者のカップル」は「婚姻」の「法的効果」を享受することができる。
そのため、「同性愛者」や「同性愛者のカップル」が婚姻制度を利用することができないかのような前提で論じようとしている部分が妥当でない。
これとは別に、「同性同士の組み合わせ」については婚姻制度の対象外となっていることから、婚姻制度を利用した形で法律関係を構成することはできないことは確かである。この「同性同士の組み合わせ」について、「契約や遺言により婚姻と同様の法的効果を享受することができる」という場合は確かにある。
「不利益はない旨主張する。」との部分であるが、それは婚姻制度の対象外なっていることによる「不利益」の有無の論点であるから、憲法24条の「両性」「夫婦」「相互」の文言による制約の論点や、婚姻制度を立法する趣旨・目的との整合性を検討することによって「不利益」が許容できる範囲であるか否かの論点を検討する必要があると考えられる。
「被告は,……不利益はない旨主張する。」との部分であるが、被告の主張は下記の通りである。
【動画】同性婚法制化求める 否認は違憲 2021.3.22
この判決は、被告(国)の主張を十分に理解できていない。
しかしながら,婚姻とは,婚姻当事者及びその家族の身分関係を形成し,戸籍によってその身分関係が公証され,その身分に応じた種々の権利義務を伴う法的地位が付与されるという,身分関係と結び付いた複合的な法的効果を同時又は異時に生じさせる法律行為であることは,上記(2)アで説示したとおりであり,婚姻によって生じる法的効果の本質は,身分関係の創設・公証と,その身分関係に応じた法的地位を付与する点にあるといえる。そうすると,婚姻は,契約や遺言など身分関係と関連しない個別の債権債務関係を発生させる法律行為によって代替できるものとはいえない。そもそも,民法は,契約や遺言を婚姻の代替手段として規定しているものではなく,異性愛者であれば,婚姻のほか,契約や遺言等によって更に当事者間の権利義務関係を形成することができるが,同性愛者にはそもそも婚姻という手段がないのであって,同じ法的手段が提供されているとはいえないことは明らかである。加えて,婚姻によって生じる法的効果の1つである配偶者の相続権(民法890条)についていえば,同性愛者のカップルであっても,遺贈又は死因贈与によって財産を移転させることはできるものの,相続の場合と異なり,遺留分減殺請求(同法1046条)を受ける可能性があるし,配偶者短期居住権(同法1037条)についていえば,当事者間の契約のみでは第三者に対抗することができず,契約や遺言によって一定程度代替できる法的効果も婚姻によって生じる法的効果に及ぶものとはいえない。
【筆者】
「そうすると,婚姻は,契約や遺言など身分関係と関連しない個別の債権債務関係を発生させる法律行為によって代替できるものとはいえない。」との記載がある。
確かに「契約や遺言など」の「個別の債権債務関係」と、「婚姻」とは異なる「法律行為」ではある。
しかし、法律上で婚姻制度が設けられているということは、婚姻制度を構築する趣旨・目的が存在しており、その趣旨・目的を達成するための手段として具体的な制度が構築されているものである。
そのため、婚姻制度を構築する趣旨・目的に照らして対象外となっている者が、婚姻制度を利用することができないしとても、もともと何らの不平等も存在していない。
たとえば、「婚姻適齢に満たない者」や「近親者」、「三人以上の組み合わせで婚姻しようとする者」についても、婚姻制度を構築する趣旨・目的に照らして対象外となっている者であり、この者たちが婚姻制度を利用することができないとしても、何らの不平等も存在しないということである。この者たちが「婚姻」に類似した何らかの法的効果を求める場合には、「契約や遺言など」の「個別の債権債務関係」を構築することができるが、婚姻制度を利用することについては、国が法律上の婚姻制度を構築する趣旨・目的に照らして制約されているということである。
同様に、「同性同士の組み合わせ」が婚姻制度を利用することができないとしても、婚姻制度を構築する趣旨・目的に照らして対象外となっているということである。この者たちが「婚姻」に類似した何らかの法的効果を求める場合には、「契約や遺言など」の「個別の債権債務関係」を構築することができるが、婚姻制度を利用することについては、国が法律上の婚姻制度を構築する趣旨・目的に照らして制約されているということである。
ここでは「代替できるものとはいえない。」と表現し、「同性同士の組み合わせ」が何らかの法的効果を求める際に、「代替」できるものか、「代替」する必要がない形で婚姻制度の中に含めるように論じようとしているが、そもそも婚姻制度を構築する趣旨・目的の対象外となっている者に対して、「代替」できる法的効果を与えなければならないわけではないし、「代替」する必要がない形で婚姻制度の中に含めなければならないわけでもない。むしろ「代替」できるような手段を与えることや、「代替」する必要がない形で婚姻制度の中に含めた場合には、婚姻制度を構築する趣旨・目的を達成することができなくなることに繋がると考えられる。
婚姻制度を構築する趣旨・目的とは、「子の福祉が実現される社会基盤を構築すること(嫡出子として生まれることの重視)」や「近親交配」を抑制すること、「未婚の男女の数の不均衡によって子を持つ機会に恵まれない者」を減らすことなどが欠くことのできない重要な要素となっていると考えられる。これらの婚姻制度を構築する趣旨・目的の根幹部分との整合性の観点から対象外となっている者や、対象外となっている人的関係に対しては、何らかの法的効果を意図して与えないことによって、社会全体として抑制的に作用させ、「子の福祉」が損なわれることや、「近親交配」による遺伝的な劣勢を有する個体が高い確率で発現すること、「子を持つ機会に恵まれない者」の発生を防ごうとしていると考えられる。
そのため、この観点から、婚姻制度の対象外となっている者に対して「代替」できる手段を与えることは「公共の福祉(憲法12条、13条、民法1条1項)」に反したり、「公序良俗(民法90条)」に反して違法となると考えられる。また、「代替」する必要がない形で婚姻制度の中に含めることも、憲法24条の「両性」「夫婦」「相互」の文言や憲法12条、13条の「公共の福祉」に抵触して違憲となると考えられる。
「そもそも,民法は,契約や遺言を婚姻の代替手段として規定しているものではなく,」との記載がある。
しかし、「婚姻」はどのような社会を形成するかを勘案した上で、「子の福祉が実現される社会基盤を構築すること(嫡出子として生まれることの重視)」や「近親交配」を抑制すること、「未婚の男女の数の不均衡によって子を持つ機会に恵まれない者」を減らすことなどの婚姻制度を構築する趣旨・目的に従った形で構築されているのであり、この制度の対象外となっている者は、そもそも「婚姻」によって得られる法的効果を意図的に与えられていないと考えられる。
そのため、婚姻制度の対象外となっている者については、もともと「代替手段」を与える必要がないのであり、「契約や遺言」を代替手段として与えなければならないこともない。
むしろ、「契約や遺言」によって婚姻類似の関係を形成しようとすることを許容することは、婚姻制度を構築した立法目的を達成することを阻害する恐れがあり、「公序良俗(民法90条)」や「公共の福祉(民法1条1項)」、「権利の乱用(民法1条3項)」に反して違法となる可能性がある。また、憲法12条後段の「自由及び権利」について述べた「又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」の「濫用」と「公共の福祉」に抵触する恐れがある。
「異性愛者であれば,婚姻のほか,契約や遺言等によって更に当事者間の権利義務関係を形成することができるが,同性愛者にはそもそも婚姻という手段がないのであって,同じ法的手段が提供されているとはいえないことは明らかである。」との記載がある。
まず、「異性愛」や「同性愛」は法律用語ではない。これらは「内心の自由」に属する問題であり、法律上は一切関知していない。そのため、法律上は「異性愛者」や「同性愛者」などと二分論によって区別している事実はない。法律上は、単に個々人の生物学的な性別に基づいて「男性」あるいは「女性」と区別されているだけである。
そのことから、「異性愛者」であろうとも、「同性愛者」であろうとも、それ以外の者であろうとも、生物学的な性別を有している自然人であれば誰でも婚姻制度を利用することができるのであり、「異性愛者であれば,婚姻のほか,契約や遺言等によって更に当事者間の権利義務関係を形成することができるが,同性愛者にはそもそも婚姻という手段がない」などと、法律上で「異性愛者」と「同性愛者」を審査し、それらを区別しているかのような認識は明確に誤りである。
そのため、たとえ「異性愛者」であろうとも、「同性愛者」であろうとも、「婚姻のほか,契約や遺言等によって更に当事者間の権利義務関係を形成すること」は可能である。
また、「同性愛者にはそもそも婚姻という手段がない」との部分であるが、法律上は「同性愛者」と称する者であっても、婚姻制度を利用することが可能である。そのため、「婚姻という手段がない」との部分は事実誤認である。
「同じ法的手段が提供されているとはいえないことは明らかである。」との部分であるが、法律上は「異性愛」の感情を抱く者を「異性愛者」としたり、「同性愛」の感情を抱く者を「同性愛者」としたりして区別している事実はないのであるから、個々人に対して「同じ法的手段が提供されている」ことは明らかであり、「異性愛者」と称する者や「同性愛者」と称する者に対して、異なる取り扱いをしている事実はない。
そのため、「同じ法的手段が提供されているとはいえないことは明らかである。」との認識は明らかに誤りである。
この判決は、婚姻制度が「異性愛者」や「同性愛者」という区分に基づいて構築されているわけではないことを十分に理解できていない。
これとは別に、婚姻制度は「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として認めていないことは事実である。注意したいのは、婚姻制度を構築した立法目的は「性愛(性的指向)」を満たすためにあるとは特定されていないことである。また、もし「性愛(性的指向)」を満たすというような特定の価値観を保護するために法律を整備しようとすることは、「政教分離(20条1項後段・3項、89条)」に反して違憲となると考えられる。
「婚姻によって生じる法的効果の1つである配偶者の相続権(民法890条)についていえば,同性愛者のカップルであっても,遺贈又は死因贈与によって財産を移転させることはできるものの,相続の場合と異なり,遺留分減殺請求(同法1046条)を受ける可能性があるし,配偶者短期居住権(同法1037条)についていえば,当事者間の契約のみでは第三者に対抗することができず,契約や遺言によって一定程度代替できる法的効果も婚姻によって生じる法的効果に及ぶものとはいえない。」との記載がある。
「同性愛者のカップル」との部分であるが、法律上は「異性愛者」であるのか、「同性愛者」であるのか、「両性愛者」であるのか、「多性愛者」であるのか、「全性愛者」であるのか、それ以外の者であるのかなど、まったく感知していないにもかかわらず、特定の個人を「同性愛者」という形で分類して判断しようとしている点で妥当でない。
「カップル」という言葉であるが、法律用語ではない。法律上は「権利能力」を有する自然人(あるいは法人)をどのような法律関係で結び付けるかという視点から捉える必要があり、「カップル」というような「二人一組」を前提とする論じ方を用いることは妥当でない。個々人が法律関係を形成する形は、「売買契約」における多数当事者間の債権債務関係や、「組合」など、三人以上の法律行為も存在するのである。「カップル」というような取り上げ方が許されるのであれば、当然に「トリオ」である「三人一組」や、「四人一組」など、様々な形を想定して論じるべきなのであり、「カップル」というような形で「二人一組」に限定した形で取り上げることは妥当でない。
また、法律上は「同性愛者」であるか否かを審査していないのであるから、「同性愛者」であるとしても、婚姻制度を利用することができる。
ここでいう「同性愛者のカップル」についても、「同性愛者」という分類そのものが法律上の区分ではないことが前提であるが、「男性(同性愛者=ゲイ)」と「女性(同性愛者=レズビアン)」については、「二人一組」で婚姻制度を利用することができる。
そのため、あたかも「同性愛者」や「同性愛者のカップル」が婚姻制度を利用できないかのような前提に基づいて、「遺贈又は死因贈与によって財産を移転させることはできるものの,」などと論じようとしている部分が誤りである。
「契約や遺言によって一定程度代替できる法的効果も婚姻によって生じる法的効果に及ぶものとはいえない。」との部分であるが、それは婚姻制度を構築した立法目的に照らして法的効果の在り方が制度設計されていることによる違いである。
そのため、その婚姻制度の対象外となっている者については、もともと「婚姻」と同様の「法的効果」を意図して与えられていないのであり、婚姻制度を構築した立法目的との整合性を検討しないままに、婚姻制度の対象外なっている者に対して「婚姻」と同様の「法的効果」を与えなければならないわけではない。
このことから、「及ぶものとはいえない。」というような違いがあるとしても、その差異が不当であるかは婚姻制度を構築した立法目的との整合性を検討する必要がある。(これとは別に、憲法24条の『両性』『夫婦』『相互』の文言による制約も考えられる。)
この文章全体であるが、非常に意味を掴みづらく、悪文である。
文頭と文尾を繋げると、「婚姻によって生じる法的効果の1つである配偶者の相続権(民法890条)についていえば,……契約や遺言によって一定程度代替できる法的効果も婚姻によって生じる法的効果に及ぶものとはいえない。」となる。しかし、意味が十分に繋がっていない。
他の読み方として、「婚姻によって生じる法的効果の1つである配偶者の相続権(民法890条)についていえば,」の部分を無視して考えるとしても、主な文と文尾の関係は「同性愛者のカップルであっても,……契約や遺言によって一定程度代替できる法的効果も婚姻によって生じる法的効果に及ぶものとはいえない。」となる。これも、意味が十分に繋がっていない。
どのような読み方が正しいのかを検討すると、この文章は下記の「灰色」や「太字」、「下線」の部分をポイントに、大きく3つの読み方を想定することができる。
「婚姻によって生じる法的効果の1つである配偶者の相続権(民法890条)についていえば,同性愛者のカップルであっても,遺贈又は死因贈与によって財産を移転させることはできるものの,相続の場合と異なり,遺留分減殺請求(同法1046条)を受ける可能性があるし,配偶者短期居住権(同法1037条)についていえば,当事者間の契約のみでは第三者に対抗することができず,契約や遺言によって一定程度代替できる法的効果も婚姻によって生じる法的効果に及ぶものとはいえない。」
① 「婚姻によって生じる法的効果の1つである」を中心として文章全体を三段階で読む
② 「……はできるものの,……がある」と「することができず,……とはいえない。」で読む
③ 「についていえば,」を基準として二つの事例が含まれた文章と読む
読者がこの文の意味を理解しづらいのは、どの読み方をすることが正解であるのか迷うことが原因である。以下で、この①②③を具体的に確認する。
① 「婚姻によって生じる法的効果の1つである」を中心として三段階で読む
◇ 「婚姻によって生じる法的効果の1つである配偶者の相続権(民法890条)についていえば,」
◇ 「同性愛者のカップルであっても,遺贈又は死因贈与によって財産を移転させることはできるものの,相続の場合と異なり,遺留分減殺請求(同法1046条)を受ける可能性があるし,配偶者短期居住権(同法1037条)についていえば,当事者間の契約のみでは第三者に対抗することができず,」
◇ 「契約や遺言によって一定程度代替できる法的効果も婚姻によって生じる法的効果に及ぶものとはいえない。」
② 「……はできるものの,……がある」と「することができず,……とはいえない。」で読む
◇ 「婚姻によって生じる法的効果の1つである配偶者の相続権(民法890条)についていえば,」
◇ 「同性愛者のカップルであっても,遺贈又は死因贈与によって財産を移転させることはできるものの,相続の場合と異なり,遺留分減殺請求(同法1046条)を受ける可能性があるし,」
◇ 「配偶者短期居住権(同法1037条)についていえば,当事者間の契約のみでは第三者に対抗することができず,契約や遺言によって一定程度代替できる法的効果も婚姻によって生じる法的効果に及ぶものとはいえない。」
③ 「についていえば,」を基準として二つの事例が含まれた文章と読む
◇ 「婚姻によって生じる法的効果の1つである配偶者の相続権(民法890条)についていえば,同性愛者のカップルであっても,遺贈又は死因贈与によって財産を移転させることはできるものの,相続の場合と異なり,遺留分減殺請求(同法1046条)を受ける可能性があるし,」
◇ 「配偶者短期居住権(同法1037条)についていえば,当事者間の契約のみでは第三者に対抗することができず,」
◇ 「契約や遺言によって一定程度代替できる法的効果も婚姻によって生じる法的効果に及ぶものとはいえない。」
この場合、「婚姻によって生じる法的効果の1つである」の部分が「配偶者の相続権(民法890条)」だけに掛かっており、「配偶者短期居住権(同法1037条)」については対象としていないことはやや疑問である。文脈が分かりづらくなるため、カットしたほうが良いのではないかと思われる。「同性愛者のカップルであっても,」の部分についても、「配偶者短期居住権(同法1037条)」の部分に掛かっているのか分かりづらい。
この判決文は、余分な言葉が多すぎて、論理展開が明瞭でない。裁判官本人もよく分かっていないのだろう。
このような悪文となることを防ぐためには、文を区切って再構成することが望ましい。
国家権力を行使する立場にある者が、このような生煮えの文章のままに判決を下してしまったことは、非難されるべきものである。
以上のことからすれば,婚姻と契約や遺言は,その目的や法的効果が異なるものといえるから契約や遺言によって個別の債権債務関係を発生させられることは,婚姻によって生じる法的効果の代替となり得るものとはいえず,被告の上記主張は,採用することができない。
【筆者】
「婚姻と契約や遺言は,その目的や法的効果が異なるものといえるから」との記載がある。
ここで、「婚姻」の「目的」を検討する。
「婚姻」の「目的」を考える際、「国が婚姻制度を構築することによって達成しようとした立法目的」と、「個々人が婚姻制度を利用する際の利用目的」の二つの側面がある。
「個々人が婚姻制度を利用する際の利用目的」については、具体的な制度に適合するのであれば、個々人の自由である。そこには、「性愛(性的指向)」は問われておらず、この判決文が主張しているような「性的指向」の「合致」は求められていない。
「国が婚姻制度を構築することによって達成しようとした立法目的」とは、下記の点が欠くことのできない重要な要素となっている。
〇 子の福祉が実現される社会基盤を構築すること(嫡出子として生まれることの重視)
〇 近親交配によって遺伝的な劣勢を有する個体が高い確率で発現することを抑制すること
〇 未婚の男女の数の不均衡を防止することで子を持つ機会に恵まれない者を減らすこと
〇 母体を保護すること
婚姻制度の具体的な形は、これらの「国の立法目的」を達成するために構築されており、本来的に婚姻制度を利用することができる者は一定の要件を満たす者に限定され、上記の事柄を達成できない事態を間接的に防ごうとするとしているものと考えられる。
次に、「婚姻」の「法的効果」を検討する。
これは法律でどのような形式の「婚姻」を制度設計するかの問題であり、婚姻制度を構築する「国の立法目的」を達成するためにどのような「法的効果」を設定することが妥当であるかという観点から生み出されたものである。
そのため、これらの「婚姻」の「目的や法的効果」と、「契約や遺言」の「目的や法的効果」が異なっていることは当然である。
「婚姻と契約や遺言は,その目的や法的効果が異なるものといえるから契約や遺言によって個別の債権債務関係を発生させられることは,婚姻によって生じる法的効果の代替となり得るものとはいえず,被告の上記主張は,採用することができない。」との記載がある。
しかし、婚姻制度の対象外となっている者は、もともと婚姻制度を構築する「国の立法目的」を達成するために意図して婚姻制度を利用できないこととなっているのであり、その婚姻制度の対象外となっている者に対して「婚姻によって生じる法的効果の代替となり得るもの」を与えなければならないわけではない。
むしろ、婚姻制度の対象外となっている者に対して「婚姻によって生じる法的効果の代替となり得るもの」を与えることは、「国の立法目的」を達成することを困難とすることに繋がると考えられるから、それを与えてはならないのであり、そのような債権債務関係を形成することは民法1条1項の「公共の福祉」や、民法90条の「公序良俗」に反して違法となると考えられる。
(民法の強行規定について)
【動画】司法試験入門講座 プレ講義 「体系マスター」民法2 「民法の役割、考え方」 2020/03/16
この判決文は婚姻制度の対象外となっている当事者の組み合わせに対して、「婚姻によって生じる法的効果の代替となり得るもの」を与えなければならないとする前提に立って、「契約や遺言によって個別の債権債務関係を発生させられること」が「代替となり得るものとはいえず,」として「被告の上記主張は,採用することができない。」としている。
しかし、婚姻制度の対象外となっている当事者の組み合わせに対して、そのように「婚姻によって生じる法的効果の代替となり得るもの」を与えなければならないとする前提そのものが誤っている。
「婚姻によって生じる法的効果」の一部を「契約や遺言」などの「個別の債権債務関係」によって形成できるとしても、それ以上の「法的効果」については婚姻制度を構築した「国の立法目的」を達成するためにもともと与えてはならないということである。
「被告の上記主張は,採用することができない。」であるが、被告の主張は下記の通りである。
【動画】同性婚法制化求める 否認は違憲 2021.3.22
そのため、この判決文は、被告(国)の主張を十分に理解することができていない。
(4)上記(3)で掲げた諸事情を総合して,本件区別取扱いの合理的根拠の有無について検討する。
【筆者】
「上記(3)で掲げた諸事情を総合して,」との部分であるが、上記で解説した通り「上記(3)」の内容は相当に誤っていることから、それらの「諸事情」を「総合」したところで、法律論上の正しい結論を導き出せるわけではない。まずは、「上記(3)」の誤りを一つ一つ正していく必要がある。
「本件区別取扱いの合理的根拠の有無」の部分であるが、法律上は個々人を「異性愛者」であるのか、「同性愛者」であるのか、その他の者であるのかを審査して分類している事実がないのであり、「異性愛者」と名乗る者も「同性愛者」と名乗る者も「その他の者」を名乗る者も、同様に婚姻制度を利用することが可能であるため、「区別取扱い」そのものが存在しない。
そのため、「区別取扱い」が存在することを前提として「平等権(14条)」に抵触するか否かを論じることは誤っており、「区別取扱い」を正当化できるか否かを検討するための「合理的根拠の有無」を検討することはできないし、検討しようとすることもしてはならない。
そのため、「本件区別取扱いの合理的根拠の有無」などと、「区別取扱い」があることを前提として、その「合理的根拠の有無」を論じようとしていることそのものが誤っている。
上記(3)アで説示したとおり,本件区別取扱いは,人の意思によって選択・変更できない事柄である性的指向に基づく区別取扱いであるから,これが合理的根拠を有するといえるかについては,慎重な検討を要するところ,同イで説示したとおり,婚姻によって生じる法的効果を享受することは法的利益であって,同性愛者であっても異性愛者であっても,等しく享受し得る利益と解すべきであり,本件区別取扱いは,そのような性質の利益についての区別取扱いである。この点につき,本件区別取扱いは本件規定から導かれる結果であるところ,同ウ,エで説示したとおり,本件規定の目的そのものは正当であるが,昭和22年民法改正当時は正しいと考えられていた同性愛を精神疾患として禁圧すべきものとする知見は,平成4年頃には完全に否定されたことに照らせば,同性婚について定めていない本件規定や憲法24条の存在が同性愛者のカップルに対する一切の法的保護を否定する理由となるものではない。そうであるにもかかわらず,本件規定により,同性愛者と異性愛者との間で,その性的指向と合致する者との間で婚姻することができるか否かという区別が生じる結果となってしまっている。
【筆者】
「本件区別取扱いは,人の意思によって選択・変更できない事柄である性的指向に基づく区別取扱いであるから,」との記載がある。
まず、「本件区別取扱い」の部分であるが、法律は個々人の「性愛(性的指向)」を審査しておらず、個々人を「性愛(性的指向)」によって異なる取り扱いをしている事実はないのであるから、「本件」に「区別取扱い」が存在するかのような前提で論じている点が誤りである。
「人の意思によって選択・変更できない事柄である性的指向」の部分であるが、「技術上または学術上に関する争」に対して決着をつけようとする行為であり、裁判所法3条の「法律上の争訟」の範囲を超え、裁判所の有する権限を逸脱した違法な判断である。
「区別取扱いであるから」の部分について、法律は個々人の「性愛(性的指向)」を審査して異なる取り扱いをしている事実はないのであるから、「区別取扱いであるから」と区別取扱いが存在するかのように論じている点で誤りである。
「これが合理的根拠を有するといえるかについては,慎重な検討を要するところ,」との記載があるが、そもそも法律上は区別取扱いが存在しないのであるから、区別取扱いが存在することを前提として「合理的根拠」の有無を判断することはできないし、判断しようともしてはならない。これにより、「慎重な検討を要する」の部分についても、検討する必要はないし、検討してはならない。
「婚姻によって生じる法的効果を享受することは法的利益であって,同性愛者であっても異性愛者であっても,等しく享受し得る利益と解すべき」との記載がある。
この文そのままの意味としては、その通りである。「同性愛者」であっても「異性愛者」であっても、「両性愛者」「多性愛者」「全性愛者」「無性愛者」であっても、そのような分類を用いない者であっても、「キリスト教徒」「イスラム教徒」「仏教徒」「神道を信ずる者」「武士道を重んじる者」「無宗教の者」であっても、「鉄道マニア」「軍事オタク」「アニメ・オタク」であっても、「アスペルガー」「自閉症」「サイコパス」であっても、「精神病と認められている者」であっても、「等しく享受し得る利益と解すべき」である。
ただ、婚姻制度がこれらの者の思想・信条を審査し、特定の思想・信条を有する者に対して「法的利益」を与えないとしている事実がないことを押さえる必要がある。
「本件区別取扱いは,そのような性質の利益についての区別取扱いである。」との記載がある。
しかし、婚姻制度は「異性愛者」と称する者も「同性愛者」と称する者も同様に利用することができるのであり、「区別取扱い」そのものが存在しない。
そのため、「本件区別取扱い」や「区別り扱いである。」などと、「区別取扱い」があるかのように論じている部分は誤りである。
この文の文脈であるが、非常に分かりづらい。
「本件区別取扱いは,人の意思によって選択・変更できない事柄である性的指向に基づく区別取扱いであるから,これが合理的根拠を有するといえるかについては,慎重な検討を要するところ,同イで説示したとおり,婚姻によって生じる法的効果を享受することは法的利益であって,同性愛者であっても異性愛者であっても,等しく享受し得る利益と解すべきであり,本件区別取扱いは,そのような性質の利益についての区別取扱いである。」
読みづらい原因は下記の通りである。
◇ 「区別取扱い」が4回出てくる。
◇ 「利益」が3回出てくる。
◇ 「これが合理的根拠を有するといえるかについては,慎重な検討を要するところ,」に続く結論が書かれていない。
◇ 「そのような性質」が指している対象が分かりづらい。
文を区切って考えてみる。
① 「本件区別取扱いは,人の意思によって選択・変更できない事柄である性的指向に基づく区別取扱いである(から,)」。
② 「これが合理的根拠を有するといえるかについては,慎重な検討を要する(ところ,)」。
③ 「(同イで説示したとおり,)婚姻によって生じる法的効果を享受することは法的利益であ(って,)」る。
④ 「同性愛者であっても異性愛者であっても,等しく享受し得る利益と解すべきであ(り,)」る。
➄ 「本件区別取扱いは,そのような性質の利益についての区別取扱いである。」
並べ替えてみる。
③ 「(同イで説示したとおり,)婚姻によって生じる法的効果を享受することは法的利益であ(って,)」る。
④ 「同性愛者であっても異性愛者であっても,等しく享受し得る利益と解すべきであ(り,)」る。
➄ 「本件区別取扱いは,そのような性質の利益についての区別取扱いである。」
① 「本件区別取扱いは,人の意思によって選択・変更できない事柄である性的指向に基づく区別取扱いである(から,)」。
② 「これが合理的根拠を有するといえるかについては,慎重な検討を要する(ところ,)」。
ただ、この文を突き詰めて考えたところで、法律上は「異性愛者」と「同性愛者」の二分論を用いている事実はなく、「異性愛者」と称する者も「同性愛者」と称する者も同様に婚姻制度を利用することができるのであるから「区別取扱い」そのものが存在しない。
「本件区別取扱いは本件規定から導かれる結果であるところ」との記載がある。
しかし、法律は「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのか、その他の者であるのかなど、一切関知していないことから、法的な「区別取扱い」は存在していない。
そのため、「本件区別取扱いは」と論じている部分が誤りである。
また、「区別取扱いは本件規定から導かれる結果である」としているが、「本件規定」である「民法及び戸籍法」は「区別取扱い」をしている事実はない。そのため、「区別取扱い」の「結果」があるかのような認識は誤りである。
「同ウ,エで説示したとおり,本件規定の目的そのものは正当であるが,」との記載がある。その「同ウ,エ」の示すこの判決文が「本件規定の目的」と考えているのは、下記の部分であると思われる。
◇ 「本件規定は,夫婦が子を産み育てながら共同生活を送るという関係に対して,法的保護を与えることを重要な目的としていると解することができる。」
◇ 「明治民法においても,子を産み育てることが婚姻制度の主たる目的とされていたものではなく,夫婦の共同生活の法的保護が主たる目的とされていた」
◇ 「子の有無,子をつくる意思・能力の有無にかかわらず,夫婦の共同生活自体の保護も,本件規定の重要な目的であると解するのが相当である。」
◇ 「特に近時においては,子を持つこと以外の婚姻の目的の重要性が増している」
しかし、「同ウ,エ」の示している「目的」は、その項目で解説したように、婚姻制度に対する「国の立法目的」と「個々人の利用目的」を混同したものとなっている。
国が法律上の制度として婚姻制度を構築する立法目的は、下記の点が不可欠の要素であると考えられる。
〇 「子の福祉」が実現される社会基盤を構築すること
(→ 嫡出子として生まれることの重視)
〇 「近親交配」によって遺伝的な劣勢を有する個体が高い確率で発現することを抑制すること
(→ 父親の特定と近親者の特定)
〇 未婚の男女の数の不均衡を防止することで「子を持つ機会に恵まれない者」を減らすこと
(→ 複婚や複婚状態の防止・一夫一婦型)
〇 母体を保護すること
(→ 婚姻適齢)
明治民法でも「近親婚」を禁じる規定があり、同様の意図を確認できる。
明治民法第769条 婚姻の実質上の要件 近親婚の禁止 2015年09月13日
民法第四編第五編制定明治二十三年法律第九十八号民法財産取得編人事編廃止・御署名原本・明治三十一年・法律第九号 (P22)
(簿冊詳細)
国が法律上の制度として婚姻制度を構築し、それを利用する者に対して一定の優遇措置を講ずることにより、婚姻制度の利用を促進させ、上記の「立法目的」を達成することが意図されていると考えられる。
民法や戸籍法の親子関係、財産権、相続などについての各規定は、これらの根幹となる「立法目的」を達成するための手段として整備されているものである。
そのため、これらの「立法目的」を達成することができなくなる形で民法や戸籍法を改正したり、新たな規定を設けたりすることは想定されていない。(もしそれをした場合には『立法目的』が変更されたこととなる。)
婚姻制度の規定を改正したり、新たな規定を設けたり、個々の規定に対して違憲審査を行う際には、これらの根幹となる「国の立法目的」を捉える必要がある。
この判決文の「本件規定の目的そのものは正当であるが,」との部分であるが、そもそも「同ウ,エ」に示された「目的」は婚姻制度を構築する「国の立法目的」を十分に捉えたものとはなっておらず、「国の立法目的」と「個々人の利用目的」を混同していることから、それに対して「正当」であるか否かを論じるには前提として必要となる理解が不足しており、妥当でない。
「昭和22年民法改正当時は正しいと考えられていた同性愛を精神疾患として禁圧すべきものとする知見は,平成4年頃には完全に否定されたことに照らせば,同性婚について定めていない本件規定や憲法24条の存在が同性愛者のカップルに対する一切の法的保護を否定する理由となるものではない。」との記載がある。
まず、「昭和22年民法改正当時は正しいと考えられていた同性愛を精神疾患として禁圧すべきものとする知見は,平成4年頃には完全に否定されたことに照らせば,」との部分であるが、日本国憲法の下では個々人の有する「異性愛」や「同性愛」という思想や感情は「思想良心の自由(憲法19条)」によって保障されている。
そのため、法律上で「禁圧すべきもの」とはされていない。法律によって「禁圧すべきもの」として規制がなされていたという事実が存在するのであれば、その規定は憲法19条に違反することになる。
次に、「同性婚について定めていない本件規定や憲法24条の存在が同性愛者のカップルに対する」との部分であるが、「同性愛」という「内心の自由」の問題と、「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」として認めること(いわゆる同性婚)を結び付けて考えている点で妥当でない。
婚姻制度は個々人がどのような思想・信条を有していようとも利用することができるのであり、「同性愛者」と称する者も等しく利用することができる。「性愛(性的指向)」と婚姻制度そのものとの間には直接的な関係がないのである。
「カップル」という「二人一組」を示す言葉であるが、人類は必ず「カップル」という「二人一組」の関係を築くとは限られていないのであり、現在の法制度に存在しない形の「二人一組」を取り上げるのであれば、現在の法制度に存在しない形の「三人以上の組み合わせ」についても同様に検討する必要がある。
また、「同性愛者のカップル」という言葉であるが、この言葉には、この判決が「性愛(性的指向)」と婚姻制度を結び付けて考える誤りと、「特定の一人のみを愛する者」の思想や感情のみを取り上げて論じようとする誤りの、二重の誤りが含まれている。
この「同性愛者のカップル」という言葉は、婚姻制度を利用できる者が「男女二人一組」であるとする前提から、婚姻制度を利用する者は「特定の一人のみを愛する者」同士の「異性愛者のカップル」であろうと考えようとする根本的な誤りから生まれた言葉であると考えられる。
婚姻制度を利用することのできる組み合わせは「男女二人一組」ではあるが、婚姻制度は個々人の有する思想や感情を審査していないため、たとえ「同時に複数人を愛する者」であっても、「人を愛しない者」であっても、「性愛(性的指向)を有しない者」であっても利用することができる。
婚姻制度が「男女二人一組」であることに対して誤った意味づけをして考えてしまうことを分かりやすく示すとすれば、「『男女二人一組』であれば『キリスト教徒』のための制度であって、『複婚』が許されている『イスラム教』を信じている『イスラム教徒』のための制度ではない」などと考えてしまう誤りと同じである。婚姻制度そのものは、個々人がどのような思想・信条を有していようとも、「男女二人一組」の形で利用することができるのであり、「キリスト教」も「イスラム教」も関係ないのである。
結局ここで「同性愛者のカップル」という言葉を持ち出している背景には、「異性愛者のカップル」という特定の思想を基に形成された考え方があると思われる。これは、もともと「恋愛至上主義」や「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」などと同様の思想・信条・信仰に属する話であり、法律上の婚姻制度そのものとは関係ないものである。
このような特定の価値観に対して国家がその適否を判断したり、その特定の価値観を基にして何らかの優遇措置を与えるか否かを決することは、「政教分離(20条1項後段、同3項、89条)」に違反して違憲となる。
「同性婚について定めていない本件規定や憲法24条の存在が同性愛者のカップルに対する一切の法的保護を否定する理由となるものではない。」との部分であるが、婚姻制度は「同性愛者」であるとしても利用することができるのであり、「同性愛者」に対して「一切の法的保護を否定」しているとの事実はないことに注意する必要がある。
また、「同性愛者のカップル」についても、そもそも「性愛(性的指向)」は法律上の区分でないという前提があるが、「男性(同性愛者=ゲイ)」と「女性(同性愛者=レズビアン)」は「男女の二人一組」を形成できることから「婚姻」することができるのであり、「同性愛者のカップル」に対して「一切の法的保護を否定」しているとの認識も誤りであることを押さえる必要がある。
これとは別に、「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」として認めることができるか否かについては、憲法24条の「両性」「夫婦」の文言の制約や、婚姻制度を構築する立法目的との整合性の問題である。
婚姻制度を構築する立法目的には、「子の福祉」を実現することや「近親交配」を防ぐために父親を特定することを重視していると考えられ、この観点から「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」とすることは、この立法目的の達成を困難とする組み合わせであることから、許容されていない可能性が考えられる。
そのため、「本件規定や憲法24条」は上記の観点から意図的に「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」(いわゆる同性婚)として許容していない可能性があり、「同性同士の組み合わせ」による「婚姻」を求める者(ここで言う『同性愛者のカップル』)に対して「婚姻」の地位を与えていない理由を「同性愛を精神疾患として禁圧すべきものとする知見」であると断定している部分は誤った前提認識に基づくものと考えられる。
そして、上記の観点から「本件規定や憲法24条」は、「同性同士の組み合わせ」による「婚姻」を求める者に対して「一切の法的保護を否定」している可能性がある。
「本件規定により,同性愛者と異性愛者との間で,その性的指向と合致する者との間で婚姻することができるか否かという区別が生じる結果となってしまっている」との記載がある。
しかし、法律上は「同性愛」や「異性愛」やその他の「性愛」を有する者であるのかなど、一切関知しておららず、「性愛」に基づく「婚姻」に価値があると考えるか否かは個々人の「思想良心の自由」に属する問題である。婚姻制度は「性愛」を有しない者でも利用できるのである。
婚姻制度そのものは「性愛(性的指向)」の「合致」がなければ利用できないわけではないし、「性愛(性的指向)」の「合致」を求めたり、推奨しているものでもない。
「性的指向と合致する者との間で婚姻することができるか否か」との部分については、裁判所が「性的指向」(しかも、『同性愛』と『異性愛』の二分論のみ)という特定の価値観を含む「婚姻」を推奨しようとする前提が含まれており、「政教分離(20条1項後段・3項、89条)」に反して違憲となると考えられる。
このような主張が通るとすれば、民法や戸籍法が「イスラム教の教え」と「合致」する「複婚」を許容していないことについても、同様に主張できることとなる。
「性的指向」の「合致」した結果として「婚姻」に至ると考えることに価値があるとの考え方は、まったく慣習や文化、個々人の価値観の問題であり、法制度の関知しない部分である。
もっとも,同性間の婚姻や家族に関する制度は,その内容が一義的ではなく,同性間であるがゆえに必然的に異性間の婚姻や家族に関する制度と全く同じ制度とはならない(全く同じ制度にはできない)こと,憲法から同性婚という具体的制度を解釈によって導き出すことはできないことは,前記2(3)で説示したとおりであり,この点で,立法府の裁量判断を待たなければならない。そして,わが国には,同性婚に対する否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずおり,また,明治民法以来,婚姻とは社会の風俗や社会通念によって定義されてきたものであって,婚姻及び家族に関する事項は,国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ,それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断を行うことによって定められるべきものであること(前記2(1))からすれば,立法府が,同性間の婚姻や家族に関する事項を定めるについて有する広範な立法裁量の中で上記のような事情を考慮し,本件規定を同性間にも適用するには至らないのであれば,そのことが直ちに合理的根拠を欠くものと解することはできない。
【筆者】
「同性間の婚姻や家族に関する制度は,その内容が一義的ではなく,同性間であるがゆえに必然的に異性間の婚姻や家族に関する制度と全く同じ制度とはならない(全く同じ制度にはできない)こと,憲法から同性婚という具体的制度を解釈によって導き出すことはできないことは,前記2(3)で説示したとおりであり,この点で,立法府の裁量判断を待たなければならない。」との記載がある。
まず、「同性間の婚姻」との部分であるが、憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」の文言を「婚姻」の成立条件と解する場合、これを満たさない「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として成立しない可能性がある。
また、この判決文は、「同条1項はその裁量権の限界を画したものと解される」と示し、下記のように示している。
◇ 「憲法24条1項は『両性の合意』,『夫婦』という文言を,また,同条2項は『両性の本質的平等』という文言を用いているから,その文理解釈によれば,同条1項及び2項は,異性婚について規定しているものと解することができる。」
◇ 「同条が『両性』,『夫婦』という異性同士である男女を想起させる文言を用いていることにも照らせば,同条は,異性婚について定めたものであり,同性婚について定めるものではないと解するのが相当である。」
◇ 「同条1項の『婚姻』とは異性婚のことをいい,婚姻をするについての自由も,異性婚について及ぶものと解するのが相当である」
そのため、24条の示す「婚姻」は「男女の組み合わせ」の「婚姻」であり、「同性同士の組み合わせ」については24条のいう「婚姻」ではないことになる。
【参考】「今回、判決はこれを『異性婚について定めたもの』と解釈した」 Twitter
【参考】「札幌地裁でさえ、24条は異性婚についての条項だと言っています。」 Twitter
【参考】「『両性』を『同性』をも含むという解釈も無理があるということ。」 Twitter
【参考】「24条に同性婚の概念が有るか無いか」……「同性婚の概念は無いと判決が出ている」 Twitter
【参考】「裁判所の判決は、同性婚の概念は無い、です。」 Twitter
【参考】「【異性間の婚姻】=【婚姻】≠【同性間の婚姻】」 Twitter
【参考】「【婚姻】を定める条文に『定められていない』同性婚が【婚姻】であるわけがない」 Twitter
そのことから、ここで「同性間の婚姻」との言葉を使っている点は、論理矛盾であるか、24条の示す「婚姻」とは異なる意味で用いていることになる。
【参考】「同性婚は憲法24条にいう婚姻としては成立しないけど、なにかそれと別の『X』として成立する」 Twitter
【参考】「同性婚は憲法24条にいう【婚姻】としては成立せず、なにかそれと別の『X』として成立する」 Twitter
【参考】「『婚姻』と同様の法律効果を生む『婚姻ではないなんらかの法制度』」 Twitter
【参考】「『同性婚も婚姻だ』をやってしまうと、憲法による限定を下位法で覆すことになるのでアウト」 Twitter
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①24条は同性婚を規定していない
②24条は婚姻を規定している
ここから求められる論理的な結論は【同性婚は婚姻ではない】です。
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しかし、この判決でも「婚姻」について、「婚姻とは,婚姻当事者及びその家族の身分関係を形成し,戸籍によってその身分関係が公証され,その身分に応じた種々の権利義務を伴う法的地位が付与されるという,身分関係と結び付いた複合的な法的効果を同時又は異時に生じさせる法律行為であると解される」と示しているとおりに、「婚姻」が「婚姻当事者及びその家族の身分関係」と結び付いた「法律行為」であるならば、それはその「身分関係」を形成することによって立法目的を達成することが予定されているのであり、「婚姻」は法制度上一つでなければならないものと考えられる。債権契約の場合は、同時に複数の契約を結ぶことが可能であるが、債権契約と異なる形で「身分関係」を形成するという要素を持つ「法律行為」である以上、24条のいう「婚姻」と、それ以外の「婚姻」という二段階の法制度を構築することはできないはずである。このことは、民法の「物権」における「一物一権主義」と類似する側面がある。「物権」は、「債権」とは異なる「排他性」がある。
物権(物権の排他性) Wikipedia
物権法(債権との対比) Wikipedia
これと同様に、「婚姻」が「身分関係」を形成する「法律行為」であるということは、そこには「排他性」が存在すると考えられる。実際、「重婚」は禁じられている。
このことから、もし「婚姻」という名のついた「身分関係」を形成する制度が複数存在することとなれば、それは24条に抵触して違憲となると考えられる。
【参考】「『婚姻』という法律用語を下位法で同性同士を含んだものとして使う事はできない」 Twitter
【参考】「下位法で勝手に【婚姻】の意味を変えられない」 Twitter
【参考】「戸籍法や民法の【婚姻】は憲法24条に基づいている」 Twitter
【参考】「24条2項の要請に基づいて婚姻=異性婚に関する法律が整備された」……「その法律の用語である【婚姻】が憲法24条の【婚姻】を指すのは明白」 Twitter
そのため、24条の「婚姻」が「男女の組み合わせ」であるとの前提をとりながら、「同性間の婚姻」という言葉を使うことはできず、論理矛盾であることになる。
【参考】「『24条は異性婚のみ』と『24条は性別を問わない』という前提条件を【自分の都合で入れ替える】」……「【非論理的】」 Twitter
【参考】「『既に婚姻には同性婚が含まれている』という主張は事実誤認」 Twitter
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①「異性婚のみを指す」のが【婚姻】
②「異性婚と同性婚の療法を含む」のが【婚姻】
こんな矛盾した多義定義が混乱を産まないわけがないでしょうに。
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憲法「婚姻は異性婚で同性婚じゃない」
下位法「婚姻は同性婚を含む」
これじゃ、下位法が憲法に反してるじゃん。
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憲法・判決「婚姻は異性婚のみ」
下位法「婚姻は同性婚を含む」
これをどう見たら【覆してない】事になるねん。
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①24条の【婚姻】は同性婚を定めたものではない。
②同性婚は24条の【婚姻】だ。
完全に矛盾してんじゃん。
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論理における「誤謬の排除」について。
【動画】納富信留「論理学とは何か?」ー公開講座「論理」2020 2021/06/18
【参考】「憲法と下位法で同じXの解釈が異なることは明らか」 Twitter
【参考】「『結婚』以外の新たな言葉を定義して法制度も1から検討したほうが」 Twitter
(法制度を検討するのは政治部門の役割なので、本質的に司法権によって判断できる範囲を超えることにも注意。)
次に、「同性間であるがゆえに必然的に異性間の婚姻や家族に関する制度と全く同じ制度とはならない(全く同じ制度にはできない)こと,」との部分について検討する。
先ほども述べたように、24条1項の「婚姻」を「男女の組み合わせ」であるとしている以上は、「同性間」における法律行為について、「婚姻」とすることができない。
そのため、「同性間」について、「『婚姻』ではあるが『異性間』の形成する『婚姻』と『全く同じ制度とはならない(全く同じ制度にはできない)』」と考えているのであれば、誤りである。「同性間」については、「婚姻」ではない「法律行為」(債権契約など)となることが前提である。
三つ目に、「憲法から同性婚という具体的制度を解釈によって導き出すことはできないことは,前記2(3)で説示したとおりであり,この点で,立法府の裁量判断を待たなければならない。」と部分について検討する。
「同性婚」は法律用語ではない。「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として成立しない可能性があるため、「同性婚」のような「同性同士の組み合わせ」が「婚姻」として成立することを前提とする言葉を使うことは妥当でない。また、この判決文でも24条の「婚姻」を「男女の組み合わせ」のものであることを前提としており、「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」ではないこととなっている。
「この点で,立法府の裁量判断を待たなければならない。」との部分であるが、「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」とすることができないことが前提となっているし、身分関係を形成する法律や制度を複数設置することはできないことに注意する必要がある。
「そして,わが国には,同性婚に対する否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずおり,また,明治民法以来,婚姻とは社会の風俗や社会通念によって定義されてきたものであって,婚姻及び家族に関する事項は,国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ,それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断を行うことによって定められるべきものであること(前記2(1))からすれば,立法府が,同性間の婚姻や家族に関する事項を定めるについて有する広範な立法裁量の中で上記のような事情を考慮し,本件規定を同性間にも適用するには至らないのであれば,そのことが直ちに合理的根拠を欠くものと解することはできない。」との記載がある。
「そして,わが国には,同性婚に対する否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずおり,」との部分であるが、「同性婚」は法律用語ではないし、「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として成立しない可能性があるため、「同性婚」という「同性同士の組み合わせ」が「婚姻」として成立することを前提とする言葉を使うことは妥当でない。
「明治民法以来,婚姻とは社会の風俗や社会通念によって定義されてきたものであって,」との部分について、「婚姻」は民法の規定する婚姻制度に合致するか否かを「社会通念」に従って判断することはあるとしても、民法上の婚姻制度による具体的な規定が存在するにもかかわらず、これを離れて「社会の風俗や社会通念」が「婚姻」を定義していたとの認識は誤りである。少なくとも、それは法律上の「婚姻」のことではない。(宗教団体が独自に定義する婚姻などが考えられる。)
「婚姻及び家族に関する事項は,国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ,それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断を行うことによって定められるべきものである」との部分であるが、「同性同士の組み合わせ」については「婚姻」として成立しない可能性があるし、この判決文においても24条の「婚姻」を「男女の組み合わせ」のものであることを前提としているし、身分関係を形成する制度が複数存在することもできないと考えられることから、ここでいう「婚姻」の中に「同性同士の組み合わせ」は含まれないことが前提となっている。
また、「全体の規律を見据えた総合的な判断を行うこと」との部分であるが、婚姻制度を設ける趣旨・目的と、その達成手段を判断する必要があると考えられる。
婚姻制度を設ける趣旨・目的には、下記が考えられる。
〇 「子の福祉」が実現される社会基盤を構築すること
(→ 達成手段:嫡出子として生まれることの重視)
〇 「近親交配」によって遺伝的な劣勢を有する個体が高い確率で発現することを抑制すること
(→ 達成手段:父親の特定と近親者の特定)
〇 未婚の男女の数の不均衡を防止することで「子を持つ機会に恵まれない者」を減らすこと
(→ 達成手段:複婚や複婚状態の防止・一夫一婦型)
〇 母体を保護すること
(→ 達成手段:婚姻適齢)
これらの目的を達成するための「全体の規律を見据えた総合的な判断」を行った場合に、「同性同士の組み合わせ」は「婚姻」とすることができないと判断される可能性がある。
「立法府が,同性間の婚姻や家族に関する事項を定めるについて有する広範な立法裁量の中で上記のような事情を考慮し,本件規定を同性間にも適用するには至らないのであれば,そのことが直ちに合理的根拠を欠くものと解することはできない。」との記載がある。
「立法府が,……広範な立法裁量の中で」とあるが、この判決文では24条について「同条1項はその裁量権の限界を画したものと解される」と示し、24条の「婚姻」を「男女の組み合わせ」であるとしているのであるから、「同性間」を「婚姻」とすることについては「裁量権の限界」を超えて違憲となることが前提である。そのため、「立法府が,同性間の婚姻や家族に関する事項を定めるについて有する広範な立法裁量の中で」との文からは、あたかも「同性間」を「婚姻」とすることが「立法裁量」の範囲内あるかのような印象を受けやすいが、「立法府」に「同性間」を「婚姻」とする「立法裁量」はないこととなる。
「上記のような事情を考慮し,」との部分について、「上記のような事情」の対象範囲が分かりづらい。この文の中のことを指しているのか、一つ前の文や、これまで出てきたすべての段落など、様々な可能性がある。
この文の中だけで考えるとしても、文章を並べ替えて分かりやすくした方が良いと思われる。例えば、下記の方法がある。
◇ 「立法府が,同性間の婚姻や家族に関する事項を定めるについて有する広範な立法裁量の中で」
◇ 「わが国には,同性婚に対する否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずおり,」
◇ 「明治民法以来,婚姻とは社会の風俗や社会通念によって定義されてきたものであって,」
◇ 「婚姻及び家族に関する事項は,国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ,それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断を行うことによって定められるべきものであること(前記2(1))」
◇ (上記のような事情)「を考慮し,」
◇ 「本件規定を同性間にも適用するには至らないのであれば,そのことが直ちに合理的根拠を欠くものと解することはできない。」
ただ、先ほども示したように、文章を並べ替えても、「同性間」については「婚姻」とすることができず、「立法裁量」はないこととなる。
しかしながら,上記説示したとおり,異性愛者と同性愛者の違いは,人の意思によって選択・変更し得ない性的指向の差異でしかなく,いかなる性的指向を有する者であっても,享有し得る法的利益に差異はないといわなければならない。そうであるにもかかわらず,本件規定の下にあっては,同性愛者に対しては,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段が提供されていないのである。そして,上記(3)オ~キで論じたとおり,本件区別取扱いの合理性を検討するに当たって,我が国においては,同性愛者のカップルに対する法的保護に肯定的な国民が増加し,同性愛者と異性愛者との間の区別を解消すべきとする要請が高まりつつあり,諸外国においても性的指向による区別取扱いを解消する要請が高まっている状況があることは考慮すべき事情である一方,同性婚に対する否定的意見や価値観を有する国民が少なからずいることは,同性愛者に対して,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないことを合理的とみるか否かの検討の場面においては,限定的に斟酌すべきものというべきである。
【筆者】
「異性愛者と同性愛者の違いは,人の意思によって選択・変更し得ない性的指向の差異でしかなく,いかなる性的指向を有する者であっても,享有し得る法的利益に差異はないといわなければならない。」との記載がある。
「異性愛者」や「同性愛者」は法律用語ではないし、法律上は「異性愛者」と「同性愛者」に二分して異なる取扱いをしている事実はない。
「人の意思によって選択・変更し得ない性的指向」との部分であるが、「性的指向」は「内心の自由」に属する問題であり、「人の意思によって選択・変更し得ない」かどうかについては、「技術上または学術上に関する争」であることから、「法律上の争訟」の範囲を超えており、これを司法権によって決着をつけようとしてはならない。また、この判決文は「異性愛者」と「同性愛者」の二分論で論じているが、個々人の有する「内心」の問題を明確に分類できることを前提としていることも妥当でない。
「いかなる性的指向を有する者であっても,享有し得る法的利益に差異はないといわなければならない。」との部分であるが、この文そのままの意味としてはその通りである。
「いかなる性的指向を有する者」であっても、婚姻制度を利用することができるため、「享有し得る法的利益に差異はないといわなければならない。」。
もし法律が個々人の「性的指向」を審査し、何らかの分類に属すると判断された者に対して婚姻制度を利用することを否定しているのであれば、個々人の間に「享有し得る法的利益に差異」が存在することになるが、今回の事例ではそのような事情は存在しないため、個々人の間に「享有し得る法的利益に差異はない」のである。
「本件規定の下にあっては,同性愛者に対しては,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段が提供されていないのである。」との記載がある。
しかし、法律は個々人が「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのか、その他の「性愛」を有する者なのかなど、まったく審査しておらず、一切関知していないのであるから、「同性愛者」に対して「婚姻によって生じる法的効果」を完全な形で「提供」していることとなる。
この文は、「婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段が提供されていない」と記載されているが、まったく誤りであり、「一部」どころか「婚姻によって生じる法的効果」の「全部」を「享受する法的手段が提供」されていることとなる。
「本件区別取扱いの合理性を検討するに当たって,我が国においては,同性愛者のカップルに対する法的保護に肯定的な国民が増加し,同性愛者と異性愛者との間の区別を解消すべきとする要請が高まりつつあり,諸外国においても性的指向による区別取扱いを解消する要請が高まっている状況があることは考慮すべき事情である一方,同性婚に対する否定的意見や価値観を有する国民が少なからずいることは,同性愛者に対して,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないことを合理的とみるか否かの検討の場面においでは,限定的に斟酌すべきものというべきである。」との記載がある。
まず、「本件区別取扱いの合理性を検討するに当たって,」の部分であるが、法律は自然人を「同性愛者」や「異性愛者」などと区別している事実はなく、法的な「区別取扱い」は存在しない。「区別取扱い」があることを前提として論じようとしている部分が誤りである。
ここでは、「区別取扱い」があることを前提としてその「合理性」を検討しようとしているが、「区別取扱い」が存在しないことから、その「合理性」の有無を検討することもできない。
「我が国においては,同性愛者のカップルに対する法的保護に肯定的な国民が増加し,同性愛者と異性愛者との間の区別を解消すべきとする要請が高まりつつあり,」の部分について検討する。
「同性愛者のカップル」の文言であるが、法律上は個々人がどのような「性愛(性的指向)」を有するかを審査していない。また、「カップル」は法律用語ではない。
「同性愛者と異性愛者との間の区別を解消すべき」との文であるが、法律上は「同性愛者」と称する者も、「異性愛者」と称する者も、区別取扱いをしているとの事実がないことから、「解消すべき」などと区別取扱いが存在することを前提とする論じ方は前提が誤っている。
「諸外国においても性的指向による区別取扱いを解消する要請が高まっている状況がある」との部分であるが、「諸外国」が個々人の「性的指向」を審査し、法的に何らかの「区別取扱い」をしている事例があるかどうかについては具体的な事例を見てみないと判断できないが、少なくとも日本国の法律上では「性的指向」を審査することによって個々人を区別しているという事実はないため、法的な「区別取扱い」は存在しない。
そのため、存在しない「区別取扱い」を「解消」することも、そもそもできない。
この文は、「同性愛者に対して,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないことを合理的とみるか否かの検討の場面」において、下記のように判断するべきだと述べている。
【考慮すべき事情】
◇ 我が国においては,同性愛者のカップルに対する法的保護に肯定的な国民が増加し,同性愛者と異性愛者との間の区別を解消すべきとする要請が高まりつつあ(ること)
◇ 諸外国においても性的指向による区別取扱いを解消する要請が高まっている状況があること
【限定的に斟酌すべきもの】
◇ 同性婚に対する否定的意見や価値観を有する国民が少なからずいること
まず、【考慮すべき事情】について、法律上は「区別取扱い」が存在しなため、これが存在することを前提として論じている点で誤りである。
次に、【考慮すべき事情】や【限定的に斟酌すべきもの】など述べている部分であるが、法的審査において国民の「意見や価値観」を採り入れようとすることは、法規範に適合するか否かしか判断することができない司法権の範囲を超える判断であり、違法と考えられる。国民感情によって「合理性」があるか否かを判断するのは国会の役割であり、裁判所が立ち入ることのできない部分である。
また、【限定的に斟酌すべきもの】について、ここではなぜ「限定的に斟酌すべきもの」であるのか、十分に説明されているとはいえない。この判決文は、「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」として認めていないことの理由が、単なる国民感情の問題と捉えているようであるが、婚姻制度を構築することには「近親交配」に至ることを抑制しようとする意図などが含まれている可能性があり、「同性同士の組み合わせ」を「婚姻」とすることはこの意図を阻害する可能性があることから認められないとしている場合などもあり得る。それにもかかわらず、「否定的意見や価値観」を勝手に「限定的に斟酌すべきもの」と判断することは裁判所の役割を超えていると考えられる。
この文の全体を通して読むと、下記のようになっている。
「本件区別取扱いの合理性を検討するに当たって,……(略)……同性愛者に対して,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないことを合理的とみるか否かの検討の場面においでは,限定的に斟酌すべきものというべきである。」
この文は、最初で「本件区別取扱いの合理性」と述べ、後でまた「同性愛者に対して,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないことを合理的とみるか否か」と述べており、内容が重なっている。
このような内容の重複は読者を混乱させることとなるため、悪文である。
以上のことからすれば,本件規定が,異性愛者に対しては婚姻という制度を利用する機会を提供しているにもかかわらず,同性愛者に対しては,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないとしていることは,立法府が広範な立法裁量を有することを前提としても,その裁量権の範囲を超えたものであるといわざるを得ず,本件区別取扱いは,その限度で合理的根拠を欠く差別取扱いに当たると解さざるを得ない。
【筆者】
「本件規定が,異性愛者に対しては婚姻という制度を利用する機会を提供しているにもかかわらず,同性愛者に対しては,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないとしている」との記載がある。
しかし、法律は「異性愛者」と称する者と「同性愛者」と称する者を区別しているという事実はないため、どちらの者に対しても「婚姻という制度を利用する機会を提供している」。
そのため、「同性愛者に対しては,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないとしている」などと、法律が「異性愛者」と「同性愛者」を区別し、その「同性愛者」と称する者に対して「法的効果」を享受していないかのような前提で論じていることは誤りである。
この文であるが、一つ前の段落で「本件規定の下にあっては,同性愛者に対しては,婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段が提供されていないのである。」との記載があり、同じような内容が何度も繰り返されている。これほどまでに繰り返すことは不要であり、悪文である。論点を整理すれば明瞭でより短い文に集約することができる。
「立法府が広範な立法裁量を有することを前提としても,その裁量権の範囲を超えたものであるといわざるを得ず,」との記載がある。
「立法裁量」の範囲を超えるとの趣旨であるが、この判決文は「区別取扱い」が存在しないにもかかわらず「区別取扱い」が存在すると論じようとしたり、婚姻制度を構築する立法目的を適切に捉えることができないままに論じようとするなど、そもそも前提が誤っており、この「立法裁量」の範囲を超えるとの論旨を正当化することができていない。
「本件区別取扱いは,その限度で合理的根拠を欠く差別取扱いに当たると解さざるを得ない。」との記載がある。
しかし、そもそも「区別取扱い」が存在しないことから、法的な「差別取扱い」は存在しない。これにより、「差別取扱いに当たると解さざるを得ない。」と述べている部分は誤りとなる。
また、「区別取扱い」が存在しなければその「合理的根拠」の有無を検討することもできないため、「合理的根拠を欠く」と述べている部分も意味が通じない。
したがって,本件規定は,上記の限度で憲法14条1項に違反すると認めるのが相当である。
【筆者】
この文では、「本件規定」が、「上記の限度」で、14条1項の「平等権」(平等原則)に違反するとしている。
しかし、この結論は、法律が個人の思想や感情を審査し、「異性愛者」や「同性愛者」に二分し、それらに対して異なる取扱いをしていることを前提とする誤った理解に基づいて論じたものであり、正当化することはできていない。
また、法律は個々人の思想や感情に基づいて区別取扱いをしている事実はないことが前提であるが、「異性愛者」と「同性愛者」のどちらにも該当する者、どちらにも該当しない者、人を愛する感情のない者も存在するにもかかわらず、「異性愛者」や「同性愛者」の二分論を用いている点も疑問である。
さらに、個々人の思想や感情に基づいて論じることが可能となるのであれば、「婚姻適齢に満たない者」に対して愛する感情を抱く者や、「兄弟姉妹などの近親者」に対して愛する感情を抱く者、「同時に複数人を愛する者」についても法的な保護を与えなければならなくなる。
そのため、「婚姻適齢に満たない者」との婚姻を求める者や、「婚姻適齢に満たない者同士」、「同時に複数人を愛する者」に対して婚姻を認めていないことは、憲法14条に違反すると論じることが可能となってしまう。
他にも、「異性愛者」や「同性愛者」というように人を愛する感情を基に自然人を分類できることを前提とするのであれば、下記のような疑問が生まれる。
◇ 人を愛する感情がなければ婚姻することができないのか
◇ 以前は愛する感情があったため婚姻関係を形成したが、その後が愛する感情が失われた者は婚姻関係も同時に失われることになるのか
このように、裁判所が「異性愛」や「同性愛」という特定の思想や感情に基づいて論じていることは法律論として妥当とは言えない。
これらの思想や感情は、憲法19条の「思想良心の自由」によって保障されているものではあるが、法律論上の区分として通用している分類ではない。
さらに、この判決が言うように、婚姻制度が「異性愛者」や「同性愛者」という区分に基づいて制度を利用できるか否か決しているものであるとする前提に立つのであれば、婚姻前に当事者について「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのかを審査していることになるはずである。
また、新たな婚姻制度を設ける際にも、「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのかを審査することを前提とするものになると考えられる。
婚姻前に当事者を「異性愛者」であるのか「同性愛者」であるのかを審査しないのであれば、ここでいう「異性愛者」に分類される女性についても、「女性同性婚」を形成することが可能となる。
そうなると、(もともと『異性愛者』であるか『同性愛者』であるか否かは当事者の生殖能力と直接的な因果関係はないのであるが、)「女性同性婚」が許容されることに伴い、その下に生まれる子供は父親の嫡出推定を得ないことになるから、父親を特定できない子供が多数生まれる可能性が高くなる。
「女性同性婚」が許容される場合、事実上の複婚関係を形成することが容易になるなど、社会生活に大きな影響を与える可能性がある。
4 争点(2)(本件規定を改廃しないことが,国家賠償法1条1項の適用上違法であるか)について
(1)国家賠償法1条1項は,国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個々の国民に対して負担する職務上の法的義務に違反して当該国民に損害を加えたときに国又は公共団体がこれを賠償する責任を負うことを規定するものであるところ,国会議員の立法行為又は立法不作為が同項の適用上違法となるかどうかは,国会議員の立法過程における行動が個々の国民に対して負う職務上の法的義務に違反したかどうかの問題であり,立法の内容の違憲性の問題とは区別されるべきものである。そして,上記行動についての評価は原則として国民の政治的判断に委ねられるべき事柄であって,仮に当該立法の内容が憲法の規定に違反するものであるとしても,そのゆえに国会議員の立法行為又は立法不作為が直ちに同項の適用上違法の評価を受けるものではない。
もっとも,法律の規定が憲法上保障され又は保護されている権利・利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法措置を怠る場合などにおいては,国会議員の立法過程における行動が上記職務上の法的義務に違反したものとして,例外的に,その立法不作為は,国家賠償法1条1項の規定の適用上違法の評価を受けることがあるというべきである。(最高裁昭和53年(オ)第1240号同60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁,最高裁平成13年(行ツ)第82号,第83号,同年(行ヒ)第76号,第77号同17年9月14日大法廷判決・民集59巻7号2087頁参照)
(2)そこで,本件規定を改廃しないことが,国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるかについて検討する。
本件規定は,昭和22年民法改正当時における同性愛を精神疾患とする知見(認定事実(2),(4))を前提とすれば,そのような同性愛者のカップルに対する法的保護を特に設けなかったとしても,合理性がないとすることはできない。
この点につき,そのような知見は,昭和55年頃には米国において否定され,平成4年頃には世界保健機関によっても否定されたものであり,その頃には,我が国においても,同性愛を精神疾患とする知見は否定されたものと認めることができる(認定事実(6)ア,イ)。
しかしながら,科学的・医学的には同性愛を精神疾患とする知見は否定されたものの,諸外国において登録パートナシップ制度又は同性婚制度を導入する国が広がりをみせ始めたのは,オランダが2000年(平成12年)に同性婚の制度を導入して以降といえ(認定事実(7)ア(イ)),我が国における地方公共団体による登録パートナーシップ制度の広がりはさらに遅く,東京都渋谷区が平成27年10月に導入して以降といえる(認定事実(8)ア)。
また,近時の調査によっても,20代や30代など若年層においては,同性婚又は同性愛者のカップルに対する法的保護に肯定的な意見が多数を占めるものの,60歳以上の比較的高い年齢層においては否定的な意見が多数を占めており(認定事実(10)ア,エ),国民意識の多数が同性婚又は同性愛者のカップルに対する法的保護に肯定的になったのは,比較的近時のことと推認することができる。
さらに,同性愛者のカップルに対し,婚姻によって生じる法的効果を付与する法的手段は,多種多様に考えられるところであり,一義的に制度内容が明確であるとはいい難く,どのような制度を採用するかは,前記3(1)のとおり,国会に与えられた合理的な立法裁量に委ねられている。ところが,本件証拠上確認できる,国会において初めて同性婚に言及された機会は,平成16年11月l7日の参議院憲法調査会における参考人の答弁であるが,同調査会においては同性婚について議論がされた形跡はなく(甲A260),国会における議論がされるようになったのは,平成27年に至ってからであると認められる(甲A11,12,60~62,261,267)。
【筆者】
㊥
加えて,前記3(3)キで説示したとおり,同性婚や同性愛者のカップルに対する法的保護に否定的な意見や価値観を有する国民は少なからず存在するところである。
これらのことに加え,昭和22年民法改正以後,現在に至るまで,同性婚に関する制度がないことの合憲性についての司法判断が示されたことがなかったことにも照らせば,本件規定が憲法14条1項に反する状態に至っていたことについて,国会において直ちに認識することは容易ではなかったといわざるを得ない。
【筆者】
㊥ 「本件規定が憲法14条1項に反する状態に至っていた」
そうすると,本件規定は,前記3(4)で説示した限度で憲法に違反するものとなっていたといえるものの,これを国家賠償法1条1項の適用の観点からみた場合には,憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反することが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたって改廃等の立法措置を怠っていたと評価することはできない。
【筆者】
㊥ 「本件規定は,前記3(4)で説示した限度で憲法に違反するものとなっていたといえる」
したがって,本件規定を改廃していないことが,国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるものではないというべきである。
第4 結論
以上のとおりであって,その余の争点について判断するまでもなく,原告らの請求にはいずれも理由がないから,これらを棄却することとする。
よって,主文のとおり判決する。
札幌地方裁判所民事第2部
裁判長裁判官 武部知子 印
裁判官 松長一太 印
裁判官 川野裕矢 印
<理解の補強>
平等の名のもとに…「同性婚を認めないのは違憲」判決は何をもたらすか 楊尚眞 2021.3.26
【大阪・第9回】被告第5準備書面 令和3年9月24日 PDF
【九州・第6回】被告第4準備書面 令和3年10月29日 PDF
札幌地裁判決を踏まえた国側の反論の紹介とそれに対する質疑 2021年11月25日
【札幌・第1回】被控訴人答弁書 令和3年9月30日 PDF
【大阪・第12回】被告第6準備書面 令和4年2月21日 PDF
【東京・第10回】被告第6準備書面 令和4年5月16日 PDF
【名古屋・第12回】被告第5準備書面 令和4年5月31日 PDF
【九州・第9回】被告第5準備書面 令和4年6月16日 PDF
私たちは「重婚」を認められるか…?「同性婚」問題の先に浮かび上がる「多様性をめぐる根本的な難点」 2023.06.27
「(重婚・近親婚の禁止)が憲法違反であり改正せよという訴えの方が、同性婚よりも」 Twitter
「差別だからって理由で認めるなら、近親婚や多重婚も含めたあらゆる結婚の形も認めないと」 Twitter
「同性婚を認めるために憲法14条だけを根拠にするのは間違っている。」 Twitter
「14条の理論でいくと、一夫多妻や一妻多夫制はどうなるんでしょうね…」 Twitter
「重婚・近親婚・未成年の婚姻の禁止も平等に反する事になってしまう」 Twitter
「あの理屈が通るなら近親婚も可能になる」 Twitter
「反差別と結婚は相性が悪い気がする」 Twitter
「裁判所自身、憲法24条の両性とは男女であると認めたのに、同性婚をは憲法24条に違反しないと言うのは無理のある説明。」 Twitter
「14条だけで見てしまうと今度は24条との整合性が取れない」 Twitter
「憲法24条と憲法14条が相反関係にある」 Twitter
「今回の判決は、拙速な判断だったと言わざるを得ない。」 Twitter
「24条が14条に違反していることになる。」 Twitter
「それは憲法の条文同士で矛盾が生じている事を認める事になる」 Twitter
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「論理的に無理がないか? 憲法24条は同姓間の結婚を含むとの前提がないと、不平等ということにはならないはず。」 Twitter
「国民は天皇となることの法的利益を平等に享受してはいないわけだが、そうすると天皇制は14条違反なのか」 Twitter
「宗教団体や大学に13条・14条による統制をどこまで及ぼすべきか?という話になる。」 Twitter
札幌地裁・同性婚判決の論点 2021年3月18日
「幾ら憲法14条に違反しているからと、家族法の主旨から逸脱してまで合わせるのはどうかと思う」 Twitter
「そもそも主旨として想定していないものを入れるのが限界を超えてんじゃないか」 Twitter
「前提が実は大きく変わる法改正なのに、安易に平等とか時代の変化で片付けすぎではないか?」 Twitter
【九州・第3回】被告第2準備書面 令和2年5月13日 PDF (14条をどう考えるかについて詳しい)
「【変えられない性自認】」……「同性婚→離婚→異姓婚 が可能になるとしたら、前提否定であり根本的にオカシイ」 Twitter
「同性婚と異姓婚の重婚も可能」 Twitter
「同性婚している人は同時に異姓婚することが可能に」 Twitter
「24条の【婚姻】を排除できない⇒同性婚と異姓婚が同時に可能」 Twitter
「同性婚の根本原理たる【変えられない性指向】に反する立法はマズい」 Twitter
「24条の【婚姻】から同性婚は排除されている」 Twitter
「現行解釈では【婚姻は異姓婚を指す】のだから、同性婚が割り込む余地はない。」 Twitter
「憲法が【婚姻は異姓婚を指す】と解釈されるのなら、法律で【婚姻は同性婚を含む】とする事は出来ない。」 Twitter
「【婚姻は異性婚を指す】であり、従って論理的に【配偶者は異性】が導かれるというのに、」 Twitter
◇ 「女性・男性」⇒「女性・女性」の事例
この判決では、「性的指向が変わることはない。」と述べている。しかし、異性との間で婚姻関係にあった者が、同性との婚姻を望んでいる場合もある。
「当事者の女性は、婚姻関係にあった男性との間に生まれた子供をパートナーと一緒に育てていると説明。」
「15日付の公明新聞紙面」 Twitter
つまり、ここでも「性的指向」と婚姻制度の間に直接的な関係性がないことが明らかとなっており、この判決文の立場そのものが、当事者によって否定されているのである。
◇ 「女性・女性」⇒「女性・男性」の事例
下記の記事でも、「女性・女性」の関係から「女性・男性」の関係に移り変わっている。
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事実婚を認定した真岡支部判決は今年3月、最高裁で確定した。元パートナーの不貞行為で関係が破綻したとして提訴した原告の30代女性が、取材に応じた。
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付き合って数年になるパートナーの性別は男性だ。戸籍上は男女だから結婚が選べる。
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同性婚「権利認めて」「平等示すチャンス」 LGBTQ当事者たちの思い 2021/5/3
◇ 「女性・男性」⇒「女性・女性」の事例
「私は世田谷で育ちまして,現在も世田谷で暮らしながら,同性のパートナーと,かつての結婚でもうけた互いの連れ子三人を育ててまいりました。」
シンポジウム 同性カップルの法的保障を考える ~多様な家族が平等であるために~ ―報告書― 2017年11月22日 PDF
◇ 「男性・女性」⇒「女性・女性」の事例
「家族であり続けたい」結婚20周年の2人が、国を提訴すると決めた理由 2020年5月8日
「妻も男性だった夫に惹かれて結婚したのに夫が女になったらレズビアンになったの?」 Twitter
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異性愛者と同性愛者の結婚は、婚姻の本質を伴わないって、同性婚判決で言われてますし。
このおじさん、同性愛者だって主張してるんでしょ
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そこを認めちゃったら、同性愛者も異性と結婚できるんだから、異性愛者と平等だから、同性婚が無いのは違憲ではないという国の主張を認める事になるでしょう。
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「同性婚はなくても平等だって認める事になる」 Twitter
〇 「生物学的な性(セックス)」と「社会文化的な性(ジェンダー)」の違いについて
「性自認」や「性的指向」を理解するために、注意するべき問題がある。
そもそも「性自認」が「男性である」あるいは「女性である」という基準そのものが、生物学的な「男性」の多数派が有する内心(心理)に近い方を「性自認における男性」と分類し、生物学的な「女性」の多数派が有する内心(心理)に近い方を「性自認における女性」と分類しているだけのものでしかないといことである。
「性自認」や「性的指向」という分類も、もともと生物学的な「男性」と「女性」の区分が存在することを前提とし、その生物学的な「男性」や「女性」の多数派の有している内心(心理)を基準とすると、具体的な個々人の有する「性自認」や「性的指向」はどちらの傾向があるかという視点から便宜的に設定された分類でしかないのである。
「性自認」や「性的指向」とは、社会生活を送る中で個々人の心理特性を「性自認」が「男性」あるいは「女性」、「性的指向」の対象が「男性」あるいは「女性」という形に整理して表現することが有用であるという価値観に基づいて整理されている分類方法に過ぎないものであり、「性自認」や「性的指向」それ自体が独立して「男性」や「女性」という絶対的な区分を有しているわけではない。
そのため、「性自認」について自分が「男性」と「女性」のどちらにも属さないと考える者や、「性的指向」の対象が「男性」と「女性」のどちらに対しても向かう者もいる。
つまり、これは社会的・文化的に形成された性としての「ジェンダー」と同様に、個々人の内心の問題であり、生物学的な性別を示す「セックス」とは異なる問題であるということである。「性自認」や「性的指向」そのものに、明確な「男性」や「女性」という絶対的な基準が存在するわけではない。
そのため、突き詰めれば、 個々人の内心(心理)そのものに「男性」も「女性」も存在しないのである。
この議論は、特定の「ホルモン」が、「男性ホルモン」や「女性ホルモン」という名前で呼ばれている経緯に近いものがある。
「男性ホルモン」と呼んでいるものも、生物学的な「男性」の体内に多く存在し、身体に男性的な特徴を発現させる機能を持つホルモンに対して名前を付ける際に、「男性ホルモン」と呼んでいるだけのものである。突き詰めれば、「ホルモン」そのものは単なる化学物質でしかないのであり、「男性」でも「女性」でもないということである。生物学的な「女性」であっても、体内には「男性ホルモン」と呼ばれている化学物質を一定量は有している。
そのため、「ホルモン」そのものを突き詰めても、そこから「男性」や「女性」という基準となるものを導き出すことはできないのである。
また、「女性活躍政策」において「職場にも女性の視点が求められる」という場合には、生物学的な「女性」そのものが求められているわけではなく、「女性」の多数派が有する価値観や感覚が求められていることを意味していることが多い。
しかし、突き詰めれば、その価値観や感覚を生み出すその人の頭の中の脳そのものに「男性」も「女性」もないのである。
同様に、もともと「男性」や「女性」という区分は、人間の生物学的な分類のことを示す基準であり、この分類に従って区分けされた「男性」や「女性」の多数派の有している内心(心理)を基準(スタンダード)とした場合に、その基準に依存した形で、具体的な個々人の内心(心理)の特性を分かりやすく示すために「性自認」における「男性」や「女性」、「性的指向」が「男性」や「女性」などと便宜的に分類されているだけである。
「性自認」や「性的指向」とは、生物学的な多数派の持っている内心(心理)を基準となる指標(始点)として分類している時点で、もともと極めて相対的な概念として形成されているものにすぎない。「性自認」や「性的指向」そのものに絶対的な基準となるような判断要素となるものはないのである。
「性自認」や「性的指向」をいくら突き詰めても、そこから「男性」や「女性」という絶対的な基準を導き出すことができるわけではない。生物学的な「男性」や「女性」の多数派の有する内心を基準として考えることを離れて、そこから独立した絶対的な基準を見出すことはできないということである。
そのため、「性自認」や「性的指向」そのものは、突き詰めれば「男性」でも「女性」でもないのである。
憲法上(法律論上)は、個々人がどのような思想や感情を有しているとしても、「思想良心の自由(19条)」によって完全に保障されている。その個々人の内心の問題に「男性」や「女性」という区分はない。
法律論上で個々人の内心を捉える際には、生物学的な「男性」や「女性」の多数派が有している内心を基準として便宜的に分類された指標に頼って考える必要はなく、「男性」でも「女性」でもないそのままの内心の状態が、既に完全な状態として取り扱われているということである。
このことから、「性自認」や「性的指向」という内心の問題に基づいて法律論を組み立てることはできないのであり、この判決がこれを取り上げて結論を導き出そうとしている試みそのものが妥当でない。
【参考】「生物学的性別とジェンダーとをごっちゃにしてる人は多い」 Twitter
【参考】「心に性別などはありません。女脳とか男脳とか迷信でしょう。」 Twitter
【参考】「脳はそのひとにより男性的脳と女性的脳への寄り具合が違い、性別を分けるのは難しい」 Twitter
【参考】「心に性別があるという前提に懐疑的」 Twitter
【参考】「心に性別があるなら人種もあるのかな?」 Twitter
【参考】「ゲイやレズビアンやトランスジェンダーは、性別ではない。」 Twitter
根拠は不明であるが、心理的な男・女の割合を明らかにしようとするものもある。
〇 「ジェンダー」を「性」と表現することによる混乱について
合唱を歌う際に分類される音域がある。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(高音) ← ソプラノ アルト テノール バス → (低音)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
一般に「ソプラノ」と「アルト」は女性が歌い、「テノール」と「バス」は男性が歌うことが多い。
しかし、声変わりしていない男性が「アルト」を歌うことはよくあることであるし、中には「ソプラノ」を歌える男性もいる。
また、女性でも「テノール」や「バス」を歌える人もいるであろう。
このように、多数派の男性が「テノール」と「バス」を歌うとしても、「アルト」や「ソプラノ」を歌う男性もいるのである。
これと同様に、生物学的な「男性」や「女性」の多数派が有している心理特性と、個々人の心理特性が異なるタイプであることは普通のことである。
ただ、その心理特性を「男性」や「女性」と表現することは妥当でない。音域の「ソプラノ」や「バス」などと同様に、別の表現に置き換えて考えるべきである。
「ジェンダー」を表現する際に、生物学的な性別を意味する「男性」や「女性」という表現を用いると、混乱を招くことになるため注意する必要がある。
心理特性を表現するために、「ますらおぶり」や「たおやめぶり」の表現を参考として独自に新しく分類すると良いのではないか。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
← たおやめ型 ますらお型 →
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ただ、いくら「ますらお型」や「たおやめ型」と分類しても、結局個々人の心理特性に過ぎず、「思想良心の自由(19条)」の範囲内の問題である。そのため、これを法律論として扱うことはできない。
【参考】「私は私として存在価値がある」──中村美亜が語る、セクシュアリティの思い込みからの脱却。 2021年7月6日
人によっては婚姻相手を、年齢、身長、体型、顔、血液型、家系、出身地、性格、趣味、学歴、職業、年収、宗教、相性診断で選ぶ人もいるであろう。心理的個性を示す「ますらお・たおやめ型」(いわゆる性自認にあたるもの)も、その一つの要素に過ぎない。
法律上は、個々人を思想や感情によって分類している事実はなく、戸籍上の「男性・女性」のみによって審査されている。
〇 二つの定義による混乱
「性的指向」と呼んでいるものには、定義が二種類ある。
◇ 定義 A
身体的性別が異なる者を愛する場合を「異性愛」、身体的性別が同じ者を愛する場合を「同性愛」と考える。
◇ 定義 B
「性的指向」は「性自認」との関係で定義され、身体的性別が男性で性自認が女性の者が男性を愛する場合には「異性愛」と考える。
この札幌地裁判決は「定義 A」に基づいて説明を試みようとするものである。
このような複数の定義による混乱を回避するために、「ますらお・たおやめ型」で表現すると分かりやすい。
「ますらお・たおやめ型」について、詳しくは当サイト「性別と思想」で解説している。
判決の誤りを継承する解説
下記の内容は、判決の誤った論理に基づいて解説を行おうとしているため、ほとんどの論点で整理しきれない混乱が生じている。当サイトをお読みの方ならば、どの部分に整合性の乱れが生じているかを見抜くことができるはずである。
「結婚の自由をすべての人に」北海道訴訟判決についての弁護団声明 2021年3月17日 PDF
(「結婚の自由をすべての人に」北海道訴訟 判決についての弁護団声明 2021年3月17日)
「"同性婚認めないのは憲法違反" 初の司法判断」(時論公論) 2021年03月17日
同性婚の不受理、初の違憲判断に「一生忘れられない瞬間」 原告や弁護団にあふれた涙 2021年03月17日
同性婚訴訟違憲判決の全文解説 2021-03-17
札幌地判令和3年3月17日の感想(憲法・行政法の観点から)――「国民感情」vs「国民感情」の調整と、司法の本質 弁護士・公法研究者 平裕介 2021-03-17
同性婚訴訟判決文記録—札幌地裁令和3年3月17日— 2021.03.18
同性婚訴訟(結婚の自由をすべての人に訴訟)・札幌判決について 2021年3月20日
【同性婚訴訟】札幌地裁違憲判決を読む 2021.03.21
【弁護士が解説】「同性婚を認めないのは、憲法に違反する」判決はどう導かれたのか? 2021年03月22日
札幌地裁の違憲判決ってどういう意味? - 同性婚訴訟の判決の意味とこれからを寺原真希子弁護士に聞いてみた 弁護士 寺原真希子 2021/03/22
「同性婚の不受理は違憲」歴史的と言われる判決のポイントは?同性婚をめぐる法整備への第一歩となるのか? 弁護士 片島由賀 2021/03/25
(「同性婚の不受理は違憲」歴史的と言われる判決のポイントは?同性婚をめぐる法整備への第一歩となるのか? 2021年3月25日)
同性婚制度化への橋頭堡になるか 違憲判決の行方 谷口洋幸 2021年3月25日
婚姻から生じる法的効果の享受=同性婚? 京都産業大学 渡邉泰彦 2021年4月2日 PDF
(婚姻から生じる法的効果の享受=同性婚? 京都産業大学 渡邉泰彦 2021年4月2日 PDF)
同性婚に関する札幌地裁令和3年3月17日付け判決の概要 弁護士 下山田聖 2021年4月9日
「同性婚を認めないことは違憲」札幌地裁が画期的判決! 弁護士 加藤丈晴 2021年4月16日
同性婚訴訟、歴史的な札幌地裁判決を読み解く 過去に遡及することで導かれた「憲法違反」 中京大学教養教育研究院教授 風間孝 2021年04月19日
同性婚を認めないのは違憲(1)~研究者・当事者と考える判決のポイントとこれから~ 早稲田大学法学学術院教授 棚村政行 2021年04月19日
カラフルな結婚の形 2021/05/05
同性間に婚姻を認めない民法及び戸籍法の諸規定の合憲性 京都大学 中岡淳 2021年5月14日 PDF
札幌地裁令和3年3月17日判決(同性婚不承認違憲判決)についての覚書 2021-05-15
「同性婚を認めないことは違憲」札幌地裁が画期的判決! 弁護士 加藤丈晴 2021年5月24日
同性婚を認めない民法,戸籍法が,憲法14条(法の下の平等)に反するとした事件 弁護士 苗村博子 2021.7.21
(同性婚を認めない民法、戸籍法が、憲法14条(法の下の平等)に反するとした事件 PDF)
【会員コラム】「同性婚を認めない現行法は違憲」札幌地裁が画期的判決! 弁護士 加藤丈晴 2021.07.27
同性婚法制化への第一歩 同性婚訴訟札幌地裁違憲判決 弁護士 仲村渠桃 2021年7月
判例時報 No.2487 同性婚をめぐる初の憲法判断とその影響……加藤丈晴 2021年9月1日
いまだ根強い偏見 性的少数者が抱える課題とは 弁護士 皆川洋美 2021/10/08
(いまだ根強い偏見 性的少数者が抱える課題とは 2021/10/15)
【判例研究】同性婚を認めていないという不作為が憲法14条1項に違反するとされた事例 : 札幌地裁2021年3月17日判決 大野友也 2021-10-28
同性婚と憲法 (札幌地判令和3年3月17日) 中曽久雄 2021.12.27
日本国憲法と家族制度 法律婚批判の再考 植木淳 2021 PDF (P27~30)
「婚姻の自由」(日本国憲法24条)に関する覚書 ――いわゆる「同性婚」訴訟(札幌地判令和3年3月17日判時2487号3頁)を素材として―― 小堀裕子 2021年 PDF
<判例研究>同性間に婚姻を認めない民法及び戸籍法の諸規定の憲法適合性 中岡淳 2022.2.1
(<判例研究>同性間に婚姻を認めない民法及び戸籍法の諸規定の憲法適合性 中岡淳 PDF)
同性婚訴訟 法制化の議論深めよう 弁護士 辻智之 2022/4/17
同性婚訴訟判決についてのノート―札幌地裁令和 3 年 3 月 17 日判決は同性婚を要請しているか 今野周 2022.12 PDF
♦2022年度入試 出題速報 上智大学法学部 判決文の論理的な読解を求める問題が出題! 2022年2月5日
札幌地裁判決を踏まえた意見書 東京都立大学教授 木村草太 令和3年4月19日 PDF
【名古屋・第9回】原告ら第6準備書面(被告第4準備書面への反論) 2021年7月28日 PDF
【名古屋・第9回】原告ら第7準備書面(札幌判決の社会的影響) 2021年7月28日 PDF
【動画】3/18 結婚の平等へ。 同性婚を認めないことは 「憲法14条に違反する」#札幌0317 #結婚の自由をすべての人に 2021/03/18
【動画】令和2年度第14回司法書士人権フォーラム 明治大学法学部教授 鈴木賢 2021年3月20日
【動画】同性婚を認めないことは憲法違反?判決をわかりやすく解説【札幌地裁判決】 2021/03/21
【動画】全国初!?同性婚訴訟の判決文をざっくり紹介してみた!(憲法14条1項違反の部分のみ) 2021/04/26
【動画】倉持麟太郎「このクソ素晴らしき世界」presented by #8bitNews #10 この国の愛と法制度の現在〜LGBT理解増進法から札幌一部違憲判決まで 弁護士 倉持麟太郎 2021/6/16
【動画】動画「ぷれいす東京2020年度活動報告&トーク」公開 弁護士 加藤丈晴 2021/06/20
【動画】スイスや日本の同性婚への道のり Switzerland’s & Japan’s Path towards Marriage Equality 弁護士 加藤丈晴 2021/08/30
【動画】Why Must Japanese Couples Adopt the Same Surname? by Naho Ida and Makiko Terahara 弁護士 寺原真希子 2021/10/19
【動画】LLAN Sixth Annual Equality Gala -Presentation by Marriage for All Japan- 弁護士 寺原真希子 2021/12/19
(LLAN Sixth Annual Equality Gala 2021/11/30)
【動画】熊澤美帆講師に聞く!「結婚の自由をすべての人に」訴訟 伊藤真 2023/06/21
同性婚実現のためには「憲法改正が必要」は本当か? 札幌地裁が示した「違憲」の意味 弁護士 飯田亮真 2021年03月25日
この記事には、下記の批判が当てはまる。(判決の内容も誤っている点であるが、『同性婚』は法律用語ではない点に注意する必要がある。)
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①24条は同性婚を想定していない。従って、同性婚を明示的に禁じたものではない。
②24条は同性婚を想定していない。従って、同性婚は24条の婚姻ではない。
繰り返すが、それだけの話です。
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また、生物学的な性別を意味する「セックス」と、社会的・文化的な文脈で用いられる「ジェンダー」を区別できていない点にも誤りがある。
さらに、婚姻制度の設計について、「近親婚」や「複婚」、「重婚」を防ごうとする意図などを検討できていないようである。
第234号 同性婚訴訟 ~札幌地裁令和3年3月17日判決~ 広島大学法科大学院 新井誠 2021年6月28日
上記の記事は、記事全体の論理の内容は比較的高度に分析されているところがある。
しかし、下記のように述べており、この判決が「異性愛者」と「同性愛者」との間で「区別取扱い」があるとする誤った理解を前提としている部分がある。
「異性愛者間では認められる一方で同性愛者間では認められてこなかった、婚姻に伴う一定の法的利益の存在を確認し、その点に関して両者間で不合理な差別的取扱いが見られることを明示した点は、注目に値する。」
「本件の比較対象が、『異性婚を求める者と同性婚を求める者』とではなく、単に『異性愛者と同性愛者』とされている点である。」
「次に本判決は、そうした異性愛者と同性愛者との間の区別取扱いがあることを認めつつも、」
また、下記のようにも述べている。
「当事者の性的指向に従ったライフスタイルのなかで婚姻制度を利用できないか、あるいは、それによって生じる法的利益の獲得さえも叶わないという、個人の主観的性自認のみならず、その下でのパートナーシップに関する主観的価値を重視した実質的平等の視点からの判断であるといえる。」
しかし、「ライフスタイル」を持ち出すのであれば、「近親婚」や「複婚」、「重婚」についても「ライフスタイル」としても承認せねばならないこととなる。この点に対する考察が欠けているように思われる。
日本国憲法における「同性婚導入」と「パートナーシップ導入」―近時の裁判例とその先の議論― 村山美樹 2023.07.24
上記の記事には、「たとえ「パートナーシップ導入」と「同性婚導入」について、それぞれ憲法上違う評価がなされているとしても、前者は、後者へ向かうための一つの過程にすぎず、前者が憲法上合憲であるとされ、達成された場合には、平等原則をてこに、いずれ後者も達成されることになるかもしれないということです。」との記載がある。
しかし、このような形で「婚姻」の中にどのような人的結合関係でも含めることができることになれば、そもそも「生殖」に関わって生じる社会的な不都合を解消するという「婚姻」の概念そのものが有している目的の実現を阻害することに繋がる。
そのため、このような形で整合性の乱れが生じたり、制度の境界線が崩されることによって「婚姻」の有する立法目的の実現が不能になることは許されないことから、「婚姻」の中に含めることができる人的結合関係の範囲には内在的な限界が存在する。
そのことから、その限界を超える人的結合関係を「婚姻」とすることはできない。
また、日本国憲法でも、24条の「婚姻」の文言は「生殖と子の養育」に関わる制度を一元的に集約して規律する趣旨を有しており、24条の「婚姻」を離れて別の制度として「生殖と子の養育」に関わる制度や、影響を与える制度を立法することはできない。
よって、このような「パートナーシップ導入」を契機として「平等原則をてこに」「同性婚導入」を行おうとすることは、そもそも「パートナーシップ導入」を行おうとしている段階で24条の「婚姻」に抵触して違憲となるため、不可能である。
この点について、詳しくは当サイト「同性婚訴訟 東京地裁判決の分析」で解説している。
パートナーシップ制度の違憲性については、当サイト「パートナーシップ制度」で解説している。
同性婚をめぐる憲法上の議論―ドイツとの比較を通じて― 村山美樹 2017-05-08
上記の記事とこの論文は著者が同じで、論旨も重なっているため、ここで解説する。
(P13)
「というのも上述したとおり,連邦憲法裁判所は,婚姻の(異性性を含めた)一定のメルクマールを立法によっても,憲法変遷によっても変更できない「制度の核心」と認定してきているという経緯がある.生活パートナーシップの合憲性が問われた際,一面においては,まさに同制度が婚姻とは「別の制度」であり,このメルクマールを侵害することはないことを理由に合憲判断を下したのである.」との記載がある。
しかし、そもそもこの判断は誤っている。
憲法上に「婚姻」の文言がある以上は、「生殖と子の養育」に関わる制度については、その憲法上の「婚姻」の文言に一元的に集約して規律する必要があり、その「婚姻」を離れて別の制度として「生殖と子の養育」に関わる制度や、影響を与える制度を設けることはできない。
そうでなければ、「婚姻」を定めているにもかかわらず、「生殖」に関わって生じる社会的な不都合を解消するという「婚姻」の目的を達成することができなくなり、「婚姻」という概念そのものが機能しなくなり、その概念が成り立たなくなり、その概念自体が雲散霧消してしまうことになるからである。
(P17)
「婚姻解釈の限界」であるが、「子の福祉」「近親交配の回避」「生殖機会の公平」「母体の保護」という目的を達成するための手段として整合的な要素や、「生殖と子の養育」の趣旨がそれにあたるものである。
この論文で「メルクマール」と呼んでいるものはそれである。
これを超えるものは、そもそも「婚姻」とすることはできない。
メルクマールにあたるものについて、詳しくは当サイト「同性婚訴訟 名古屋地裁判決の分析」のポイントの「24条2項の「婚姻及び家族」の枠組み」の項目の図で解説している。
「婚姻」の定義や意味そのものを変えようとする試みについて、「説得定義」の議論も参考になる。
【動画】【ハイライト】憲法を変えるな!~安保法制違憲訴訟の勝利を目指して ―講演:石川健治 東京大学教授 2022.1.27
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