傲りのない国をつくっていくべきではないだろうか。傲りがあったならば、争いの素になると思われる。
強い国家観を打ち出していくのは、ある程度のブランド化にはなると思われる。しかし、いつの間にかブランド化することが目的となってしまい、多様な人々の考え方を受け入れない器の狭い思想になりやすいと思われる。そうなると結局、器が狭いことが原因となって国は豊かにならないと考えられる。
国家のブランド化それ自体が目的となり、一人一人の多様で自由な考え方や一人一人の幸せな生活を維持していくことが見失われてしまう状況には注意した方がよいと思われる。
「国」というものは、一人一人の自由で幸せな生活を実現するために、一つの共同体の単位としてつくり上げたものである。その土地に「人」が居て、その人たちが「国」という単位の共同体をつくったのである。
そのため、「国」というものがもともとあって、そこに後から「人」が生まれてきたわけではない。
「国」という共同体の単位は、人々がその地域で生存活動を維持していくために合意してつくり出した一つの形態に過ぎないものである。一定の地域の人々が集まり、共同体をつくり、「国」という単位に線引きしただけに過ぎない。「国」なんてものは、もともと地球上に存在しなかったものである。
そのため、「国」という単位は、社会を維持するための共同体の絶対的な形というわけではない。「国」という単位も、時代によってつくられたり滅んだりと、もともと流動的なものである。
そんな中、最も重要なことは、一人一人がより自由でより幸せな生活を送ることができるような基盤をつくることである。その基盤を構築するために、人々の意識の中に「国」という単位で共同体をつくり出すのである。
近年、「古来より日本は○○」とか、「大和の精神が○○」とか、「古き良き日本の伝統」とか、そのようなものを持ち出し、国家ブランドを形成しようとする動きがあるようである。
しかし、そのようなものはもともとより良い国づくりをしていくための根拠にはならない性質のものである。
「人々の幸せな生活」をつくり出していこうとする中で、日本的な考え方の傾向が自然に生み出されてきただけであり、人々が「伝統的な日本の精神」などいうもののために「国」という共同体をつくっているわけではない。そのような精神は、もともと存在していない。価値ある伝統など、もともと存在しない。誰かがつくったものに過ぎず、根拠にはならない性質のものである。
「より良い幸せな生活をつくり出していこう」という人の「意志」から、価値ある国がつくられていくわけであり、「日本の伝統が価値あるもの」だから日本の伝統を国家の価値観の根拠にしようなどというのは「国」という共同体の単位をつくり出した意義の本質を捉えることができていない主張である。そのため、伝統的な日本の精神があればすべて上手くいくなどという発想は、本質を誤っていると思われる。
ただ、「日本の伝統や文化」などを持ち出してくるモチベーションの背景には、「より良い日本をつくりたい」という意欲があると考えられる。その意欲は尊重すべきものと思われる。
しかし、そのような方法で、本当により良い国ができるのか、妥当性が疑問である。国家という共同体の本質的なメカニズムに対する十分な考察と理解が欠けているように思えてならない。
今後の国の形が、考察の足りない勘違いした国家観によってつくられてしまうことがなければよいのだが。
組織や国家をブランド化していく上で気を付けたいことがある。それは、物事や組織、制度などの品質を洗練させていくべきではあるが、自己陶酔するべきではないことである。
ブランドを読み解くとき、「そこには○○という精神がある。」などと解説されることがある。しかし、果たしてそれは本当だろうか。それはブランドをつくる一つの方法、一つの側面、一つの流派に過ぎないものだろう。もっと別のやり方、別の作り方、別の精神があるのかもしれない。それなのに、その「○○という精神」がいかにもすべてであり、それこそが素晴らしいものであるかのように錯覚してしまいがちである。
その精神が果たして妥当であり、物事を秩序付けるための万能精神になり得るものなのか、疑問である。むしろその精神に至る過程を見、その精神が作り出されるメカニズムや根本的にそれを作り出した人々のモチベーションを読み解く必要がある。精神それ自体が生み出される背景を知らずしては、将来に渡ってより良い精神を創造し続けることはできないはずである。
しかし、組織や国家の制度をつくり上げていく中で、あたかもその「○○という精神」が当然のように持ち出され、それこそがもともと万能で正しいものであるかのような主張を耳にすることがある。果たしてその「○○という精神」は本当に万能な性質を持つ正しいと言い切れるものなのであろうか。聞こえがよく、安易に否定しがたい良いとされる精神、誰かのつくり出したブランドにあやかろうとしているだけではないだろうか。その精神、そのブランドをつくり出している者たちがいるのに、その作り手の努力を無視し、ブランドがもともと存在しているかのように錯覚し、そのブランドに陶酔しているだけではないだろうか。
もともとそれらの精神、それらのブランドは、つくられた存在である。その精神、ブランドを自らの力によってつくり出していく努力なくしては、ブランドの価値はいずれ崩れ去るものである。そのため、何かの精神、何かのブランドを根拠に正当性を主張し、そのパワーに陶酔し、自らが果たすべき努力を怠る者には、とてもその本質的な有益性を生み出し、維持していくこととはできないはずである。
しかし、多くの者はブランドを手に入れたい。その精神を身に纏いたい。自分を価値あるものに見せたい。受け入れられない問題や対立する考え方の違いにかかる労力を、早く解決して切り捨てたい。だからはやくその力にすがりたい。
しかし、そういう気持ちは独裁的な支配者に利用されやすい。自分たちにいかに正当性があるかを強力に主張する指導者に、大衆先導的に支配されてしまいやすい。ブランド精神を味方にすることで、陶酔していく。その心地よさは多くの人を集め、その数の力が正当性やブランド価値をますます高めていくように感じてしまうものである。しかし同時に、その自己陶酔は視野を狭めていき、議論の努力を怠り、異質なものを排除する。そうなると、そのうちにその視野や理解の狭さから、自己崩壊を始めることになるだろう。しかし、その体制をいつ辞めるべきなのか、その体制への支持をいつ止めるべきなのか。それはその体制下では先に身を引いた者が損をする構造になっている性質上、チキンレースのような泥沼の状況に陥っていくのである。
この悲しい結末を回避するためには、もともと誰かのつくり出したものなのであるが「あまりに質がいいために絶対的な権威や価値だと見えてしまいやすい何らかのブランド精神」にすがろうとしてしまう多くの人々の中にある不足した感情や気持ちを他の何かで満たしてやらなくてはならないだろう。そのブランドに頼ってしまう人々の気持ちを何らかの形で満たしてやらなくては、この悲惨な結末を招く危ういモチベーションの高まりをなかなか回避できないのである。
物事の形を作り上げる際、ブランドの持つ精神を根拠にするのは、結局は対処療法的なものに過ぎない。ブランドにすがろうとする人々の抱える気持ちの原因をたどり、その原因を整えてやらずしては、物事の根本的なバランスを整えるような解決はできないだろう。原因をより深く追求し、その組織、その社会、その国家で一体どんな気持ちをもって生活している人がいるのか、その人たちが求めるものはどんな心の欲求に沿った行動なのか、それらを考えていく必要があるはずである。そしてその行動の先に危うさはないのだろうか。それらの心をつくり出しているもともとの原因は何なのか。そのもともとの原因を解決していくことで、この行きつきやすい悲惨な結果を防ぐことはできないだろうか。組織や国に起きているそれらの全体を深く見渡し、十分な考察の上により良い体制を築いていく必要があるだろう。
人の人権を保障するために憲法をつくり、国という枠組みを定義した。国という単位がもともとあって、その伝統や文化から人権概念を導き出したわけではない。単純に言うと、人々の幸せな生活を実現するために人間は共同体として村落を形成して生きているわけであり、村落がもともとあって、その村落の伝統や文化で人々の幸せな生活を実現しようとするわけではない。
その村落の伝統や文化は、人々が幸せな生活を実現しようとして営んできた道筋やその結果として存在するわけであり、道筋や結果から人々の幸せな生活の方法が生み出されるわけではない。環境に合わなくなったり、技術革新したり、村落の生活基盤や経済事情などが変わったら、当然に人々の幸せな生活をつくる営みの方法は変わるのである。伝統や文化は今のところたまたま続いているだけのことで、いずれ変わったり消滅するかもしれない。伝統や文化というものは人々の幸せをつくるにあたって当てになるものではない。
人々の幸せな生活をつくるために、つまり「人権保障をするため」に村落や国をつくるのである。人々の幸せな生活をつくるという意志こそが、もともとの意志である。その意志こそが人権を保障しようとする憲法をつくり出す根源的な立憲の精神であり、その意志の宿る憲法から国という共同体の単位を定義して生み出すのである。国というものも、人々の幸せな生活をつくり出そうとして生み出された企画の一つなのである。そのため、本来的には私たちの人権を取り扱う意志がどうなるかで、国という企画は大成功にも大失敗にもなりうるものなのである。
果たして「もともと国があって、その伝統や文化から人の人権が導かれるので、その伝統や文化を守ろう」と考えて人々の幸せが実現されたより良い国が成り立つのか。それとも「人々の幸せな生活をつくろうとする私たち自身の意志から人権概念をつくり出し、その人権の保障を実現するために国という形をつくる」ことで人々の幸せが実現されたより良い国が成り立つのか。
どちらの考え方を軸にした方が「国」という企画が成功するのかよく考えた方がいいだろう。
神、人権、法、国家、伝統、文化などの権威は、人によってつくり出されたものである。もともとそんなものは地球上には存在しなかった。単に、人々や社会をよりよく運用していくために、"それらしく"つくり出されただけなのだ。それに惑わされている人も確かにいるが、その本質は人によってつくられた権威である。権威のブランド・プロモーションに騙されてはいけない。それらを神秘的なものとして見るべきではない。価値あるもののように見せかける技術でしかないものを、もともとあるものと信じてしまっては、実はその権威をつくり出している者の意志によって成り立っていることを、いつまでも知ることができないだろう。
憲法の中に、「歴史や伝統、文化」などを尊重するように義務付ける規定を設けようという改憲案もあるようだ。しかし、もともと存在しないものを、もともと権威や価値のないものを、尊重させるように義務付けるのはいかがなものか。それらは国民の「思想良心の自由」を侵害するものである。尊重しない自由や、無関係に生きる自由を奪うからである。
単なるブランド・プロモーションやお化粧したような言葉に騙されてないで、それらの権威の本質がいかなるものかを見極めることが大切だろう。
「日本」という国も、一つの企画に過ぎない。そんなものはもともと存在しない。今のところその企画が続いているだけのことだ。
憲法で保障している「人権」なんてものも、もともと存在していない。「人権」という企画による「法的思考」が普及する以前の時代には、宗教の「神」、「仏」という企画が大ヒットしていた。それで社会を成り立たせていた。それだけのことだ。
少し前は、「神によって与えられた人権」という企画がヒットしていた時代もあったし、「自然法論」という企画がヒットしていた時代があった。しかし、それは科学的認識に沿わないとして「法実証主義」という企画が普及した時代もあった。
しかし、「法実証主義」という企画は、ヒトラーの台頭によって大失敗した経験がある。だから、再び「自然法論」という企画が注目され、現行の日本国憲法は「自然法論」という企画をベースにして生み出されている。
ただ最近の政治の動きをみると、「自然法論」を無視し、「法実証主義」的な多数決万能主義が力を増してきている。この企画は、人権侵害の大失敗に繋がる恐れがある。
今後、「日本国」という企画が大失敗にならなければいいのだが。
「宗教団体」は、「国家」とは違うのだろうか。
もし「宗教団体」が一定の支配領域を形成し、「国家」を名乗り始めた場合、それは現在の国家権力において排除し、是正できる性質のものなのだろうか。
なぜ、国家権力は主権(『最高独立性』の国内的最高性)を持っているのか。その権限基盤は、「宗教」の正当性とは異なるのか。
「人権」という概念は、「宗教」とは異なるのだろうか。「価値絶対主義」に基づいた信仰対象を持つ宗教は多いが、「価値相対主義」を採用する宗教も存在している。
「人権」という概念を価値絶対主義的に捉えた発想に基づいて憲法をつくり、国家を設立した場合、その秩序は人々の「思想良心の自由」を侵害することとなる。また、その絶対的な認識自体が、ある種の宗教性を帯びることとなる。
そうなると、法という秩序を形成していること自体が、他の宗教的な価値観と正当性の観念において違いはなく、その法に基づく国家権力が他の団体と区別された最高性を有しているとの確信は揺らいでしまうこととなり得るはずである。
「人権」という概念を価値相対主義に基づくものとして捉えた発想に基づいて憲法をつくり、国家を設立し、「人権」を建前としてのあたかも存在するかのように運用するものとした場合、その秩序は人々の「思想良心の自由」を侵害することはない。
ただ、一定のレベル以上の「宗教」は、絶対的権威に見えがちでありながらも、認識の相対性をもとに運用してる場合もあり、価値相対主義に基づく人権観とも似通っているものも存在する。
そうなると、「宗教」と「国家」との区別はできるのだろうか。
「国家」の正当性を基礎づける基盤として「国民主権」があるが、「宗教」にはそのような正当性を基礎づける基盤は存在しないことを理由として、「宗教」と「国家」の区別を論じようとする者もいるかもしれない。
しかし、「宗教団体」内部で、意思決定の際に投票行動が行われることもあり得ると考えられる。
また、「国民主権」を成り立たせる根本にある原理は、「人には人権がある」という認識を前提として、その「人権を享有する主体に主権(最高決定権)がある」と導かれているものである。このことから、「国民主権」を成り立たせている前提として「人には人権がある」という認識が存在することになるが、その「人権」という認識自体には、宗教性があるのではないだろうか。
しかも、その「人権」という概念は、たとえ人々の「主権(最高決定権)」を行使して行われる多数決原理の決定をも覆すことが可能な、奪うことのできないものとされている。
こうなると、やはり「主権(最高決定権)」それ自体が、国家権力の正当性を基礎づける基盤のすべてであると言い切ることはできない。
「宗教団体」がある一定の行為を行い、その行為が「国家権力」が制定した法の枠組みを超え、違法行為となった場合、「国家権力」が発動され、違法性を是正することとなる。
しかし、その「宗教団体」の内部の秩序や独自のルールの中では、その行為は正当化されている場合もあり得る。
そうなると、ここに、「国家」という秩序と、「宗教」という秩序の二つの秩序が相いれない価値観を基に対立する関係にあることとなる。
この場合に、なぜ「国家権力」は「宗教団体」の行った行為を、「国家権力」が自ら設定した基準でもって規制し、その基準を超えた場合に、それを違法な行為として認定し、他の秩序(ここでは宗教団体)に干渉することができるのだろうか。
逆に、「宗教団体」が自ら設定した基準で、「国家権力」に干渉したり、「国家行為」を抑止したりする可能性はないのだろうか。
この両者の正当性の基盤には、いかなる違いがあるのだろうか。
法律による違法性のラインの設定や、終局的な「国家権力」によって独占されている暴力装置の発動は、いかなる正当性を有しているのだろうか。
同じような構造の「宗教団体」が、支配力を持ち、同じような暴力装置の発動を行った場合、その力の競合の裏付けとなる正当性の基盤は、どちらが優位となるのだろうか。
この不安定な対立の中に、「国家権力」の最高性を確かなものとする正当性の基盤がいかなるものなのかを確認する必要がある。
追記
ここで取り上げている「宗教団体」の観念は、法律によって創設される「会社」などと区別することを前提としている。なぜならば、「会社」は会社法という法律によって創設される組織であり、その価値観は既に法秩序の枠内で活動することが前提とされているからである。憲法という価値観の枠組みを超えることを予定しているものではなく、「価値観 対 価値観」の構造にないからである。
もちろん、「宗教団体」についても、宗教法人法などの法律に登録し、憲法という価値観の枠組みを超えることを予定していない団体も存在する。
ただ、ここでは「憲法という思想の枠組み」そのものに対抗しうる「特定の価値観の集合」が現れた際に、その両者の正当性の優劣をどのように判定するかという部分に論点がある。この意味で、以前の時代には宗教が力を持ち、一定の地域を支配していた歴史が存在することから、ここではその価値観や実力を「宗教団体」と表現している。
<理解の補強>
普遍的価値だけでいい 視標「憲法を考える」 早稲田大教授 長谷部恭男 2018年5月2日