人権保障への意志





憲法を読み分ける


 「価値絶対主義」と「価値相対主義」の対立がある。最初、人は「絶対的に正しい万能の価値観」みたいなものを探し求めたがるのだけど、だんだん「価値観はそれぞれの主観であり相対的なものだ」と分かってくることってよくあるよね。まあ、そういうのって、一通り通る道だよね。


 それと同じように、憲法にも「価値絶対主義」と「価値相対主義」の対立がある。現行憲法は価値相対主義を採用していて、それぞれの人の考え方や価値観を尊重しながら、違いの中においてもなお人権を守ろうとする立場でつくられている。


 しかし、自民党改憲案は価値絶対主義的な考え方が色濃くつくられており、大多数の考え方を絶対的なものだとするような傾向が表れているんだ。これは絶対的なものだとして基準に沿わなかったものを切り捨てて排除しようとする差別的な視点が含まれている可能性があり、非常に窮屈な社会をつくり出してしまう恐れがある。この考え方で憲法がつくられてしまった場合には、「絶対的な基準」という多数派のつくった基準にもし自分が合わなかったら、どんな形であれ誰からも自分の価値観や自由の権利を認められることがなくなってしまうかもしれない。これはもし絶対的とした基準に合わないと大多数に判断されたらあまりに厳しい人生となってしまうよね。現行憲法のような「価値相対主義」の考え方を採用し続けていれば、絶対的な価値観を定義したがる人は一部に存在しながらも、「まあ、結局価値観はそれぞれの主観でいいんじゃないか」ってことになって、わりと穏やかに治まることが多いんですけどね。


 このように、価値絶対主義者は価値相対主義者を排除しようとするが、価値相対主義者は価値絶対主義者をも寛容に受け入れているんだ。だから、価値絶対主義者の主張が強くなってきている今の社会においても、価値相対主義者はある程度の寛容さを持ちながら価値絶対主義者の意見を丁寧に聞いていくというスタンスなんだ。しかし、価値絶対主義者は価値相対主義者の意見を十分には聞こうとしないことが多いようなんだ。まあ、自分の価値観が絶対的だと思っている傲りみたいなものですよね。傲りを指摘するのは、なかなか難しいじゃないですか。それに、もし価値相対主義者が価値絶対主義者に向かって、「お前たちは完全に間違っている。価値絶対主義なんて絶対に間違っている。」なんて主張してしまったら、それはまるで排他的で不寛容な価値絶対主義者のような物の言い方になってしまうじゃないか。価値相対主義者は価値観はそれぞれのものだからそんな言い方はしないんだ。だから、価値相対主義者の戦略としては、価値絶対主義者の排他的で不寛容な意見をも寛容に受け入れながら、価値絶対主義者の主張の欠点に理解を促していくという長い長い闘いをしていくことになるんだ。大変な労力がかかってしまうけど、そうでないと、価値絶対主義者の強引な力の危険性を平和的に取りまとめられないと価値相対主義者は分かっているからね。どうせ強引な主張に対して強引な主張で戦ったとしても、傲りのある無理解な多数派である価値絶対主義が勝ってしまうと分かっているんだよ。


 実は、無理解によって引き起こされるこの価値絶対主義と価値相対主義の複雑な対立が起きるこの状態を、現行憲法はもともと予定しているんだ。だから、価値相対主義を採用している現行憲法では、簡単には憲法を変えてしまうことができないように、改憲は「総議員の3分の2以上の賛成(96条)」という高いハードルを設けているんだ。現行憲法は価値相対主義者によってつくられた「価値相対主義の憲法」であるから、この価値相対主義の寛容な価値観を守ろうとしているんだね(憲法保障)。この簡単には変えられない仕組みを「硬性憲法」というんだけど、この硬性憲法の仕組みも、やっぱり少し時間稼ぎになるぐらいの役割しかもっていないんだ。だから、実質的にはその時間稼ぎで生まれた時間のうちに、十分議論を積み重ね、思慮の浅い乱暴な多数決によって少数派の人権が著しく侵害されてしまったりしないようにしないといけないんだ。価値相対主義者は、価値絶対主義者と様々に意見を交わし、価値絶対主義者にも価値相対主義の寛容さの利点に理解を深めてもらえるように努めていかないといけないんだ。でも、排他的で聞く耳を持たない価値絶対主義的な考え方の人たちに対して、そんな考え方を持っている人をも認めながら平和的に共存を目指そうとする価値相対主義者の考え方を理解してもらうのは、非常に大変で労力を要することだよね。それが、傲りのある者に理解を促すことの難しさなんだ。


 こういった議論を私たち国民がしないといけないのは、まさに今の時期なんですね。改憲の議論が盛んになっていて、その主な主張者が強引な多数決を行使する価値絶対主義的な考え方を持っている今の政治情勢こそ、私たち自身がそれらの対立に対して十分な理解を深めていくべき時なんだ。そして、理解のない人にも理解をしてもらえるように働きかけていかないといけない時期なんだ。


 まあ、本当にこの対立の本質を理解して価値絶対主義的な発想の憲法を支持する人は、それはそれでいいと思うよ。でも、もし価値絶対主義しか知らない人が無理解なまま価値絶対主義の憲法を支持して改憲してしまったら、後々自分たちも立場が変わった時に乱暴な多数派によって人権侵害を受ける側に立たされてしまうこともあるだろうから、後悔することになってしまうだろうね。そうなってしまってもいいのかどうかを、誰もが十分にシミュレーションしながら理解を深めていかないといけないと思うんだ。


 そういう、憲法観に含まれている「価値絶対主義」と「価値相対主義」の違いが分からない人に、なんとか分かってもらえるように試行錯誤して伝えていかないといけないと思うんだ。その努力をすることこそが、すべての人の人権を守るということにつながると思うんだ。その意志こそが、憲法以前にある本来的な人権保障実現の本質だと思うんだ。





価値絶対主義と価値相対主義

 憲法には、人権保障を実現するための複雑な意図が込められています。これを理解するためには、人が世界に対して抱いている「価値絶対主義」の認識と「価値相対主義」の認識の違いを整理して捉えていく必要があります。
 それは、「価値絶対主義」の認識の立場と「価値相対主義」の認識の立場では、人権概念に対する認識や理解、考え方が異なるからです。

 憲法とは、終局的には人の心に抱かれた意志によってつくられ、維持されているものです。そのため、この認識の立場の違いによって憲法観も変わってくるのです。



 ◆ 価値絶対主義

 「価値絶対主義」の認識を抱く者は、『誰もが賛成する絶対的な価値観というものはどこかに存在しており、議論していく中でそれを明らかにしていくことが大切である。明確にした価値観を多数決で決めたのならば必ず従わなくてはならない。』というような考え方を持ちやすいです。
 「価値絶対主義」は、絶対的な価値観を定義してそれが正しいと信じがちな点が挙げられます。
 また、明文化された法を機械的に適用することが法の正当性のすべてであると頑なに信じてしまいやすく、法実証主義的な多数決万能主義に陥りがちです。
 これにより、議論しても理解することができず、主張が合わなかった少数派に対して、排他的になり、差別的な切り捨て方をする危険性をもっています。
 そして、多数決原理を絶対視することによって、少数派の人権を強く侵害してしまう可能性が高いです。
 哲学において、「価値絶対主義」は古典的な考え方です。
 「価値絶対主義」の立場は、目的論的な心理を追求する傾向があることから、宗教学においては、キリスト教神学の世界観に近いといえるかもしれません。(多くの宗教は結局どちらの考え方も包括しようとしていますが。)
 「価値絶対主義」の認識を抱く人は、現代では既に人権という概念は存在していると信じており、そこに疑いを持たない傾向にあると考えられます。そのことから、人権が保障されないような恐怖政治が引き起こされることは歴史的に過去のものであると考えがちです。

<価値絶対主義のパターン>
 ・神による人権観の絶対性を信じる立場
 ・自然権の人権観の絶対性を信じる立場
 ・法実証主義の絶対性を信じる立場

 


◆ 価値相対主義
 「価値相対主義」の認識を抱く者は、『何に良い悪いを感じるかという価値観は人それぞれであり、議論してその違いを明らかにして最善の策を考えることを大切である。人はそれぞれ価値観が違うので、自分の価値観を無理やり他人に押し付けて強制することはしたくない。社会生活をしていく上では、それぞれの人の持っている価値観を尊重し、すべての人が納得のいく結論に至るまで十分な議論を深めてすり合わせていくことを常に大切にしたい。』というような考え方を持ちやすいです。
 哲学や心理学の視点では、目的論的な真理などは存在せず、概念のすべては「私がそう思っているだけ」、「私の思考した考え方や意見に過ぎないもの」として捉えています。
 価値相対主義の立場は、人それぞれの価値観の相対性を前提としています。そのため、価値絶対主義的なものの見方をしている人の存在をも、価値相対主義の立場から承認しています。つまり、価値絶対主義の世界認識で物事を考えている人の考え方自体を価値相対主義の立場から相対化して捉え、それを一つの価値観として許容するという考え方です。
 たとえ自分とは違った価値観を持つ人に対しても、その人の意見を一つの価値観として受け入れ、自分とは意見が違っていたとしても、その人の人権の保障を確保するための努力を決意しています。価値相対主義のそのようなスタンスから、多様な価値観を持つ人の意見に対して広く寛容です。
 哲学において、「価値相対主義」は、人間は結局、自らの認識と意志のみによって世界を構成し、形成していくという実存主義的な考え方に親和性が高いです。
 「価値相対主義」の立場は、宗教学においては、仏教的な世界観に近いといえるかもしれません。(多くの宗教は結局どちらの考え方も包括しようとしていますが。)
 「価値相対主義」の人は、人権侵害の恐怖は人々の認識の違いの中に常に現れるものであり、人権概念がある程度普及している現代においても、人権侵害が引き起こされてしまうことがないように不断の努力を要すると認識しています。

<価値相対主義のパターン>
 ・神をどう認識するかが人によって異なるため、神を根拠に人権観を形成することは妥当でないという立場
 ・自然権の人権観は、自然権の絶対性を信じる者とも調和的に法を運用できるが、自然権自体が建前に過ぎないという立場
 ・法実証主義は多数決の決定によって人権を奪うことも可能となる結果を生むため妥当でないという立場








価値相対主義の憲法

 現行憲法は、前文や97条、12条の記載から、価値相対主義」を採用していると考えられます。


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 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ

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 前文では、「再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、」や、「われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と、『決意する』という主観的な意志を採用しています。
 また、「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」「責務であると信じる。」「この崇高な理想と目標を達成することを誓ふ。」と、『思う』『信じる』『誓う』のように主観的なものの見方をしています。

 ここには、「法とはもともとそういうものだから信じなさい。」というような形で、この法を絶対的な価値観として読み手に押し付けようとする文言はありません。この憲法の『法』という考え方(価値観)を国民に強制するような内容は一切ありません。
 これは、この憲法が価値相対主義の認識によってつくられたことによるものと考えられます。『法』という価値観それ自体を、価値相対主義の認識を前提として打ち出そうとすることが表れている部分です。



 

 憲法は、人々の人権を保障することを意図してつくられた法です。
 しかし、もしその憲法が人々に対して「この法を信じなさい」と強制するようなことがあったならば、それは既に「思想良心の自由」という人々の人権を侵害したことになってしまいます。
 そのような法では、人々の人権を十分に保障することができません。
 そのため、憲法は国民の人権をより高い水準で保障するために、この法を信じない人や尊重しない人さえも、当然に許容しているのです。

 現行憲法が、敢えて国民に対して一律に憲法を尊重するよう求める規定を置いていないのは、価値相対主義の認識によってつくられていることによるものです。

 つまり、法というものも本来的には絶対的なものではなく、一つの考え方、一つの価値観から生まれた合意事としての制度であり、この法という認識自体がそもそも様々な秩序の在り方の可能性に開かれた中の相対的な価値観の中の一つにすぎないものであることを前提につくられているのです。

 そのため、国民はこの法を信じることを憲法によって強制されることはないのです。

 
 そういった価値相対主義の寛容な思想的基盤を基につくられている現行憲法は、


〇 人間不信に陥ってしまい、何者かに与えられた価値観などをまったく信じなくなった者も許容しています。
〇 様々な価値観や他者との認識の違いによって精神的に疲労し、抑うつ状態にある人の感じていることや考え方も許容しています。
〇 法の文言をかなりの深読み、裏読みなどをしようと企む者など、「政府にとっては都合の悪い穿った読み方をする人」の考え方や心理状態も許容しています。

〇 現在の国家体制に拒否感をもってしまい、国家とできるだけ関わりたくないと思いながら生活している人も許容しています。
〇 国家とは無関係に生きていきたい人も許容しています。

〇 憲法に込められた意図について、勘違いしている人や誤った理解をしている人も許容しています。

〇 そもそも憲法を知らない人や理解していない人、理解できない人も許容しています。
〇 この憲法を嫌い、支持せず、尊重しない人も当然に許容しています。
 
 現行憲法は、そういったあらゆる人を許容し、その者たちの人権をも等しく守ろうとする意志によって国家運営を行うことこそ、人々の自由や安全に対する侵害の極めて少ないより良い国家をつくることができるはずであるとの精神性を有しています。高い許容性を持って人々の自由や安全を保障しようとすることこそが、質の高い人権保障につながるとの哲学です。

 価値相対主義意志に賛同する人々を中核として国家運営を行おうとする姿勢こそが、そのような意志や決意を持っていない者に対して、この憲法の考え方に賛同するように強要するなど「思想良心の自由」を侵害してしまうことがなく、結果としてすべての人の人権を手厚く守ることができるはずであるとの考え方です。

 この価値相対主義の精神の寛容さは、様々な考え方を持つあらゆる立場の人々に対して許容性が非常に高く、より平和的(平穏)で人権侵害の少ない魅力的な国家をつくるにあたって重要なものです。


 これが、価値相対主義
の精神によってつくられた憲法の魅力であり、人々の意識を法秩序に結び付ける求心力の中核であり、人々が自然に従おうとすることによって法に効力が与えられ、安定した社会を実現していくための実効的な作用を生み出す根源的な力となっているものです。



 そのため、
価値相対主義の現行憲法は、価値相対主義の認識の中においても「人々の人権を保障しよう」と決意に至った者に対して、この憲法と共に、人権の保障された平穏で争いのない国家をつくっていくことを"呼びかけていく"という方針を採用しています。

 憲法に込めた価値相対主義意志に共感する者にこそ「共により良い国家をつくろう」と呼びかけていくことにしているのです。
 この法という考え方、この憲法の価値観、この憲法によってつくられる「国」という制度を支持する者や、この法という認識自体が絶対的な価値観というわけではなく様々な秩序の可能性の中に選択された一つの方法であるという相対的な価値観でしかないものであったとしても、なお、人々の人権を保障しようと努める決意のある者に対しては、この憲法と共に(この憲法を基に)、人権という概念が失われてしまうことがないように守り抜き、人々の人権保障を実現していくことを呼びかけているのです。

 

 その意志こそが、憲法に含ませた憲法制定権力の意図した主観的な決意であり、意志表明であり、宣言であり、呼びかけなのです。

 それらの文言に現れる価値相対主義者の人権保障への意志、言い換えれば、「気合い」によって法に実質的な効力が生み出されるのです。

 つまり、憲法制定権力の人々の観念、それらの意志から、「憲法」という法の効力の実体が生みだされ、その意志に共感する者たちによって法秩序がその社会の中で継続的に成り立っていくのです。

 


 この決意の意図を身近な例で例えてみたいと思います。例えば、学校の部活動や文化祭などの活動をするときに、メンバーがなかなか思うように動いてくれないことがあると思います。そんなときに、リーダーがルールに従うように強制したとしても、やはりメンバーはなかなか思うように動いてくれないことが多いと思います。しかし、強い思いを持ち、「すべての人の幸せに貢献する」との深い決意をもって取り組み始めた人がいたならば、だんだんとメンバーの動きも良くなって、その企画活動が出来上がっていくことが多いと思います。

 法という制度の効力自体も、まさにそのようなものであり、「人権保障」という人々の幸せを実現しようとする「本気の気合いを持った人」の存在によって成り立つものなのです。そのため、憲法においても、人々の人権保障を実現することへの深い決意に至り、宣言し、そしてまさにこの憲法制定権力とその決意を支持する者の本気度こそが、法というものに実質的な効力を持たせる力の源泉となるのです。
 価値相対主義を採用する現行憲法も、その意志こそが、この憲法下での「日本国」という企画を成功させる力になるとの理解を持ってつくられています。

 

 改憲派の中には、前文のこれらの文言を「観念的である」と批判している人がいます。しかし、まさにこのような趣旨から観念的である必要があるために敢えてそうしているものです。これは、法というものに対する価値相対主義の認識を示したものであり、観念的であること自体に何か非があるわけではありません。

 憲法という実定法として具現化されている『法』というものの効力の大本は、終局的にはそのように人々に対して"訴えかけるもの"でしかないのです。


    【参考】第289回 寛容 2019年9月2日


価値相対主義の憲法の寛容性

 

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 宗教的信仰または世界観ないし人生観も、差別の理由として不合理なものといえよう。民主主義は、宗教や、思想につき、相対主義的世界観を基礎とするものであるから、宗教的信仰や、根本的思想を理由として差別することは、民主主義の理念に照らして不合理な理由による差別と見るべきものであろう。

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憲法Ⅱ 宮沢俊義 (P264)

 


宗教的権威性を基にした人権観の価値絶対主義の憲法の不寛容性


 「価値絶対主義の憲法」のタイプには、「宗教的権威性」を基にした価値絶対主義以外にも、「自然法」の価値絶対主義、「法実証主義」の価値絶対主義や、「人治主義」的な価値絶対主義など、様々なタイプがある。上記の図は、その一つとして取り上げた「『宗教的権威性』を基にした人権観の価値絶対主義の憲法」である。


 ここで取り上げた『神』についても、多様な『神』の観念の一つとして、排他的な宗教観の中の『神』として取り上げた。寛容な『神』の観念もあることを忘れないようにしたい。






憲法尊重擁護義務を課す対象

 現行憲法は、この「法」という価値観自体も「絶対的なもの」ではなく、多様な価値観の一つに過ぎない「相対的なもの」であることを前提として生み出されています。そのことから、現行憲法は国民に対して「憲法尊重擁護義務」を課すことはありません。

 これは、「絶対的なもの」として強制しようとしない法認識で運用することこそが、人々の人権保障を真に確実にすることにつながるとの理解によるものです。


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この点、日本国憲法は国民が作った民定憲法なのだから、国民に憲法尊重擁護義務があるのはむしろ当然のことゆえ、99条は国民を含めなかったとする見解もある。しかし、99条は憲法に対する忠誠の名のもとに、国民の自由や権利が侵害されることを恐れ、あえて国民を含めなかったと考えるべきである。すなわち、日本国憲法はドイツ憲法とは異なり徹底した価値相対主義に立ち、いわば"憲法に敵対する自由"でさえも最大限に保障しようとしているのである。とするならば、日本国憲法は、国民には憲法尊重擁護義務を課していないと解すべきである。
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プライム法学・憲法 単行本 – 2007/4/1 amazon (P300)

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憲法尊重擁護義務の名宛人  憲法99条が憲法尊重擁護義務の名宛人として国民を挙げていないことの意味をどのように解釈するかについては、日本国憲法は、国民が憲法の最終擁護者であることを自覚しつつも、徹底した自由主義・相対主義の立場に立ち、憲法に対する忠誠の要求の名のもとに国民の自由が侵害されることを恐れた結果であると解し、したがって憲法秩序に反するというだけで団体及び政党を禁止するドイツ憲法のような行き方は、日本国憲法に馴染むものではない、とする見解がみられる。そこでは、日本国憲法は、自由や民主主義の敵には自由や民主主義を与えないというドイツ的ないわゆる「たたかう民主制」の立場を自覚的に拒否して、自由や民主主義といった憲法的価値を否定するような「憲法の敵」にまで、自由や民主主義を与えるという選択をあえて自覚的になしたものと理解されている、のである。
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やさしい憲法 [第三版] (P30)
 (やさしい憲法 単行本 – 2012/4/1 [第四版] amazon)

 
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つまり,憲法擁護の精神構造は日本国憲法にも存するが,それを公務員と同じレベルで構成することが,本来的に成立しないこと,さらに,国民の国家への忠誠は,国民の精神的な自由を認める日本国憲法とは本来的に一致しないものであることを,以下論証して行くことにする。
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憲法尊重擁護義務・再論 石村修 PDF (P47)

 

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1 憲法の尊重・遵守義務

 憲法第99条が「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と定めているように、憲法の名宛人(義務主体)は公権力の担い手(略して「国家」という)であった。ゆえに、「憲法上の権利」の名宛人も国家であり、国民は名宛人になっていない。第99条が「国民」を挙げていないのは、うっかり書き落としたわけでも、あまりに当然のことなのでわざわざ書かなかったわけでもなく、立憲主義の論理に忠実に従ったからである。憲法は公権力の担い手に対し国民が命令した文書なのである。

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『シリーズ憲法の論点⑧』人権総論の論点 2005年3月 PDF (P13)


 しかし、法は本来的に「権威を認めて自ずと従おうとする人」が一定数存在することによってしか社会の中で通用する実力として成り立たない性質のものです。

 そのため、もしその社会の中で誰も法の文言通りに行動しなくなってしまうと、その社会の中に法が普及しなくなってしまい、結果として、法によって人々の人権を保障することができない事態を招いてしまいます。
 そのことから、最低限、法を運用している者たちが憲法を尊重擁護して遵守している事実が求められます。

 そこで、価値相対主義の認識を前提としながらも人権保障を実現しようと試みる憲法の呼びかけ(訴えかけ)に共感して国政(国の機関)に集っているはずの者、つまり、価値相対主義の姿勢によってつくられた現行憲法の価値観に賛同する者として国政に集まっている「(天皇又は摂政及び)国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員(99条)」に対しては、「憲法尊重擁護義務」を課すことにしています。

 (天皇は『思想良心の自由』も制限されることがありますので、憲法の価値観に賛同しない自由はありません。天皇は例外です。)


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〔憲法尊重擁護の義務〕

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

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(現実には、これらの者の中でも、現行憲法が価値相対主義の精神によってつくられていることを知らない者もいるようです。)

 




 現行憲法は、この法自体も相対的な価値観の一つであることを示し、その価値相対主義の立場であってもなお国民の人権を守り抜くことを決意して国の統治組織に集おうとする"志高き者"だけに「憲法尊重擁護義務」を背負わせることにしています。

 これは、そういった法認識こそが、人々の人権保障を真に確実にすることができるものになるとの深い理解によって生み出されたことによるものです。


 憲法が「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員(99条)」に対して「憲法尊重擁護義務」を課す意図は、法を社会に普及させ、法の実効性を確保し、その効力の安定性を保つために最低限必要だからです。
 この「憲法尊重擁護義務」によってその運営者本人の自由(人権)を制約することとなるとしても、そもそも自由(人権)を保障するための基盤である憲法の秩序が保たれていなければ、自由(人権)を実現できない事態に陥ることから、その効力基盤を守るために最小限度の制約として許容されると考えられます。 

 ただ、
もしそれらの公職にある者が、「憲法尊重擁護義務」を負いたくなくなったならば、いつでもその地位を辞めることができます。法というものそれ自体も、絶対的な価値観ではなく、無数にある多様な価値観の一つに過ぎないことを前提としているからこそ、この法を支持したくなくなったときには、この法の制度を尊重擁護するという拘束を受けることを極力回避することができるようにしているのです。

 これも、質の高い人権保障を実現しようとする価値相対主義の憲法の仕組みです

 




公務員の憲法尊重擁護義務は必要なのか

 法の存立そのものがいかなる基盤の上に成り立っているのかを理解する必要がある。
 多様な価値観を保障するためのにつくられた近代立憲主義という思想そのものが価値観の相対性の上に成り立つべき一つの価値観でしかないものである。

 しかし、その近代立憲主義の価値観それ自体を法の運営主体である公務員等が否定した場合、社会の中で法の秩序それ自体が人々からの支持をも失いかねないこととなり、法の効力が機能しなくなることから、その社会の中で人々の人権保障が実現されなくなってしまうことに繋がる。すると、「思想良心の自由」や「表現の自由」などの人権が保障される社会基盤そのものが崩れ去ってしまうこととなる。

 このため、多様な考え方が認められるような、価値観の違いに対する許容性それ自体を確保するためにも、前提として近代立憲主義の思想に裏付けられた憲法基盤が必要とされるという考え方に行き着く。

 しかし、この考え方に行き着いた者がいなかった場合、近代立憲主義の憲法が成り立つことはない。また、その近代立憲主義の憲法の価値観を守ろうとする一定数の運営者がいなければ、近代立憲主義の憲法それ自体も社会の中で通用する実力として広まらず、効力を持つことはない。

 そのため、憲法は自らの意思でその地位を望んで職を得た公務員等には「憲法尊重擁護義務(99条)」を課し、近代立憲主義の法の秩序が社会から失われてしまうことがないように守ろうとしている。

 この義務は、その地位にある者に対する一種の人権制約とも見なすことができる。しかし、自らの意思でその地位を望んで職を得た公務員等であれば、その者の憲法に対する「思想良心の自由」や「表現の自由」などを一部で制限したとしても、自ら望んだという前提があり、いつでもその地位を辞めることができるという前提がある以上、職務に必要な最小限の制約として許容できると考えられる。

 

 法秩序の効力を維持しなければ、人々の多様な価値観を許容し、人権を保障するという社会基盤が保たれなくなってしまう以上、公務員等の「憲法尊重擁護義務」は必要と考えられる。





価値相対主義の寛容性


 価値相対主義の認識は、人それぞれの価値観の相対性を前提とする立場です。

 そのことから、価値絶対主義の世界認識で物事を捉えている人の考え方自体を、価値相対主義の立場から相対化して捉えることにより、それを一つの価値観として許容しています。

 価値絶対主義に基づいたものの見方をしている人の存在をも、価値相対主義の立場から承認しているのです。


 この価値観の根底には、たとえ自分とは違う価値観を持つ人に対しても、その人の考え方を一つの意見として受け入れ、その人がそのような考え方を抱くことを認めようとする気持ち(決意)があります。

 価値相対主義の認識から来るそのようなスタンスは、多様な価値観を持った様々な人々の意見に対して広く寛容です。



 現行憲法も価値相対主義の認識を基にして作られていると考えられます。

 

 たとえ自分とは違う価値観を持つ人に対しても、その人の考え方を一つの意見として受け入れ、その人がそのような考え方を抱くことを認めようとするところにこそ、その人の「思想良心の自由」という人権が確保されるという考え方です。これによって、初めてその人の人権が保障されることになります。

 このように、価値相対主義の寛容性の性質によって裏付けられる形で、多様な価値観を公平に共存させることができる基盤をつくり、それを確保するための努力をすることを決意することによって初めて、人権という概念が成り立ち、人々の人権の保障が実現するという立場です。


 現行憲法も、人権という概念を基にして人々の人権の保障を実現しようとする法という営みが、そのような価値絶対主義と価値相対主義の認識の対立の中にしか実現することのできない極めて難しい性質であることを深く理解した上でつくられていると考えられます。


 しかし、この価値相対主義のパラドックスは複雑な性質を有していることから、この価値相対主義を基盤とした形で人権という概念を成り立たせるための本質的な部分を理解でき、それを維持し、運用していくことのできる者は極めて少数です。

 これは、価値相対主義の発想は、多数派を形成しやすい価値絶対主義者の抱く認識や無理解によって窮屈な立場に追いやられたり、差別や圧迫を受け続けるという抑圧された苦悩の中に生まれる(到達する)ことのある認識であり、その性質上、どうしても少数派であることが多いからです。


 この現行憲法は、人権という概念の性質を97条に「過去の幾多の試練に堪へ」てきた「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と表現しています。

 これがまさに、現行憲法の意図する人権という概念が、この複雑な認識の対立の上に成り立っているものであることを示しているものです。

 この97条は、絶対的な価値観を追い求めようとする中に置かれた抑圧された心理的な危機(限界状況)から、哲学の実存主義の生き方へと通じる過程と重なる表現の見られるところと考えられます。


 価値相対主義の認識を持つに至った人の「人権の保障されるより良い社会をつくり上げていこう」という決意の意志こそが、人権の存在根拠となっていることを暗示する部分です。

 ここがまさに決意の意志が現れた部分です。


 また、12条では「自由及び権利」(人権)を「不断の努力によつて」「保持」する必要があると記しています。
 これは、価値相対主義者の認識に至った者は、為政者の恣意的な権力行使による人権侵害や価値絶対主義者の抱く排他的で不寛容な価値観による差別や圧迫、多数決原理の数の暴力によって、弱者や少数派の人権が虐げられて犠牲となることが再び繰り返されることがないように、人権侵害の脅威に立ち向かい、闘い続けていくことが求められていることを示すものと考えられます。



 このように、97条と12条は、人権という概念が先人たちの意志によって生み出されたものであり、「不断の努力」によって保たれることで成り立つ性質のものあることを示しています。

 そして、その人権という概念の本質的な部分は、価値相対主義の認識を持つ少数の者によって創造され、その後も価値相対主義の認識を持つ少数の者によってその社会の人々の間で"人権は存在する"と信じ続けられるように「不断の努力」によってコントロールされることで、何とか保ち続けられる性質のものです。 

 現行憲法の価値相対主義の精神には、たとえ極めて少数派であっても、その価値相対主義者の強い意志と努力によって、(意見の違う)価値絶対主義者の抱く不寛容な意見をも寛容に受け入れることを決意し、その価値絶対主義者の人権をも同じく保障しようとする強く深い思いが込められていると考えられます。


 人権保障を実現していくためには、人権という概念がどのように維持されているものなのかということに深い理解を持つことが必要です。

 そして、その理解を持った私たち一人一人が、人権という概念を確かなものとして今後も維持していこうとすることこそが、人権が保障されるより良い社会をつくり上げていく力になるのです。



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・憲法尊重擁護義務を定めた99条に「国民」はない。憲法は政治家など権力を行使する者を縛っているからで、国民はそれによって権利と自由が守られる者だからである。

・憲法学者が国民の目線に立って、「政府は憲法を守れ」と主張することは当然である。憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と国民に護憲運動を促している。
・裁判官に義務が課せられているのは権力機関だからである。憲法の番人が立憲主義に反する可能性があることはおり込み済みである。そのために12条がある。
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永田秀樹(関西学院大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日

 

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が、日本国憲法十二条が、「国民の不断の努力」による自由・権利の保持を強く呼びかけながら、憲法全般の尊重擁護に関する九九条において国民を含めなかったことにはそれなりの理由があると解すべきである。つまり、日本国憲法は、国民が憲法の最終的擁護者であることを自覚しつつも、徹底した自由主義・相対主義の立場に立ち(もっとも、憲法の定立自体は単なる相対主義ではない)、憲法に対する忠誠の要求の名の下に国民の自由が侵害されることを恐れた結果であると解されるのである。したがって、憲法的秩序に反するというだけで団体及び政党を禁止する西ドイツの憲法のような行き方は、日本国憲法になじむものではないと解される。

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現代法律学講座 憲法〔新版〕 佐藤幸治 青森書院 (P46)

 





価値絶対主義の憲法に改憲するのか
 

 今までの時代よりも人権保障の質が悪くなってしまうことは、この国に住む誰もがあってはならないと考えるはずです。人権保障の水準を確保したいという思いは、新憲法を制定したいと考え、憲法草案を発表する者も同じであるはずです。


 しかし、今日の改憲の動きには人権の本質を見誤り、改憲論者自身の人権をも犠牲にしかねない危うさがあります。


 それは、改憲論者の提案する憲法草案の中には、価値絶対主義的な視点を多く含み、排他的で意見の合わない人への許容性が非常に低いと感じられるものがあるからです。特定の価値観を押し付けるような前文や条文が目立ち、憲法それ自体が、人々の「思想良心の自由」を制限してしまうものとなってしまう側面が見受けられます。


 その特定の価値観を絶対視している人は、その価値観で国の色を統一したいという思いがあるのだと考えられます。しかし、そこには価値絶対主義による個々人の価値観を尊重しようとしない不寛容な意志が働いていると思われます。これは人権保障を損なう極めて危険な価値観です。


 これは、価値絶対主義者が国家の士気を強くしようとする際に、絶対的な価値観で国の色を染めて国民の同調を強制し、意見の合わない者の人権を犠牲にすることにも繋がるものです。


 価値絶対主義的な改憲論者に対しても、憲法の本質を見誤った一時的な政治勢力が短絡的に改憲を行ってしまうことは、後々その価値絶対主義的な改憲論者自身の人権をも侵害する憲法となってしまいうことを知ってもらう必要があると考えます。

 人権が侵害されてつらい思いをしてきた人類の長い歴史や、民主主義によってもなお発生するナチスの悲惨な歴史などを学び、過去の自分の無理解な決断によって苦しい思いをする危険があることを知ってもらう必要があると思います。

 今後の日本社会が、強硬な価値絶対主義的な改憲論者の先導的な政治によって、憲法の人権保障の本質を見誤り、人々の人権保障の質が下がってしまうことになってはならないはずです。そのような事態に陥ることを危惧します。

 

価値絶対主義と価値相対主義のパターン α


① この考え方は、究極的には多数決原理による憲法改正によっては、少数派に対する人権剥奪をも可能とする点で、憲法の人権保障という役割を損なわせてしまうこととなる。憲法の文言に従えば、何もかもが正当化されるため、法改正によって大量虐殺なども可能となってしまう点で妥当でない。


② この考え方は、憲法の意味を、正しく読み解くことのできない者が憲法の指示に従っていることとなる。しかし、憲法改正を行う者は、価値相対主義の憲法であることを理解していないので、価値絶対主義の憲法へと改正してしまい、①と同じ状態を招いてしまう可能性が高い。


③ 価値絶対主義の憲法を価値相対主義で読み解くことは可能である。しかし、それではそもそも憲法に従って行動しようということにならないので、法の支配が成り立っていないのではないかという疑念を招く。「憲法を守ろう」というスタンスがないので、法の効力が弱まったり、失われてしまいかねない。


④ 価値相対主義の憲法を、価値相対主義で読み解くことは可能である。ただ、何もかもが相対的な価値観であるとすると、そもそも憲法を守る必要がないということにもなりかねず、法の秩序の求心力を低下させてしまう可能性がある。


⑤ 現行憲法は価値相対主義の憲法であるが、それを読み解けないものに対しては、価値絶対主義の憲法であるかのように考えてしまうことを許容している。それによって、法に効力がもたらされるならば、人権保障を実現するためにも都合が良いと考えるからである。しかし、価値絶対主義者が価値絶対主義の憲法へと改正してしまうことがないように非常に注意を要することとなる。なぜならば、価値絶対主義で憲法を守ろうとする人の存在は、法の効力を維持するためにはある程度都合がよいのであるが、価値絶対主義の憲法へと改正してしまったならば、たちまち多様な価値観を許容する寛容さが失われてしまい、人権保障に繋がらなくなってしまうからである。


 現行憲法は、これを理解した者に対して、「自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(12条)」として、この矛盾の中に保たれる人権という概念の保持を訴えかけることとしている。

価値絶対主義と価値相対主義のパターン β


 ①②③は、価値絶対主義者と価値相対主義者の関係のパターンである。②に見られるように、価値相対主義者は、価値絶対主義者に向き合う際に、苦悩を強いられることとなる。


 ④⑤は、価値絶対主義者のつくった憲法の影響である。④のように、価値絶対主義者同士の価値観が完全に一致していた場合、強い連帯感を生むこととなる。しかし、⑤のように、価値絶対主義者同士の価値観が一致しなかった場合、激しい対立を生むこととなり、憲法の強制力も強いことから、双方に大きな犠牲を生むこととなる。


 ⑥は、価値絶対主義の者によってつくられた価値絶対主義の憲法観である。しかし、その憲法の適用を受ける者の中には価値相対主義者もいると考えられ、その強制力は価値相対主義者の人権を奪うこととなる。その憲法の価値観と同じ考え方を持つ者以外は、すべて被害を被ることとなる。


 ⑦は、価値相対主義の者によってつくられた価値相対主義の憲法観である。その中では、どんな価値観を持とうと、たとえ絶対的な価値観を持とうと、その憲法はその者の人権を寛容に保障する。現行日本国憲法はこのスタンスで形成されている。


 ⑧は、価値相対主義の者によってつくられた価値相対主義憲法の考え方や解釈が、価値相対主義者同士の中で違った場合の憲法観である。価値相対主義者同士は、価値観の不一致があったとしても、互いの考え方を尊重し、互いの人権を保障し合うため、被害を被ることとなる人は極めて少ない。ただ、価値相対主義の者は、人類の中でも少数派であり、この次元で法を運用できる者は多くない。


 ④+⑥+⑦であるが、これは、「価値観の一致する価値絶対主義者同士の強い連帯感」によって、少数の価値相対主義者が強い弾圧を受けることとなってしまうことを示したものである。多数派である価値絶対主義者の一致した価値観によって、憲法改正が行われ、価値相対主義憲法から価値絶対主義憲法となってしまうと、価値相対主義や少数派に対して著しい犠牲を引き起こす恐れが大きい。この脅威とは、常々付き合っていかなくては、近代立憲主義の言う価値相対主義の憲法や人権保障の本質を守り抜くことはできない。



 この場面で完全に一致するかは分からないが、上記と似ている部分として、憲法学者「木村草太」の解説を参考にする。

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 そういう意味で、国民が主権を持っているとか、民主主義と言っただけでは内容は全く定まらない。民主主義とか国民と言ったときに、それを定義する何らかのルールがある。そのルールが憲法です。ですから、実は今、対立がもしあるとしても、それは憲法と民主主義が対立しているのではなくて、憲法Aを守れという立憲主義Aと、憲法Bを守れという立憲主義B、それが対立をしているということです。
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 これは立憲主義と民主主義という対立ではなくて、今ある憲法と、他者を排除するタイプの憲法Bの対立です。今、問われているのは、日本国憲法のこの他者の視点を置きつつ統治を進めようという、民主主義でもあり立憲主義タイプの憲法Aと、技術としての法を無視するタイプのもう一つの憲法Bが対立をしている。この二つの憲法が対立しているという状況だと思って、今後の政治状況を見ていく必要があるのではないか。
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【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(4)】――二つの憲法の対立 2014年10月31日 (下線・太字は筆者)





価値相対主義の苦悩


〇 信念体系が変われば、真理も変わる。そこが価値絶対主義と価値相対主義の難しさだ。しかし、価値相対主義者は、自分が以前は価値絶対主義の認識をしていたことから、その欠点と傲り、残酷さと無理解に気づいている。だからこそ、価値相対主義者は価値絶対主義者に対して寛容な態度を取ると同時に、その無理解と闘い続ける決意を持つのだ。その決意に至ることができるのは、価値絶対主義者であった過去の自分がその時はその時で一生懸命に生きていたということを知っているからである。だから、そんな過去の自らを一段高い位置から守るかのように、その時の自分と同じような認識を持つ価値絶対主義者を排除することがどうしてもできないのだ。


〇 価値相対主義者は価値絶対主義者を理解しているが、価値絶対主義者は価値相対主義者を理解できない。そのような関係で、価値相対主義者の方が視野が広く、理解が深く、寛容性がある。しかし、価値絶対主義者はそういう事情にあることさえ理解していない。この対立が難しい問題である。価値相対主義者は、この対立を調整するために、価値絶対主義者の認識世界を様々な意図や働きかけを使って運用していく必要がある。それに堪え得る理解をもたなくしては、価値相対主義者は無理解な価値絶対主義者の行動によって困難な立場に追いやられてしまうからである。


〇 価値相対主義は、価値絶対主義の世界認識を前提に理解される立場である。よって、認識の段階としては一次元高い位置にある視点である。しかし、それを優越しているとして価値絶対主義を差別し排除しようとすることができない寛容の精神があるところが価値相対主義の視点である。そのため、価値相対主義者は常に価値絶対主義者の攻撃を受け続けるという理不尽で苦難の多い立場に立たされるのである。価値絶対主義者の不満や苛立ちなどの認識も理解でき、それによってもたらされる価値相対主義者の自分への攻撃にも耐えなければならないという、二重の苦痛を引き受けることになる。そしてその苦悩を、価値絶対主義者には決して理解してもらうことができない。それが価値相対主義という認識に至った者の苦悩なのだ。

 


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㈡ 第二は、その民主主義ないし民主制を支える相対主義は世界観であり、 主としては実践理性の問題として捉えられていることである。

 「相対主義はあらゆる立場に対して寛容ではあるが、相対主義の立場そのものを否定する立場に対してまで寛容であることはできない」という先生の考え方、いいかえれば、「その信念や確信━━いわば、その信ずる『神』━━を相対化し、相対主義的世界観を受け入れることを肯んじない人は、けっして民主制の友となることができない」という立場は、相対主義が「ひとつの『主義』として、あるいは世界観として、終局的には、どこまでも信念であり確信である」以上、当然の結論である。したがって相対主義は、それを否定する立場に対しては、「どこまでも、みずからの立場の存立を維持するために、抵抗しなくてはならない」のである。これは相対主義的世界観の限界にほかならないが、外から加えられた制約ではなく、「みずからに内在するところの当然なワクに他ならない」(前掲「世界観と政治観の相関関係」)。先生の「たたかう民主制」の考え方はここから出てくる。「民主制が民主制であることをやめずに、民主制への攻撃に対して有効にたたかうことができるか」、という民主制の本質から出てくるジレンマを十分に意識しつつ、「民主制は、militant であり、wehrhaft であり、kämpferisch であり、さらにauthoritarian ですらある必要があるだろう」、と先生は説かれる(前掲「たたかう民主制」)。

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憲法制定権力 芦部信喜 1983/1/1 (P189) (宮沢憲法学の特質Ⅷ) (下線は筆者)





価値相対主義者の戦術

 価値絶対主義者に対しては、他者に対する自身の主張が、反転可能性テストの立場の入れ替わりによって成り立たない点を指摘していく方法があるだろう。そして、その矛盾を突き付けられたときにそれを越えていく寛容さが求められることを徹底的に明らかにしていく必要があるだろう。価値絶対主義者は多数派であることなどの絶対性を信じがちであるから、論理による整合性がないという証明を感情的になってすぐには受け入れられないこともある。ただ、その点を示し続けることが、価値絶対主義者に対する価値相対主義者の戦術となるだろう。

 
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 これは、自分の他者に対する行動や要求は、もし自分が他者だとしても拒絶できないような理由によって正当化可能なものでなければならないという「反転可能性」の要請を含意します。「集団的決定」とは、政治的競争の勝者の決定を敗者に押し付けることです。しかし、勝者は何をしてもいいわけではない。もし自分が敗者だったとしても、その決定を尊重できるのか、という反転可能性テストに耐えうることが要請される。これが「正統性」の基礎です。
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緊急提言 憲法から9条を削除せよ - 井上達夫(東京大学大学院法学政治学研究科教授) (太字は筆者)





価値相対主義の強さ

〇 警察の精神

 警察の精神は、たとえ犯罪者であっても、その人がそれ以上の罪を犯して刑期が長くならないように配慮しながら捜査や取り締まりをする決意がある。下手に刺激して事態を悪化させないように捜査することを訓練されているのである。この意志が、限りない寛容の精神を持った価値相対主義の真の強さである。


〇 自衛隊の精神

 自衛隊の精神は、自衛隊の存在に反対する人をも、災害や外国の脅威から守ることを決意している。この意志が、限りない寛容の精神を持った価値相対主義の真の強さである。


吉田茂 「若き自衛官へ 」

〇 ヴォルテールの精神

 哲学者ヴォルテールは、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と決意している。立場や意見の違う者に対しても人権を保障しようとする価値相対主義の根本的な寛容さによるものである。これがすべての人の人権保障を実現しようとする価値相対主義の真の強さである。


〇 現行憲法の精神
 現行憲法の価値相対主義の精神には、現行憲法を支持しない人や価値絶対主義の人であっても、同じく人権侵害の脅威から守ることを決意している。この意志が、すべての人の人権保障を実現しようとする限りない寛容の精神を持った価値相対主義の真の強さである。よって、国民には憲法尊重擁護義務を課すことはない。


 ただ、この憲法の思いに賛同し、この法制度を支持し、公務員等になろうとする者には、憲法尊重擁護義務が課せられ、この決意が求められる。正確には、もし現行憲法の価値観を絶対的なものと尊重しようとしても、その憲法自体が価値相対主義に裏付けられているため、結局、価値相対主義の決意に至るという側面がある。


 公務員等にこの義務を課す背景には、憲法という価値観自体が一定数の支持を持って運用されていなければ、人権を守るはずの法の効力が社会の中に普及しない事態に陥ってしまい、結果として人々の人権を保障することができなくなってしまうという事情がある。この義務を課せられることによる自由の制約は、憲法という一つの価値観でしかないものによって支配されることが前提となっている公務員という職務を自ら望んだ者であるならば、最小限のものとなるため許容されると考えることができる。


 価値相対主義の精神には、自分を嫌い、攻撃してくる者をも排除せず、その者を大切にしようとする深い寛容の精神があります。

 例えるならば、子供が自分の父親のことを嫌いであったとしても、その父親はそのことをもって子供に酷く当たったりすることはあまりないでしょう。それは、たとえ嫌われても、一段高い位置から、その子供の安全や生活を保障することを覚悟しているからであると思います。
 現行憲法には、価値相対主義のこのような一段高い位置からの達観した視野こそが人権保障を確実にすることができるものなのだとの精神が含まれています。

 自分が実は価値相対主義者によって守られていたことに気づくとはこのことです。



 自衛官や警察官は憲法尊重の宣誓をしています。しかし、もし憲法からこのような一段高い位置から人の人権を保障しようとする達観した視野を持つ価値相対主義の寛容の精神が失われてしまった場合、自衛官や警察官は「憲法を尊重しない国民をも守る」という価値相対主義の憲法の考え方に裏付けられた決意をしなくなってしまうかもしれません。この価値相対主義憲法の考え方を基盤とする達観した決意という強い意志による精神的基盤が失われてしまうと、「憲法に批判的な考え方を持っている国民」や「憲法を支持しない国民」をも助けようとする気高さが失われてしまう可能性があります。すると、今まで勝ち得てきた自衛隊や警察組織への国民の信頼やその求心力を失わせてしまうことにつながってしまうと思われます。


 特定の価値観を色濃く反映し、他を受け付けないような価値絶対主義的な価値観の憲法にしてしまうと、「憲法を理解せず、尊重しない国民もいるだろう。しかし、我々はその国民をも守ることを決意する。」というような、価値相対主義の寛容さを含んだ強い決意に至ることができないのではないかと思われます。憲法の精神が価値絶対主義で染められてしまうと、「憲法を尊重しない国民は非国民。」として、自衛官や警察官が国民に対して強権的な行動に出る可能性も否定できなくなってしまうのです。そのため、価値相対主義の寛容の精神をもった憲法の形を維持することが賢明であると思われます。


服務の宣誓 Wikipedia


自衛隊法

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(服務の宣誓)
第53条 隊員は、防衛省令で定めるところにより、服務の宣誓をしなければならない。

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警察法
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(服務の宣誓の内容)
第三条 この法律により警察の職務を行うすべての職員は、日本国憲法及び法律を擁護し、不偏不党且つ公平中正にその職務を遂行する旨の服務の宣誓を行うものとする。
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権利と義務は対価関係なのか


 人権保障は、取引のような「Give and Takeで成り立つ」という性質のものではありません。価値相対主義の精神によって、「人権の大切さを知っている者が、それをまだ知らない人をも守る」ということで成り立つ性質のものです。


 しかし、いくらかの政党の改憲草案には、「権利には義務が伴うことを自覚し、…」などと、権利と義務を対価のように扱う考え方によってつくられているものがあります。これは人権という概念を成り立たせている本質的な部分に対する理解が十分ではありません。


 人に権利が与えられることと同時に義務が課せられる性質のものは、民法の債権の分野での「双務契約」の考え方です。対価関係にあるもの(売買や交換、労働契約など)をやり取りするときにしか通用しない考え方です。


 これは人権保障のためにつくられた憲法の人権観とは考え方のベースがまったく異なります。人が生まれながらに持つとする建前の人権概念は、取引するような性質のものではないからです。


 民法の「権利・義務」が発生する主体となる『自然人』や『法人』は、もともと憲法の「人権」という概念を根拠として導き出したものです。そのため、「民法」は「憲法」が存在しないと成り立たないものです。それを、民法の「双務契約」に関わる取引の考え方によって、憲法の「人権」をつくろうというのは不可能であり、やはり間違った認識です。


【参考】「権利行使には義務が伴う」というフレーズに対するよくある誤解 2012-12-08

【参考】人権の水準は世界が進んで、日本は遅れ始めている。  2018年10月14日

【動画】伊藤塾塾長 伊藤真 特別講義「行政書士と憲法」 2021/02/23

【参考】「憲法上の権利に義務は伴わない。例えば表現の自由に義務は伴わない。あるのは他の権利との調整のための規制。」 Twitter