【このページの目次】
〇 用語の整理
〇 「基本的人権」と「自由及び権利」
〇 人権は国民だけのものなのか
〇 第三章「国民の権利及び義務」の主体
〇 第三章「国民の権利及び義務」の並びの目安
〇 第三章「国民の権利及び義務」の義務の位置付け
〇 個人の尊厳
〇 人権のイメージ
〇 「公共の福祉」の意味
・「公共の福祉」の意味の捉え方
・対立する主体は何か
〇 「公共の福祉」による審査
・権利の性質による違い
・目的と手段を特定する方法
比較衡量論
二重の基準論
・違憲審査の手順
・判例の言葉遣い
・目的と手段を特定する作業に失敗しないためのポイント
・「公共の福祉」による調整の例
〇 長谷部恭男の人権制約原理が分からない
用語の整理
憲法を学習する際に、人権に関する言葉の意味がよく分からないままとなっていると、学習に躓いてしまいやすい。そのため、ここで整理する。
〇 人権(憲法中にはない)
一人ひとりの人が本来的に持っているとして合意されているとされる、他者に侵害されない自由などをいう。
非常に幅広い意味で用いられる。人権という言葉は、基本的人権の中に含まれる一部分の自由を限定して抜き出して示す際にも使われることがある。
人権 Wikipedia
〇 基本的人権(11条、97条)
人権とほぼ同じ意味である。基本的人権という言葉は、人の持つ自由を包括した言葉と思われる。
〇 基本権(憲法中にはない)
人権や基本的人権とほぼ同じ意味である。憲法上に示されている権利を意味して用いられる場合もある。
〇 権利(憲法中に22回)
人権を根拠に導き出された自由の中から、その一部分を取り上げて示すことが多い言葉である。『〇〇することができる地位』というように、個別の許可された正当性のある地位を示す際に使われることもある。
権利 Wikipedia
〇 ~~権
〇 自由(憲法中に11回)
自由は禁止されず侵害もされない思うままにできる状態である。権利は上記を参照。
自由 Wikipedia
自由権 Wikipedia
〇 ~~の自由
〇 個人の尊重(13条に「個人として尊重される」として登場)
人権概念が一人ひとりを基礎とする単位であることを示す言葉である。現在の人権概念と同じ範囲を示すので、ほぼ同じ意味として使われている。
ただ、もし『個人の尊重』という言葉がなければ、人権として保障される自由の概念が『家族』や『クラス学級』、『会社組織の構成員全体』などを単位とされてしまう恐れがある。
現行憲法では『法人』に対しても性質上可能な限り保障がおよぶとされて運用されているが、人権の基礎的単位が個々人であることは、この言葉によって明確となっている。
〇 個人の尊厳(24条2項)
上記と同じ意味であると考える。
個人の尊厳 Wikipedia
〇 公共の福祉(12条、13条)
公共の福祉 Wikipedia
憲法中にある下記の文言は、同じ意味と考えて良いのだろうか。
◇ ~~ことができる。
◇ ~~の自由を有する。
◇ ~~の権利を有する。
□ 「侵すことのできない永久の権利(11条、97条)」
これは、人権の一般原理である「普遍性、不可侵性、永久性、固有性」の、「不可侵性」と「永久性」を示した文言であると思われる。
<理解の補強>
日本国憲法の哲学と戦後人権論のプロブレマティック 人権理論の最前線へ 静岡大学 笹沼弘志研究室
現代福祉国家における自律への権利 人権理論の最前線へ 静岡大学 笹沼弘志研究室
「憲法上の権利」入門 2019/7/1 amazon (試し読み)
「基本的人権」と、「自由及び権利」は、同じ意味だろうか。少し検討する。
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〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
〔基本的人権〕
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
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「基本的人権」とは、第三章「国民の権利及び義務」に列挙された「自由及び権利」をまとめて表現する呼び方なのではないか。
「自由及び権利」とは、第三章「国民の権利及び義務」の中に列挙された個別の「自由」や「権利」を表現する呼び方なのではないか。
ただ、これを明確に区別したところで、何か有益な分類を明確に設けることができるという性質のものではないと思われる。「基本的人権」や「自由及び権利」との表現は、おおよそ「人権」として保障される対象を指し示す言葉にすぎず、その言葉自体に厳密な定義を与えて区別することを目的とした概念ではないと思われる。
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なお、憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利」という表現を用いており、ここでいう「自由及び権利」は11条・97条でいう「基本的人権」とは異なり、国家賠償請求権(17条)や刑事補償請求権(40条)は前者に含まれるが後者には含まれないという理解も有力である。しかし、賠償・補償請求権も、個人の犠牲において全体が利益を得るという点において「個人の尊重」に反することから直接に帰結する権利であり、人権というべきであろう。「自由及び権利」と「基本的人権」は同じ意味に解して差し支えない。
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立憲主義と日本国憲法 第4版 高橋和之 2017/4/8 (P82) (下線は筆者)
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憲法第一二条に「この憲法が国民に保障する自由及び権利」とあるは、基本的人権を指すものと解してよかろう。
第一二条の右の言葉を、文字どおりにとると、人権宣言以外の憲法の規定で定められている国民の権利━━憲法改正の国民投票(九六条)や、最高裁判所の裁判官の国民審査(七九条二項)に参加する権利など━━も、第一二条にいう「自由及び権利」に含まれるようにも読める。そう読むとしたところで、別に実害があるとはおもわれないが、人権宣言の性質からいって、また、第一二条に「国民に保障する」自由及び権利といっている点からいって、右のように解するのが妥当であろう。このかぎりでは、第一二条の「この憲法が」の「憲法」を「章」と読みかえてもいいようにおもう。もっとも、この「章」━━人権宣言━━の中で定められている権利でも、基本的人権に属しないと見るべき権利があるとすれば、ここにいわれるような趣旨からは、それらの権利もまた第十二条にいう「自由及び権利」から除かれると解すべきことになろう。
「自由及び権利」の意味も、必ずしも明瞭ではない。おそらく、「自由」とは、信教の自由、表現の自由、学問の自由などの自由権と呼ばれるものを指し、「権利」とは、参政権・社会権などを指すものと解されるが、その点は、どちらでも、そう大して重要な問題ではあるまい。
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憲法Ⅱ 宮沢俊義 (P210) (下線は筆者)
【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第2回〜「人権」と「憲法上の権利」・2021年度後期 2021/10/07 ①
【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第2回〜「人権」と「憲法上の権利」・2021年度後期 2021/10/07 ②
「基本的人権(11条、97条)」と「自由及び権利(12条)」の文言の意味を区別して考えるならば下記の図のようになる。
ただ、「人権」というものは実体のない概念上のものなので、「基本的人権」や「自由」、「権利」などと指し示す言い方が変わっても、それ自体はほぼ同一の概念を指していると考えられる。そのため、この場面でこれらの言葉の意味を厳密に区別する必要は大きくないと考える。図の中では人権という概念が分割されているように見えるが、概念上は同じものを指している。
このような「基本的人権」と「自由及び権利」の関係を別のものに例えるならば、「フォルダー」と「ファイル」のようなものではないだろうか。基本的人権を「フォルダー」と、自由及び権利を「ファイル」と表現して条文に当てはめて考えてみよう。
「基本的人権」⇒「フォルダー」 「自由及び権利」⇒「ファイル」 に置き換えた文
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第97条 この憲法が日本国民に保障するフォルダーは、人類の多年にわたるファイル獲得の努力の成果であつて、これらのファイルは、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久のファイルとして信託されたものである。
第11条 国民は、すべてのフォルダーの享有を妨げられない。この憲法が国民に保障するフォルダーは、侵すことのできない永久のファイルとして、現在及び将来の国民に与へられる。
第12条 この憲法が国民に保障するファイルは、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
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厳密な意味として当てはめに成功したかどうかは分からないが、結局、フォルダーでもファイルでもその中身の有益性が大切である。結局フォルダーの中にはファイルが入っていて、ファイルが束になればフォルダーなのである。与えられたもの、信託されたもの、不断の努力で保持しなければならないものとは、その中身の実質的効力であり、フォルダーであるかファイルであるかはここでは厳密に区別する有益性はないと思われる。
97条の「多年にわたる自由獲得」の『自由』の文言や、「これらの権利」「永久の権利」の『権利』の文言は、12条の『自由及び権利』の文言に反映されているのかもしれない。
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〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
〔基本的人権〕
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
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下記に、第三章「国民の権利及び義務」に記載された「基本的人権」や「自由及び権利」を太字として示した。ただ、条文によっては「権利」「権」という文字を持っていない場合もある。
また、国の統治機関に対して「してはならない」、「侵してはならない」という風に要求することで、間接的に国民の「自由」や「権利」を守ろうとする規定もある。そのため、やはり「自由」や「権利」の文字が重要な意味を持っているわけではない。
憲法中では、「権」という文字が入っていても、「行政権(65条)」や「司法権(76条1項)」など、国の統治機関の『権力・権限・権能』を示している場合もある。この点、「自由」や「権利」の意味と混乱を招かないように注意する必要がある。
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第3章 国民の権利及び義務
〔国民たる要件〕
第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
〔基本的人権〕
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
〔個人の尊重と公共の福祉〕
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
〔平等原則、貴族制度の否認及び栄典の限界〕
第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
〔公務員の選定罷免権、公務員の本質、普通選挙の保障及び投票秘密の保障〕
第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
〔請願権〕
第16条 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
〔公務員の不法行為による損害の賠償〕
第17条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
〔奴隷的拘束及び苦役の禁止〕
第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
〔思想及び良心の自由〕
第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
〔信教の自由〕
第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
〔集会、結社及び表現の自由と通信秘密の保護〕
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
〔居住、移転、職業選択、外国移住及び国籍離脱の自由〕
第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
〔学問の自由〕
第23条 学問の自由は、これを保障する。
〔家族関係における個人の尊厳と両性の平等〕
第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
〔生存権及び国民生活の社会的進歩向上に努める国の義務〕
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
〔教育を受ける権利と受けさせる義務〕
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
〔勤労の権利と義務、勤労条件の基準及び児童酷使の禁止〕
第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3 児童は、これを酷使してはならない。
〔勤労者の団結権及び団体行動権〕
第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
〔財産権〕
第29条 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
〔納税の義務〕
第30条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
〔生命及び自由の保障と科刑の制約〕
第31条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
〔裁判を受ける権利〕
第32条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。
〔逮捕の制約〕
第33条 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
〔抑留及び拘禁の制約〕
第34条 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。
〔侵入、捜索及び押収の制約〕
第35条 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
2 捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。
〔拷問及び残虐な刑罰の禁止〕
第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
〔刑事被告人の権利〕
第37条 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
2 刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
3 刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。
〔自白強要の禁止と自白の証拠能力の限界〕
第38条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
〔遡及処罰、二重処罰等の禁止〕
第39条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
〔刑事補償〕
第40条 何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。
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〔国民たる要件〕
第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
〔基本的人権〕
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
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人権は、人であれば生まれながらに持つとされ、憲法上も11条、97条で定められている。しかし、この11条、97条の文言は、「国民」「日本国民」と記載されており、文言上ではあたかも「日本国の国民」にしか人権の享有を認めていないようにも読み取れる。
確かに、性質上外国人は含まず、日本国民のみを対象とした人権規定も存在するため、「国民」と表現することも妥当性があるかのようにも見える。しかし、日本国民でなければ人権の本体が享有されないかのような規定では、事態の重大性から考えても、文言を修正した方がいいようにも思われる。
また、日本国の憲法であるから、日本国民の人権だけを保障することが妥当であるかのようにも見えるが、そうであるにしても、人権の性質は「侵すことのできない永久の権利」であるわけであり、その普遍性を国民のみに限定することはその性質に反する。また、人権は、国民主権の多数決原理によっても奪うことのできない権利であるのだから、国民のみを意識して規定することにも妥当性がないように思われる。
さらに、10条で「日本国民たる要件は、法律で定める。」とあるように、法律で定めた要件に該当しなければ、「日本国民」ではなくなってしまうのだから、人権の享有主体を「国民」だけに限定しているかのような文言は、意見の合わない少数派の国民を切り捨てるために多数派が国籍法の改正を行ってしまう事態を防ぐことができない。
もちろん、「人であれば生まれながらに持つ」という前提で法が運用されていれば、人であれば「平等権」を享有するため、多数派が一律に少数派を切り捨てることは不可能である。また、立法権とは一般・抽象的な規律を持った立法作用であるから、個別・具体的な国民の一部を切り捨てることも不可能なはずである。(ただし、合理的な理由を見出して差別される可能性はある。)
しかし、この「人であれば生まれながらに持つ」とされる人権であるという前提が、「国民」という文言では不足していると感じられるのである。
確かに、前文では「全世界の国民」という文言も使われており、国民とは広くは人類すべてを対象としているかのようにも見える部分もないではないが、11条後段と似通った文言を持つ97条の規定は、「日本国民」と書いてあり、その範囲を限定しているように見えるのである。
日本国憲法の対象は、あくまで日本国の内部であり、それ以外の国民の人権に対して、日本国の統治権を行使して行うとした場合、他国の主権への干渉となり得る。そのため、憲法上(実定法)(制定法)上の規定としては、どうしても「国民」「日本国民」の表現を使わざるを得ない部分もあるかもしれない。
しかしそれでも、人権規定の中には「何人」の表現も存在しており、人権の享有主体を示す文言としてはこちらの方が適切と思われる。
どうにか、この整合性をより美しい形で表現することはできないのだろうか。
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〔国民たる要件〕
第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
〔基本的人権〕
第11条 何人も、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が何人にも保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条 この憲法が何人にも保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、何人も、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
〔個人の尊重と公共の福祉〕
第13条 すべて何人も、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が何人にも保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
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人権は、何人にも保障され(11条、97条)、何人も個人として尊重される(13条前段)はずである。しかし、信託されている(97条)のは国民であり、不断の努力(12条)をするのも国民であるかのように思われる。また、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする(13条後段)のも国民であり、その国民の要件は、法律で定める(10条)のである。
これで整合性はとれただろうか。
<理解の補強>
日本国憲法における人権の享有主体としての「国民」とは誰なのか 2018.09.30
【動画】司法試験入門講座 プレ講義 「体系マスター」憲法4 「人権とは、人権の分類」 2020/03/12
【動画】日本国憲法の条文。暗記しないで!国語辞典で調べないで! 2021/01/12
【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第3回〜「権利の類型」「権利の主体」・2021年度後期 2021/10/11
第三章「国民の権利及び義務」の主体
日本国憲法の第三章「国民の権利及び義務」の規定は、条文によって主体となるものが移り変わるため、文意を掴みづらくなっている。ここで、それらの主体となるものを整理する。
〇 「保障する」と記載されている条文は、11条や12条の「この憲法が国民に保障する基本的人権(自由及び権利)」の部分に対応すると考えられるため、「保障する」主体となるものは憲法であると考えられる。
〇 「~~される」のように受動態の受け身で記載されている部分は、主体は国民であると考えられる。
〇 「侵してはならない」と記載している部分については、基本的に国が「侵してはならない」ことを意味すると考えられる。しかし、国民の側に立って「侵されない」という表現でも良かったように思われる。敢えて「侵してはならない」という表現を用いているところにどのような意図があるのか疑問がある。
【参考】【自民党憲法改正案の問題点:第15条4項】憲法なのに国家目線 2020.10.23
【参考】【自民党憲法改正案の問題点:第19条】思想良心の自由を保障せず 2020.11.05
<理解の補強>
下記は、規定の表現の違いによって、人権の保障の仕方に違いがあるかについて考察がある。
憲法上の権利の規定の整理を 2017年06月10日
第三章「国民の権利及び義務」の並びの目安
第三章「国民の権利及び義務」に記載された自由や権利は、条文ごとに権利の性質を厳密に区切ることができるわけではない。
しかし、下図のようにおおよその条文の並びの位置付けを捉えておくと、比較的把握しやすいと思われる。
学習の初期段階で、漠然とイメージしておく際には役立つと思われる。
第三章「国民の権利及び義務」の義務の位置付け
第三章「国民の権利及び義務」の章に記載さている義務の位置付けを把握するためには、下図のように捉えると把握しやすい。
〇 人権保持義務(12条)
〇 教育を受けさせる義務(26条)
〇 勤労義務(27条)
〇 納税義務(30条)
【参考】Ⅴ 憲法における義務規定 PDF
【動画】【司法試験入門講座】2022年開講!塾長クラス体験講義 体系マスター憲法1-3~伊藤塾長の最新講義を体験しよう~ 2022/02/05
個人の尊厳
「個人の尊厳」と「人権」の関係について当サイトの認識を整理しておく。この点は、哲学的な内容となるため、憲法学の教科書ではあまり深く検討されていないことが多い。
しかし、これは「人権」の起点となる部分であり、この点のイメージを十分に捉えることができていないと、憲法全体の意味を深く理解することができなくなる可能性がある。その意味で、重要な論点ともいえる。
まず、13条前段の趣旨である「個人の尊重」と、24条2項で用いられている「個人の尊厳」の用語のイメージを確認する。
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ここで示されていますのは、個人の尊厳、日本国憲法13条というものを核において、そこから基本的人権が保障され、でそして、その基本的人権の個人の尊重や、基本的人権の尊重という延長線上に、こう、民主主義、あるいは法の支配といったものがあって、それを憲法は定めているのだと。そういう憲法理解であるわけです。これが一般に立憲主義と呼ばれる理解、あるいは憲法の内容ということになります。まあ、政治学でいえば、言い方を変えればリベラルデモクラシーということでもあるわけです。これは恐らく世界の標準的な憲法の内容、グローバルスタンダードであって、そしてそれを第二段落で、こう、この文書は打ち出しているということになります。
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【動画】宍戸常寿「憲法の運用と「この国のかたち」」(2013年度学術俯瞰講義「この国のかたち−日本の自己イメージ」第10回) 2020/04/26
上記の図のような形で「個人の尊厳」を認め、それを軸として「人権」を享有する主体であると認めようとする場合、下記のような複雑な問題もある。
◇ 「あの人は本当に外界を観測し、思考しているのか」という「哲学的ゾンビ」の問題
◇ 「外界を観測し、思考しているとされるクオリアを発現させている部位は、本当に脳神経を中心としているのか」という問題
◇ 「『植物状態にある人』や『睡眠中の人』は、外界を観測し、思考する主体とはなっていないのではないか」という問題
◇ 「外界を観測し、思考する主体は人間に限られておらず、他の生物種にも及ぶのではないか」という問題
ただ、この辺の哲学的な問題は、現在の法秩序では軽くスルーされている。単に「人間であれば人権を享有している」との前提で運用されている。
また、下記のような重要な論点もある。
◇ もし「あの人を大切にしよう」という気持ちが失せてしまったら、その対象となる人の人権は失われるのかという問題
終局的には、「人権」という概念は人々の意識の中に「人には人権がある」という前提となる認識が存在することによって成り立っているものに過ぎない。「人権」という概念は人々の意識の中にしか存在しない合意の産物でしかないのである。
そのため、本来的に「人権」という概念は人々の意識の中からこの前提となる認識が失われてしまったならば、その概念そのものが全く成り立たなくなってしまう危うさを持っている。これは、もともと「人権」という概念は存在しないものだからである。
このことから、一人一人の人間を個人として尊重しようとするの意識を有している者が、「人には人権がある」という合意が人々の意識の中から決して失われてしまうことがないように常々働きかけ、「人権」という概念の存在と価値と正当性を人々の意識の中に定着させ続けていく必要がある。
「人権」という概念は、このような「自由獲得の努力(97条)」や「不断の努力(12条)」によって維持し続けていく必要のある性質のものである。
【憲法から尊重されるのか、ある人物から尊重されるのか】
13条前段の「すべて国民は、個人として尊重される。」と記載されている。この意味は、「憲法によって尊重される」ことを意味しており、「何らかの人物によって尊重される」という意味とは異なるのではないかとの考え方もあり得る。
ただ、憲法とは、憲法制定権力となっている人々の意志の観念であるとも捉えることができる。この前提から、たとえ「憲法によって尊重される」と考えるとしても、その背後では「憲法制定権力となっている人々の憲法意識によって尊重されている」ことと同じことである。
また、現在では「その憲法制定権力の憲法意識を引き継いで法を運用している人々によって尊重されている」ことと同じということになる。
そのため、「憲法によって尊重される」と考えたとしても、結局は、その憲法の背後に「国民を個人として尊重しよう」という意識をもって法を運用している人が存在していることになる。
【「人間の尊厳」と「個人の尊厳」】
「人間の尊厳」と「個人の尊厳」の違いを確認する。
◇ 「人間の尊厳」とは、人間以外のものとの対比に主眼が置かれた用語である。
(例:家畜のように扱われてはならない。物のように扱われてはならない。)
【動画】【司法試験】2021年開講!塾長クラス体験講義~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~<体系マスター憲法1-3> 2021/02/06
◇ 「個人の尊厳」とは、全体や全体主義との対比に主眼が置かれた用語である。
(全体の中の一部として扱われてはならない。全体のための存在として扱われてはならない。)
【参考】【自民党憲法改正案の問題点:第13条】個人を「人」にして支配 2020.10.18
「人権」という概念は、なかなか正確に捉えることが難しい。この概念に対するイメージは、論者によって異なる場合がある。ここで、人権のイメージについて検討する。
当サイト筆者は「人権」そのものは、山の頂上の一点を中心としながら外側に向かって広がっていき、徐々に保障するべき範囲がグラデーションのように薄くなってくようにイメージすることが妥当ではないかと考えている。
この山の広がりは、「生命権」を基礎として、「身体的自由」、「精神的自由」、「経済的自由」、「社会権」、「幸福追求権」へと広がっていくイメージである。
このイメージは、「マズローの欲求段階説(自己実現理論)」が、「生理的欲求」、「安全の欲求」、「社会的欲求」、「承認(尊重)の欲求」、「自己実現の欲求」へと広がっていくイメージにおおよそ対応し、重なると考える。(下図は、マズローの説をピラミッド型の図にまとめたものとは上下の順番が逆になっている点に注意。)
【動画】司法試験入門講座 プレ講義 「体系マスター」憲法4
「人権とは、人権の分類」 2020/03/12
【憲法上に明文化されるか否か】
憲法上において明文化されるべき権利であるか否かという問題は、その山の中核部分に位置付けるべきか否かによって決められていると考える。
現在の日本国憲法には上図のような自由や権利が並べられている。ただ、水資源の乏しい地域に生まれた国家であれば、水を巡る争い絶えないという歴史的な事情などにより「水の利用権」が定められることがあり得ると考えられる。月や火星などに国家が形成された場合には、酸素の量が限られているため、「空気の利用権」を憲法上に明記しても良いと考えられる。
このように、無限に広がる権利の中からいくつかの権利が選び出され、憲法上で明文化される権利へと至るか否かは、その国の置かれている地域の環境的な要因や歴史的な要因が関わっていると考えられる。
憲法上に明記された人権規定は、人権の内容を分かりやすく示すためのカタログに過ぎないものである。極論、人権の総則的な規定とされている13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が明記されているのであれば、後は裁判所の判例の積み重ねによって権利の内容を明らかにすることで対応することが可能である。
【動画】第8回憲法調査会「社会的権力から個人を保護するためのアイディア~基本権保護義務という思考」 2020/11/21 (1:29:15)
【動画】【司法試験】2021年開講!塾長クラス体験講義~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~<体系マスター憲法4-6> 2021/02/09 (人権条項がない場合もある)
【人権と、人権ではない自由や権利があるのか】
「人権」という概念の本体は「自然権(前国家的権利)」であり、その「自然権」と「憲法が実定法として保障している権利」は異なるとする説がある。たとえば、下記の記述がある。
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これに対して、法実証主義法学の影響が強いドイツでは、自然権的な人権(Menschenrechte)と区別された実定法上の基本権(Grundrechte)を問題にしてきた。このためドイツ憲法学に依拠する日本の学説では、人権の用法を自然権的に狭義に捉え、憲法上の権利には『基本権』の語をあてる用法が一般的であり、『憲法上に明文上ないし解釈上の十分な根拠を有する場合』に基本権と称する用法が採用される(初宿・憲法2〔基本権〕43頁)。
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憲法 第6版 辻村みよ子 (P96) (下線・太字は筆者)
【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第2回〜「人権」と「憲法上の権利」・2021年度後期 2021/10/07
他にも、人権の中核的部分と、そうでない部分を区別しようとする説がある。
しかし、 当サイト筆者は「人権」という概念そのものは一つであり、山のようなイメージで捉えることが妥当であると考えているため、「人権」そのものが「自然権」と「基本権」という風に分割されて複数存在するとは考えていない。
「自然権」と「憲法が実定法として保障する権利」を明確に区別しようとする議論は、人権の実体を的確に捉えることができていないように思われる。
〇 「基本権」と呼んでいるものは、「人権が存在する」という前提が守られた中に、どの範囲を実定法の中で具体的に示す権利とするかが確定される中に現れ、使用されている概念であると思われる。
「基本権」という言葉は、「憲法上の条文が根拠となる人権概念」を意味しているわけではなく、「人権の輪郭が憲法上の具体的な条文によって描き出され、個別の権利として定められている部分に該当するか否か」を捉えようとしたものと思われる。
◇ 当サイトの理解
人権 → 憲法によって人権の輪郭を描き出す → 具体化された個別の権利の条文を「基本権」と呼ぶ
◇ たぶん誤った理解
人権 → 憲法の中に「自然権」と「憲法そのものが根拠となる権利」の二つがあると考える → 「憲法そのものが根拠となる権利」を「基本権」と呼ぶ
〇 「自由権(国家からの自由)」については「自然権」に裏付けられたものであるが、「参政権(国家への自由)」や「社会権(国家による自由)」については、国家の統治権が存在することを前提とする権利であるから「自然権」とは切り離して考えるべきであるとする説がある。
しかし、当サイトでは、すべての権利は「自然権」に裏付けられていると考えており、これらを明確に切り離して考えることは妥当でないと考えている。
その考え方の根拠は下記の通りである。
まず、人権が存在するとしても、その人権は絶対的に無制約ではない。人権は「人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的な公平の原理(『公共の福祉』の一元的内在制約説)」によって制約されると考える。
この「人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的な公平の原理」は、民法や刑法などの具体的な法律がなくとも、個々人の人間同士が生活の中で互いの立場を共存させるために常に行われている調整作用であると考える。
ただ、この個々人の間での調整が上手くいかなくなった時に、国内では最高の実力(主権の国内的最高性の意味)を有する国家機関が登場し、国会が制定した法律を適用することによって個々人の行おうとしている「人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的な公平の原理」を補完する役割を担うのである。
この作用には、裁判所が民法を適用して民事紛争を解決することや、行政機関である捜査機関(警察・検察)が国民を起訴した上で、裁判所が刑罰を行うかを決定し、刑罰を行う場合にはそれを執行することなどを挙げることができる。
個々人が「参政権」や「社会権」を行使することについても、社会の中に生きる個々人が他者との共存を可能とするための調整の原理を補完する役割として国家機関の意思決定を裏付けたり(参政権)、国家によって個々人の生活をサポート(社会権)する作用の一つであると考えている。
そのため、もともと個々人の「自然権」と「自然権」の矛盾衝突を調整するための作用を、個々人が日常生活の中で行うか、国会で制定された法律に基づく形で行われる「行政機関による行政作用」や「裁判所の紛争解決作用」で行うか、「参政権」や「社会権」を行使して行うか、という選択の問題であると考えている。
つまり、「参政権」と「社会権」についても、個々人の「自然権」と「自然権」の間で発生する「人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的な公平の原理」を補完し、その調整を実現する手段の一つであると考えている。
このことから、権利の性質を「自然権」と「自然権ではない権利(憲法の条文を根拠として初めて生まれる権利)」などという風に分けて考えることは妥当でないと考えている。
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自然権論を強調する立場からは、時として、自由権以外は真の人権ではないと主張されることがある。なぜなら、参政権や社会権は国家を前提にした権利であり、国家に先行する権利という性格をもたないからである。しかし、日本国憲法が自然権思想に依拠しているというとき、18世紀の啓蒙思想が唱えた自然権論をそのまま導入したと理解すべきではない。ポイントは論理構造にあるのであって、憲法の保障する基本的人権、すなわち、「憲法上の権利」は、憲法により初めて創設されたのではなく、憲法以前に承認された権利に憲法的保護を約束したものだという論理を問題にしているのである。そう捉えれば、参政権や社会権に憲法以前的性格、憲法先行的性格を認めることに何の問題もない。そのような論理構造で「憲法上の権利」を理解すべきだというにすぎない。そして、そのような論理で理解することが、これから説明していくように、極めて重要な意味をもつのである。
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『シリーズ憲法の論点⑧』人権総論の論点 2005年3月 PDF (P7)
この論点は、ロックとホッブズの社会契約の考え方の違いにも関係しているかもしれない。
(ロックとホッブズの社会契約の違い)
【動画】【司法試験】5月生本開講!塾長クラス体験講義 基礎マスター憲法1-3~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~ 2021/05/14
【権利が救済される範囲】
憲法で保障される権利(憲法上に記載された権利の条文を適用することによって救済される権利)の範囲であるか否かについては、その山の頂上からグラデーションのように広がる斜面のどの部分に等高線のような線を引くかを判断して決められる権利の輪郭の問題であると考える。
「憲法で保障される権利の範囲」は、時代を経るにつれて「自由権」→「参政権」→「社会権」というようにその輪郭を広げていったと考えている。
そのため、時代によっては、「人権として保障されるべきものではあるが、未だ実定法上で具体的な権利(基本権)として確立していないために、憲法を適用して保障を受けることができない」という場合は当然にあり得る。
また、国の財政状況の悪化によって、社会権の保障が手薄になっていき、憲法上に記載された権利(基本権)として保障されるはずであったものについても、保障(保護)される範囲の輪郭が狭まっていくこともある。
ただ、人権という概念が国民の生活を豊かにすることに役立つものとして機能することが期待されたものである性質上は、可能な限り手厚い保障を行うことが望まれるものと考えられる。
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裁判所の法律審査権や、憲法裁判制の行われる国では、かような実質的公平の原理を個々の人権についてより具体化した各種の原理が、判例によって、つくり出される。そうした具体的な原理を憲法の条項に定めることが立法技術的にむずかしい以上、それを判例でつくり出すやり方は、このやり方が立法とは違って本質的にケイス、バイ、ケイス的であり、その結果弾力的であることからいっても、きわめて賢明である。アメリカ合衆国最高裁判所の判例で、言論の自由の制約原理とされている「明白かつ現在の危険」の原理などは、そうした賢明さの成果のひとつの例とされよう。
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憲法Ⅱ 宮沢俊義 (P228) 下線は筆者)
そもそも人権とは生命体としての人間を守るために人間が合意事としてつくり出した概念である。そのため、その合意事を実定法として明確化して運用する場合に、どの段階で線を引くかという問題は、結局は、生命体の活動に合わせて考えなければならないものであると考えられる。人権そのものも根本的には生命体の生存活動に合わせた柔軟で生命力のある概念として捉えることが妥当であるように思われる。
「公共の福祉」の意味
「公共の福祉」の学説を理解するために必要となる「外在的制約」や「内在的制約」の意味を確認する。
【参考】人権と公共の福祉
【参考】【図解あり】「公共の福祉」における学説をわかりやすく解説
【参考】『シリーズ憲法の論点⑧』人権総論の論点 2005年3月 PDF (P18)
「外在」や「内在」という言葉は、人権の「外に在る」原因によって制約されるか、人権の「内に在る」原因によって制約されるかを示すものである。
◇ 「一元的外在制約説」とは、人権の「外に在る」一つの原因によって制約されることを意味する。
・「二元的外在制約説」だと、人権の「外に在る」二つの原因によって制約されることを意味し、「四元的外在制約説」だと、人権の「外に在る」四つの原因によって制約されることを意味する。
◇ 「二元的外在・内外制約説」とは、人権の「外に在る」原因と人権の「内に在る」原因を合わせて二つの原因によって制約されることを意味する。
・理論上は「三元的外在・内在制約説」などもあり得る。これは、人権の「外に在る」二つの原因と人権の「内に在る」原因を合わせて三つの原因によって制約されることを意味する。
◇ 「一元的内在制約説」とは、人権の「内に在る」原因によって制約されることを意味する。
・「内在制約説」であるが、人権の「内に在る」原因とは人権ただ一つしかないため、人権の「外に在る」原因を合わせなければ、必然的に「一元的」なものとなり、「一元的内在制約説」となる。
【参考】自民党憲法改正案の問題点:第12条|人権保障に責務を強要 2020.10.07
「公共の福祉」の意味の捉え方
〇 二つの見方
「公共の福祉」という言葉は、二つの意味で捉えられるように思う。
【公共の福祉 ➀】
「公共」という空間や制度を形づくるための「福祉」政策
「公共」という空間や制度を形づくるための「福祉」政策を意味するという考え方である。
「公共の福祉」の文言をこの意味で捉えた場合、福祉政策のために人権制約を行うことを正当化するものとなる。
これは、人権の外側から外在的に人権を制約することを正当化する「一元的外在制約説」と親和的である。
【公共の福祉 ②】
人と人とが共に生きる中に「公共」という空間をつくることによって得られる「福祉」
人と人とが集まって社会を形成し、「公共」という空間や制度をつくることによって得られる利益を確保しようとするところに「福祉」があるという考え方である。
「公共の福祉」の文言をこの意味で捉えた場合、「公共」という空間をつくることによって得られる利益を「福祉」と呼び、それを確保するために人権の制約を正当化するものとなる。
これは、人と人とが集まって社会を形成する際に起こる人権相互の矛盾・衝突を調整しようとする原理である「一元的内在制約説」と親和的である。
【上図右】
「一元的外在制約説」によれば、「公共の福祉」の指し示すものは人権の外側にある。
◇ 国政は「公共の福祉」を実現するために活動し、その活動によって個々人の憲法上の『権利』が侵害される場合には、憲法上の規定を適用して『権利』を救済する考え方である。
憲法学者「長谷部恭男」はこちらの考え方であると思われる。
【上図左】
「一元的内在制約説」によれば、「公共の福祉」の指し示すものは人権と人権の対立する部分にある。
◇ 国政は「人権保障」を実現するために活動する。
この意味の「人権」という言葉は、人々の幸福追求権が無制限に広がっていくものと捉えている。
また、「人権保障」という言葉も、そのような『権利』を実現していくことを政策としてサポートしていくことを意味する。
国民が選挙権を行使して国民主権原理に裏付けられた形で国政に参加することも、幸福追求権を実現するための手段(利益)の一つであると考える。
ただ、その個々人を基底として享有しているとされる「人権」(幸福追求権)の行使は、無制約というわけではない。人権と人権の矛盾・衝突を調整する作用としての限界がある。
個々人の「人権」の基底的なものについては、国民の多数派が幸福追求権を実現するために行おうとした政治政策に対しても対抗し得る力を持っている。つまり、国政における政策を実現しようとする多数派の民意を覆す力を持っているということである。
この国政における政策を実現しようとする多数派の民意としての幸福追求権と、個々人の有する『権利』との間にある矛盾・衝突を調整しようとするところに、『権利』に対する制約が発生する。
そして、それを「公共の福祉」(言い換えれば、共存できる社会を形づくることによって得られる利益)と呼んでいる。
特に、憲法上で明文化された『権利』の規定については、歴史的にも奪われたり、損なわれたり、失われたりしやすい経緯があったことから、その『権利』と『権利』の矛盾・衝突を調整する際には、弱者救済の観点からも強く意識することが求められている。
それらは国政において国民の多数派が幸福追求権を実現しようとして形成した多数派の民意としての政治政策と、個々人の有する憲法上で明文化された『権利』の規定との矛盾・衝突を調整する際にも、分かりやすく、考慮しやすいものとして並べられたものと考える。
憲法学者「高橋和之」、同「宮沢俊義」はこちらの考え方であると思われる。
宮沢俊義の「公共の福祉」の意味の捉え方については、「憲法Ⅱ 宮沢俊義 (法律学全集4)有斐閣」(P231~233)に詳細な記述がある。
論者によって、この「公共の福祉」という言葉の意味をどのように捉えているのかが異なるため、人権制約原理として考えているものの枠組みも異なっている。
【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第14回〜「公共の福祉」・2021年度後期 2021/12/05
◇ 人権に対する「外在的制約」が正当化されるとするならば、それは「神が望んだから」とか、「偉大な○○様がお望みだから」とか、「社会全体の利益のため」などという漠然とした対象を理由として人権を制約することが正当化されることに繋がる。
これに対して、「一元的内在制約説」は、このような理由に基づいて人権を制約することが許されないとするところに意義がある。
全ての物事は、個々人がその物事をどのように捉えるかという認識の問題に還元される(突き詰めれば人の脳内の認識に集約されることとなる)ことを理由として、その認識を行う主体である「人(自然人)」に対して「個人の尊厳」を認め、それを中心として人権(法主体としての地位)を付与し、その自然人同士の人権と人権の矛盾・衝突を調整する必要性を基底とするところに人権の制約を正当化しようするものである。
そのため、「一元的内在制約説」に基づけば、人権の制約が正当化される場合があるとすれば、その正当化根拠として必ず他者の人権が存在していることが前提となる。
もし他者の人権を一切犠牲にしていないにもかかわらず、特定の行為が規制されているのであれば、その規制は無意味であるし、その規制は正当化することができず、違憲・無効となると考える。
◇ 論者によって人権概念をどのように捉えて考えているかという前提認識が異なる場合がある。
「切り札としての人権」は、人と人との間で作用するというよりも、国家の統治権が存在することを想定した上で、その国家が人権を不当に、不必要に、極端に制約する場合に、それに対抗する権利としての側面を描いたものと考えられる。
また、「基本権」という用語を用いる場合においても、これは憲法上に記載された『権利』を根拠とするものと位置付けていることから、憲法が存在し、国家が存在することを前提とすることとなると考えられる。
そのため、人権という概念を描き出す際に、「切り札としての人権」という考え方は、「一元的内在制約説」に比べて、人権という現象を切り取る側面が狭いように思われる。
「一元的内在制約説」の人権観は、国家の統治権が存在せずとも、人と人との間で「人権が存在する」という合意さえあれば、互いを尊重する立場から、他者に対して不当な、不必要な、極端な人権制約を強いる行為は控えるべきであることを説明することができる。
刑法などによって特定の行為の自由を制約することは、この人権と人権の矛盾・衝突を調整する原理を補完し、明確化するために条文という形で具現化したものに過ぎないと考える。
また、刑法などの法律が人権を不当に、不必要に、極端に制約しようとする場合には、人権を根拠としてその法律を無効化することが可能である。
この場合、法律の規定も、人々がどのような法律を立法することが望ましいかという観点から「幸福追求権」に基づいて政策選択を行い、「選挙権」を行使して議員を選出し、その議員によって法律が制定されるという流れを考えると、ある法律が制定される背景にも、議会の多数派を形成した国民一人一人の「幸福追求権」が存在することになる。その法律を憲法上で明文化された権利の規定を基にして違憲・無効を宣言するのであれば、これも人権と人権の矛盾・衝突を調整する原理と考えることができる。(憲法学者『長谷部恭男』はこのような考え方を想定していないように思われる。)
そのため、この考え方によれば、人権の性質を二分し、「前国家的権利」と「実定法が制定され、国家との関係において保障される権利」という風に分けて考える必要はない。国家の統治権そのものが、既に個々人の有する人権と人権の矛盾・衝突を調整する原理を補完するために構成されたものであると考えるのである。
<理解の補強>
基本的人権と公共の福祉に関する基礎的資料 ―国家・共同体・家族・個人の関係の再構築の視点から― 基本的人権の保障に関する調査小委員会 衆議院憲法調査会事務局 平成15年6月 PDF
「公共の福祉(特に、表現の自由や学問の自由との調整)」に関する基礎的資料 衆議院憲法調査会事務局 平成16年4月 PDF
【動画】司法試験入門講座 プレ講義 「体系マスター」憲法5 「知る権利、基本的人権の限界」 2020/03/12
【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第13回〜「公務員の労働基本権」「権利の制約」・2021年度後期 2021/11/23
【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第14回〜「公共の福祉」・2021年度後期 2021/12/05
〇 統一的な見方
「一元的内在制約説」は、「公共の福祉」の意味や内容というより、「公共の福祉」の背後にある理念と考えるとよいのではないか。
対立する主体は何か
人権が正当に制約される場合とは、下記の二種類しかないと思われる。
① 「国家(国家権力)」と「私人」との関係による制約
② 「私人」と「私人」との関係による制約
このような前提から、この二種類を区別する形で人権制約の原理を分類していくべきではないか。
【動画】第8回憲法調査会「社会的権力から個人を保護するためのアイディア~基本権保護義務という思考」 2020/11/19 (5:29)
ただ、①の「国家」と「私人」の関係においても、裁判所で争われる際には両者は対等の立場で審理されることになるはずである。すると、②のように「私人」と「私人」の関係において対等の立場で争われている状態と何ら変わらないようにも思われる。
そうなると、その二種類を区別する形で人権制約の原理を分類することは適切でないようにも思われる。
その他、②の「私人」と「私人」の関係によって人権制約が行われる場合とは、私人間適用の事例と考えてよいのだろうか。そうなると、民法90条や709条の不法行為を適用する際の間接適用と考えるべきなのだろうか。
【参考】1.2 私人間効力に関する学説 PDF
もう一つ、①の「国家」と「私人」との関係と考えるとしても、その「国家」の行為は、国民主権原理を採用する国家であれば、多数派の民意が反映された政策的な活動によるものと考えられる。そうなると、国家の内部で多数派を形成する「私人」たちと、少数派を形成する「私人」たちとの関係における人権制約の調整を行う場合と何ら異ならないとも思われる。
【動画】第8回憲法調査会「社会的権力から個人を保護するためのアイディア~基本権保護義務という思考」 2020/11/21 (35:45)
「公共の福祉」による審査
法制度を構築する際には、「公共の福祉」に適合するか否かが問われることになる。
「公共の福祉」に適合する場合には政策として実現することができる(国会の立法裁量や内閣以下の行政機関の行政裁量の範囲内にある)が、「公共の福祉」に反する場合には政策として実現することができない。
憲法学者「宮沢俊義」によれば、「公共の福祉」の意味は「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理」であるとされている。
これは、学問上で「一元的内在制約説」と呼ばれている。
政府答弁でも、下記のように述べられている。
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○政府特別補佐人(山本庸幸君) お答え申し上げます。
一般に、憲法が保障する基本的人権でありましても、それは無制限のものではなくて、他人の人権との関係で制約を受けることがあるということは当然だと思われております。
そこで、御指摘の公共の福祉でございますが、憲法十三条や二十九条に規定されておりますけれども、これはまさにそういう人権相互の矛盾や衝突を調整するための原理だというふうに考えられております。
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第183回国会 参議院 予算委員会 第9号 平成25年4月22日
この考え方を基底として、憲法に違反するか否かを判断するための基準(違憲審査基準)をどのような方法で導き出すかを考える。
「公共の福祉」の内容は、「立法の目的等に応じて具体的に判断」することが必要となる。
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○政府参考人(宮崎礼壹君)
(略)
憲法第十三条は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨、定めております。この規定からも、公共の福祉のため必要な場合に、合理的な限度において国民の基本的人権に対する制約を加えることがあり得るものと解されておるわけでありまして、その場合における公共の福祉の内容や制約の可能な範囲につきましては立法の目的等に応じて具体的に判断されなければならないというふうに、このように考えられております。
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第156回国会 参議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第5号 平成15年7月16日
よって、法令が「公共の福祉」に適合するものであるか否かを判断する際には、その法令の「立法目的」と「その立法目的を達成するための手段」を具体的に検討することになる。
権利の性質による違い
権利の性質に応じて分けて考えるべき点について検討する。
下記の二つの性質を分けて考える必要がある。
① 「生来的、自然権的な権利又は利益、人が当然に享受すべき権利又は利益」
「法制度を離れた生来的、自然権的な権利又は利益として憲法で保障されているもの」
② 「法律によって定められる制度に基づき初めて具体的に捉えられる」「権利利益等」
「法律(…)に基づく制度によって初めて個人に与えられる、あるいはそれを前提とした自由」
上記は、国(行政府)が下記のように説明しているものである。
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もっとも、婚姻及び家族に関する事項については、前記2(1)のとおり、憲法24条2項に基づき、法律によって具体的な内容を規律するものとされているから、婚姻及び家族に関する権利利益等の内容は、憲法上一義的に捉えられるべきものではなく、憲法の趣旨を踏まえつつ、法律によって定められる制度に基づき初めて具体的に捉えられるものである。そうすると、婚姻の法的効果(例えば、民法の規定に基づく、夫婦財産制、同居・協力・扶助の義務、財産分与、相続、離婚の制限、嫡出推定に基づく親子関係の発生、姻族の発生、戸籍法の規定に基づく公証等)を享受する利益や、「婚姻をするかどうか、いつ誰と婚姻をするか」を当事者間で自由に意思決定し、故なくこれを妨げられないという婚姻をすることについての自由は、憲法の定める婚姻を具体化する法律(本件諸規定)に基づく制度によって初めて個人に与えられる、あるいはそれを前提とした自由であり、生来的、自然権的な権利又は利益、人が当然に享受すべき権利又は利益ということはできない。このように、婚姻の法的効果を享受する利益や婚姻をすることについての自由は、法制度を離れた生来的、自然権的な権利又は利益として憲法で保障されているものではないというべきである。
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【九州・第1回】被控訴人(被告)答弁書 令和6年1月31日
下記のようにも説明されている。
① 「生来的な権利」
② 「法制度を待って初めで具体的に捉えられる」「権利利益」
「法制度をまって初めて具体的に捉えられるもの」
「一定の法制度を前提とする人格権や人格的利益」
「具体的な法制度の構築とともに形成されていくもの」
「法制度において認められた権利や利益」
「法制度において認められた利益」
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前記第4 の2 (1)において述べたとおり、婚姻及び家族に関する事項は、憲法24条2項に基づき、法律が具体的な内容を規律するものとされているから、婚姻及び家族に関する権利利益の内容は、憲法上一義的に捉えられるべきものではなく、憲法の趣旨を踏まえつつ定められる法制度を待って初めで具体的に捉えられるものである。
この点、平成27年夫婦別姓訴訟最高裁判決は、 「氏に関する上記人格権の内容も、憲法上一義的に捉えられるべきものではなく、憲法の趣旨を踏まえつつ定められる法制度をまって初めて具体的に捉えられるものである」と判示しており、これについては、「一定の法制度を前提とする人格権や人格的利益については、いわゆる生来的な権利とは異なる考慮が必要であって、具体的な法制度の構築とともに形成されていくものであるから、当該法制度において認められた権利や利益を把握した上でそれが憲法上の権利であるかを検討することが重要となるほか、当該法制度において認められた利益に関しては憲法の趣旨を踏まえて制度が構築されたかとの観点において、まだ具体的な法制度により認められていない利益に関してはどのような制度を構築するべきかとの観点において憲法の趣旨が反映されることになることを説示したものと思われる」と解されている(畑・前掲解説民事篇平成27年度(下)737ないし739ページ参照)。
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【九州・第1回】被控訴人(被告)答弁書 令和6年1月31日
①は、「国家からの自由」という意味の「自由権」に対応するものである。
これは、刑法が刑罰を科す場合のように、個々人の有する「国家からの自由」という「自由権」を制限するタイプの法制度において使われる考え方である。
②は、何らかの制度を個々人が利用するタイプの法制度において使われる考え方である。
「立法目的」と「その立法目的を達成するための手段」の内容が特定された場合に、その合理性を審査することになるが、そこでは下記のような考え方に基づいて審査することが妥当であると考えられる。
①の「国家からの自由」という「自由権」を制約するタイプの規範について妥当するもの
◇ 「立法目的」の合理性
「自由権」を規制する「目的」に合理的な根拠はあるか
◇ 「立法目的を達成するための手段」の合理性
「目的を達成するための手段」として
・必要最小限度であるか(身体的自由権・精神的自由権など) 【動画】(南野森) 【動画】(伊藤真)
より制限的でない他に選び得る手段がないか
より緩やかな手段がないか
・必要な限度にとどまるか(経済的自由権など) 【動画】(伊藤真)
・合理的関連性があるか 【動画】(南野森)
【動画】司法試験入門講座 プレ講義 「体系マスター」憲法5 「知る権利、基本的人権の限界」 2020/03/12
【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第15回〜「審査基準論」「二重の基準論」「平等原則」・2021年度後期 2021/12/09
【参考】予備試験・司法試験で求められる「憲法のセンス」 2022/09/30
②の何らかの制度を個々人が利用するタイプの法制度について妥当するもの
◇ 「立法目的」の合理性
具体的な制度を設けている「目的」に合理的な根拠はあるか
◇ 「立法目的を達成するための手段」の合理性
「目的を達成するための手段」として
・合理的関連性があるか
・著しく不合理であることが明白なものではないか
注意したいのは、②の「法律によって定められる制度に基づき初めて具体的に捉えられる」「権利利益等」について問われている事柄であるにもかかわらず、それがあたかも①の個々人の有する「国家からの自由」という「自由権」を制約する法制度であるかのように誤解して、その法制度の中に存在する規範を撤廃する方向で考えれば、国民の福利に繋がるかのように考えてしまうことである。
①の「国家からの自由」という「自由権」を制約するタイプの法制度の場合には、その規制が目的を達成するための手段として合理的であるか否かを検討し、それが合理的であるとはいえない部分については、その規制を撤廃することがその「自由権」を制約されている立場にある国民の福利を最大化することに繋がる場合があるといえる。
しかし、②のタイプの法制度については、何らかの立法目的を達成するための手段として整合的な形で規範が定められているかについて検討することはできるが、そこに定められている規範を撤廃すれば、直ちに国民の利益に繋がるというものではない。
むしろ、むやみに規範を撤廃した場合には、制度そのものが立法目的を達成するための手段として機能しなくなったり、制度全体を整合的に理解することが不能となって制度そのものが成り立たなくなるなど、国民に弊害を生じさせることに繋がる。
そのため、この点を誤解して、②のタイプの法制度について、①の「国家からの自由」という「自由権」を制約するタイプの法制度において存在する規範を撤廃していく論理と同様であるかのように考え、規範を撤廃すれば直ちに国民の福利の最大化に繋がるかのような前提で論じることは誤りである。
目的と手段を特定する方法
法律などの法規は、条文という形で法制度を定めているが、それらの条文の中では、その法制度が意図している目的について明確に記載されていないことも多い。
そのため、その法制度を設けることによって、何を実現しようとしているのかを考え、その目的を特定することが必要となる。
法令の「立法目的」と「立法目的を達成するための手段」の内容を明らかにする際には、「比較衡量論」や「二重の基準論」などの視点を用いることの有用性が提唱されている。
「比較衡量論」や「二重の基準論」などの理論は、それを根拠としてそのまま何らかの結論が導き出されるというものではない。
そのため、これらの理論は、法令に含まれている「立法目的」と「立法目的を達成するための手段」の内容を特定する際に求められる視点や心得と位置付けることが妥当であると考えられる。
比較衡量論
「比較衡量論」とは、「憲法 芦部信喜 第三版〔P98〕」によれば、下記の考え方である。
「それを制限することによってもたらされる利益とそれを制限しない場合に維持される利益とを比較して、前者の価値が高いと判断される場合には、それによって人権を制限することができる」
この意味を筆者が補足すると、下記のようになる。
「その法令(や規定)がある場合と、その法令(や規定)がない場合を比較し、その法令(や規定)がある場合の方が有益であると考えられる場合には、そこにその法令(や規定)の立法目的が存在することは明らかであり、その立法目的を達成するための手段としてその法令(や規定)が存在することを意味していることになるから、『立法目的』と『その立法目的を達成するための手段』を特定することが可能となる。そして、『立法目的』と『その立法目的を達成するための手段』の内容が合理的である場合には、その法令(や規定)を正当化することができる」
このように、その法令(や規定)がある場合とない場合を比較することによって、「立法目的」と「その立法目的を達成するための手段」の内容を明らかにすることが可能となる。
この考え方は、下記のようにあらゆる法令で妥当すると考えられる。
・契約の自由を規制する労働契約法
・財産権を制約する税法
・強盗する自由を禁じる刑法 など
◇ 自由権に対する制限を前提として説明されていること
上記の「比較衡量論」の説明には「人権を制限する」と記載されている。
これは、個々人が「人権」を有していることを前提に、それを「制限」することが可能か否かという点で論じるものとなっている。
そのため、これは個々人が有する「国家からの自由」という意味の「自由権」を制限する規定について妥当する説明となっている。
しかし、「国家からの自由」という「自由権」ではなく、法律により定められる制度に基づいて初めて捉えられる事柄について審査する際には、この文面と直接的に対応するものではない。
そのため、法律により定められる制度に基づいて初めて捉えられる事柄について審査する場合には、「比較衡量論」の考え方を参考とするとしても、これを、その制度が存在する場合と存在しない場合を比較して、その制度を設けていることを正当化することができるかという観点から検討することになる。
これについては、ここで「人権を制限する」という形で説明されている文面と直接的に対応するものではないが、「比較衡量論」の内容としては変わらないものである。
◇ 目的を特定する作業に失敗しないための方法
違憲審査における判断の過程で目的を特定する作業に失敗すると、その誤った目的に従って制度の枠組みを変更したことによって、その制度が本来予定していた機能が損なわれたり、その制度全体を整合的に理解することが不可能となって制度そのものが成り立たなくなるなど、制度そのものが破壊されてしまうことが起こり得る。
また、一度その「目的」を見誤って、その「手段」となっている制度の枠組みを変えてしまった場合には、その誤った「目的」が別の事案においても主張され続けることとなり、次々にその「手段」となっている制度の枠組みが突き崩されていくことに繋がる。
すると、その制度が本来予定していた機能を果たさない状態に変わってしまうことになる。
そのため、「目的」を特定するにあたっては、このような事態に陥ることがないように、断片的な判断を行うのではなく、制度の全体を見渡してすべての規定の意味を整合的に理解することができる状態を保つことができるように注意深く検討することが必要である。
特に、その制度がもたらす個別の効果のみに着目して、その個別の効果を生じさせている個別の規定が有している目的を基にして考えてしまうことで、その制度の全体が存在していることそのものが有している目的を見失うようなことがあってはならない。
また、目的を特定する際に注意するべきなのは、現在の制度がよく機能しており、その制度が有している目的が十分に達成されていることから、現在の社会の中で問題が表面化していないという場合を見逃してはならないことである。
これについて、下記の動画が参考になる。
【動画】天皇と合理性。伝統は伝統であるが故に尊い!合理性という浅知恵と何世代も培った伝統という叡智|竹田恒泰チャンネル2 2024/04/04
このように、その制度が有する目的が十分に達成されており、社会的な不都合に出くわす場面が少ない中では、逆にその制度が存在しない場合に起こり得る問題を十分に想定することができなくなってしまい、その制度が有する目的を正確に捉えることができていない者が現れることがある。
そして、その制度が有している立法目的を捉え間違えた者によって国家権力(立法権、行政権、司法権)が行使されることで、むやみに制度の内容が変更されたり、制度そのものが廃止されたりすることによって、今までその制度が存在する中では表面化していなかった問題が後に顕在化するということが起こり得る。
そのため、そもそも何を目的として定められた制度なのかを十分に捉えることができなくなっている場合や、制度の有している目的とその目的を達成するための手段となる具体的な枠組みとの関係にどのような意図が含まれているのかを忘れてしまっている場合に制度を変更しようとすることは危険である。
そのことから、安易に制度の目的を理解したかのように思い込んでしまい、その目的であると思い込んだ事柄を理由にして制度を変更することができると結論付けてしまうようなことがあってはならない。
そのため、その制度全体が有している目的が定まるまでの背景にある社会的な不都合を解消しようとする事実を見ないままに、安易に目的を理解したと思い込んでしまっていないか、常々点検しながら検討することが必要である。
このため、この目的を特定する作業を失敗しないためには、その制度が機能している以前の状態の中で、何が求められ、どのような目的をもって形成されたのか、その原点に立ち戻って検討することが必要である。
つまり、その社会の中でその制度が存在しない状態にまで遡り、その状態で起こり得る問題を勘案し、そこで生じる不都合を解消するという視点を基にして目的となっているものを導き出すことが必要である。
また、このように、その社会の中でその制度が存在しない状態で起こり得る問題を勘案することによって、その制度の目的とその目的を達成するための手段となっている具体的な条文との関係を特定することが可能となる。
◇ 「比較衡量論」の言葉による誤解
「比較衡量論」という言葉を聞いた時に、何を取り上げて「比較」し、「衡量」するのか、人によってイメージする内容が異なっており、誤解が生じていると思われる。
その「比較」の対象としてイメージされているものには、下記があると考えられる。
① 問題となっている法令の規定が「存在する場合」と「存在しない場合」
② 利害関係者のうちの「一方の自由権」と「もう一方の自由権」
③ 「現在の法制度」とそれに代わる「別の法制度」
①は、問題となっている法令の規定が存在する場合と、存在しない場合を「比較」するイメージである。
法の支配とは、人と人とが社会生活を送る中で生じる問題の解決を予め定められた規範に基づいて処理する営みである。
そのため、最終的には社会を構成している個々人の間で生じる利害関係の調整を法令に定められた規定に従う形で解決を図ることになるものである。
そのことから、何らかの法令の規定は、人と人との間の利害を調整することを目的として定められているものであり、その法令が存在する場合と存在しない場合とを「比較」して、そこで生じる何らかの違いに着目することによって、その法令が存在していることの意義や理由を見出すことが可能となる。
これにより、その法令の立法目的と、その立法目的を達成するための手段となっているその規定の関係を特定することが可能となる。
そして、その「立法目的」の合理性と、「その立法目的を達成するための手段」としての合理性を、その法令に関わる「権利」の性質に応じたいくつかの「考慮要素」や「識別指標」を用いながら勘案し、後に覆す必要が生じないという意味でより普遍性の高い安定した規範となるものを導き出し(理性の行き着く先にあるものとして発見し)、その規範に照らしあわせて法令上の具体的な規定が憲法に違反するか否かを判定し、結論とするというものである。
これは、憲法に違反するか否かが問われる中で、「公共の福祉」の審査を行う中で法令の規定が存在する場合と存在しない場合を比較するものであり、「公共の福祉」の審査について説明される中での「比較考量論」と呼ばれているものにあたると考えられる。
②は、利害関係者のうちの一方の自由権と、もう一方の自由権を「比較」するイメージである。
具体的には、利害関係者のうち一方が「報道の自由」を主張し、もう一方が「プライバシー権」を主張するという場面や、一方が「表現の自由」を主張し、もう一方が「人格権」の侵害を主張した場合のような場面をイメージしているものである。
しかし、このような利害関係の調整についても、結局は刑法上の名誉毀損や侮辱罪、民法上の不法行為などの具体的な法令上の規定が憲法に違反するか否かや、その規定を適用することの可否が問われているものである。
そうなると、その法令上の規定や、法令を適用する場面で用いられる具体的な規範が存在する場合と存在しない場合を勘案し、その間に何らかの違いを見出すことによって、法令上の規定や、法令を適用する場面で用いられる具体的な規範の「目的」と「その目的を達成するための手段」となる規定や適用の可否を決するための規範の関係を導き出し、その「目的」の合理性と「その目的を達成するための手段」となる規定や規範の合理性を導き出すことによって結論を導き出すというものに行き着くことになる。
そのため、個々人が「自由権」と「自由権」の対立場面をイメージして、それが「比較」されるのだと考えるとしても、それの問題を処理する上では、結局は法令上の規定やその規定を適用する場面で用いられる規範が存在する場合と存在しない場合を「比較」して法令上の規定やその法令を適用する場面で用いられる規範が「自由権」の侵害や他の「自由権」との調整の場面において憲法に違反するか否かが問われていることになり、①の意味の「比較」に収束していると考えられる。
この点で、「比較衡量論」という言葉は、本来①を指すはずであるが、②の「自由権」と「自由権」の対立をイメージしてしまいやすいという点で誤解を生じやすく、適切な言葉とはいえないと思われる。
ただ、その一方の「自由権」ともう一方の「自由権」が主張される中において、法令上の規定やその法令を適用する場面で用いられる規範の当否を勘案する中で、その一方の「自由権」ともう一方の「自由権」の内容や性質を検討し、時にはそれらを「比較」するという場面はあり得ることである。
この点の次元の異なる意味で用いられる「比較」の言葉によって生じる混乱を防ぐために、より適切な言葉をあてはめて整理する必要があると考える。
考えられる言葉としては、法令上の規定やその法令を適用する場面で用いられる規範について、一方の権利ともう一方の権利の衝突を適切に調整しているものといえるかどうかが争われていることから、「違憲審査 考慮要素・識別指標論」における「権利と権利が衝突する場面での比較論」、あるいは「権利衝突比較論」と呼ぶことが適切であるように思われる。
③は、後に「目的と手段を特定する作業に失敗しないためのポイント」の「別の制度を取り上げてそれと比較して論じることはできないこと」の項目で説明する。(下記で記載)
ただ、憲法に違反するか否かが問題となり、「公共の福祉」による審査という場面で用いられる「比較衡量論」の意味は、法令が存在する場合と存在しない場合を比較し、その間で生じる差異に着目することによって「立法目的」と「その立法目的を達成するための手段」の関係を特定していく作業を指すものであると考える。
そのことから、学説上で「公共の福祉」による審査として「比較衡量論」が論じられているという言葉を聞いた時に、その言葉が醸し出す雰囲気によって②や③を前提としたイメージに基づいて論じてしまうことは、「公共の福祉」の審査として適切ではないといえる。
そのため、「比較衡量論」という言葉がもたらすこのような誤解を防ぐために、①の意味をより限定した意味に明確化するため「法令存否 比較考量論」という言葉を用いて説明することが望ましいと思われる。
① 法令存否 比較考量論
② 権利衝突比較論 (違憲審査 考慮要素・識別指標論の中もの)
③ 別制度比較論 (別制度は立法権に踏み込むため、司法権で審査できないもの)
二重の基準論
「二重の基準論」とは、下記のような理論である。
「精神的自由権」に対する規制と「経済的自由権」に対する規制の在り方を比較した場合を考える。
政治部門が「経済的自由権」を規制した場合に、「経済的自由」については一度損なわれたとしても民主制の過程(選挙等)が機能している限りは、国民が民主制の過程を通してその規制を是正することが容易である。そのため、裁判所による法的審査は緩やかなものでよく、結果して裁判所は政治部門による「経済的自由権」に対する規制を正当化する判断を行いやすくなってもよい。
それに対して、政治部門が「精神的自由権」を規制した場合に、「精神的自由」については一度損なわれると民主制の過程(選挙等)そのものが正常に機能しなくなることから、国民が事後的に民主制の過程を通してその規制を是正することが困難となる。そのため、裁判所による法的審査は厳格に行わなければならず、結果として裁判所は政治部門による「精神的自由権」に対する規制を積極的に違憲と判断することでその規制を取り除き、権利救済を行う必要がある。
【動画】司法試験入門講座 プレ講義 「体系マスター」憲法5 「知る権利、基本的人権の限界」 2020/03/12
【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第21回〜「政教分離の判決例」・2021年度後期 2022/01/29
ただ、ここで判断の分かれ目となっているのは、「精神的自由権」や「経済的自由権」という権利の性質というよりも、「民主制の過程を経ることによって是正することができるか否か」の点にあると考えられる。
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3. 二重の基準論に対する批判的学説及びそれに対する私見
まず,多くの学説によって二重の基準論の第一の根拠として挙げられる民主政治のプロセスの理論に対しては,次の様な疑問が一部の学説によって提起されている。すなわち,通説はこの民主政治のプロセスの理論により,精神的自由の優越的地位を導いているが,民主政治のプロセスの理論において重要なことは,権利が政治参加に不可欠なものかどうかであって,精神的自由であるかどうかではないのではないか[松井1994:274-275]。
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二重の基準論の批判的検討及び再構成 早稲田大学リポジトリ (P157) (下線は筆者)
この意味を筆者が補足すると、「民主制の過程を経て立法される法令によって一度その自由や権利が損なわれた場合に、再び民主制の過程を経ることによってその自由や権利を回復することが困難となる性質の事柄については、裁判所の法的な審査の中で、その法令の『立法目的』と『その立法目的を達成するための手段』の内容を特定する際に、そのような性質の自由や権利が損なわれることがないように意識して判断を行うことが必要である」というものである。
この考え方は、下記のような法令で妥当すると考えられる。
・表現の自由を奪う法律
・集会の自由を奪う法律
・選挙権を強く制限する法律 など
◇ 「二重の基準論」の言葉による誤解
「二重の基準論」とは、「経済的自由権」と「精神的自由権」のみを取り上げて、それぞれ別の基準を適用するべきであるとの考え方である。
ただ、これは「自由」や「権利」の性質に応じてその「自由」や「権利」を保護する必要性の程度や損なわれてはならない事柄が異なるということを伝えるものとしては参考になるとしても、具体的な事件を解決する中で「自由」や「権利」を制限している法令上の規定を審査する中において、この「二重の基準論」というものを直接的に用いて結論を導き出すことには繋がらず、判断の結論を左右する指標とはならないと思われる。
特に、「二重の基準論」として説明されていることは、結局は規制により制限を受ける「自由」や「権利」の内容や性質が「民主制の過程を経ることで是正することができるか否か」という点によって識別されることが中心的な事柄であることから、重要なのは「経済的自由権」にあたるか「精神的自由権」にあたるかという点にあるわけではない。
また、「経済的自由権」に対する規制であっても事後的に民主制の過程を経ることによっては是正することができないほどの経済活動に致命的な影響を与えるものがあるかもしれないし、「精神的自由」に対する規制であっても「公共空間おけるわいせつ表現の可否」などの必ずしも民主制の過程を経ることによっては是正することができないとまではいえないものも存在するように思われる。
このことから、「二重の基準論」という言葉を用いて、「二重」の意味である二つの異なる事柄を対比させることとの関連性において「経済的自由権」と「精神的自由」の違いを強調する意味は乏しいといえる。
「二重の基準論」という言葉を用いずとも、単に、規制によって制限を受ける「自由」や「権利」の内容や性質が「民主制の過程を経ることで是正することができる事柄であるか否か」を判断の過程での「考慮要素」や「識別指標」の一つとして用いるべきことを伝えることができればそれでいいものと思われる。
そのため、憲法に違反するか否の問題のうち、「公共の福祉」の審査が問われる中において、「二重の基準論」という言葉を用いて説明をすることは適切であるとは思われない。
より適切な説明の方法は、「違憲審査 考慮要素・識別指標論」の中で「民主制の過程を経ることによって是正することができるか否か」を「考慮要素」や「識別指標」の一つとして用いるべきであると伝えることであると考える。
よって、この点の誤解を防ぐために、「二重の基準論」という言葉に代わるものとして、「民主制の過程での是正可能性論」あるいは「民主制過程 是正可能性論」という言葉を用いることが相応しいと考える。
違憲審査の手順
法制度は、何らかの目的を達成するための手段として定められるものである。
そのため、何らかの条文が憲法に違反するか否かを審査する場合には、そこで問われている条文は何らかの目的を達成するための手段として定められているものであるという前提を手掛かりとして検討を始めることになる。
よって、その手段(条文)はどのような「目的」の下に定められているのか、また、その手段(条文)と関わる権利や利益があるとすれば、それはどのような権利や利益であるのかを検討することになる。
目的は何か。
↑
条文(⇒手段)
↓
これに関わる憲法上で保障された具体的な権利があるかないか。
これに関わる憲法上で保障された具体的な権利がある場合には、その性質はどのようなものか。
憲法に違反するか否かを識別するための基準を発見していく方法
憲法に違反するか否かを識別するための基準を発見していく方法について類型化すると、下記のようになる。
① 憲法上で保障されている具体的な権利と関わらない場合
憲法上で保障された具体的な権利と関わらない事案については、単に下位の法令が憲法上の条文に記された文言に適合するか否かによって、あるいは、憲法上の条文の「目的」を明らかにした上で、その「目的」に照らして下位の法令が適合するか否かを判断することによって憲法に違反するか否かが導き出されることになる。
・憲法上の条文に記された文言に下位の法令が適合するか否か(文理解釈)
・憲法上の条文の「目的」を明らかにした上で、その「目的」に照らして下位の法令が適合するか否か(論理解釈)
例:憲法10条が述べるように「日本国民たる要件」を定めた法律が存在するか。
例:憲法27条が述べるように「賃金、就労時間、休息その他の勤労条件に関する基準」について定めた法律が存在するか。
例:憲法66条の指定した通りに法律(内閣法)が定められているか。
② 憲法上の制度的保障について定めた条文と関わる場合
憲法上の具体的な権利という形で直接的に保障するわけではないが、国民の自由を確保するために「制度的保障」という形で定められている条文が存在する。
その「制度的保障」について定めた条文と関わる場合には、その条文の「目的」を明らかにした上で、どこからがその条文の趣旨に反することになるかについて具体的な基準を示し、下位の法令がその基準に適合するか否かを判断することによって憲法に違反するか否かが導き出されることになる。
・憲法上の条文の「目的」を明らかにした上で、その「目的」に照らして下位の法令が適合するか否か
例:憲法20条1項後段・3項、89条の『政教分離原則』は直接的に国民の具体的な権利を保障するものではないが、国民の『信教の自由』を守るために『制度的保障』という形で定められている規定である。
③ 憲法上で保障されている具体的な権利と関わる場合 (⇒ 公共の福祉による審査)
もしその手段(条文)に関わる(規制や制限を受ける)憲法上で保障された具体的な権利が存在する場合には、その権利の性質を考慮することが必要である。(民主制の過程により是正することのできる権利であるかなど)
また、その手段(条文)がどのような「目的」を有しているかについて法令の中に具体的に記されていない場合には、法制度の全体を整合的に読み解くことができる形でどのような「目的」が含まれているかを正確に導き出していく作業が必要となる。
その際にはその手段(条文)が存在する場合と存在しない場合とを比較し、そこで生じる差異に着目することで、その手段(条文)が有している「目的」が何かを特定する手がかりとなる。
(この「目的」を特定する作業に失敗すると、法制度が破壊されて本来予定している機能を果たさないものに変わってしまい、人々に多くの不都合をもたらす結果となる場合があるため注意が必要である。)
そして、特定された「目的」が合理的なものであるか、また、その「目的」を達成するための「手段」(条文)が合理的なものであるかを検討することになる。
「目的」の合理性を審査する際には、専ら宗教的な目的など「政教分離原則」に反する目的が含まれていないかどうかや、必要性に理由があるかなどを勘案することになる。
「手段」の合理性を審査する際には、特定された「目的」を達成するための「手段」として関連性が見られるか否かや、「目的」を達成するための「手段」としての規制や制限、制約の程度・態様が妥当かどうか、より制限的でない(規制の程度の少ない・権利を制約する負担の少ない)他の方法が存在しないかどうか、「目的」を達成するための「手段」として規制や制限、制約の程度が均衡しているかどうかなどを勘案することになる。
そして、「目的」の合理性と、その目的を達成するための「手段」の合理性を判断するために描かれる基準は、その権利の性質に応じる形で絞り込まれていくことになる。(例えば民主制の過程により是正することができるかなど)
これにより、憲法に違反するのはどこからなのか、反対から見れば、国会による政策的な判断(立法裁量)や内閣以下の行政機関による政策的な判断(行政裁量)に委ねられるべき範囲はどこまでなのかが、その権利の性質に応じる形で明らかとなっていき、基準となる線が定まっていくことになる。
▼ 要点
◇ 権利の性質はどのような内容であるか
・ 「国家からの自由」という「自由権」(自然権・前国家的な権利)であるか
(精神的自由権、身体的自由権、経済的自由権など。)
・ 憲法上で具体的に定められている権利であるか
(選挙権、請願権など)
・ 具体的な制度の創設によって初めて捉えられる事柄であるか
(法律上で具体的な制度が定められることによって初めて捉えられる事柄については、『国家からの自由』という『自由権』ではない。具体的な制度の内容によっては『平等権』と関わる可能性がある。ただ、それを審査する場合には、平等権は個人権であること、基準点は制度を利用していない者の状態であること、自由権に対する規制・制限・制約が問われているわけではなく差異を設けていることの合理性が問われていること、制度の目的を特定する作業において原則と例外の逆転論法に陥らないこと、などに注意が必要である。)
・ 民主制の過程で是正することができる事柄であるか
(二重の基準論が妥当するか)
(ある権利を制限することで民主制の過程を機能不全に陥らせる恐れがある場合には、それを損なわせないように配慮することが必要である。)
など
◇ 「目的」の合理性
・ 憲法の条文に定められた内容に直接的に抵触するものではないか
・拷問及び残虐な刑罰に当たらないか
・奴隷的拘束に当たらないか
・意に反する苦役に当たらないか
・政教分離原則に反しないか
など
・ 必要性に理由があるか
(『やむにやまれぬ利益(目的)』『重要な利益(目的)』『正当な利益(目的)』であるかという表現もある)
・ 合理的な根拠があるか
(『国家からの自由』という『自由権』や、憲法上で具体的に定められている権利に関わる場合は、その権利の性質を勘案し、規制の目的にその権利を制限することを正当化するだけの理由〔意義〕があるかどうかを問うことになる。つまり、達成しようとする目的〔公共的な利益〕の重要性などが問われるということである。)
(『平等権』に関わる場合は、差異を設けている規定の目的に合理性があるか否かが問われることになる。)
など
◇ 目的を達成するための「手段」の合理性
これは、立法目的との関連において手段・方法の具体的な内容がどうあるべきかを問うものである。
関わっている「権利」の性質と法令の「目的」を照らし合わせて考えた場合に、その手段・方法について立法府や行政府の政策的な判断(裁量)に委ねるべき事柄であるかどうかや、その程度が分かれることになる。
・ 経済的自由権を制約をする規制の内容が国民の生命や健康に関わる事柄を目的としているか
(規制目的二分論が妥当するか)
・ 立法裁量や行政裁量に委ねるべき事柄であるか
(これは立法裁量の広狭の論点である。)
など
↓ ↓ ↓
目的を達成するための手段として、
・必要最小限度の規制であるか
・より制限的でない他の方法はないか
・より負担の少ない規制形式はないか
・必要な限度の規制にとどまっているか
・制限の程度は均衡しているか
・程度・態様は妥当か
・役立つものであるか
・必要であるか
・関連性があるか
・合理的関連性があるか
・著しく不合理であることが明白なものではないか
・立法目的との関連において著しく不合理なものといわざるを得ないような場合であって、立法府に与えられた裁量の範囲を逸脱し又は濫用するものであることが明らかである場合であるか
など
(その手段である必要性、その手段を採る相当性、その手段とする適合性という表現もある)
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……(略)……その場合の議論の一般的枠組みが、目的審査と手段審査と言われるもので、目的審査では人権規制の目的が規制される人権の重大さに見合っているのか、つまり、釣り合うだけの公益保護が目的となっているのかが、人権の性質に応じて設定された基準に従って審査され、手段審査では、その目的の実現のために採用された方法・手段が目的と適合しているのかどうか、その目的の達成が人権を制約することがより少ない方法で可能ではないか、などが審査されるのである14。
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『シリーズ憲法の論点⑧』人権総論の論点 2005年3月 PDF (P20) (太字・太字は筆者)
違憲審査の方法 Wikipedia
違憲審査基準 Wikipedia
このような手順によって憲法に違反する場合と違反しない場合を識別するための基準を見出していくことになる。
しかし、それが裁判官の恣意的な判断となってはならない。
そのため、このような基準は、裁判官が自らの思いを反映する形で作り出すことによって生じるというものではなく、理性の行き着く先にあるものとして「発見するもの」である。
つまり、もともと論理的な整合性を突き詰めた世界の中に存在している(はずの)ものを、人間が後から「発見する」ことによって導き出されるものということである。
これをどこまで突き詰めて検討したかによって、見出された基準の確からしさが定まり、その内容を説得的なものへと高め、後にその基準を覆す必要性が生じることがないという意味において普遍性の高い規範として安定することに繋がるのである。
これにより、その基準は、法的安定性に資するものとなり、公共的な合意としての機能(法としての機能)を果たすことになるのである。
判例の言葉遣い
裁判所の判例では、法令による規制(制限)が違憲となるか否かを判断する際に、「権利の内容」、「権利の性質」、「必要性」、「関連性」、「程度」、「態様」、「均衡」など、様々な言葉を用いて基準を打ち立てている。
ただ、法令はすべて何らかの「目的」を達成するための「手段」として立法されているものであるから、これらの判例が用いている様々な言葉についても、すべて「目的」と「手段」の審査に対応するものとして意味を捉えることができる。
そのため、これらの言葉は下記のように整理することができる。
◇ 「権利の内容」、「権利の性質」
⇒ 「国家からの自由」という「自由権」(自然権・前国家的な権利)であるか否かを区別するもの
⇒ 民主制の過程を経ることによって是正することができる権利であるか否か(二重の基準論が当てはまる事例であるか)
など
◇ 「必要性」
⇒ 目的に合理性があるかを審査するもの
◇ 「必要性」、「関連性」、「程度」、「態様」、「均衡」
⇒ 手段に合理性があるかを審査するもの
このように、裁判所の判例も結局は「目的」の合理性と「手段」の合理性を審査しているだけである。
しかし、それを統一的に「目的」と「手段」で判断していることが自然に分かるように記載されておらず、様々な言葉が用いられてそれらがバラバラの順番で登場するため、あたかも一つ一つの事例でまったく異なる別々の基準が打ち立てられているかのように見えるものとなってしまっているのである。
この点に、注意が必要である。
目的と手段を特定する作業に失敗しないためのポイント
憲法上で保障されている具体的な権利と関わる場合において、「目的」と「手段」の関係を特定する作業で失敗しないためにいくつか押さえるべきポイントがある。
例えば、下記を挙げることができる。
◇ 「権利の性質による違い」を押さえること (上記で解説)
◇ 比較衡量論 (上記で解説)
◇ 二重の基準論 (上記で解説)
◇ 「厳格/緩やか」などの基準が予め存在するわけではないこと
◇ 国民の賛否を集約することは「政治部門」の役割であること
◇ 社会の変化を受け止めることは「政治部門」の役割であること
◇ 「時代の進み論」に陥ってはならないこと
◇ 新たな制度の創設を国家に対して求める主張は憲法違反の理由にはならないこと
◇ 別の制度を取り上げてそれと比較して論じることはできないこと
◇ 例外を理由にして原則を変えることはできないこと
◇ 制度に対する不満は憲法違反の理由とはならないこと
など
この中から上記で解説していないものについて下記で解説する。
〇 「厳格/緩やか」などの基準が予め存在するわけではないこと
憲法に違反するか否かを審査する議論において、「厳格」や「緩やか」などとレベルを段階的に分類し、その分類に当てはめることによって憲法に違反するか否かについての結論を導き出そうとする試みを見かけることがある。
しかし、その分類は、憲法上で保障されている個別の自由や権利が法令によって制限されている場合に、その個別の自由や権利の性質とその法令による具体的な制限の内容とを照らし合わせ、様々な要素が考慮された後に、憲法に違反するか否かについての結論を集計する形で、結果としての統計的な偏りを示しているに過ぎないものである。
このような「厳格」や「緩やか」などというレベルを段階的に分類しようとする議論は、おおよその目安を示すものとしては意味があるとしても、あくまで憲法に違反するか否かの審査が行われた結果として生じる統計的な偏りを示したものに過ぎないものである。
そのため、そのレベルを段階的に分類した類型を憲法に違反するか否かの基準であるかのように考え、その類型に当てはめることによって憲法に違反するか否かについての結論を導き出すことができるということになるわけではない。
似たようなイメージとして下記を挙げる。
「偏差値が60ならば、〇〇大学に行けるはずだ」という見込みについて示した図表があるとする。
その図表は、偏差値に応じる形で合格圏内の大学について類型化されているものである。
しかし、その図表の中で「合格見込みがある」と示されているとしても、実際に〇〇大学で実施されている試験を受験して一定程度の正解を回答をしなければ、現実に〇〇大学の試験で合格するかどうかは分からないといえる。
実際に〇〇大学を受験した時の試験において出題された内容によれば、これまで算出されていた合格見込みとは異なる結果が生じるということもあり得るからである。
そのため、〇〇大学の試験に合格するか否かの判定は、あくまで〇〇大学で行われている試験において一定の正解を回答することによって導き出されるのであり、それまでに合否を得た者の統計的な偏りを基にして類型化されている図表の中に当てはまっているか否かによって結論が導き出されるというわけではない。
まして、それまでに合否を得た者の統計的な偏りを基に類型化されているその図表の中に、〇〇大学の試験に合格するか否かを判定するための基準となるものが存在しているわけではない。
そのため、その合格見込みを類型化した図表が基準であるかのように考えて、〇〇大学に合格するか否かという結論を導き出すことができるということにはならない。
また、〇〇大学の立場から見ても、そのそれまでに合否を得た者の結果から算出した統計的な偏りを類型化した図表の中に合否を決めるための基準があるかのように考えて、その図表を基にして入学の可否を決めることができるということにはならない。
もしそのようなことをした場合には、その図表は、それまで〇〇大学を受験して合否を得た者から算出されていた結果であったにもかかわらず、その結果が合否を決するため基準として用いられたことになることから、そもそもその図表が拠り所としている根拠となる基準が既に失われていることとなり、その合格見込みを勘案するために類型化した図表の区分を決めている前提も覆されているのであり、その図表が合格見込みの目安を示すものとしても役に立たなくなり、意味を成さなくなるからである。
この問題と同様に、「厳格」や「緩やか」のように何段階かにレベルを分けて説明を試みる議論についても、それは権利の性質に応じて様々な考慮が行われた後でどのような結論が導き出されたかという結果に着目する形で集められた統計的な偏りを分類したものに過ぎず、あくまで憲法に違反するか否かについての審査が行われた場合においてどのような結論が導き出される可能性が高いかという結論の見込みについての目安を示すものとして活用することができるというにとどまるものである。
そのため、そこに実際に憲法に違反するか否かという審査を行う過程における何らかの基準となるものや考慮することが必要となる具体的な要素が存在するわけではないものである。
よって、「〇〇の自由」や「〇〇の権利」であれば「厳格」に審査するべき、や、「〇〇の自由」や「〇〇の権利」であれば「緩やか」に審査するべきという形で論じることは、憲法に違反するか否かの審査における結論の見込みについて段階的に示した類型を、あたかも実際に憲法に違反するか否かという結論を導き出す際に用いる基準であるかのように受け取って論じてしまっているものであり、適当でないといえる。
憲法に違反するか否かの判断の過程において必要となるものは、「厳格」や「緩やか」などの審査の結果を類型化した分類による結論の見込みではなく、それぞれの自由や権利の性質に応じて考慮するべき要素として見逃してはならない事柄があるか否かを個別的に検討していくことである。
そして、それらの考慮するべき要素を踏まえた上で、それぞれの自由や権利を制限している法令の「目的」の合理性と、「その目的を達成するための手段」(その条文による制限の内容)の合理性を検討することである。
▽ 「相場」の扱い方
これと似たような議論として、「相場」の扱い方についての問題を挙げることができる。
刑事事件における有罪・無罪や量刑の判定、交通事故における損害賠償請求の額には、「相場」が存在する。
しかし、この「相場」とは、様々な考慮要素を検討した上で導き出されている結論に基づいて作成されている結果を集めて作成された統計に過ぎないものである。
そのため、その「相場」は、新たな事件が発生した場合においてその事件が将来の判決においてどのような判断が行われるかについての見込みとして活用することができるという意味にとどまるものである。
よって、この「相場」が基準となって、具体的な刑事事件における有罪・無罪や量刑の判定、交通事故における損害賠償の額が決められるというわけではない。
同様に、憲法に違反するか否かについて示された数々の先例が先にあって、その結果として生じている統計的な偏りを基にした類型が「相場」として示されているだけであるにもかかわらず、その「相場」が具体的な事件において結論を導き出すための基準となるかのような前提で判断しようとすることは手続きとして誤りである。
そのため、憲法に違反するか否かの判断は、決して「相場」が基準となって導き出されるわけではなく、問題となっている権利の性質や法令の目的に応じる形で様々な要素を考慮し、類似の事例が発生した場合においても一貫性を保つために必要となる識別のための指標を検討することによって結論が導き出されるものである。
▽ 「違憲審査基準論」という表現は妥当か
「違憲審査基準論」という表現を聞くと、憲法に違反するか否かという審査において、何らかの「基準」が存在し、そこに当てはめることによって結論を導き出すことができるかのようなイメージを抱いてしまいやすい。
このイメージが先行してしまうことにより、判例の結論を収集し、その収集された結論から算出された類型が、あたかも憲法に違反するか否かを判断するための基準となるかのような誤解を生じさせてしまっているように思われる。
しかし、実際に憲法に違反するか否かについての判断の過程で必要となることは、制限される「権利」の性質に照らし合わせて、下記のような「考慮要素」や「識別指標」を用いることによって、妥当な結論を導き出していくことである。
・ 「国家からの自由」という「自由権」に対する制約であるか
・ 憲法上の具体的な権利として定められている事柄であるか
・ 民主制の過程で是正することができる事柄であるか
(従来の言葉では二重の基準論にあたるものか)
・ 経済的自由権に対する制約について法令の内容が国民の生命や健康に関わる事柄を目的としているか
(従来の言葉では規制目的二分論にあたるものか)
・ 立法裁量や行政裁量に委ねられるべき事柄であるか
など
ここでいう「妥当な結論」(妥当性)とは、後にその判断の過程と、それによって生じた結論とを覆す必要性が生じないという意味において安定した規範として機能し、判断の精度が担保されている状態のことである。
それは、決して、どのような結論が導き出されたかという結果に着目する形で集められた統計的な偏りを類型化した分類図が、その後に行われる憲法に違反するか否かの結論を導き出すための基準となるというものではない。
しかし、従来の「違憲審査基準論」という言葉では、この違いを明確に伝えることができず、誤解を生じさせてしまっているように思われる。
似たような議論として、「相場」の扱い方の問題があるため、この視点からも検討する。
刑事事件における有罪・無罪や量刑の判定、交通事故における損害賠償請求の額には、「相場」が存在する。
しかし、この「相場」とは、様々な考慮要素を検討した上で導き出されている結論に基づいて作成されている結果を集めて作成された統計に過ぎないものである。
そのため、その「相場」は、新たな事件が発生した場合においてその事件が将来的に出される判決においてどのような判断が行われるかについての見込みとして活用することができるというにとどまるものである。
よって、この「相場」が基準となって、具体的な刑事事件における有罪・無罪や量刑の判定、交通事故における損害賠償の額が決められるというわけではない。
これと同様に、「違憲審査基準論」という表現を受け取ったときに、その言葉がイメージさせる内容として、憲法に違反するか否かについて示された数々の先例が先にあって、その結果として生じている統計的な偏りを類型化したものをイメージしてしまう場合があり、その「相場」にあたるものとして示されているだけのものが、あたかも具体的な事件において結論を導き出す過程で使われる基準であるかのように誤解したまま論じてしまっている場合があるように見受けられる。
しかし、憲法に違反するか否かの判断は、決して「相場」が基準となって導き出されているわけではない。
憲法に違反するか否かの判断は、「権利」の性質や法令の目的に応じる形で「考慮要素」や「識別指標」を検討することで導き出されるものである。
よって、この点の誤解を防ぐために、「違憲審査基準論」という言葉をより精度の高い言葉に置き換えるため、下記のように表現することが相応しいと思われる。
・ 違憲審査基準論
↓ ↓
・ 違憲審査 考慮要素論
・ 違憲審査 識別指標論
・ 違憲審査 考慮要素・識別指標論
このように「考慮要素」や「識別指標」という言葉を使うことで、結論を導く際に「権利」の性質や法令の目的に応じる形で、上記のような事柄を「考慮要素」や「識別指標」として検討することを直感的にイメージしやすくなると考えられる。
現在の「違憲審査基準論」という言葉を用いると、「違憲審査の基準を類型化・体系化していく」というようなイメージが形成されてしまうと考えられる。
この影響で、憲法に違反するか否かを判断する際に用いられた「基準」の部分だけに注目が集まり、その「基準」を収集して類型化しようとする議論に繋がってしまいやすいと考えらる。
この先行したイメージにより、憲法に違反するか否かについての判断の結論として示された結果を集め、それを基にして「相場」を見出そうとするという誤ったベクトルに向かってしまい、憲法に違反するか否かについての妥当な判断を導くための規範を見出そうとする視点から離れ、混乱した非生産的な議論が生まれてしまっていると考えられる。
そのため、「違憲審査基準論」という表現では、本来必要となる判断の過程において用いられる「権利」の性質や法令の目的に応じた「考慮要素」や「識別指標」を収集していこうとする動機が形成されにくいという点で問題があると思われる。
しかし、「違憲審査 考慮要素・識別指標論」という表現を用いた場合には、憲法に違反するか否かを判断する際に必要となる事柄は「考慮要素」や「識別指標」であることが明確になることから、学者や学習者に対して「考慮要素」や「識別指標」を収集して体系化していくべきであるという動機を形成しやすくなると考えられる。
これにより、収集され、体系化された「考慮要素」や「識別指標」を具体的な事件を解決する際の判断の過程で用いることが容易となり、より精度の高い結論を導くことに寄与することが考えられる。
このことは、憲法に違反するか否かの判断の結論として示された結果を集めて「相場」を見出そうとする誤った議論に流れてしまうことを防ぐことが可能となると考えられる。
▽ 「違憲審査基準」は結論といえること
「違憲審査基準」とは、憲法に違反するか否かを判断するための「基準」の意味である。
しかし、その「基準」が存在しない中で、様々な検討が行われ、その結果として「基準」が導き出されることで、初めてその「基準」を用いて憲法に違反するか否かを判定することが可能なるというものである。
そのため、どこの線が憲法に違反するか否かを決める「基準」になるかを検討する過程においては、未だに「基準」は存在しないのであるから、「権利」の性質や法令の「目的」と照らし合わせて「考慮要素」や「識別指標」を用いることで「基準」となるものを見出していく作業を行うことになる。
そして、この「基準」が明らかになった段階で、問題となっている法令上の規定がその「基準」に当てはまるか否かを「審査」し、その規定が憲法に違反するか否かが導き出されるというものである。
ただ、「違憲審査基準」という言葉は、「基準」と「審査」の言葉が使わている性質上、「基準」に適合するか否かを「審査」することによって「違憲」か否かが導き出されるというところに焦点があるような語感となっている。
つまり、この「審査」という言葉は、(「権利」の性質や法令の「目的」を照らし合わせて「考慮要素」や「識別指標」を用いて導き出された結論としての)「基準」に適合するか否かという部分を主な対象とする意味として使われているように見えるということである。
そのため、「権利」の性質や法令の目的を照らし合わせて「考慮要素」や「識別指標」を基にして「基準」そのものを導き出していく過程については、この「審査」という言葉に含まれていないように見受けられる。
そうなると、この「違憲審査基準」という言葉に対して「論」を加えて、「違憲審査基準論」と呼び、「権利」の性質や法令の目的を照らし合わせて「考慮要素」や「識別指標」を用いて「基準」そのものを導き出すという段階の話をしていることは、「基準」に当てはまるか否かを「審査」するという意味と、「基準」そのものが存在しない中で「基準」そのものを見出そうとする過程の話とを混同したまま用いているものと考えられ、言葉の選択として妥当でないと思われる。
この点の誤解を防ぐためには、下記のように言葉を使い分けることが必要であると思われる。
① 「基準」がない中で、「権利」の性質や法令の目的を照らし合わせて「考慮要素」や「識別指標」を用いて「基準」そのものを見つけ出していく段階
↓ ↓
・違憲審査基準 発見論 (これは、考慮要素・識別指標論のことである。)
② 上記の検討による結論としての「基準」が存在する中で、具体的な法令上の規定がその「基準」に適合するか否かを「審査」して、憲法に違反するか否かを判断する段階
↓ ↓
・違憲審査基準 適合性判定論
この点の違いを意識することで、従来より使われている「違憲審査基準論」という言葉のイメージによって生じる誤解を防ぐことが可能になると考える。
▽ まとめ
憲法に違反するかどうかを判断するための基準が存在しない中では、その基準を導き出すために様々な検討が行われることになる。
そして、その基準が明らかになった段階で、問題となっている法令がその基準に適合するかどうかを審査し、憲法に違反するかどうかを結論付けるという流れとなる。
① 基準の導き出し:基準が存在しない中では、権利の性質や法令の目的から「考慮要素」や「識別指標」を用いながら基準を導き出していくことが必要である。
② 基準に適合するかの判定:基準が明らかになった後、法令がその基準に適合するか否かを判定し、憲法に違反するか否かを結論付ける。
基準が存在しない中で基準を見出す過程と、その基準に基づいて判定を行う過程を区別することが必要である。
つまり、「基準を導き出すプロセス」と「基準に基づいて判定するプロセス」の違いを押さえて検討することが必要である。
〇 国民の賛否を集約することは「政治部門」の役割であること
特定の政策に対する国民の賛成意見や反対意見を集約し、憲法の枠内で政策を選択することは、政治部門である国会や内閣以下の行政機関の役割である。
そのため、裁判所が国民の賛否を勘案するなどして判断を行うことはできない。
また、司法権の行使においては、法令に違反するかという合法・違法の判断のみしか行うことはできない。
そして、法令に記された規範の意味は国民の賛否によって変化するものではないことから、国民の賛否を勘案することによって結論を導き出すことができるというものではない。
そのため、政治部門の政策的な議論に任せるべき領域の事柄を勘案して判断を行うことは、司法権の範囲を逸脱するものとなる。
また、政治部門の政策的な議論に任せるべき領域の事柄に対して裁判所が意見を述べることも、司法権の範囲を逸脱するものである。
〇 社会の変化を受け止めることは「政治部門」の役割であること
憲法の枠内で、「社会の変化を受け止める」という形で特定の政策を実施するか否かを判断することは、政治部門である国会や内閣以下の行政機関の役割である。
司法府である裁判所は、合憲・違憲、あるいは合法、違法の問題しか判断することができず、これは条文に反するか否かを判断することによって結論が導き出される問題であることから、「社会の変化を受け止める」という形で結論が左右されるというものではない。
そのため、司法権の行使の過程において、「社会の変化を受け止める」という形で何らかの結論を導き出そうとすることは誤りである。
その時々の「社会の変化を受け止める」という形で法規範を改正したり、廃止したりして制度を変更することができるのは、立法府の国会である。
そのため、「社会の変化を受け止める」という形で法令を立法するか、改正するか、廃止するかを選択することは立法府の国会の役割であり、司法府の裁判所がこれにあたる行為を行ってはならない。
そのことから、司法府の裁判所が「社会の変化を受け止める」という形で法令に定められている規範の意味を変更することができるかのような前提で論じることは誤りとなる。
また、国家の作用のうち「立法権」「行政権」「司法権」の三権の中で司法権しか有していない裁判所の立場では、法令に違反するか否かという問題を超えて、立法府である国会や行政府である内閣以下の行政機関の実施する政策の当否について論じることはしてはならない。
そのため、国会や内閣以下の行政機関に対して「社会の変化を受け止める」べきであるとか、「社会の変化を受け止める」とすればこのような結論となるはずであるとか、このような政策を実施することが望ましいなどという形で意見を述べることは、憲法76条1項の司法権の範囲を逸脱するものとして違憲となるし、憲法41条の立法権や憲法65条の行政権を侵害するものとして違憲となる。
〇 「時代の進み論」に陥ってはならないこと
法令は予め言語によって規範を定め、その規範に従う形で具体的な事案を処理することで紛争を解決しようとするものであり、その規範の意味が「時代の進み」を理由として揺れ動くということはない。
それまで不明確だった部分が、学術的な理解が進むにつれて明確となり、新たな規範が発見されるという形でより普遍性の高い基準が見出されるということはあり得るが、それは「時代の進み」に合わせる形で規範の意味を読み替えることが可能となるという性質のものではない。
そのため、時代が進めば合憲であったものが違憲になり、逆に、違憲であったものが合憲になるという性質のものではない。
もしこのように論じることが可能であるとすれば、ある時期には時代が進むことによって合憲のものが違憲と判断さたが、その後、また時代が進むことによって違憲のものが合憲となると論じることもまったく同様に可能ということになる。
そのため、このような「時代の進み」を根拠とする論じ方は、結局、どちらの方向の結論を述べる場合であっても、何らの論理的な根拠を示すものではなく、単に法の支配を逸脱し、裁判官が特定の結論を導き出すために使っているそれらしく見せかけるための理由付けを述べているだけということになる。
よって、「時代の進み論」は論じ方として不適切である。
この点について、下記の記事が参考になる。
この記事の内容は、憲法改正について論じているものであるが、解釈を変更することができるかどうかを検討する場面においても共通性を見ることができる。
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このように、学問の目的はおしなべて「真理の探究」という点にあるわけですが、先ほども述べたように、憲法も「法」であり学問の一つである以上、その論理は当てはまります。
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この点、「真理」とは物事の本質であり「矛盾がない」状態を言い、またこの宇宙が存在する限り「普遍的」にゆるぎないものを言いますので、憲法の真理は「矛盾のない普遍的なもの」と言い換えることができます。
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そこで考えられたのが「法」です。「法」は形而上の世界の絶対的な価値観である「哲学」や「宗教」などによって導き出される命題を、形而下にある現実世界で具現化させるために用いられますので、「法」の根源(真理)には「哲学」や「宗教(神学)」などによって導き出される絶対的・普遍的な命題が内在されているといえます(※ちなみに法学は「形而下学」と呼ばれます)。
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ですから、現代に生きる我々は、哲学的命題という絶対的普遍的な価値観と矛盾しない憲法を追求することが求められているのであり、その哲学的命題という宇宙の真理に矛盾しない憲法を求めるために日々議論を重ねなければならないと言えるのです。
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「憲法は時代に合わせて変えるべき」とか「実態社会に適合しなくなった憲法は変えるべきだ」という主張はもっともらしく聞こえますが、実はもっともな主張とは言えません。
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このように、「憲法は時代に合わせて変えるべき」という主張は本来的にファシズムや極右思想や全体主義を呼び込む危険性を包含していることを考えれば妥当な思想ではありません。
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憲法は何を目的として改正されるべきなのか 2018.12.29
このように、解釈の変更は、より普遍性の高い規範が発見された場合に限り認められるべきものであり、そうでない場合に「時代の進み」を理由として変更を認めることは適切ではない。
もし「時代の進み」を理由として変更を認めた場合には、そのような変更は法的安定性を損なうものとなるし、国会の立法権や憲法改正の手続きを侵害するものとして司法権により正当化することのできないものとなる。
よって、「時代の進み」を理由として、法規範の意味が揺れ動き、その揺れ動いた意味に合わせて解釈を変更したり、特定の結論を導き出したりすることができるかのように述べることは誤りである。
〇 新たな制度の創設を国家に対して求める主張は憲法違反の理由にはならないこと
憲法上の具体的な条文によって制度の創設が要請されていないのであれば、特定の制度が定められていないことが理由となって憲法に違反するということにはならない。
そのため、新たな制度の創設を国家に対して求める主張は、憲法に違反するという根拠にはならないものである。
具体的な訴訟の中では当事者から様々な主張がなされることがあるが、その内容を整理すると、結局はこのような主張となっていることがある。
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そうすると,原告らが「婚姻の自由」として主張するものの内実は,「両性」の本質的平等に立脚すべきことを規定する憲法24条2項の要請に従って創設された現行の婚姻制度の枠を超えて,同性間の人的結合関係についても婚姻と同様の積極的な保護や法的な利益の供与を認める法制度の創設を国家に対して求めるものにほかならないのであって,国家からの自由を本質とするものではないから,このような自由が憲法13条の幸福追求権の一内容を構成するものと解することはできない。
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【九州・第6回】被告第4準備書面 令和3年l0月29日 PDF
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そうすると、原告らが本件規定により侵害されていると主張する権利又は利益は、憲法24条2項の要請に基づき、異性間の人的結合関係を対象とする婚姻について具体的な内容として定められた権利又は利益であり、結局のところ、これらが侵害されたとする原告らの主張の本質は、同性間の人的結合関係についても、異性間の人的結合関係を対象とする婚姻と同様の積極的な保護や法的な利益の供与を認める法制度の創設を国家に対して求めるものに他ならない。
従って、本件規定が「婚姻の自由」ないし婚姻に伴う種々の権利及び利益を奪うものとはいえないから、原告らの主張は理由がない。
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【東京二次・第5回】被告第3準備書面 令和4年6月20日
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控訴人らが本件規定により侵害されていると主張する権利又は利益の本質は、結局のところ、同性間の人的結合関係についても異性間の人的結合関係を対象とする婚姻と同様の積極的な保護や法的な利益の供与を認める法制度の創設を国家に対して求めるものにほかならず、法制度を離れた生来的、自然権的な権利又は人格的生存に不可欠の利益として憲法で保障されているものではないから、このような内実のものが憲法13条の規定する幸福追求権の一内容を構成すると解することはできない。……(略)……
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【札幌・第4回】被控訴人第2準備書面 令和5年6月8日 PDF
〇 別の制度を取り上げてそれと比較して論じることはできないこと
法律上によって具体的な制度が定められることによって初めて捉えられる事柄について論じられている場合を考える。
それについて、現在の制度について憲法に違反するか否かを審査し、もし憲法上の何らかの規定に違反することになるとすれば、それは単に、その制度が失効し、その制度が廃止されることになるものである。
そうなった場合には、その制度そのものを無効としたままその状態を維持するか、その制度に代わる別の制度を構想するかは、その後、国会が立法裁量の中において判断することになるものである。
それにもかかわらず、この点を差し置いて、現在の制度に対する形で別の制度を取り上げて、その別の制度が存在しないことをもって憲法に違反するなどという主張は、現在の制度の内容が憲法に違反するか否かという問題を超えて、特定の内容を持つ制度の創設を国家に対して求めるものに他ならないのであり、立法権の内容に踏み込む主張であるということになる。
これは、憲法に違反するか否か、あるいは、法令に違反するか否かという問題しか判断することのできない司法権を行使するという枠の中で論じることのできるものではない。
そのため、数ある制度の構想の中の一部に過ぎない別の制度を取り上げて、それと現在の制度を比較することによって憲法に違反するか否かについての結論を導き出すことができるかのような前提で論じることは誤りである。
よって、憲法に違反するか否かという法的な審査として論じる中において、数ある制度の在り方の中の一つに過ぎない別の制度を持ち出して、それが定められていないことを理由として現在の制度が憲法に違反するなどという論じ方は、意味の通らないものである。
(これは、『国家からの自由』という『自由権』に対する制限が存在する中において、より制限的でない他の選びうる手段の存否を検討するものとは異なり、法律上で定められる制度によって初めて捉えられる事柄についての審査の場面の議論である。)
〇 例外を理由にして原則を変えることはできないこと
ある立法目的を達成するための手段として一定の規範が導き出され、それが「原則」として定められることになる。
その後、その「原則」に対して、特定の目的を達成するための手段として別に「例外」的な規範が設けられることがある。
そこで、「例外」的な規範が存在することを理由として、「原則」となっている規範を維持する理由がないだとか、「原則」となっている規範の立法目的は既に失われているなどとして、「原則」となっている規範を変更するべきであると主張する者が現れることがある。
しかし、その「例外」の規範の位置付けは、あくまで「原則」の規範が存在し、その「原則」の規範が維持されていることによって初めて「例外」の規範として成り立つことのできる事柄である。
そのため、その「例外」となっている事象を捉えて、あたかもそれが「原則」の中の一部であるかのような位置づけで認識し、立法目的を再定義しようとする試みによって制度の変更を求めることができるということにはならない。
「例外」は、あくまで「原則」を損なわせない中に位置づけられることによって「例外」としての立ち位置を保つことができるものである。
それにもかかわらず、「例外」が存在していることを理由として「原則」の方を変更しようとすることは、そもそもその制度が本来的に意図している目的を達成するための機能を果たさないものへと変容させてしまうことに繋がることになる。
もしそのようにして「原則」が覆されることになれば、その「原則」が定められている規範の意味そのものを破壊することとなってしまう。
そのため、「例外」の規範が存在することを理由として、「原則」となっている規範の機能を損なわせるような変更が可能となるということはない。
そのことから、「原則」として位置付けられている規範と「例外」として位置付けられている規範を区別せずに、「例外」として位置付けられている規範があたかも「原則」の中にあるものとして位置づけられているかのように前提となっている位置づけを捉え変えた上で主張する言説を基にして、「原則」となっている制度の変更を許すことはできない。
もし「例外」的な事例を理由として「原則」の方を変えようとしても、そのような変更は「原則」となっている規範が目的を達成するための手段として機能することを損なわせることに繋がるため、それが許されるということはない。
むしろ、このような「原則」と「例外」の間で一貫性が保たれていないというのであれば、「例外」的な事例に関する規定の方が廃止され、もともとの「原則」に関する規定だけが残るという形で解決が図られることになるものである。
制度には「原則」と「例外」の関係があり、これらを区別することによって初めて「例外」の制度は成り立つことができるのであり、その「例外」の存在を理由にして「原則」の方を変えるべきであると主張することはできない。
あくまで「原則」の制度が機能することを前提に、「例外」となる制度は、その「原則」が保たれていることによって初めて存立することができるという位置付けのものである。
そのため、この「例外」として位置付けられている制度が存在することを理由にして、「原則」となっている制度そのものについての立法目的が変容しているだとか、「原則」となっている制度の機能は失われているだとかを主張して、「原則」となっている制度そのものを変更することができるということにはならない。
むしろ、「原則」と「例外」の間で一貫性が保たれていないというのであれば、「例外」の方こそが存在を許される理由がなくなり、その結果、その「例外」について定めた制度の方が廃止されるという方向で整理され、「原則」となっている制度のみが残るという形で解決が図られることになるものである。
そのため、「例外」の存在を理由として「原則」となっている制度の方を変更するように迫る主張は、「例外」が「例外」として成り立つための根拠を破壊してまで制度を変更しようとしている点で誤りである。
また、このような主張は、「例外」の存在を理由として「原則」となっている制度の内容を自らが望む形へと自由に変更することができるかのような前提で論じている点においても誤りである。
よって、「例外」の存在を理由として、「原則」となっている制度に不備があるかのように論じ、そのことを根拠として憲法に違反するなどと主張することは意味の通らないものである。
▽ 「原則と例外の逆転論法」に陥ってはならない
ある規定と別の規定が一見矛盾しているように見えるときには、それらの規定を整合的に読み解くために、それらの規定の関係を「原則」と「例外」の関係に整理して認識することが必要となる。
そして、その「原則」と「例外」の関係が存在する中において、その両者の間で一貫性が保たれていないというのであれば、立法政策としては「例外」として位置付けられている制度の方を制度の機能の一貫性を保つことに沿わないものとして失効させ、「原則」に立ち戻るという形で解決が図られることになるものである。
それを、「例外」の存在を理由として「原則」の方を覆すことになれば、その制度が本来予定している機能が損なわれ、制度全体を整合的に理解することができないものへと変容させてしまうこととなる。
これは、制度そのものを一貫性のある筋の通ったものとして成り立たせることを不能としてしまうことになるため、方法として誤りである。
「例外」として位置付けられている制度が存在することを理由として、あたかもそれが「原則」であるかのような前提の下に論じ始めるなどし、本来の「原則」となっている制度の方について憲法に違反すると述べるようなことになってはならない。(原則と例外の逆転論法)
「原則」と「例外」の関係が存在し、その両者の間で一貫性が保たれていないというのであれば、本来であれば「例外」として位置付けられている制度の方こそが制度の理念の一貫性を保つことに沿わないとして廃止するという形で整理され、解決が図られることになるものである。
それにもかかわらず、その「原則」と「例外」の関係を逆転させて考えて、「原則」となっている制度の方が憲法に違反するかのように述べて、その「原則」について定めた制度の方を変更させることによって解決を図ろうとすることは、誤っているといえる。
〇 制度に対する不満は憲法違反の理由とはならないこと
法制度が自らの望む形で定められていないことに対する不満や憤りの気持ちをどのように考えるかについては、下記が参考になる。
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このように、原告らの主張は、結局のところ、自らの思想、信条、政治的見解等と相容れない内容である本件各行為が行われたことにより、精神的な苦痛を感じたというものであるところ、多数決原理を基礎とする代表民主制を採用している我が国においては、多様な意見を有する国民が、表現の自由、政治活動の自由、選挙権等の権利を行使し、それぞれの立場・方法で国や政府による立法や政策決定過程に参画した上で、最終的には、全国民の代表者として選出された議員により組織される国会において個々の法令が制定されるのであるから、その結果として、ある個人の思想、信条、政治的見解等とは相容れない内容の法令が制定されることは、全国民の意見が一致しているというおよそ想定し難い場面以外では、不可避的に発生する事態である。そうすると、自らの思想、信条、政治的見解等とは相容れない行為が行われたことで精神的苦痛を感じたとしても、そのような精神的苦痛は社会的に受忍しなければならないものというほかない。
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国家賠償請求事件 高知地方裁判所 令和6年3月29日 (PDF)
このように、自身の望む法制度が定められていないことに対する不満や憤りの感情(憤慨)を持つ場合があるとしても、民主主義の下では当然、そのような自らの望む形で法制度が定められていないという事態が生じることは予定されているものである。
そのため、このような事柄を述べたとしても、これは憲法上の条文を用いて下位の法令の内容を無効としたり、特定の制度を創設するように国家に対して求めることができるとする根拠となるものではない。
よって、そのような事柄を取り上げて、それを憲法に違反すると結論付けるための根拠として論じることは誤りである。
「公共の福祉」による調整の例
長谷部恭男の人権制約原理が分からない
筆者も勉強中であり、内容は修正していく可能性があるが、現在の疑問点を挙げておく。
憲法学者「長谷部恭男」は、書籍「憲法講話 24の入門講義」の中で、「基本権」という用語を用いていることが多い。
この「基本権」という用語の使い方を、下記の資料で確認する。
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これに対して、法実証主義法学の影響が強いドイツでは、自然権的な人権(Menschenrechte)と区別された実定法上の基本権(Grundrechte)を問題にしてきた。このためドイツ憲法学に依拠する日本の学説では、人権の用法を自然権的に狭義に捉え、憲法上の権利には『基本権』の語をあてる用法が一般的であり、『憲法上に明文上ないし解釈上の十分な根拠を有する場合』に基本権と称する用法が採用される(初宿・憲法2〔基本権〕43頁)。
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憲法 第6版 辻村みよ子 (P96) (下線・太字は筆者)
長谷部恭男は「一元的内在制約説」について、「現在ではもはや、標準的な見解とは考えられていません。(憲法講話 24の入門講義 長谷部恭男)(P65)」としている。
しかし、人権を長谷部のように「基本権」と捉える見解によれば「一元的内在制約説」と親和的でないと考えられるとしても、人権を「自然権」を中心として広がりをもつ概念と捉える場合には、「一元的内在制約説」と親和的であるように思われる。
また、「基本権」とは憲法によって実体化されることによってその境界線が定まり、守備範囲が確定する性質のものと考えられる。そのため、その境界線が確定する段階以前の段階においては、人権概念は無制限に広がっており、その個々人が持つ人権と人権の間に矛盾・衝突が存在するはずである。それを調整する中に人権の制約範囲が確定すると考えることの方が、より概念の源流に遡った根源的な理解を可能とするのではないかと思われる。
「一元的内在制約説」は、憲法が存在せずとも、また、国家の統治権との関係を想定せずとも、一人一人の持つとする「人権」を軸として制約範囲を描き出し、確定することができる。そのため、より倫理的な側面から、実定法に記載がない場合についても人と人との良識を基準として制約範囲を導き出すことができるという理念の側面が込められているように思われる。
長谷部恭男は上に挙げた図の人権のイメージの山の上部の緑色の部分を「基本権」と呼んで、それを前提にその限界と制約を論じようとしているように思われる。
しかし、「一元的内在制約説」で論じる者は、山の広がりの全てを「人権」と呼んで、それを前提にその限界と制約を論じようとしている点で、長谷部恭男の言う「基本権」とは異なるように思われる。
そのため、長谷部恭男が「一元的内在制約説」の論者を批判しようとしても、そもそも論じようとしている対象が異なるように思われる。
【参考】高橋和之先生 vs 長谷部恭男先生 Twitter
憲法学者「長谷部恭男」の人権に関する下記の論じ方には疑問がある。
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現在では、①各基本権はそもそも保護する範囲が限られている(たとえば、職業選択の自由は窃盗の自由や詐欺の自由を保護していないし、表現の自由はわいせつ表現の自由や他人の名誉を棄損する自由を保護していない)、②基本権として保護された行為が制約を受けている場合も、その制約が目的に照らして十分な根拠にもとづいており、かつ、均衡のとれた手段として正当化されるのであれば、憲法違反とはならない、という考え方が、日本のみならず、世界各国で広く受け入れられています。
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憲法講話 24の入門講義 長谷部恭男 (P65~66) (下線は筆者)
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とはいえ、どんなことでも表現のし放題かといえば、そうではありません。そもそも憲法による保護に値しない表現活動もあると考えられています。わいせつ表現、他人の名誉の侵害、犯罪や違法行為のせん動などがそれにあたります。
ただ、こうした考え方を逆手に取られて、「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」とされる行為がむやみに拡大していくと、表現の自由の保護が絵に描いた餅になってしまいます。そこで、これらの行為を制約する根拠となる社会的な公益と表現の自由の価値とをはかりにかけた上で、どのような行為が「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」に当たるかを定義づける試みがなされてきました。定義づけ衡量(definitional balancing)と呼ばれるアプローチです。
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憲法講話 24の入門講義 長谷部恭男 (P84) (下線は筆者)
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⑺ 差別的言論 近年では、特定の人種や民族を侮辱したり、こうした人たちの生命・身体等に危害を加えることを告知したりする言動も、表現の自由の保護範囲から外すべきだとの議論があります。日本でも二〇一六年に「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」が制定され、この種の言動の解消に向けた措置を政府や地方自治体が講ずるべきだとしています。ただし、こうした差別的言動を行ったとしても、刑事罰の対象とはなりません。
一般論としては、伝統的に保護範囲外とされてきたわいせつ、名誉棄損、せん動等に新たなカテゴリーを加えることには慎重であるべきでしょう。不当だと考えられる言動であっても、それが名誉棄損や犯罪のせん動に当たらない限りは、その不当性を指摘し批判する言論をもって対抗すべきです。
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憲法講話 24の入門講義 長谷部恭男 (P89) (下線は筆者)
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憲法二二条一項は、職業選択の自由を保障しています。この事由についても、保護範囲を想定することができます。強盗や詐欺を生業とする自由は、憲法で保障されてはいません。当たり前のことなので、わざわざ教科書類には書かれていません。
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憲法講話 24の入門講義 長谷部恭男 (P138) (下線は筆者)
◇ 「表現の自由」に対して、「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」はもともと保障されていない。
◇ 「職業選択の自由」に対して、「強盗や詐欺を生業とする自由(窃盗の自由や詐欺の自由)」はもともと保障されていない。
長谷部恭男は、「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」の表現はそもそも基本権として保障されていないと考えている。
しかし、ある行為が「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」に該当するか否かの線引きそのものは、罪刑法定主義の観点から、刑法典で構成要件が定められることによって初めて確定する性質のものであるはずである。
その刑法典に定められた「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」という基準に基づいて「基本権」としての保護範囲が決せられると考えることはおかしくないだろうか。
まず、ある特定の行為が、刑法典によって「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」という行為が犯罪として分類されることによって初めて、「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」という行為が法による規制の対象として分類されることになる。それ以前の段階では、「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」という表現行為も、他の行為と区別されていない単なる表現行為の一つに過ぎないものである。
しかし、長谷部の言うように「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」の表現はそもそも基本権として保障されていないと考えるのであれば、その刑法による規制の内容が憲法の保障する人権(自由・権利)を不当に侵害するものであるか否かを違憲審査しようとする際に、その判定基準を憲法より下位の法令である刑法上の定義を用いて、そもそも基本権として保障されていないと考えることになってしまう。これでは憲法より下位の法令が憲法に違反しているか否かを判断しようとしているにもかかわらず、その下位の法令の定義を用いて憲法上で保障される人権(自由・権利)の範囲であるか否かを決しようとしていることになるから、違憲審査そのものが不可能となるはずである。
ある表現が刑法上で規制の対象となる「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」に該当するとしても、裁判所でその刑法の規定そのものが憲法上で保障している「表現の自由」を不当に侵害するものであると認定された場合には、その表現は「表現の自由」を根拠として憲法上で保障されるべき対象となるはずである。
そうなれば、ある表現が憲法上の「表現の自由」によって保障の及ぶ対象であるか否かは、裁判所によって「表現の自由」を規制できる場合であるか否かを識別するための違憲審査基準が示されるまで未だ確定していないはずである。
そうであれば、刑法上で規制の対象となる「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」等の表現であることを理由として、そもそも憲法上の「表現の自由」によって保障されないと論じることは、論理的な誤りであるように思われる。
例えば、「水着を着た男女」が「わいせつ表現」に該当して規制の対象となるか否かについては、その社会の人々がどのような認識を有しているかによって刑法によって処罰の対象とするか否かが検討され、法律が制定されることによって決められるはずである。
しかし、裁判所で「水着を着た男女」の段階では未だ「わいせつ表現」に該当せず、「表現の自由」を不当に奪うものであるとして、その刑法を適用すること(適用違憲)や、刑法上の規定そのものが違憲(法令違憲)と判断される可能性も考えられる。
それにもかかわらず、刑法上の「わいせつ表現」に該当すればそもそも「基本権」として保障されていないことを前提とする論理は、「水着を着た男女」という程度の表現を「わいせつ表現」として取り締まることを当然とする論理となってしまうのであり、法律による無制約の人権制限が可能となってしまうはずである。
これは、違憲審査を行うことが不可能となってしまう。
こうなれば、もともと「わいせつ表現」と考えられる可能性のあるものに対しても「表現の自由」という人権の範囲内であることを想定した上で、それが他者の人権との矛盾・衝突の中に規制する対象として許される範囲のものであるか否かが決せられていくという「一元的内在制約説」を用いて考えたほうが、規制の範囲を必要不可欠で最小限度の制約となるように限定的なものへと導こうとすることができ、不当(不必要)な権利制限を防止し、人権保障を広く実現しようとする考え方からは効果的であるように思われる。
憲法学者「宮沢俊義」は下記のように述べている。
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3 人権規制の根拠
憲法における人権の保障に対して多かれ少なかれ加えられる規制を根拠づけるものは何であるか。
この点については、憲法における人権の保障に対しては、どのような規制も許されない、とする見解がある。この見解は、たとえば、表現の自由について、ワイセツ本を禁止することも許されない、というところまで徹底しないかぎり、結局は言葉使いの問題になる。ワイセツ本の例についていえば、その見解は、そもそもワイセツ本を交換するということは、憲法の保障する表現の自由に含まれない、と説く。しかし、そうなると、憲法の保障する表現の自由の限界をきわめることが問題となってくる。たとえば、従来一度もその公刊が許されたことのないような、いわば定評ある(!)ワイセツ本の公刊が憲法の保障する表現の自由に含まれないとして、それでは、「チャタレイ夫人の恋人」はどうか、「セクサス」はどうか、「ユリシイズ」はどうか、「ボヴァリ夫人」はどうか、「鍵」はどうか、というような問題になってくれば、どうしてもどこかに限界線を引かなくてはならなくなる。その場合、憲法の人権の保障に対してはどのような規制も許されないと考えて、そうした人権といわば非人権とのあいだの限界線を引くことと、憲法の人権の保障に対しては規制が可能であると考えて、そうした規制が許される場合と許されない場合との間の限界線を引くこととは、実際において全く同じことに帰着する。問題は、だから、右の例でいえば、わいせつ文章の禁止を表現の自由に対する規制と呼ぶかどうかの言葉使いの問題にほかならない。この場合、それを人権に対する一種の規制と見て、そうした規制がどこまで許されるか、と問うことは、じゅうぶん理由のある問題の出し方である。
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憲法Ⅱ 宮沢俊義 (P224) (下線・太字は筆者)
長谷部はなぜ刑法典が定められていなければある行為を規制の対象とするか否かの輪郭が定まっていないにもかかわらず、刑法上の定義を利用して憲法上の権利として保障される範囲内であるか否かを決しようとしているのだろうか。
そもそも人権として保障されるか否かが決せられない限りは、その刑法上の規定が合憲か否かが判別できないのであるから、刑法に触れることを理由として「基本権」として保障されないとする論理は採用できないはずである。
そのような考え方は、その刑法の規定に対して違憲審査を行うことを不可能にしてしまう議論であると思われる。
長谷部自身も、先ほど挙げた例の中で、下記のように説明している。
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とはいえ、どんなことでも表現のし放題かといえば、そうではありません。そもそも憲法による保護に値しない表現活動もあると考えられています。わいせつ表現、他人の名誉の侵害、犯罪や違法行為のせん動などがそれにあたります。
ただ、こうした考え方を逆手に取られて、「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」とされる行為がむやみに拡大していくと、表現の自由の保護が絵に描いた餅になってしまいます。そこで、これらの行為を制約する根拠となる社会的な公益と表現の自由の価値とをはかりにかけた上で、どのような行為が「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」に当たるかを定義づける試みがなされてきました。定義づけ衡量(definitional balancing)と呼ばれるアプローチです。
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憲法講話 24の入門講義 長谷部恭男 (P84) (下線は筆者)
その通り、「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」を定義している法が刑法なのであるから、刑法上の定義を根拠として憲法上の「表現の自由」が保障する範囲内であるか否かを考えることは、刑法の規定に対する違憲審査を行うことを不可能とするため妥当でないと考える。
しかし、長谷部は「これらの行為を制約する根拠となる社会的な公益と表現の自由の価値とをはかりにかけた上で、」としている。しかし、この「はかりにかけ」る作業こそが、「一元的外在制約説」から導くか、「二元的外在内在制約説」から導くか、「一元的内在制約説」から導くか、などが検討されている部分であると思われる。
「どのような行為が『わいせつ』『名誉棄損』『せん動』に当たるかを定義づける試み」とあるが、その「定義づける」という価値判断が行われる過程が「一元的外在制約説」「二元的外在内在制約説」「一元的内在制約説」のどれを用いて判定するべきかという問題となっているのではないだろうか。
もし「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」の表現について、刑法で定義することによってその保護範囲が決せられるのではなく、刑法から独立した形で憲法上で保障される権利であるか否かそのものを「定義付け衡量」によって確定しようとしているのであれば、その「定義付け衡量」が行われる価値判断の背景には「一元的内在制約説」による人権の矛盾・衝突を調整する原理が働いていると考えるべきなのではないだろうか。
どのような行為が「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」にあたるかを定義づけることによって「表現の自由」の保護範囲を明らかにしようとする「定義づけ衡量」の手法を用いるとき、それは既に「一元的内在制約説」によって、人権の矛盾・衝突を調整しようとしていることになるのではないだろうか。
その定義づけるための価値の対立を描き出す行為そのものが、「一元的内在制約説」による人権の矛盾・衝突を調整しようとする原理なのではないだろうか。
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このことは、以前からどこでも、一般的に承認されている。何人も自分の考えを表現する自由があるが、それによって、他人の名誉を傷つけることは、禁じられる。言論の自由は、その点で、制約をうける。ワイセツ本を公刊することが禁じられるのも、それが多くの他人の人権を害するとされるからである。
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憲法Ⅱ 宮沢俊義 (P226) (下線は筆者)
それを飛ばして、長谷部が「定義付け衡量」を持ち出し、下位の法令である刑法典に記載された定義や価値観を用いて憲法上で保障される『権利』の範囲内であるか否かを決しようとすることは、上位法である憲法に違反するか否かを下位の法令に定められた基準に従って決しようとするものであることから、違憲審査そのものを不可能としてしまうこととなるはずである。
そのため、このような法律等によって憲法で示されている人権の外側から一方的な形で人権を制約するという「一元的外在制約説」を用いた人権制約原理を採用することは妥当性を欠くものとして否定され、憲法上で示される『権利』と『権利』(人権相互の)の矛盾・衝突を調整する原理としての「一元的内在制約説」によって、憲法上の価値観を基にして規制範囲を確定していく手法を採用することが妥当であるとする結論に至るのであると思われる。
長谷部は「一元的内在制約説」を否定していると思われるが、そもそも長谷部が「どのような行為が『わいせつ』『名誉棄損』『せん動』に当たるかを定義づける試み」そのものが「一元的内在制約説」を基盤としているのではないかと思われる。
長谷部は先ほど示した文の中で、下記のように説明している。
「職業選択の自由は窃盗の自由や詐欺の自由を保護していない」
「表現の自由はわいせつ表現の自由や他人の名誉を棄損する自由を保護していない」
「そもそも憲法による保護に値しない表現活動もある」
「強盗や詐欺を生業とする自由は、憲法で保障されてはいません」
しかし、憲法で保障される『権利』の範囲であるか否かを決する際に用いる価値判断の指針として「一元的外在制約説」「二元的外在内在制約説」「一元的内在制約説」などの考えがが示されているのであり、そのいずれかの考え方の枠組みを採用した結果として、憲法で保障される『権利』の範囲内であるか否かが確定するはずである。
それにもかかわらず、その憲法で保障される『権利』の範囲内であるか否かを確定するための価値判断が行われる以前の段階で、憲法がある特定の行為をもともと保障していないと論じることはできないのではないだろうか。
長谷部は特定の行為について憲法上で保障されていないと考えているようであるが、そもそも特定の行為が憲法上で保障されていないという結論を導き出すための基準や指針として「一元的外在制約説」「二元的外在内在制約説」「一元的内在制約説」などのどの考え方を採用するべきかが提唱されているのであって、その指針を用いずに特定の行為がもともと憲法上で保障されていないと考えることは、それらの指針を用いて判断された後の結論部分のみを正当化しようとしているような議論であるように思われる。
もしかすると、長谷部は「保障」という文言の意味を強く捉えて説明しているのだろうか。憲法上で「保障」されるという結論に達した場合について、「憲法上で保障される権利」として表現しており、それ以前の憲法上で「保障」されるか否かが確定していない段階の「人権(自由・権利)」の広がりについては人権相互の矛盾・衝突が存在すると考えているのだろうか。
しかし、「一元的内在制約説」によって人権相互の矛盾・衝突が調整される結果として、「憲法上で保障される権利」が確定するのであり、長谷部が「憲法上で保障される権利」の範囲を示そうとしている部分とは、それ以前に「保障」される『権利』であるか否かという価値判断が為された後に導かれる結論部分であるように思われる。
・自然権の矛盾・衝突が公共の福祉によって調整される結果、憲法上の『権利』の規定を理由として保障される『権利』の範囲が決定されるのか
・憲法上の『権利』の矛盾・衝突が公共の福祉によって調整される結果、結果的に憲法上の『権利』の規定を理由として保障される『権利』の範囲が決定されるのか
・憲法上の『権利』の規定はもともと保障しようとしている範囲が限定されているのか
長谷部恭男の書籍「憲法 (新法学ライブラリ) 第7版」からも、疑問点を取り上げる。
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もっとも、一元的内在制約説については、より根底的な点で、その妥当性に疑問を呈することもできる。
第一に、人権を制約する根拠となるのは、かならず他の人権でなければならないとの前提は、「人権」という概念をよほど拡張的な意味で用いない限り理解が困難である。たとえば表現の自由を規制する根拠として持ち出される街の美観や静穏、性道徳の維持、電波の混信の防止などは、いずれも個々人の権利には還元されえないものであり、社会全体の利益(公共の福祉)としてしか観念しえない。一元的内在制約説のよって立つ前提は、政府がかならずしも個々人の権利には還元しえない社会全体の利益としての公共の福祉の実現を任務としているという明白な事実をあいまいにするばかりでなく、現にある人権が制約されている以上、その制約根拠となっているものも人権であるという誤った思考を導く危険がある。
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憲法 (新法学ライブラリ) 第7版 長谷部恭男 2018/3/1 (P103~104)
「人権を制約する根拠となるのは、かならず他の人権でなければならないとの前提は、『人権』という概念をよほど拡張的な意味で用いない限り理解が困難である。」との部分であるが、その通り、「人権」という概念を拡張的な意味で用いることによって、人権相互の矛盾・衝突が生じ、それを調整する必要があると考えるものである。
長谷部は「理解が困難である。」として、「一元的内在制約説」を批判しているように見えるが、その通り、「人権」という概念が拡張的な広がりを持つものと考えることによって適切に理解が可能である。
「たとえば表現の自由を規制する根拠として持ち出される街の美観や静穏、性道徳の維持、電波の混信の防止などは、いずれも個々人の権利には還元されえないものであり、社会全体の利益(公共の福祉)としてしか観念しえない。」との部分について、そのような長谷部の認識には疑問がある。
まず、「表現の自由」に対して、「街の美観や静穏」を享受する権利、公共空間における「性道徳」の維持を求める権利、「電波の混信」を防止することによって得られる利益を求める権利など、「個々人の権利」に「還元」することが可能である。そのため、「還元されえないものであり」との認識は、適切でないように思われる。これにより、「社会全体の利益(公共の福祉)としてしか観念しえない。」との結論が導かれるとは思われない。
また、ここで長谷部が「社会全体の利益(公共の福祉)」として用いている「公共の福祉」の文言は、「社会全体の利益」という政策的利益の意味で用いており、「一元的内在制約説」のいう人権制約原理の意味とは異なる意味で用いられていることに注意して読み解く必要がある。
「一元的内在制約説のよって立つ前提は、政府がかならずしも個々人の権利には還元しえない社会全体の利益としての公共の福祉の実現を任務としているという明白な事実をあいまいにするばかりでなく、」との部分であるが、そうとは思われない。
国民主権原理に基づく国家の場合には、政府の行為は国民がどのような政策を求めるかという「幸福追求権」に裏付けられた「選挙権」を行使して行われる政策選択に基づいている。そのため、その政府の行為は国民の有する「個々人の権利」を背景とするものであると考えることができる。
あるいは、政府の活動は「社会全体の利益」というよりも、根源的に国民一人一人の「幸福追求権」を実現する、つまり、人権保障を目的とする活動であると考えることができる。この考え方を前提とすると、上記のように政府の行為の裏側には、国民一人一人の「幸福追求権」に裏付けられた政策選択存在し、それが国民主権に基づいて多数派の民意を形成し、その意思が国家権力を通して現れている、という形で説明する必要はない。単に、政府の活動は個々人の『権利』の実現(人権保障)を行うための調整問題を担当しており、その調整問題を解決することは国民一人一人の『権利』の実現(人権保障)に資することを根拠として正当化されると考えるものである。この考え方は、長谷部のよく論じている「調整問題」を解決することによって得られる利益についても、国民一人一人の人権保障に資するものと考えることが可能である。
そのため、「かならずしも個々人の権利には還元しえない」とは言えないと思われる。
また、先ほど挙げた考え方に基づけば、政府は「個々人の権利」に「還元」することのできる人権保障の実現を任務として活動していることになるから、長谷部のいう「政府がかならずしも個々人の権利には還元しえない社会全体の利益としての公共の福祉の実現を任務としているという明白な事実」との部分は、明白な事実とは言えないように思われる。
その他、日本国憲法の「個人の尊厳(個人の尊重)」の原理から考えて、「社会全体の利益」という漠然とした対象を想定して全体主義的に人権制約を正当化する論理が導かれることを防ぐ必要性が高い。この観点から、「社会全体」という言葉が指し示す裏側には国民一人一人が存在し、それが集合となっているという認識を基底とするべきであると考えられる。こうなると、やはり「個々人の利益」に「還元」する形で人権制約原理を捉えていくことが妥当であるように思われる。
もう一つ、この長谷部の論じる「社会全体の利益としての公共の福祉の実現を任務としている」との部分の「公共の福祉」の文言も、「社会全体の利益」という政策的利益の意味で用いているものであり、「一元的内在制約説」のいう人権制約原理の意味とは異なることに注意して読み解く必要がある。
「現にある人権が制約されている以上、その制約根拠となっているものも人権であるという誤った思考を導く危険がある。」との部分であるが、特に「誤った思考」ではないように思われる。
まず前提として、例えばある人が雪崩に巻き込まれて身動きが取れない状態となった場合には、その人の身体的な自由は奪われた状態であることから、一応「人権が制約されている」と言うことができる。しかし、このような事例は法的に正当化できる人権制約原理に基づいて「人権が制約されている」という状態となっているわけではないため、この議論の対象からは除く。
また、国家権力がある特定の人を違法に逮捕・監禁し、ある人の身体的な自由を不当に奪った場合についても、一応「人権が制約されている」ということができる。しかし、このような事例も、もともと国家の違法な行為が原因であることから、法的に正当化できる人権制約原理に基づいて「人権が制約されている」という状態となっているわけではないことから、この議論の対象からは除く。
問題は、人権制約原理に基づく調整の結果、「人権が制約されている」状態が法的に正当化できる適法な状態とされる場合である。この「人権が制約されている」状態であるにもかかわらず、法的に正当化でき、適法とされる場合の制約の根拠は、何らかの形で「他者の有している人権」との間に発生した矛盾・衝突の調整が行われていると考える。逆に、他者の有している人権を一切犠牲にしないのであれば、あらゆる行為は無制約に可能と考えるべきであり、それを制約することは無意味であるし、正当化根拠を持たないと考えられる。
下記は、憲法学者「美濃部達吉」の大日本帝国憲法に関する解説であるが、これと同じことを意味していると思われる。
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一 法の内容
法はその内容に於ては、社會生活に於ける人類の意思の強要的規律なり。
(一)法は社會生活に於て存す。社会生活とは多数の人が相互に精神的又は物質的の交渉を有する生活を謂う。一人孤立して生存し、他人と生活上の交渉なきに於ては、其の生活は絶對に自由にして、法の存すべき餘地なし。多數人が相互にして交渉ある生活を爲し一人の爲す所が精神的又は物質的に他人に影響する場合に於て、初めてその相互の間に意思の活動に關する規律の存在あることを要す。社會生活の存在は法の存立する前提にして、社會なければ法あることを得ず。一方に於ては社會ある所は必ず法あり、如何なる社会生活と雖も法なくして存立することは不可能なり。法は社會と共に存し、社會の變遷に伴ひて變遷す。
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憲法撮要 美濃部達吉 有斐閣 昭和21 (P1~2) (カタカナをひらがなにしている。また、漢字が正確に反映できていない場合がある。) (下線は筆者)
【動画】【司法試験】<無料体験>2023年合格プレミアムコース開講!伊藤塾長の講義を体験しよう~基礎マスター憲法1-3~ 2023/4/11
このように考えるならば、法的に正当化でき、適法な形で「現にある人権が制約されている」のであれば、「その制約根拠となっているものも人権である」と考えることは可能である。そのため、特に「誤った思考」が存在するとは思えない。
「わいせつ」「名誉棄損」「せん動」「強盗」「詐欺」などの行為についても、それらが他者の有している人権を犠牲にする行為であるからこそ、刑法などの法律によって規制することが正当化されると考えるのである。
むしろ、他者の有している人権を何ら犠牲にすることがない行為であるにもかかわらず、その行為が法律によって規制されているのであれば、その法律上の規制は正当化することはできず、国民の人権(憲法上の権利と言っても良い)を不当に制約する規制であるとして違憲・無効と判断されることとなる。
そのため、長谷部の言う「誤った思考を導く危険がある。」との部分は、特に誤っているように感じられず、意味がよく分からない。
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第二に、一元的内在制約説は、人権が本来互いに矛盾・衝突するものであって、それを調整するために公共の福祉に従って制約されざるをえないものであるとするが、そこには、およそ人は自らの好むことは何であれこれをなしうる天賦の「人権」を有するという前提がある(樋口・憲法200-03頁)。つまり、人は財産権や表現の自由を有するのみでなく、人殺しをする自由、強盗をする自由、他人を監禁・暴行する自由などを天賦人権として有する。このような無制限の自由を各人が好むところに従って行使したとき、社会生活が成り立たないことは明らかであり、「人権」は公共の福祉の観点から制約されねばならない。殺人や強盗、暴行、監禁が制約されることと、所有地の建築制限、デモ行進の時・所・方法の規制、職業の許可制などは、同じ公共の福祉という概念で一元的に説明がつくことになる。
判例の中にも、……(略)……
「一応の自由」としての人権?
しかし、このような考え方は我々の直観に反する。まず、表現の自由や思想・良心の自由など、我々が通常「人権」として想定するものは、殺人の自由や強盗の自由と同列に論じられるべきものではない。標準的な社会契約論によれば、人々は生来の人権をよりよく保全し、共同生活の便利を享受するためにこそ国家を設立したはずであるが、その際、人々がよりよく保全しようとした自然権に、殺人の自由や強盗の自由が参入されていたとは考えにくい。そもそも他者と共存可能な存在として人間を考える限り、他者へ危害を加える自由は、そのような人間の属性に含まれ得ないはずである。
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憲法 (新法学ライブラリ) 第7版 長谷部恭男 2018/3/1 (P104~105)
「第二に、一元的内在制約説は、」から始まる段落は、「一元的内在制約説」の立場を説明したものであり、妥当な理解であると思われる。
しかし、その後、長谷部は「このような考え方は我々の直観に反する。」としているが、特に直観に反しないと感じる読者は、どうすればいいのだろうか。
「表現の自由や思想・良心の自由など、我々が通常『人権』として想定するものは、殺人の自由や強盗の自由と同列に論じられるべきものではない。」との部分であるが、特に同列に論じても問題ないと考える。
なぜならば、罪刑法定主義の観点から、ある一定の行為が刑法という法律上で構成要件として定められ、「殺人」や「強盗」という名前をもって違法化されるまでは、それは犯罪でもなければ、法的な規制の対象ともなっていないのであり、本来的には「自由」な行為の一つと考えることが可能だからである。ただ、そのような行為は他者の人権を犠牲にすることから、その「他者の人権」とそれらの「一定の行為を行う自由」という人権と人権の矛盾・衝突を調整する結果として、刑法上で規制の対象とすることが正当化されると考える。つまり、「殺人」や「強盗」を規制する刑法上の規定は、行為主体の人権を不当に、不必要に制約するものではなく、合憲ということである。
これは、「表現の自由」に対して行われる「一元的内在制約説」に基づいた人権制約とまったく同じ原理に基づくものである。そのため、同列に論じることは可能である。(『思想・良心の自由』については、内心にとどまる限り絶対的な保障であると考えられることから、ここでは人権制約原理と共に論じることは避ける。【動画】ただ、もし『念力』で直接的に人を殺すことができる力などが科学的に証明されるようなことがあれば、『思想良心の自由』についても人権制約原理の対象となると考えられる。〔刑法の実行行為に当たるか否かについて【動画】〕)
むしろ同列に論じることのできる一般化可能な人権制約原理を検討する中に「一元的内在制約説」が生まれたと考えられる。
そのため、長谷部がなぜ「同列に論じられるべきものではない。」と考えているのかよく分からない。
「人々がよりよく保全しようとした自然権に、殺人の自由や強盗の自由が参入されていたとは考えにくい。」との部分であるが、特に「考えにくい」ということはないように思われる。
例えば、「殺人」や「強盗」という行為についても、刑法上において「正当行為」や「正当防衛」、「緊急避難」などに該当した場合には違法性が阻却される場合があり得る。そうなれば、「正当行為」や「正当防衛」、「緊急避難」として行われた「殺人」や「強盗」については、その行為を行った主体はその行為の違法性を阻却することを求める『権利』を有しており、その『権利』を保障する必要がある。(この『権利』は、自然権と見ることもできるし、31条の『適正手続きの保障』や32条の『裁判を受ける権利』と見ることもできる。)
そうなると、あらゆる行為は基底的な部分では「自然権」に裏付けられており、もともとはどのような行為を行う自由も存在していたが、他者の人権を犠牲にする(不当に侵害する)こととの調整の結果として、「殺人の自由」(殺人という行為を行う自由)や「強盗の自由」(強盗という行為を行う自由)が制約される、あるいは制約して規制の対象とすることが正当化されると考えることが十分に可能であるように思われる。
そのため、特に「自然権」に「参入されていたとは考えにくい。」との認識は導かれないように思われる。
「他者へ危害を加える自由は、そのような人間の属性に含まれ得ないはずである。」との部分であるが、いかなる行為が「他者へ危害を加える」こととなるのかは、一般に刑法典によって構成要件が定められることによって規制範囲が定められるのであり、そのような刑法上の規制が定められていない段階で「他者へ危害を加える」行為であるか否かは識別できないはずである。
また、「他者へ危害を加える」行為であるか否かは、他者の人権との相互の矛盾・衝突を調整する原理としての「一元的内在制約説」を用いた上で現れるのであり、その人権相互の矛盾・衝突を勘案しないままに「他者に危害を加える」行為であるか否かは識別できないはずである。
そのため、長谷部が「このような考え方は我々の直観に反する。」としている点は、共感することができない。
他の資料も確認する。
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「(1)個人の自律 公共の福祉に還元されえない人権 もし人権保障の根拠が、通説の主張するように、結局は社会全体の利益に還元されてしまうのであれば、公共の福祉とは独立に、人権とは何かを考える意味はほとんどない。自らの人生の価値が、社会公共の利益と完全に融合し、同一化している例外的な人を除いて、多くの人にとって、人生の意味は、各自がそれぞれの人生を自ら構想し、選択し、それを自ら生きることによってはじめて与えられる。その場合、公共の福祉には還元されえない部分を、憲法による権利保障に見る必要がある。少なくとも、一定の事項については、たとえ公共の福祉に反する場合においても、個人に自律的な決定権を人権の行使として保障すべきである。いいかえれば、人権に、公共の福祉という根拠に基づく国家の権威要求をくつがえす「切り札」としての意義を認めるべきである。……
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4 「切り札」としての人権 PDF (P5) (下線は筆者)
上記の内容は、「公共の福祉」の意味を「福祉政策」を意味する言葉として捉える前提認識に基づいて論じるものとなっている。
しかし、通説とされている「一元的内在制約説」は、人権相互の矛盾・衝突を調整する部分を「公共の福祉」と呼んでいると考えられる。
そのため、ここで「通説の主張するように、結局は社会全体の利益に還元されてしまうのであれば、」との記載があるが、「一元的内在制約説」は「公共の福祉」を「社会全体の利益」という意味で用いておらず、「人権」についても「社会全体の利益に還元」されるような概念として論じているものではない。
そのため、そのような前提から「一元的内在制約説」を批判しようとしても、もともと前提認識がズレており、批判になっていないように思われる。
「公共の福祉には還元されえない部分を、」の部分であるが、「一元的内在制約説」に基づく「公共の福祉」の意味で捉えると、この部分は人権相互の矛盾・衝突を調整する中で奪われない部分を見出すべきことを論じようとするものと理解できることから、意味は通じる。しかし、先ほど挙げたように「公共の福祉」の意味を「社会全体の利益」と捉えて読み解くと、意味は異なる。
これについては「たとえ公共の福祉に反する場合においても、」の部分や、「公共の福祉という根拠に基づく国家の権威要求」の部分も同様である。
この点の前提認識のズレによって、批判しようとしている対象を正しく捉えられていないように感じられる。
書籍「憲法の理性 2006/11/1」(新しいものは『憲法の理性
増補新装版 2016/4/9』が出版されているようである)についても検討する。
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(2)「切り札」としての人権と公共の福祉にもとづく権利
「人権」ということばは、さまざまな意味で用いられ、現在では、憲法上保障された権利をすべて人権という用法が一般的である。しかし、個人が生来、国家成立前の自然状態においても享有していたはずの権利という、人権本来の意義に即して言えば、個人の自律を根拠とする「切り札」としての権利のみを人権と呼ぶのがより適切である。
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憲法の理性 2006/11/1 (P80)
との記載がある。
この議論を深めるにあたって、「憲法上保障された権利をすべて人権という用法が一般的」との説明を詳しく検討する。
当サイト筆者は、「人権」は一つであると考えている。そして、その「人権」の形をどのように切り出すかの問題において、憲法上で明文化されているか否かが決められていると考えている。
それは、「契約」という一つの現象に対して、民法上で「贈与」「売買」「交換」「消費貸借」「使用貸借」「賃貸借」「雇用」「請負」「委任」「寄託」「組合」「終身定期金」「和解」という13種類の典型契約が並べられていることと同じであると考えている。「契約」という一つの現象をどのように切り出すかという典型的な事例が13種類並べられているのであり、「契約」はこれ以外にも非典型契約として存在している。
これと同様に、「人権」というものは一つの現象であり、憲法上で明文化されているか否かは典型事例として示そうとしたか否かの問題に過ぎないと考えている。そのため、憲法上で明文化されていない権利であるからと言って、必ずしも権利保障が弱まるというような性質のものではないと考えている。
【動画】第8回憲法調査会「社会的権力から個人を保護するためのアイディア~基本権保護義務という思考」 2020/11/21 (1:29:15)
「憲法上保障された権利をすべて人権という用法が一般的である。しかし、個人が生来、国家成立前の自然状態においても享有していたはずの権利という、人権本来の意義に即して言えば、個人の自律を根拠とする『切り札』としての権利のみを人権と呼ぶのがより適切である。」という部分であるが、妥当でないように思われる。
当サイト筆者は「人権」は一つであると考えている。そしてそれは「個人が生来、国家成立前の自然状態においても享有していたはずの権利」としての性質を有することはもちろん、それを憲法を制定することによって明文化した場合においてもその性質は変わらない。単に、条文化することは、既に存在するものを文字として明確にしただけであり、条文化することによって新たな概念を創設したわけではないと考えるからである。
そのため、「人権本来の意義に即して言えば、個人の自律を根拠とする『切り札』としての権利のみを人権と呼ぶのがより適切である。」との認識は導かれないように思われる。それは、単に「人権」という概念を用いて正当化される現象について、「切り札」として用いられた場合についてのことであり、「『切り札」としての権利」と、そうでない「権利」が別々に存在しているわけではないと考える。
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前述の通り、憲法上の権利の中には、公共財としての性格ゆえに保障されるべき権利もあり、また、判例を見ると、しばしば公共の福祉に適合するか否かという観点から、憲法上の権利が侵害されているか否かが判定されてきたと考えられる。「公共の福祉」の観点からの判断をくつがえす「切り札」としての性格を持つ権利が存在するということ自体は、「公共の福祉」を根拠とする権利の存在を否定すべきことを意味しない。むしろ、憲法上保障された権利には、「切り札」としての人権と、公共の福祉にもとづく権利の二つの種類のものがあることを正面から認識すべきである。
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憲法の理性 2006/11/1 (P80)
「憲法上の権利の中には、公共財としての性格ゆえに保障されるべき権利もあり、」との部分であるが、それは「権利保障」を行った結果が「公共財」としての価値を有するだけであり、「公共財としての性格ゆえに保障されるべき権利」という区分が存在するわけではないと考える。
また、ここで用いられている「公共の福祉」の意味は、福祉政策の意味として用いられている。これは「一元的内在制約説」をとる場合の人権相互の矛盾・衝突を調整する実質的公平の原理を指す意味で用いられていない。
長谷部が「『公共の福祉』の観点からの判断をくつがえす『切り札』としての性格を持つ権利が存在するということ自体は、『公共の福祉』を根拠とする権利の存在を否定すべきことを意味しない。」と述べている意味は、前段は、「『福祉政策』の観点からの判断をくつがえす『切り札』としての性質を持つ権利」の意味であり、後段は「『公共財』を根拠とする権利の存在を否定すべきことを意味しない。」との意味であると考えられる。
しかし、「一元的内在制約説」の立場からは、「公共の福祉」の意味は「人権相互の矛盾・衝突を調整する実質的な公平の原理」を指すことから、長谷部の意味する「『公共の福祉』の観点からの判断をくつがえす」という性質ではない。むしろ、人権と人権の矛盾・衝突を調整して「くつがえす」という作用が行われている部分を「公共の福祉」と呼んでいる。そのため、長谷部の前提としている「公共の福祉」という言葉の意味とは異なる意味で用いられており、長谷部が「判例を見ると、しばしば公共の福祉に適合するか否かという観点から、憲法上の権利が侵害されているか否かが判定されてきた」と述べている部分についても、正確な判例理解に基づくものであるかは検討の余地がある。
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私は、さきに、日本国憲法にいう公共の福祉とは、さきに説明されたような、人権相互のあいだの矛盾・衝突を調整する原理としての実質的公平の原理を意味すると解するのが、憲法の各規定を綜合的に見た場合に、いちばん妥当だと考えられる。判例が人権の保障は公共の福祉のワク内でみとめられるという場合も、公共の福祉の意味をこういうふうに理解していると見ていいだろうと思う。
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憲法Ⅱ 宮沢俊義 (P230) (下線は筆者)
「むしろ、憲法上保障された権利には、『切り札』としての人権と、公共の福祉にもとづく権利の二つの種類のものがあることを正面から認識すべきである。」との部分であるが、妥当でないと考える。
まず、当サイト筆者は「人権」は一つであり、二つの種類のものがあることは考えていない。
また、「公共の福祉」の意味も「一元的内在制約説」での人権相互の矛盾・衝突を調整する原理で考えることが妥当と考えており、長谷部のように「福祉政策」や「公共財」という意味で捉えていない。
もう一つ、「憲法上保障された権利」という部分であるが、これは「憲法上で明文化された権利」の意味で用いているのか、「人権制約原理を検討した結果、憲法上の条文の適用によって保障されることになった権利」の意味であるのかを明確にする必要がある考える。この言葉の意味するところを詳しく明らかにしていかないと、意味が不明瞭となり、正確な概念を思い描くことができない。当サイト筆者は「人権」は一つであると考えているため、「憲法上保障された権利」という意味についても、長谷部が憲法上に明文化されている権利を複数のものと捉えているのではないかと感じられる点で、意味を正確に理解することができない。
この書籍の中でも、長谷部は「一元的内在制約説」の説明を「直観に反する」と批判している部分がある。しかし、筆者にはむしろ長谷部の説明の方が直観に反しているように思われる。
長谷部が用いている「公共の福祉」の意味は、「公共の利益」や「公共財」などを指しており、長谷部はそれを理由として人権制約が可能であると論じている。
しかし、長谷部は「近代立憲主義」を説明する際によく「多様な価値観の公平な共存」という考え方を論じている。
この考え方の根底には、価値観が個々人の認識の中においてのみ存在するという基底的な前提となる認識が存在するはずである。
つまり、社会を構成しているのは結局は一人一人の人間であるという認識が存在しており、その単位を基にして「近代立憲主義」の法秩序を考えるべきであるという発想がある。
この発想に基づけば、人権制約原理を考える場合にも、終局的には「一元的内在制約説」の人権相互の矛盾・衝突を調整する実質的公平の原理に行き着くはずである。
この「一元的内在制約説」は、人権制約が行われる際に、「家族」や「地域の共同体」、「国家の意思」などの単位(原因)を用いて個々人の人権を制約することが正当化されることを排除する点に力点が置かれた説であると考えられる。
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憲法が個人の尊厳を基本原理とする以上、公共の福祉を全体主義的な思想を基礎にした「全体の利益」という意味に解することが許されないのはいうまでもない。戦時中にいわれたような国家のための「滅私奉公」というような考えは、日本国憲法の下では許されない。あくまで個人主義を前提にしてその意味を理解しなければならないのである。
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立憲主義と日本国憲法 第5版 高橋和之 2020/4/15 (P123) (下線・太字は筆者))
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各人の人権の享有およびその主張に対して、なんらかの制約が要請されるとすれば、それは、つねに他人の人権との関係においてでなくてはならない。この社会においてそこに生きる人間をとりまく物心両面の条件は、個人個人によって、いろいろなちがいがある。その結果として、各個人のあいだに、違憲や利益の各種のちがいがうまれる。ある個人の人権の主張は、多くの場合において、他人の人権と多かれ少なかれ矛盾し、衝突する。社会生活が維持されるためには、こうした矛盾・衝突を調整することが絶対に必要である。
絶対性の下では、こうした調整は、比較的に容易だといえる。たとえば、天皇が絶対的価値の持ち手だとされる場合は、それを基準として、そうした調整が行われる。すべての人権の矛盾・衝突は、そのいずれが天皇の体現する価値により近いか、という基準で判定すればいい。ある個人が言論の自由を主張する場合、それが少しでも天皇の利益━━明治憲法時代の言葉でいえば、「国体」━━を害するときは、そこにその自由の限界があるということになる。学問の自由についても、同様である。そこで、天皇の尊厳を傷つけるような学問の自由が許されないことは、当然である。そもそもそこでは、人権というものが、はじめから天皇の価値と矛盾しない限りにおいてのみ、その価値をみとめられているのであり、天皇の価値━━「国体」━━に対抗できる人権の価値というものは、みとめられていないのである。
ところが、民主主義的考え方の下では、事情がちがう。ここでは、「人権」が至上であるから、人権は、何よりも高い価値をみとめられる。人権に対抗できる価値というものは、そこにはあり得ない。ここでは、国家そのものすら人権に奉仕するために存するとされる。ここで、人権に対抗する価値をみとめられるのは、他人の人権だけである。だから、甲の人権と乙の人権とをひとしく尊重しつつ、両者のあいだの矛盾・衝突の調整をはかる、というのが、ここで憲法に課された重大な任務でなくてはならない。
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憲法Ⅱ 宮沢俊義 (P225) (下線は筆者)
長谷部のいう「多様な価値観の公平な共存」という認識を基にすれば、その「公共の利益」自体も、結局は多様な価値観を抱き得る個々人の脳内の認識の中においてのみ感得される「利益」に還元することができる。そして、その「利益」や「価値」を感得する主体こそが基底的な単位として「個人の尊厳」を認められるべき対象となっており、それを中心として人権を享有すると考える前提が存在するはずである。
その前提に基づいて人権制約原理を考えているのであれば、たとえ長谷部が「一元的内在制約説」を否定し、「公共の福祉」の意味を「公共の利益」という意味で説明したところで、それは結局「一元的内在制約説」に基づく理解となっているようにも思われる。
【動画】司法試験入門講座 プレ講義 「体系マスター」憲法5 「知る権利、基本的人権の限界」 2020/03/12
【動画】【司法試験】2021年開講!塾長クラス体験講義~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~<体系マスター憲法4-6> 2021/02/09
「一元的内在制約説」は、人権の外側から「神のご意思」「地霊の祟り」「将軍様の夢」「社長の希望」「(漠然とした意味での)社会の利益」などを理由として人権制約が正当化されることを防ぐところに主要な意味があるのであり、たとえ「公共の利益」を持ち出したとしても、その「公共の利益」というものの根底に「個々人」が存在しているという前提認識が存在し、「個々人の集合」のことを一般化して「社会」や「公共の利益」などと呼んでいるのであれば、それは「一元的内在制約説」で説明が可能な範疇であるように思われる。
そして長谷部が用いる意味での「公共の福祉」(公共の利益)の観点からの判断をくつがえす事例とは、それは結局、人権享有主体である「個々人の集合」と、それをくつがえそうとしている人権享有主体である「個人」の対立事例と読み取ることができ、「一元的内在制約説」の人権相互の矛盾・衝突を調整する原理によって説明することが可能である。
長谷部は「切り札としての人権」と称しているが、これは単に「人権」という性質が「切り札」として用いられる場合があることを示すにすぎないのであり、「切り札としての人権」とそうでないものが存在するかのような人権の捉え方は整合的でないように思われる。
憲法学者「宮沢俊義」は、これらの疑問を一挙に解決しているように見える。長いが、とても重要なので紹介させていただく。
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私が本書で日本国憲法における人権の保障に対する規制の根拠として、実質的公平な保障ということをあげ、それが日本国憲法における公共の福祉の意味するところであるべきだ、といったのは、右の説明とやや表現が違うが、根本の狙いはまったく同じつもりである。
もし日本国憲法における公共の福祉の意味をかように定めることが是認されるとすれば、それについては、とくに左の諸点が注意されなくてはならない。
(一) ここにいう公共の福祉は、人権の保障そのものの本質から論理必然的に派生する原理であり、憲法の明文にその根拠を有するものではない。
(二) したがって、憲法第一二条や、第一三条が公共の福祉に言及しているのは、単に注意的な意味をもつにすぎないと見るべきである。それらの規定によって、それらがなければ認められないであろうような制約が、人権の保障に対して新しく加えられたと解すべきではない。
(三) 憲法第二二条および第二九条が特に公共の福祉という言葉を使っているが、それは、それらの権利については人権の実質的公平な保障を確保するために、各種の制約が特に予想されるという理由によるだけの話であり、そこに公共の福祉という言葉があることによって、それらの人権の保障の程度なり、性質なりが、ほかの人権の場合とちがうというようなことはない。
(四) 人権を自然権(自然権的基本権)と社会権(生存権的基本権)とに分け、後者は、公共の福祉によって制約されるが、前者は、その制約をうけない、という説があるが、妥当でない。公共の福祉をここにいうような意味に解するかぎり、それがいわゆる自然権についても問題になることは、先に述べた通りである。
(五) 公共の福祉は、人権相互の矛盾・衝突を調整する原理であるが、それを右のように、人権を実質的公平に保障することだと説明しても、それだけでは、具体的な事件において、調整の基準とするには、あまりに抽象的にすぎる。したがって、人権に対する制約を根拠づけるのに、ただ公共の福祉にもとづくといっただけでは、じゅうぶんではない。その制限の内容を具体的に検討し、それが人権の実質的な公平を確保するために必要かどうかを判断すべきである。
(六) その結果として、公共の福祉の具体的な適用は、人権の種類によって、いろいろちがいうる。たとえば、個人的な性格をもち、他人に関連することの極めて少ない人権については、かような意味の公共の福祉による制約が問題になることは少ないだろう。思想および良心の自由や信仰の自由などの場合は、これに属する。これに反して、言論の自由のような、社会的な性格をもち必然的に他人に関連する人権の場合になると、公共の福祉による制約が問題になることが多くなるし、また、集団行進の自由だの、労働三権だのになると、いっそうそうだろう。
(七) こういうわけであるから、公共の福祉の具体的な内容を体系的にまとめて示すことは極めてむずかしい。ただ、それに関する判例がだんだん積み重なることによって、そこにはっきりした線が自ずから生まれてくる可能性がある。この点での法的安定ないし法的予測可能性は何よりもそうした判例の積み重ねなりによってのみ、確立される。
(八) 日本国憲法における公共の福祉の意味を明らかにするには、したがって、その点に関する裁判所の判例を綜合的に研究し、そこで生成する指導原理を見出すことに努力することが必要である。
(九) 要するに、基本的人権は、公共の福祉に反する場合は、保障されないか、または、基本的人権の保障は、公共の福祉のワク内でのみみとめられるか、と問い、これに対して、基本的人権の保障は、公共の福祉のワクによって、制約されるとか、されないとか、答えることによって、問題は少しも解決されない。その公共の福祉が与えられた具体的な事件において、どういう内容をもつかが明らかにされないかぎり、ほんとうの答えは出てこない。公安条例を例にとっていえば、問題は、一般的に基本的人権の保障に公共の福祉のワクがあるかどうかではない。そこで、そういうワクがある、または、ない、と答えただけでは、その公安条例の合憲性の有無は少しも明らかにされない。この点について、たとえば、公共の広場での集会についての届出制を定めることは合憲だが、許可制を定めることは違憲だとする説があるとして、━━事実そういう説が多いようであるが、━━もしそういう解釈をとるならば、届出制も集会の自由に対する制約にはちがいないのであるから、そうした制約がいったい何によって合憲とされるかが説明されなくてはならない。ここで、公共の福祉をもち出すとしても、なぜ届出制が公共の福祉によって是認され、なぜ許可制を定めることが公共の福祉によって否認されるか、を明らかにすることが必要である。したがって、ただ公共の福祉によって基本的人権の保障が制約されるか、という問いに答えるだけでは、問題は、少しも解決されない。さらに、具体的に、個々の人権につき、何が公共の福祉であるかが明らかにされなくてはならないのである。
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憲法Ⅱ 宮沢俊義 (P231~233) (この書籍の文中の注は当サイト筆者が省略している。) (下線・太字・色は筆者)
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 【上記は文章が難しいので、筆者がまとめ直す】 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
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「日本国憲法における人権の保障に対する規制の根拠」は、「実質的公平な保障ということ」である。
「それが日本国憲法における公共の福祉の意味するところである」。
「公共の福祉の意味をかように定めることが是認される」のであれば、下記の点に注意する必要がある。
〇 「公共の福祉は、人権の保障そのものの本質から論理必然的に派生する原理であ」る。
「公共の福祉は、人権相互の矛盾・衝突を調整する原理である」。
公共の福祉の原理は、「憲法の明文にその根拠を有するものではない。」
〇 「人権を実質的公平に保障することだと説明しても、それだけでは、具体的な事件において、調整の基準とするには、あまりに抽象的にすぎる。」
「その制限の内容を具体的に検討し、それが人権の実質的な公平を確保するために必要かどうかを判断すべきである。」
〇 「公共の福祉の具体的な適用は、人権の種類によって、いろいろちがいうる。」
「公共の福祉の具体的な内容を体系的にまとめて示すことは極めてむずかしい。」
「それに関する判例がだんだん積み重なることによって、そこにはっきりした線が自ずから生まれてくる可能性がある。この点での法的安定ないし法的予測可能性は何よりもそうした判例の積み重ねなりによってのみ、確立される。」
「公共の福祉の意味を明らかにするには、」「その点に関する裁判所の判例を綜合的に研究し、そこで生成する指導原理を見出すことに努力することが必要である。」
◇ 「思想および良心の自由や信仰の自由など」、「個人的な性格をもち、他人に関連することの極めて少ない人権については、かような意味の公共の福祉による制約が問題になることは少ない」。
◇ 「言論の自由」や「集団行進の自由だの、労働三権だのになると」、「社会的な性格をもち必然的に他人に関連する人権の場合になると、公共の福祉による制約が問題になることが多くなる」。
◆ 「憲法第一二条や、第一三条が公共の福祉に言及しているのは、単に注意的な意味をもつにすぎない」。「それらがなければ認められない」「ような制約が、人権の保障に対して新しく加えられたと解すべきではない。」
◆ 「憲法第二二条および第二九条が特に公共の福祉という言葉を使っているが、」「それらの権利については人権の実質的公平な保障を確保するために、各種の制約が特に予想されるという理由によるだけの話であ」る。「公共の福祉という言葉があることによって、それらの人権の保障の程度なり、性質なりが、ほかの人権の場合とちがうというようなことはない。」
◆ 「人権を自然権(自然権的基本権)と社会権(生存権的基本権)とに分け、後者は、公共の福祉によって制約されるが、前者は、その制約をうけない、という説がある」。しかし、これは「妥当でない。」「公共の福祉」は「いわゆる自然権についても問題になる」。
〇 「人権に対する制約を根拠づけるのに、ただ公共の福祉にもとづくといっただけでは、じゅうぶんではない。」
「基本的人権は、公共の福祉に反する場合は、保障されないか」や「基本的人権の保障は、公共の福祉のワク内でのみみとめられるか」などと質問して、「基本的人権の保障は、公共の福祉のワクによって、制約される」とか「されない」とか答えても、「問題は少しも解決されない。」
「ただ公共の福祉によって基本的人権の保障が制約されるか、という問いに答えるだけでは、問題は、少しも解決されない。」
「その公共の福祉が与えられた具体的な事件において、どういう内容をもつかが明らかにされないかぎり、ほんとうの答えは出てこない。」
「具体的に、個々の人権につき、何が公共の福祉であるかが明らかにされなくてはならないのである。」
「公安条例を例にとっていえば、問題は、一般的に基本的人権の保障に公共の福祉のワクがあるかどうかではない。そこで、そういうワクがある、または、ない、と答えただけでは、その公安条例の合憲性の有無は少しも明らかにされない。この点について、たとえば、公共の広場での集会についての届出制を定めることは合憲だが、許可制を定めることは違憲だとする説があるとして、」「もしそういう解釈をとるならば、届出制も集会の自由に対する制約にはちがいないのであるから、そうした制約がいったい何によって合憲とされるかが説明されなくてはならない。ここで、公共の福祉をもち出すとしても、なぜ届出制が公共の福祉によって是認され、なぜ許可制を定めることが公共の福祉によって否認されるか、を明らかにすることが必要である。」
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長谷部の人権制約原理の認識にズレがあるように見えてしまうのは、長谷部の論じる「公」と「私」に分けようとする議論とも関連があるように思われる。この「公」と「私」に分けようとする認識が妥当であるのかについても、同時に検討する必要がある。
長谷部が「公」と「私」の領域に分けたがる考え方の部分には、その地域の人々が「国家」に所属する意識を有していることが前提となっているように思われる。
しかし、筆者は「国家」というプロジェクトに参加するか否かは個々人の自由であり、「国家」の活動を支持するか支持しないかも自由であると考えている。
例えば、無人島で生活している人間に対して、国家という存在を認め、受け入れるように思想を強制することはできない。また、国家の存在を信じなければならないとする義務を憲法によって課すこともできない。
それよりは、そういう人々にも自然と国家という存在を認め、受け入れてもらうことができるように魅力ある法秩序を保っておくことが国家の側にこそ求められていると考える。(この側面から、天皇という象徴的な存在は、文字が読めない人に対しても国家という存在の確からしさを感じ取ってもらえるようにつくられた仕掛けとしてはかなり有用であると考える。)
ただ、その国家の権力が実効支配している領域の中で生活している限りは、大半の人間が関心を持ち、機能している国家の活動によって、いくつかの行為が規制され、場合によっては何らかの行為が犯罪として取り扱われることとなり、それらの行為を行った場合には、捜査機関によって取り締まられる場合があり得るというだけである。
(この意味で法秩序は最終的には物理的な実力を背景としており、社会の中にある力関係の対立の一つに過ぎないものである。ただ、その実力が人の支配によるものではなく、法の支配、あるいは知の支配と呼ばれる形で大半の人々の間で手続き的な側面からコントロールされている点に、その大半の人々の間では現在のところ正当性が見出されている。)
このような観点からは、「公」と「私」の領域に分けることは行う必要がない。単に、憲法が機能している場合には、国家の活動に関わる場面では「人には人権がある」という前提が認められており、その人権を根拠として自分自身の自由を確保したり、国家の活動によって引き起こされる侵害を防御したり、他者からの侵害を抑制したりすることが可能となるだけである。
また、そのような『権利』を行使するかしないかも本来的に自由である。そのため、人々に対して「公」と「私」の領域に区別しなければならないなどという前提認識を強要することにもならない。
この点、長谷部が行おうとしている「公」と「私」の領域に分けようとする議論は、前提として「国家」に所属する意識を持つように国民に対して強要しようとしてしまう側面が存在するのではないかと感じられる。
その時点で、「思想良心の自由」を最大限に保障しようとした人権思想の意図が損なわれており、「国家からの自由」という側面の人権が奪われていることとなるように思われるのである。
「公」と「私」に分ける議論は、長谷部が分類した区分ではないようである。ただ、よくこの話をもち出しているのを見かけるのであるが、筆者は未だに意味を十分に掴めていない。
もしかすると、人権概念が十分に確立していなかった大日本帝国憲法下において「公」と「私」を分ける境界線(ライン)が突破されたことで全体主義国家に進んでしまった事例などを説明する際には、人権概念を基に説明することが妥当でないという前提があることから、「公」と「私」という区分を用いて説明することの方が分かりやすいのかもしれない。
参考人 長谷部恭男(早稲田大学法学学術院教授) 第189回国会 衆議院 憲法審査会 第3号 平成27年6月4日 【動画】
【動画】立憲主義と9条③ 私的領域を守る立憲のシステム 石川健治 立憲デモクラシー講座⑥ 2018/03/13 (6:32~が立憲主義の説明)
「公」と「私」の議論は、人権ではなく、「制度保障」を説明する際に用いられている話なのだろうか。
なぜ民主主義か、 どこまで民主主義的であるべきか 長谷部恭男 2021年01月25日
少し詳しい解説が出た。
まっとうな憲法報道に向けて 日本の立憲主義の課題は何か 2022年05月02日
筆者は長谷部が意味するところが十分に読み解けていないだけかもしれないが、そうであれば、その通り、筆者には未だに意味がよく分からない。
この点については長谷部の説明よりも高橋和之の書籍「立憲主義と日本国憲法」の人権観の方がイメージしやすい筆者には、長谷部の意味するところを正確に読み解くことができない。
そのため、その背景にどういう前提認識の違いがあるのかを正確に描き出していく必要があると感じている。
長谷部の人権制約原理に関する認識は、用語の意味だけでなく、国政の目的、法の正当化根拠など、憲法の基盤(プラットフォーム)にある考え方の全てに及んでいる。そのため、これらの整合性のズレを解明する作業は、一度には片付けることができない。
しかし、憲法学の正しい理論を確立していくためには、ここを避けて通ることはできないように思われる。
この部分について、もう少し説明をお願いしたい。できれば、高橋和之も参加して、論点を明らかにしてまとめてくれると嬉しい。
この論点、憲法を勉強していても、全然分からない。さっぱり分からない。いつまでも分からない。できれば、絵や図を用いて誰でも分かるように表現していくことをお願いしたい。
どの憲法の教科書を読んでもそう感じるが、憲法学者の誰かの学説を引用して丸写ししているだけで、自分の頭で意味を理解しているのか疑問なものが多い。
誰かの学説をまとめただけの教科書が多く、その意味するところの本質まで捉えてしっかりと説明しているような質の良い教科書はなかなか見つけることができない。
この論点の分かりづらさにはいつも困っている。
(『偉い先生が言っていることをそのまま信じてしまう』ことがないようにするための心構えについて)
【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第8回〜「特殊な法律関係」・2021年度後期 2021/10/28
やはり、日本国憲法が制定されて新しく導入された概念に関する七十数年の蓄積というものは、その程度のものなのだろうか。
憲法学は、他の学問分野に比べて概念整理が曖昧な部分が多く、基礎的で最も重要な部分に関しても、未だに十分に整理されていない部分が多々あるように感じられる。
長谷部が「憲法講話 24の入門講義」の(P2)で説明するように、「憲法学は若い学問です。」ということなのかもしれない。
【動画】第8回憲法調査会「社会的権力から個人を保護するためのアイディア~基本権保護義務という思考」 2020/11/21 (34:00)
この論点に関する憲法学者「南野森」の解説が分かりやすい。
【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第14回〜「公共の福祉」・2021年度後期 2021/12/05
【動画】九大法学部・憲法2(人権論)第22回〜「表現の自由の規制類型」・2021年度後期 2022/01/29
<理解の補強>
立憲主義と平和主義 東京大学法学部教授 長谷部恭男 2006年3月13日 PDF
長谷部恭男教授の憲法学への疑問(1) 2007.06.07
【動画】第12回 インターネット社会と法(その1) 長谷部恭男 2010年
(長谷部の理解する『二重の基準論』や『表現の自由の制約方法』について)
切り札としての人権 2015年12月2日
その2 表現の自由と公共の福祉 2017/1/20
憲法 第7版 新法学ライブラリー2 長谷部恭男 2018年2月25日 PDF 立ち読み (P23)
『憲法の理性』/長谷部恭男 2018/07/30
理想の生き方は、人それぞれで異なります 2020/07/31
憲法学は立憲的憲法を正当化できるか?(2・完)―日本の憲法理論の検討 PDF (P1040~)
国益による人権制約と「人権の基礎」 (1) 進化生物学的人間観・人間集団論に基づく人権制約基準の考察 内藤淳 PDF
国益による人権制約と「人権の基礎」(2 ・完) 進化生物学的人間観・人間集団論に基づく人権制約基準の考察 内藤淳 PDF
憲法解釈論の構造(2) 千國亮介 2019 PDF
(2)「公益」や「公の秩序」を理由に基本的人権を制限するのも明治憲法と同じ 2020.10.07
人格的利益説・一般的自由説とは?メリット・デメリットは?わかりやすく解説
人格的利益説の終焉? 齊藤正彰 PDF
「公」と「私」とは、下図のような理解でよいのだろうか。
その他
「百地章」の理解する「宮沢俊義」の人権制約原理の解説は、「宮沢俊義」の説明を正しく理解できていない。
第154回国会 参議院 憲法調査会 第7号 平成14年5月29日
第189回国会 参議院 憲法審査会 第2号 平成27年3月4日
下記の書籍も、主要な論旨は上記と同様であり、同じように誤解が見られる。
憲法の常識 常識の憲法 (文春新書) 百地章 2005/4/20 amazon
下記の動画も、やはり「宮沢俊義」の人権制約原理を正しく理解できていない。(国家の意味についても、社会学的意味の国家と、法学的意味の国家を区別できていない。)
【動画】【百地章×半井小絵】「国家観」なき憲法の悲劇【WiLL増刊号#470】 2021/04/01