【このページの目次】
集団的自衛権に関する誤解
要点① 法認識の誤り
要点② 「権」とは何か
要点③ 統治権の範囲
有権解釈に基づく「存立危機事態」の違憲審査
概要
2014年7月1日閣議決定
1972年(昭和47年)政府見解
「基本的な論理」と称している部分は維持されているのか
1972年(昭和47年)政府見解の本質
1972年(昭和47年)政府見解が示す規範と9条の関係性
同じ意味を指す表現
「急迫不正の侵害」を「武力攻撃」に変更する不正
2014年7月1日閣議決定の手続きの違法
司法審査
適正手続の保障
行政裁量に対する司法審査の判断基準
統治行為論によって法的判断が回避される可能性はあるか
訴訟の種類は何か
論理展開は意味が通じるか
「基本的な論理」との整合性について説明はあるか
国会会議録ではどう記録されているか
学び直しの可能性
集団的自衛権に関する誤解
国際法上の「集団的自衛権の行使」として日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行うことについて「合憲である」と考える論者の多くは、いくつかの点で法学的に誤った認識を有している。
その論者の誤りが一点だけであるならば、間違いは見抜きやすい。しかし、誤った認識が複数個所に渡る場合には、複雑に絡まった論理の誤りを同時に解きほぐしていくことが必要となる。これは大変な労力を要する。
ここでは、その複雑に絡まった合憲論者の理解の混乱を解き明かしていく。
要点① 法認識の誤り
下記の図で、【正しい法認識】と【誤った法認識】を示した。合憲論者の多くは、ここに示したいずれかの部分で法学的に誤った認識を有している。これを見れば、法学的に誤っている部分に気付くことができ、それを修正することで正しい理解を身に着けることができるはずである。
上記、【誤った法認識】の番号に合わせて解説する。
① 国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」は『権利』の概念であり、国家(加盟国)の統治権の中に『権限』を付与する意味を持っていない。これは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則(武力行使禁止原則)」に対する違法性阻却事由である。それにもかかわらず、国連憲章を批准することで、あたかも国家(加盟国)の統治権の中に「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権限』が発生しているかのように考えている点は誤りである。
② 国家の統治権によって「自衛の措置」として発動されるのは「武力の行使」である。国家の統治権の中に「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という名前の『権限』が存在するかのように考えている点は、誤りである。
③ 9条は、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』の概念を制約しているわけではない。9条は、日本国民が放棄し、保持せず、認めないことによって国民主権原理の過程による「厳粛な信託(前文)」を行わず、日本国の統治権に授権しない『権限』を示したものである。
④ 9条は、国民の信託により授権されて発生した統治権に対して制約を課しているわけではない。9条は、日本国民が統治権として信託しない部分を示したものである。そのため、日本国民から信託されなかった部分はもともと国家の統治権の『権限』の中に発生していない。
⑤ 9条は、国連憲章の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の概念を直接制約しているわけではない。9条の対象は、基本的に日本国の統治権である。(9条は国際法を直接制約する意図の規定ではないが、条約も違憲審査が可能であることから、批准した条約が9条に抵触して違憲となることはあり得る。)
⑥ 国際法を憲法よりも上位の法であると考える条約優位説によって「個別的自衛権」や「集団的自衛権」にあたる国家の権限を正当化しようとすることは誤りである。また、国民主権原理の憲法の場合、国家の統治権は国民からの信託によって発生するものであるため、国民からの信託なしに国際法の規定を根拠として国家の統治権の中に『権限』が発生するという考えも誤りである。
⑦ 国民主権原理による国家の場合、国家の統治権は国民からの信託なしには発生し得ないものである。それを、あたかも国民からの信託なしにもともと国家の統治権が存在するかのように考える点は、誤りである。そのような考えは、国民主権原理の否定するものである。
⑧ 9条は「日本国の統治機関」が放棄する部分を定めたものではない。「日本国民」が放棄する部分を定めたものである。
要点② 「権」とは何か
「集団的自衛権」の話をする際、【権】という文字が、なかなか初学者を困惑させる原因となっていると思われる。
【『権利』と『権力・権限・権能』の違い】
まず、理解する必要があるのは【権】の文字に含まれる『権利』の意味と『権力・権限・権能』の意味の違いである。
法学の議論では、『権利』の意味の【権】と、『権力・権限・権能』の意味の【権】は、同じ【権】の文字が使われているため、法学の初学者は混乱してしまいやすい。
法務省の中学生向けの法教育の資料が分かりやすい。
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Q71 「権力」や「権利」ということばを生徒に説明する工夫
Q 「権力」とか「権利」ということばを生徒に分かりやすく説明する工夫としては、どのようなものがありますか。
⇒ 『報告書』97ページ(第3、(1)第一時「国の政治の在り方は誰が決めるべきか」)
A 権力と権利は、似たような言葉であるにもかかわらず、まったく異なる意味を持っており、その正確な理解は必ずしも容易ではありません。他方で、憲法の意義を考える上で、これらの言葉の正確な理解は必要不可欠です。
ひとつの説明の工夫としては、英語に置き換えることが考えられます。権力はPowerであり、「人を(その意思に反してでも)強制させる力」という意味が語感から感じられますし、権利の原語であるRightには、「正しい要求・主張」という意味を含むことが分かるのではないでしょうか。
なお、憲法の領域では、国家がその支配のために行使する力を総体として「国家権力」あるいは「統治権」、法が各国家機関に対して行使することを認めている力を「権限」あるいは「権能」といい、国民等が国家に対して要求・主張を行うための法的な根拠を「権利」ということが多いようです。
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憲法の意義 法教育 法務省
【動画】司法試験入門講座 プレ講義 「体系マスター」憲法4
「人権とは、人権の分類」2020/03/12
〇 憲法上では、人権としての【権】は、『権利』の文言が使われていることが多い。ただ、「財産権(29条)」のように『権利』ではなく『権』と表現している場合もある。また、人権については、『権利』の意味であっても、同様な意味として『自由』と表現していることもある。この場合、『自由』の文言に含まれる「自由権」としての『権利』の意味も読み解いておきたい。
〇 憲法上で、国の統治権としての【権】は、『国権』『権限』『権能』の文言が使われていることが多い。口語的に「国の権利」という表現が使われることもあり得るとは思うが、これは国民主権による国民からの信託によって生まれた国の権限について「行使・不行使の自由が存在すること」を指す意味で使われる場合と思われる。これは、人権概念から派生する「自由」や「権利」をバックグラウンドとした『権利』の意味とは性質が異なる。【権】の言葉の背景の違いを正確に捉えておきたい。
筆者も当初、憲法上の「自由権」「社会権」「参政権」「請求権」などの『国民の権利』としての【権】と、「立法権」「行政権」「司法権」「国政調査権」「解散権」などの『国家の権限』としての意味合いが強い【権】の違いについて正確に区別した認識を持っていなかった。そのため、学習の際に混乱した記憶がある。
国の『権限』としての【権】についても、『権利』と表現する場合もあるかもしれない。しかし、その意味合いやバックグラウンドの違いについて、丁寧に押さえて考える必要がある。
もう一つ、国の『権利』と表現する場合には、民法、刑法、国際法などにおける法主体として「権利・義務の帰属主体」という意味で使われている場合がある。この場合は『権力・権限・権能』の意味とは異なるため注意する必要がある。
この辺の理解は、初学者は躓きやすいところではある。筆者もどうすれば混乱を防ぐことができるのかいろいろ検討を続けている。ただ、今のところ、現在の憲法の語句よりも「明らかに良い」と思われる表現はなかなか見つからない。良い解決策が見つかるまで、初学者もここは一緒に堪えていただきたい。
他の法令では、用語の不備や混乱防止などについて、時々マイナーチェンジが行われている。当サイトも、法学の世界が、より混乱の少ないスッキリとした形に整っていくことを願っている。混乱した初学者の方々も、「現段階ではそうなっているのだ」という程度のものとして考えていただければと思う。「いつか良い解決策が見つかった時に改善できるかもしれない」ぐらいの心づもりで学習を進めていくとよいのではないだろうか。
【国際法上の法主体の『権利』】
次に、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という概念は、国際法上の法主体に対して適用される国際法上の『権利』の概念であることを確認する。
国連憲章51条の「自衛権」とは、国際法上の主体(法主体)である国家に対して与えられる違法性阻却事由の『権利』の概念である。
国連憲章
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第51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。
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ここで使われている「自衛権」とは、国連加盟国が「武力の行使」を行った場合に、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触することによる違法性を阻却するために主張できる『権利』の概念である。これは、あくまで条約(国連憲章)を締結した各国の間で合意されている違法性阻却事由である。
「自衛権の行使」とは、この『権利』を行使することを意味する。これは、加盟国が統治権の『権限』によって「武力の行使」を行った場合に、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して違法となるが、その違法性を阻却することを意味する。
日本国は主権国家であり、国際法上の法主体として認められていることから、他国と同様に「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有している。
しかし、国際法上この『権利』を行使することができる地位を有していたとしても、日本国の統治権の中にこの『権利』を行使する場合の『権限』が存在するかは別問題である。
国連憲章51条に記された「自衛権」とは、国際法上の法主体として認められている加盟国が国際法上において行使することができる『権利』の概念である。これは、国家の統治権の『権力・権限・権能』を意味する概念ではない。
また、この国連憲章51条の「自衛権」という概念は、加盟国の統治権に対して『権力・権限・権能』を付与する意味を持っていない。そのため、この「自衛権」の文言は、国家の統治権の『権力・権限・権能』の根拠規定とはならない。
国連憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」の「固有の権利(inherent right)」の文言は、国家承認を受けることで国際法上「国家」として認められた主体が潜在的に『権利』として保有し、行使しうるものを「固有の権利」と表現しているものと思われる。国家の統治権の『権限』そのものは、各国の憲法によって生み出されることが前提である。
国連憲章51条には「この自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置」との表現も見られる。これは、国際法上の「自衛権の行使」に該当する、各国の憲法によって生まれた統治権の『権限』による「措置」のことを意味すると思われる。つまり、「措置」というものこそが、各国の憲法で生まれた統治権の『権力・権限・権能』による「武力の行使」が行われている状態を意味し、「自衛権」の文言は、相変わらず国際法上の『権利』であり、各国に何らかの『権力・権限・権能』を付与する意味を持っていない。
国際法上の「自衛権」という文言を根拠として、国家の統治権の中に『権力・権限・権能』が発生しているかのような説明をする論者がいくらかいる。しかし、これは『権利』を意味する【権】と、『権力・権限・権能』を意味する【権】の違いを区別できていないことによる誤りである。
「自衛権」は、国際法上の法主体に対して与えられる『権利』である。これは、国家に『権力・権限・権能』を与える根拠とはならない。
国家は、国家権力や統治権力と呼ばれる『権力・権限・権能』を有している。この根拠は、憲法によって正当化されるところにあり、国民主権を採用する憲法によって成立した国家であれば、国民からの「信託」を受けることによって初めて発生するとされる。
日本国も国民主権原理を採用しており、国民からの「厳粛な信託(前文)」を背景として統治権が生み出されている。日本国の場合、統治権の具体的な内容は「立法権・行政権・司法権」の三権のことを指す。
「集団的自衛権の行使」とは、国際法上の「集団的自衛権」という『権利』を行使することを意味する。「自衛権」とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』としての概念であるから、この『権利』が行使される状態とは実質的に国家によって「武力の行使」が行われている状態を指すこととなる。
権利(right)
自衛権(right of self-defense)
個別的自衛権(right of individual self-defense)
集団的自衛権(right of collective self-defense)
国際連合憲章 Charter of the United
Nations PDF
権力・権限・権能(power)
統治権(supreme power / sovereignty)
国権/国家権力(the power of the state)
立法権(legislative power)
行政権(executive power / administrative power) ⇒ 武力の行使(use of force)
司法権(judicial power)
日本国憲法 The Constitution of
Japan
まとめ
〇 『権利(right)』を有しているが、『権限(power)』は行使できない。
〇 国際法上の『権利』を有しているが、憲法上で『権限』を行使することはできない。
〇 国際法上の「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有している。しかし、憲法9条によって統治権の『権限』が制約される結果、「他国に対する武力攻撃」が発生したことに起因して「武力の行使」を行うことや、『他国防衛』のための「武力の行使」を行うことはできず、結果として「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や、「存立危機事態」での「武力の行使」を行うことはできない。
要点③ 統治権の範囲
日本国は、国際法上で「集団的自衛権」を行使して国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」による違法性を阻却すること自体は可能である。なぜならば、日本国も国連憲章2条1項の「主権平等原則」の適用を受けており、国際法上は他国と同様に「集団的自衛権」という『権利』を行使することができる地位を有しているからである。
しかし、その国際法上の「集団的自衛権の行使」としての行動を日本国が行おうとする場合、日本国の統治権の中にそれに対応する『権力・権限・権能』が必要となる。それは、憲法を制定する過程で国民主権の原理によって国民から「厳粛な信託(前文)」を受けて授権されることによって正当化されている性質のものである。
ただ、憲法9条に記載されているように、「日本国民」が放棄し、不保持とし、否認した部分については、日本国の統治機関はもともと『権力・権限・権能』として授権されていない。そのため、それらの部分は日本国の統治権の『権限』の中にはもともと発生していない。
日本国憲法は国民主権原理を採用しているため、国民から信託されていない部分の『権限』については統治機関が行使することはできないのである。
国民主権原理の過程を経て正当性を有する日本国の統治権の『権力・権限・権能』として授権されている範囲と、憲法9条によってもともと授権されていない範囲の境界線を確定している解釈として、1972年(昭和47年)政府見解がある。
有権解釈に基づく「存立危機事態」の違憲審査
ここでは、2014年7月1日閣議決定で新しく加えられた「存立危機事態」の要件を、政府解釈の基準を用いて違憲審査を行う。
概要
2014年7月1日閣議決定では、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分について論旨の前提として維持していると説明されている。
しかし、2014年7月1日閣議決定の内容は、その1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の中に、あたかも「存立危機事態」での「武力の行使」が含まれるかのように結論付けようとしているが、論理的整合性が保たれないものとなっているため、法解釈として正当化することはできない。
その理由は、下記のとおりである。
まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範を示した部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」と記載されている。
これは1972年(昭和47年)政府見解の第二段落で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明するために用いられた文言であることから、ここに「集団的自衛権の行使」を可能とする余地のある「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるはずはなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。
そのため、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は含まれない。
これにより、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分が示している「自衛の措置」の限界の規範を超えるものであり、9条に抵触して違憲となる。
2014年7月1日閣議決定が容認しようとしている「存立危機事態」での「武力の行使」については、政府自身がその2014年7月1日閣議決定で論旨の前提として採用している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の違憲審査基準によって違憲となるのである。
下記では、その内容をより詳しく検討する。
2014年7月1日閣議決定
まず、2014年7月1日閣議決定が「存立危機事態」での「武力の行使」を許容しようとしている文面を確認する。
2014年7月1日閣議決定(抜粋)
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3 憲法第9条の下で許容される自衛の措置
(1)我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきた。その際、政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる。したがって、従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを 守り抜くための論理的な帰結を導く必要がある。
(2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第 13
条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和
47 年 10 月 14 日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
(3)これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。我が国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然であるが、それでもなお我が国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要がある。こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
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国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について 国家安全保障会議決定 閣議決定 平成26年7月1日 (https) (下線・太字・色は筆者)
(国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について (http))
◇ 茶色の部分は「基本的な論理」と称している部分である。
◇ 紫色の部分は「存立危機事態」の要件である。
この文面の中で「従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、……論理的な帰結を導く必要がある。」や「この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。」と示されていることから、「基本的な論理」と称している部分の意味を明らかにすることで、「存立危機事態」での「武力の行使」に対する違憲審査が可能である。
ポイントは、2014年7月1日閣議決定の中においても、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分が採用され、その違憲審査基準を前提としていることである。この基準を踏み越えたならば、直ちに違憲となるのである。
「存立危機事態」の要件を違憲審査するにあたっては、上記の「これまでの憲法解釈」「従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内」「従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理」「これまでの憲法解釈」「当該憲法解釈の枠内」「従来の政府見解の基本的な論理」に適合しているかどうかで判断することになる。つまり、上記の「基本的な論理」の部分が違憲審査基準となるのである。
この「基本的な論理」と称している部分の詳しい意味は、上記に「従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和 47 年 10 月 14 日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料『集団的自衛権と憲法との関係』に明確に示されている」と記載されているように、1972年(昭和47年)政府見解の「集団的自衛権と憲法との関係」を読み解くことで意味が明らかとなる。
そのため、下記で1972年(昭和47年)政府見解の「集団的自衛権と憲法との関係」の資料を確認する。
1972年(昭和47年)政府見解
1972年(昭和47年)政府見解の内容を正確に押さえることが重要である。
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内閣法制局 昭和47年10月14日
集団的自衛権と憲法との関係
国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第 51
条、日本国との平和条約第5条(c)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。
ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつているが、これは次のような考え方に基づくものである。
憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第 13
条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【資 料】 衆議院及び参議院の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」に提出された政府統一見解等 参議院 立法と調査 2015.12 (P63)
下記は、1972年(昭和47年)政府見解が記載されたリンクを集めた。すべて同じ内容である。
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【資 料】 衆議院及び参議院の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」に提出された政府統一見解等 参議院 立法と調査 2015.12 (P63)
集団的自衛権の行使容認をめぐる国会論議 ― 憲法解釈の変更と事態対処法制の改正 ― 参議院 外交防衛委員会調査室 PDF
昭和47年政府見解(原本)
(昭和47年政府見解(原本))
昭和47年政府見解(タイプ打ち国会提出版)
(昭和47年政府見解(タイプ打ち国会提出版))
【リンク】参議院議員 小西ひろゆき
昭和47年10月14日の政府見解(全文) 2015-08-29
<資料> 『集団的自衛権と憲法との関係について』 ――内閣法制局1972(昭47)・10・14 参議院提出―― 2015-08-17
憲法は「他国防衛許さず」 衆院法制局法制次長 72年見解の説明(要旨) 公明党 2014年6月18日
憲法に関する考え方 ~立憲的憲法論議~ 立憲民主党 2018年7月19日
<1972年(昭和47年)政府見解を基にしたと思われる政府答弁>
第75回国会 衆議院 外務委員会 第24号 昭和50年6月18日
第96回国会 参議院 予算委員会 第6号 昭和57年3月12日
第96回国会 参議院 内閣委員会 第5号 昭和57年4月1日
第98回国会 衆議院 予算委員会 第7号 昭和58年2月8日
第104回国会 衆議院 予算委員会 第19号 昭和61年3月5日
第123回国会 参議院 国際平和協力等に関する特別委員会 第11号 平成4年5月22日
第136回国会 参議院 内閣委員会 第6号 平成8年5月7日
第145回国会 参議院 日米防衛協力のための指針に関する特別委員会 第4号 平成11年5月11日
第153回国会 参議院 外交防衛委員会 第4号 平成13年10月26日
第156回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成15年3月14日
第156回国会 参議院 武力攻撃事態への対処に関する特別委員会 第9号 平成15年6月2日
第156回国会 衆議院 イラク人道復興支援並びに国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員会 第4号 平成15年6月27日
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1972年(昭和47年)政府見解の構造は、下図のようになっている。
ここで、憲法上の限界を示した第三段落を詳しく確認する。
第三段落を抜粋
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憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第 13
条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
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(下線・太字・色は筆者)
この第三段落の文の構造を図で示すと下図のようになる。
「基本的な論理」と称している部分は維持されているのか
2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と呼んでいる部分を維持しているとの見解を採っている。
2014年7月1日閣議決定
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3 憲法第9条の下で許容される自衛の措置
(1)
(略)
(2)
(略)
これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してき た見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
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国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について PDF
ただ、この2014年7月1日閣議決定の示している「基本的な論理」と称している部分の文面は、1972年(昭和47年)政府見解の文面とは文言がやや異なっている。2014年7月1日閣議決定の文面は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の文言を正確に抜き出したものとなっていないのである。この点に注意する必要がある。
「1972年(昭和47年)政府見解」の2014年7月1日閣議決定において「基本的な論理」と称している部分
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憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第 13
条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。
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「2014年7月1日閣議決定」が1972年(昭和47年)政府見解を示す際の表現 (上記茶色の部分)
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(2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第 13
条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。
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この1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」を意味している。
そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持している限りは、「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合でなければ「自衛の措置」をとることはできない。
2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解に示された一部分を「基本的な論理」と名付けて抜き出し、「自衛の措置」の限界の規範である「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由および幸福追求に対する国民の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態」と記載されている部分を残してはいる。
しかし、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「『わが国に対する』武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、これに加えて「『わが国と密接な関係にある他国に対する』武力攻撃」の意味が含まれることを前提として「存立危機事態」の要件を導こうとしている。
横畠裕介内閣法制局長官は、2014年7月1日閣議決定以降、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限定されていないと説明している。
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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 先ほど御説明した昭和四十七年の政府見解の論理の組立てからいたしますと、「そうだとすれば、」の、結論の段落において初めて「わが国に対する」ということが出てまいります。そうしますと、その前提にございます基本論理に言う「外国の武力攻撃によって国民」、これはもとより我が国の国民を指すと理解しますが、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」という部分そのものは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限定されているものではないと解しております。
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第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第3号 平成27年3月24日
横畠裕介内閣法制局長官は、「昭和四十七年の政府見解そのものの組立てから、そのような解釈、理解ができる」と説明しようとしている。
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○小西洋之君 では、要するに、今私が申し上げたような同盟国、我が国でない他国に対する外国の武力攻撃ということもここに概念的に含まれるというふうに考え出したのは、横畠長官、あなたが初めての法制局長官ということでよろしいですね。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○政府特別補佐人(横畠裕介君) 同様に考えていた者がいたかどうかは存じませんが、この昭和四十七年の政府見解そのものの組立てから、そのような解釈、理解ができるということでございます。
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第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第3号 平成27年3月24日
下記の資料でも、政府は「御指摘の『外国の武力攻撃』については、我が国に対する武力攻撃に限定されているものではないと解される。」と答弁している。
昭和四十七年政府見解の中の「外国の武力攻撃」の文言の理解に関する質問主意書 平成31年2月22日
(菅政権における昭和四十七年政府見解の中の「外国の武力攻撃」の文言の理解に関する質問主意書 令和2年10月2日)
2014年7月1日閣議決定の文面
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こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
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この閣議決定に基づいて示された「武力の行使」の新三要件
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「武力の行使」の新三要件
◯ わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
◯ これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
◯ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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(第一要件の『または』の前が『武力攻撃事態』の部分、後が『存立危機事態』の部分である)
このように、政府は2014年7月1日閣議決定においても、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持していると説明し、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が発生した事態が含まれると結論付けようとし、それによって「存立危機事態」の要件を正当化しようとしている。
しかし、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の意味は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているのであり、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味も含まれると考えることはできない。
これは明らかに「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の意味を不正に読み替えようとするものである。
その理由を下記で説明する。
1972年(昭和47年)政府見解の本質
この1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」を意味している。
これを理解するために、1972年(昭和47年)政府見解の本質を理解するために必要ないくつかの視点を検討する。
憲法解釈における位置づけ
9条解釈にはいくつかのルートがある。
そんな中で、政府は他の解釈のルートを排してなぜ1972年(昭和47年)政府見解の形に至ったのかという過程の部分を詳しく検討することで、最終的に1972年(昭和47年)政府見解が有する規範とは何か、どの部分が9条の規範性を保つ要素となっているかを明らかにすることができるはずである。
◇ 政府は「芦田修正」に基づく解釈が法解釈として妥当性が低いことを考慮し、「芦田修正」に基づく解釈を採用していない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解についても、「芦田修正」に基づく解釈を採用した内容ではない。
◇ 1972年(昭和47年)政府見解は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を否定するものではない。このことから、1972年(昭和47年)政府見解は9条解釈における「武力行使全面放棄説」とは異なる。
しかし、1972年(昭和47年)政府見解の示している「武力の行使」の発動要件は刑法36条の「正当防衛」の要件とほぼ同じ結論となっていることから、「武力行使全面放棄説」に極めて近い形で限界となる規範を導き出していると考えられる。
◇ 憲法前文には「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、」という「平和主義」の理念が記されており、これを具体化する形で9条の規定が定められている。
このことから、9条を解釈する際には、政府の自由な行為を法規範として制約することのできる要件を導き出すことが求められる。
反対に、政府の恣意的な動機によって「武力の行使」を行うことが可能となるような要件を定めることは、9条の趣旨を満たさず、9条の規範性を損なうことになるため行うことができない。
この前提は9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の中にも生かされているのであり、そこには政府の行為を制約する規範としての明確な一線が存在することになる。
(1972年(昭和47年)政府見解は、これらの前提を考慮してつくられた見解と考えられる。)
(事態の数量的な面によって規範が変動するようなものと理解することはできない。)
これらを合わせて考えると、9条の規範性を損なうことなく、明確な一線なるものは「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合に限られる。
そして、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、そのことを示したものと考えられる。
このことから、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られるのであり、ここにそれ以外の武力攻撃が当てはまると考えることはできない。
文書が提出された経緯と性格
下記は、1972年(昭和47年)当時の国会会議録である。
これは、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の意味が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られることを明らかにするものである。
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○説明員(吉國一郎君) ……(略)……その論理から申しまして、集団的自衛の権利ということばを用いるまでもなく、他国が——日本とは別なほかの国が侵略されているということは、まだわが国民が、わが国民のその幸福追求の権利なり生命なり自由なりが侵されている状態ではないということで、まだ日本が自衛の措置をとる段階ではない。日本が侵略をされて、侵略行為が発生して、そこで初めてその自衛の措置が発動するのだ、という説明からそうなったわけでございます。
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第69回国会 参議院 決算委員会 閉会後第5号 昭和47年9月14日
【動画】小西洋之「あなたが法的安定性を壊している」横畠裕介を木端微塵に
8/3 2015/08/03
文章の論理的な組み立て
「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られておらず、その中に「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味も含まれていると考えようすることは、1972年(昭和47年)政府見解の文面の他の部分との関係で論理的な整合性を保つことができなくなる。
1972年(昭和47年)政府見解の全文を読み取って、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている理由を具体的に確認する。
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集団的自衛権と憲法との関係 内閣法制局 昭和47年10月14日
国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第 51
条、日本国との平和条約第5条(c)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。
ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつているが、これは次のような考え方に基づくものである。
憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第 13
条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
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【資 料】
衆議院及び参議院の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」に提出された政府統一見解等 参議院 立法と調査 2015.12 (P63)
◇ タイトルには「集団的自衛権と憲法との関係」と記載されている。そのため、この文章は「集団的自衛権」と「憲法」との関係について説明するために作成されたものである。
そして、この文章の最後には、「集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」と記載されている。
そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」という結論に至るまでの過程で使われた文言であることから、ここに「集団的自衛権の行使」を可能とする余地を生むような意味が含まれているはずがない。
よって、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。
◇ この文章は「集団的自衛権」を「いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止することが正当化されるという地位」と定義している。
この中には「自国が直接攻撃されていないにかかわらず、」との文言があることから、「自国が直接攻撃」されているか否かが「集団的自衛権」に該当するか否かを識別するための基準として圧倒的に重要な点となることが予め告知されている。
その上で、第二段落では「集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」と説明している。
これは、「集団的自衛権の行使」が「憲法の容認する自衛の措置の限界をこえる」ことから許されないと説明するものである。
その「自衛の措置の限界」とは、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」として示された規範である。
この「自衛の措置の限界」の規範の中には、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在する。
そのため、「自衛の措置」を行うためには「あくまで外国の武力攻撃によつて」を満たすことが求められる。
これが「自衛の措置の限界」となり、これによって「集団的自衛権」を「行使すること」が「許されない」との結論が導かれているということである。
「集団的自衛権」に該当する場合であるか否かを識別するための基準は、「自国が直接攻撃」されているか否かが重要な点であることが予め告知されていたことから、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に、「自国が直接攻撃されていない」場合が含まれているはずがない。
もし「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「自国が直接攻撃されていない」場合が含まれていることになれば、「集団的自衛権」を「行使すること」が「自衛の措置の限界をこえる」とは言えなくなってしまうからである。
そうなると、「自衛の措置の限界」の範囲内のものとして「集団的自衛権」を「行使すること」が可能となってしまうため、「集団的自衛権」を「行使すること」が「許されない」との結論は導かれなくなる。
すると、「集団的自衛権」を「行使すること」が「憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されない」との文言と論理的に矛盾してしまうのである。
このことから、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に、「自国が直接攻撃されていない」場合、具体的には「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃」(他国に対する武力攻撃)の意味は含まれておらず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることになる。
◇ 結論において「集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」と導かれる理由は、「自衛の措置の限界をこえる」からである。
「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、その「自衛の措置の限界」の規範を具体的に示した部分に記載されており、ここに「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると考えた場合、「自衛の措置の限界」の規範から「集団的自衛権の行使」を可能とする余地が生まれてしまうことになる。
こうなれば、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」と示していることと論理的に矛盾することとなり、1972年(昭和47年)政府見解それ自体が論理的な矛盾を含むものとして扱うこととなる。
これでは、1972年(昭和47年)政府見解そのものが法解釈を行った文章として成り立たなくなる。
このことから、その論理の過程となる「自衛の措置」の限界の規範を示した部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「集団的自衛権の行使」を可能とする余地のある「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれているはずがない。
そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。
◇ 「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、第二段落で「集団的自衛権の行使」は「自衛の措置の限界をこえる」とする説明することを受けて用いられた文言であり、ここに「集団的自衛権の行使」を可能とする余地のある「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれているはずがない。
これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、それ以外の武力攻撃などが当てはまる余地はない。
◇ 「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」と説明されて「自衛の措置」が無制限ではないことが示され、その「自衛の措置」の限界を明確な形で描き出そうとする中で用いられた文言である。
そのため、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られておらず、それ以外の武力攻撃を含むこととなってしまうと、この見解自体が「自衛の措置」が無制限ではないことを示し、「自衛の措置」の限界を明確な形で描き出すための法解釈を行った文章として妥当性を失うことになる。
そのことから、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃の意味が含まれるはずがなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られる。
◇ 「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」
「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、それがそのまま「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」という事態になるとは限らず、その間には直接的な相当因果関係を見い出すことができない。
そのため、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の部分は、「我が国に対する武力攻撃」によって引き起こされる場合に対応するものとして想定されている文言である。
よって、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られる。
◇ 「急迫、不正の事態」
「他国に対する武力攻撃」の「急迫性」や「不正性」は他国が独自に認定するものであるから、我が国が独自にその「急迫性」や「不正性」を認定することができない。
そのことから、「急迫、不正の事態」の文言は「我が国に対する急迫、不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」が発生した場合の意味に限られる。
そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言についても、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られる。
国際法上の「自衛権」の概念の「急迫性」や「不正性」の要件に該当するかについては、国際法上の基準の中で確定するべきものである。
それとは別に、1972年〔昭和47年〕政府見解は日本国の憲法に対する法解釈として示された文章であることから、日本国と攻撃国との二者の間を想定するものである。
ここに敢えて第三者である「他国」に対する「武力攻撃」について、「急迫、不正」であるか否かを審査する場合についてまで含まれているとは読むことはできない。
◇ 「止むを得ない措置としてはじめて容認されるもの」
未だ「他国に対する武力攻撃」が発生した段階であるにもかかわらず、「止むを得ない措置」と評価して「自衛の措置」をとることを可能とすると、他国の間で発生した武力紛争に対して武力介入することになることから、9条1項が禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に抵触して違憲となる。
そのため、「他国に対する武力攻撃」が発生した段階で、「止むを得ない措置」として「自衛の措置」に踏み切ることはできない。
そのことから、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「他国に対する武力攻撃」が含まれることを前提として「止むを得ない措置」を主張する余地はない。
また、「他国に対する武力攻撃」が発生した段階で「止むを得ない措置」を主張することは、「自国の存立」や「国民の権利」の危機(自存自衛)を理由として「武力の行使」を行うことが可能となってしまう。
これは、9条が政府の自国都合による「武力の行使」を制約しようとした趣旨に反するため、解釈として妥当でない。
そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られる。
◇ 「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」という結論に至るまでの一貫した論理の過程として用いられた文言である。
そのため、「自衛の措置の限界」の規範が示される段階において使われている「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言も「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、それ以外の武力攻撃が含まれているはずがない。
◇ 「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「自衛の措置」の限界として示された規範であり、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合」との文言は「武力の行使」の限界を示す規範である。
これは、まず「自衛の措置」の限界が示され、その「自衛の措置」の選択肢として、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を選択する場合においても、「自衛の措置」の限界の規範が引き継がれることによってその限界となる範囲が確定されるという論理展開によるものである。
そのため、「武力の行使」の限界の規範として「わが国に対する急迫、不正の侵害」が示されており、「わが国に対する」ものであることが示されているにもかかわらず、「自衛の措置」の限界の規範が示された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が、敢えて「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合とは異なる場合が含まれているとは読むことができない。
これらの理由により、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味しか有していない。
この中に、「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれているはずがなく、そのような理解は法解釈として成り立たない。
これは、1972年(昭和47年)政府見解の結論部分で「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示されている部分と同じ規範である。
また、この規範は旧三要件の第一要件に対応している。
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「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることを前提として「存立危機事態」の要件を定めることは不可能である。
1972年(昭和47年)政府見解が示す規範と9条の関係性
【2014年7月1日閣議決定以降の政府の説明】
2014年7月1日閣議決定以降、政府は「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られておらず、「他国に対する武力攻撃」の意味も含まれていると主張している。
そして、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が当てはまることを前提とし、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、この「自衛の措置」の限界の規範の枠内にあると説明しようとしている。
この説明の適否を検証するためには、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると考える場合に、1972年(昭和47年)政府見解それ自体が9条解釈を行った文章として妥当性を保つことができるかどうかを検討する必要がある。
そこで、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるかどうかを詳しく検討する。
【「自衛の措置」の限界の規範を枠づける基準を導く方法】
9条は憲法上の規定であり、法的な効力を有している。
そのため、9条の規定が存在する限りは、その規範性を保つことが必要であり、その規定の意味を解釈する際には、その規定が有する趣旨を生かした形で枠組みを示すことが求められる。
そこで、9条の趣旨を検討する。
9条は「自国民の利益」を追及することや、「自国の存立」や「国民の権利」の危機(自存自衛)を理由として、政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定である。
そのため、9条を解釈する際には、9条の有している政府が恣意的な動機に基づいて自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを排除しようとする趣旨が生かされることが(満たすこと)が必要となる。
このことから、9条の制約の下で「武力の行使」を行うことができる場合を見出すとしても、9条の趣旨を損なうことのない形で一定の基準を導き出し、それによって9条の規範性を保つことが求められる。
このような前提から、9条の下で「武力の行使」の発動要件を設定する場合には、政府の恣意性を持った判断が入り込む余地のない基準を導き出すことが必要となる。
そこで、もし下記のような要素を持つ基準を設定した場合には、法解釈として妥当でない。
◇ その基準に該当する事態を政府の意思で創作することが可能となる要素(自動性)
◇ 事態を認定する者の主観的な判断に頼ることとなる要素(主観性)
◇ 具体的にどのような状態を意味しているのか分からない要素(不明確性)
これらの要素を持つ基準を設定した場合、政府の恣意的な判断によってその要件に該当すると認定できてしまうこととなる。
これでは、9条の政府が恣意的な動機によって自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした趣旨を損なうこととなる。
そのため、9条の趣旨を満たすためには、下記のような要素が必要となる。
◇ 政府の意思では基準に該当する事態を創作することができない「受動性」を有すること
(我が国に対して行われた外国の行為であり、政府が意図して作出することができないこと)
◇ 事態を認定する者の主観的判断に流れることのない「客観性」を有すること
◇ 適用できるか否かを誰もが識別することのできる「明確性」を有すること
9条の趣旨を満たすためには、これらの要素を有する基準を設定することが求められる。
【1972年(昭和47年)政府見解に含まれる要素】
1972年(昭和47年)政府見解は、9条の規定が存在することを背景として、憲法上の規定を解釈することによって導き出された文章である。
1972年(昭和47年)政府見解が9条解釈を示した文書である以上、その「自衛の措置」の限界を示した規範部分には、9条の規範性を保つための基準となるものが存在するはずである。
このことから、政府の恣意的な動機によって「武力の行使」が行われることを防ぐための基準となるものが設定されていることが期待されている。
よって、9条の下で「自衛の措置」を発動できる場合か否かを決するために設定している「自衛の措置」の限界を示した規範部分には、9条の規範性を保つための基準となるものが含まれていると考えられる。
その「自衛の措置」の限界を示した規範部分は、下記の部分である。
1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範を示した部分
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あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。
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この基準は「自衛の措置」を発動した場合でも、これを満たしているのであれば9条の規範性を保つための基準となるものを通過し、9条に抵触しないと見なすことができる部分ということである。
つまり、9条の規定が政府の行為を制約しようとする趣旨(意図)が生かされる形で解釈を行った結果として導き出されている部分である。
そのことから、この「自衛の措置」の限界の規範の中には、政府の恣意性が入り込む余地が生じないための基準となるものを有していることが前提となっており、先ほど挙げた9条が求める政府の恣意性が入り込む余地を生じさせない「受動性」「客観性」「明確性」を満たす要素が含まれていることがもともと求められている。
(「自衛の措置」の限界の規範は、「受動性」「客観性」「明確性」を満たす基準が設定されているはずの部分である。)
政府による『数量』的な判断となることは排除されるべき部分であり、事態の『性質』面に基準が設定されるべき部分である。
【「自衛の措置」の限界の規範を枠づける基準となるもの】
この前提を踏まえると、「自衛の措置」の限界を示した規範部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、これらの要素を満たす、「我が国に対する武力攻撃」のことを示していると考えることが妥当である。
その理由は、下記の通りである。
◇ 「我が国に対する武力攻撃」という基準は、我が国に対して行われた他国の行為を基準とするものであり、我が国の政府の意思によって基準に該当する事態を作出することができない。ここには、「受動性」を認めることができる。
◇ 「我が国に対する武力攻撃」という基準は、ある出来事があったかなかったかという事実の有無を基準としており、事態を認定する者の主観的判断に流れることがない。ここには、「客観性」を認めることができる。
◇ 「我が国対する武力攻撃」という基準は、適用することができるか否かを誰もが識別することができると考えられる。ここには、「明確性」を認めることができる。
このように、「受動性」、「客観性」、「明確性」の高い規範が設定されていると考えられる。
これにより、9条が政府が恣意的な判断によって自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとする趣旨が正確に生かされており、9条の趣旨を満たすと考えられる。
この規範を導き出したことは、9条解釈の方法として妥当性が高い。
このことより、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味している。
1972年(昭和47年)政府見解の内容は、日本国の政府が「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」というような事態を防ごうとして、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を認めようとする解釈の枠組みである。
しかし、憲法上に9条が存在することから、政府の恣意的な動機によって「自衛の措置」が行われることを排除することが求められている。
そのため、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」という事態であるか否かを識別(判別)するための基準を設定することにより、政府の恣意性を排除することが必要となる。
このような9条の趣旨を受けて、1972年(昭和47年)政府見解は「外国の武力攻撃」や「急迫、不正の事態」という規範を設定している。
1972年(昭和47年)政府見解(抜粋)
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……(略)……しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。……(略)……
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このような経緯から、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。
これは、この「我が国に対する武力攻撃」という規範は、政府の恣意的な動機に基づいて自国都合によって「自衛の措置」が行われることを排除することのできる要素を備えていると考えられるからである。
◇ 政府が意図して作出することのできない「受動性」
◇ 事態を認定する者の主観的判断に流れることのない「客観性」
◇ ある出来事があったかなかったかを誰もが識別できる「明確性」
これらの要素を満たすと考えられることから、9条が政府の恣意的な動機によって「自衛の措置」が行われることを制約しようとする趣旨を損なうものとまではいえない。
よって、これを満たす中で行われる「自衛の措置」は9条に抵触しないと考える余地がある。
このことから、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、9条の規範性を保つことができる基準となるものが備わっており、これを満たす中での「自衛の措置」は9条に抵触しないと考えられる。
【「自衛の措置」の限界の規範を枠づける基準はどこにあるか】
仮に、政府の言うように「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られておらず、「他国に対する武力攻撃」の意味も含まれると考えるとする。
すると、「自衛の措置」が9条に抵触しないことを明らかにし、9条の規範性を保つための基準となっている部分は、「自衛の措置」の限界の規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分にあると考えることはできなくなる。
その理由は、下記の通りである。
まず、「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、我が国と何ら関係のない他国同士の間で武力紛争が発生したに過ぎない。これだけでは、我が国に何ら影響を与えない場合も考えられる。
そのため、「他国に対する武力攻撃」が発生しただけで「武力の行使」を行ったならば、我が国が自国の主張を通すために「武力の行使」という手段を用いたり、他国同士の間で発生した武力紛争に対して武力介入することになる。
これは、9条1項が禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に抵触して違憲となる。
また、9条1項に抵触する「武力の行使」を実施する実力組織は、9条2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
さらに、そのような「武力の行使」を実施するための『権限』についても、9条2項後段の禁じる「交戦権」に抵触して違憲となる。
他にも、「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を行うことは、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するために「武力の行使」を行うことになる。
「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」を実施するための実力組織の実態を「陸海空軍その他の戦力」と異なるものと説明することはできず、9条2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
「他国に対する武力攻撃」に起因する形で「武力の行使」を行う場合について、それを『自国防衛』のための「武力の行使」として実施する場合、それは我が国が自国の主張を通すために「武力の行使」を選択していることになる。
また、これは他国同士の間で発生した武力紛争に対して武力介入することを意味し、9条1項が禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に抵触して違憲となる。
他にも、単に「他国に対する武力攻撃」に起因する形で「武力の行使」を行うことは、前文が「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」という形で「平和主義」の理念を定めている趣旨にも反する。
これらのことから、「他国に対する武力攻撃」が発生した段階で、それに起因する形で日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となることが明らかである。
そのため、「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、それだけでは未だ政府が恣意的な動機によって「武力の行使」に踏み切る可能性が排除されておらず、到底9条の規範性を保つための基準となるものを通過したと見なすことはできない。
よって、「他国に対する武力攻撃」が発生した段階では、未だ他国同士の間で武力紛争が発生しただけであり、これを理由として9条の規範性を保つための基準となるものを通過したと見なすことはできない。
そのことから、この「自衛の措置」の限界の規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると考える場合には、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分は、9条の規範性を保つための基準として役に立たないものとなってしまう。
つまり、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分には、9条の規範性を保つための基準となるものは存在しないと考えるということである。
逆側から見れば、9条の規範性を保つための基準となるものが「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分にあると考えるのであれば、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているとしか考えられず、ここに「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると考えることはできない。
そうなると、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範の別の部分に9条の規範性を保つための基準となるものが存在すると考えなければならなくなる。
「自衛の措置」の限界を画し(枠づけ)、「自衛の措置」が9条に抵触しないことを明らかにし、政府の行為を限界づけ、政府の恣意的な行為を制約し、同時に9条の規範性を保つための基準となるものを設定している部分を、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言以外の別の部分から見つけ出すことが必要となる。(に示されているはずであると考えることになる。)
そうしなければ、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範そのものが9条が政府の恣意的な判断によって「自衛の措置(武力の行使)」が行われることを禁じようとした趣旨を満たす基準を有するものとならず、法解釈を行った文章として成り立たないものとなってしまうからである。
【「あくまで外国の武力攻撃によつて」以外に9条の規範性を保つための基準があるか】(作成中)
「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分以外で、9条の規範性を保つための基準となるものの候補となる部分は、下記の下線部が考えられる。
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あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。
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下線部を抜き出すと、下記のようになる。
① 「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」
② 「国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置」
③ 「右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきもの」
順番に検討する。
① 「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」
「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」というだけでは、自国の状態を抽象的に述べただけであり、「権利」の内容や性質を具体的に述べたわけではないし、「根底からくつがえされる」のか否かについても基準となるものを示すところがない。
また、「急迫、不正の事態」の文言についても、もともと我が国の憲法解釈における「急迫、不正の事態」であるから、「我が国に対する武力攻撃」によって引き起こされるものとしか解することはできない。
そのため、この「急迫、不正の事態」の意味する「我が国に対する武力攻撃」を満たさない「存立危機事態」の要件を認めようとする中において、この文言が何らかの規範としての役割を果たすということはない。
たとえ「他国に対する武力攻撃」を「急迫、不正の事態」と呼ぼうとしても、「他国に対する武力攻撃」が発生しただけでは、未だ他国同士の間で紛争が発生しただけであり、これだけで9条の規範性を保つための基準となるものを通過することはなく、我が国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行うことができると解する余地は生まれない。
また、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」という内容では、政府が自国の状態を判断することが基準となるものとなる。
すると、自国の脆弱性を敢えて作出することでこの事態に該当すると認定できてしまう「自動性」が含まれることとなってしまう。
他にも、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利」のいかなる段階の危機であるのか具体性のない抽象的で不明確な概念が「根底からくつがえされる」か否かを判断するという「主観性」が含まれる基準となってしまう。
これでは、9条が政府の自国都合による「武力の行使」を制約しようとする趣旨を満たさないのであって、1972年(昭和47年)政府見解そのものが9条の趣旨を生かした規範を設定しているものとは言えなくなり、憲法解釈を行った文章として妥当性を失うこととなる。
さらに、このような「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」の部分を基にした要件は、政府がこれに「該当する」と言えば該当し、「該当しない」と言えば該当しないとすることが可能となってしまう点で、事態の『数量』面に着目した基準ということとなる。
これでは、9条が存在しているにもかかわらず、政府の恣意的な行為や、恣意的な判断に基づく「武力の行使」を法規範によって制約し、限界付けることができない。
これは、9条が政府の自国都合による「武力の行使」を制約しようとした趣旨を満たさない。
そのため、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」の部分に、政府の恣意的な動機によって「武力の行使」が行われることを制約する基準となるものが存在すると考えることは、9条解釈として成り立たず、妥当でない。
基準となるものを「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るため」の部分に求めるとしても、これを満たすことで「武力の行使」を行うことができると考えるのであれば、「国民の利益」の実現や、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が「武力の行使」を行うことが可能となってしまう。
結局、何らかの武力攻撃が発生した場合には、9条の下でも「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るため」であれば、「止むを得ない措置」としての「武力の行使」が認められるとする可能性を開くことになってしまう。
これは、「国民の利益」の実現や、「自国の存立」や「国民の権利」の危機などの理由を拡大させ、政府が自由裁量を前提とした政治判断によって「武力の行使」に踏み切ることを9条という法の規範によって制限できなくなることを意味する。
9条が「国民の利益」の実現や、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の恣意的な動機によって「武力の行使」に踏み切ることを禁じようとした趣旨の規定であるという枠組みを超えるものである。
② 「国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置」
「国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置」の部分についても、政府が「やむを得ない」と判断して自国都合の「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験しており、このような「武力の行使」を制約するために9条が設けられている。
そのため、「やむを得ない」か否かのみを判断することで「自衛の措置(武力の行使)」が可能となる形とすることはできない。
ここに9条の制約の趣旨を満たし、9条の規範性を保つための基準となるものが存在すると考えることはできない。(ここに規範となるものは存在しない。)
③ 「右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきもの」
「右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきもの」の部分についても、「自衛の措置」の程度・態様について述べたものであり、9条の制約による規範が数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているものではない。もし9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」というものであれば、政府が政策判断として「必要最小限度」と考える「武力の行使」はすべて行うことができることとなってしまうのであり、9条が法規範として政府の行為を制約しようとする趣旨を満たさないため、法解釈として成り立たない。
これにより、これらの部分に、前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」ている「平和主義」の理念を満たし、それを具体化した9条の規定が政府の恣意的な行為を制約しようとする趣旨の生かされた規範となる部分を見つけることができない。
もしこれらを基準として「武力の行使」を行うことができるとすれば、9条が政府の自国都合の恣意的な動機による「武力の行使」が行われることを禁じる趣旨の規定としての意味を為さなくなってしまうことから、1972年(昭和47年)政府見解そのものが法解釈として妥当なものであるという前提を失ってしまう。
このように、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に、「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれると考えた場合、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範部分を、9条の規範性を保つための基準となるものが存在しないものとして扱うこととなるのであり、1972年(昭和47年)政府見解自体(そのもの)を9条解釈を行った文章として成り立たないものとしてしまうこととなる。(妥当なものでなくなってしまう。)
これは、法解釈として妥当でない。
そのため、「自衛の措置」の限界を示した規範部分において、これらの趣旨を満たし、「自衛の措置」の限界を画する基準となるものは、実質的に「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言以外には存在しないこととなる。
政府の行為を限界づけると同時に9条の規範性を保つための基準となるものを「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言以外に見つけ出すことができない。
つまり、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分が、憲法解釈において求められる9条の規範性を保つために設定された基準となるものが含まれている部分であると考えることが妥当である。
そのため、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていると考えることになる。
これより、この中に政府の行為を限界づけると同時に9条の規範性を保つための基準とはならない「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれる余地はない。
【「我が国に対する武力攻撃」以外の要件が当てはまるのか】
〇 「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると考えた場合に、法解釈を行った文章として成り立つか
政府は、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られておらず、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」(②)の意味が含まれる(当てはまる)と主張している。
しかし、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中から「我が国に対する武力攻撃」が発生した事態ではないものを見出そうとすると、同様に「我が国と密接な関係にない他国に対する武力攻撃」(③)や、「我が国と関係のない外国の間で武力攻撃」(④)についてもこの文言の中に含まれる可能性が生まれることとなる。
① 「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合
② 「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が発生した場合
③ 「我が国と密接な関係にない他国に対する武力攻撃」が発生した場合
④ 「我が国と関係のない外国の間で武力攻撃」が発生した場合
結局、我が国と関係のない他国同士の間で発生した「他国に対する武力攻撃」もここに含まれることとなってしまうということである。
しかし、「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を行うことができるとすることは、9条が有する政府の恣意的な動機に基づいて行われる自国都合の「武力の行使」を制約しようとする趣旨を満たすものではないことから、9条に抵触して違憲となる。
また、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃(『他国に対する武力攻撃』の意味)が含まれると考えると、上記で示したように、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示したはずの部分には、その「自衛の措置」の限界を画するための規範となるものが存在しないことになってしまう。(を有していないこととなる。)
「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、9条が政府の行為を制約しようとする趣旨を満たし、9条の規範性を保つための基準となるものを設定した規範となっている部分であることから、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている、とは考えないということである。
これは、1972年(昭和47年)政府見解それ自体が、9条の政府の恣意的な行為を制約しようとする趣旨を生かした形で規範を設定することにより、9条の規範性を保とうとした意味を失ってしまい、1972年(昭和47年)政府見解から9条の規範性を保つための基準となるものを失ってしまうということである。
すると、それは結局、1972年(昭和47年)政府見解が単に「国民の生命、自由及び幸福追求の権利」が覆される事態があれば、対外的に「武力の行使」を行っても9条に抵触しないと説明する文章ということになってしまうのである。
「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることが可能となってしまうということは、9条が政府が恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとする趣旨を満たすものではなく、9条の規範性を損なうこととなる。
これでは、9条が法規範として存在している意味そのものを失わせることとなり、規定と規定が存在することを整合的に解釈することで法規範を見出そうとする法解釈という営みそのものを否定することとなる。
1972年(昭和47年)政府見解が9条の趣旨を読み解き、規範を導き出そうとしている手続きそのものが法解釈として妥当なものではなくなり、法解釈として成り立たなくなってしまうのである。
1972年(昭和47年)政府見解そのものが、9条解釈として成り立たない文章であることになるのである。
こうなると、1972年(昭和47年)政府見解の文章それ自体(そのもの)を、9条が政府の行為を制約しようとする趣旨を満たしておらず、9条の規範性を保つことができていないものとして扱っていることになるから、9条について法解釈を行った文章として意味が通じておらず、成り立っていないものとしてしまうのである。
そうなれば、政府は2014年7月1日閣議決定において「存立危機事態」の要件を定める際に、この1972年(昭和47年)政府見解の一部分を「基本的な論理」と称して文を抜き出し、その「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれていると説明しているが、このように考えることは、もともと前提となっている1972年(昭和47年)政府見解そのものを、9条が政府が恣意的な動機によって「武力の行使」を行うことを制約しようとする趣旨を満たしておらず、9条の規範性を保つことができていないものとして扱っていることになることから、9条についての法解釈を行った文章として成り立っていないものであることを前提とすることになる。
すると、そのような文章を引き継ぐ形で定めようとした2014年7月1日閣議決定それ自体も、法解釈として成り立っていないことになる。
よって、このような考えは、法解釈として妥当でない。
そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分は、「我が国に対する武力攻撃」を示したものと理解することが妥当であり、その意味に限られており、それ以外のものが含まれると考えることはできない。
【「無制限に認めているとは解されない」の趣旨】
1972年(昭和47年)政府見解の第三段落の「自衛の措置」の限界の規範を示す前に「自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて」と記されている。
「無制限に認めているとは解されない」のであるから、「自衛の措置」の限界の規範を示した部分には、政府の行為を限界づけると同時に9条の規範性を保つための基準となるものが存在することが前提となる。
その中から政府の行為を限界づけると同時に9条の規範性を保つための基準となるものを満たすものを見つけ出そうとすると、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言しか存在しない。
なぜならば、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」との部分や、「国民のこれらの権利を守るため」の部分に何らかの基準があるのではないかと考えようとしても、この部分を基準にして「自衛の措置(武力の行使)」を行うことができるとした場合、結局政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「自衛の措置(武力の行使)」に踏み切ることが可能となってしまい、9条が政府の行為を制約しようとした趣旨を満たさなくなってしまうからである。
そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、それ以外のものが含まれると考えることはできない。
【「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」事態の判定基準】
1972年(昭和47年)政府見解は、9条が政府の恣意的な動機によって「自衛の措置」が行われることを制約しようとする趣旨に基づいて作成された法解釈の枠組みである。
そのため、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」ような事態を防ぐ必要性があるとしても、そのための措置は無制限ではなく、9条によって制約されることを示すために「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が付けられたものである。
この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が政府の行為を制約しようとする趣旨を有する部分であり、この文言が9条の規範性を維持することのできる要素が含まれている部分である。
そのため、この文言の中に「他国に対する武力攻撃」(『我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃』)の意味が含まれることになれば、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の中から政府の恣意性を排除することのできる要素をもった基準となるものが失われてしまうこととなる。
すると、1972年(昭和47年)政府見解そのものが、9条の趣旨を満たす法解釈の枠組みとして成り立たないものとなってしまい、9条の規範性も損なわれてしまうこととなる。
このことから、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「他国に対する武力攻撃」(『我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃』)の意味が含まれるはずがない。
【9条の規範性を保つための基準となるものを通過していないこと】
日本国憲法は、前文に「平和主義」の理念が記載されている。
「平和主義」を採用する日本国の立場からは、「平和主義」を採用していない他国同士の間で発生した武力紛争による武力攻撃(『他国に対する武力攻撃』)を、我が国の行う「武力の行使」の発動要件として設定することはできない。
そのため、たとえ「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、それだけでは未だ9条の規範性を保つための基準となるものを通過したことにはならない。
また、「他国に対する武力攻撃」が発生しても未だ9条の規範性を保つための基準となるものを通過していないのであるから、それに起因して「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由とする「武力の行使」の発動を許容する余地が生まれるわけでもない。
もし「他国に対する武力攻撃」に起因して「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由とする「武力の行使」が可能となるのであれば、それは結局、「平和主義」を採用していない他国同士の武力を背景とした国際紛争を引き起こしている「他国の姿勢」に同調するものとなる。
このような形で「武力の行使」を行うことは、「平和主義」の理念に沿わないことは当然、この前文「平和主義」の理念を具体化する形で定められた規定である9条に抵触して違憲となる。
そのため、たとえ「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、1972年(昭和47年)政府見解の「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の部分に該当することを理由として「武力の行使」を行うことが許容されるという余地が生まれるわけではない。
よって、「平和主義」を背景とした9条がどのような制約のものであるかを確定することを目的として行われる憲法解釈の過程を示した1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に、「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるとは到底考えることができない。
そのことから、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られる。
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日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意」して、憲法9条を規定している。これは、主権の発動としての戦争を、自衛戦争も含めて全面禁止するとともに、政府の政策的判断によって武力を行使することも禁止することを意味している。つまり、不正な侵害を排除するために最小限度の実力を行使することを余儀なくされる場合を除いて、政策的判断によって武力を行使する権限を政府に与えていない。従来の政府の憲法解釈の基本的枠組みは、ここにある。集団的自衛権行使の禁止も、この論理の帰結である。
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長岡徹(関西学院大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日 (下線は筆者)
【参考】いわゆる昭和四十七年政府見解における「平和主義」の意味に関する質問主意書 平成28年12月22日
【政府自身の答弁からも9条の規範性を保つための基準を通過していないことが明らかなこと】
9条の下では、9条の規範性を保つための基準となるものを通過していない段階で「武力の行使」を行うことはできない。
まず、政府自身も「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」の部分だけでは「大変広過ぎる」ということも認めている。
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○横畠政府特別補佐人 個別的自衛権の前提となります我が国に対する武力攻撃が発生した場合、それは言わずもがな、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処する場合であるということで、これまでもそこのところは書いていなかったわけでございます。
今回は、他国に対する武力攻撃の発生を契機とする武力の行使ということでございますので、単に国際法上の要件となっています自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したことというだけでは大変広過ぎるということでございまして、昭和四十七年見解の基本論理に適合する範囲に限定するというために、このたびの新三要件におきましては、他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合という形に限定したものでございます。
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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第10号 平成27年6月15日
(この答弁は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に新三要件の「存立危機事態」の要件が当てはまるかのように説明しているが、論理的に当てはまらないため誤りである。)
ここで、政府自身も「自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したことというだけでは大変広過ぎる」と認めている。
これは、「自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が発生しただけでは、9条の規範性を保つための基準となるものを通過したことにはならないということである。
ここには「昭和四十七年見解の基本論理に適合する範囲に限定するというために、」との答弁がある。
しかし、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の意味は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。
ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味が含まれる余地はない。
そのため、「適合する範囲に限定するというために、」と述べているが、「適合」することはないため、「適合」するかのような前提で論じている点で誤りである。
9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定である。
そのため、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」に踏み切ることはできない。
このことから、政府が単に「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」という事態を認定するだけで「武力の行使」に踏み切ることが許容されることにはならない。
立法者である政府自身も、下記のように述べている。
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○横畠政府特別補佐人 お示しの図のとおり、個別的自衛権の、着手というか、我が国に対する武力攻撃の発生という上の線を超えたときには個別的自衛権で対処するということで、論理的には、存立危機事態というのはそれよりも下のところに線が引かれるというのは御指摘のとおりでございます。
また、それぞれ、その認定の幅というものがあって、余り細い線では引けないということもあろうかと思います。
ただ、その前提といたしまして、我が国に対する、先ほどのパネルかもしれませんけれども、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態というもの、それ自体を要件として、それ自体を要件として我が国の武力行使の可否というものを決めていく、仮にそういうことといたしますと、非常に不安定というか、まさに我が国の判断で、我が国の思いだけで武力の行使に及んでしまうというおそれというものがむしろ大きくなるのではないか。
むしろ、国際法上の縛りというのがきっちりありますので、やはり、我が国に対する武力攻撃が発生した場合の個別的自衛権の要件というものがあり、それを満たすときには個別的自衛権で行います。
それから、集団的自衛権の行使の場合には、被害国の要請、同意みたいなものも要件とされていますので、そういうものも当然加えた上で、集団的自衛権を満たす場合という国際法上の縛りもしっかり踏まえた上での、かつ、憲法上の縛りでありますところの我が国自衛というか、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという明白な危険がある、それもやはり要件として加えた場合に限って武力の行使ができる、そういうことの方が規範性が高いというか、不用意な武力の行使に及ぶ危険性が低い制度ではないかと思います。
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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第15号 平成27年6月29日
【動画】横畠裕介vs「何も説明されてない」長妻昭6/29 2015/06
これより、政府自身も、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」という部分だけでは、9条の規範性を保つための基準となるもの(要素)があると解することはできないことを認めている。
ここで「憲法上の縛りでありますところの我が国自衛というか、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという明白な危険がある、それもやはり要件として加えた場合に限って武力の行使ができる、そういうことの方が規範性が高いというか、不用意な武力の行使に及ぶ危険性が低い制度ではないかと思います。」と述べている部分がある。
しかし、政府自身が下線部分で述べているように、この「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという明白な危険がある」というだけでは9条の規範性を保つための基準となるものを通過していないのであり、9条に抵触しないことを説明したことにはならない。
そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると考えた場合、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範部分が9条の規範性を保つための基準となるものを有しないものと扱うことになってしまう。
1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範部分
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あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。
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こうなると、1972年(昭和47年)政府見解そのものが、9条の規範性を保つための基準となるものを有しない見解となってしまい、9条解釈を行った文章として成り立たなくなるため、妥当でない。
このことから、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範部分を9条の規範性を保つための基準となるものを有するものとして考える限りは、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られる。
下記の「四十七年見解の二の要件そのものを書き込むということが必要であった」との答弁があるが、誤った認識がある。
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○横畠政府特別補佐人 個別的自衛権、集団的自衛権というのは国際法上の概念でございます。
それで、我が国に対する武力攻撃が発生した場合については、言わずもがな、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態であるという前提は言わずもがなですので、言わずもがなのことについてあえてさらに限定するということには意味がございません。
このたびの集団的自衛権につきましては、限定されたものであるということで、どのような観点から限定されるかということを書かなきゃいけないということで、まさに四十七年見解の二の要件そのものを書き込むということが必要であったということでございます。
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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第10号 平成27年6月15日
まず、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定である。
そのため、9条の下では単に「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態である」ということのみによって「自衛の措置」としての「武力の行使」に踏み切ることは禁じられている。
1972年(昭和47年)政府見解も9条の趣旨を満たす法解釈の枠組みとして作成された文章であり、その「自衛の措置」の限界を示した規範部分にも当然その趣旨が含まれている。
1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範部分
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あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。
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そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範は、単に「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態である」ということのみを満たすことによって、「自衛の措置」を採ることや「武力の行使」に踏み切ることを許容しているわけではない。
このことから、その1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範として示された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が、9条の制約の趣旨を満たし、9条の規範性を保つための基準となるものと考えられる。
この前提から、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の意味を特定する必要がある。
「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、1972年(昭和47年)政府見解が9条の趣旨を満たす法解釈の枠組みとして示された「自衛の措置」の限界を画するものであり、9条の規範性を保つための基準となるものを有する部分として読み解くことが求められる。
先ほどの政府の答弁にあるように、「自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たすだけでは、9条の規範性を保つための基準を通過したことにはならない。
そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られる。
【「そうだとすれば、」の意味】
政府は、2014年7月1日閣議決定において1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持したまま、ここから「存立危機事態」での「武力の行使」を導き出すことができるとする説明をする際、1972年(昭和47年)政府見解の中の「そうだとすれば、」の文言を持ち出して下記のように主張している。
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これに対し政府は、「外国の武力攻撃」は我が国に対する武力攻撃に限られないとし、「あえてそこで限るとすると、結論として③『そうだとすれば、』という結論に至らない。③で我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られることで、そこで初めて我が国に対することが出てくる」 、「基本論理においてはその限定がないとしか読めない」と説明した10。
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限定的な集団的自衛権の行使のための法整備 - 事態対処法制の改正 - 参議院 外交防衛委員会調査室 PDF (P33)
しかし、この主張は妥当でない。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解の「そうだとすれば、」の文言が使われている意味は、「自衛の措置」の限界の規範と「武力の行使」の限界の規範を段階を追って分けて説明していることを示すものだからである。
1972年(昭和47年)政府見解の「憲法は、第九条において、」から始まる第三段落は、下記のように構成されている。
◇ 初めに、9条の下でも「自衛の措置(自衛のための措置)」をとることができることを確認している。
◇ 次に、その「自衛の措置」は無制約ではないことを明らかにした上で、「自衛の措置」の限界の規範を示している。
◇ その後、「自衛の措置」として「武力の行使(武力行使)」を選択する場合においても、この「自衛の措置」の限界の規範に拘束されることになることから、「武力の行使」の限界の規範が導かれる。
◇ そして、最後に、「集団的自衛権の行使」という「武力の行使」を伴う措置の可否について、先ほど示された「武力の行使」の限界の規範の基準に基づいて結論が示されている。
ここで、「自衛の措置」と「武力の行使」を異なるものとして強調し、それを分ける形で説明している理由は、「自衛の措置」については、砂川判決の示した「自衛のための措置」と重なるものであることを意識するためである。
【1959年(昭和34年)砂川判決】
(抜粋)
一、先ず憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、九条一項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条二項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。
そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。
【1972年(昭和47年)政府見解】
(抜粋)
憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第 13 条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
政府は、1959年(昭和34年)砂川判決の「自衛のための措置」と、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛のための措置(自衛の措置)」は、軌を一にするものであると説明している。
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この昭和四十七年の政府見解においては、
(一)まず、「憲法は、第九条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第一三条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」としている。この部分は、当該判決の「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」という判示と軌を一にするものである。
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安倍内閣の砂川判決論法と昭和四十七年政府見解の読み替えが平和主義の切り捨てであることに関する質問に対する答弁書 平成27年10月6日
(軌を一にするもの・軌を一にするもの)(【動画】衆議院平和安全特別委員会 2015 06 19)
砂川判決が示した「自衛のための措置」の内容は、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。
砂川判決では「自衛のための措置」の中に、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が含まれるか否かについては何も述べていない。
このことから、1972年(昭和47年)政府見解の内容は、まず砂川判決でも述べられている「自衛のための措置」の範囲について表現し、その後に砂川判決では述べられていない部分について政府独自の見解としての「武力の行使」を可能とする旨を示していると解することが妥当である。
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〇 1959年(昭和34年)砂川判決が「自衛のための措置」をとりうることを示す。ただ、砂川判決が示した「自衛のための措置」の内容は、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。
↓
〇 1972年(昭和47年)政府見解は、砂川判決の「自衛のための措置(自衛の措置)」を引き継いで、「自衛の措置」の限界の規範を示した上で、その措置の中に日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を選択する場合がある旨を述べ、「武力の行使」の限界の規範を示している。
↓
〇 2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の憲法解釈の論理と「自衛の措置」の限界の規範を示した部分を「基本的な論理」と称し、それを引き継ぐ形で「存立危機事態」での「武力の行使」を伴う措置を定めようとしている。
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下記の資料でも確認する。
この資料は、1972年(昭和47年)政府見解の内容を「段落」と「文章」に分けて説明している。
第一段落
第二段落
第三段落(第一文章 第二文章 第三文章)
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(c)「自衛の措置」から「武力行使」へと丁寧に論じている本来の論理構造との矛盾: 昭和47年政府見解は、その全体構造として、我が国の憲法で許容される「自衛の措置」から「武力の行使」について、一気通貫に論を運ぶ、極めて論理的に一貫した文書である。すなわち、第二段落において、「いわゆる集団的自衛権……を行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されない」との「立場」に立っているとし、それが基づく「考え方」を以下の第三段落で論じる流れになっている。つまり、この第二段落で、「武力行使」と「自衛の措置」の二つの概念を示し、そして、第三段落の第一文章で砂川判決の法理である「自衛のための措置」で論を起こし、続いて第二文章の中で前文の平和主義の法理の制限の下に許容され得る「自衛の措置」を論じ、それを踏まえて第三文章で当該「自衛の措置」として許容される「武力行使」(個別的自衛権行使)を示すとともに、同時に、同文書の目的である集団的自衛権行使が「許容されない武力行使」であることを示すというように段階を追って丁寧に論理的追求を進めている法令解釈文書と理解するのが論理的かつ合理的である。しかし、「構造分割」論は、こうした昭和47年政府見解の本来の論理構造を無視して、これを意図的かつ便宜的に破壊する主張である。なお、安倍内閣は、第三段落の第三文章において、冒頭で「そうだとすれば、
」とあり、かつ、第二文章では裸の「外国の武力攻撃」とある一方でこの第三文章で初めて「わが国に対する」という文言が登場することを「構造分割」論の根拠としているが、上記に示した本政府見解の本来の論理構造の見地からすれば、いわゆる屁理屈の類いのものであり、かつ、(a)、(b)、(d)等の論理的矛盾を生じる詭弁である。
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【補足説明】「昭和47年政府見解の読み替え」問題のより深い理解等 のため PDF (P206~207) (下線・太字は筆者)
(【補足説明】「昭和47年政府見解の読み替え」問題のより深い理解等のために PDF)
これらのことから、「そうだとすれば、」の文言は、「自衛の措置」の限界の規範を示した文から「武力の行使」の限界の規範を示した文を繋ぐための接続詞であると理解することが妥当である。
◇ 「自衛の措置」の範囲 ⇒ そうだとすれば、 ⇒ 「武力の行使」の範囲
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【自衛のための措置】
しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
【武力行使】
そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
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この「自衛の措置」の限界の規範は、三要件(旧)に対応している。
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「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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このことから、「自衛の措置」の限界の規範を示した「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる急迫、不正の事態に対処し、」の部分で、既に「自衛の措置」を執る場合の発動要件は確定している。
その後、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を執る場合における「武力の行使」の限界の規範として、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示されている。
この両者を「そうだとすれば、」の文言で内容を繋いでいるのは、「自衛の措置」の内容として「武力の行使」を選択する場合にも、9条解釈として導かれている「自衛の措置」の限界の規範を同様に満たす必要があることを示すためである。
また、この文章は、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示し、「集団的自衛権の行使」についてはこれを満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから憲法上許されず、日本国の統治権の『権限』によって行うことはできないとの結論に至るものである。
これは、憲法上の規定を整合的に解釈して「自衛のための措置」の限界の規範を導き出した上で、その中の選択肢として「武力の行使」を採用する場合にも同様の規範に拘束されることを明確に示し、この規範を基準として「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」の可否が決せられるというプロセスによるものである。
これにより、「自衛の措置」の規範として示された「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる急迫、不正の事態に対処し、」の部分と、「武力の行使」の規範として示された「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合」の部分の規範は同一であると解することが相当である。
もし2014年7月1日閣議決定やその後の政府の主張のように「あくまで外国の武力攻撃によつて」の中に「我が国に対する武力攻撃」だけでなく、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれると解するのであれば、それは1972年(昭和47年)政府見解の第二段落で「集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」との前提を踏み、結論としても「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は許されない旨を説明している文章であることを否定することになる。
そもそもこの「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」ことを説明する中で、その「自衛の措置」の限界の規範が示される中で使われている文言である。
そのため、もしここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれるのであれば、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」について、「自衛の措置の限界をこえる」とは言えなくなってしまう。
すると、1972年(昭和47年)政府見解が9条や前文の「平和主義」、13条の規定などを整合的に解釈することによって「自衛の措置」の限界の規範を導き出し、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」の可否を決しようとする憲法解釈の過程そのものが成立しないものとなってしまう。
そのように解するのであれば、1972年(昭和47年)政府見解そのものを論理的整合性を有しないために法解釈を行った文章として成り立たないものとして扱うことになるから、2014年7月1日閣議決定において1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分を維持している(引き継いでいる)と説明することは論理矛盾となる。
そのため、「自衛の措置」の限界の規範として示された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分に「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれると解する余地はない。
このことから、上記で政府が主張している「『外国の武力攻撃』は我が国に対する武力攻撃に限られない」や「そこで初めて我が国に対することが出てくる」、「基本論理においてはその限定がないとしか読めない」との説明には合理的な理由となるものはなく、解釈手続きとして妥当でない。
「自衛の措置」の限界の規範が「我が国に対する武力攻撃」を満たす場合を示している。
これにより、「自衛の措置」の選択肢として日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を選択する場合においても、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことが求められる。
このことは、1972年(昭和47年)政府見解の結論部分で、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示されている通りである。
【「軌を一にするもの」の限界】
政府は、1959年(昭和34年)砂川判決の「自衛のための措置」と1972年(昭和47年)政府見解の「自衛のための措置」は軌を一にするものであると説明している。(軌を一にするもの・軌を一にするもの)
このことから、1972年(昭和47年)政府見解の示している「自衛のための措置」の中には、砂川判決が「自衛のための措置」の選択肢として挙げている「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」が含まれていると考えられる。
そのため、1972年(昭和47年)政府見解は「自衛の措置」の限界の規範を「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と示しているが、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を実施する場合についてもこの範囲に限られるものと考えていることを読み取ることができる。
これより、「自衛のための措置」として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」や「他国に安全保障を求めること」という方法を選択するとしても、それは「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分を満たすことが必要となる。
このことから、「自衛のための措置」として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」や「他国に安全保障を求めること」という方法を選択するとしても、「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合に限られることとなる。
【砂川判決と「軌を一にする」という趣旨】
砂川判決が想定している「自衛のための措置」の内容は、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」である。
この「他国に安全保障を求めること」とは、「『日本国が』他国に安全保障を求めること」を意味するものである。
そのことから、砂川判決の示している「自衛のための措置」の内容は、「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合を想定しているものと導かれる。
また、砂川判決では、日米安全保障条約(旧)によるアメリカ合衆国軍隊の駐留について、「わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用すること」である旨を述べている。
この内容は、日本国に対する「外部からの武力攻撃」(我が国に対する武力攻撃)が発生した場合に、アメリカ合衆国軍隊が「我が国政府の明示の要請」によって、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことを想定するものである。
国連憲章51条の「集団的自衛権」の適用を受けようとする国家は、『被害国からの要請』の要件を満たすことが必要となる。ここに「わが国政府の明示の要請」と記されていることから、日本国が武力攻撃を受けている事態を想定するものである。
このことからも、砂川判決が用いている「自衛のための措置」の内容は、「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合に行われる措置を想定しているものである。
これにより、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛のための措置」が砂川判決の「自衛のための措置」と軌を一にするということは、その「自衛のための措置」の限界の規範として示されている「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」を意味するものと考えることが妥当である。
□□ 結論 □□
これらの理由により、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていると解することが妥当である。
この部分に「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃の意味が含まれる余地があると解することはできない。
そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」の意味は当てはまらない。
このことから、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠となっている「自衛の措置」の限界を示した部分に、「我が国に対する武力攻撃」を満たさない「存立危機事態」の要件を当てはめることはできない。
よって、「存立危機事態」の要件は、「自衛の措置」の限界の規範の枠を超えることを意味し、「基本的な論理」と称している部分の枠を外れることになる。
これは、9条の規範性を維持することによって、政府の恣意的な動機に基づいて自国都合の「武力の行使」が行われることを防ごうとする意図を持った解釈の枠組みを超えるということである。
そのため、「武力の行使」の発動要件として「存立危機事態」の要件を定めようとすることは、9条の規範性を損なうこととなり、9条に抵触して違憲となる。
また、「存立危機事態」の要件に基づいて「武力の行使」を行うことについても、9条に抵触して違憲となる。
2014年7月1日閣議決定では、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持していると主張している。
しかし、上に挙げたように、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範として示された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。
ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は含まれていない。
2014年7月1日閣議決定の論理展開を考えた者の「他国に対する武力攻撃」が含まれるとの主張には論理的整合性がなく、成り立たない。
(この部分から「我が国に対する武力攻撃」を満たさない要件を導き出すことはできない。)
このことから、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に示された「自衛の措置」の限界の規範の中に、「我が国に対する武力攻撃」を満たさない場合である「存立危機事態」の要件は論理的に当てはまらない。
結果として「存立危機事態」の要件に基づいて「武力の行使」を行うことは、「自衛の措置」の限界の規範の枠を越え、9条に抵触して違憲となる。
2014年7月1日閣議決定が結論部分で容認しようとしている「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、政府自身が違憲審査基準として設定している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範によって違憲となっているのである。
【「外国の武力攻撃」「急迫、不正の事態」を認定する主体は何か】(作成中)
下記の部分が対応関係にあるとの主張により、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を正当化できるかを検討する。
◇ 1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」の部分
◇ 「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分
まず、1972年(昭和47年)政府見解の中の「外国の武力攻撃」や「急迫、不正の事態」の文言は、我が国の憲法上の統治権の『権限』の範囲を確定する憲法解釈として用いられた文言である。
そのため、ここで示されている「外国の武力攻撃」や「急迫、不正の事態」の文言の意味は、「我が国に対する武力攻撃」や我が国にとっての「急迫性」や「不正性」について基準とするものである。
つまり、これは外国(攻撃国)と我が国との二者間の関係を前提とするものである。
また、外国(攻撃国)が行った他国に対する行為が「武力攻撃」であるか否かや、そこに「急迫性」や「不正性」があるか否かについての認定は、その「他国」が独自の判断として行うものである。
そのため、外国(攻撃国)の行った他国に対する行為を、我が国が勝手に「武力攻撃」が発生したと認定したり、その行為に「急迫性」や「不正性」があるか否かを認定することはできない。
外国(攻撃国)の行った我が国にとって第三国である「我が国と密接な関係にある他国」に対する行為が「武力攻撃」であるか否かや、「急迫性」や「不正性」の有無については、もともと我が国が勝手に認定することができない性質であるから、この文面の対象となっていないのである。
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○角田(禮)政府委員 わが国の自衛権を発動する要件が備わっているかどうかということは、わが国自身が判断する問題だと思います。ただ、その判断をする場合に、いま御指摘になったような間接的に攻撃を受けているとか、間接的に安全が害されているとか、そういうようなことはわが国の自衛権の発動の要件にはならないということははっきり申し上げておきます。
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第94回国会 衆議院 法務委員会 第18号 昭和56年6月3日
よって、我が国の憲法の解釈として示された1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる急迫、不正の事態」という部分は、「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」が発生した場合について述べたものと考えることが妥当である。
そこで、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」の文言の意味の中に、「存立危機事態」の要件が含まれるかを検討する。
まず、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が発生した場合は、「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」を満たすものではない。
そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」の文言の中に、この部分が含まれる余地はない。
次に、「存立危機事態」の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分についても、「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」を満たすものではない。
そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」の文言の中に、この部分は含まれない。
「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分についても、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」の部分と同じものであるかのように結び付けて考えることのできる性質を有しておらず、両者は対応関係にない。
これら「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」を満たさない両者を「これにより」の文言で繋いだとしても、「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」を満たす要件に変わるわけではない。
そのため、「存立危機事態」の要件は、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」の部分を満たすものではない。
これにより、「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解の示す「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」の範囲内にあるとは言うことができない。
よって、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範の枠の中に、「存立危機事態」の要件が当てはまることはない。
結果として、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、この枠を超えることを意味し、9条に抵触して違憲となる。
【「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の部分が規範となるか】
下記の部分が一致するものであるとの主張により、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を正当化することができるかを検討する。
◇ 1972年(昭和47年)政府見解に示された「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の部分
◇ 「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分
まず、1972年(昭和47年)政府見解の「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の文言は、13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の文言に由来している。
しかし、「自国民の利益」の実現や、「自国の存立」や「国民の権利」の危機などを理由として政府が自国都合の対外的な「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験するところであり、9条はそのような「武力の行使」を制約するために設けられた規定である。
このことから、政府の恣意的な動機によって「武力の行使」が行われることを制約する規範として機能することが期待されている「武力の行使」の発動要件の中に、「国民の権利」の危機(危険)そのものを組み入れ、それに該当するか否かを審査することのみによって「武力の行使」を発動することができるとすることはできない。
もしそのような要件となれば、9条が政府の行為を制約しようとする趣旨を満たさず、9条の規範性を損なわせ(欠如させ)、9条が存在している意義そのものを失わせることとなる。
このような考え方は、9条が政府の恣意的な動機によって「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとする規定として存在することを前提とした整合的な法解釈として成り立たず、解釈の方法として妥当でない。
そのため、9条に抵触しない旨を示す規範となるものを、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範部分の中の「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の部分に見出そうとすることできない。
同様に、「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分に9条に抵触しないことを示す規範となるものが存在すると考えることもできない。
よって、1972年(昭和47年)政府見解の「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の部分と、「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分が一致するものであると考えることによって、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を1972年(昭和47年)政府見解によって正当化することができるとの主張は成り立たない。
【「存立危機事態」の要件は「我が国に対する武力攻撃」を満たすのか】(作成中)
「あくまで外国の武力攻撃によつて」の中に、2014年7月1日閣議決定の(3)に書かれている「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」が含まれていることは異論がないことと思う。
このことは、2014年7月1日閣議決定の文面を用いるならば、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」において、「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使すること」は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠内のものとして合憲と解することができるということである。
問題は、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の中に「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」が含まれているかどうかである。
まず、「存立危機事態」の要件は、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」(武力攻撃事態)とは別の区分として設けられている。
この点から考えると、「存立危機事態」の要件の後半の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分は、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」を意味するものではない。
なぜならば、もし「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分が「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」と重なるのであれば、「存立危機事態」の要件を区別して設けている意味がないからである。
また、事態が重なっているのであれば、従来より「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」での「武力の行使」は認められていたのであるから、2014年7月1日閣議決定によって新たに「存立危機事態」の要件を定める意味もないからである。
このことから、「存立危機事態」の要件は「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」とは異なる事態を示すものということになる。
これにより、「存立危機事態」の要件は、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に適合するものということはできず、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠を超えることにより、9条に抵触して違憲となる。
【「基本的な論理」と称している部分が完全に維持されている場合】(作成中)
2014年7月1日閣議決定は、「この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
」と記載されている。
仮に、この文言通りに、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分が完全に維持されており、この規範が保たれているのであれば、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、この枠内で導き出されたとしている「存立危機事態」の要件は「我が国に対する武力攻撃」を満たす要件であるということになる。
これにより、「存立危機事態」の要件の中から「我が国に対する武力攻撃」を意味する部分を見つけようとすると、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分がそれに当たるとしか解することができない。
なぜならば、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」の部分や、「これにより」の部分は、明らかに「我が国に対する武力攻撃」とは言えないからである。
このように、1972年(昭和47年)政府見解「基本的な論理」と称する部分が確かに「維持されている」のであれば、「我が国に対する武力攻撃」を満たさない限りは「武力の行使」を行うことができないことが前提となるため、「存立危機事態」の要件の中にそれに該当する部分を見つけようとするならば、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分であると考えることしかできない。
もし「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分が、「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合で、なおかつ「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合を意味するのであれば、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠組みの中に含まれるものと解することができるため、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は合憲と解する余地がある。
「基本的な論理」と称している部分が完全に「維持されている」のであれば、「存立危機事態」に基づく「武力の行使」を実施する際にも、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を満たさなければならないこととなるのである。
これは、国際法上の区分で表現すれば「個別的自衛権」に該当する「武力の行使」である。
しかし、2014年7月1日閣議決定でも示されている通り、「存立危機事態」の要件は「わが国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件と区別されている。「存立危機事態」は、「武力攻撃事態」とは別の要件として定められているのである。
また、「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分が、「我が国に対する武力攻撃が発生した事態」を指すのであれば、「武力攻撃事態」と区別して「存立危機事態」の要件を定めている意味がない。
他にも、「存立危機事態」の要件が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすものであると考えるならば、従来より「武力の行使」が認められている場合であることから、2014年7月1日閣議決定によって新たな解釈を導く必要がない。
そのため、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分を、「我が国に対する武力攻撃が発生した事態」で、なおかつ「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合を意味するものと解することは不自然である。
このことから考えると、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」との部分は、「我が国に対する武力攻撃」が未だ発生していない場合であることを前提としていると解することが通常である。
また、閣議決定の中でも「国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。」と述べていることから考えると、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない段階での「武力の行使」を意図するものと考えられる。
政府も「存立危機事態」について、「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を認める場合であると答弁しており、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであることは明らかである。
これより、「存立危機事態」は「武力攻撃事態」とは異なる部分を示した要件であり、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことを可能とするものであると解することが妥当である。
すると、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠組みの中には当てはまらない。
なぜならば、この枠組みは「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「自衛の措置」(『武力の行使』)しか認めていないからである。
結果として、これを満たしていない「存立危機事態」の要件に基づいて「武力の行使」を行った場合には、9条に抵触して違憲となる。
2014年7月1日閣議決定は「この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
」との前提を置いている。しかし、その閣議決定の結論部分では「存立危機事態」での「武力の行使」を容認しようとしていることは、論理的整合性が存在していない。
反対に、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を可能とするのであれば、「基本的な論理」と称している部分は維持されていないこととなる。
また、2014年7月1日閣議決定において「存立危機事態」の要件を定めたことは、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範として示された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の本来の意味を損なうこととなるのであり、2014年7月1日閣議決定が前提として1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を「維持しなければならない」としている部分との論理的整合性を保つことができなくなる。
まとめると、下記のいずれかのルートによって、結局違憲となるということである。
〇 1972年(昭和47年)政府見解が維持されている場合
⇒ 1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)は「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階での「武力の行使」を許容していない。「存立危機事態」の要件は「我が国に対する武力攻撃」を満たさないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解という違憲審査基準の枠から逸脱し、9条に抵触して違憲となる。
〇 「存立危機事態」での「武力の行使」が「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階での「武力の行使」である場合
⇒ 1972年(昭和47年)政府見解は維持されておらず、9条の規範性が損なわれることとなるため、9条に抵触して違憲となる。
2014年7月1日閣議決定が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしながら「存立危機事態」の要件を定めようとしていることは、解釈手続き上の不正が存在しており、行政権(65条)を持つ内閣に与えられた行政裁量の範囲を逸脱している。31条の「適正手続きの保障」の趣旨、「法律による行政の原理」の趣旨、「法律留保の原則」の趣旨などに反し、違法である。
憲法解釈において求められる「適正手続き」を誤ったものであり、違法である。
また、行政権(65条)を持つ内閣の2014年7月1日閣議決定で設けられた「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の枠内で説明することができないことから、その「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。
立法権(41条)を持つ国会の立法によって成立した法律についても、自衛隊法76条1項2号の「存立危機事態」の要件を定めた規定が、同じ理由で9条に抵触して違憲となる。
「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」が、国際法上において「集団的自衛権」に該当することで違法性が阻却される場合があるとしても、国内法上の憲法解釈においては9条に抵触して違憲となるという結論は揺らぐことはない。
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昨年7月1日の閣議決定も、「外国への武力攻撃によって存立危機事態が生じたときには、昭和四七年の政府見解とは矛盾せずに日本は武力行使できる」という趣旨の議論を展開しています。形式的にはその通りでしょう。
昭和四七年見解は、存立危機事態を認定し「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と明言しています。つまり、「我が国の存立」が脅かされる事態だと認定できるのは、武力攻撃事態に限られる、と述べているのです。
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軍事権を日本国政府に付与するか否かは、国民が憲法を通じて決める 木村草太『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』から 2015.08.26
【「論理的整合性と法的安定性が求められる」こと】
2014年7月1日閣議決定は、前提として「政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる」や「論理的な帰結を導く必要がある」との解釈の方針を示している。
この解釈の方針を踏まえて、「論理的整合性と法的安定性」を確保し、「論理的な帰結を導く」ように考えると、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。
そのため、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるとする余地はない。
そのことから、この「自衛の措置」の限界の規範を示した枠組みの中に「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は当てはまらない。
よって、2014年7月1日閣議決定が結論部分において、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を行うことが容認されるかのように説明しようとしていることは、解釈の過程(解釈の手続き)を誤ったものであり、違法である。
政府は下記のように答弁している。
質問主意書
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七 ……(略)……また、政府は、存立危機事態を新しく設けることは、憲法上可能だと考えているのか。
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答弁書
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七について
(略)
政府として、御指摘の「存立危機事態を新しく設けること」については、これまでの憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれていると考えている。
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戦争法案における諸「事態」に関する質問主意書 平成27年7月3日
しかし、「論理的整合性」が保たれているとする理由を説明できていないし、先ほど述べたように、「論理的整合性」は保たれていない。これにより、「法的安定性」も保たれていない。
これにより、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を「維持しなければならない」とする前提に従った適正なプロセスを踏まえると、1972年(昭和47年)政府見解の示している「自衛の措置」の限界の規範の中に「存立危機事態」の要件が当てはまることはない。
よって、その「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、そこに示された「自衛の措置」の限界の規範の枠を越えることとなり、その結果として9条に抵触して違憲となる。
このことから、2014年7月1日閣議決定は「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」について「憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」と結論付けようとしているが、このような結論を導き出すことはできず、「憲法上許容され」ないとの結論に至る。
「存立危機事態」の要件に基づいて「武力の行使」を行うことは、政府自身が2014年7月1日閣議決定において違憲審査基準として設定している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠組みによって違憲となるのである。
この違憲性の論点は二つある。
① 2014年7月1日閣議決定の内容に論理的整合性が存在せず、解釈手続きに求められる31条の「適正手続きの保障」の趣旨を逸脱することにより違憲となる。また、この点は「法律留保の原則」の趣旨、「法律による行政の原理」、「条理」などにも反し、違法である。
② 「適正手続き」が満たされた解釈を行うと、2014年7月1日閣議決定が採用している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の違憲審査基準に「存立危機事態」の要件が適合せず、その結果として「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触して違憲となる。
同じ意味を指す表現
下記の表現は、すべて同じ意味で用いられた表現であり、「我が国に対する武力攻撃」のことを指している。
〇 「外部からの武力攻撃」
◇ 「わが国に対する外部からの武力攻撃」
◇ 「我が国自身が外部から武力攻撃」
〇 「外国からの武力攻撃」
◇ 「我が国に対して外国から直接に急迫不正の侵害があった場合」
〇 「外国の武力攻撃」
下記で具体的に使用例を確認する。
従来からの答弁
〇 「外部からの武力攻撃」
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憲法第九条の文言は、我が国として国際関係において実力の行使を行うことを一切禁じているように見えるが、政府としては、憲法前文で確認している日本国民の平和的生存権や憲法第十三条が生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を国政上尊重すべきこととしている趣旨を踏まえて考えると、憲法第九条は、外部からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合にこれを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないと解している。
これに対し、集団的自衛権とは、国際法上、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利と解されており、これは、我が国に対する武力攻撃に対処するものではなく、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とするものであるので、国民の生命等が危険に直面している状況下で実力を行使する場合とは異なり、憲法の中に我が国として実力を行使することが許されるとする根拠を見いだし難く、政府としては、その行使は憲法上許されないと解してきたところである。
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政府の憲法解釈変更に関する質問に対する答弁書 平成16年6月18日
「外部からの武力攻撃」の「外部」とは、我が国の「外部」を意味するとしか考えられず、そこに「外部から」と記載されているのであるが、「我が国に対する武力攻撃」を意味することは明らかである。
【参考】自衛行動の範囲 昭和47年10月14日 PDF
◇ 「わが国に対する外部からの武力攻撃」
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○丸山(昂)政府委員 御案内のように、わが国の自衛隊は、自衛隊法の定めるところによりまして、七十六条により、わが国に対する外部からの武力攻撃がある場合に限りまして防衛出動をするということになっておりますので、そういう事態がただいまの先生の御設問の状態で発生しない限り、自衛隊がアクションを起こすということはございません。
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○丸山(昂)政府委員 結局、最初の御答弁ということになりますが、一般的に申しまして、わが国に対する外部からの武力攻撃ということが具体的に想定されるような事態になりませんと、われわれは発動できませんので、そういう事態が起きるのか起きないのかという点を詰めなければならないというふうに考えております。
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第75回国会 衆議院 内閣委員会 第25号 昭和50年6月18日
◇ 「我が国自身が外部から武力攻撃」
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○政府特別補佐人(秋山收君)
(略)
このようなことから、政府としては、この九条は、我が国自身が外部から武力攻撃を受けた場合における必要最小限の実力の行使を除きまして、いわゆる侵略戦争に限らず国際関係において武力を用いることを広く禁ずるものであるというふうに従前から考えているところでございまして、その範囲内でやはり国際貢献も考えていかざるを得ないものと考えております。
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第157回国会 参議院 国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員会 第5号 平成15年10月9日
〇 「外国からの武力攻撃」
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○政府委員(真田秀夫君) 普通に自衛権行使の三原則といわれているものにつきましては、先ほども触れておきましたけれども、まず場合といたしましては、わが国に対して外国からの武力攻撃が行なわれたということでございます。第二番目においては、その武力攻撃を防ぐために他に方法がない、武力をもって反撃するよりほかに方法がないという非常に切迫している場合、それが第二の要件でございます。それから第三番目の要件といたしましては、かくして発動される武力行使は、外国からの武力攻撃を防止する必要最小限度に限るということでございます。
それから韓国についての、韓国条項についての御質問でございますが、これはわが国の自衛権行使の三要件とは関係がございませんで、いま申しましたように、わが国に対する武力攻撃があった場合に日本の個別的自衛権は限定された態様で発動できるというだけのことでございますから、韓国に対する脅威が、危害がありましても、これは直ちにわが国の自衛権が発動することになるとは毛頭考えておりません。
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第68回国会 参議院 内閣委員会 第11号 昭和47年5月12日
最初に「わが国に対して外国からの武力攻撃」と記載されており、二回目の「外国からの武力攻撃」についても同じ意味で用いられており、「我が国に対する武力攻撃」を意味することは明らかである。
また、ここでは「いま申しましたように、わが国に対する武力攻撃があった場合に」と述べられており、「外部からの武力攻撃」の意味が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることは明らかである。
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しかしながら、憲法前文で確認している日本国民の平和的生存権や憲法第十三条が生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を国政上尊重すべきこととしている趣旨を踏まえて考えると、憲法第九条は、外国からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合にこれを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないと解され、そのための必要最小限度の実力を保持することも禁じてはいないと解される。
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内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日
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○秋山政府特別補佐人
(略)
それで、政府は、従来から、その九条の文理に照らしますと、我が国による武力の行使は一切できないようにも読める憲法九条のもとでもなお、外国からの武力攻撃によって国民の生命身体が危険にさらされるような場合に、これを排除するために武力を行使することまでは禁止されませんが、集団的自衛権は、我が国に対する急迫不正の侵害に対処するものではなく、他の外国に加えられた武力行使を実力で阻止することを内容とするものでありますから、憲法九条のもとではこれの行使は認められないと解しているところでございます。
(略)
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日
「外国からの武力攻撃」との表現は、我が国の政府が解釈する立場として「外国から」という受け身の形をとっているのであり、「我が国に対する武力攻撃」の意味であることは明らかである。
◇ 「我が国に対して外国から直接に急迫不正の侵害があった場合」
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○政府委員(大森政輔君)
(略)
すなわち、日本国は独立主権国として自国の安全を放棄しているわけではない。それは、憲法上も平和的生存権を確認している前文の規定とか、あるいは国民の生命、自由あるいは幸福追求に対する権利を最大限度尊重すべき旨を規定している憲法十三条の規定等を踏まえて憲法九条というものをもう一度見てみますと、これはやはり我が国に対して外国から直接に急迫不正の侵害があった場合に、日本が国家として国民の権利を守るための必要最小限の実力行使までも認めないというものではないはずである。これが自衛権を認める現行憲法下においても自衛権は否定されていないという見解をとる理由であります。
(略)
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第145回国会 参議院 日米防衛協力のための指針に関する特別委員会 第9号 平成11年5月20日
ここでは、「我が国に対して外国から」というより詳細な表現となっており、「外国から」の意味するところが、どう見ても「我が国に対するもの」であることを読み取ることができる。
〇 「外国の武力攻撃」
1972年(昭和47年)政府見解
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……(略)……しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
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集団的自衛権と憲法との関係 参議院決算委員会提出資料 内閣法制局 昭和47年10月14日 PDF (P63)
上記の「外国の武力攻撃」の文言は、この1972年(昭和47年)政府見解の第二段落で「集団的自衛権の行使」は「自衛の措置の限界をこえる」と説明する中で用いられた文言であり、ここに「集団的自衛権の行使」を可能とする余地の生まれる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるはずがない。
また、「他国に対する武力攻撃」を表現する際は、文の最後に記載されているように「他国に加えられた武力攻撃」と表現するはずである。
そのため、この「外国の武力攻撃」の意味は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。
〇 「外国からの武力攻撃」と「外国の武力攻撃」の両方
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○政府参考人(宮崎礼壹君)
(略)
しかしながら、憲法前文で確認しております日本国民の平和的生存権や、憲法十三条が生命、自由、幸福追求に対する国民の権利を国政上尊重すべきこととしている趣旨を踏まえて考えますと、憲法九条は、外国からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされているような場合に、これを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないというふうに解されるところであります。
すなわち、先ほど述べました憲法九条の文言にもかかわらず自衛権の発動として我が国が武力を行使することができる、認められるのは、当該武力の行使が、外国の武力攻撃によって国民の生命や身体あるいは権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処して国と国民を守るためにやむを得ない措置であるからだというふうに考えられるわけであります。
ところで、お尋ねの集団的自衛権は、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず実力をもって阻止する権利というふうに解されております。
このように、集団的自衛権は、我が国に対する急迫不正の侵害に対処する、直接対処するものではございませんで、他国に加えられた武力攻撃を武力で阻止することを内容とするものでありますので、先ほど述べましたような個別的自衛権の場合と異なりまして、憲法第九条の下でその行使が許容されるという根拠を見いだすことができないというふうに考えられるところでございます。
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第156回国会 参議院 武力攻撃事態への対処に関する特別委員会 第9号 平成15年6月2日
上記は、「外国からの武力攻撃」と「外国の武力攻撃」の両方の文言を同じものを指す意味で用いられている。また、「他国に対する武力攻撃」を表現する場合には、文中にあるように「外国に対する武力攻撃」と表現するはずである。
そのことから、この「外国の武力攻撃」の意味は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。
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2014年7月1日閣議決定以降
2014年7月1日閣議決定以降、政府は「外国の武力攻撃」の文言だけを使い、「外部からの武力攻撃」や「外国からの武力攻撃」という表現を意図的に避けようと試みているようである。下記で確認する。
2014年7月1日閣議決定
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(2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第 13 条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和 47 年 10 月 14 日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
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国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について 国家安全保障会議決定 閣議決定 平成26年7月1日
内閣法制局長官「横畠裕介」の答弁における「外国の武力攻撃」の文言については、当サイト「基本的な論理 2」で見つけることができる。
2014年7月1日閣議決定以降の政府答弁書も同様に「外国の武力攻撃」の文言を用いている。
内閣法制局長官「近藤正春」の答弁については、下記の通りである。
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○政府特別補佐人(近藤正春君) 政府としては、今、十三条のお話でございますね、私ども政府としては、従来から、我が国による自衛の措置は、あくまでも外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の武力の行使は許容されるものと解してきているところでございます。
すなわち、我が国による自衛の措置が国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るためのやむを得ない措置として行われるものだというふうには言えると思いますが、いずれにせよ、これらの権利について、御指摘のように、具体的な権利ということではなく、生命、身体の自由、精神活動の自由、あるいは人格的な価値にまつわる権利等の様々な基本的人権を包括的に捉えたものというふうに理解しております。
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第203回国会 参議院 外交防衛委員会 第6号 令和2年12月3日
なぜ政府が「外国の武力攻撃」の文言だけを使い、「外部からの武力攻撃」や「外国からの武力攻撃」という表現を意図的に避けようと試みているかというと、政府は2014年7月1日閣議決定の文面で1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言を引き継ぐ形を取りながら、その「外国の武力攻撃」の意味が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られておらず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味も含まれることを前提として、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を正当化しようとしているからである。
下記の資料では、政府は「御指摘の『外国の武力攻撃』については、我が国に対する武力攻撃に限定されているものではないと解される。」と答弁している。
昭和四十七年政府見解の中の「外国の武力攻撃」の文言の理解に関する質問主意書 平成31年2月22日
(菅政権における昭和四十七年政府見解の中の「外国の武力攻撃」の文言の理解に関する質問主意書 令和2年10月2日)
しかし、「外国の武力攻撃」意味は、先ほど2014年7月1日閣議決定以前の答弁や答弁書で挙げたように、常に「我が国に対する武力攻撃」を意味する言葉として用いられている用語である。ここに「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると解する余地はない。
そのため、政府が2014年7月1日閣議決定以降もこの「外国の武力攻撃」の文言を用いているのであれば、これは常に「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることになる。
これにより、この「外国の武力攻撃」の意味の中に、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるはずがなく、この規範の枠内に、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」が当てはまるかのような説明はすべて適正な解釈の過程を踏まえておらず、不正・違法な答弁である。
実は、内閣法制局長官「横畠裕介」は、「外部からの武力攻撃」との表現が「我が国に対する武力攻撃」を意味することを示した上で、それが1972年(昭和47年)政府見解の「外国の武力攻撃」と対応するものであると述べている。
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○政府特別補佐人(横畠裕介君) 御指摘の平成十六年六月十八日付けの島聡衆議院議員に対する政府答弁書は、昭和四十七年の政府見解で示された考え方に基づいて、「憲法第九条は、外部からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合にこれを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないと解している。」としているものであり、この「外部からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合」とは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のことを言っており、昭和四十七年の政府見解に言う「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」に対応するものでございます。
(略)
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第187回国会 参議院 外交防衛委員会 第2号 平成26年10月16日
このことから、1972年(昭和47年)政府見解の「外国の武力攻撃」の意味についても「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることになるから、それを引き継ぐ形で2014年7月1日閣議決定で用いられた「外国の武力攻撃」の文言も、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることになる。
つまり、解釈変更を行った当時の内閣法制局長官である「横畠裕介」が用いる論理によって、既に「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を正当化しようとする解釈の過程に論理的整合性が存在しておらず、不正・違法な答弁となっていることが明らかになっているということである。
「横畠裕介」は「平成十六年六月十八日付けの島聡衆議院議員に対する政府答弁書は、昭和四十七年の政府見解で示された考え方に基づいて、」と述べている。この「基づいて」との部分が意味することについて、1972年(昭和47年)10月14日政府見解の「外国の武力攻撃」の文言の意味は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないが、「平成十六年六月十八日付けの島聡衆議院議員に対する政府答弁書」を定める際には、「外部からの武力攻撃」と表現することによって「我が国に対する武力攻撃」の意味に限ったかのように主張することが考えられる。
しかし、「外部からの武力攻撃」という表現は、1972年(昭和47年)10月14日政府見解が出される以前の昭和46年5月14日の段階で既に用いられている。また、「外国からの武力攻撃」という文言も、昭和47年5月12日の段階で既に用いられている。
そのため、1972年(昭和47年)10月14日政府見解の「外国の武力攻撃」の文言と、その文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないことを前提とする主張に「基づいて、」「平成十六年六月十八日付けの島聡衆議院議員に対する政府答弁書」の「外部からの武力攻撃」の文言によって「我が国に対する武力攻撃」の意味に限る形で定められたかのような主張は成り立たない。
その他の表現
〇 「外国等による武力攻撃」の意味
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……外国等による武力攻撃 8)……
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8) ここで想定する武力攻撃は、基本的には我が国の領域に対して組織的・計画的に行われるものであるから、外国によるものが一般的であると考えられるが、後述する「国に準ずる組織」による場合もあり得ないわけではない(21頁参照)。「外国による武力攻撃」ではなく、「外国等による武力攻撃」ないしは「外部からの武力攻撃」と表現しているのはこのためである。
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政府の憲法解釈 阪田雅裕 有斐閣 (P14) (筆者:)
「急迫不正の侵害」を「武力攻撃」に変更する不正
2014年7月1日閣議決定で設けられた新三要件の第一要件は、1972年(昭和47年)政府見解や旧三要件の第一要件の「急迫不正の侵害」の文言から「武力攻撃」に変更されている。
〇 「武力の行使」の旧三要件の第一要件
「我が国に対する急迫不正の侵害があること」
〇 「武力の行使」の新三要件の第一要件
「わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」
政府がなぜ「急迫不正の侵害」から「武力攻撃」に変更しようとしたのか、その意図を考えてみる。
まず、2014年7月1日閣議決定でも、1972年(昭和47年)政府見解を維持しているとされているが、この見解を正確に読み解けば、【自衛のための措置】の規範を示す段階での「急迫、不正の事態」の文言と、【武力行使】の規範を示す「急迫、不正の侵害」は対応関係にある。
1972年(昭和47年)政府見解
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【自衛のための措置】
あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。
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【武力行使】
そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる
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よって、「急迫、不正の事態」と「急迫、不正の侵害」は同じものを指す。
この【武力行使】で使われている「急迫、不正の侵害」の部分は、旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」とも対応するものである。
しかし、2014年7月1日閣議決定を行うにあたって、政府は新三要件の第一要件の中に旧三要件の第一要件で用いられていた「急迫、不正の侵害」の文言を残した場合、それと対応する部分は1972年(昭和47年)政府見解の【武力行使】の規範について述べた「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」の部分と対応することが明らかとなってしまう。すると、これを遡れば当然に1972年(昭和47年)政府見解の【自衛のための措置】について述べた「急迫、不正の事態」の文言とも対応することが明らかとなってしまい、2014年7月1日閣議決定は、この【自衛のための措置】の規範部分を用いているのであるから、当然にその「基本的な論理」と称している部分の「急迫不正の事態」の文言とも対応することが導かれてしまう。
そうなると、2014年7月1日閣議決定において「基本的な論理」と名付けている部分の規範は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の意味しか有しないのであり、これを満たさない「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分から導き出せないこととなる。「存立危機事態」の要件は当然に違憲となるのである。
政府はこの「急迫、不正の侵害(事態)」の対応関係によって、論理的に「存立危機事態」の要件が違憲となってしまうことを隠すために、新三要件を定める際に旧三要件の第一要件の「急迫不正の侵害」の文言を取り除いて「武力攻撃」に変更し、あたかも1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃」の部分から導き出したかのように装おうとしているものと思われる。(ただ、1972年〔昭和47年〕政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によって」の部分については、「『我が国に対する』武力攻撃」を意味することは前後の文脈等から明らかであり、ここから『存立危機事態』の要件を導き出すことも不可能である。)
1972年(昭和47年)政府見解は「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、」と表現しているが、この「急迫、不正の事態」の部分は、【武力行使】について述べた「わが国に対する急迫、不正の侵害」と対応する部分である。
しかし、「存立危機事態」の要件を定める際に、この「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の文言をここから抜き出しているにもかかわらず、それに連なって用いられている「急迫、不正の事態」の文言を使わず、「わが国に対する急迫、不正の侵害」の意味を意図的に切り捨てようとしている。
切り捨てた「急迫、不正の侵害」の代わりに、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分を捉えて「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれると考え、それによって「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」事態を要件にしようとするが、これも本来「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味するものであり、たまたま『我が国に対する』の記載が抜けているだけのものであるから当てはまるはずがない。
1972年(昭和47年)政府見解
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あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、
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存立危機事態
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わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
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そもそも、「他国に対する武力攻撃」の急迫性や不正性というものは、その他国が独自の判断として行うものであり、我が国の憲法解釈として導き出されている「急迫、不正の事態」の規範には該当しない。「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の部分は、「わが国に対する急迫、不正の侵害」によって引き起こされることに対応するものであり、「他国に対する武力攻撃」は、この「急迫、不正の事態」には当てはまらない。
1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分に「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」があてはまらないことが前提ではあるが、「存立危機事態」の要件の中に1972年(昭和47年)政府見解の「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の文言を用いるのであれば、それは「急迫、不正の事態」の文言に繋がるものであり、当然「わが国に対する急迫、不正の侵害」に対応するものであり、その繋がりを切り離して「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」と組み合わせようとすることは不正な手続きである。
2014年7月1日閣議決定において政府が三要件の第一要件を「急迫不正の侵害」から「武力攻撃」に変更したことは、「存立危機事態」の要件があたかも1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまるかのように装おうとしたものと思われるが、丁寧で正確な法解釈を行えば当てはまるはずがないことは明らかである。
よって、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合せず、違憲となる。
下記の政府答弁では、「急迫、不正の侵害(事態)」と「武力攻撃」は同じ意味である旨を述べている。しかし、「急迫、不正の侵害(事態)」の文言が「我が国に対する」直接の侵害であるのに対して、「武力攻撃」の文言だけでは「我が国に対する」直接の侵害の場合であるかを特定しづらくなる点で同じとは言えない。(ただ、1972年〔昭和47年〕政府見解の『基本的な論理』と称している部分に記載されている『武力攻撃』については、『我が国に対する』ものであることは明らかである)
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○丸山委員
(略)
続きまして、少し話がかわってまいりますが、この委員会でいろいろ議論されている中で少し整理されてきたところをいま一度詳しくお伺いしていきたいというふうに考えているんです。
まず、いわゆる新三要件につきましてでございます。
このフリップにあるように、基本的に、今回、集団的自衛権を行使する上ではこの新三要件を満たすことが大前提だ、これを満たさなければ行使はできないというのが現在の法案でございます。これは一つ目も二つ目も三つ目も、必ず法案に盛り込まれているというのが現状でございます。これはもうお話しするまでもなく、委員の皆さんは御存じです。ただ、国民の皆さんにいま一度見ていただくためにこのフリップを上げさせていただきました。
一方で、これまでの個別的自衛権に関しまして、政府はいわゆる七二年の政府見解というのをお出しになっていると思います。それが二つ目のフリップでございます。
少し読ませていただきますと、あくまでも国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民の権利を守るためのやむを得ない措置として云々というふうな形で七二年の見解は書かれています。
ここに非常に大事な言葉がございまして、急迫不正の事態に対処をするということでございます。
この文言は、実は、今回、集団的自衛権の新三要件にはない言葉でございますけれども、まず、この七二年の政府見解は生きているのかどうかという話、そして、それは集団的自衛権の行使についてはどのように捉えればよいのか、お答えいただければと思います。
○横畠政府特別補佐人 七二年の政府見解は生きております。
急迫不正という言葉でございますけれども、従前の自衛権行使の三要件を御説明する際にも、第一要件につきまして、我が国に対する急迫不正の侵害が発生したこと、すなわち我が国に対する武力攻撃が発生したことというような説明ぶりをしていることもございます。
ここでの急迫不正という言葉は、一般的な正当防衛の要件でありますところの、急迫不正の侵害、これに対処するのが正当防衛であるという、その正当防衛の概念からかりてきた言葉でございまして、国際法上武力行使の要件となりますところの武力攻撃というものの中に、本来的に急迫不正の侵害性というものが含まれております。
今回、新三要件を整理するに当たりまして、一般的な正当防衛の概念をかりてきました急迫不正という言葉ではなくて、本来の国際法の概念であります武力攻撃の発生という言葉で整理をさせていただいたということでございまして、実質は同じでございます。
○丸山委員 となりますと、集団的自衛権においても、この不正という要件が入っているということなんですか。急迫不正の、特に不正のところが大事だと思うんですけれども、もう一度よろしいですか。
○横畠政府特別補佐人 まさに、武力攻撃という言葉自体は、やはり、国際法に違反する、違法な、不正な、そのような侵害、それを武力攻撃と言っておりまして、それに対する反撃も含む一般的な意味での武力の行使と区別されております。
○丸山委員 今、非常に大事な御答弁だと思うんです。
今までは総理は御答弁されて、国際法上違法な攻撃をした場合にそれに加担することはないという御答弁をされてきました。これは、法理上果たしてそれが読めるのかどうかというのは、非常に我々からしたら不安な、読めないというふうに解釈していたんですけれども。
今のお話だと、例えば米国が国際法上違法な先制攻撃で、例えばA国に対して攻撃をした、そして、A国が米国に対して、先制攻撃をされたので、不正ではなく、国際法上不正ではなく反撃をした、それによって、日本が米国との関係で集団的自衛権を行使するという状況になったときに、今回の三要件の武力攻撃という言葉から不正というものが読み込まれるという今法制局の長官のお言葉でしたから、つまり、相手の攻撃が不正でなければ、それに対して集団的自衛権は行使できないということになりますけれども、よろしいんですね、長官。
○横畠政府特別補佐人 まさに、違法、不正なものであるところの武力攻撃、これに対抗する、反撃するというのが自衛権でございます。
○丸山委員 実は、これはきちんと、どうして急迫不正のという言葉を入れないんだというのは常に思っておりまして、政府の御答弁を聞いていると。
野党の追及では、法制上はできるけれども、政治的にはできないんじゃないかという御追及も多々あったように感じますが、今のお話であれば、どちらにしても、法理上も、政治的にも、いずれにしてもできないし、法理上できないということであれば、安倍内閣から次の内閣にかわったとしても、現行法を変えない限りはできないということだということを、今明白になったと思いますので、ここは明らかにしておきたいというふうに思います。
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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第6号 平成27年6月1日
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○初鹿委員
(略)
今、新三要件のお話がありましたけれども、もともと旧三要件がございました。この旧三要件というのは、まず一つが我が国に対する急迫不正の侵害があること、そしてこの場合にこれを排除するための他に適当な手段がないこと、そして必要最小限度の実力行使にとどめることとなっていたはずでございます。
それが、今回、新三要件ということで、この急迫不正の侵害があることということが変わりまして、我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があることと、変わっております。
旧三要件にありました急迫不正の侵害があることというのが今回の新三要件では落ちているんですけれども、これは、急迫不正の侵害があることという要件は必要がなくなったということでいいんでしょうか。
(略)
○横畠政府特別補佐人
(略)
先ほどの御質問の点でございますけれども、急迫不正の侵害という言葉は正当防衛の要件として用いられている言葉でございまして、集団的自衛権あるいは個別的自衛権という国際法上の武力の行使の要件についての議論におきましては、厳密には武力攻撃の発生ということを要件としておりますので、今回の新三要件におきましては、その本来の用語に統一したということでございます。
○初鹿委員 ちょっとよく意味がわからないんですけれども、自衛権の行使のウエブスター原則によれば、急迫不正の侵害があることというのは要件に入るんじゃないんですか。何か今、正当防衛の要件だという言い方をされていましたけれども、それはどういう趣旨でおっしゃったんでしょうか。
○横畠政府特別補佐人 急迫不正の侵害という言葉は、現行法におきましては、刑法の第三十六条にございます。「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」という規定でございます。それとの類似性ということから、この急迫不正の侵害という言葉を従前使っていたということを申し上げたのでございます。
○初鹿委員 よくわかりませんけれども、では、今回の新三要件では、自衛権を発動するのに、急迫不正の侵害がなくても個別的な自衛権を発動するということになるんですか。どういうことですか。
○横畠政府特別補佐人 もちろん、急迫不正の侵害がなければ自衛権の発動はできません。その実質を変えるわけではなくて、どういう言葉で記述するかという問題でございます。
○初鹿委員 よくわかりませんけれども、つまり、新三要件の中に、我が国に対する武力攻撃が発生したことの中には急迫不正の侵害が行われたということが含まれている、そういう理解でよろしいんでしょうか。
○横畠政府特別補佐人 従前の自衛権発動の三要件の第一要件におきましては、我が国に対する急迫不正の侵害があること、すなわち武力攻撃が発生したことというのが正しいというか正規の言い方でございまして、まさに、その同じ事態を急迫不正の侵害と呼ぶか、武力攻撃が発生したことと言うかという、そこの違いでございまして、実質を変えるということでは全くございません。
○初鹿委員 武力攻撃が発生したことだけが急迫不正の侵害なんでしょうか。例えば、武力攻撃せずに尖閣諸島などにどこかほかの国が上陸したことは、急迫不正の侵害に当たらないんでしょうか。
○横畠政府特別補佐人 外国の武力攻撃と申し上げているとおりでありまして、まさに国家レベルのといいますか、国家の意思、国準でもいいんですけれども、そういうものの意思に基づいて、組織的、計画的なまさに武力の行使に及ぶ、そういう侵害をするということを武力攻撃と呼んでおりまして、まさにそういうものに限定されているという意味でございます。
○初鹿委員 いや、よくわかりませんけれども、要は、島に上陸をする、武力を使わずに例えばどこかの国または国に準ずる組織が上陸をする、武力攻撃をやっていなくて、それは急迫不正の侵害にならないんですか。先ほどの答えだと、武力攻撃の中に急迫不正の侵害は全て含まれるというお答えですから、武力攻撃以外のものはここには想定されないように聞こえるんですけれども、どっちなんでしょうか。
○横畠政府特別補佐人 単に急迫不正の侵害といいますと、まさに国家の意思を受けたわけでない、私人による急迫不正の侵害というのも当然あるわけで、そのようなものが自衛権の発動の要件になっているわけではないということでございまして……(初鹿委員「そんなことはわかっていますよ」と呼ぶ)
ならば、まさに武力攻撃に該当するかどうかということが要件でありまして、それに当たれば武力の行使ができますし、当たらなければできないということでございます。
○初鹿委員 では、武力攻撃に当たるかどうかが要件だと今言ったと思うんですけれども、私が言っているのは、島に上陸するだけで武力攻撃をしていない場合は急迫不正の侵害にならないのかということを聞いているんです。わかりますか。長官、答えてください。
○横畠政府特別補佐人 一般論で申し上げれば、武力攻撃に当たらない行為という前提でのお尋ねでございますけれども、武力攻撃に当たらないのであれば急迫不正の侵害に当たり得ないのかといえば、そうではございません。
○初鹿委員 今、ちゃんと明確に答えていただきましたけれども、つまり、急迫不正の侵害というのは、武力攻撃以外のものも含んでいるわけですよね。この単語があえてここで落とされていることはちょっと不可解だなというのを私は思っているわけですよ。きちんと今までの要件として急迫不正の侵害があって、自衛権というものを発動できるというのが国際法上の理論なわけですから、それがなくなるというのはいささか不可解だな、急迫不正の場合じゃなくても自衛権を発動するのかなというのを感じるわけであります。
そうじゃないということでよろしいんですよね。よろしいんですよね。
○横畠政府特別補佐人 まさに、自衛権を発動いたしますのは、新三要件を満たす場合に限られます。
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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第10号 平成27年6月15日
【動画】衆議院議員 初鹿明博 6月15日我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会①
【動画】内閣法制局長官 横畠 裕介 小西洋之(民主党)【参議院 国会生中継】 平成27年4月2日
外交防衛委員会 2015/04/02 (12:23より)
2014年7月1日閣議決定の手続きの違法
政府は「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「我が国に対する武力攻撃」の意味だけでなく、「他国に対する武力攻撃(我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃)」の意味も含まれると主張している。
恐らく、2014年7月1日閣議決定の論理展開を考えた者は、9条の規範性を保つための基準となるものが1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に存在することを前提とすれば、その「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に当てはまる新たな要件を定めてもよいのではないかと考えたと思われる。
そして、政府は「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言を抜き出し、その「あくまで」と「外国の武力攻撃」の間(あるいは『あくまで外国の』と『武力攻撃』の間と考えてもよい)の一か所に「我が国に対する」という文言が直接的に記載されていないことを理由(根拠)として、このことを便宜的に利用できるのではないかと考えたと思われる。
そして、その「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言をもともと意味が不明確で内容が特定されていなかったものであるかのように扱い、この中に「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれる(当てはまる)と考えることを前提として「存立危機事態」の要件を正当化しようと試みている。
これにより、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」の部分についても、9条の規範性を保つための基準となるものになると考えようとするものである。
しかし、このような考えは、次の点において誤りである。
〇 「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は憲法上の条文ではないこと
まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、9条を解釈する過程で示されている文言であり、憲法上の条文というわけではない。
そのため、憲法上の条文として「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が定められていた場合において、その「あくまで外国の武力攻撃によつて」という文言それ自体についての法解釈が問われているわけではない。
よって、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言そのものを憲法上の条文であるかのように考えて絶対視することはできないのであり、この文言のみを唯一の根拠として、その文言の意味を解釈すればよいというものではない。
この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、この意味を憲法9条の趣旨から独立して理解することはできないのであり、 9条の趣旨を離れる形で「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言を便宜的に活用することによって何らかの結論を導き出すことができるということにはならない。
そのことから、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「我が国に対する」という文字が存在するか否かという部分だけに注目して、この文言のみを便宜的に利用することによって「存立危機事態」の要件の正当性を根拠づけることができるかのような主張(正当化)を試みることは、解釈手続きとして妥当でない。
1972年(昭和47年)政府見解は9条解釈として示された文章であり、この内容は9条の存在を前提としているのであり、9条の趣旨を離れて独立して意味を持つことはなく、その文章のみが単独で正当性を有する規範として成立するわけではない。
そのため、法解釈においては、1972年(昭和47年)政府見解という解釈枠組みの規範として示された文言と、9条の規定そのものとを切り離して考えることはできない。
「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言だけでその意味を決することができるかのように考えることは、あたかもこの1972年(昭和47年)政府見解そのものが憲法上の規定であるかのように考えて、その「文面の一部分の文言の有無」のみが新たな解釈を行う場合の基準であるかのように論点を矮小化し、その文言の解釈のみを検討すれば事足りるかのように考えようとするものであり、その上位規範である9条そのものの趣旨と切り離して考えたところに誤りがある。
〇 1972年(昭和47年)政府見解の全体の整合性から意味を特定することが必要であること
法論理の枠組みを捉える際には、その解釈を行った「文面全体の論旨」に表れた論理展開から導かれる意味内容を全体の整合性を保った形で丁寧に読み取ることが必要である。
しばしば、作成された文章の一部分を抜き出すという作業の中では、切り取り方によってはその文章の全体の主張とは真逆の主張がなされているかのように装うことが可能となる。
そのような抜き出し方による誤解を引き起こさないためには、もとの文章の論旨を丁寧に読み取ることが求められる。
まず、2014年7月1日閣議決定では、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の一部分のみを抜き出して「基本的な論理」と名付け、「この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。」としている。
このように、1972年(昭和47年)政府見解を利用してその規範を維持する限りは(残すのであれば)、それはその文面の中で使われている文言の意味が形成する論理法則(論理展開)に拘束されることとなる。
1972年(昭和47年)政府見解は、そのタイトルに書かれているように「集団的自衛権と憲法との関係」について説明された文章である。
そして、9条の下にある日本国の統治権が「自衛の措置」として「武力の行使」を行う際の法規範について述べられている。
その内容は、憲法上の規定を整合的に解釈する過程の中で行われた論理法則に基づくものとして作成されている。
具体的には、憲法9条だけでなく、憲法上の前文の「平和主義」の理念、前文の「平和的生存権」、13条の「国民の権利」の趣旨、明示的に触れられているわけではないが「自衛の措置」を実行する65条の「行政権」、その措置を行う前提として必要となる法律等の裏付けを行う41条の「立法権」、その他の規定を整合的に解釈することで導かれたものである。
この1972年(昭和47年)政府見解それ自体は、いくつかの文章を項目ごとにパーツとして貼り合わせるなどをして作成された資料というわけではなく、文面が全体で一貫した論理を展開することによって結論が導かれる構成となっている。
そのため、ここから部分的に文を抜き出して利用されることが予め想定されている性質の文章というわけでもない。
①
もしその文章の中に書かれた「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれると解するのであれば、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」とは言えなくなる。
そうなると、そもそも1972年(昭和47年)政府見解そのものが「集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつている」ことを説明する文面であることを否定することになる。
すると、そもそも1972年(昭和47年)政府見解そのものが法解釈を行った文章として妥当性を有しないものとして扱っていることになる。
②
また、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定である。
そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言がもし「我が国に対する武力攻撃」に限られないのであれば、結局、1972年(昭和47年)政府見解そのものが「自国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範として意味を為さなくなる。
すると、そもそも1972年(昭和47年)政府見解そのものが9条についての法解釈を行った文章として妥当性を失ってしまう。
このように「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないかのように読もうとすることは、1972年(昭和47年)政府見解そのものを9条についての解釈を行った文章として成り立たないものとしてしまうのである。
そうなると、その法解釈として成り立っていない1972年(昭和47年)政府見解を基にして「存立危機事態」の要件の正当性を主張することは、根拠としている見解が既に妥当性を失っていることから、その結論自体も正当化することができなくなる。
このような読み方が妥当でないことの理由は、9条の規定が有している趣旨と、9条解釈の枠組みとして示された1972年(昭和47年)政府見解の規範の文言の意味とを乖離させる読み方だからである。
よって、2014年7月1日閣議決定において「基本的な論理」と名付けている1972年(昭和47年)政府見解の論理法則によって導かれている規範部分が維持されているとは言えない。
(これは、もともとの規範が維持されているということはできない。)
2014年7月1日閣議決定においてその一部分を「維持」していると説明を行うことは論理矛盾となるのである。
そのことから、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の意味は、「我が国に対する直接の武力攻撃」を意味するとしか読むことができず、ここにそれ以外の武力攻撃が含まれる余地はない。
政府の主張は、「あくまで」と「外国の武力攻撃」の文字と文字の間に含まれる論旨の大前提となっている「我が国に対する」ものであるという意味内容を恣意的に読み替えようとするものということができる。
これは、1972年(昭和47年)政府見解という文章全体が示している論理的な整合性を殊更に無視しようとするものである。
1972年(昭和47年)政府見解という文章全体が「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」という結論部分に至るまでに一貫して通じる論理的な過程を明らかに歪めるものと解せざるを得ない。
政府の主張は、1972年(昭和47年)政府見解に現れている文言のみをつなぎ合わせ、9条の条文そのものの趣旨と離れて規範を創作しようとしたものということができる。
また、この程度の「文面の一部分の文言の有無」については、「国会の答弁」や「行政の文書」、「裁判所の判決」においても論旨の前提となっている事柄であるために繰り返しとなるのを避けることや、他の論旨に注意が行きやすくすること、論理展開の簡潔性を強調して読み手に分かりやすい認識を提供することなどを意図して、文言を省略したり、他の言葉で言い換えたりする中で通常行われる作業である。
そのことから、1972年(昭和47年)政府見解は「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言から「我が国に対する」の文言を意図的に欠落させることによって、ここに「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれるとする余地(可能性)を敢えて残したものとは解することができない。
そのため、その意味を超えて、新たな意味を加えることはできないし、新たな意味を持つ規範に変更しようとすることもできない。
抜き出した内容の「文面の一部分の文言の有無」を便宜的に利用することを考え、その意味を超えて新たな意味を加えようとしたり、新たな意味を上書きし、規範の意味を変更しようとすることは、本来の規範の意味を逸脱することになる。
このような操作は、法解釈において求められる論理的な整合性が保たれているとは評価することができず、適正な法解釈ということはできない。
論理的な整合性が存在しないのであれば、前提となっている憲法規定から整合的に導かれることで正当化されるプロセスから断絶することになり、その結論についても正当化することはできない。
このような行為は、社会に広く公共性を持つ効力を持った実力でありながらも、人々の認識の中においてのみ存在する性質であることから高度な信頼性を求められる法の論理という合意事を踏みにじるものであり、不正と言うべきである。
これより、2014年7月1日閣議決定の内容は、法論理の体系的な整合性を保つことで「法治主義」を貫徹しようとする精神に反する。
法内容の実体の適正が確保されておらず、「法の支配」や「法治主義」の原理を採用する我が国の法秩序において求められる31条の「適正手続きの保障」の観点から許容できるものではなく、違法である。
他にも、「法律による行政の原理」、「法律留保の原則」の趣旨からも、行政に求められている手続きの適正を損なったものである。
さらに、法解釈という行政に与えられた裁量の中においても、行政活動の一般法となる民法1条2項の「信義誠実の原則(信義則)」の趣旨を読み込むことから、論理の趣旨や一貫性を損なうような人々の信頼を損ねるような解釈は行政裁量を逸脱することとなる。
【参考】信義誠実の原則 コトバンク
法が国民の間で普及し、その効力の安定性(法的安定性)によって自らの行動がどのような結果をもたらすかという基準を示すことによって、予測可能性(予見可能性)を確保し、国民の社会生活の有益性を担保しようとする、法そのものの存在意義にも背く行為であり、違法である。
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また、お尋ねの「法的安定性」とは、法の制定、改廃や、法の適用を安定的に行い、ある行為がどのような法的効果を生ずるかが予見可能な状態をいい、人々の法秩序に対する信頼を保護する原則を指すものと考えている。仮に、政府において、論理的整合性に留意することなく、憲法解釈を便宜的、意図的に変更するようなことをするとすれば、法的安定性を害し、政府の憲法解釈ひいては憲法規範そのものに対する国民の信頼が損なわれかねないと考えられる。
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七・一閣議決定の法的安定性と論理的整合性の意味等に関する質問に対する答弁書 平成29年6月27日
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「法的安定性」(法的安全・法的確実性)(参考:ブリタニカ国際大百科事典)
◇法による社会秩序がもたらす社会生活の安定という価値
◇法それ自体の安定からもたらされる法価値
1. 法が実定法であること
2. 法はその法の解釈、適用が客観的であること
3. その法の実効性があること
法的安定性は法の目的であり、法が追求すべき正義、衡平などの公示の諸目的を達成するために、まず実現すべき卑近な第一次的な目的とされる。
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具体的な条文が存在せずとも、論旨に明らかな欠陥が見られる解釈は、条理によって無効である。
法秩序全体の精神からも、法解釈と呼ぶには無理があり、法解釈として妥当性を有せず、無効である。
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憲法を始めとする法令の解釈は、当該法令の規定の文言、趣旨等に即しつつ、立案者の意図や立案の背景となる社会情勢等を考慮し、また、議論の積み重ねのあるものについては全体の整合性を保つことにも留意して論理的に確定されるべきものであり、政府による憲法の解釈は、このような考え方に基づき、それぞれ論理的な追求の結果として示されてきたものであって、諸情勢の変化とそれから生ずる新たな要請を考慮すべきことは当然であるとしても、なお、前記のような考え方を離れて政府が自由に憲法の解釈を変更することができるという性質のものではないと考えている。仮に、政府において、憲法解釈を便宜的、意図的に変更するようなことをするとすれば、政府の憲法解釈ひいては憲法規範そのものに対する国民の信頼が損なわれかねないと考えられる。
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政府の憲法解釈変更に関する質問に対する答弁書 平成16年6月18日
このような適正な手続きに基づかない形で「武力の行使」を正当化しようとすることは、国家権力の恣意的な権限の行使や権力拡大を防ぐための営みである「法の支配」や「立憲主義」の理念に反する。
抜き出した内容の「文面の一部分の文言の有無」を利用することで、新たな意味を上書きししようとしたり、規範の意味を変更しようとすることは、本来の規範の意味を逸脱することになる。
そのような手続きを行った場合は、不正であり、もともとの規範が維持されているとはいえず、新たな規範を根拠なく創作しようとしたものというべきである。
もし「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合以外の事態において「武力の行使」を発動したいと考えるとしても、それは1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では不可能である。
そのため、1972年(昭和47年)政府見解を離れて、9条解釈そのものをやり直すことが必要となる。
つまり、1972年(昭和47年)政府見解において採用した9条の下でも前文の「平和的生存権」や13条の「国民の権利」の趣旨から「自衛の措置」の限界の規範を見出すことによって設定した「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」という規範自体を変更する必要があるということである。
(ただ、この1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範を変更しようしても、9条の規範自体を超えることはできない。詳しくは、当サイト『存立危機事態の違憲審査』で解説している。)
<理解の補強>
【補足説明】「昭和47年政府見解の読み替え」問題のより深い理解等のために PDF
(【補足説明】「昭和47年政府見解の読み替え」問題のより深い理解等のために PDF)
(解釈変更の合憲の論拠が科学ではないことの証明 PDF)
Ⅰ.集団的自衛権行使の解釈変更が絶対の違憲であることの証明 PDF
(Ⅰ.集団的自衛権行使の解釈変更が絶対の違憲であることの証明 PDF)
S47政府見解読み替え 関係資料 PDF
(S47政府見解読み替え 関係資料 PDF)
【動画】【スクープ!】追加有_「集団的自衛権行使容認の閣議決定」が覆る決定的根拠! 「昭和47年政府見解」の知られざる真実を小西洋之議員が暴露!! 2015/05/21
第4 小西洋之参議院議員の意見書の概要 2022年1月19日 (P14)
衆議院憲法審査会の「毎週開催」の問題について 【(2)9条改憲 】 2023年5月4日
「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定」を読み解く 深草徹 PDF
集団的自衛権に関する1972年の政府見解 2014.06.10
72年の政府見解が集団的自衛権の根拠になるという没論理性 2014年6月15日
「7・1閣議決定は違憲 法的な効力はない」 〜岩上安身による伊藤真弁護士インタビュー 2014.7.5
憲法解釈の変更により集団的自衛権を容認する閣議決定に対する意見書 平成26年7月2日 PDF
(憲法解釈の変更により集団的自衛権を容認する閣議決定に対する意見書)
昭和四十七年政府見解における「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」との文言の意味に関する質問主意書 平成27年6月2日 (質問主意書と答弁書を確認)
平成26年7月1日安倍閣議決定は、なぜ従来の政府見解を逸脱し、憲法第9条に違反するのか 2015.4.11
政府は「基本論理」継承というが 72年見解「変更」明確に 法制局長官答弁 2015年6月11日
【動画】小林節 慶応大学名誉教授、長谷部恭男 早稲田大学法学学術院教授 「憲法と安保法制」① 2015.6.15
「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性について」 2015年6月15日 PDF
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安全保障法制改定法案に対する意見書 日本弁護士連合会 2015年6月18日 PDF
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【動画】宮崎礼壹・元内閣法制局長官の参考人意見陳述【全】 2015/06/21 (6:10)
質問主意書≪安保法制⑪昭和47年政府見解の論理的整合性と法的安定性 再質問≫ 中西けんじ 2015年07月06日
「自国が攻められたとき」という自衛権のハードルを下げ、戦争に突入した日本 水島朝穂・早大教授が岩上安身のインタビューで政府案・維新案を「違憲」と徹底批判! 2015.7.12
平和安全法制の違憲論点の審議継続の御進言につきまして 2015年7月14日 PDF
安保法制は「違憲3点セット」 解釈改憲のゆがみを弁護士が指摘 倉持麟太郎 2015.08.30
<第16回>昨年7月の閣議決定は明確な「自衛隊法違反」だ 2015年9月1日
<第17回>安倍首相は過去の自分の質問を忘れたのか? 2015年9月2日
「集団的自衛権は想定外」 政権が依拠する「72年政府見解」作成の元法制局長官が激白 2015.8.19
集団的自衛権を合憲とみなす政府側の論理 2015-08-31
「2014年7月1日の閣議決定は、」 Yahoo知恵袋 2015/10/7
池田・佐藤政権期の集団的自衛権解釈と1972年見解 2016-03 PDF
憲法9条と「安全保障法制」 元内閣法制局長官 宮崎礼壹 2016年6月18日
【3分で読解】紙1枚で集団的自衛権を可能にした安倍内閣のあまりにも無謀な根拠詐称 〜今すぐできる!臨時国会で追及するためのアクションリスト付き〜 2016年10月20日
【動画】「安倍政権の『集団的自衛権の行使容認』が違憲であると完全論破。」
(【動画】小西ひろゆき氏 × DELI氏 × 山本太郎氏 × 三宅洋平氏 トーク 2016/09/09)
政権根拠の72年見解 「集団的自衛権行使に否定的」 2017年9月20日
(政権根拠の72年見解 「集団的自衛権行使に否定的」 2017年9月20日)
限定的な集団的自衛権行使の必要性の矛盾に関する質問主意書 平成29年9月28日
政府解釈における「武力の行使」の系譜 : 「現点」 の確認 (スケッチ) と分析視角 森山弘二 2019-03
新安保法制法の違憲性と憲法判断の必要性 控訴人ら訴訟代理人 弁護士 棚橋桂介 2021年10月1日 PDF
控訴審・第1回弁論準備手続期日 控訴人準備書面(31) 2022年2月3日
【動画】憲法学者 長谷部恭男教授の証人尋問後の衆議院院内集会の様子 2023/04/10
【動画】安保法制違憲訴訟全国の状況 ~各地からの報告 XIX 2023/05/07
【動画】安保法制違憲訴訟全国の状況 ~各地からの報告 XXI 2023/07/03
━解釈変更━
(「昭和47年政府見解」 内閣法制局長官答弁 PDF)
資料中:「昭和47年政府見解」の要求質疑における吉國内閣法制局長官答弁
第69回国会 参議院 決算委員会 閉会後第5号 昭和47年9月14日
資料中:「昭和47年政府見解」要求の水口議員に対する真田内閣法制局次長答弁
第68回国会 参議院 内閣委員会 第11号 昭和47年5月12日
資料中:「昭和47年政府見解」決裁者の角田内閣法制局長官答弁
第94回国会 衆議院 法務委員会 第18号 昭和56年6月3日
内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問主意書 平成15年7月8日
「集団的自衛権の憲法解釈変更」に関する質問主意書 平成26年6月18日
「砂川判決」と集団的自衛権についての政府見解に関する質問主意書 平成27年6月11日
(「砂川判決」と集団的自衛権についての政府見解に関する質問主意書 2015.6.11)
「砂川判決」と集団的自衛権に関する質問主意書 平成26年4月25日
(「砂川判決」と集団的自衛権に関する質問主意書 2014.4.25)
関西学院大学法学部教授・柳井健一氏 憲法学者アンケート調査
関西大学・木下智史氏 憲法学者アンケート調査
千葉大学大学院専門法務研究科教授・巻美矢紀氏 憲法学者アンケート調査
成城大学法学部教授・大津浩氏 憲法学者アンケート調査
同志社大学法学部教授・尾形健氏 憲法学者アンケート調査
関西大学法学部教授・高作正博氏 憲法学者アンケート調査
早稲田大学法学学術院教授・水島朝穂氏 憲法学者アンケート調査
関西学院大学大学院司法研究科教授・松井幸夫氏 憲法学者アンケート調査
山梨学院大学法学部准教授・鈴木敦氏 憲法学者アンケート調査
関西大学法学部・村田尚紀氏 憲法学者アンケート調査
神戸大学理事・副学長(大学院法学研究科・教授)井上典之氏 憲法学者アンケート調査
「集団的自衛権の行使容認」問題についてのメモ 2014-07-05
集団的自衛権に関する憲法解釈は変更されていない? 2014-11-11
━法解釈━
「法の欠缺」(ルールの不存在)に、どう対処すべきか? 2018-03-18
法解釈 Wikipedia
法(法学) Wikipedia
<内閣法制局の論点>
集団的自衛権と内閣法制局ーー禁じ手を用いすぎではないか 南野森 2014/2/7
━憲法解釈━
内閣法制局による憲法解釈小論 2008.2 PDF
━文章の不存在━
内閣法制局が集団的自衛権の行使を、たった1日で合憲に解釈変更した過程を公文書に残さず隠蔽! 2015年09月28日
内閣法制局における集団的自衛権行使容認にかかる 憲法解釈変更の検討経過等記録未作成に対する要望 2015年9月30日
国連常任理事国入りのために――誰が内閣法制局を壊したのか 2015年10月5日
<記者の目>憲法解釈変更 法制局文書残さず=日下部聡(東京社会部) 2015年10月7日
集団的自衛権に関する憲法解釈について内閣法制局に情報開示請求 2015-11-03
憲法解釈変更の協議文書、法制局になし 2015年11月25日
集団的自衛権「閣議決定」の議事録がない!? こんなの民主国家と言えるのか 古賀茂明 2015.11.28
(閣議決定文書の案を除き、存在しない PDF)
━内閣法制局の在り方━
長谷部恭男氏・小林節氏「安保法制は違憲、安倍政権は撤回を」
内閣法制局の憲法解釈権限(1) 2013-08-24
内閣法制局の憲法解釈権限(2) 2013-08-24
安倍政権の解釈改憲の動きは行使容認の立場から見ても危険だ―『Journalism』5月号から― 2014年05月12日
安倍独裁で“法の番人”内閣法制局長官までネトウヨ化! 安倍首相のために「声を荒げる国会質問は認められない」と民主主義否定 2019.03.07
国会批判? 「越権行為」に広がる波紋 法制局長官発言に厳重注意 2019年3月8日
<社説>法制局長官の暴言 国会を侮辱、すぐ更迭を 2019年03月10日
内閣法制局長官が越権行為、「法の番人」が「安倍内閣の番犬」に変節した理由 2019年3月13日
神様だと思った人たちが…自信なく「これは合憲らしい」 2021年1月13日
司法審査
次に、2014年7月1日閣議決定の内容に対して、裁判所が司法審査を行う場合について検討する。
適正手続の保障
行政権の行使は適正な手続きの下に行われる必要がある。
行政手続においても、適正手続が求められる。
成田空港事件(最大判平成4.7.1)
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憲法三一条の定める法定手続の保障は、直接には刑事手続に関するものであるが、行政手続については、それが刑事手続ではないとの理由のみで、そのすべてが当然に同条による保障の枠外にあると判断することは相当ではない。
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確かに、判例及び学説の双方にわたって、憲法三一条の法意の比較法的検討をめぐる議論が、我が国の行政手続法理の発展に寄与してきたことは、高く評価すべきことである。しかしながら、我が国を含め現代における各国の行政法理論及び行政法制度の発展状況を見ると、いわゆる法治主義の原理(手続的法治国の原理)、法の適正な手続又は過程(デュー・プロセス・オヴ・ロー)の理念その他行政手続に関する法の一般原則に照らして、適正な行政手続の整備が行政法の重要な基盤であることは、もはや自明の理とされるに至っている。したがって、我が国でも、憲法上の個々の条文とはかかわりなく、既に多数の行政法令に行政手続に関する規定が置かれており、また、現在、行政手続に関する基本法の制定に向けて努力が重ねられているところである。もとより、個別の行政庁の処分の趣旨・目的に照らし、刑事上の処分に準じた手続によるべきものと解される場合において、適正な手続に関する規定の根拠を、憲法三一条又はその精神に求めることができることはいうまでもない。
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適正手続の保障については、根拠を31条以外に求める学説もある。
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行政手続に関する根拠(学説)
憲法31条説 : 刑事手続のみならず行政手続にも適用・準用すべき
憲法13条説 : 国民の権利を手続き上も尊重すべき
憲法31条・13条併合説 : 憲法31条と13条両者を根拠とすべき
手続的法治国家説 : 国民の権利利益の手続的保障は憲法上の要請と考えるべき
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書籍『重要判例セレクトワークス PART1憲法 PART2行政法 PART3民法』 P78 行政法22〔手続統制論〕
【参考】集団的自衛権合憲化は9条削除と同じ 2014-03-28
(集団的自衛権合憲化は9条削除と同じ 2014-03-28)
行政裁量に対する司法審査の判断基準
行政権の行使として行われた解釈の過程に不正・違法が存在する場合には、行政権に与えられた「自由裁量」の範囲を逸脱する。
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第三に、立法・行政各機関の自由裁量も司法権の内在的限界とされることがありますが、自由裁量については、二つの側面を指摘することができます。まず、自由裁量の範囲を逸脱するか否かは法的に解決しうる問題ですから、裁判所の審判権が及びます。他方で自由裁量の範囲内の事項には裁判所の審判権が及びませんが、それはなぜかと言えば、裁量の適否は法(律)の適用によって解決しうる問題ではないからです。裁量の範囲内であるということは、そこには法はないということですから。
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憲法講話 -- 24の入門講義 長谷部恭男 2020/3/2 amazon (P335) (下線は筆者)
【動画】憲法学者 長谷部恭男教授の証人尋問後の衆議院院内集会の様子 2023/04/10
そのため、「2014年7月1日閣議決定の解釈手続き」に不正・違法が存在することについて、「司法権の限界」に関する論点の「自由裁量論」を持ち出して司法審査が及ばないという結論が導き出されることはない。
裁判所による司法審査がなされる場合、内閣の2014年7月1日閣議決定(解釈変更)の内容が「裁量権の逸脱、濫用などにあたるか」が違法性の判断基準となる。
資料①
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行政法編【自由裁量】の項目
また、法が行政庁の裁量を認めている範囲においても、その裁量には常に、行政の目的による条理上の制約が存すると解さなければならない。この条理上の制約としては、一般にいわゆる公益原則、平等原則、比例原則などが考えられており、これらの原則は、行政庁が裁量権を行使するにつき守るべき原則と解されている。
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図解による法律用語辞典 単行本 – 2003/5 amazon
(図解による法律用語辞典 単行本(ソフトカバー) – 2013/12/19 amazon)
資料②
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裁量権の踰越・濫用の類型
① 法目的違反
② 事実誤認
③ 平等原則違反
④ 比例原則違反
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資料③
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行政裁量は、従来行政行為との関係で考えられてきましたが、行政行為以外の行為形式、例えば行政立法や行政計画などにおいても行政裁量は存在しており、またその重要性が現在では認識されています。
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行政裁量の司法審査のあり方としては、問題となっている法律の規定の仕方や、司法審査の基準・方法の形成状況、法的救済の必要性の度合い、政策的ないし専門技術的判断の程度によって、どの程度裁判所が行政の判断を尊重すべきものかか決められるものと考えられます。
考慮される要素 : 裁量権逸脱・濫用の有無について判断基準となるものとしては、以下のようなものがあります。
〇 事実の誤認
ある行政機関の行為が事実の誤認に基づいている場合、すなわちその判断が全く事実の基礎を欠く、ないし重要な事実の基礎を欠くような場合には、その行為は違法なものと考えられます。
〇 目的拘束の法理
裁量は、それを授権する法律の趣旨・目的に沿って行使されなければならず、それに反する目的でなされた裁量の行使は裁量権の範囲を逸脱・濫用するものとして違法となると考えられます。
判例(最判昭和53年6月16日)は、児童遊園施設の周囲一定距離においては風俗営業等が規制されることを利用して、個室付浴場業の規制を主たる目的として児童遊園設置の認可申請を容れた処分について、違法性があるとしています。
〇 行政上の一般原則
憲法上の原則や条理、社会通念上の諸原則である、信義則や平等原則、比例原則等の違反が認められる場合には、当該行政の裁量の行使は裁量権の範囲を逸脱あるいは裁量権を濫用したものとして、違法なものとなると考えられます。
〇 判断過程
判断の結果だけでなく、判断過程から裁量の行使が違法と判断されることがあります。これは、行政機関が裁量を行使する際に、考慮すべきことを考慮せず、あるいは考慮べきでないことを考慮すること、またその考慮において認識や評価を誤り、合理性を持つものとして許容される限度を超えた考慮をした場合には、当該裁量の行使を違法とするものと考えられます。
このような審査方法をとった判例としては、信仰上の理由により剣道実技の履修拒否をした公立高等専門学校の学生につき、学校長が原級留置および退学処分をした際、代替措置を検討すべきであったのにしなかったことをあげて、当該処分を違法としたもの(最判平成8年3月8日(「エホバの証人」剣道実技拒否事件)があります。
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行政裁量 ウィキバーシティ
資料④
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「行政行為」の裁量について司法統制が論じられることが多いが、行政裁量は様々な行為形式に認められる。
〇 実体法的見地からの裁量権の逸脱濫用の有無
・一般原則である「比例原則」「平等原則」「信義則」に違反して裁量権が行使された場合
・重大な事実誤認の上に裁量権が行使された場合
・動機の不正がみられたり法律が有している趣旨・目的に違反する形で裁量権が行使された場合
⇒ 社会観念上(社会通念上)著しく妥当を書く行為となる
〇 手続き的見地からの裁量権の逸脱濫用の有無
<適正手続きの要請>
・手続き面について裁量権を誤って行使した場合
・審査基準それ自体の合理性が審査されることで、裁量処分に対する司法統制が行われることもあり得る
〇 判断過程の見地からの裁量権の逸脱濫用の有無
・考慮に入れれられるべき事項が考慮に入れられたかどうか
・考慮に入れてはならない事項が考慮に入れられたかどうか(他事考慮)
・重視されるべき事項が重視されたかどうか
・重視されるべきではない事項が重視されたかどうか
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資料⑤
行政裁量に関する有名な判例を確認し、内閣の2014年7月1日閣議決定が、裁判所によって行政裁量の範囲を越えるものとして違法性が認定されるかどうか考える。
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裁判所は、法務大臣の右判断についてそれが違法となるかどうかを審理、判断するにあたつては、右判断が法務大臣の裁量権の行使としてされたものであることを前提として、その判断の基礎とされた重要な事実に誤認があること等により右判断が全く事実の基礎を欠くかどうか、又は事実に対する評価が明白に合理性を欠くこと等により右判断が社会通念に照らし著しく妥当性を欠くことが明らかであるかどうかについて審理し、それが認められる場合に限り、右判断が裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつたものとして違法であるとすることができるものと解するのが、相当である。
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1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の内容を読み替えた2014年7月1日閣議決定は、裁判所によって「その判断の基礎とされた重要な事実に誤認があること等」に該当し、「全く事実の基礎を欠く」ものとされ、「事実に対する評価が明白に合理性を欠くこと等」に該当し、「判断が社会通念に照らして著しく妥当性を欠くことが明らか」であると判断される可能性が考えられる。
伊方原発事件(最判平4.10.29)
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原子炉施設の安全性に関する判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を基にしてされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであって、現在の科学技術水準に照らし、右調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、被告行政庁の右判断に不合理な点があるものとして、右判断に基づく原子炉設置許可処分は違法と解すべきである。
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「エホバの証人」剣道実技拒否事件(最判平8.3.8)
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二 高等専門学校の校長が学生に対し原級留置処分又は退学処分を行うかどうかの判断は、校長の合理的な教育的裁量にゆだねられるべきものであり、裁判所がその処分の適否を審査するに当たっては、校長と同一の立場に立って当該処分をすべきであったかどうか等について判断し、その結果と当該処分とを比較してその適否、軽重等を論ずべきものではなく、校長の裁量権の行使としての処分が、全く事実の基礎を欠くか又は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え又は裁量権を濫用してされたと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである(最高裁昭和二八年(オ)第五二五号同二九年七月三〇日第三小法廷判決・民集八巻七号一四六三頁、最高裁昭和二八年(オ)第七四五号同二九年七月三〇日第三小法廷判決・民集八巻七号一五〇一頁、最高裁昭和四二年(行ツ)第五九号同四九年七月一九日第三小法廷判決・民集二八巻五号七九〇頁、最高裁昭和四七年(行ツ)第五二号同五二年一二月二〇日第三小法廷判決・民集三一巻七号一一〇一頁参照)。
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4 以上によれば、信仰上の理由による剣道実技の履修拒否を、正当な理由のない履修拒否と区別することなく、代替措置が不可能というわけでもないのに、代替措置について何ら検討することもなく、体育科目を不認定とした担当教員らの評価を受けて、原級留置処分をし、さらに、不認定の主たる理由及び全体成績について勘案することなく、二年続けて原級留置となったため進級等規程及び退学内規に従って学則にいう「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」に当たるとし、退学処分をしたという上告人の措置は、考慮すべき事項を考慮しておらず、又は考慮された事実に対する評価が明白に合理性を欠き、その結果、社会観念上著しく妥当を欠く処分をしたものと評するほかはなく、本件各処分は、裁量権の範囲を超える違法なものといわざるを得ない。
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内閣は法を解釈する権限を有しているものの、その法の解釈を行う論理展開が、「合理的な…裁量」のものでなく、「全くの事実の基礎を欠く」ものであったり、「社会観念上著しく妥当を欠」くものであってはならない。
2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文面の、「外国の武力攻撃」の文言の意味について、1972年(昭和47年)政府見解の論旨から「『我が国』に対する武力攻撃」を意味するものとしか読むことができないものであるにもかかわらず、「『我が国と密接な関係にある他国』に対する武力攻撃」もこの文言にあてはめが可能だと主張するものである。
これは、裁判所によって、「合理的な…裁量」でなく、「考慮すべき事項(昭和47年政府見解の基本的な論理の論旨)を考慮しておらず」、「考慮された事実(1972年(昭和47年)政府見解の『基本的な論理』と称している部分の中に『我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃』も含まれるとする主張)に対する評価が明白に合理性を欠き」、その結果、「全く事実の基礎を欠く」ものであり、「社会観念上著しく妥当を欠き」、「裁量権の範囲を超え」、「裁量権を濫用してされたと認められる場合」であるとされ、「裁量権の範囲を超える違法なものと言わざるを得ない」と判断される可能性が考えられる。
呉市学校施設使用不許可事件(最判平18.2.7)
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本件不許可処分は,重視すべきでない考慮要素を重視するなど,考慮した事項に対する評価が明らかに合理性を欠いており,他方,当然考慮すべき事項を十分考慮しておらず,その結果,社会通念に照らし著しく妥当性を欠いたものということができる。そうすると,原審の採る立証責任論等は是認することができないものの,本件不許可処分が裁量権を逸脱したものであるとした原審の判断は,結論において是認することができる。
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1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の内容を読み替えた内閣の2014年7月1日閣議決定は、「考慮した事項に対する評価が明らかに合理性を欠いており」、「当然考慮すべき事項を十分考慮しておらず」、「社会通念に照らし著しく妥当性を欠いた」判断であるとされ、裁量権の逸脱濫用が認められ、違法であると判断される可能性が考えられる。
統治行為論によって法的判断が回避される可能性はあるか
〇 統治行為論を論じる対象として何があるか
今回の事例で「統治行為論」を採用して法的な判断を回避するか否かが問われるものとして、次の3つが考えられる。
◇ 「2014年7月1日閣議決定の解釈の過程」の違法性 ( ⇒ ここで検討)
◇ 「存立危機事態」に基づく「武力の行使」の違憲性 (⇒ 砂川判決に論拠はあるかで検討)
◇ 具体的な事例を「存立危機事態」に当てはめたこと (⇒ 存立危機事態の違憲審査で解説)
この中の「2014年7月1日閣議決定の解釈の過程」の違法性について、下記で検討する。
〇 「裁量統制」をするだけで済むこと
この「2014年7月1日閣議決定の解釈の過程」については、行政府が9条を解釈して何らかの結論を導き出そうとする中において、その判断の過程が行政手続きとして適正に行われているか否か、行政権に与えられ「自由裁量」(行政裁量)の範囲を逸脱するものとなっていないかのみを純粋に審査すればよいと思われる。
つまり、行政手続きの違法性の有無のみを審査するだけでよく、9条の条文そのものと直接的に関わらないものとしてこの問題を処理することが可能である。
そして、裁判所がその行政手続きについて違法なものであると宣言しても、裁判所は政府に対してその行政手続き(解釈の手続き)をもう一度適正な形でやり直すことだけを命じればよいと考えられる。
この判断においては、裁判所は行政手続きが適正な形で改めて行われた場合に、その結果として「武力の行使」の発動要件がどのような内容に落ち着くかについてまで踏み込んだ判断を行う必要はない。
裁判所は行政府の解釈の結論として示されている新三要件の第一要件後段の「存立危機事態」について、憲法9条に抵触するか否かという部分にまで法的な判断を示す必要がないということである。
行政府の行った解釈の過程が行政手続きとして適正なものであるか否かを判断する中においては、「武力の行使」の発動要件が9条に抵触するか否かという論点そのものが存在しないのであり、これは「高度に政治的な問題」とはいえず、「統治行為論」を採用して憲法判断を回避するべきか否かの論点が生じる余地はないと考えられる。
いくつかある9条解釈のルートのうちどれを選択するかという問題は「自由裁量」の範囲、あるいは「高度に政治的な問題」となる場合が考えられるとしても、解釈手続きの過程が不正なく適正に行われたか否かについては「自由裁量」の範囲の問題とはいえないし、「高度に政治的な問題」ではないからである。
よって、「武力の行使」の発動要件が9条に抵触するか否かの論点に対して「統治行為論」を採用して憲法判断を回避するか否かという問題には関わらずに判断を下すことができ、単に「裁量統制」の判断のみを行えばよいと考えられる。
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筆者がこのように統治行為論を捨て去って、これを自律権や自由裁量権によって説明する方が望ましいと考える理由は2点ある。1点目は統治行為肯定説を唱えた山田準次郎も認めているように、「統治行為の正当性を理論上から説明することは結局においてできない」という理由である。2点目は、「統治行為」が「高度の政治性」を理由に完全に違憲審査権を放棄させるのに対して、自由裁量行為についてはそれが法に違反しているか否か一すなわち裁量権の喩越・濫用が生じているかどうか一を裁判所がチェックできるようになるという理由である。政治性の高い行為も憲法に服し、憲法に違反しない行為のみが有効であることは憲法98条1項に規定された大原則であることを考えると、統治行為論を用いて最初から違憲審査を控えて政治部門の違憲行為を黙認するのは許されない。政治部門の自由裁量を認めつつもその違憲性の有無を審査して憲法の最高法規性を保障する方が日本国憲法の趣旨に合致しており、さらには先に述べた立憲主義の考え方にも合致するように思われるのである。
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統治行為論不要説 原島啓之 PDF (P81) (下線・色は筆者)
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ただし、このような裁量が政治部門に与えられているとしても、完全な自由裁量が認められているわけではなく、あくまで上位規範の枠内での自由な活動が認められているにすぎない。したがってその枠の範囲内にとどまるかぎり司法審査が及ばず、政治部門の判断が終局的なものとなるけれども、憲法における国民主権、国際平和維持、個人の人権の尊重などといった憲法全体の精神やその根本原則、法律規定の目的、平等原則、比例原則をはじめとする基本原則の観点からその枠を超えていないかどうかの判断、つまり裁量の喩越や濫用がないかどうかの判断は法律問題となり、司法による審査権が及ぶ。この点で、違憲審査権を完全に排除してしまう「統治行為論」とは異なるといえる。
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統治行為論不要説 原島啓之 PDF (P82) (下線は筆者)
〇 「裁量統制」をするか否かについて「統治行為論」を検討する余地があるのか
下記では、「武力の行使」の発動要件が9条に抵触するか否かという問題に対して「統治行為論」を採用して憲法判断を回避するべきか否かではなく、行政府の行った9条解釈の過程が行政手続きとして適正なものであるか否かの問題に対して「統治行為論」を採用して法的な判断を回避するべきか否か検討する。
まず、砂川事件最高裁判決の示した「統治行為論」の内容を確認する。
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ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。
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砂川事件(最判昭34.12.16)
砂川事件に見られる「統治行為論」を参考にすると、下記の二つの説が考えられる。
① 国家統治の基本に関する高度に政治的な問題であるとして「統治行為論」を採用し、違憲審査を行わないことは、力による支配を許容することとなる。
これは、「法の支配」を貫徹することにならない。
そのため、三権分立の統治原理を採用していることから政治部門の判断を尊重する必要があるとはいえるが、「法の支配」を実現することを託された裁判所の役割として、国家統治の基本に関する高度に政治的な問題についても、違憲審査を行うべきである。
(砂川判決の裁判官の『意見』にこのような見解が述べられている。)
② 国家統治の基本に関する高度に政治的な問題であるとしても、「一見極めて明白に違憲無効と認められ」る場合には、違憲審査の範囲内のものである。
①については、司法権による違憲審査が行われることになる。
これにより、「2014年7月1日閣議決定の解釈手続き」の瑕疵についても違憲・違法と判断されることが考えられる。
②については、「一見極めて明白に違憲無効と認められるかどうか」が審査の対象となる。
「2014年7月1日閣議決定の解釈手続き」は、行政裁量に関するこれまでの司法審査の基準を超える部分が見られることから、「一見極めて明白に違憲無効と認められる」と判断されることが考えられる。
この「2014年7月1日閣議決定の解釈手続き」に対して、「統治行為論」が採用することによって法的判断が行われなかった場合、「戦争」や「武力の行使」に関する政府の解釈手続きは「自由裁量」や「超法規的なもの」となる。
すると、内閣が法的に正当化できる根拠を持たない中で「武力の行使」を行っても、それらの行為に対して司法判断が及ばなくなってしまうことに繋がる。
このことから、「2014年7月1日閣議決定の解釈手続き」については、「統治行為論」を採用することによって法的判断を避けることが適切な事例ではなく、法的判断を行うべき事例であると考えられる。
【参考】(4)最高裁は「昭和 47
年政府見解の読み替え」に統治行為論は使えない PDF (P102)
((4)最高裁は「昭和 47 年政府見解の読み替え」に統治行為論は使えない PDF)
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この点については佐藤自身が自覚的であるように思われる。そのことは「自由裁量と『統治行為』とは果してどれほど異質なものか否かが問題となる」という記述、または統治行為も「自由裁量論と相通ずる性質を持つもので、両者はそれほど異質のものではないことになろう」という記述にあらわれている。さらに砂川事件最高裁判決における「一見極めて明白に」違憲という記述について、「『一見極めて明白に』違憲の場合に、これを司法審査権外とすることを正当化する論理を見出すことは困難である」と述べられており、「一見極めて明白に」違憲無効な行為があったとき、すなわち裁量の濫用や喩越があったときにその違憲性を司法審査できることが前提とされている。このように考えると、統治行為と自由裁量行為はもともと似通っていると言うことができ、そうであるならば外交行為も後者によって説明されるべきである。このように考えることは十分に可能であるだけでなく、「統治行為」という不明確な概念を避けようとするという筆者の考えに適合するものである。
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統治行為論不要説 原島啓之 PDF (P83) (下線は筆者)
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また、裁判所による審判一とりわけ違憲判決一の性格という観点からも従来の議論に異を唱えることができる。国会や内閣は国民によって選挙で選ばれた議員からなる民主的機関であるので、裁判所が違憲判決を出しその決定を覆すのは民主主義に抵触するのだと述べられてきた。ところが、周知のように、日本において違憲判決は当該事件にのみその効力が及び、即時一般的に当該国家行為を無効にしてしまうのではないとされる(個別的効力説)。ゆえに、たとえ裁判所から違憲判断を下されたとしても、政治部門は違憲とされた部分を改正したり、大枠を維持しつつ必要な修正を施した法を制定しなおしたりすることによって処理することが可能である。このような一連の流れは本当に民主主義に反することになるのだろうか。もし、「○○法の△△という内容は××にすべきだ」などと述べて「××」という政策判断をするのだとしたらそう言えるかもしれない。ところが、裁判所は法を解釈し、その結果「○○法の△△という内容は違憲である」と述べているに過ぎず、裁判所が政策判断をおこなっているというわけでは決してない。言い換えれば、裁判所は法の解釈によって違憲判決を下す権限しか有しておらず、当該法の改正にせよ、撤廃にせよ、最終的な政策決定は政治部門に委ねている、ということである。したがって、裁判所が違憲判決を下したとしても民主主義に矛盾しない、と言うことができるのである。
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統治行為論不要説 原島啓之 PDF (P85)
「統治行為論」については、当サイト「砂川判決に論拠はあるか」のページでも解説している。
訴訟の種類は何か
2014年7月1日閣議決定について、行政の裁量を越える公権力の行使については、行政事件訴訟法30条(裁量処分の取消し)で是正することができるのではないか。
行政事件訴訟法
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第一章 総則
(抗告訴訟)
第三条 この法律において「抗告訴訟」とは、行政庁の公権力の行使に関する不服の訴訟をいう。
2 この法律において「処分の取消しの訴え」とは、行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為(次項に規定する裁決、決定その他の行為を除く。以下単に「処分」という。)の取消しを求める訴訟をいう。
3 この法律において「裁決の取消しの訴え」とは、審査請求その他の不服申立て(以下単に「審査請求」という。)に対する行政庁の裁決、決定その他の行為(以下単に「裁決」という。)の取消しを求める訴訟をいう。
4 この法律において「無効等確認の訴え」とは、処分若しくは裁決の存否又はその効力の有無の確認を求める訴訟をいう。
5 この法律において「不作為の違法確認の訴え」とは、行政庁が法令に基づく申請に対し、相当の期間内に何らかの処分又は裁決をすべきであるにかかわらず、これをしないことについての違法の確認を求める訴訟をいう。
6 この法律において「義務付けの訴え」とは、次に掲げる場合において、行政庁がその処分又は裁決をすべき旨を命ずることを求める訴訟をいう。
一 行政庁が一定の処分をすべきであるにかかわらずこれがされないとき(次号に掲げる場合を除く。)。
二 行政庁に対し一定の処分又は裁決を求める旨の法令に基づく申請又は審査請求がされた場合において、当該行政庁がその処分又は裁決をすべきであるにかかわらずこれがされないとき。
7 この法律において「差止めの訴え」とは、行政庁が一定の処分又は裁決をすべきでないにかかわらずこれがされようとしている場合において、行政庁がその処分又は裁決をしてはならない旨を命ずることを求める訴訟をいう。
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第二章 抗告訴訟
第一節 取消訴訟
(裁量処分の取消し)
第三十条 行政庁の裁量処分については、裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつた場合に限り、裁判所は、その処分を取り消すことができる。
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取消訴訟 Wikipedia
「処分」や「公権力の行使」の意味や範囲については、様々な定義がありそうであるが、『行政計画』もある程度の具体性があれば訴訟の対象になり得ることや、形式的には『行政指導』の形でも、実質的には「処分その他公権力の行使に当たる」とされた事例があることも考えておくとよいのではないか。
勧告取消等請求事件 平成17年7月15日
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この勧告は,行政事件訴訟法3条2項にいう「行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為」に当たると解するのが相当である。
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(ここで言う『勧告』は、『行政指導』のことである。)
【参考】安保法違憲訴訟で原告敗訴、札幌 全国22地裁で初判決 2019/4/22
【参考】安保法違憲訴訟で原告敗訴、札幌 全国22地裁で初判決 2019/04/22
【参考】「平和安全法制整備法」による命令服従義務不存在確認訴訟上告審における意見書 ─ 本件訴えの緊急性ないし蓋然性の要件充足性 ─ 石崎誠也 PDF
「処分」と「行政行為」の違いについても見ておこう。
行政行為 Wikipedia (下線・太字は筆者) ((の)を入れている。)
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定義
行政行為(の)定義は様々だが、上記のような「行政庁が一方的に特定の国民の具体的な権利義務を決定する」という要素を含む。まれに行政行為を行政処分という場合もあるが、通常「処分」とは行政事件訴訟法などの争訟法上で用いられる概念である。しかし両者はほぼ重なる概念でもある。
最高裁判所は「行政庁の処分」(行政事件訴訟特例法1条〈現在の行政事件訴訟法3条2項〉)を、「行政庁の処分とは行政庁の法令に基づく行為のすべてを意味するものではなく、公権力の主体たる国または公共団体が行う行為のうち、その行為によつて、直接国民の権利義務を形成しまたはその範囲を確定することが法律上認められているもの」と定義している(最高裁判決昭和39年10月29日民集18巻8号1809頁)。また、この判決が先例として引用している最高裁判決(最高裁昭和30年2月24日判決民集9巻2号217頁)では、公権力の主体たる国(日本国中央政府)又は公共団体が行う行為のうち、その行為によって、直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することが法律上認められているものを「行政庁の処分」と定義していると考えられる。
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ここで、「直接国民の権利義務を形成しまたはその範囲を確定することが法律上認められているもの」としているが、「国民の権利義務を形成しまたはその範囲を確定する」という作用でないと思われるものを処分としている判例もある。下記を見てみよう。
7条や69条の「解散」については、憲法81条のいう「処分」に該当すると示した意見がある。
苫米地事件(最大判昭和35.6.8) 裁判所(判例)
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けだし、解散は憲法八一条にいう「処分」であつて、正に裁判所の違憲審査権の対象であるからである。
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ただ、「法律上の争訟」にあたらなければ、裁判所は司法権を行使しない。
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第三条(裁判所の権限) 裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。
2 前項の規定は、行政機関が前審として審判することを妨げない。
○3 この法律の規定は、刑事について、別に法律で陪審の制度を設けることを妨げない。
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司法 Wikipedia (下線・太字は筆者)
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最高裁判所の判例によれば「法律上の争訟」とは、「法令を適用することによつて解決し得べき権利義務に関する当事者間の紛争」をいう(最判昭和29年2月11日民集8巻2号419頁)。すなわち、「法律上の争訟」に当たるためには、次の2つの要件を満たすことが求められる。
1. 当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であること
2. 法律を適用することにより終局的に解決することができるものであること(いわゆる終局性)
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法律を立法して行政事件訴訟法の「客観訴訟」の「民衆訴訟」の道を開くと、「法律上の争訟」にあたらなくとも、裁判所法3条1項の「法律において特に定める権限」に含めることができ、「当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争」がなくとも、司法権の行使が行われるようにすることができると思われる。
国家賠償法による統制はどうなるか。
国家賠償法
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第一条 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。
2 前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があつたときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。
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国家賠償法上での「公権力の行使」の意味について確認する。
国家賠償法 Wikipedia
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公権力の行使
ここでいう「公権力の行使」とは、国又は公共団体(ここでいう公共団体とは公権力の行使をゆだねられた全ての団体を含む)の作用のうち純粋な私経済作用と国家賠償法2条によって救済される営造物の設置又は管理作用を除くすべての作用を意味するとされる(東京高等裁判所昭和56年11月13日判決、広義説)。なお、公権力の行使には不作為、行政指導が含まれ、公権力には立法権、司法権が例外的にも含まれる余地がある。
最高裁判例では「公権力の行使とは、行政行為や強制執行など国民に対し、命令強制する権力的作用に限らず、純粋な私経済的作用と国家賠償法2条によって救済される営造物の設置または管理作用を除くすべての作用を意味する。」としている。(最高裁判例
昭和62年2月6日、通説)
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<理解の補強>
行政行為 Wikipedia
論理展開は意味が通じるか
2014年7月1日閣議決定の文面は、一文一文が非常に長い。その影響で、法律の初学者は読解することを難しく感じ、理解することを諦めてしまうかもしれない。
しかし、文面を理解することが難しい原因は、解釈者自身がよく分かっていないためである。論理を整えることができておらず、内容の不正を見抜かれないための誤魔化しが隠されているのである。
意味を読み取ることができなくとも、初学者の責任ではないため、自分を責めないでほしい。この閣議決定の文面は、法学を十分に学んだ者であっても論理を十分に掴むことができず、初学者と同じように意味が分からないのである。
「存立危機事態」の要件が、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の範囲内であるかどうかについて、論理的にしっかりとした説明がなされているのか確認する。
2014年7月1日閣議決定の論理展開を詳しく確認する。
2014年7月1日閣議決定の内容
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この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
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これまで政府は、この基本的な論理の下、
~
に限られると考えてきた。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
しかし、
~
を踏まえれば、
~
も現実に起こり得る。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
我が国としては、
~
万全を期す必要がある。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、
~
のみならず、
~
において、
~
することは、
~
従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛
のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
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ここには、「従来の政府見解の『基本的な論理』を、〇〇のように読み解く(解釈する)ことで、この論理の中に~~の場合の自衛の措置も含まれると解することができます。」のような、『解釈過程』となっている論理の筋道が一切ないのである。
そもそも、結論となっている「憲法上許容されると考えるべきである」の文言について、「されるべき」という結果への願望である。
2014年7月1日閣議決定の内容は、「と判断するに至った。」と、過去形で『解釈の結果』を表現しているが、その『解釈の過程(プロセス)』については何も触れていないのである。
ここに、解釈者自らが、従来の政府見解の「基本的な論理」を捻じ曲げており、『解釈過程』の筋道を明確に示せないことが表れているのである。
また、「と判断するに至った。」としているが、意図して殊更に「過去形」で表現することによって、読み手に対して「過去の事実」として既に確定しているかのようなイメージを与えることで、「そうなっているのだから文句を言うな」とでも言いたげな表現となっている。ここには、本来論理的には不可能なことを、解釈者の自己都合によって規範を無視し、無理やり押し通そうとしている事情が含まれているのである。
上記、「2014年7月1日閣議決定」の論理を整理してみよう。
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基本的な論理は、維持されなければならない。 【解釈の方針】
↓
~に限られると考えていた。 【今までの解釈】
↓
しかし、~も現実に起こり得る。 【現実認識】
↓
わが国としては、~万全を期す必要がある。 【解釈変更の必要性】
↓
慎重に検討した結果、~は憲法上許容されるべきであると判断するに至った。 【解釈変更の結果】
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ここには、なぜ許容されるのか、理由がないのである。
つまり、【解釈変更の必要性】から、【解釈変更の結果】へとそのまま飛んでおり、なぜ【解釈の方針】となっている「基本的な論理」が維持されているのか、その過程(プロセス)が存在しないのである。
「判断するに至った」と過去形で表現しているが、『判断の過程』となる論理構造が示されていないのである。
もう一度、文脈を確認してみよう。
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基本的な論理は、維持されなければならない。 【解釈の方針】
↓
↓
↓
↓
慎重に検討した結果、~は憲法上許容されるべきであると判断するに至った。 【解釈変更の結果】
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「基本的な論理は維持されなければならない」としているが、どのように「維持され」ているのか全く記載がないのである。
文章として意味が通じておらず、解釈者の願望から生まれる結論のみを述べており、そこに至るまでの法の論理が組み立てられていないのである。
この『判断過程となる論理』の不存在は、解釈者自らが、それを論理的・合理的に正当化できないことを分かって行っているからである。
つまり、意図して故意に行った不正な解釈変更であることを、解釈者自らが自覚しているのである。(故意は、刑事罰や国家賠償の対象となる)
よって、9条の規定の規範性を無視した不正な解釈は、憲法31条の「適正手続き保障」の観点から許容できるものではない。
このことから、憲法の規範性が保つことのできる正当な論理が存在していないことから、「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に含まれていると解することはできず、結果として「存立危機事態」での「武力の行使」は憲法上許容できる枠を超え、9条に抵触して違憲となる。
『判断過程の論理の不存在』『理由の不存在』という状態は、法治主義の国家としては到底容認できるものではない。
例えば、裁判所が被告人に対して有罪判決を下すとき、法の論理に従って理由を述べることは当然のこととして理解できると思う。法の論理に従わず、判断過程や理由の存在しない判決は、「適正手続き」を欠いており、違憲・違法な判決となる。これが法の支配、法治主義の貫徹された国家の在り方である。
しかし、2014年7月1日閣議決定は、この『判断過程の論理』や『理由』が存在しないのである。つまり、法治主義が成り立っていないため、違憲・違法な解釈と言わざるを得ないのである。
これによって行われる「武力の行使」は、憲法上の国家権力として正当性を有しないのであり、違憲・違法な武力、あるいは暴力などと評価されることとなる。
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たとえば、昨年7月1日の閣議決定における9条の「解釈」の説明は、「従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要がある」としながらも、安全保障環境の変化を指摘したうえで、いわゆる新三要件のうちの第一要件を「従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」とするのみです。このような説明は、解釈も必要に応じて変更されうるし変更の必要性があるという点では意味があるとしても、新しい解釈が、9条の文言と法論理的な意味での整合性を保っていることの説明にはなりません。
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大阪大学高等司法研究科准教授・片桐直人氏 憲法学者アンケート調査 (下線は筆者)
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閣議決定では「従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内」で検討する必要があるとしていますが、この閣議決定において示されている見解は「従来の政府見解の論理」の枠内に収まっていません。「わが国に対する武力攻撃が発生した時に武力を行使できる」という論理が、「わが国に対する武力攻撃が発生していない時にも武力を行使できる」という論理や「日本を攻撃していない国に対して武力を行使できる」との論理を内包しているとは思えません。
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實原隆志(長崎県立大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日 (下線は筆者)
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④について、政府見解としての首尾一貫性が問われる必要がある。また、論拠とされるものの理解について、従来の説明と一貫しているかどうかが指摘されうる。この視点は、どのような政策であっても遵守すべき「形式的正義」であり、法秩序の安定性そのものである。従来、集団的自衛権は憲法上認められないとされ、それは、閣議決定が根拠として挙げる1972年政府見解でも同様である。文書のうち一部分だけを抜き出して、排除されていないから認められていると強弁するのは許されないはずである。
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高作正博(関西大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日 (下線は筆者)
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集団的自衛権の行使は認められないということで、従来はとてもわかりやすかったわけです。ところが昨年7月の閣議決定では、一定の限界のもとで、新しい要件のもとでは認められるということになった。では、具体的にどういう場合に認められるのかということについては、連立を組んでいる与党の党首の方々の間でもどうも意見が合致していない。
解釈というのは不明確なものを明確化するために行われるはずのものであるにもかかわらず、今度行われた解釈というのは、明確であったものを不明確にしたのではないか。これは、はたして解釈と本当に言えるのかどうか。もちろん解釈ではあるんでしょうけれども、解釈が本来はたすべき役割をはたしていないのではないか。そういう意味でも、政府の憲法解釈を著しく不安定化させているのではないかと思います。
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切れ目ない安保法制の整備めざす政権(上) 2015年06月10日 (長谷部恭男) (下線は筆者)
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憲法解釈は、裁判所はもちろん、国会議員や内閣にもそれを行う資格はあるし、主権者である国民一人一人が自由に行ってよい(行うべき)ものである。しかしながら、それらはあくまでも、法の解釈一般に共通する作法ないし解釈の方法論を踏まえたものでなければ「解釈」として認めることはできない。
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國學院大學法学部教授・平地秀哉氏 憲法学者アンケート調査 (下線は筆者)
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テクストと2014年7月1日以前の政府解釈を辛うじて係留してきた自衛権発動の第一要件(「自国に対する武力攻撃の発生(急迫不正の侵害)」)を無化する新三要件への解釈変更は、テクストとの牽連を論証する基礎を失っている。そもそも憲法解釈は、相異なり、相対立する複数の諸原理の妥当な均衡点を探る営みであるが、今般の解釈変更は、そうした緊張感を持った真摯な営みそのものを否定している疑いが濃厚である。
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成城大学法学部教授・松田浩氏 憲法学者アンケート調査 (下線は筆者)
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憲法解釈は、少なくとも論理的にきちんとした説明ができなくては、憲法解釈の名に値しない。その意味で、安倍内閣による集団的自衛権の行使を可能とする憲法解釈の変更は、新しい憲法解釈ではなく、端的に憲法に違反する政府見解である。日本国憲法がある以上、第9条を含めてそれを遵守することは内閣を含むすべての国家機関の義務である。
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香川大学教授・塚本俊之氏 憲法学者アンケート調査 (下線は筆者)
「基本的な論理」との整合性について説明はあるか
1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件が当てはまるとする主張に、しっかりと整合性の保たれた論拠のある説明が存在するかを確認する。
〇 政府答弁
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このようなことを前提に検討を行った結果、従前の解釈を変更することが至当であるとの結論が得られた場合には、これを変更することがおよそ許されないというものではないと考えられるが、いずれにせよ、その当否については、個別的、具体的に検討されるべきものであり、このことは、御指摘の衆議院議員島聡君提出政府の憲法解釈変更に関する質問に対する答弁書(平成十六年六月十八日内閣衆質一五九第一一四号)一についてでお答えしたとおりであって、御指摘の閣議決定において示された憲法解釈は、このような考え方に従い、従来の政府見解における憲法第九条の解釈の基本的な論理の枠内で導いたものである。
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憲法解釈の変更に関する質問に対する答弁書 平成27年2月3日 (下線部は筆者)
「従来の政府見解における憲法第九条の解釈の基本的な論理の枠内で導いたもの」と記載されているが、これも「導いた」と結論のみを述べようとしたものであり、どのように「基本的な論理」と称している部分の枠内に適合しているのか説明していない。
「導いたもの」と過去形で表現しているが、どのように「導いた」のか、その理由となるものを説明していないのである。
法学上、「『過去形』で表現すれば、論理的な整合性が保たれ、理由として採用される」などという原理は存在しない。その『過去形』として示そうとしている結論部分に至る『過程』の部分が、法学において法解釈として求められる論理である。その『過程』を示すことができていない論理は、理由として到底認めることのできず、単なる不正となる。
この説明は、「基本的な論理」と称している部分からは到底導くこととのできない要件を、「導いた」と、導くことができたかのように結論のみを正当化しようとしているだけである。
また、提示されている「衆議院議員島聡君提出政府の憲法解釈変更に関する質問に対する答弁書」には、「外部からの武力攻撃によって」との記載がある。この文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味であることは、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言よりもさらに明確である。
この答弁書には下記のようにも記載されている。
「これに対し、集団的自衛権とは、国際法上、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利と解されており、これは、我が国に対する武力攻撃に対処するものではなく、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とするものであるので、国民の生命等が危険に直面している状況下で実力を行使する場合とは異なり、憲法の中に我が国として実力を行使することが許されるとする根拠を見いだし難く、政府としては、その行使は憲法上許されないと解してきたところである。」
〇 政府答弁
【質問】
いわゆる新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性に関する質問主意書 平成27年6月25日
【答弁】
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「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(平成二十六年七月一日閣議決定)でお示しした「武力の行使」の三要件は、こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、このような昭和四十七年の政府見解の①及び②の基本的な論理を維持し、この考え方を前提として、これに当てはまる例外的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合もこれに当てはまるとしたものである。すなわち、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部、限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものである。したがって、これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれている。
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いわゆる新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性に関する質問に対する答弁書 平成27年7月3日 (下線・太字は筆者)
「基本的な論理を維持し、」との前提を設定しているが、「存立危機事態」の要件が「これに当てはまるとしたものである。」と、突然結論を述べている。しかし、必要なのは、なぜ「存立危機事態」の要件が「これに当てはまる」と言えるのか、その理由である。「これに当てはまる」という部分が、法解釈として当てはまるはずのないものを「当てはまる」と強弁しようとしているのである。結論のみを主張して正当化しようとしても、理由がなければ無理である。
「他国に対する武力攻撃」であり、「我が国に対する武力攻撃」でないにもかかわらず、「他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置」としている点は、9条の趣旨に違反するものである。なぜならば、9条は「自国民の利益」の実現のためや、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として日本国の統治権が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを禁ずることを意図して設けられた規定であり、「他国に対する武力攻撃」が発生した事態であり、未だ他国の間で武力紛争が発生しただけであるにもかかわらず、それを理由として「我が国の存立」や「国民を守る」ことを理由とする「武力の行使」に踏み切ることが可能となるのであれば、政府が「他国に対する武力攻撃」が発生した段階で9条の規範性を通過していないにもかかわらず、「自国民の利益」の実現などを意図して自国都合による「武力の行使」に踏み切ることが可能となってしまうのであり、まさに9条が禁ずる内容に抵触して違憲となるからである。
仮に、「他国に対する武力攻撃」がなく、「我が国の存立」や「国民を守る」との理由のみで「武力の行使」を行った場合、当然、9条に抵触して違憲となる。しかし、この要件に加えて、「他国に対する武力攻撃」が発生し、それがその影響によるものであると自国の主観的な政治判断によって評価を受けると、たちまち「存立危機事態」を認定して「武力の行使」を行うことを可能とするものである。これは、政治判断によって「自国民の利益」の実現などを意図して自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを禁じた9条の趣旨に反するものである。
「他国に対する武力攻撃」が発生した事態であるにもかかわらず、「我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置」と称する「武力の行使」を可能とするものであるから、政府の主観的な判断によって自国都合の「武力の行使」となることが排除されていないものである。
(もちろん、『他国に対する武力攻撃』に対して、それを『排除』してその他国を防衛するために『武力の行使』を行うものであるとしても、それを実施する実力組織を『陸海空軍その他の戦力』と異なるものであると説明することはできず、2項前段の禁じる『陸海空軍その他の戦力』に抵触して違憲となる。)
「やむを得ない自衛の措置」との文言もあるが、政治判断によって「やむを得ない」と判断して開戦に踏み切ることは、歴史上幾度も経験するところであり、それを防ぐために9条が設けられたのである。しかし、それでも13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の趣旨を考えると、9条が無抵抗を強制する規定と考えることはできないとして、法の体系的整合性を保ちながら、その9条の制約の趣旨を生かした形で、9条に抵触しない旨を示す基準となる規範を引くことによって、9条の規範性を見出す解釈が求められる。
そこで引かれた基準こそが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範であり、「あくまで外国の武力攻撃によつて」という文言によって「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合という事態の性質面に客観性を見出すことで、政府が「武力の行使」に踏み切る判断に自由裁量を認めない点で9条の趣旨が生かされており、9条の規範性が保たれていると考え、9条に抵触せずに合憲となると解されているのである。
そこに、「他国に対する武力攻撃」が発生しただけで、未だ「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず、「我が国の存立」や「国民を守る」などの事態を数量的に政治判断することが可能となる曖昧な要件を許容することは、9条が「自国民の利益」の実現や、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを禁じた趣旨に明らかに反するものである。
「一部、限定された場合において」との文言もあるが、この「一部」や「限定」というものが、自己都合や政治判断が可能である以上、規範性を有した形で限定されているものではない。(そもそも、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分からも逸脱しているという事情もある。)
「認めるにとどまるものである。」との文言もあるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分から逸脱している要件を認めている以上、「とどまるもの」かどうかなどという評価は、合憲性を主張する論拠にはならない。
「これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれている。」と述べているが、「これまでの政府の憲法解釈」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を逸脱しており、「論理的整合性」は保たれていない。これにより、「法の解釈が客観的である」という価値を損なう解釈をしているものであるから、「法的安定性」も失わせている。結果として、「論理的整合性及び法的安定性」は保たれておらず、この主張は事実に反する。
よって、「存立危機事態」は9条の規範性を損なう要件であるから、「存立危機事態」での「武力の行使」は、9条に抵触し違憲となる。
〇 政府答弁
【質問】
「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について」に関する質問主意書 平成30年6月27日
【答弁】
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四から六までについて
新三要件は、その文言からすると国際関係において一切の実力の行使を禁じているかのように見える憲法第九条の下でも、例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和四十七年十月十四日に参議院決算委員会に対し政府が提出した資料「集団的自衛権と憲法との関係」で示された政府見解の基本的な論理を維持した上で、同条の解釈の前提となる我が国を取り巻く安全保障環境の変化に照らして慎重に検討した結果、この基本的な論理に当てはまる例外的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合もこれに当てはまるとしたものであり、この結論は、「法律論」である憲法の解釈としてお示ししたものである。
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「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について」に関する質問に対する答弁書 平成30年7月6日
「法律論」として示したとしているが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の中には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、「基本的な論理」と称している部分の枠の中から「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という、「他国に対する武力攻撃」や、「我が国に対する武力攻撃」の発生していない段階での我が国の存立が脅かされることなどを理由とする「武力の行使」を可能とするような基準を読み取ることはできない。そのため、「これに当てはまるとしたもの」との説明は、論理的に意味が通じないため、「法律論」として成り立っていない。
これも、「基本的な論理」に「当てはまるとしたもの」という、「結論」のみを述べようとしたものであり、なぜ「当てはまる」と判断できるのか、その論拠が示されていないものである。
「政策論」上の必要性に応じて「法律論」上の解釈変更を行うことは可能であるが、もちろんそれは違憲・違法にならない方法で行う必要がある。そこには「適正手続きの保障(デュー・プロセス・オブ・ロー)」、「法律による行政の原理」や「法律の留保の原則」の趣旨、法的安定性、論理的整合性、体系的整合性が求められる。
ここで示されている内容は、下記のようにまとめられる。
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政策論:「同条の解釈の前提となる我が国を取り巻く安全保障環境の変化に照らして慎重に検討した結果」
法律論:「この基本的な論理に当てはまる例外的な場合として、……これまでの認識を改め、……これに当てはまるとしたものであり、この結論は、『法律論』である憲法の解釈としてお示ししたものである。」
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「政策論」となっているのは、変更の必要性の話である。ここには、「基本的な論理」と称している部分の中に「存立危機事態」の要件が含まれることを説明する「法律論」としての論拠は存在していない。
しかし、その後「これに当てはまるとしたもの」としている点は、「法律論」としての理由のないままに、結論のみを述べようとしたものである。
なぜならば、「これまでの認識を改めた」ことが「政策論」上の必要性によるものであることは読み取ることができるが、「存立危機事態」の要件が「基本的な論理」と称している部分に適合している理由を示したものではないからである。
このことから、2014年7月1日閣議決定は、「法律論」上の理由となる論拠を無視した不正な手続きによるものであり、適正手続きを怠った違法な解釈ということができる。結果として2014年7月1日閣議決定が定めようとしている新三要件の「存立危機事態」の要件は、2014年7月1日閣議決定の中でも前提として設定している9条解釈の枠組みである1972年(昭和47年)見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範を超えており、「存立危機事態」の要件に基づいて行われる「武力の行使」は、9条に抵触して違憲となる。
〇 公明党
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そのため、9条の下で許容されるのは専守防衛のための武力行使に限定され、それを超える、もっぱら他国を防衛するための武力行使、いわゆるフルサイズの集団的自衛権の行使は許されません。
平和安全法制は、他国の武力攻撃であっても、日本が武力攻撃を受けたと同様の被害が及ぶことが明らかな場合を存立危機事態と定め、自衛の措置を認めました。これは専守防衛の範囲内であり、「憲法違反の集団的自衛権の行使を認めた」との批判は的外れです。
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平和安全法制 Q&A (下線は筆者)
「専守防衛の範囲内」としているが、「基本的な論理」の範囲内であるかどうかについては説明していない。専守防衛とは、政治的な方針を示した用語であり、法律用語ではない。
【参考】第197回 [衆] 安全保障委員会 2018/11/13
【参考】第197回 [衆] 安全保障委員会 2018/11/29
公明党は「存立危機事態」の要件について「専守防衛の範囲内」と説明しているが、誤りである。「存立危機事態」の要件は、「専守防衛」の定義である「相手から武力攻撃を受けたときに初めて防衛力を行使し」に該当しないからである。
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1 専守防衛
専守防衛とは、相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢をいう。
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3 基本政策 1 専守防衛 平成30年版
防衛白書 (下線・太字は筆者)
【参考】第七章 平和憲法「専守防衛」の改変 ──
道理も日本語も崩壊する安保法制 PDF
(第七章 平和憲法「専守防衛」の改変 ── 道理も日本語も崩壊する安保法制 PDF)
<その他の資料>
衆院予算委 北側副代表の質疑要旨 2014年7月15日
新3要件は憲法の枠内 3学者の「違憲表明」に反論 衆院審査会で北側副代表ら 2015年6月12日
〇 公明党 北側一雄
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安全保障環境が厳しさを増す中、政府見解の根幹部分と論理的な整合性を保ちつつ、憲法9条の下で自衛の措置がどこまで許されるかを明らかにしたのが自衛の措置の新3要件です。
これにより、他国防衛を認めず、専守防衛を堅持するための厳格な歯止めが掛けられました。新3要件は従来の政府の基本的な論理を踏まえたものであり、内閣法制局も憲法に適合していると明確に答弁しています。
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憲法9条の枠内で安全守る (下線・太字は筆者)
「政府見解の根幹部分と論理的な整合性を保ちつつ」としているが、新三要件(2014年7月1日閣議決定で追加された存立危機事態での武力の行使を含む)が「政府見解の根幹部分と論理的な整合性をどのように保っているかについては説明していない。
「新三要件は従来の政府の基本的な論理を踏まえたもの」としているが、踏まえたつもりであっても、どのような論理で整合性が保たれているのかどうかについては説明しておらず、結論のみを述べようとしたものである。
「内閣法制局も憲法に適合していると明確に答弁してい」るとしているが、「基本的な論理」との整合性について、どのように整合しているのかやはり明確な理由を述べていない。また、内閣法制局長官「横畠裕介」の論拠の不備については、当サイト「基本的な論理2」で詳しく解説している。
「専守防衛を維持するための厳格な歯止めが掛けられました」としているが、「存立危機事態」の要件は9条の規範性を損なっており、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。そのため、「専守防衛」の定義である「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」の「憲法の精神に則った」を満たしておらず、「専守防衛」は維持されていない。「専守防衛を維持するため」との部分は事実に反していると考えられる。
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3年前に平安法をつくったときにさんざん議論をして、武力行使のための3要件を明記した。これは極めて限定的なもの。振り返ってみると、あの時つくっておいて本当に良かったと思う。
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憲法改正、期限ありきではなく国会での議論・国民の理解が大切 公明党 北側一雄副代表 2018年11月16日
「極めて限定的なもの」との表現もあるが、限定的であるか否かは違憲性の判断に影響はない。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合していれば合憲、適合しなければ違憲となるのであり、「限定的」との言葉の表現のみによって9条の規範性を踏み越えることはできないからである。存立危機事態の要件が「基本的な論理」と整合性を保っているかのように話しているが、存立危機事態の要件がこの中に含まれるとの論旨は、9条の規範性を損ない、9条という規定が存立している意味を無視するものである。9条は、「限定的」などという政府の恣意的な判断や政治的な都合によって、政府が武力行使を行うことを禁ずる趣旨であるから、「限定的なもの」との表現を合憲論拠とすることはできない。
〇 公明党 伊佐進一
シリーズ 平和安全法制② 「合憲か違憲か?」(専門レベル:中) 2015.06.17
「存立危機事態」での「武力の行使」の要件が、1972年(昭和47年)政府見解に適合しているかどうかについて説明していない。また、たとえ1972年(昭和47年)政府見解に適合すると考えた場合であっても、「存立危機事態」での「武力の行使」の要件が9条の規範性を損なうこととなることについて、触れていない。
〇 公明党 斉藤鉄夫
【政界徒然草】参院選向け存在感増す公明党 憲法改正、消費税対策で議論リード 2018.11.21
「安保関連法によって『自衛の措置』を発動する際の限界が明確になり、9条改正は必要なくなった」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」の要件は、曖昧不明確なものである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」にも適合しておらず、違憲である。「限界が明確になり」との主張は誤りである。
〇 自民党 船田元
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その典型が武力行使の3要件であり、「自衛のための必要最小限の実力組織は戦力にはあたらない」というものである。3年前の平和安全法制整備における新3要件も、この範疇(はんちゅう)を飛び出していない。
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9条2項存置、当面この方法しかない 船田元・自民党憲法改正推進本部長代行 2018年6月13日
9条改正と民主主義 2018.05.21
「この範疇を飛び出していない」としているが、政府解釈の前提となっている「基本的な論理」にどのように適合しているのかを説明していない。これも、「飛び出していない」との結論のみを述べようとしたものであり、理由が存在しない。
論理の飛躍、理由のない結論は、法解釈として許容できるものではないと考えられる。
〇 自民党 菅義偉
合憲?違憲? 安保法制関連法案、きょうも議論白熱 2015/06/19
「堂々と崩れないと考えています。堂々と、このことを自信を持ってですね。枠内であるという形のなかで、(法案を)提出をさせて頂いているわけでありますから」と主張しているが、どのように枠内であるのか説明していない。これも、「自信を持って」などと本人が自信を持っていたとしても、法論理は自信の有無で結論が左右されるわけではない。理由がなければ、論理の飛躍は不正となり、許容できないのである。
〇 自民党 中谷元
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3年前の平和安全法制の審議の際、私は防衛相だった。合憲で、しかも今までの解釈の範囲内の法律だったが、「戦争法案」、「憲法違反」と大騒ぎだった。
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「自衛隊違憲論に終止符を」中谷元衆議院議員【憲法改正論】 2018/7/10
「今までの解釈の範囲内の法律だった」と述べているが、その今までの政府解釈である「基本的な論理」にどのように適合しているのかやはり説明していない。これも、「今までの解釈の範囲内の法律だった」と、結論のみを述べて正当化を試みているものであり、理由が存在していない。
また、「範囲内の法律だった」の表現に見られる『過去形』で示そうとしていることも、2014年7月1日閣議決定に見られる、「従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至りました。 」と『過去形』で示そうとしていることと一致している。
これは、論者にとってこの論点を突かれることが一番の弱みであり、「それ以上に追及されたくない」との思惑や焦りが出ているところであると考えられる。「過去の事実として確定させることで流してしまおう」との意図が感じられ、論者自身が、論理の弱点(不正)であることを自覚していると考えられるのである。
防衛相として、自覚的に論理を捻じ曲げた行為は、故意にあたると考えられる。行政裁量を逸脱し、刑法上も職権乱用罪などが適用される可能性が考えられる。この解釈により国民等に犠牲が出た場合、国家賠償上も問題となり得る。当時の大臣個人への求償権も行使される可能性が考えられるのではないか。
〇 自民党 河野太郎
集団的自衛権を考える 2015.07.15
「つまり集団的自衛権の中にも必要最小限の自衛権の行使にあたるものがあるというわけです。」との記載があるが、論者の言う「従来の政府の憲法解釈を基本的に踏まえ」ると、そのようなものは存在しておらず、誤りである。
従来の政府の憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中で用いられた文言であることから、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、これを満たさない場合である国際法上の「集団的自衛権の行使」として行われる日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行う可能性が含まれているとは読み取ることはできず、「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるはずがない。そのため、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」した事態が含まれているとは読み取ることができない。論者は、「あたるものがあるというわけです。」としているが、あたるものがある理由については説明しておらず、根拠なく結論のみを述べようとしたものであり、誤りである。
「自衛のための必要最小限の武力行使には限定された集団的自衛権も含まれる場合があるという考え方に、私も賛成します。」との記載があるが、「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)を意味しており、この第一要件には「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件があることから、これを満たさない場合である「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が「自衛のための必要最小限度」の中に含まれることはない。
「河野太郎」の論拠の不備については、「集団的自衛権の合憲性の誤解3」でも解説している。
このように、合憲とする論者は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分が維持されているとする理由(判断過程)について、一つも説明することができていないのである。「維持されている」「範囲内である」「範疇を飛び出していない。」「整合性が保たれている。」「枠内で導いたものである。」などと、結論のみを主張することに終始し、その結論に至る『過程』が一切存在しないのである。
この状態を窃盗罪で表現してみよう。
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① 窃盗罪に該当すれば、10年以下の懲役刑となります。
これが「基本的な論理」です。
この枠組みは今後も維持されなければなりません。
② しかし、凶悪な犯罪を厳しく処罰せねばならないこともあります。
被告人は窃盗をしましたが、事態の重大性に鑑みて、死刑も「基本的な論理」の範囲内であると判断するに至りました。
③ よって、被告人は死刑です。
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ここでの「基本的な論理」としているのは、「窃盗は、10年以下の懲役刑」である。被告人が窃盗であれば、「死刑」という結論は絶対に出てくる余地はない。これが法治主義の貫徹された論理である。
しかし、2014年7月1日閣議決定は、この場面で結論に「死刑」が出てきたようなものである。「基本的な論理」として最初に示された範囲があるにもかかわらず、その後、結論のみを『判断するに至った』と過去形で表現することによって、論理の逸脱を覆い隠そうとしているのである。
被告人の死刑は、『基本的な論理』の「範囲内である。」「維持されている。」「枠内で導いたものである。」「範疇を飛び出していない。」「整合性が保たれている。」などと主張しているようなものである。
理由が繋がっていないにもかかわらず、結論のみを述べたり、過去形で述べることによって、理由部分(判断過程)の追求を逃れようとしている状態であると考えられるのである。
法治主義である以上は、前提として設定している「基本的な論理」の部分からは逸脱してはならない。逸脱したならば、それは不正な法解釈であり、違法である。しかし、「存立危機事態」での「武力の行使」(日本独自に限定的な集団的自衛権の行使と称している部分)の合憲論者は、「基本的な論理」から逸脱していないと言うばかりであり、どのように逸脱していないのか、一つも説明していないのである。
1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合にしか「自衛の措置」をとってはならないという枠組みを示し、その「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を採用する場合にもこの枠組みに縛られる旨を示すものである。
それにもかかわらず、2014年7月1日閣議決定の内容は、この「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしながらも、「他国に対する武力攻撃」が発生し、それによって我が国に対する影響があるならぱ、「我が国に対する武力攻撃」が発生していなくても「武力の行使」を行うことができるとする結論を主張しようとするものとなっている。
これは、文面上の意味が論理的に繋がっておらず、適正な法解釈と呼ぶには無理がある。つまり、解釈手続き上の不正であり、違法である。
こちらは明確な論理の過程を示しているわけではないが、法学的には正確な見解である。
〇 国民民主党 玉木雄一郎
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現実に施行されていますが、軍事的公権力の行使として広すぎるところは、憲法違反の疑いがあり、既存の憲法解釈からはみ出ていると思われるところは、できないように限定をかける具体的な改正案を提出していきたい。
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「高速料金無料化」にもう一度挑戦したい 「国民民主党」が目指すもの:後編 2018.7.11
1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分(ここでいう既存の憲法解釈)からはみ出たことにより、9条で禁じられた軍事的公権力の行使にあたり違憲となる部分を是正しようとするものである。
国会会議録ではどう記録されているか
1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分について、国会会議録ではどのように記録されているのか確認する。下記は、国会会議録の検索で「基本的な論理」や「基本的論理」と検索したものである。すべてではないが、この単語が頻出した会や、重要な記録を取り上げた。【動画】
下記のページを開き、ブラウザ上の検索機能(Ctrl+F)で「基本的な論理」「基本的論理」「基本論理」「基本的な法理」などと検索すると、国会での質問と答弁から当該箇所を確認することができる。
第186回国会 衆議院 予算委員会 第18号 平成26年7月14日
第187回国会 参議院 外交防衛委員会 第2号 平成26年10月16日
第187回国会 参議院 外交防衛委員会 第6号 平成26年11月6日
第189回国会 衆議院 予算委員会 第14号 平成27年3月5日
第189回国会 参議院 予算委員会 第10号 平成27年3月20日
第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第3号 平成27年3月24日
第189回国会 衆議院 外務委員会 第2号 平成27年3月25日
第189回国会 衆議院 外務委員会 第4号 平成27年4月1日
第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第5号 平成27年4月2日
第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第6号 平成27年4月7日 ◆
第189回国会 参議院 決算委員会 第6号 平成27年4月20日
第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第10号 平成27年4月23日
第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第12号 平成27年5月12日
第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第14号 平成27年5月19日
第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第3号 平成27年5月27日
第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第6号 平成27年6月1日
第189回国会 衆議院 憲法審査会 第3号 平成27年6月4日 ◆
第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第7号 平成27年6月5日
第189回国会 衆議院 決算行政監視委員会 第4号 平成27年6月8日
第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第20号 平成27年6月9日 【頻出】
第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第8号 平成27年6月10日
第189回国会 衆議院 憲法審査会 第4号 平成27年6月11日
第189回国会 参議院 外交防衛委員会 第21号 平成27年6月11日
第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第10号 平成27年6月15日
第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第12号 平成27年6月19日
第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第13号 平成27年6月22日 ◆
第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第14号 平成27年6月26日
第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第16号 平成27年7月1日
第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第6号 平成27年8月3日 【頻出】
第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第7号 平成27年8月4日
第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第9号 平成27年8月11日
第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第11号 平成27年8月21日
第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第12号 平成27年8月25日
第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第16号 平成27年9月4日
第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第17号 平成27年9月8日 ◆
第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第19号 平成27年9月11日
第190回国会 参議院 予算委員会 第2号 平成28年1月15日
第190回国会 衆議院 予算委員会 第6号 平成28年2月3日
第190回国会 参議院 予算委員会 第19号 平成28年3月28日
第192回国会 参議院 予算委員会 第3号 平成28年10月11日
第192回国会 参議院 予算委員会 第1号 平成28年10月5日
第192回国会 参議院 外交防衛委員会 第2号 平成28年10月20日
第192回国会 衆議院 法務委員会 第3号 平成28年10月21日 ◆
第192回国会 参議院 憲法審査会 第2号 平成28年11月16日 ◆
第192回国会 参議院 外交防衛委員会 第7号 平成28年12月8日
第193回国会 参議院 予算委員会 第9号 平成29年3月8日
第193回国会 参議院 本会議 第12号 平成29年3月31日
第196回国会 参議院 決算委員会 第1号 平成30年4月9日
第193回国会 参議院 決算委員会 第8号 平成29年5月15日 ◆
第196回国会 参議院 本会議 第24号 平成30年6月1日 ◆
第193回国会 参議院 外交防衛委員会 第27号 平成29年6月15日 ◆
第195回国会 参議院 外交防衛委員会 第2号 平成29年12月5日 ◆
上記に挙げた中で「◆」を付けたもの以外は、当サイト下記のいずれかのページで詳しく解説している。
「基本的な論理」と称している部分については、国会会議録の他にも、衆議院・参議院のホームページに蓄えられている「質問主意書」や「答弁書」を検索して見つけることができる。
学び直しの可能性
法学の議論において、解釈を誤ったり誤解していた人は、「法律家共同体」などと表現されることのある「学問上の整合性を突き詰めることを得意としている人たち」に追いやられ、疎外されてしまったような気持ちを抱いてしまうかもしれません。
何か、その疎外感による心理が、法学上の議論を歪めてしまうような主張に繋がっていることがあるように思います。
しかし、法解釈を誤っていた人も、あなたが有権解釈者でないのならば、まだ大丈夫です。「学問上の整合性を突き詰める人たち(法律家共同体)」は、学問上の整合性にしか興味はありません。何度でもチャンスはあります。
法律家は、誤解を修正し、より妥当な論理と思われるものが見つかったならば、たちまちそれを取り入れる準備はできている人たちです。
(もし、そうでなかったら、それは、自分の立場に合わせて学問上の整合性を歪めたこととなりますので、法律家として失格です。もしそんな法律家がいたら、そんな人は相手にする必要はありません。そんな法律家は、法律家共同体の中でも敵です。法律家共同体の外側にいる人だからといって、学問上の整合性の基準が変わるわけではありません。ご安心ください。)
法律家共同体は、たとえ誰が主張しようとも、主張の内容にしか興味はありません。内容の妥当性がすべてです。そのため、学問上の整合性の高い主張だけを、抽出していく議論を重視しましょう。
誤解していた人も、大丈夫です。法律家共同体から敵視されているのは、誤解した論理です。単に、主張の中身の整合性が十分でないことを指摘されているだけです。人として嫌がられることはあるかもしれませんが、学問上の論理の精度にしか、意味はありません。誰が言おうとも、学問上の整合性の基準が変わるわけではありません。
誤解が解けたならば、美しい法学の法則が浮き出てくるはずです。誤解していた人も、何度でも、学び直していきましょう。筆者もそのような心づもりで取り組んでおります。
ただ、「この表現は分かりにくい。」「この条文は、誤解を生みやすい。」「もっと、分かりやすい教科書を出版してほしい。」などの要望は、どんどん出していきましょう。学問上の整合性の高い議論に繋がっていくような要望は、どんどん伝えていきましょう。きっと、その思いが、法学の世界をより分かりやすく整った姿に変えていく力になるはずです。
筆者も、より情報の網羅性が高く、完全で、それでいて分かりやすく整った法学の世界が生み出されていくことを願っております。
憲法学者「木村草太」の言葉を紹介します。
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だから、法律家は嫌われ易いんです。法律を解釈するとかいって、まるで自分が法律であるかのように偉そうにしているやつ、既得権を持ったいけ好かないやつというふうに見られることが多いわけです。実際、そういう法律家もたくさんいますが――そういう法律家を抹殺するのが私の使命でありますが(笑)、その話はちょっと横に置いておきます。
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【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(4)】――二つの憲法の対立 2014年10月31日
しかし、もし有権解釈者である場合には、「学び直し」などという甘いことを言うことはできません。その仕事には、法律上の責任を伴っています。有権解釈者であるならば、謝罪と賠償に人生を捧げることとなる可能性について、自覚しておくとよいでしょう。
刑法犯でも同じですが、事実を早く認めたほうが、減刑の可能性は高くなります。頑なになって隠したり、逃れたりすればするほど、情状酌量の余地が失われていくものと考えられます。そのようなことも、考慮して
おいた方がよいものと思われます。
<理解の補強>
その7 有権解釈とは何なのか 2017/7/3
『憲法解釈権力』 2020年4月28日
「憲法解釈権力」書評 内閣・首相らの「遵守の型」追究 2020.05.02