集団的自衛権の合憲性の誤解 4





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防衛白書

〇 平成30年版 防衛白書


<解説>戦争に巻き込まれるリスクについて 平成30年版 防衛白書


 「わが国が憲法第9条のもとで許容される自衛の措置として『武力の行使』を行うには、大変厳格な要件である新三要件を満たさなければなりません。」との記載があるが、誤りである。

 まず、9条の下で許容される「自衛の措置」としての「武力の行使」の範囲を示したものは、1972年(昭和47年)政府見解である。この「自衛の措置」の限界を記した規範で部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。なぜならば、第二段落で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界を超える」としていることを受けた文言であり、ここに「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはないからである。そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は含まれず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠の中に「存立危機事態」での「武力の行使」が含まれることはない。そのため、「大変厳格な要件」などという文言を使っても、「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触して違憲であることは変わらず、新三要件の「存立危機事態」を満たしても「武力の行使」を行うことはできない。新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」が9条の下で許容されるかのように説明している点が誤りである。


 「世界的にも例のない非常に厳しい要件であり」との説明があるが、まず、9条のような規定を憲法で定めている国は世界的に例がないのである。そして、その9条解釈における制約の範囲を示したものが1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)なのである。そのため、「世界的にも例のない非常に厳しい要件」であるか否かに関わらず、その要件が9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に適合するか否かが論点である。


 その後、「憲法上の明確な歯止めとなっています」との説明であるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分については、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは政府の恣意性を排除することのできる受動的・客観的に明確な「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合に基準を設け、憲法上の明確な歯止めとしたものである。しかし、「存立危機事態」の要件は、この受動的・客観的に明白な「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合という基準ではなく、未だ「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず、「他国に対する武力攻撃」が発生した時点で実質的には政府の裁量判断によって「武力の行使」を行うことを許容するものとなっている。これは、「憲法上の明確な歯止めとなっています」とはいうことができず、政府の恣意的な都合によって「武力の行使」が行われることを排除するために設けられた9条の趣旨に抵触して違憲である。


 「実際に『武力の行使』を行うため、自衛隊に防衛出動を命ずるに際しては、原則事前に国会の承認を求めることとなります。」との記述もあるが、「存立危機事態」の要件が違憲であるのであるから、国会の承認があろうとなかろうと、違憲であることは変わらない。


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 「存立危機事態」における武力行使や「国際平和共同対処事態」における支援活動につき、「国会の事前承認」がうたわれ、あたかもそれが歯止めとなるかのように与党内で宣伝されているが、政府による違憲な行為(集団的自衛権の行使)について、それに承認を与えるような権限は国会に憲法上与えられておらず、国会が事前に承認すること自体が違憲であるといわざるを得ないし、国会の事前承認によって違憲な政府の行為から違憲性が取り除かれるわけではない。
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右崎正博(独協大学法科大学院)安保法案学者アンケート 2015年7月17日

 「憲法と国会が制定した法律に従って自衛隊は活動を行うことになるので、自衛隊による『武力の行使』が際限なく広がり、わが国の意に反して他国の戦争に巻き込まれるということは決してありません。」との記載があるが、切り分けて考える必要がある。

 まず、「憲法と国会が制定した法律に従って自衛隊は活動を行うことになる」との記載であるが、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合しない「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲であり、これを実施することは「憲法に従って自衛隊は活動を行うことになる」とは言えない。

 次に、「国会が制定した法律」であるが、国会が制定した法律であろうとも、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」が9条に抵触して違憲であることは変わらない。

 「自衛隊による『武力の行使』が際限なく広がり、~決してありません。」との記載であるが、憲法9条は恣意的な判断によって国権の発動による「武力の行使」が行われることを制約しようとしており、国会が「武力の行使」を承認することをも制約する規範であるから、その規範を踏み越えたならば違憲となる。「際限なく広が」るかどうかは関係なく、9条の規定が制約する規範を超えたならば違憲である。

 「『武力の行使』が際限なく広がり、わが国の意に反して他国の戦争に巻き込まれるということは決してありません。」との記載であるが、9条の規定があたかも政府と国会に対する努力義務を示したものと考え、規範性を有しないかのように考えている点が誤りである。また、「我が国の意に反して」に含まれる「わが国」とは、政府と国会であるかのような前提で説明しようとしているが、「わが国の意」とは、憲法なのであって、憲法に違反する行為はたとえ政府と国会の判断であっても、「わが国の意」ではないのである。

 これらの説明は、新三要件の「存立危機事態」による「武力の行使」が合憲であることを裏付けることはできない。



<解説>平和安全法制と憲法の関係について 平成30年版 防衛白書


 □「との昭和47年の政府見解で示した憲法解釈の基本的論理は全く変わっていません。」との記載があるが、二つの誤りがある。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分とは、下記の部分である。


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 憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第 13 条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。
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昭和47年政府見解(タイプ打ち国会提出版) PDF

 (昭和47年政府見解(タイプ打ち国会提出版) PDF)


 この防衛白書の文言は、2014年7月1日閣議決定の文言を抜き出したものと思われるが、2014年7月1日閣議決定の内容は1972年(昭和47年)政府見解の文面を正確に抜き出しておらず、内容を改変するものとなっているため注意が必要である。いくつかの文言を切り捨てたり、「基本的な論理」と称している部分では「自衛の措置」の限界の規範しか述べていないにもかかわらず、「武力の行使」まで許容しているかのように説明している点で誤った内容である。


   【参考】7.1閣議決定における「平和主義」等の切り捨てによる「論理のすり替え」  PDF

    (7.1閣議決定における「平和主義」等の切り捨てによる「論理のすり替え」  PDF)


 □「また、新三要件の下で認められる『武力の行使』は、砂川事件に関する最高裁判決の範囲内です。」との記載があるが、誤りである。砂川判決は「自衛のための措置」として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を述べたにとどまり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能か否かについては何も述べていない。もし何も述べていないことを理由に「砂川事件に関する最高裁判決の範囲内です。」と考えることができるのであれば、9条が存在するにもかかわらず砂川判決では何も述べていない「先に攻撃(先制攻撃)」についても同様に「砂川事件に関する最高裁判決の範囲内です。」と主張することができてしまうのであり、法解釈として成り立たない。


 □砂川判決の「自衛のための措置」を述べた部分を抜き出しそうとしているようであるが、正確に抜き出したものではない。特に、意味は同じであるが、砂川判決が「自衛のための措置」としているのに対して、防衛白書では「自衛の措置」としており、省略が見られる。


〇 防衛白書
「我が国が、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとりうることは、国家固有の機能の行使として、当然のことと言わなければならない」


〇 砂川判決
「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」


 砂川判決が「自衛ための措置」について触れている部分を紹介した上で、「つまり、個別的自衛権、集団的自衛権の区別をつけずに、我が国が、自衛権を有することに言及した上で、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な『自衛の措置』を取り得ることを認めたものであると考えられます。」としているが、誤りである。
 まず、砂川判決が「自衛権」について触れた部分は、「同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、」の部分である。そのため、砂川判決の「自衛のための措置」を紹介した上で「個別的自衛権、集団的自衛権の区別をつけずに、」などと、「自衛権」を持ち出していることが誤りである。また、「自衛権」と表現される場合、それは国際法一般論としての「自衛権」を意味する場合や、「個別的自衛権」のみを意味する場合、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の両方の意味を指す場合があり、特定できるわけではない。


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 砂川事件判決に言う「自衛権」は、武力の行使を伴わないものを含む広義の自衛権である。そのことは、判決理由が国連の集団安全保障への参加や日米安保条約の締結も自衛の措置の一つととらえていることから明らかである。
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宮地基(明治学院大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日


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 砂川事件最高裁判決での自衛権は、国際連合憲章などを踏まえた国際法上の一般論に触れただけであって、日本国憲法下における自衛権「行使」について、云々するとは解せない。
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日笠完治(駒沢大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日


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 「自衛権」については、その用いられる文脈により、個別的自衛権と集団的自衛権の両者を包括する概念として用いられる場合もあれば、専ら個別的自衛権のみを指して用いられる場合もあると承知している。
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内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日


 「自衛権を有することに言及した上で、」との部分について、日本国は国家承認を受けていることから国際法上の法主体として認められているため、「自衛権」の適用を受ける地位有していることはその通りである。しかし、「個別的自衛権、集団的自衛権の区別をつけずに、」として「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を挙げているが、これは国連憲章51条の違法性阻却事由の『権利』の区分であり、この『権利』が行使される場合とは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」による違法性を阻却することであるから通常「武力の行使」が行われることとなる。しかし、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないのであるから、あたかも「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の行使としての「武力の行使」を行うことが砂川判決によって裏付けられるかのように論じようとしている部分は誤りである。


 □「この新三要件が過不足なく反映されている平和安全法制は、従来から政府が示してきた憲法解釈の基本的論理を維持したものであるとともに、憲法の解釈を最終的に確定する機能を有する唯一の機関である最高裁判所の出した砂川判決の範囲内であり、憲法に合致したものです。」との説明があるが、誤りである。
 「従来から政府が示してきた憲法解釈の基本的論理」であるが、これは1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分であるが、ここには「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、ここに新三要件の「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は含まれない。そのため、「基本的な論理」と称している部分に新三要件の「存立危機事態」の要件は当てはまらず、「従来から政府が示してきた憲法解釈の基本的論理を維持したものである」と、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」が「基本的な論理」と称している部分に当てはまるかのように説明している部分が誤りである。
 また、「砂川判決の範囲内であり、憲法に合致したものです。」との部分についても、砂川判決は「自衛のための措置」として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を述べたにとどまり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能か否かについては何も述べておらず、新三要件が「武力の行使」を行う措置であるにもかかわらず、「砂が判決の範囲内」と述べることは誤りである。もし何も述べていないにもかかわらず「砂川判決の範囲内」と主張することができるのであれば、9条が存在するにもかかわらず「先に攻撃(先制攻撃)」についても「砂川判決の範囲内」と述べることができてしまうのであり、法解釈として成り立たない。砂川判決が何も述べていない部分であるにもかかわらず砂川判決を根拠として「憲法に合致したもの」と主張している部分も誤りである。
 また、憲法9条の解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」をすべて違憲としており、新三要件の「存立危機事態」についてはこれを満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠を外れ、9条に抵触して違憲となる。これにより、「憲法に合致したものです。」との主張も誤りである。

 

首相官邸

〇 首相官邸


「なぜ」、「いま」、平和安全法制か? (最終更新日:平成30年5月2日)


  【8.平和安全法制と憲法】

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 平和安全法制の国会審議では、「この法案は日本国憲法に違反するのではないか」という質問が最も多く出されました。
 しかし、政府はそもそも憲法に根拠をもって存在するものであり、政府が国会に、憲法に違反した法案を提出することは許されません。
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 との記載があるが、政府が提出する「平和安全法制」の「法案」が「日本国憲法に違反するのではないか」との疑いがかけられている問題に対して、「しかし、」と「そもそも」の文言を使い、「政府が国会に、憲法に違反した法案を提出することは許され」ないから、憲法に違反しないと論じることは、論証として成立しない。

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 これまで最高裁判所が自衛権について考え方を示した判決は、「砂川事件」判決だけです。そこでは、憲法前文にある「国民の平和的生存権」も根拠として、憲法第9条によって日本固有の自衛権は否定されたものではない、としています。その上で、「我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然」であるとしました。
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 との記載があるが、誤りである。

 まず、砂川判決についての「憲法前文にある『国民の平和的生存権』も根拠として、憲法第9条によって日本固有の自衛権は否定されたものではない、としています。」との記載があるが、砂川判決は、9条の下でも「自衛権」という国際法上の『権利』が否定されたわけではないことの記載した後に、前文にて「平和のうちに生存する権利を有すること」を確認しており、「平和的生存権」を理由に「自衛権」が否定されないと説明しているかのように論じることは誤りである。


砂川判決
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かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。
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 また、この説明では、「平和的生存権」を根拠として「自衛権は否定されたものではない」と論じているが、「自衛権」という国際法上の『権利』は、国家承認を受けて国際法上の法主体として認められることによって獲得するものであり、国民の「平和的生存権」とは関係がない。日本国が「自衛権」の適用を受ける地位を有していることは、主権国家として当然なのであり、国民の「平和的生存権」を持ち出すことは全くの誤りである。

 この説明は国際法上の『権利(right)』である「自衛権」と、日本国の統治権の『権限(power)』による行為である「自衛のための措置」の違いが区別ができていない。


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 平和安全法制の審議では、「日本国が自衛権をもつ」という中に集団的自衛権の行使まで認められるか?が大きな論点になりました。
 「自衛権」には、個別的自衛権と集団的自衛権が含まれます。国連憲章には、第51条で国連加盟国に個別的又は集団的自衛の固有の権利が定められていますし、日米安保条約序文にも「(日米)両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認(する)」、と規定されています。
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 との記載があるが、認識を整理する必要がある。

 まず、「『日本国が自衛権をもつ』という中に集団的自衛権の行使まで認められるか?」との部分であるが、日本国は国際法上の法主体である国家として認められており、「自衛権」の適用を受ける地位を有していることは確かである。また、国連憲章に加盟していることから、国連憲章51条の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の両方の適用を受ける地位を有している。これについては、従来より1972年(昭和47年)政府見解の第一段落で「わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。」と述べているし、政府答弁でも「我が国が主権国家である以上、国際法上は集団的自衛権を有していることは当然でございますが、(平成16年1月26日)」と述べている通りである。しかし、「集団的自衛権の行使」となると、これは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって問われる違法性を阻却することを意味するのであり、実質的には国家の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われる状態を指す。そのため、国際法上「日本国が自衛権をもつ」としても、これを「行使」できるか否かは日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行うことができる範囲に限られることとなる。この違いを前提として「自衛権をもつ」中に「行使まで認められるか?」という問いを見ると、『権利』の中に「武力の行使」が含まれるかを問うものとなっており、そもそも論点がずれている。論理的に成り立っていないのである。

 次に、「『自衛権』には、個別的自衛権と集団的自衛権が含まれます。」との部分について、正確にはいくつかの考え方があるため、断定することはできない。まず、「不戦条約」の下において許容されている「自衛権」とは、国連憲章の区分で言えば「個別的自衛権」にあたるものであり、「自衛権」とだけ表現している場合は「個別的自衛権」の範囲を意味することがある。また、「国連憲章51条」の下での「自衛権」のことを指す場合は、「個別的自衛権」の「集団的自衛権」両方が含まれていることになる。そのため、「自衛権」とだけ表現されている場合には、「集団的自衛権」が含まれているかどうかを正確に判定できないのである。政府も下記のように解釈している。


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 「自衛権」については、その用いられる文脈により、個別的自衛権と集団的自衛権の両者を包括する概念として用いられる場合もあれば、専ら個別的自衛権のみを指して用いられる場合もあると承知している。
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内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日


 もう一つ、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国際法上の『権利』の概念であり、この適用を受ける地位を有しているとしても、日本国の統治権の中に『権限』が発生するわけではない。そのため、「自衛権」の意味の中に「集団的自衛権」が含まれているとしても、日本国の統治権の『権限』が9条の下で行使できる「武力の行使」の範囲とは関係がないものである。ここで「自衛権」の中に「集団的自衛権」の意味が含まれていることを突き詰めたとしても、これによって日本国の統治権の『権限』が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができることにはならないのである。

 □1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の一部を取り出して、「すると、『必要最小限度の範囲』とはどのような範囲なのか、が問題になります。」と説明しているが、誤った前提認識がある。

 まず、説明では1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範の「必要最小限度の範囲にとどまるべきもの」の部分に下線を引いて抜き出し、ここで「すると、『必要最小限度の範囲』とはどのような範囲なのか、が問題になります。」と取り上げている部分について検討する。

 1972年(昭和47年)政府見解が「必要最小限度」の文言を用いている部分は、「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」があった際に、その「事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきもの」との文脈である。これは、「自衛の措置」を発動した場合の「程度・態様」の「必要最小限度」の意味であり、「武力の行使」の三要件でいえば第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。そのため、この説明の論者があたかも9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えている部分は誤りである。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━   ←  旧三要件の全てを指す意味
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと     ←  「武力の行使」の程度・態様の意味
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 また、もし9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」という基準であったとするならば、政府が「必要最小限度」と考えるだけで「武力の行使」が可能となってしまうのであって、9条が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした趣旨を満たさず、法解釈して成り立たないものとなる。

 この説明の論者は、従来より政府が「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を意味する文言として「必要最小限度」を用いている場合とも混乱しているのである。また、この「自衛のための必要最小限度」についても数量的な概念ではないと答弁されており、その範囲も三要件(旧)を意味することから、「どのような範囲なのか」という疑問が生まれる余地はない。


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○秋山政府特別補佐人 
(略)
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日

 

 「『必要最小限度の範囲』とはどのような範囲なのか、が問題になります。」との説明については、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の範囲を検討する意味と捉えるならば間違ったものではない。しかし、その後「昭和47年当時、『集団的自衛権』とは、他国を防衛するためのものだ、と考えられていました。そのため、昭和47年の政府見解では、およそ集団的自衛権は、必要最小限度の範囲を超えるもの、としていました。」との記載があることから、第三要件の「必要最小限度」の概念として用いているわけではないことは明らかである。そのため、第三要件の意味と捉えようとしても意味が通じない。


 □「昭和47年当時、『集団的自衛権』とは、他国を防衛するためのものだ、と考えられていました。」との記載があるが、誤りである。

 まず、「昭和47年当時」も、今現在も、「集団的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念を取得するためには、『他国からの要請』が必要である。そのため、この『他国からの要請』を得ることで初めて行使することができる事実からは、そこで行われる「武力の行使」は全て『他国防衛』の意図・目的を有するものとなる。そのため、「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行っている時点で『他国防衛』の意図・目的を有することとなり、この説明の論者が言おうとしているであろう「集団的自衛権の行使」の中にも『自国防衛』のための「武力の行使」があるのではないか、との認識は誤りである。

 そもそも、「集団的自衛権」は、国際法上の『権利』の概念である。9条は「集団的自衛権」という『権利』の概念を制約する規定ではなく、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規定である。そのため、国際法上の「集団的自衛権」という『権利』の性質が『他国防衛』や『自国防衛』であるとする論点をいくら突き詰めたところで、9条の下で日本国の統治権の『権限』が行使できる「武力の行使」の範囲は何ら関係がない。

 もう一つ、論者はあたかも『他国防衛』の意図・目的でないのであれば9条の下でも「武力の行使」が許されると考える前提により、「他国を防衛するためのもの」に該当しないことを根拠として「武力の行使」を正当かしようとしているが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であり、たとえ『自国防衛』の意図・目的であったとしても必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。そのことから、『他国防衛』のための「武力の行使」が許されないことは当然、『自国防衛』のための「武力の行使」であっても必ずしも許されるわけではないのであるから、『他国防衛』のための「武力の行使」でないことを主張したところで、その「武力の行使」が9条に抵触しないことにはならない。


 □「そのため、昭和47年の政府見解では、およそ集団的自衛権は、必要最小限度の範囲を超えるもの、としていました。」との記載があるが、誤った認識である。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を全て違憲としているのであり、「集団的自衛権の行使」はこれを満たさない中での「武力の行使」となるため、許されないとしているものである。また、1972年(昭和47年)政府見解の中で用いられている「必要最小限度」の文言は、「自衛の措置」を発動した場合の程度・態様の意味であり、三要件では第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。そのため1972年(昭和47年)政府見解の「必要最小限度」の文言が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を否定する基準となっているかのような認識は誤りである。


 □「それから40年以上が経過した今、『当時』の情勢認識に従って、日本人・日本国の防衛政策を考えてよいものでしょうか?」などと問いかけているが、40年経過しても、法学上の概念そのものには変化はないのである。情勢認識に応じた形で法の規範性が変わるわけではない。


 □「憲法の基本論理を維持することを前提とした上で、」との記載があるが、「維持することを前提」としているならば、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は含まれず、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠を外れ、結果として9条に抵触して違憲となる。


 □「このような状況では、『日本に対する武力攻撃の発生』と同様に、『自衛の措置』をとるべき事態として扱わなければならない可能性が生じています。」との記載がある。しかし、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であり、「『自衛の措置』をとるべき事態として扱わなければならない」などという恣意的な理由でもって「武力の行使」が許容されるわけではない。9条が存在する限りは、その規定の意味を損なわないために規範性を保つことが求められる。「存立危機事態」の要件は曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとが考えられる。これにより、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。また、曖昧不明確な要件であることは、41条の立法権の趣旨に抵触して違憲となると考えられる。


 □「こうした事態における実力行使は、国際法上は、国連憲章で認められている『集団的自衛権』の一部分に該当します。」との記載があるが、国連憲章の「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「一部分」などと、国際法上の区分として「一部分」というものが存在するかのように論じようとしている部分が誤りである。

 □「集団的自衛権」という『権利』について、「これを全面的に認めるわけではなく」などと説明しているが、認識に誤りがある。まず、「集団的自衛権」に該当すればそれは国際法上「集団的自衛権」でしかない。この「集団的自衛権」を行使する際の国際法上の制約は「必要性・均衡性」である。つまり、「集団的自衛権」としての「武力の行使」は、「必要性・均衡性」に沿って行使しなければ国際法上違法となるのである。しかし、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準によって制約される。そもそも国際法上と憲法上では制約の概念が異なるのであるし、国際法上の「必要性・均衡性」の概念も事態の状況に応じて変化する部分が存在するにもかかわらず、「全面的」などという考え方が持ち出されること自体に誤りがある。「集団的自衛権」という概念に、「全面的」や「一部分」「限定的」などという区分は存在しないのである。また、たとえ「一部分」や「限定的」と称したところで、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している基準が揺らぐわけでもなく、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことはすべて違憲である。よって、「集団的自衛権の行使」については、概念上「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うものであることが明らかであるから、9条に抵触して違憲となる。

 □「あくまでも、『日本を防衛するため』のやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるという限定的なもの」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触しない旨を説明するものではなく、誤った認識である。まず、9条の下では『日本を防衛するため』であるからといって、必ずしも「武力の行使」が許されるわけではない。なぜならば、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の恣意的な動機による「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験するところであり、9条はそのような「武力の行使」を禁ずるために設けられた規定だからである。この説明は、『日本を防衛するため』に「やむを得ない」と判断した場合に「武力の行使」を行おうとするものであるが、もともと9条の下では『自国防衛』と称しても「武力の行使」が許されるわけではないのであるから、『日本を防衛するため』に「やむを得ない」と判断したならば9条の制約を逃れられるかのように考えている部分が誤りである。「武力の行使」が許されるわけではないのであるから、『日本を防衛するため』に「やむを得ない」と政府が判断するだけで「武力の行使」が可能となるのであれば、政府の自国都合による「武力の行使」を9条の規定によって制約することができないことを意味し、9条の規範性は損なわれることとなる。これは、憲法解釈そのものを否定することとなっている点で正当化することはできず、9条に抵触して違憲となる。


 □「他国を守ることそのものを目的とする集団的自衛権の行使は、引き続き認められません。」との記載があるが、前提認識に誤りがある。

 まず、「集団的自衛権」という区分にあたれば、それは「集団的自衛権」でしかない。また、「集団的自衛権」の区分に該当させるためには、『他国からの要請』が必要となることから、「集団的自衛権の行使」を行うことは必然的に『他国防衛』の意図・目的を含むこととなる。そのため、「集団的自衛権」の区分に該当するのであれば、『他国防衛』の意図・目的を含むのであり、『自国防衛』の意図・目的のみに限られるなどと称する「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」などというものは、論理的に存在し得ない。

 また、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」をすべて違憲としている。これにより、「集団的自衛権の行使」が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」である以上、その意図・目的が『他国防衛』であろうと『自国防衛』であろうと、違憲であることに変わりはない。


 □「これは、昭和47年の政府見解に言う『必要最小限度』を超えないものとなります。」との説明があるが、「必要最小限度」の意味を誤っているため、論旨が通じない。

 まず、1972年(昭和47年)政府見解が「必要最小限度の範囲にとどまるべきもの」と表現している部分については、「自衛の措置」の程度・態様を意味しており、三要件で言えば第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応する意味である。

 この説明ではあたかも9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのように考えているものと思われるが、誤った認識である。

 □「従って、平和安全法制は昭和47年政府見解の論理の上にあるわけです。」との記載があるが、誤りである。
 9条解釈において政府が採用している1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」をすべて違憲としており、国際法上の区分でいう「集団的自衛権の行使」として行われる、日本国の統治権の『権限』による「存立危機事態」での「武力の行使」については、この枠組みを逸脱している。その結果、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。


 統合幕僚長の考えも見ておこう。

   【参考】統幕長「日米同盟、双務性に近づいた」 2019年3月29日


政府答弁書

〇 政府答弁書


 政府答弁は、法論理の本質部分を簡潔に示すと、違憲性が明快となってしまうためか、様々な用語を加えて内容を読み取りづらくしているように見受けられる。法論理にとって無駄な部分は、白色で塗りつぶして本質部分を明らかにしていこう。

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 一方、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしてもその目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。新三要件は、こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、このような昭和四十七年の政府見解の(一)及び(二)の基本的な論理を維持し、この考え方を前提として、これに当てはまる例外的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合もこれに当てはまるとしたものである。すなわち、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部、限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものであるしたがって、これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれている。
 新三要件の下で認められる武力の行使のうち、国際法上は集団的自衛権として違法性が阻却されるものは、他国を防衛するための武力の行使ではなく、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるものである
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「砂川判決」と集団的自衛権についての政府見解に関する質問に対する答弁書 平成27年6月19日 (下線・太字・色は筆者)

 上記から「存立危機事態」での「武力の行使」の部分だけを拾って要約する。

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〇 新三要件は、昭和四十七年の政府見解の基本的な論理を維持し、これに当てはまる例外的な場合として、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合もこれに当てはまるとしたもの。

〇 あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部、限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるもの。

〇 あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるもの。
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 さらに要約する。

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〇 新三要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」は、昭和四十七年の政府見解の基本的な論理に当てはまる。

〇 他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認める

〇 あくまでも我が国を防衛するため
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 まず、新三要件の「存立危機事態」の要件についてであるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に当てはまらないため、「当てはまる」と主張することはできない。政府の言う「これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれている。」との認識は、論理的整合性が保たれていないため、誤りである。
 また、「他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認める」についても、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言に適合しないことは当然、「他国に対する武力攻撃」が発生したからといって、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する趣旨から求められる規範性の基準が揺らぐわけではなく、それだけで「武力の行使」が可能であるとすることは憲法解釈として成り立たない。

 「あくまでも我が国を防衛するため」についても、9条は「我が国を防衛するため」であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容する趣旨の規定ではない。

 これにより、

 > 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に当てはまらないことによる違憲

 > 他国に対する武力攻撃が発生したことによって「武力の行使」を可能としていることによる違憲

 > 我が国を防衛するとの理由だけで「武力の行使」を可能としていることによる違憲

に該当する。

 「一部、限定された場合」などと表現しようとも、9条の規範性を損なって、憲法解釈の論理から逸脱していれば、「一部」であれ、「限定」であれ、違憲であることには変わりない。

 白色で潰している部分であるが、たとえ政府が「存立危機事態」での「武力の行使」が「他国を防衛するための武力の行使」ではないことを強調したところで、9条は自国を防衛するためという理由でさえ必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではないのであるから、正当化根拠とはならない。9条は政府の恣意的な判断によって行われる「武力の行使」を制約する趣旨であるから、その規範性を設定する法解釈において、『自国防衛』であるか、『他国防衛』であるかが基準となるわけではないのである。


 文章中の「新三要件の下で認められる武力の行使のうち、国際法上は集団的自衛権として違法性が阻却されるもの」の意味が分かりづらいが、これは「存立危機事態」での「武力の行使」を指すものである。つまり、この文面は「存立危機事態」での「武力の行使」が、「他国を防衛するための武力の行使ではなく、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるもの」であると主張していることとなる。

 この「自衛の措置」の内容である「あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるもの」の記述を、三要件と対応する形で表現すると、①「あくまでも我が国を防衛するため」、②「やむを得ない」、③「必要最小限度にとどまる」と分割することができる。

 ここで使われている「必要最小限度」の意味は、三要件の第一要件としての「武力の行使」の発動要件ではなく、第三要件の「武力の行使」の程度・態様の意味である。「必要最小限度」と評価すれば、「武力の行使」の発動が可能であるという意味として使われているわけではないことに注意する必要がある。

 この文面から明らかなことは、政府は「あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるもの」であれば、9条の下でも「武力の行使」が可能であると考えていることである。この「あくまで我が国を防衛するため」という三要件の第一要件に相当するものは、政府がそう判断すればよいとするものである。政府がそう判断すれば、政府は「やむを得ない」「必要最小限度」の「武力の行使」が可能であるとしているのである。

 しかし、9条の規定が存在する限りは、政府の行為を法規範によって画する解釈が求められるところ、このような「我が国を防衛するため」であれば「武力の行使」が可能であるかのように論じることは、9条が政府の行為を制約しようとしている趣旨から求められる規範性を損なうものである。このような要件を設定し、「武力の行使」の発動要件の基準とすることは、9条の存在そのものを無視するものであり、規範性を有しないことから、9条に抵触して違憲となる。

 

安倍内閣の砂川判決論法と昭和四十七年政府見解の読み替えが平和主義の切り捨てであることに関する質問に対する答弁書 平成27年10月6日


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…(略)…「武力の行使」の三要件(以下「新三要件」という。)は、その文言からすると国際関係において一切の実力の行使を禁じているかのように見える憲法第九条の下でも、例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和四十七年十月十四日に参議院決算委員会に対し政府が提出した資料「集団的自衛権と憲法との関係」で示された政府見解(以下「昭和四十七年の政府見解」という。)の基本的な論理を維持したものである。
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 との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範の中には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言のが存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、ここに新三要件の「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。そのため、「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば新三要件の「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分の枠を逸脱して9条に抵触して違憲となる。新三要件の「存立危機事態」を「基本的な論理を維持」しながら定めることができるかのように説明している部分が誤りである。


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この昭和四十七年の政府見解においては、
(一)まず、「憲法は、第九条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第一三条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」としている。この部分は、当該判決の「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」という判示と軌を一にするものである。
(二)次に、「しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」として、このような場合に限って、例外的に自衛のための武力の行使が許されるという基本的な論理を示している。
(三)その上で、結論として、「そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」として、(一)及び(二)の基本的な論理に当てはまる例外的な場合としては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという見解が述べられている。
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 (二)の部分で、「このような場合に限って、例外的に自衛のための武力の行使が許されるという基本的な論理を示している。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、砂川判決と軌を一にする「自衛のための措置(自衛の措置)」とその限界を示したものであり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については未だ述べていない。「武力の行使」について述べているのは、(三)の部分の「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との文言で初めて登場するのであり、「基本的な論理」と称している部分があたかも「武力の行使」を許容しているかのように説明することは誤りである。


 (三)の部分で「(一)及び(二)の基本的な論理に当てはまる例外的な場合としては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという見解が述べられている。」との記載があるが、誤りである。「(一)及び(二)の基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」について述べたものであり、(三)の部分はこの(二)の「自衛の措置」の限界の規範の中に「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を当てはめたものである。(二)の「自衛の措置」の限界を示した規範の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、既に「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、あたかもこの「自衛の措置」の限界の規範が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていないことを前提として、(三)の「武力の行使」の規範を定める段階において初めて「我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる」との規範が示されたかのように考えることは誤りである。

 

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このような昭和四十七年の政府見解の(一)及び(二)の基本的な論理を維持し、この考え方を前提として、これに当てはまる例外的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合もこれに当てはまるとしたものである。
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 「昭和四十七年の政府見解の(一)及び(二)の基本的な論理を維持し、この考え方を前提として、これに当てはまる例外的な場合として、……(略)……『我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』場合もこれに当てはまるとしたもの」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは1972年(昭和47年)政府見解の第二段落で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中において用いられたものであることから、ここに「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはない。そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはなく、「これに当てはまる例外的な場合として、」などと、当てはまることを前提として論じることは誤りである。もし文面上の論理的整合性を無視して、このように「これに当てはまる例外的な場合として、」と述べるだけで「当てはまる」こととなるのであれば、「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」を行う要件についても「これに当てはまる例外的な場合として、」と述べるだけで「当てはまる」こととなってしまうのであり、法解釈として成り立たない。「これに当てはまるとしたものである。」との結論は導かれないし、論理的に当てはまらないことにより「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。
 文の全体が「これに当てはまる例外的な場合として、……(略)……場合もこれに当てはまるとしたものである。」との論じ方となっているが、文として素直に意味が通じない。「当てはまる例外的な場合」や「当てはまるとしたもの」などと「当てはまる」ことを前提として論じ、「当てはまる」と結論付けようとしている部分は、論者が何としても「当てはまる」ことにしておきたいと考えている思惑が見られる。解釈の過程に論理的整合性がないのであれば、その解釈には不正・違法が存在するのであり、いくら「当てはまる」と繰り返し述べたとしても、「当てはまる」ことにはならない。法解釈は結論のみを述べることで正当化できる性質を有しないのである。


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すなわち、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部、限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものである。したがって、これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれている。
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 まず、「国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではなく、」の部分であるが、「集団的自衛権」の定義を行うのは国際司法裁判所など国際機関であり、日本国政府や日本国の裁判所が勝手に「集団的自衛権」の定義を行うことはできない。そのため、「国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使」などと、「集団的自衛権の行使」の定義を「他国を防衛するための武力の行使」という意味に限定することで、反対解釈の余地を導いて「我が国を防衛するため」の「武力の行使」は可能であるとの主張を行うことはできない。
 また、「集団的自衛権」の『権利』を得るためには『他国からの要請』が求められており、これを満たさない中で「武力の行使」を行えば国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して違憲となる。そのことから、『他国からの要請』に基づいて行う「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」であるにもかかわらず、「他国を防衛するための武力の行使」でないものがあるかのように論じることは誤りである。
 さらに、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由と政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験しており、9条はこのような「武力の行使」を制約するための規定であることから、たとえ『自国防衛』の意図・目的であったとしても必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことはすべて違憲であり、『自国防衛』と称しても正当化されない。そのため、これを満たさないのであれば論者の言う「あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部、限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使」についても違憲であることは変わりない。「一部、限定された場合において」との記載があるが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」であれば違憲である。
 「他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使」であるが、「他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使」の意図・目的が『自国防衛』であれば、それは「先に攻撃(先制攻撃)」であり、9条1項の禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」や、9条2項後段の禁じる「交戦権」に抵触して違憲である。また、9条1項に抵触する「武力の行使」を行う実力組織についても9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲である。
 「他国に対する武力攻撃が発生した場合」にその「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」を行う場合においても、それを実施する組織を「陸海空軍その他の戦力」と異なるものと説明することはできず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
 「認めるにとどまるものである。」との記載があるが、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないのであればすべて違憲であり、認められない。あたかも認められるかのように説明している部分が誤りである。


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 新三要件の下で認められる武力の行使のうち、国際法上は集団的自衛権として違法性が阻却されるものは、他国を防衛するための武力の行使ではなく、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるものである。
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 「新三要件の下で認められる武力の行使のうち、」との部分について、あたかも9条の下で「新三要件」の「存立危機事態」が「認められる」かのように説明しようとしているが、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の中に「存立危機事態」の要件は当てはまらないのであり、「新三要件」の「存立危機事態」での「武力の行使」は認められない。「認められる武力の行使」との部分は誤りである。法解釈とは、「認められる」ことを前提として論じたり、「認められる」との結論のみを述べることで正当化できる性質を有していない。
 「他国を防衛するための武力の行使ではなく、あくまでも我が国を防衛するため」との部分であるが、9条の下では『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」が禁じられていることは当然、たとえ『自国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」であったとしても、必ずしも認められているわけではない。なぜならば、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験しており、9条はそのような政府の行為を制約するために設けられた規定だからである。「あくまでも我が国を防衛するため」などと、「我が国を防衛するため」という意図・目的であれば「武力の行使」を行っても9条に抵触しないかのような前提で論じようとしている部分が誤りである。


 「必要最小限度」の意味を特定する必要がある。
 ①従来より政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたのは三要件(旧)のことである。ここには第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」が存在することから、この「自衛のための必要最小限度」の範囲にとどまるのであれば、これを満たさない要件である「存立危機事態」での「武力の行使」は行うことができない。その意味であれば、「新三要件」や「集団的自衛権として違法性が阻却されるもの」などと、「存立危機事態」での「武力の行使」が「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の中に入り込んでいるかのような説明となるため、論理的に成り立たない。
 ②三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味であれば、これは「武力の行使」の程度・態様を意味するため、「武力の行使」の発動要件にあたる部分は「必要最小限度」の文言の直前の「我が国を防衛するためのやむを得ない」であると考えられる。しかし、9条は政府の自国都合の「武力の行使」を制約するための規定であり、9条の下では『自国防衛』の意図・目的であるとしても必ずしも「武力の行使」が許されているわけではない。そのため、「武力の行使」の発動要件として「我が国を防衛するため」を設定することは9条の制約の趣旨を満たさないため、法解釈として妥当でない。
 ③論者はあたかも9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのように考えている可能性があるが、9条は政府の自国都合による「武力の行使」を制約しようとする規定であり、政府が「必要最小限度」と考えれば9条の制約を逃れられるとするのであれば、9条の規定によって政府の行為を制約することができないのであり、9条の規範性を損ない、法解釈として成り立たない。
 これにより、どの「必要最小限度」の意味を考えても、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触しないことを説明したことにはならない。新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」は9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によって違憲である。新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」が9条の下で「認められる」かのように説明している部分は誤りである。
 「他国を防衛するための武力の行使ではなく、……(略)……の自衛の措置にとどまるものである。」との論じ方であるが、「武力の行使」ではなく「自衛の措置」と論じることは論理的に正確な表現ではない。まず、「自衛の措置」の中には砂川判決が示したように「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」が含まれている。そのため、「自衛の措置」の中身として「武力の行使」を選択し、三要件に基づく「武力の行使」について説明を行おうとしているにもかかわらず、「自衛の措置」という枠組みに戻る形で表現することは、論理的に正しくない。また、「他国を防衛するための武力の行使ではなく、」の部分で、既に「武力の行使」の文言が登場しているのであり、それに合わせて「武力の行使」と表現しないことは整合性がない。論者の中には「我が国を防衛するため」であれば「武力の行使」も許されるはずであるとの期待があり、「自衛」と名がつけば「武力の行使」も正当化できるかのように考える発想により、「武力の行使」と記載するのではなく「自衛の措置」という表現を用いているかのように見受けられるが、その実質は「武力の行使」であることに変わりはないし、「自衛の措置」であったとしても9条に抵触する場合が存在する。1972年(昭和47年)政府見解においても、「しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」と記載されている通りである。


内閣官房/内閣法制局

〇 内閣官房/内閣法制局


新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について 内閣官房 内閣法制局 平成27年6月9日(https)

 (新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について (http))


   【 (従前の解釈との論理的整合性等について) 】

 この内容は、上記の答弁書と内容が重なるので、ここでは記載しない。



   【 (明確性について)  】


(P3~4 抜粋)
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4 憲法の解釈が明確でなければならないことは当然である。もっとも、新三要件においては、国際情勢の変化等によって将来実際に何が起こるかを具体的に予測することが一層困難となっている中で、憲法の平和主義や第9条の規範性を損なうことなく、いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておくとの要請に応えるという事柄の性質上、ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである。 その上で、第一要件においては、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、 自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」とし、 他国に対する武力攻撃が発生したということだけではなく、そのままでは、すなわち、その状況の下、武力を用いた対処をしなければ、国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかであるということが必要であることを明らかにするとともに、第二要件においては、「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に 適当な手段がないこと」とし、他国に対する武力攻撃の発生を契機とする 「武力の行使」についても、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでないことを明らかにし、第三要件においては、これまで通り、我が国を防衛するための「必要最小限度の実力の行使にとどまるべきこと」としている。 このように、新三要件は、憲法第9条の下で許される「武力の行使」について、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体ではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置に限られることを明らかにしており、憲法の解釈として規範性を有する十分に明確なものである。

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(太字は筆者)


 下記に3つのパートに分けて解説する。

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4 憲法の解釈が明確でなければならないことは当然である。もっとも、新三要件においては、国際情勢の変化等によって将来実際に何が起こるかを具体的に予測することが一層困難となっている中で、憲法の平和主義や第9条の規範性を損なうことなく、いかなる事態においても、我が国と国民 を守ることができるように備えておくとの要請に応えるという事柄の性質上、ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである。

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 「憲法解釈が明確でなければならない」との認識は正常なものであるが、憲法解釈の過程を追っていくと、この「明確」の要請を満たしていない。詳しくは下記に解説していく。


 次の「もっとも、」から始まる文であるが、長すぎて意味を読み取りづらいため、要約してみる。


要約①

「新三要件においては、………ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである。」


要約②

「新三要件においては、

【 『国際情勢の変化等によって将来実際に何が起こるかを具体的に予測することが一層困難となっている中で、憲法の平和主義や第9条の規範性を損なうことなく、いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておく』 との要請に応えるという事柄の性質上、】

ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである。」

 ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓


国際情勢の変化等によって

将来実際に何が起こるかを具体的に予測することが一層困難となっている 中

  ◇ 憲法の平和主義や第9条の規範性を損なうことなく

  ◇ いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておく
との要請に応える


 この部分であるが、9条の規範性を損なうことのない要件であることが要請されていることは、この論旨からも明らかである。押さえておきたいのは、たとえ「抽象的な表現」であったとしても、9条の規範性を損なっている要件であれば、憲法解釈として明確性を持っておらず、違憲となりうることである。ここの部分は、「どうしても『抽象的な表現』となってしまうため、9条の規範性を損なっても仕方がない」との意味ではない。


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その上で、


第一要件
においては、

「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、 自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」とし、

他国に対する武力攻撃が発生したということだけではなく、そのままでは、すなわち、その状況の下、武力を用いた対処をしなければ、国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかであるということが必要であることを明らかにするとともに、


第二要件
においては、

「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に 適当な手段がないこと」とし、

他国に対する武力攻撃の発生を契機とする 「武力の行使」についても、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでないことを明らかにし、


第三要件
においては、

これまで通り、

我が国を防衛するための「必要最小限度の実力の行使にとどまるべきこと」としている。

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 第一要件であるが、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、 自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分を読んでも、文言上「国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかである」を意味するかどうかを読み取ることはできない。また、9条は「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず、「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」であれば、「武力の行使」を許容しているかどうかは、未だ明らかになっていない。それにもかかわらず、あたかも9条の下でも「武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」であることを理由として「武力の行使」を行うことができるかのように論じることはできない。そのため、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、 自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分から「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」という意味が読み取ることができるかのように論じた上で、正当化根拠を有しているかのように語ることも、根拠のない話から導いた証明であり、妥当な解釈とは言えない。これにより、「明らかにするとともに」などと、「明らか」性を強調したところで、9条は「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」であれば「武力の行使」を許容しているかのように論じている時点で、解釈として妥当性を欠いている。

 「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、 自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分についも、結局、「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを可能としているものである。9条解釈においては、政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを制約する基準となるものを設定し、9条の規範性を保つことが求められるにもかかわらず、その明確な基準となるものが存在しないため、9条の規範性を損なっており、9条に抵触して違憲となる。

 また、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、 自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分は曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなり得る。これは、41条の立法権の趣旨や、31条の適正手続きの保障の趣旨に反して違憲となる。これにより、結局9条にも抵触して違憲となる。

 これについて、この部分の表現を「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」に改めれば良いと考える者がいるかもしれないが、先ほども述べたように、9条の下で「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」であれば「武力の行使」を行うことが可能であるのか否かは未だ正確な根拠を持って明らかにされていない。そのため、「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」という状態を満たせばため、これを正当化根拠として用いることはできない。

 この「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」という表現について、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』を意味するものであるのかという論点が考えられる。もしこれが「我が国に対する武力攻撃」の『着手』を意味するのであれば、従来の旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす場合と考えられ、その中での「武力の行使」については、9条に抵触しないと解する余地があるからである。しかし、「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な」という表現から、「我が国に対する武力攻撃」は未だ発生していないと考えられる。そうなると、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たす状態であるとは考えられず、これを満たす場合とは区別する必要があると考えられる。これにより、「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」という状態が発生したことに基づいて「武力の行使」を実施することは、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」という要件を満たさない中で「武力の行使」を行おうとするものである。そのような「武力の行使」は、9条の規範性を保つための基準を満たさない中で「武力の行使」を行うことになり、9条の規範性を損なっており、9条に抵触して違憲となる。


 第二要件について、「他国に対する武力攻撃の発生を契機とする 『武力の行使』」との記載があるが、これは結局、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない中で「武力の行使」を行うものであることを示すものである。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」はすべて違憲とされており、これを満たさない中で「武力の行使」を行うことは禁じられている。そのため、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では、「他国に対する武力攻撃の発生を契機」として「武力の行使」を行うことはできない。そのような結論は導き出すことができない。

 2014年7月1日閣議決定では、1972年(昭和47年)政府見解の文章の一部分を「基本的な論理」と名付けて抜き出し、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化できる根拠として利用しようとしている。しかし、1972年(昭和47年)政府見解は文章の最初から最後まで一貫した論理展開が為されており、全体として一つの意味を有するものとなっていることから、本来であればその内容を分割して用いることができる性質の文章であるとは言えず、このような手続きは正当化することができない。しかし、仮にその「基本的な論理」と称している部分を抜き出して解釈することができるとしても、その「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範を示した部分には、「あくまで外国の武力攻撃によって」という文言が存在しており、これは第二段落で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」と説明している部分を受けたものであることから、ここに「集団的自衛権の行使」を可能とする余地の生まれる「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれておらず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、1972年政府見解の「基本的な論理」と称している部分では、既に「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たす場合における「自衛の措置」しか許されておらず、「他国に対する武力攻撃の発生を契機とする 『武力の行使』」が許容される余地はない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の下でも、「他国に対する武力攻撃の発生を契機とする 『武力の行使』」は違憲となる。

 「あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、」との記載があるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機(自存自衛)を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規定であり、たとえ「我が国を防衛するため」であるという理由を述べたとしても、必ずしも「武力の行使」が許されるわけではない。そのため、「我が国を防衛するためのやむを得ない」と述べたところで、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に示された「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かという基準が揺らぐことはなく、これを満たさない中での「武力の行使」が9条に抵触して違憲となることは変わらない。もう一つ、「自衛の措置に限られ、」との部分であるが、1972年(昭和47年)政府見解の中には「平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、」と記載されており、「自衛の措置」であるからと言って無制限に認められることにはなっていない。また、ここで「自衛の措置」と述べたとしても、実質的には「武力の行使」が行われる事態について語られているのであり、その「武力の行使」を「自衛の措置」と言い換えたところで、9条に抵触するか否かの基準は変わらない。

 「当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでないことを明らかにし、」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は、『自国防衛』を目的とする「武力の行使」であれば合憲となり、『他国防衛』を目的とする「武力の行使」であれば違憲となるという考え方に基づいて基準が設けられた見解というわけではない。そのため、『他国防衛』を目的とする「武力の行使」が許されないことは当然、『自国防衛』を目的とする「武力の行使」であっても、必ずしも許されているわけではない。そのため、のであるから、そのため、「当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでないことを明らかにし、」と述べたところで、これを根拠として9条に抵触しないことを示したことにはならず、「武力の行使」の合憲性を裏付ける論拠にはならない。

 さらに、政府は下記のようにも述べており、「当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでないことを明らかにし、」との記載とも整合性がない。

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「武力の行使」の三要件(以下「新三要件」という。)に該当する場合の自衛の措置としての「武力の行使」で、国際法上の根拠が集団的自衛権となるものについての「必要最小限度」とは、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される原因を作り出している、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃を排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るための必要最小限度を意味する。
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集団的自衛権における「必要最小限度の実力行使」に関する質問に対する答弁書 平成27年6月16日 (下線は筆者)
集団的自衛権における「必要最小限度の実力行使」に関する質問主意書

 「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃を排除し」ているが、「他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでない」ならば、「武力の行使」が合憲となるとでも考えているのだろうか。この論理では、「侵略しているが、あくまで侵略の目的はなく、自国を防衛するためである」として「侵略戦争」を行うことが肯定される原因となってしまう。

 論理的整合性は存在しておらず、9条の規範性を損なうものとなっており、このような要件に基づく「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。


 第三要件について、「これまで通り、我が国を防衛するための『必要最小限度の実力の行使にとどまるべきこと」としている。」とされている。

 ここで注意したいのは、「これまで通り、」と記載されていても、この第三要件は、旧三要件においては「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除するため(第二要件)」の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」を意味していたことである。

 

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○政府委員(真田秀夫君) 普通に自衛権行使の三原則といわれているものにつきましては、先ほども触れておきましたけれども、まず場合といたしましては、わが国に対して外国からの武力攻撃が行なわれたということでございます。第二番目においては、その武力攻撃を防ぐために他に方法がない武力をもって反撃するよりほかに方法がないという非常に切迫している場合、それが第二の要件でございます。それから第三番目の要件といたしましては、かくして発動される武力行使は、外国からの武力攻撃を防止する必要最小限度に限るということでございます。

(略)
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第68回国会 参議院 内閣委員会 第11号 昭和47年5月12日

 

 そのため、新三要件が定められ、第一要件と第二要件が変更されていることによって「武力の行使」の目的が変わっていることから、実質的には第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という部分の「武力の行使」の程度・態様についても意味が変化してしまっている。

 第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべこと」という文言が変わっていないとしても、まったく「これまで通り、」の意味を有するとは言い切ることができないのである。


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このように、新三要件は、憲法第9条の下で許される「武力の行使」について、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体ではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置に限られることを明らかにしており、憲法の解釈として規範性を有する十分に明確なものである。
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 「国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体でなく」との表現があるが、認識に誤りがある。

 まず、「それ自体ではなく」の表現から、国際法上の「集団的自衛権」に該当しないものであるかのように論じているが、そうなると、国際法上の違法性阻却事由の『権利』を得ることなく「武力の行使」を行うことを宣言していることとなる。このような「武力の行使」は、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して国際法上違法となる。

 次に、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば、「集団的自衛権」でしかないのであり、国際法上の「集団的自衛権の行使」が、「他国を防衛するための武力の行使」とそれ以外の「武力の行使」があるかのように論じている認識に誤りがある。そのような区分は国際法上存在していない。「集団的自衛権」の概念は国際法上の概念であるから、日本政府や日本の裁判所が勝手に解釈できるわけではない。


 「あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置に限られる」との記載があるが、正当化事由にならない。
 まず、9条の下では政府の行為が制約を受けているのであり、「我が国の存立を全うし、国民を守るため、」であるからといって、必ずしも「武力の行使」が可能となるわけではない。

 次に「我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置に限られる」の部分であるが、この意味を三要件の第一要件、第二要件、第三要件に合わせて分割して整理する。

「自衛の措置 『①我が国を防衛するため ②やむを得ない ③必要最小限度』 に限られる」

 これによれば、結局『①我が国を防衛するため』であれば、「武力の行使」が可能であると考えていることとなる。しかし、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が恣意的な動機によって自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であり、「我が国を防衛するため」であるからといって、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。それにもかかわらず、ここで「我が国を防衛するため」であれば「武力の行使」が許容されるかのように論じることは、9条解釈として妥当性を有しない。単に「我が国を防衛するため」という理由でもって「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となる。

 「明らかにしており、」との記載もあるが、この誤った解釈を「明らかに」したところで、「武力の行使」が9条に抵触しないことを示したことにはならない。そのような「武力の行使」は正当化することはできず、9条に抵触して違憲となる。

 「憲法の解釈として規範性を有する十分に明確なもの」との記載もあるが、9条は「我が国を防衛するため」であるからといって、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではないことに加え、「我が国を防衛するため」との理由を示したとしても、9条の規範性を保つための基準となるものを通過したことにはならない。そのため、「規範性を有する」との主張は論理的に誤りである。また、「十分に明確なもの」との部分についても、上記の理由で十分に明確なものとは言うことができず、事実に反している。

 この記事の冒頭の「憲法の解釈が明確でなければならない」についても、これを満たしておらず、結局正当化することはできない。

 「存立危機事態」の要件は9条の規範性を損なうものとなっており、この要件に基づく「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。



内閣官房


〇 内閣官房


「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答 内閣官房


【問1】
 「集団的自衛権とは、国際法上、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利です。しかし、政府としては、憲法がこのような活動の全てを許しているとは考えていません。」との記載があるが、「全てを許しているとは」として一部ならば許されるかのような前提を有している部分が誤りである。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に記されている通り、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。これにより、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」はこれを満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、すべて違憲となるため行うことができない。「すべてを許しているとは考えていません。」だけでなく、「すべて許していない。」のである。

 「今回の閣議決定は、あくまでも国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るための必要最小限度の自衛の措置を認めるだけです。他国の防衛それ自体を目的とするものではありません。」との記載があるが、誤った認識に基づく部分がある。まず、「他国の防衛それ自体を目的とするものではありません。」との認識であるが、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の下では、『他国防衛』の「武力の行使」は当然行使できないが、『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が行使できるとはしていない。1972年(昭和47年)政府見解では、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範が記されているからである。この「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす必要があることは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分についても同様である。そのため、「他国の防衛それ自体を目的としたものではありません。」と主張したところで、「他国防衛それ自体を目的とした」「武力の行使」が許されないことは当然であるが、『自国防衛』と称している「存立危機事態」の要件が憲法の規範の枠内にあることを証明する論拠は存在しておらず、合憲性を裏付けることにはなっていない。また、「あくまでも国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るための必要最小限度の自衛の措置を認めるだけ」についても、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の下では、「国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るため」であるからといって「武力の行使」が許されるとしているわけでもない。「必要最小限度の自衛の措置」の部分については、「必要最小限度」の意味を特定する必要がある。①まず、従来から政府が「自衛のための必要最小限度」の意味で使用していた「必要最小限度」の意味は、旧三要件を満たす「武力の行使」のことを指していた。これは第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を含んでいるため、この意味の「必要最小限度の自衛の措置を認める」との意味であれば、1972年(昭和47年)政府見解にも適合する旧三要件での「武力の行使」を認めるとの意味となる。②次に、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味での「必要最小限度」であれば、それは「武力の行使」の程度・態様を示すものである。③しかし、2014年7月1日閣議決定以後の政府の資料では、あたかも9条解釈から導かれる規範が数量的な意味での「必要最小限度」であるかのように扱うものがあるが、そのような数量的な意味での「必要最小限度」の使われ方は存在しない。また、9条という政府の恣意的な都合によって行われる「武力の行使」を制約するための規範であるにもかかわらず、数量的な意味での「必要最小限度」というものが基準であると考えるのであれば、それは憲法解釈として妥当性を有しないのであり、成り立たない。ここで使われている「必要最小限度」の意味は③の可能性があるが、そのような数量的な意味での「必要最小限度」の基準は憲法解釈としては成り立たないものであるし、そもそもこれまでの9条解釈の分野において存在していない基準である。③の意味であるならば、明らかに誤りである。


【問3】
 「我が国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るため、すなわち我が国を防衛するために、やむを得ない自衛の措置として、必要最小限の武力の行使を認めるものです。」との記載があるが、「集団的自衛権」に該当する「存立危機事態」での「武力の行使」の合憲性を裏付けることにはなっていない。9条の下では、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、これを満たさない中での「武力の行使」は違憲である。たとえそれが「我が国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るため」や「我が国を防衛するため」であったとしても、それだけで「武力の行使」が可能となるとするならば、9条が政府のその時々の政治的な事情や政権に対する支持率の向上、経済対策、国民の利益などを勘案して自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約している趣旨を損なうことになるため、法解釈として妥当性を有しない。ここで使われている「必要最小限」の意味であるが、9条から導き出される規範は数量的な意味での「必要最小限度」というものではない。なぜならば、制約が数量的なものであれば、政府が必要性に応じて自在に基準を変更できるものとなってしまうのであって、9条が政府の行為を制約しようとする趣旨を満たさず、憲法解釈として成り立たなくなるからである。従来から「自衛のための必要最小限度」と呼んでいた意味での「必要最小限度」については、「武力の行使の(旧)三要件(自衛権行使の三要件)」のすべてを満たす中での「武力の行使」を意味していた。そのため、新三要件の「存立危機事態」については、この旧三要件をすべて満たす中に含まれないため、論理矛盾することとなる。こうなると、残るものとしては、「武力の行使」の三要件の「第三要件」の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味での「必要最小限度」のことを指しているのかもしれない。ここに記載された情報だけでは、正確に読み取ることができないが、9条解釈の枠内であるか否かを考える際に「必要最小限度」の意味を特定することが必要となることが多いため、注意が必要である。
 この項目の問いは「なぜ、今、集団的自衛権を容認しなければならないのか?」であるが、政府の答えは「今回の閣議決定は、~安全保障環境がますます厳しさを増す中、~武力の行使を認めるものです。」である。問いに対する答えとなっていない。


【問4】
「今回の閣議決定は、合理的な解釈の限界をこえるいわゆる解釈改憲ではありません。これまでの政府見解の基本的な論理の枠内における合理的なあてはめの結果であり、立憲主義に反するものではありません。」との記載があるが、誤りである。2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に記された「自衛の措置」の限界を示した規範を維持しているとしてしているが、実際にはここに「存立危機事態」の要件は論理的に含まれないため、「合理的な解釈の限界をこえる」こととなり、違憲となる。「これまでの政府見解の基本的な論理の枠内における合理的なあてはめの結果」としているが、結論のみを述べて、あてはめることができるかのような前提で話を進めているが、実際には論理的にあてはまらないため、論者のいう「結果」は導かれない。もし論者のように「合理的なあてはめの結果」と説明するだけであたかも当てはまるかのように正当化することができるのであれば、「侵略戦争」を実施する閣議決定や法律の制定がなされた場合であったとしても、「これまでの政府見解の基本的な論理の枠内における合理的なあてはめの結果」として同様に正当化することができてしまうこととなる。これでは、9条という規定が存在している事実を認識し、そこから一定の規範を見出そうとする法解釈という営みそのものを否定することとなるのである。「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分にあてはまらず、違憲となる。「立憲主義に反するものではありません。」との記載があるが、憲法に違反する要件を定めたことは、憲法に従って統治権を行使するものとは言えないため、立憲主義に反するものである。


【問5】
 「今回の閣議決定は、国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るために必要最小限の自衛の措置をするという政府の憲法解釈の基本的考え方を、何ら変えるものではありません。必ずしも憲法を改正する必要はありません。」との記載があるが、「必要最小限」の意味を特定する必要がある。まず、従来から「自衛のための必要最小限度」と称していた意味での「必要最小限度」であれば、「武力の行使」の三要件(旧)をすべて満たす「武力の行使」のことを指す。また、「政府の憲法解釈の基本的考え方」の意味するところが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を意味しているのであれば、これを「何ら変えるものではありません。」と説明した場合、旧三要件に基づく「武力の行使」が維持されていることとなる。この場合であれば、確かに「憲法を改正する必要」はない。しかし、2014年7月1日閣議決定では、「存立危機事態」の要件を定めており、これは1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらない。そのため、「政府の憲法解釈の基本的考え方」からは逸脱するのであり、「何ら変えるものではありません。」との説明は論理的に成り立たない。また、「必要最小限度」の意味ついても、「自衛のための必要最小限度」と称していた旧三要件での「武力の行使」を、新三要件に改め、「存立危機事態」の要件を加えていることから考えると、論者は9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えている点で、法解釈として成り立たないものとなっている。なぜならば、9条は政府の行為を制約する規定であり、そこには適法か違法かを決する基準が存在しており、あたかも政府に対して努力義務を課した規定であるかのように捉えることは法解釈として妥当性を有しないからである。「存立危機事態」の要件を定めることは、憲法を改正する必要がある事柄である。


【問6】
 今後、更に憲法解釈を変更して、「集団的自衛権の行使を全面的に認めるようになるのではないか?」との問いに対して、「その場合には憲法改正が必要です。」と答えているが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合せず違憲であり、既に憲法改正が必要なものである。
 その後、「なぜなら、世界各国と同様に集団的自衛権の行使を認めるなど、憲法第9条の解釈に関する従来の政府見解の基本的な論理を超えて武力の行使が認められるとするような解釈を現憲法の下で採用することはできません。」との記載があるが、他国と同様の「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を認める場合には、「基本的な論理」を超えることとなるかのように論じ、今回の「存立危機事態」の要件があたかも「基本的な論理」を超えないかのような前提で話を進めようとしているが、「存立危機事態」の要件は既に「従来の政府見解の基本的な論理」を超えており、「現憲法の下」では違憲となる。論者は他の違憲となる「武力の行使」を持ち出して、それとの違いを強調することで今回の「存立危機事態」での「武力の行使」が憲法上容認されるかのように論じようとしているが、憲法上の合憲・違憲の判定は憲法解釈によって導き出される規範に適合するか否かによって決せられるものである。その為、今回の「存立危機事態」での「武力の行使」が、他の違憲な「武力の行使」と異なることを説明するだけでは、「存立危機事態」の要件が違憲でないことを根拠付けることにはならない。


【問10】
 「今回の閣議決定があっても、実際に自衛隊が活動できるようになるためには、根拠となる国内法が必要になります。今後、法案を作成し、国会に十分な審議をお願いしていきます。これに加え、実際の行使に当たっては、これまでと同様、国会承認を求めることになり、『新三要件』を満たしているか、政府が判断するのみならず、国会の承認を頂かなければなりません。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件が合憲であることを前提として説明を続けようとしている点で誤りである。まず、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に論理的に適合せず、違憲である。そのため、「実際に自衛隊が活動できるようになるためには、根拠となる国内法が必要になります。」との記載があるが、法律によって「存立危機事態」の要件が定められても、違憲であることから、「自衛隊」は活動できるようにはならない。憲法98条は「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と定められており、憲法に反する法律や国務に関するその他の行為の全部又は一部は効力を有しないのである。「実際の行使に当たっては、これまでと同様、国会承認を求めることになり、『新三要件』を満たしているか、政府が判断するのみならず、国会の承認を頂かなければなりません。」との記載があるが、違憲な条項に基づく国家行為は違憲・無効となる。たとえ国会承認があったとしても、違憲な条文に従って承認を行うことは、それ自体が違憲な行為となる。違憲であることは変わらず、国会承認があってもその条項が合憲に変わるわけではない。


【問12】
 「憲法の平和主義を、いささかも変えるものではありません。」との記載があるが、誤りである。憲法の平和主義は前文に記されているが、9条はその「平和主義」の理念を具体化した規定であるとされている。「存立危機事態」の要件が憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解にあてはまらず違憲となるということは、「平和主義」の理念を具体化した規定である9条に抵触するということであり、「平和主義」が具体化が実現できていないことになる。これにより、「平和主義」は損なわれている。「いささかも変えるものではありません。」との認識は、「平和主義」が損なわれている時点で論理的に誤りとなる。
 「我が国を取り巻く安全保障環境がますます厳しくなる中で『争いを未然に防ぎ、国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るために、いかにすべきか』が基点です。」との記載があるが、政策判断として「いかにすべきか」を考えたとしても、法の手続きに従って合法的に行う必要があり、「存立危機事態」の要件は違憲となるから、もしこれを定めるのであれば憲法改正の必要がある。「争いを未然に防ぎ、国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るため」という理由を述べても、「存立危機事態」の要件が違憲となることを回避できることにはならない。


【問13】
 「今後も専守防衛を堅持していきます。」との記載があるが、誤りである。まず、「専守防衛」とは、「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいう。しかし、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に論理的にあてはまらないため、違憲となる。「存立危機事態」の要件を定めるということは、「専守防衛」の定義である「憲法の精神に則った」を満たさないため、「専守防衛」は堅持されているとは言えない。「今後も専守防衛を堅持していきます。」との認識は論理的に誤りである。


【問14】
 「日本国憲法の基本理念である平和主義は今後とも守り抜いていきます。」との記載があるが、誤りである。「日本国憲法の基本理念である平和主義」は前文に記載されており、9条はその理念を具体化した規定である。「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解に当てはまらないことにより9条に抵触するということは、「平和主義」の理念を具体化を求める規定の枠を超えることを意味するのであり、前文の「平和主義」は損なわれていることとなる。


【問17】
 「日本を戦争をする国にはしません。」との記載があるが、ここでは「戦争」の定義を法学上の厳密な意味で用いて説明しているとは思われないが、これは一時期の政府の約束事や心意気を国民に説明しようとしているだけのものである。しかし、9条はこのような一時期の政府の「戦争をする国にはしません。」などという約束事や心意気とは関係なく、日本国の統治権の『権限』を制約する法規範である。9条の規範性は、そのような主張がなされたからといって左右されないし、このような主張によって「存立危機事態」の要件が合憲のものに変わるということもない。


【問18】
 「自衛隊員の任務は、これまでと同様、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるというときに我が国と国民を守ることです。」との記載があるが、誤りである。まず、9条の下では「我が国と国民を守る」という理由だけで「武力の行使」が可能となるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のである。「存立危機事態」の要件はこれを満たさないため違憲であり、自衛隊が「存立危機事態」に基づく「武力の行使」を行う任務を実行すれば、違憲な国家行為となる。「存立危機事態」が定められたことは、自衛隊に違憲な任務を行わせようとすることとなるから、「これまでと同様」とは言えない。
 また、答えはこれだけであり、問いとなっている「自衛隊員が、海外で人を殺し、殺されることになるのではないか?」との質問に対して答えていない。


【問19】
 「あくまでも、国民の命と平和な暮らしを守り抜くためのものであるという自衛隊員の任務には、何ら変更はありません。」との記載があるが、先ほども述べたように「存立危機事態」の要件は違憲であり、「自衛隊員の任務」としてこれに基づく「武力の行使」が行われた場合、違憲な国家行為として政府は責任を問われることとなる。「何ら変更はありません。」と言い切ることはできない。
 「自衛隊員が、海外で、我が国の安全と無関係な戦争に参加することは断じてありません。」との記載があるが、たとえ「我が国の安全」と何らかの関係があるとしても、それだけで違憲な活動が正当化され、合憲に変わるわけではないことを注意して読む必要がある。


【問20】
 「国の存立を全うし、国民を守るための自衛の措置としての武力の行使の『新三要件』が、憲法上の明確な歯止めとなっています。さらに、法案においても実際の行使は国会承認を求めることとし、国会によるチェックの仕組みを明確にします。」との記載があるが、合憲性を裏付ける主張とはなっていない。まず、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解に適合せずに違憲である。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない中で「武力の行使」を行うことは違憲となるのであり、これを満たさない要件であるにもかかわらず「歯止め」と称する文言を加えたならば合憲に変わるかのように考えている部分が誤りである。「新三要件」の「存立危機事態」については1972年(昭和47年)政府見解に適合せず違憲となるのであり、これが「憲法上の明確な歯止め」となる事実はない。もし「歯止め」と称するだけで憲法上容認されるのであれば、実質的に「侵略戦争」を行う要件であるにもかかわらず、「歯止め」と称する文言が含まれていることにより合憲であると考えることとなるから、論理的に成り立たないのである。また、違憲の要件に基づいて「国会承認」を行っても、違憲であることには変わりない。国会も憲法に基づく機関であり、憲法に違反する「承認」を行うことは、国会の権限として不可能である。違憲な要件に基づく「武力の行使」に対して「国会によるチェックの仕組み」を導入しても、そもそも違憲な国家行為であることには変わりない。


【問21】
 「存立危機事態」の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」の有無の基準について、「現実に発生した事態の個別・具体的な状況に即して、主に、攻撃国の意思・能力・事態の発生場所、その規模・態様・推移などの要素を総合的に考えて、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性などから、『新三要件』を満たすか否か客観的、合理的に判断します。」との記載があるが、判断過程が示されたとしても、「存立危機事態」の要件が違憲であることは変わらない。「『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険』の有無」について、そもそも何がこの事態に該当するのか曖昧不明確なものであり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがない。それにより、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなるために、31条の適正手続きの保障の趣旨や、41条の立法権の趣旨より違憲となると考えられる。また、このような曖昧不明確な要件をいくら「総合的に考えて、」「客観的、合理的に判断」したところで、そもそも基準となるものがないのであるから、政府がこれに該当するといえばそうなるというものとなり、その要件に該当するか否かの適否を判定することができない。これでは9条の政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨を満たさないのであり、9条の規範性を損なっており、9条に抵触して違憲となる。


【問22】
 「従来からの『海外派兵は一般に許されない』という原則は全く変わりません。国の存立を全うし、国民を守るための自衛の措置としての武力の行使の『新三要件』により、日本がとり得る措置には自衛のための必要最小限度という歯止めがかかっています。」との記載があるが、認識に混乱があり、誤りである。まず、従来から「海外派兵」が禁じられていたのは、「一般に自衛のための必要最小限度を超える」としていたからである。この「自衛のための必要最小限度」とは、三要件(旧)を意味する。つまり、「海外派兵」はこの三要件(旧)の範囲を超えることから、「一般に自衛のための必要最小限度を超える」として憲法上許されないと導かれていたのである。この原則が「全く変わりません。」とするのであれば、「新三要件」を定めた後にあっても、旧三要件を用いて「海外派兵」の可否を決していることとなり、論理的整合性が存在しない。「武力の行使の『新三要件』により、日本がとり得る措置には自衛のための必要最小限度という歯止めがかかっています。」との記載について、従来から「自衛のための必要最小限度」と称していたのは旧三要件を満たす「武力の行使」のことであり、「新三要件」は「旧三要件」の枠内から逸脱するにもかかわらず、「日本がとり得る措置には自衛のための必要最小限度という歯止めがかかっています。」とすることは論理的に成り立たない。もしかすると、「自衛のための必要最小限度」の内容が「新三要件」に置き換わったと考えている可能性があるが、すると、「海外派兵」が許されないとする基準も変わっていることとなり、「従来からの『海外派兵は一般に許されない』という原則は全く変わりません。」との説明と論理的整合性がなくなる。さらに、「歯止めがかかっています。」との認識であるが、9条に抵触するか否かは1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否かであるから、これを満たさない「存立危機事態」の要件に「歯止め」と称する文言があると主張したところで、「存立危機事態」の要件が合憲のものに変わるわけではなく、違憲のままである。


【問25】
 「石油供給が回復しなければ我が国の国民生活に死活的な影響が生じ、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されることとなる事態は生じ得ます。実際に『新三要件』に当てはまるか否かは、その事態の状況や、国際的な状況等も考慮して判断していくことになります。」との記載があるが、「『新三要件』に当てはまるか否か」以前に、「新三要件」の「存立危機事態」の要件が既に違憲である。また、9条は自国の政治状況や国際関係上の圧力、経済対策や政権への支持率向上などの意図を含んだ、政府の自国都合による「武力の行使」が為されることなどを制約するための規定であり、「武力の行使」を発動する要件となるものに該当するか否かを「その事態の状況や、国際的な状況等」などを勘案することだけで判定することができるとする基準を定めることは、実質的に政府の主観的な判断に委ねるものとなるから、9条の趣旨を満たさないこととなるため不可能である。「存立危機事態」の要件はそのような政府の自国都合による「武力の行使」が行われる可能性を排除するための基準となる部分が存在しておらず、9条の規範性を損なうものであるため違憲である。


【問26】
 「日本は石油のために戦争するようになるのではないか?」との質問に対して、「憲法上許されるのは、あくまでも我が国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るための必要最小限の自衛の措置だけです。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、「我が国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るため」というだけで「武力の行使」ができるわけではないからである。「必要最小限」についても、従来から政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたのは三要件(旧)を満たす「武力の行使」であり、「集団的自衛権」に該当する「存立危機事態」での「武力の行使」は、この三要件(旧)の第一要件を満たさないため、「自衛のための必要最小限度」の範囲には含まれない。


【問28】
 「憲法の基本的な考え方は、何ら変更されていません。我が国を取り巻く安全保障環境がますます厳しくなる中で、他国に対する武力攻撃が我が国の存立を脅かすことも起こり得ます。このような場合に限っては、自衛のための措置として必要最小限の武力の行使が憲法上許されると判断したものです。」との記載があるが、誤りである。まず、従来の「憲法の基本的な考え方」とは、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)であるが、この中に「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない「存立危機事態」の要件があてはまることはない。そのため、「何ら変更されていません。」とするのであれば、「存立危機事態」の要件は違憲となる。「このような場合に限っては」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、「存立危機事態」は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないにもかかわらず、「このような場合に限っては…憲法上許される」として憲法上許されるかのように考えている部分は誤りである。さらに、「必要最小限の武力の行使」の意味であるが、この「必要最小限」の意味を特定する必要がある。従来より用いてきた「自衛のための必要最小限度」の意味であれば、三要件(旧)を満たす「武力の行使」のことであり、第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること」があるため、「存立危機事態」の要件はこれを満たさず、憲法上許されないこととなる。第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味での「必要最小限」であれば、この文脈でも一応意味は通じるが、新三要件の第一要件である「存立危機事態」の要件は違憲であることにより、この第三要件としての「必要最小限度」が持ち出されるまでもなくその「武力の行使」は違憲である。9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えている可能性があるが、9条は政府の恣意的な「武力の行使」を制約する規定であり、そのような数量的な意味での「必要最小限度」というものが9条の制約基準であるとすることは憲法解釈として成り立たない。「憲法上許されると判断したものです。」との部分については、憲法上許されることはなく、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は違憲である。


【問29】
 「憲法上許されるのは、あくまで我が国の存立を全うし、国民の命を守るための自衛の措置だけです。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解によれば「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさなければ、たとえ「我が国の存立を全うし、国民の命を守るため」であったとしても「自衛の措置」としての「武力の行使」は実施できないからである。
 「万が一の事態での自衛の措置を十分にしておくことで、却って紛争も予防され、日本が戦争に巻き込まれるリスクはなくなっていきます。」との記載があるが、「自衛の措置」は憲法の枠内で行われる必要があり、「十分にしておく」との動機によって憲法の枠を超えることができるわけではない。「存立危機事態」については違憲であるため、「存立危機事態」での「武力の行使」を実施したいのであれば憲法改正を行う必要がある。


【問30】
 「米国から戦争への協力を要請された場合に、断れなくなるのではないか?」との質問に対し、「武力行使を目的として、イラク戦争や湾岸戦争のような戦闘に参加することは、これからもありません。我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がない場合、他に適当な手段がある場合、必要最小限の範囲を超える場合は、『新三要件』を満たさず、『できない』と答えるのは当然のことです。」と答えているが、そもそも「存立危機事態」の要件が違憲であることから、できることを前提として「『できない』と答えるのは当然」としている点が誤りである。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない中で「武力の行使」をすることはすべて「できない」のである。


【問31】
 「万が一の事態での自衛の措置を十分にしておくことで、かえって紛争も予防され、日本が戦争に巻き込まれるリスクはなくなっていきます。」との記載があるが、「自衛の措置」は憲法の枠内で行われる必要があり、1972年(昭和47年)政府見解の下では「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」がその枠である。この「外国の武力攻撃」は、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味する。この枠を超える「自衛の措置」を行うのであれば、憲法改正の必要があるが、憲法改正を行わずに「存立危機事態」の要件を定めたことはこの枠を超えるために違憲である。


【問32】
 「閣議決定を受けた法案を、国会で審議、成立を頂くことで、日本が戦争に巻き込まれるリスクはなくなっていきます。」との記載があるが、政策的な必要性の適否についてはここでは論じないが、法律論上「存立危機事態」の要件は違憲であり、「国会で審議、成立」したとしても、違憲であることは変わらない。



政府高官


〇 政府高官


集団的自衛権行使ゼロでも日米関係安定に貢献 米艦防護では抑止効果 2021/3/27


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バイデン政権との関係でも政府高官は「法的な問題はすべて決着済みで日米間の懸案にはならない」と語る。

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 上記の記載であるが、新三要件の第一要件後段の「存立危機事態」の要件や、自衛隊法76条1項2号の「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、9条に抵触して違憲となる。

 そのため、「法的な問題はすべて決着済み」との部分については、あたかも「存立危機事態」の要件に基づいて「武力の行使」を行うことが9条に抵触することはなく、合憲に変わったかのような認識を有しているのであれば、誤りである。





読売新聞


〇 読売新聞 社説

 

衆院代表質問 現実的な格差論議を深めよ 2015年02月17日

[読売新聞] 衆院代表質問 現実的な格差論議を深めよ (2015年02月17日)


 「新見解は、従来の見解と一定の整合性を維持した、合理的な範囲内の憲法解釈の変更であり、批判は当たらない。」との記載があるが、誤りである。「従来の見解」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分に、「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれないからである。「合理的な範囲の憲法解釈の変更」との記載があるが、当てはまるはずがないものを当てはまると主張している点で「合理的」とは言えない。また、論理的に成り立たない見解は法解釈とは言えず、「憲法解釈の変更であり」として正当な憲法解釈であるかのように論じることもできない。「『立憲主義に反する』と批判したことだ。」との記載に対して、「批判は当たらない。」と述べているが、論理的に成り立たないにもかかわらず、1972年(昭和47年)政府見解で示された「自衛の措置」の限界、「武力の行使」の限界を超える要件を定めて「武力の行使」を可能としようとすることは、違憲であり、「立憲主義に反する」こととなる。批判は当たることとなる。



衆院予算委 本質的な安保論議が聞きたい 2015年02月20日

[読売新聞] 衆院予算委 本質的な安保論議が聞きたい (2015年02月20日)


 「安倍首相は、1972年の政府見解の基本的な考え方を新見解は踏襲していると反論した。『何回も与党協議を開き、国会でも相当議論を重ねた』とも強調した。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」文言は「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味しており、それ以外の「武力攻撃」は含まれない。そのため、ここに「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は当てはまらず、2014年7月1日閣議決定は論理的整合性が保たれていない。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば「存立危機事態」の要件は違憲となるし、「存立危機事態」を可能としようとするのであれば1972年(昭和47年)政府見解は維持されておらず、「踏襲している」との認識は誤りとなる。「『何回も与党協議を開き、国会でも相当議論を重ねた』とも強調した。」との記載があるが、論理的な誤りはたとえ何回協議を開いても、国会で相当議論を重ねても、結論は同じである。そのようなことを強調し、論理的な説明ができていないということは、むしろ論理的な誤りを自ら気づきながら隠そうとする意図があると疑われることとなる。

 「新見解は、行使の要件に『国民の権利が根底から覆される明白な危険』を明記し、従来の見解と一定の整合性を維持している。」との記載があるが、「従来の見解」である1972年(昭和47年)政府見解との文言の一部分の整合性のみを取り上げ、他の部分の整合性の不一致を取り上げていない点で誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の規範部分は、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」である。この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分は「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味しており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は当てはまらない。この「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たすか否かが、1972年(昭和47年)政府見解が政府の自国都合による「武力の行使」を制約する9条の趣旨が生かされる解釈として成り立か否かを決する部分であり、これを満たさないにもかかわらず、1972年(昭和47年)政府見解の「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」と「存立危機事態」の「国民の権利が根底から覆される明白な危険」が部分的に一致していることのみをもって、「一定の整合性を維持している」と結論付け、あたかも9条に抵触しないかのように考えることはできない。この程度の部分的な一致で「武力の行使」が合憲化できると考えるのであれば、1972年(昭和47年)政府見解の「権利を守るため」や「止むを得ない」などと判断すれば「武力の行使」を可能とする要件を定めても合憲と考えることとなり、政府の自国都合による「武力の行使」を制約することができないことから、9条の存在自体を殊更に無視するものであり、法解釈として成り立たない。

 「透明性の高い与党協議を経た閣議決定による政府見解の変更に、何ら瑕疵(かし)はあるまい。」との記載があるが、誤りである。たとえ「透明性の高い与党協議を経た」ものであったとしても、論理的整合性が保たれていないものであれば法解釈としては成り立たず、「瑕疵(かし)」があることとなる。「何ら瑕疵(かし)はあるまい。」との認識は、法解釈として成り立っていない事実を無視するものである。



「存立危機事態」 柔軟対処へ政府に裁量権残せ 2015年03月07日

[読売新聞] 「存立危機事態」 柔軟対処へ政府に裁量権残せ (2015年03月07日)


 「集団的自衛権を行使する際は、自衛隊を柔軟に活用できるよう、政府に一定の裁量権を与えることが欠かせない。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の下では「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は違憲となるため行うことができず、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中では、「武力の行使」を発動するか否かに関する「一定の裁量権」が生まれることはない。

 「日本が直接攻撃される『武力攻撃事態』と同様、日本周辺で米軍艦船が攻撃されるなどの『存立危機事態』にも武力行使を認める。国会の事前承認を原則とし、緊急時は事後承認とする。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に抵触して違憲であり、「国会の事前承認」があっても合憲化することはできない。


民主党安保見解 いつまで「曖昧」を続けるのか 2015年05月06日

[読売新聞] 民主党安保見解 いつまで「曖昧」を続けるのか (2015年05月06日)


 「民主党は見解で、『国民の権利が根底から覆される明白な危険』など、政府の集団的自衛権行使の新3要件について、『便宜的・意図的で、立憲主義に反した解釈変更だ』と徹底批判している。」に続いて、「だが、この憲法解釈変更は、内閣の公権的解釈権に基づき、従来の政府見解とも一定の整合性を維持している。批判は的外れだ。」との記載があるが、誤りである。まず、「内閣の公権的解釈権」であるが、これは論理的整合性が保たれている必要があり、それを逸脱したならば法解釈として成り立たないのであるから「公権的解釈権」の枠から外れることとなる。「従来の政府見解」である1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分は「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味しており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。よって、「整合性」は維持されておらず、批判は的当たりである。


安保2法案決定 的確で迅速な危機対処が肝要 2015年05月15日

[読売新聞] 安保2法案決定 的確で迅速な危機対処が肝要 (2015年05月15日)


 「民主党などは『専守防衛を意図的に変質させている』と批判する。だが、武力行使が認められるのは、あくまで日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある『存立危機事態』に厳しく限定されている。」との記載があるが、誤りである。まず、「専守防衛」とは「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことを言う。「存立危機事態」の要件は「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、」に当てはまらない。また、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に論理的に当てはまらないことから、「憲法の精神に則った」を満たさない。そのため、「存立危機事態」での「武力の行使」は「専守防衛」とは言えない。また、1972年(昭和47年)政府見解は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに規範を設定しているのであり、これを満たさないのであればたとえ「厳しく限定」と称する部分が要件に含まれていても違憲である。そもそも、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範であり、「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険」という自国の状態を認定するだけで「武力の行使」を可能とすることは9条の趣旨を満たさない。「厳しく限定」と称すれば9条に抵触しないかのように考えているようであるが、この論法では「厳しく限定」したならば「先制攻撃」や「侵略戦争」までもが9条に抵触しないと主張することができることとなり、法解釈として成り立たない。

 「憲法解釈の変更は、紛争の未然防止にこそ力点がある。憲法の平和主義や専守防衛の原則は維持されるうえ、従来の憲法解釈の法理とも整合性が取れている。」との記載があるが、誤りである。まず、「憲法解釈の変更」は法解釈であるから、論理的に成り立つものであることが求められる。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)から「存立危機事態」の要件が導き出されるとする2014年7月1日閣議決定は、論理的整合性が取れていない。1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分に、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれないからである。「憲法の平和主義」について、9条は前文の「平和主義」の理念を具体化した規定とされているが、9条解釈の範囲内で導き出すことのできない「存立危機事態」の要件を定めようとしているのであるから、9条の規範性を損なわせており、9条による具体化が実現されていないということは、前文の「平和主義」の理念も同時に損なわれていることとなる。9条に抵触するということは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」とはいえず、「専守防衛」を満たさない。これにより、「憲法の平和主義や専守防衛の原則」は維持されていないこととなる。「従来の憲法解釈の法理」であるから、1972年(昭和47年)政府見解のことであるが、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。よって、「従来の憲法解釈の法理」との整合性は取れていない。

 「先の大戦への反省や、安保問題での思考停止などから、むしろ従来の解釈が抑制的すぎた面が否めない。今回の見直しの結果、より適正な解釈になるとも言える。」との記載があるが、「従来の解釈」は論理的整合性や体系的整合性の維持された解釈であり、他の選択肢があるにもかかわらず敢えて抑制的にしたかのような評価は妥当でない。むしろ、「武力行使全面放棄説」のように見える9条の下で「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす場合にのみ「武力の行使」が可能であるとするものである。2014年7月1日閣議決定が 「より適正な解釈」であるか否かであるが、論理的整合性が保たれていないことから、不正な解釈である。「適正」とは言えない。



党首討論 抑止力向上の議論を深めたい 2015年05月21日

[読売新聞] 党首討論 抑止力向上の議論を深めたい (2015年05月21日)


 「集団的自衛権の行使は、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある『存立危機事態』に限定される。さらに、武力行使は必要最小限度にとどまる。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件が違憲でない旨を示すことはできていない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、たとえ「国民の権利が根底から覆される明白な危険」を理由とするだけで「武力の行使」を行うことは違憲である。ただ、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』によって「国民の権利が根底から覆される明白な危険」と認められる場合は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たすため「武力の行使」は可能である。「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中での「武力の行使」は、たとえ「限定され」ていると称しても違憲である。「武力行使は必要最小限度にとどまる。」の意味であるかが、ここでの「必要最小限度」の意味は恐らく三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものと思われる。この第三要件の限度についても、従来は「我が国に対する武力攻撃(第一要件)」を「排除(第二要件)」したならば、それ以上は「必要最小限度(第三要件)」を超えるとする部分が含まれ、第三要件それ自体の限度も第一要件と第二要件によって画することができたが、「存立危機事態」を第一要件とする新三要件は、「国民の権利が根底から覆される明白な危険」などという抽象的な観念を「排除」するための「武力の行使」であり、その限度を画することができない。よって、第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の部分についても、第一要件に「存立危機事態」が加わったことによりその限度を画することができなくなり、9条の規範性を損なわせ、9条に抵触して違憲である。


安保法案審議 自衛官のリスクを克服したい 2015年05月27日

[読売新聞] 安保法案審議 自衛官のリスクを克服したい (2015年05月27日)


 「安倍首相は、集団的自衛権の行使の限定容認について、『従来の憲法解釈との論理的整合性と法的安定性に十分留意した。解釈改憲、立憲主義の逸脱という批判は全く当たらない』と強調した。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定の内容は「論理的整合性」が保たれておらず、これにより「法的安定性」も損なわれているため誤った主張である。「論理的整合性」についてであるが、「従来の憲法解釈」である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に「存立危機事態」の要件は当てはまらない。これにより、憲法に反する要件を定めようとしているのであるから、「立憲主義の逸脱」との批判は全く妥当する。「全く当たらない」と結論のみを強調しようとするが、これでは「先制攻撃」や「侵略戦争」を行う要件を定めるとしても、「従来の憲法解釈との論理的整合性と法的安定性に十分留意した。」などと主張するだけで同様に「立憲主義の逸脱という批判は全く当たらない」と説明しようとするものとことならないのであり、正当化することはできない。法解釈は論理の積み重ねによって正当性を確定していく作業なのであり、この過程の整合性が示されていないにもかかわらず、「十分留意した。」や「批判は全く当たらない」と結論のみを述べるだけで正当化できるわけではないのである。

 「『一般に、武力行使を目的として海外の領土に入ることは許されない』との過去の首相答弁と、新3要件に合致すれば他国領域での行使も可能とする中谷防衛相らの発言の違いを追及したものだ。」との記載があるが、そもそも「海外派兵」の論点は「首相答弁」や「中谷防衛相らの発言」に誤りが存在する。従来より「海外派兵」は「一般に自衛のための必要最小限度を超える」ために憲法上許されないとしているが、この「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)を満たすことを意味している。「海外派兵」について「一般に自衛のための必要最小限度を超える」との基準を維持しているということは、「新3要件」を定めた後においても旧三要件を維持していることとなるのであり、整合性が保たれていない。また、「自衛のための必要最小限度」の意味が旧三要件から「新3要件」に置き換わったと考えるとしても、旧三要件は「我が国に対する武力攻撃(第一要件)」を「排除(第二要件)」したならばそれ以上の「武力の行使」を行ってはならないことから「海外派兵」が「一般に自衛のための必要最小限度を超える」としていたのであり、「新3要件」では「他国に対する武力攻撃(第一要件・存立危機事態)」を「排除(第二要件)」するための「武力の行使」となるにもかかわらず、その「他国」に対して「海外派兵」が行われないとする基準となるものは存在しない。これらの問題は、1972年(昭和47年)政府見解の中に「存立危機事態」の要件が含まれるなどとする論理的にあり得ない主張から生まれたものである。いずれにせよ、「新3要件」の「存立危機事態」に基づく「武力の行使」は違憲であり、行うことはできない。

 「首相は、『海外派兵は一般に憲法上許されない』としつつ、『受動的、限定的な行為』である機雷掃海は他国領域でも新3要件を満たす場合があり得ると答えた。」との記載があるが、そもそも「新3要件」の「存立危機事態」の要件は違憲であり、これに基づいて行動することはできない。たとえ「受動的、限定的な行為」と称しようとも、「存立危機事態」の要件に基づいて行動することは違憲となる。

 「集団的自衛権の行使は、あくまで正当防衛的な行為だ。他国領域での行使を法的に可能にすることに問題はない。敷設された当事国が日本に期待するような機雷掃海を、他国への侵略的な海外派兵と区別するのも合理的である。」との記載があるが、憲法に則った話となっていないため、法解釈としては誤りである。「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』である。これに該当するか否か、あるいはこの概念の性質が何であれ、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲は、9条解釈によって決せられることとなる。「他国領域での行使を法的に可能にすることに問題はない。」との記載があるが、「他国領域」での「武力の行使」については日本国の国内法である憲法上で「法的に可能にすること」は「一般に自衛のための必要最小限度を超える」こととなるため行うことができない。この「自衛のための必要最小限度」の意味は、三要件(旧)を指しており、この第一要件は1972年(昭和47年)政府見解の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」の部分と対応するものである。そのため「法的に可能にすること」は憲法上一般に許されないことから行うことができない。「問題はない。」との認識は誤りである。「機雷掃海を、他国への侵略的な海外派兵と区別するのも合理的」との記載があるが、日本国憲法は直接的に「海外派兵」を禁じているわけではなく、「自衛のための必要最小限度(旧三要件)」に一般に該当しないことにより憲法上許されないとしているだけである。そのため、「他国領域」での「機雷掃海」を「海外派兵」と区別したところで、「自衛のための必要最小限度(旧三要件)」を満たさないことに変わりなく、「合理的」か否かなど論点に登らない。


安保法案審議 専守防衛の本質は変わらない 2015年05月30日

[読売新聞] 安保法案審議 専守防衛の本質は変わらない (2015年05月30日)


 「安倍首相は、集団的自衛権の行使の限定容認に関して『専守防衛の考え方は全く変わらない。新3要件で許容される武力行使はあくまで自衛の措置だ』と語った。」との記載があるが、誤った主張である。まず、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」であるが、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中で「武力の行使」を行うものである。しかし、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の下では「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。「集団的自衛権の行使」に該当する「武力の行使」については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を満たさない中での「武力の行使」であることから、違憲となる。「専守防衛」とは、「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことを言うが、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」は「憲法の精神に則った」を満たさないことから、「専守防衛」とは言えない。そのため「専守防衛の考え方は全く変わらない。」との認識は誤りである。また、「新3要件で許容される武力行使はあくまで自衛の措置だ」についてであるが、1972年(昭和47年)政府見解は「自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」としており、「あくまで自衛の措置」などと「自衛の措置」であることを理由として憲法上容認されるかのように主張することは誤りである。また、「新3要件」の「存立危機事態」の要件についても、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に論理的に当てはまらず、違憲である。

 「集団的自衛権の行使が可能なのは、日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険があるケースに限られる。」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲でない旨を示すことはできていない。9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としているのであり、これを満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。これを満たさないにもかかわらず、「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」などと自国の状態のみを理由として「武力の行使」に踏み切ることは、9条が政府の自国都合による「武力の行使」を制約する趣旨を満たさず、違憲となる。ただ、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められる場合、それを「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」状態として「武力の行使」に踏み切ることは可能である。これについては、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たしており、1972年(昭和47年)政府見解に当てはまるからである。

 「さらに、政府は、『国民の生死にかかわるような深刻、重大な影響』の有無などを総合評価し、行使の可否を判断する方針だ。相当、厳格な歯止めがかかっている。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件が違憲でない旨を示したものとは言えない。政府が「『国民の生死にかかわるような深刻、重大な影響』の有無などを総合評価」するだけで「武力の行使」に踏み切ることができるとする要件を定めることは、結局政府が自国の状態を主観的に判断することのみによって「武力の行使」を行うことが可能となるのであって、9条が政府の自国都合による「武力の行使」を制約しようとした趣旨に反する。このような要件を「相当、厳格な歯止めがかかっている。」と主張したところで、9条に抵触しない旨を示したものとは言うことができない。1972年(昭和47年)政府見解の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、要件の中に「相当、厳格な歯止め」などと称する文言があったとしても、これを満たさないのであれば違憲である。

 「憲法の精神に基づく専守防衛の原則は堅持される、と言えよう。」との記載があるが、誤りである。「専守防衛」とは「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいうが、「存立危機事態」の要件は9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解に適合せず、「憲法の精神に則った」を満たさない。これにより、「専守防衛の原則」は堅持されていない。「憲法の精神に基づく専守防衛の原則は堅持される、と言えよう。」との認識は誤りである。

 「国会の承認を前提に、政府に一定の裁量範囲を与えなければ、自衛隊が柔軟かつ効果的な活動をすることはできない。」との記載があるが、国会の権限も政府の権限も憲法に基づくものである必要があり、「国会の承認」があったとしても「存立危機事態」の要件が合憲に変わるわけではない。また、「政府に一定の裁量範囲を与えなければ」との記載もあるが、政府は憲法の範囲内でしか裁量を有していないのであり、「柔軟かつ効果的な活動」を理由として憲法の規範を踏み越えることはできない。1972年(昭和47年)政府見解の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさなければ、「武力の行使」を発動するかしないか、どのような態様で行うか、などの裁量は生まれない。


安保法案審議 過剰な制約で「切れ目」作るな 2015年06月03日 

[読売新聞] 安保法案審議 過剰な制約で「切れ目」作るな (2015年06月03日)


 「憲法・法律上は可能な自衛隊の活動でも、政策判断で実施しないことは当然、あり得よう。」との記載があるが、確かにその通りであるが、「存立危機事態」での「武力の行使」については憲法に違反することから憲法上不可能な活動であり、政策判断によって実施できるとする部分はない。

 「だが、自衛隊は、他国の軍隊と違って、法律の定める行動しかできない抑制的な組織だ。今回の法案以上の歯止めをかけることには極力、慎重であるべきだろう。」との記載があるが、「今回の法案」の「存立危機事態」での「武力の行使」については違憲であり、これに基づく「自衛隊」の「行動」ができるかのような前提で話を進めている点が誤りである。


集団的自衛権 限定容認は憲法違反ではない 2015年06月06日

[読売新聞] 集団的自衛権 限定容認は憲法違反ではない (2015年06月06日)


 「中谷防衛相は安全保障関連法案審議で、集団的自衛権の限定行使について、『憲法違反にならない』と答弁した。『これまでの憲法9条の議論との整合性を考慮し、行政府の憲法解釈の範囲内だ』とも語った。」との記載があるが、誤りである。まず、「これまでの憲法9条の議論との整合性」についてであるが、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解やその他の国会答弁や政府答弁書などと整合性はない。1972年(昭和47年)政府見解やその他の国会答弁はすべて「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことにより初めて「武力の行使」を実施することができるとしており、これを満たさない中で「武力の行使」をすることは違憲となるとしている。また「行政府の憲法解釈」についてであるが、「憲法解釈」は論理的整合性や体系的整合性を保たなければならないが、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分に「我が国に対する武力攻撃」以外の「他国に対する武力攻撃」が含まれていると考えることはこれを損なっている。よって、2014年7月1日閣議決定については、「行政府の憲法解釈の範囲内」とは言うことができず、行政権に与えられた裁量の範囲を逸脱した違法な行為であり、「存立危機事態」の要件についても違憲である。

 「参考人の長谷部恭男早大教授は『従来の政府見解の基本的論理で説明がつかないし、法的安定性を大きく揺るがす』と述べた。首をかしげたくなる見解である。」との記載があるが、「従来の政府見解の基本的論理で説明がつかない」とは1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件が当てはまるとすることは論理的に説明がつかないという意味である。「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分に「我が国に対する武力攻撃」以外の「他国に対する武力攻撃」が当てはまらないのである。「首をかしげたくなる」との認識は、1972年(昭和47年)政府見解を丁寧に読み込むことができていないものと思われる。「法的安定性」については、政府がこれまで維持して確立してきた見解を変更することに対するものと、論理的整合性のない文面で結論のみを正当化しようとているものとの2つの側面があると考えられる。

 「政府は、集団的自衛権の行使について『我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険』という、極めて厳しい要件をつけている。」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲でない旨を示すものとはなっていない。まず、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、「極めて厳しい要件」を付けたとしても、これを満たさないのであれば違憲となる。「極めて厳しい要件」と考えるからといって、それによって直ちに9条に抵触しないと言えるわけではないのである。1972年(昭和47年)政府見解の法解釈上の規範は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かである。

 「この要件は、自国の存立を全うするために必要な自衛措置を容認した1959年の最高裁の砂川事件判決を踏まえたものだ。」との記載があるが、やや飛躍がある。砂川事件判決は、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然」と述べているが、その選択肢として示したものは「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。そのため、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については触れていないため、「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険」の部分を直接砂川事件判決と関連付けようとすることには飛躍がある。

 「国民の権利が根底から覆される事態に対処する、必要最小限度の武力行使は許容されるとした72年の政府見解とも合致している。」との記載があるが、誤りである。確かに1972年(昭和47年)政府見解には「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」や「右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきもの」との文言があるが、これは「自衛の措置」の限界について示した規範の一部分を抜き出したものであり、規範そのものではないからである。1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界について示した規範部分は「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」である。9条は政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として自国都合の「武力の行使」が行われることを制約するための規定であり、その9条解釈から導き出される規範が「国民の権利が根底から覆される事態」という自国の状態のみに基準を見出すことは、法解釈として妥当でない。1972年(昭和47年)政府見解は「(我が国に対する)外国の武力攻撃」に規範を設定しているのであり、これを満たさない中での「武力の行使」はたとえ「国民の権利が根底から覆される事態」を理由としても正当化されない。(注意したいのは、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められることによって「国民の権利が根底から覆される事態」と判断された場合には、「武力の行使」は可能である。)これにより、「72年の政府見解」の一部分の文言に「合致」していたとしても、「72年の政府見解」そのものには「合致」していないため、「72年の政府見解」そのものに合致しているかのような認識によって「72年の政府見解とも合致している。」と主張することは誤りである。

 「これは、内閣が持つ憲法の公権的解釈権に基づく合理的な範囲内の憲法解釈の変更だ。国会は現在、法案審議を通じて関与し、司法も将来、違憲立法審査を行える。」との記載があるが、誤りがある。まず、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に「我が国に対する武力攻撃」以外の「他国に対する武力攻撃」もここに当てはまると主張している点で論理的整合性がない。そのため、「内閣が持つ憲法の公権的解釈権」に論理的整合性のない法解釈を行い、憲法解釈を変更する権限はないため、「合理的な範囲内の憲法解釈」とは言えない。

 「まさに憲法の三権分立に沿っており、法的な安定性も確保できる。新見解が『立憲主義に反する』との野党の批判は当たるまい。」との記載があるが、内閣の憲法解釈の不正の問題で「まさに三権分立」と殊更に取り上げる意味がよく分からない。また、解釈変更や解釈の手続きの不正に対して「法的な安定性」がないことを指摘されているのであり、三権分立によって「法的な安定性」が確保されるとすることはややズレている。「新見解」である2014年7月1日閣議決定は、「存立危機事態」という違憲な要件を正当化しようとしている点で、憲法に反したものであり、「立憲主義に反する」との批判は当たるものである。

 「中谷氏は、集団的自衛権の限定行使について『やむを得ない自衛措置として初めて容認される』と述べた。国際法上の集団的自衛権とは異なる点を認めたものだ。」との記載があるが、誤りがある。「国際法上の集団的自衛権」も「やむを得ない」場合に「初めて容認される」ものであり、それ以外の選択肢がある中で「武力の行使」を行えば違法となるはずである。国際法上の「集団的自衛権」に「限定」などという区分は存在しない。「存立危機事態」での「武力の行使」については、2014年7月1日閣議決定においても政府自身が採用している1972年(昭和47年)政府見解によって違憲となる。

 「抑止力を強化する観点では、本来、他国と同様、行使の全面容認が望ましかった。だが、過去の解釈との整合性などから限定容認にしたのは現実的な選択だった。」との記載があるが、政策論上の当否については憲法論(法律論)ではないため論じないが、「過去の解釈との整合性」については、1972年(昭和47年)政府見解と「存立危機事態」での「武力の行使」に整合性はなく、誤りである。また、「限定容認」との文言であるが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」に規範を設定しており、これを満たさないのであればたとえ「限定」と称しても「武力の行使」は「容認」されない。


集団的自衛権 脅威を直視した議論が大切だ  2015年06月11日

[読売新聞] 集団的自衛権 脅威を直視した議論が大切だ (2015年06月11日)


 「日本の平和を確保するには、憲法との整合性を前提として、現実の脅威や安全保障環境を直視した議論が大切である。」との記載があるが、「憲法との整合性を前提として」の部分についてその通りである。しかし、「存立危機事態」の要件については1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によって、9条に抵触して違憲である。

 「政府は、集団的自衛権の限定行使を容認する安保関連法案について、『従前の憲法解釈との論理的整合性が十分に保たれている』とする見解を発表した。」との記載があるが、その政府が発表した2014年7月1日閣議決定の内容は、「従来の憲法解釈」である1972年(昭和47年)政府見解との論理的整合性が保たれていないため誤りである。1972年(昭和47年)政府見解によって、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」は容認されず、違憲となる。また、国際法上の「集団的自衛権」に「限定」などの区分は存在せず、「限定行使」などという文言も法学上は成り立たない。

 「1959年の最高裁の砂川事件判決は、日本の存立を全うするための自衛措置を可能とした。72年の政府見解は、国民の権利を守るための武力行使を認めた。今回の政府見解は、一連の『基本的な論理』が維持されると指摘した。」との記載があるが、これについてはほとんど正しい。ただ、2014年7月1日閣議決定において「基本的な論理」と称しているのは1972年(昭和47年)政府見解の一部分であり、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の文言は砂川事件判決の「自衛のための措置」の文言と軌を一にするものではあるが、砂川事件判決の文言が「基本的な論理」と称するものの対象となるかは微妙である。2014年7月1日閣議決定においても、「従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり」と表現しており、「政府」の文言があることから、司法権の砂川事件判決の判決文が含まれるとは考えにくいからである。「一連の」と表現して砂川事件判決の判決文まで「基本的な論理」と称することにはやや抵抗感がある。また、2014年7月1日閣議決定は確かに「基本的な論理」が維持されると主張しているが、実質的には「存立危機事態」の要件が「基本的な論理」の中に論理的に含まれることはなく、維持されているとは言えない。

 「一方で、日本の安保環境の根本的な変容を理由に、他国に対する第三国の攻撃でも『我が国の存立を脅かすことも起こり得る』とし、自衛の措置としての集団的自衛権の限定行使を容認している。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに規範を設定しているのであり、「他国に対する第三国の攻撃」が発生しても、これを満たさない中で「武力の行使」を行えば違憲である。また、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規範であり、「我が国の存立を脅かすこと」を理由とするだけで「武力の行使」が正当化されると考えることは9条解釈として成り立たない。よって、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は違憲であり、たとえ「限定」と称しようとも違憲であることは変わりなく、容認されない。もう一つ、「一方で、」の接続語であるが、適切な用法であるか疑問がある。2014年7月1日閣議決定においても、「憲法第9条は…一切禁じているように見えるが、…踏まえて考えると、…を禁じているとは到底解されない。 <一方、>この自衛の措置は、…として初めて容認されるものであり、…『武力の行使』は許容される。」として「一方、」の文言が使われているが、「一方、」の文言が適切に使われているとは思えない文章となっている。この点で「一方」の使い方の不確かさがこの論者の文面と類似しているように思われる。また、2014年7月1日閣議決定は、「一方、」の後に続く文は「この自衛の措置は、」との書き始めであるにもかかわらず、語尾は「『武力の行使』は許容される。」となっており、文章として意味不明である。「この自衛の措置は、…『武力の行使』は許容される。」との文章の意味が日本語として正しく通じているのか検証する必要がある。

 「そもそも国民の権利が根底から覆される明白な危険がある『存立危機事態』に日本が陥った場合、自衛隊を動かさず、傍観しているだけで良いはずがあるまい。」との記載があるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定であり、「国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」というだけで「武力の行使」を可能とする要件を定めることは9条解釈として成り立たない。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、「国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」との理由のみで「武力の行使」に踏み切ることは違憲である。注意したいことは、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められる場合には、それを「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」(ここでいう『国民の権利が根底から覆される明白な危険がある』に対応する部分)として「武力の行使」を行うことは可能なことである。「我が国に対する武力攻撃」の『着手』があるかないかが重要な点である。

 「事態がより危機的な状況に発展する前に、早期収拾を図ることは合理的な対応でもある。」との記載があるが、政策的な当否については憲法論(法律論)でないため論じないが、憲法論(法律論)としては9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定であり、「早期収拾を図る」などを理由として「武力の行使」を可能とするような要件を定めることは9条の規範性を損なうため不可能である。憲法論(法律論)としては成り立たない。前文「平和主義」の理念からも、「早期収拾を図る」ことを理由として「武力の行使」に踏み切り、他国民を犠牲にする可能性のある措置を行うことが容認される余地はない。

 「中国の軍備増強や海洋進出、北朝鮮の核・ミサイル開発などを踏まえれば、憲法の範囲内で自衛隊の役割を拡大し、日米同盟と国際連携を強化して抑止力を高めるのは当然だ。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件については1972年(昭和47年)政府見解から逸脱しており「憲法の範囲内」とは言えない。これに基づき「自衛隊」が「武力の行使」を行った場合、違憲となる。


集団的自衛権 最高裁判決とも整合性がある 2015年06月16日

[読売新聞] 集団的自衛権 最高裁判決とも整合性がある (2015年06月16日)


 「政府は、法案が過去の政府見解や最高裁判決の『基本的な論理』を踏襲していることや、日本の平和確保に必要なことを繰り返し説明し、国民の理解を広げるべきだ。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件については1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまることはなく、「踏襲している」とは言えない状態である。繰り返し説明しても論理的な過程に不正があることから、「存立危機事態」での「武力の行使」が合憲のものに変わることはない。

 「1959年の最高裁の砂川事件判決は、『自国の平和と安全を維持し、存立を全うするために必要な自衛』の措置を認めた。『憲法の平和主義は、決して無防備、無抵抗を定めたものではない』とも指摘している。当然の見解だ。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。確かに砂川事件判決は「わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」として「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然」と述べているが、その「自衛のための措置」として挙げられているのは「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。砂川事件判決では、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないのであるから、これを持ち出して「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化しようとすることは不可能である。

 「民主党などは、この判決を基にした集団的自衛権の限定行使の容認は『論理のつまみ食い』『一方的な都合の良い解釈の変更』と批判する。的外れな主張だ。」との記載があるが、先ほども述べたように、砂川事件判決では日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないのであるから、「この判決を基にした集団的自衛権の限定行使」としての「武力の行使」を可能とすることはできない。「的外れな主張だ。」との記載があるが、的当たりである。

 「確かに、裁判は米軍駐留の違憲性が争われたもので、集団的自衛権の可否は問題になっていなかった。だが、判決で最も肝心な点は、自国の存立を全うするための自衛の措置を容認したことにある。」との記載があるが、誤りである。砂川判決で最も肝心な点は、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの」として「米軍駐留」に関する法的判断を避けたことである。

 「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある『存立危機事態』は、まさにこの点に合致している。」との記載があるが、誤りである。まず、砂川事件判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。そのため、「存立危機事態」の要件についてこの判決と合致しているとして「武力の行使」を正当化することはできない。また、砂川事件判決に「合致している」と言えるほど近い文言はない。

 「存立危機事態に陥っても、集団的自衛権が行使できないなら、憲法前文や13条の定める生存権や幸福追求の権利が損なわれよう。」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲でない旨を示す根拠とはならない。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機や「国民の利益」を追求することなどによって政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範であり、「憲法前文や13条の定める生存権や幸福追求の権利」を拡大適用することによって「武力の行使」を可能とする考えは、9条の存在そのものを無視するものとなるから、法解釈として成り立たない。また、9条の下では、前文の「平和的生存権」や13条の「国民の権利」の趣旨によって例外的に「武力の行使」を可能とするとしても、政府の恣意性の入り込む余地のない要件によってその限度を画し、9条の規範性を損なうことがないものでなければならない。9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としており、これを満たさない中での「武力の行使」は違憲となる。よって、「憲法前文や13条の定める生存権や幸福追求の権利が損なわれよう。」との理由のみによって「武力の行使」を正当化する主張は、9条に抵触する。


党首討論 岡田氏は米艦防護を拒むのか 2015年06月18日

[読売新聞] 党首討論 岡田氏は米艦防護を拒むのか (2015年06月18日)


 「安倍首相は、法案は『憲法の範囲内にある』と反論した。集団的自衛権の限定行使を容認した理由として、『国際状況に目をつぶって、国民の命を守る責任を放棄してはならない』とも強調した。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は「憲法の範囲内にある」とは言えない。1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分は「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味しており、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに含まれないからである。「国際状況に目をつぶって、国民の命を守る責任を放棄してはならない」との記載があるが、国会や内閣以下の行政機関は憲法の範囲内でしか権限を有していないのであり、これを逸脱することはできない。現在の憲法の枠を超える活動を行いたいのであれば、それは合法的な手段としては憲法改正を行う必要があり、それを行わずに違憲な要件を定めたり、それを実行することは違憲・違法となる。加えて、国際法上の「集団的自衛権」に「限定」などという区分は存在しない。また、憲法上は1972年(昭和47年)政府見解によって「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は、たとえ「限定」と称しようとも違憲であり、容認されない。

 「集団的自衛権の行使には、『国民の権利が根底から覆される明白な危険』などの厳格な要件が定められている。日本の存立を全うするための自衛措置は許されるとの従来の政府見解も踏襲している。『違憲』批判は当たらない。」との記載があるが誤りである。まず、「従来の政府見解」である1972年(昭和47年)政府見解は「平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」としており、「日本の存立を全うするため」であるからといって必ずしも「自衛の措置」を許容しているわけではない。そこで示された「自衛の措置」の限界は、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」というものである。この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分は、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味しており、これを満たさない中で「武力の行使」を行うこととなる「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や「存立危機事態」での「武力の行使」については、「自衛の措置」の限界を超えるため違憲である。また、1972年(昭和47年)政府見解は9条解釈であり、これは「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに規範を設定したものであるから、これを満たさないのであればたとえ「『国民の権利が根底から覆される明白な危険』などの厳格な要件」と称する部分があったとしても違憲であることは変わらない。論者は、厳格な要件と称する部分があればあたかも9条に抵触しないかのように考えている点と、「従来の政府見解」が「日本の存立を全うするための自衛措置は許される」と定めているだけで「自衛の措置」の限界が記されていないかのように考えている点で誤りである。「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」については1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に当てはまらず、違憲である。「『違憲』批判は当たらない。」との認識は誤りである。

 「法律に基づき、『時の内閣』が現場の状況や国際情勢を踏まえて政策判断するのは当然だ。『白紙委任』との主張もおかしい。」との記載があるが、「法律」や「時の内閣」は憲法の枠内でしか効力や権限を有していない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさなければ「武力の行使」を発動してはならないのであり、これを満たさない「法律」は違憲無効であるし、「時の内閣」も「政策判断」以前に権限を有さない。「存立危機事態」の要件の「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」であるが、具体的にどのような状態を指しているのか曖昧不明確である。このような要件を法律で定めることは、政府がこれに該当すると言えば該当することとなり、該当しないと言えば該当しないこととなるという意味で、「白紙委任」ということができる。ただ、このような曖昧不明確な要件を定めたことは、政府の自由裁量によって「武力の行使」が行われることを許容することととなってしまうことから、9条の規範性を損なっており、それ自体で違憲である。


安保法案審議 戦略的な曖昧性は確保したい 2015年06月27日

[読売新聞] 安保法案審議 戦略的な曖昧性は確保したい (2015年06月27日)


 「様々な事態に自衛隊がどう対処するかについては、時の政府が情勢を総合的に判断できる裁量の余地を残しておく必要がある。」との記載があるが、9条に抵触しない範囲であれば「裁量の余地」があるのは当然であるが、9条に抵触しないためには1972年(昭和47年)政府見解で示された「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす必要があり、これを満たさない中では政府に「武力の行使」をするかしないかに関する「裁量の余地」は存在しない。「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないにもかかわらず、「時の政府が情勢を総合的に判断」するだけで「武力の行使」を可能とする要件を定めることは、1972年(昭和47年)政府見解に抵触して違憲となる。


野党安保対案 採決引き延ばし目的では困る 2015年07月09日

[読売新聞] 野党安保対案 採決引き延ばし目的では困る (2015年07月09日)


 「だが、政府案は、1959年の最高裁砂川事件判決や72年の政府見解と論理的な整合性があり、『違憲』との主張は当たらない。」との記載があるが、誤りである。まず、砂川事件判決では日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないため、これを基に「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化することはできない。また、1972年(昭和47年)政府見解には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言があり、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味する。そのため、ここに「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれることはなく、「論理的な整合性」はない。よって、1972年(昭和47年)政府見解によって「違憲」となり、「『違憲』との主張は当たらない。」との認識は誤りである。

 「そもそも日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆されるような『存立危機事態』を、武力行使で切り抜けることを憲法が禁じているとは考えられない。」との記載があるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定であり、「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される」という自国の状態のみを理由として「武力の行使」に踏み切ることは9条の趣旨に抵触して違憲となる。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』のない段階で「武力の行使」を行うことは違憲である。ただ、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められた場合には、それを「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される」状態として「武力の行使」を行うことは可能である。1972年(昭和47年)政府見解によって「憲法が禁じているとは考えられない。」とされているのは、この部分に該当するものである。

 「政府案は、集団的自衛権行使に十分厳格な歯止めをかけている。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないのであればすべて違憲であり、「集団的自衛権行使」としての「武力の行使」は、これを満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから違憲である。たとえ「十分な歯止め」と称する文言があったとしても、これを満たさなければ違憲である。


安保集中審議 厳しい事態にも備える法制に 2015年07月11日

[読売新聞] 安保集中審議 厳しい事態にも備える法制に (2015年07月11日)


 「法理を維持した憲法解釈の変更により集団的自衛権の行使を限定容認し、米艦防護などを行う政府案の論理の方が説得力を持つ。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定の「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらず、「法理を維持した」との認識は誤りである。そのため、「法理を維持した憲法解釈の変更」ではなく、論理的整合性のない不正な手続きである。1972年(昭和47年)政府見解の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲となるのであるから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」はすべて違憲であり、「限定容認」される「武力の行使」があるとの認識は誤りである。「政府案の論理」は1972年(昭和47年)政府見解の下で「存立危機事態」の要件を許容しようとしている点で論理的整合性がなく、法解釈として成り立たないことから、「説得力」と言えるものはない。


安保法案公聴会 国際秩序の危機を直視したい 2015年07月14日

[読売新聞] 安保法案公聴会 国際秩序の危機を直視したい (2015年07月14日)


 「事態の認定は、時の政権が現場の状況や国際情勢などを総合的に勘案し、判断すべきものだ。政権に一定の裁量権がなければ、効果的な自衛隊の運用はできない。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件が違憲でない旨を示すものとは言えない。「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分については具体的にどのような状況を指しているのか曖昧不明確である。このような要件は、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずる恐れがある。また、曖昧不明確な内容であることから、その要件該当するか否かの「事態の認定」についても、政府が「該当する」と言えば該当し、「該当しない」と言えば該当しないものとなり、9条が政府の自由な行為を法規範によって制約しようとする趣旨を損なうものである。それを「時の政権が現場の状況や国際情勢などを総合的に勘案し、判断すべき」とすることは、実質的に「武力の行使」の可否を政府の自由裁量に委ねるものとなり、9条が政府の自国都合による「武力の行使」を制約しようとした趣旨を満たさず、9条に抵触して違憲となる。

 「だが、集団的自衛権の行使には、国民の権利が覆されるなどの厳格な要件が定められている。自国の存立を全うする自衛措置を容認した司法判断や政府見解に沿っており、違憲の主張は当たらない。」との記載があるが、誤りである。まず、「司法判断」とは砂川判決を指していると思われるが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。そのため、「司法判断」である砂川判決を基に「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化することはできない。次に、「政府見解」とは1972年(昭和47年)政府見解を指すと思われるが、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、ここに「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。よって、「存立危機事態」での「武力の行使」が「政府見解に沿っており」とすることは誤りである。また、「国民の権利が覆されるなど厳格な要件が定められている。」の部分について、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさなければ「武力の行使」はすべて違憲としているのであり、たとえ「厳格な要件」と称する文言があったとしても、これを満たさなければ違憲である。「厳格な要件」であれば9条に抵触しないかのように考えている点に誤りがある。もし「厳格な要件」と称するだけで「武力の行使」が可能となるのであれば、それは「先制攻撃」や「侵略戦争」に関しても「厳格な要件」と称するだけで可能となってしまうのであり、法解釈として正当化することはできない。

 「山口二郎・法政大教授は、安保法案が『専守防衛を逸脱する』と断じたが、日本の存立が脅かされる事態での武力行使は、専守防衛の範囲内のはずだ。」との記載があるが、誤りである。まず、「専守防衛」とは、「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことを言う。「存立危機事態」の要件は「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、」に該当しない。また、1972年(昭和47年)政府見解にも当てはまらないことから違憲であり、「憲法の精神に則った」を満たさない。そのため、「存立危機事態」での「武力の行使」については「専守防衛」とは言えない。「専守防衛を逸脱する」と断じたことは正確であり、「専守防衛の範囲内のはずだ。」との認識は誤りである。


安保法案参院へ 日本の平和確保に重要な前進 2015年07月17日

[読売新聞] 安保法案参院へ 日本の平和確保に重要な前進 (2015年07月17日)


 「法案は、限定行使に厳格な要件を定めた。日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある『存立危機事態』での行使は、1959年の最高裁砂川事件判決や72年の政府見解の基本的な論理を維持している。」との記載があるが、誤りである。まず、砂川事件判決では日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べておらず、これを根拠に「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化することはできない。また、「基本的な論理」とは1972年(昭和47年)政府見解の一部分について2014年7月1日閣議決定がそのように称しているだけであり、砂川事件判決の文面は対象となっていない。1972年(昭和47年)政府見解の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、たとえ「限定」や「厳格な要件」などと称する文言が含まれていても、これを満たさないのであれば違憲である。

 「最高裁は集団的自衛権の行使の可否に直接言及していないが、肝心なのは、日本の存立を全うするための自衛措置を認めた点だ。」との記載があるが、砂川事件判決が「自衛のための措置」を認めているとしても、砂川事件判決が示した「自衛のための措置」の内容は、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否について何も述べていないのであるから、これを基に「集団的自衛権」や「個別的自衛権」に基づく「武力の行使」が可能であるとの結論は導かれない。

 「論理的に整合性のある憲法解釈の変更は、内閣の公権的解釈権の範囲内にある。憲法改正すべき内容を解釈変更で行う『解釈改憲』とは本質的に異なるものだ。」との記載があるが、前半は正しい。「論理的に整合性のある憲法解釈の変更」は可能である。しかし、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分を維持していると主張しながらも、その「基本的な論理」に当てはまるはずのない「存立危機事態」での「武力の行使」を認めようとしている点で「論理的に整合性」がない。よって、「内閣の公権的解釈権の範囲内」にあるとは言えず、行政権に与えられた権限を逸脱し、違法となる。これにより、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解によって違憲となる。違憲となる要件を定めようとしているのであるが、「憲法改正すべき内容」である。

 「このような法案を長時間の審議と正当な手続きを経て、採決したことには何の瑕疵(かし)もあるまい。」との記載があるが、内容が違憲であればたとえ「長時間の審議」や「正当な手続き」という手続き面に問題がなかったとしても、違憲であることには変わりない。内容の違憲性についてまで、「何の瑕疵もあるまい。」との認識で正当化することはできない。

 「法案を『違憲』と決めつける憲法学者や野党議員は、日本の存立が危うい事態にさえ武力を行使できない、と考えるのだろうか。」との記載があるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定であり、「日本の存立が危うい事態」と考えるだけで直ちに「武力の行使」に踏み切ることが正当化されることはない。1972年(昭和47年)政府見解の下でも、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められた場合に、それを「日本の存立が危うい事態」と考えて「武力の行使」を行うことは可能であるが、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められないにもかかわらず、「武力の行使」に踏み切ることは違憲となる。



安保法案審議 参院でより丁寧な説明尽くせ 2015年07月28日

[読売新聞] 安保法案審議 参院でより丁寧な説明尽くせ (2015年07月28日)


 「首相は、『憲法解釈の最終的な機能を有する唯一の機関は最高裁で、(法案は)その判決の範囲内で憲法に合致したものだ』と反論した。1959年の最高裁砂川事件判決を踏まえた発言である。」との記載があるが、誤りである。砂川事件判決が認めた「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけであり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。そのため、「存立危機事態」での「武力の行使」について「その判決の範囲内」と言うことはできない。また、「憲法に合致」しているか否かについても、砂川事件判決では何も述べていないのであるから、「憲法に合致したものだ」との結論を導き出すことはできない。「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)にも適合しないものであるから、1972年(昭和47年)政府見解から見ても「憲法に合致したもの」とは言えない。


集団的自衛権 法的安定性は確保されている 2015年07月31日

[読売新聞] 集団的自衛権 法的安定性は確保されている (2015年07月31日)


 「安全保障関連法案は、法的安定性や、過去の政府見解との論理的整合性を十分に確保している。」との記載があるが、誤りである。「過去の政府見解」である1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、ここに「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれないからである。「論理的整合性」は確保されておらず、「十分に確保している。」との認識は誤りである。「論理的整合性」が維持されていないのであるから、「法的安定性」も損なわれており、「十分に確保している。」とは言えない。

 「一方で、安保法案は、存立危機事態や必要最小限の武力行使といった厳格な要件を定めることで、過去の最高裁判決や政府見解の基本的な論理を踏襲している。」との記載があるが、誤りである。「過去の最高裁判決」である砂川判決は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べておらず、「存立危機事態」での「武力の行使」についてこれを「踏襲している。」と考えることは飛躍がある。また、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、ここに「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。そのため、「基本的な論理を踏襲している。」とは言えず、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないのであればたとえ「厳格な要件」と称しても違憲である。「厳格な要件」と称するだけで9条に抵触しないと考えるのであれば、「先制攻撃」や「侵略戦争」に関しても同様に「厳格な要件」と称することで9条に抵触しないこととなってしまうのであり、法解釈として成立しないのである。

 「本来、抑止力向上の観点では、昨年5月に有識者会議が提言した全面的な行使の容認が望ましかった。だが、これを退け、限定容認にとどめたのは、法的安定性を重視したためにほかならない。」との記載があるが、誤りである。まず、「安保法制墾」の内容の誤りについては、当サイト「安保法制墾の間違い」のページにて解説した。「限定容認」との記載であるが、1972年(昭和47年)政府見解の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないのであればたとえ「限定」と称しても「武力の行使」は正当化されない。「限定容認」との考えは、違憲である以上容認されず、誤りである。


安保法案審議 徴兵制導入は飛躍した議論だ 2015年08月04日

[読売新聞] 安保法案審議 徴兵制導入は飛躍した議論だ (2015年08月04日)


 「安倍政権は、集団的自衛権の憲法解釈の変更において、全面的な行使を認めず、限定容認にとどめるなど、法的安定性の確保を極めて重視してきた。」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲でない旨を示すことはできていない。2014年7月1日閣議決定でも採用されている1972年(昭和47年)政府見解の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないのであればたとえ「全面的な行使を認めず、限定容認にとどめる」とする「武力の行使」であっても違憲である。「存立危機事態」での「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に論理的に当てはまることはなく、「法的安定性」は損なわれている。「極めて重視してきた。」との記載があるが、実質的には「法的安定性」が損なわれているのであり、「重視」しているか否かにかかわらず、違憲である。

 「『存立危機事態』という厳しい要件を設定したのも、最高裁判決などとの整合性を保つためだ。」との記載があるが、誤りである。「最高裁判決」である砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べておらず、「存立危機事態」での「武力の行使」がその砂川判決と「整合性を保つためだ。」と考えようにもそもそも整合性がない。また、1972年(昭和47年)政府見解の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないのであればたとえ「厳しい要件を設定した」としても違憲であることには変わりない。

 「従来の政府見解が集団的自衛権の行使を禁じていたのは、過剰に抑制的な憲法解釈を前提とし、全面的行使を想定していたためだ。限定容認や、大量破壊兵器の拡散など安保環境の劇的な変化は考慮されていなかった。」との記載があるが、誤りである。まず、法解釈は論理的整合性や体系的整合性によって確定する作業なのであり、いくつかある解釈のルートのどれを採用するかについては変化することがあるものの、選択したルートの中の規範が「大量破壊兵器の拡散など安保環境の劇的な変化」などによって変化することはない。「過剰に抑制的な憲法解釈を前提とし、」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解のルートの解釈を選択している以上は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないのであれば「武力の行使」を行ってはならないという規範そのものは揺らぐことはない。そのため、「過剰に抑制的」との評価は、法解釈としては導かれない。また、「従来の政府見解」は「武力の行使」を制約しているのであり、「集団的自衛権の行使」という国際法上の概念そのものを制約しているわけではない。国際法上で「集団的自衛権」を行使することは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由を行使するという意味であり、実質的に「武力の行使」がなされている状態となる。9条がこの「武力の行使」を制約する結果として「集団的自衛権の行使」が憲法上許されないとの結論に至るだけである。そのため、「従来の政府見解」は「武力の行使」を制約しているにもかかわらず、「全面的行使を想定していたためだ。」などと「集団的自衛権の行使」そのものを制約しているかのような認識は誤りである。

 「憲法が、日本の存立が脅かされる危機においてさえ、武力行使を禁じているとは考えられない。論理的整合性を維持した憲法解釈変更は、何の問題もあるまい。」との記載があるが、誤りである。確かに「論理的整合性を維持」しているのであれば、「憲法解釈変更」も可能である。しかし、2014年7月1日閣議決定においては、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」を意味しているにもかかわらず、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれると主張している点で論理的整合性がない。そのため、「論理的整合性を維持した憲法解釈変更」とは言うことができず、違憲の問題がある。「何の問題もあるまい。」との認識は誤りである。また、1972年(昭和47年)政府見解の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないにもかかわらず「日本の存立が脅かされる危機」を理由として「武力の行使」に踏み切ることは違憲となる。「禁じているとは考えられない。」との記載があるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範なのであり「禁じている」のである。ただ、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められる場合を「日本の存立が脅かされる危機」として「武力の行使」を行うことは可能である。「我が国に対する武力攻撃」の『着手』という要件を満たした中において「日本の存立が脅かされる危機」を判断することは可能である。


終戦70年 平和の堅持へ国際協調貫こう 2015年08月14日

[読売新聞] 終戦70年 平和の堅持へ国際協調貫こう (2015年08月14日)


 「集団的自衛権の行使容認を柱とする安保法案は、自衛隊と米軍などの防衛協力を強化し、日本の平和と安全を確保することを目指すものだ。正反対の受け止めをされているのは残念である。」との記載があるが、たとえ「日本の平和と安全を確保することを目指すもの」であったとしても、9条は無制限の「武力の行使」を許容しているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解では、それを「平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」と表現している。1972年(昭和47年)政府見解の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、「集団的自衛権の行使容認を柱とする安保法案」の「存立危機事態」での「武力の行使」についてはこれを満たさないため違憲となる。たとえ目的が「日本の平和と安全を確保すること」であったとしても、それだけで「武力の行使」が正当化されるわけではないのである。

 「慎重過ぎた憲法解釈を適正化するとともに、新たな国際秩序を支える有志国の一翼を担い、応分の責任を果たさねばなるまい。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。憲法解釈はいくつかのルートがあるが、その1972年(昭和47年)政府見解のルートを選択した以上は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさなければ「武力の行使」を行うことはできない。2014年7月1日閣議決定は1972年(昭和47年)政府見解を維持していると主張しているが、「存立危機事態」での「武力の行使」を結論として可能にしようとしている点で論理的整合性が存在しておらず、違法である。「憲法解釈を適正化」したものとは言えない。


安保法案審議 今国会で確実に成立させたい 2015年09月13日 

[読売新聞] 安保法案審議 今国会で確実に成立させたい (2015年09月13日)


 「民主党などは、安保法案を『違憲』と決めつけている。しかし、この批判は当たらない。」との理由として、「法案は、集団的自衛権の行使の要件を、あくまで日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある『存立危機事態』に厳しく限定した。日本周辺有事における米軍艦船の防護などを想定したものである。」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲でない旨を示すことはできていない。まず、2014年7月1日閣議決定においても、1972年(昭和47年)政府見解を採用している。この規範は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」をすべて違憲とするものであり、これを満たさない「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲である。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規定であり、「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」と称してもそれだけで「武力の行使」ができることにはならない。「厳しく限定した。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないのであればたとえ「厳しく限定」と称しても違憲であることには変わりない。「この批判は当たらない。」との記載があるが、当たるものである。

 「過去の最高裁判決や政府見解の基本的論理を踏襲し、法的安定性も確保されている。」との記載があるが、誤りである。まず、「過去の最高裁判決」の砂川判決については、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べておらず、これを根拠に「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化することはできない。また、「政府見解」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言があり、「我が国に対する武力攻撃」を意味するものであるから、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに含まれない。そのため、「存立危機事態」の要件は「政府見解の基本的論理を踏襲」しているものとは言えず、違憲である。また、論理的整合性が存在しないことから、「法的安定性」は損なわれている。「確保されている。」との認識は誤りである。

 「『違憲』論者は、存立危機事態という極めて限定的かつ重大な危機を脱する目的であっても、武力行使を否定するのだろうか。」との記載があるが、法解釈上の結論を導き出す必要がある。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範であり、「武力の行使」を可能とする要件を定めるとしても、その趣旨を損なうことがないものでなければならない。しかし、「存立危機事態」の要件は「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という具体的にどのような状況を指しているのか通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがないものである。このような曖昧不明確な要件は、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずる恐れがあるため、9条の趣旨を満たさず違憲である。1972年(昭和47年)政府見解の下では、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められた場合には、その状態が「重大な危機」であると考えて、他の要件を満たした中で「武力の行使」を行うことが可能である。この規範が保たれているか否かが、憲法解釈上の「武力の行使」の可否を決めるところである。「存立危機事態」での「武力の行使」は憲法論(法律論)上違憲であることから、政策論上でこれを行う必要があるのであれば、憲法改正の必要がある。


安保法案公聴会 日中関係の改善にも寄与する 2015年09月16日

[読売新聞] 安保法案公聴会 日中関係の改善にも寄与する (2015年09月16日)

 「だが、法案は、1959年の砂川事件の最高裁判決や72年の政府見解の基本的考え方を踏襲したものだ。内閣法制局も、この点を十分に検討し、合憲性を認めている。」との記載があるが、誤りである。まず、「基本的考え方」とは、2014年7月1日閣議決定において「基本的な論理」と称している部分と思われるが、これは1972年政府見解の一部分について称しているものであり、砂川事件判決の文言は直接的にその対象になっていないと思われる。また、砂川事件判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べておらず、これを根拠に「存立危機事態」での「武力の行使」を直接的に正当化することはできない。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分についても、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、「他国に対する武力攻撃」についてはここに含まれない。よって、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は含まれず、「基本的な考え方を踏襲したものだ。」とは言えない。2014年7月1日閣議決定以降の内閣法制局もこの点の整合性について答弁を避けており、結論のみを合憲と強弁している点で誤っている。法は論理的整合性によって正当性が導かれるのであり、内閣法制局が「合憲と認めている」ことによって正当化されるのではなく、内閣法制局が論理的整合性を満たす答弁をしている場合にのみ正当化されるのである。確かに内閣法制局は法律の専門家としての役割を期待されており、論理的整合性については注意深い検討がなされることが期待されているが、この事例では明らかに整合性が保たれていないため、正当化することはできない。

 「政府・与党は、法案作成の協議に長い時間を費やし、集団的自衛権の行使容認を極めて限定的にとどめた。合憲性や法的安定性に慎重に配慮するためだ。」との記載があるが、たとえ「協議に長い時間を費やし」たととしても、論理的整合性が保たれていないのであれば、正当化することはできない。「集団的自衛権の行使」とは、実質的に「武力の行使」が行われている状態であり、9条はこの「武力の行使」を制約する規範であることから、「限定的」と称してもそれだけでは「武力の行使」を行うことができるようになるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、「極めて限定的」と称する「武力の行使」であったとしても、これを満たさなければ違憲である。


安保法案成立へ 抑止力高める画期的な基盤だ 2015年09月19日

[読売新聞] 安保法案成立へ 抑止力高める画期的な基盤だ (2015年09月19日)


 「だが、安保法案は、1959年の最高裁判決や72年の政府見解と論理的な整合性を維持し、法的安定性も確保されている。」との記載があるが、誤りである。「1959年の最高裁判決」は「自衛のための措置」として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」しか示しておらず、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。また、「72年の政府見解」には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在しており、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味するから、ここに「存立危機事態」の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。よって、「論理的な整合性」は維持されておらず、法的安定性も損なわれている。「論理的な整合性を維持し、法的安定性も確保されている。」との認識は誤りである。

 「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある――。そうした存立危機事態が発生した際さえも、憲法が武力行使を禁止している、と解釈するのには無理がある。」との記載があるが、誤りである。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを禁じる趣旨の規定であり、「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある――。」というだけで「武力の行使」が許容されると考えることは解釈として妥当でない。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないにもかかわらず、「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある――。」との理由のみで「武力の行使」を行うことは違憲である。たとえ「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」していたとしても、未だ「他国に対する武力攻撃」が発生しても9条の規範性を通過していないし、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たしていないものであるから、違憲である。

 「政府が長年、集団的自衛権の行使を禁じる見解を維持してきたのは、今回の『限定的行使』という新たな概念を想定しなかったためだ。従来の解釈が、むしろ過度に抑制的だったとも言える。」との記載があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権の行使」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』を行使する意味である。そのため、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が9条によって制約されている範囲とは直接的に関係はない。9条の制約範囲は、1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、この基準は「集団的自衛権」に関する「『限定的行使』という新たな概念」を想定していたとしても変わらない。また、「集団的自衛権」とは国際法上の概念であり、「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的」などという区分は存在しない。「従来の解釈が、むしろ過度に抑制的だったとも言える。」との記載があるが、「従来の解釈」は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに基準を設定していただけであり、国際法上の「集団的自衛権」の区分に該当するか否かは関係がない。そのため、国際法上の区分と比較して「過度に抑制的だった」との評価も、憲法解釈として関係のない区分を基準に考えている点でズレている。

 「13年に懇談会を再開し、昨年5月の報告書を踏まえ、行使容認に慎重だった公明党や内閣法制局も交えた協議を経て、法案を作成した。」との記載があるが、「昨年5月の報告書」に該当するものの論拠の不備については、当サイト「安保法制懇の間違い」のページで解説した。

 「選挙公約にも平和安全法制の整備を掲げており、『民意に反する』との批判は当たるまい。」との記載があるが、憲法に違反するということは、憲法を制定した日本国民の「民意に反する」ということになる。憲法が国民主権によって制定されており、一時期の政治的多数派に勝る「民意」として制定されたものである以上、憲法違反は「民意に反する」こととなる。


安保関連法成立 残念だった「違憲論」への傾斜 2015年09月20日

[読売新聞] 安保関連法成立 残念だった「違憲論」への傾斜 (2015年09月20日)


 「民主党などは、集団的自衛権の行使を容認する存立危機事態の具体例が曖昧だと主張したが、そうではあるまい。」との記載があるが、「存立危機事態の具体例が曖昧」であるかは法学上は関係がないが、「存立危機事態」の要件が曖昧であれば、9条に抵触して違憲となる。
 <存立危機事態の曖昧不明確な要件>

① 「我が国と密接な関係にある他国」との要件であるが、どの国を指しているのか分からず、政府が裁量判断するものであるため曖昧である。

② 「他国に対する武力攻撃」とは、他国が独自に認定するのであり、我が国が主体的に判定できない点で曖昧である。
③ 「これにより」との説明であるが、具体的に相当因果関係が認められるかどうかについて政府が裁量判断するものであり、曖昧である。
④ 「我が国の存立が脅かされ」とは、一体どのような状態を指しているのか分からないため、曖昧である。
⑤ 「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される」とは、一体どのような状態を指しているのか分からないため、曖昧である。
⑥ 「明白な危険がある」との言葉であるが、「危険」とは、害悪発生の可能性を意味するものであり、「明白」との文言を加えても、結局「明白な可能性」でしかないものである。可能性が明白とは、結局条文を適用する者がどう感じるかに委ねたものであり、客観的な基準となるものは存在しないために曖昧である。
 「存立危機事態」の曖昧不明確な要件は、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなり得る。これにより、31条の「適正手続きの保障」の趣旨や41条の立法権の趣旨より違憲となると考えられる。また、要件が曖昧不明確であることは、9条の規範性を損ない、9条に抵触して違憲である。
 これにより、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」は行うことができない。


安保関連法施行 迅速な危機対処へ適切運用を 2016年03月29日

[読売新聞] 安保関連法施行 迅速な危機対処へ適切運用を (2016年03月29日)


 「関連法の最大の柱は、日本防衛の強化である。存立危機事態には、集団的自衛権の行使を限定的に可能にする。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に当てはまらず、違憲である。「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となるため、憲法上は不可能である。1972年(昭和47年)政府見解は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」をすべて違憲としており、「限定的」と称する「武力の行使」であっても、これを満たさないのであれば違憲である。

 「しかし、関連法は、日本の存立が脅かされる事態に限定して、必要最小限の武力行使を認めているにすぎない。『違憲』といった主張は全くの的外れである。」との記載があるが、「必要最小限度」の意味を特定する必要がある。従来より「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたものは三要件(旧)のすべてを満たす「武力の行使」を意味しており、第一要件の「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」が存在する。この意味であれば「必要最小限度の武力行使を認めている」との意味は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たす中での「武力の行使」しか認めておらず、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」や「存立危機事態」での「武力の行使」は不可能である。次に、「武力の行使」の三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味での「必要最小限度」であれば、「武力の行使」の発動要件をここでは「日本の存立が脅かされる事態」であると考えていることとなる。しかし、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定であり、「日本の存立が脅かされる事態」であると政府が認定するだけで「武力の行使」が可能となるのであれば、9条の存在を無視することとなるため、解釈として妥当でない。三つ目に、9条の制約のあたかも数量的な意味での「必要最小限」という基準によって決せられていると考えている可能性があるが、9条は法規範であり、政府の自国都合による「武力の行使」を排除するための規定であるから、数量的な意味での「必要最小限」というものに基準を設けることは、9条の趣旨を満たさないため解釈として妥当でない。よって、論者は「必要最小限」の意味を理解しておらず、誤りである。論者の主張が誤っているのであり、「存立危機事態」の要件が「『違憲』といった主張」は、全くの的当たりである。「全くの的外れである。」との主張は、根拠のない断定であり、誤解した認識に基づくものである。


憲法記念日 改正へ立憲主義を体現しよう 2016年05月03日

[読売新聞] 憲法記念日 改正へ立憲主義を体現しよう (2016年05月03日)


 「集団的自衛権の行使の限定容認のような現行憲法の枠内の見直しは、政府の憲法解釈を変更し、国会の法律制定で担保する。」との記載があるが、誤りである。まず、国際法上の「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定」などという区分は存在しない。そのため、「限定容認」との文言も、法学上は成り立たない。また、「現行憲法の枠内」との記載があるが、「枠」とは1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)であり、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「武力の行使」である場合にのみ、「現行憲法の枠内」となる場合があるとするものである。「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」であることから、「現行憲法の枠内」とは言えない。たとえ「限定」と称しようとも、これを満たさないのであれば違憲である。そのため、「政府の憲法解釈を変更」して「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」を容認ようとした2014年7月1日閣議決定は、「現行憲法の枠内の見直し」とは言えず、違憲である。「国会の法律制定で担保」しようとしても、憲法解釈の枠組みから外れている事実は変わらないのであり、法律によって「存立危機事態」の要件を定めたとしても違憲であることに変わりはない。


安保関連法 抑止力を高める議論が重要だ 2016年06月30日

[読売新聞] 安保関連法 抑止力を高める議論が重要だ (2016年06月30日)


 「集団的自衛権の行使を限定容認する安保関連法は、合理的な憲法解釈変更によって従来の政府見解と整合性があり、問題はない。」との記載があるが、誤りである。「集団的自衛権の行使を限定容認する安保関連法」との記載があるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定」などという区分は存在しない。よって、「限定容認」などという考え方は法学上の用語ではない。また、「従来の政府見解」である1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、「安保関連法」の「存立危機事態」の要件はここに含まれない。よって、「従来の政府見解と整合性」はなく、2014年7月1日閣議決定について「合理的な憲法解釈変更」とは言えない。「整合性」がないのであるから、「問題はない。」とは言えず、問題がある。


安保関連法1年 様々な危機対処の重要基盤だ 2016年09月19日

[読売新聞] 安保関連法1年 様々な危機対処の重要基盤だ (2016年09月19日)


 「日本の存立が脅かされるような事態が発生した際には、集団的自衛権の限定的な行使が可能になった。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の下では「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。政府が「日本の存立が脅かされるような事態」と考えるだけでは、9条の制約による規範性の趣旨を満たさないのであって、「武力の行使」を行うことはできない。「集団的自衛権の限定的な行使」との文言であるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な」などという区分は存在しない。また、「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中でしか許容されておらず、これを満たさない「集団的自衛権」の区分による「武力の行使」は違憲である。たとえ「限定的な」などと称しようとも、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。そのため、違憲であることから、行使することはできない。


安全保障 北朝鮮への備えを冷静に語れ 2017年10月16日

[読売新聞] 安全保障 北朝鮮への備えを冷静に語れ (2017年10月16日)


 「だが、安保関連法は、合理的な憲法解釈変更によって従来の政府見解と整合性が取れている。」との記載があるが、誤りである。「存立危機事態」の要件については、「従来の政府見解」である1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に当てはまらず、「整合性」は取れていない。これにより、「合理的な憲法解釈変更」とは言えない。「存立危機事態」の要件は9条に抵触して違憲である。


[参院選]きょう公示 中長期の政策課題に向き合え 2019/07/04


 「集団的自衛権の限定的な行使を盛り込んだ安保関連法について」との記載があるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な」という区分は存在しない。「限定的な」「武力の行使」のことを言いたいのかもしれないが、9条の下では「限定的な」と称するだけで「武力の行使」が許されるわけではない。1927年(昭和47年)政府見解によれば「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。


 「集団的自衛権は、厳格な要件の下でしか行使できない。」との記載があるが、誤りである。まず、日本国も国際法上の「集団的自衛権」そのものは適用を受ける地位を有している。しかし、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については、9条の制約を受けるために行使することができない。その9条の制約は1972年(昭和47年)政府見解に示されている通りであり、これを満たさなければたとえ「厳格な要件」と称する文言が含まれる要件であったとしても違憲となる。

 「従来の政府見解と整合性を保っており、違憲との指摘は当たらない。」との記載があるが、誤りである。「従来の政府見解」とは1972年(昭和47年)政府見解のことであるが、この見解は「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところに規範を設定しているのであり、「わが国に対する急迫、不正の侵害」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲となる。「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」については、これを満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、結果として「集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」との結論が導き出されているのである。
 政府は1972年(昭和47年)政府見解の一部分を抜き出して「基本的な論理」と称しているが、そもそも1972年(昭和47年)政府見解の文章の文脈は一貫した内容を有しており、その一部分を抜き出すという作業そのものが正当な手続きとは言えないという前提があるが、その「基本的な論理」と称している部分でさえも、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在しており、これは「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味する。

 なぜならば、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分にもし「我が国と密接な関係にある他国」が含まれるとした場合、「我が国と密接な関係にない他国」や「我が国と全く関係のない他国」に対する「武力攻撃」についてもここに含まれると考えることを可能としてしまうのであり、そうなると、結局1972年(昭和47年)政府見解が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範として意味を為さなくなってしまうのであり、9条解釈として成り立たなくなるからである。
 また、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「急迫、不正の事態」の意味であるが、もしここに「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると考えようとしても、外国が他国に対して行う行為の「急迫性」や「不正性」については、他国が独自の判断として行うものであり、我が国がそのを「急迫性」や「不正性」を勝手に認定することは妥当でない。
 さらに、1972年(昭和47年)政府見解は「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の規範について述べた部分から、「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を選んだ場合の規範の部分へと論理的に段階を追って説明しており、この「自衛の措置」の限界を記した規範と「武力の行使」の限界を記した規範は同じものである。なぜ「自衛の措置」と「武力の行使」の規範を段階的に示しているかというと、この政府見解の「自衛の措置」の部分については砂川判決に記された「自衛のための措置」と軌を一にすることを確認するためである。砂川判決では「自衛のための措置」の内容として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を示したにとどまるが、1972年(昭和47年)政府見解では砂川判決で示されていなかった「武力の行使」に踏み込んでいることが示されているのである。「自衛の措置」と「武力の行使」の規範は、この段階的な論理構造の中に示されたものであり、「自衛の措置」の「あくまで外国の武力攻撃によつて」と「急迫、不正の事態」の部分と、「わが国に対する急迫、不正の侵害」の部分は同一の規範である。
 加えて、そもそも1972年(昭和47年)政府見解そのものが「集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」との結論に至るまでの一貫した論理展開によって作成された見解であり、「集団的自衛権」の定義をはじめに「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止することが正当化されるという地位」と説明しており、「自国が直接攻撃されていないにかかわらず、」の文言によって「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たすか否かが圧倒的に重要な論点であることが最初に示されているのである。それにもかかわらず、「集団的自衛権の行使」を憲法上許されないとする見解の中に、「自国が直接攻撃されていない」場合での「武力の行使」を許容する規範が含まれていると考えようとすることは、1972年(昭和47年)政府見解そのものを法解釈として成り立っていないものとして扱っていることとなり、「従来の政府見解と整合性を保っており」などと1972年(昭和47年)政府見解を維持しているかのように説明することは論理矛盾である。

 このように、「従来の政府見解」と「整合性」は保たれておらず、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」や「存立危機事態」での「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に抵触して違憲となる。「違憲との指摘は当たらない。」との認識は誤りである。


[参院選]憲法改正 活発な提案で論点掘り下げよ 読売新聞 2019/07/08

[参院選]憲法改正 活発な提案で論点掘り下げよ(7/8)


 「集団的自衛権の行使には、わが国の存立が脅かされる場合など、極めて厳しい要件がある。」との理由で違憲との指摘は当たらないとしているが、合憲である論拠を裏付けることができていないため誤りである。
 1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としており、これに適合しない場合に「武力の行使」を実施すれば、すべて違憲である。
 2014年7月1日閣議決定においては、1972年(昭和47年)政府見解の一部分を抜き出し、「基本的な論理」と称しているが、その「自衛のための措置」の規範として示されているのは「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」の部分である。
 ここで用いられている「急迫、不正の事態」とは、先ほどの「武力行使」の規範として述べられている「わが国に対する急迫、不正の侵害」に対応する部分である。そのため、「自衛のための措置」の「急迫、不正の事態」の部分も、同様に「わが国に対する」ものに限られる。
 もし「他国に対する武力攻撃」がこの「急迫、不正の事態」の中に含まれると考えようとしても、外国の行う他国に対する行為の急迫性や不正性は、その他国が独自の判断で認定するものであり、日本国憲法の解釈として導き出されている「急迫、不正の事態」の文言の中に、外国と他国の二者間の問題が含まれると解釈することは不自然である。ここに「わが国に対する」もの以外のものが含まれるとする主張は法解釈として妥当でない。
 また、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分についても、「『わが国に対する』外国の武力攻撃」を指す意味しか有しない。なぜならば、もしここに「『わが国に対する』外国の武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれるとするのであれば、「我が国と密接な関係にある他国」だけでなく、「我が国と密接な関係にない他国」、「我が国と全く関係ない他国」などに対する武力攻撃であっても構わないということになり、結局「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」との理由だけで政府が「武力の行使」に踏み切ることを可能とする解釈となってしまうからである。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機などを理由として、政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であり、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利」の危機や「わが国の存立が脅かされる」などという自国の状態のみに基準を設けることは、9条が法規範として政府の行為を制約しようとする趣旨を満たさず、9条解釈として妥当性を有しないのである。
 論者の「極めて厳しい要件がある。」の部分であるが、1972年(昭和47年)政府見解では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かが規範なのであり、これを満たさないにもかかわらず、「厳しい要件」であれば、9条に抵触しないかのように考えている点に誤りがある。もし「厳しい要件」と評価する文言を加えただけで9条への抵触を回避することができるのであれば、それは「先制攻撃」や「侵略戦争」でさえも、「厳しい要件」を加えることで9条に抵触しないと主張することができてしまうのであり、違憲でない旨を示す論拠としては成り立たない。
 「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」による「武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に抵触して違憲である。


   【参考】「読売新聞が合憲と断じるのはおかしい」 Twitter



外交政策 世界の混迷にどう対応するか 2019/07/14


 「野党は首相の外交を『トランプ頼み』と批判し、集団的自衛権の限定的行使を認めた安全保障関連法の廃止を訴える。アジア太平洋地域の安定を維持するうえで、現実的な政策と言えるのか。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。
 まず、国際法上の「集団的自衛権」に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかなく、「限定的」などという区分は法学上存在しない。これは「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」を合憲と考えようとする者が、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を利用し、大きな枠組みからより小さい枠組みのものであるかのように見せかけることで、あたかも9条に抵触しないかのような印象を持たせようとするために利用している言葉である。
 また、国際法上「集団的自衛権の行使」とは、実質的に「武力の行使」が行われることになるが、この「武力の行使」の限界については1972年(昭和47年)政府見解によって、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示されている。よって、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことは、たとえ「限定的」であろうとなかろうと違憲である。
 「現実的な政策と言えるのか。」についてであるが、政策論上の当否については法律論(憲法論)ではないためここでは論じない。ただ、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行う政策を採用するのであれば、それは合法的な手段としては憲法改正を行うしかないのであり、憲法改正を行わずに「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」や、「存立危機事態」での「武力の行使」を行うことは、違憲となるのである。





山元一

〇 憲法学者 山元一


山元一(慶応大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日


 □「(1)昨年の集団的自衛権に関する閣議による憲法解釈の変更が論理的に矛盾しているから違憲だ、とまでは考えない。政府は、従来とは別の憲法解釈に立脚して、新しい論理を構築しようとしている、と捉えることが妥当である。」との記載があるが、誤った認識である。
 まず、2014年7月1日閣議決定の内容は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとの前提を置いている。その1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の文言には、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在しており、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。なぜならば、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は1972年(昭和47年)政府見解の第二段落で「集団的自衛権の行使」は「自衛の措置の限界をこえる」と説明している部分を受けてその「自衛の措置」の限界の規範を記す中で用いられたものであり、ここに「集団的自衛権の行使」を可能とする余地の生まれる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれているはずがないからである。
 しかし、政府はこの「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言を含んだ「基本的な論理」と称している部分を維持しているとの前提を置いているにもかかわらず、この枠組みの中に未だ「我が国に対する武力攻撃」が発生していない中で「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を行うという「存立危機事態」の要件が当てはまると主張しているのである。
 この2014年7月1日閣議決定以降の政府の説明は、
① 1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに当てはまると主張する論理的な矛盾が存在する。
 あるいは、
② 1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることを不正に読み替えて、「我が国に対する武力攻撃」だけでなく「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれるとする規範に変更した上で、この枠組みの中に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が当てはまると主張するものとなっている。
 しかし、②の場合は、そもそも1972年(昭和47年)政府見解の有している本来の意味を離れて、その文言のみを新たな解釈を生み出すための規範に利用しようとするものであるから、2014年7月1日閣議決定が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとの前提を置いていることと論理矛盾することとなる。
 また、1972年(昭和47年)政府見解は9条解釈の下に導き出された規範部分であり、1972年(昭和47年)政府見解に示された規範を9条そのものが有する意味(趣旨)と乖離させて読み取ることはできない。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解は憲法上の規定として記されている文言そのものではなく、9条を背景としている文面であることを離れて独立した意味を有することはないからである。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の示す「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言はもともと「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、単に「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言だけを抜き出して「我が国に対する」と記載されていないことを利用して、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味を含ませることができるとする性質を有していない。
 これにより、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分を維持しているのであれば、その規範の中に「存立危機事態」の要件を定めることはできないのであり、これを定めることができるとする2014年7月1日閣議決定の結論部分は論理矛盾したものとなっている。
 論者は「昨年の集団的自衛権に関する閣議による憲法解釈の変更が論理的に矛盾しているから違憲だ、とまでは考えない。」と考えているが、2014年7月1日閣議決定の内容は論理矛盾したものであり、前提である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠組みに「存立危機事態」の要件は当てはまらないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となるため、誤りである。


 論者の「政府は、従来とは別の憲法解釈に立脚して、新しい論理を構築しようとしている、と捉えることが妥当である。」との部分であるが、2014年7月1日閣議決定は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を前提として維持していると主張しているのであり、9条解釈において「従来とは別の憲法解釈に立脚して、新しい論理を構築しようとしている」ものではない。
 また、「存立危機事態」での「武力の行使」が「従来とは別の憲法解釈に立脚して、新しい論理を構築」することで9条の枠内であると考える余地があるか否かであるが、憲法は国連憲章が廃止された場合においても影響を受けずに独立した効力を有するのであり、それを前提として9条1項の下で「武力の行使」を行うことができる場合を見出そうとする場合、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中において「武力の行使」を行うことができるにとどまると考えられる。「存立危機事態」は「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を発動できる場合があるとするものであるが、日本国憲法9条は国連憲章51条の「集団的自衛権」の区分が存在しない場合においても同様に日本国の統治権の『権限』を制約する規定として効力を有しているのであり、「集団的自衛権」の区分に該当する場合を根拠とした「他国に対する武力攻撃」の発生に起因して「武力の行使」を行うなどという余地はもともと有していないと考えられる。よって、9条1項の文言そのものから、「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を行う余地を見出すことはできないのであり、「従来とは別の憲法解釈に立脚して、新しい論理を構築」することによって「存立危機事態」での「武力の行使」を許容する余地も生まれないと考えられる。


 □「(2)集団的自衛権の思想は、国連の集団的安全保障体制でいわば必然的に生み出されたものであり、国連体制を前提として生み出された日本国憲法と根本的に矛盾対立する考え方とまではいえない。」との記載があるが、前提を押さえる必要がある。
 「集団的自衛権」とは国連憲章51条に記載された国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の概念である。日本国は国家承認を受けて主権国家として成立しており、国際法上の法主体としての地位を有し、国連にも加盟していることから「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有している。日本国が国際法上の『権利』を有するとしても、日本国の統治権の『権力・権限・権能』の範囲がいかなるものであるかは直接的な関係がないため、確かに「集団的自衛権の思想」は「日本国憲法と根本的に矛盾対立する」ものではない。しかし、「集団的自衛権の行使」とは国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われている状態であり、憲法9条はこの「武力の行使」を制約する規定である。そのため、国連憲章の「集団的自衛権の思想」と日本国憲法が「根本的に矛盾対立する」ものではないとしても、それを根拠として憲法9条の下で「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行う余地が生まれるかのように考えることはできないことに注意する必要がある。


 □「将来的に限定的な集団的自衛権の承認について国民の多くが承認するようになれば、集団的自衛権の承認は限定的な限りで合憲だ、という過去の内閣法制局の憲法解釈ではなく、現在の内閣法制局の憲法解釈が正当性を獲得するであろうことから目を背けることもフェアではない。」との記載があるが、9条は法規範としての限界を有していることを適切に捉えた上で法解釈を行うものとなっていないため誤りである。
 まず、「国民の多くが承認する」の部分であるが、9条解釈にはいくつかのルートが存在しており、そのどのルートを選択するかについては「有権解釈」や「国民の多くが承認する」ことによって正当性を主張する余地がある。
 しかし、9条解釈として示されているルートを無視する形で「武力の行使」を実施する場合の限界となる規範を定めることはできない。
 また、9条解釈として示されているルートのいずれかを選択した場合において、そのルートの中での適正手続きを逸脱する形で「武力の行使」を実施する場合の限界となる規範を定めることはできない。
 「過去の内閣法制局の憲法解釈」が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」という要件を定めていたことは、9条解釈として示されているルートを無視する形ではなかったし、「武力の行使」を実施する場合の限界となる規範を定めるにあたっても適正手続きを逸脱する形ではなかった。この意味において、「国民の多くが承認する」としても、それは法規範の範囲内で導かれる規範の一つを「国民の多くが承認」しているだけであり、法の支配や立憲主義、法治主義を損なわせるものではない。
 しかし、2014年7月1日閣議決定後の「現在の内閣法制局の憲法解釈」が「存立危機事態」での「武力の行使」を容認しようとしていることは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分のを維持しているとする前提を置きながらもここに「存立危機事態」の要件を適正手続きを逸脱する形で当てはまると主張するものとなっているし、9条のどの解釈ルートにおいても「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」が発生しないにもかかわらず「武力の行使」を行う余地を見出すことはできない。
 そのため、「武力の行使」を実施する場合の限界となる規範として「存立危機事態」の要件を定めていることを「国民の多くが承認する」場合があるとしても、それはもともと憲法解釈の下では導かれない規範であることから、憲法規定を上書きする形で「存立危機事態」の要件が新たな規範としての地位を有することはない。
 論者は「現在の内閣法制局の憲法解釈が正当性を獲得するであろうことから目を背けることもフェアではない。」としているが、2014年7月1日閣議決定以降の「存立危機事態」の要件については、9条解釈のどのルートの枠の中に収まるものではないため、「正当性を獲得する」ことはない。もし論者のように、9条の規定に抵触する要件であるにもかかわらず、「国民の多くが承認する」ことによって9条の規定を無効化することができるとするのであれば、9条の下でも「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」を行う要件を定めたとしても「国民の多くが承認する」ことによって「正当性を獲得する」こととなるのであり、法の支配、立憲主義、法治主義として成り立たない。


 □「このことは、もともと9条2項の明文と真正面から対立するはずの自衛隊が、今日では合憲性と法的安定性を獲得して、集団的自衛権反対の護憲陣営も含めて大多数の者が自衛隊の存在を法的に承認するに至ったことと質的には変わらない。これまで内閣法制局が主導で行ってきた従来の『解釈改憲』には、憲法の創造的発展という一面があることを意味しており、もしそうだとすれば、新たな内閣法制局による憲法9条解釈も今後の日本の将来においてそのような役割を担う可能性は否定できない。」との記載があるが、誤りである。
 まず、「9条2項の明文と真正面から対立するはずの自衛隊」との部分であるが、「自衛隊」は政府解釈によれば「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」であり、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」には該当しないとされている。また、「自衛のための必要最小限度」の範囲についても、三要件(旧)の基準を定めている。この三要件(旧)の基準は9条解釈のいくつかのルートの枠内に収まるものであり、どの9条解釈のルートを採用するべきであるかの議論の当否はあるものの、9条に抵触しないと考えることのできる解釈枠組みは存在していた。そのため、いくつかある9条解釈のルートの中から「内閣法制局」が選択した有権解釈の枠組みを「国民の多くが承認する」ことによって「合憲性と法的安定性を獲得」したと考えることも可能である。
 しかし、「存立危機事態」での「武力の行使」については、9条解釈のどのルートのを採用しても9条に抵触することから、たとえ「国民の多くが承認する」場合があるにしても合憲に変わることはない。論者は「大多数の者が自衛隊の存在を法的に承認するに至ったことと質的には変わらない。」との認識であるが、「自衛隊」は「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」であり、「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)の基準であり、この第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たした中においてしか「武力の行使」を行ってはならないとする限界があるために9条に抵触しないとされているのであり、これを「存立危機事態」という9条に抵触する要件に変更しても「自衛隊」が9条2項に抵触しないと解釈することは不可能であり、9条解釈のルートの枠内で定められた要件を基に「大多数の者が自衛隊の存在を法的に承認するに至ったこと」とは質的に異なるものである。そのため、「質的には変わらない。」との認識は誤りとなる。
 「これまで内閣法制局が主導で行ってきた従来の『解釈改憲』には、」との記載があるが、9条解釈にはいくつかのルートがあり、その枠内で要件を定めることは「解釈改憲」とは言わない。「これまで内閣法制局」についても、9条解釈のいくつかのルートの枠内であったため、「解釈改憲」ではない。
 「憲法の創造的発展という一面があることを意味しており、」との記載があるが、9条解釈のいくつかのルートのどれを選ぶかという議論について、「内閣法制局」が行った選択が支持される場合があるにしても、これは9条の規範の枠内で行われたものであることから、9条に抵触して違憲となる要件が「創造的発展」によって合憲になるという性質のものではない。
 「もしそうだとすれば、新たな内閣法制局による憲法9条解釈も今後の日本の将来においてそのような役割を担う可能性は否定できない。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定の内容には解釈手続き上の不正・違法があり、日本国が法の支配、立憲主義、法治主義を採用する国家である以上は「今後の日本の将来において」正当化される余地はない。「そのような役割を担う可能性」は否定できるものである。


新安保法はなぜ泥沼の論争に陥ったのか(上) 山元 一・慶応義塾大学教授インタビュー 2015.10.15


   【1ページ目】


 □「1つ目は、自衛隊そのものがはじめから違憲で、災害救助は別として自衛隊の軍事活動はおよそ違憲・違法の活動にすぎない、というものです。」との記載があるが、「自衛隊の軍事活動」との記載について分類を整理する必要がある。
 まず、9条2項前段では「陸海空軍その他の戦力」を禁じている。この2項前段の解釈について、1項の「国際紛争を解決する手段としては、」の文言が「武力の行使」を禁じる範囲を限定する意味と解し、その1項全体の趣旨を2項前段の「前項の目的を達するため、」の文言が引き継ぐことによって、2項前段が禁じたものは「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」を実施する「陸海空軍その他の戦力」であると考え、これ以外の「陸海空軍その他の戦力」(自衛のための戦力)は保持が可能であると解する立場がある(芦田修正説)。この意味では、論者の表現する「自衛隊の軍事活動」については、「自衛隊」を「自衛のための戦力」と見なし、「軍事活動」を行っているという表現となる。
 次に、9条2項前段は「陸海空軍その他の戦力」の一切を禁じているが、13条の「国民の権利」を根拠としてこの条文の適用範囲である日本国の領域に対する「武力攻撃」を排除するための「武力の行使」を実施する組織については9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」が禁じている範囲を例外的に解除する形で「陸海空軍その他の戦力」の保持が可能であると解する立場がある。これについては、論者の表現する「自衛隊の軍事活動」については、「自衛隊」を13条の「国民の権利」の趣旨に基づく例外的な「陸海空軍その他の戦力」と見なし、「軍事活動」を行っているという表現となる。
 三つ目に、政府解釈のように、2項前段の「陸海空軍その他の戦力」は全て保持できないが、「陸海空軍その他の戦力」に該当しない範囲の「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の「武力の行使(実力行使)」を実施する「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」については保持が可能であるとする立場がある。この立場からすると、「自衛隊」は「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」であるから、2項前段の「陸海空軍その他の戦力」で禁じられた軍事権を行使する存在ではない。そのため、論者の言う「自衛隊の軍事活動」との表現は正確ではないこととなる。この場面で「災害救助」と区別する意味で「自衛隊の軍事活動」と表現しているものとは理解することができるが、厳密に考える場合は読み手の思い描く解釈の枠組みを混乱させることになるため注意が必要である。
 四つ目に、9条2項前段は「陸海空軍その他の戦力」を一切禁じており、13条の「国民の権利」の趣旨などを根拠とする例外を許さず、9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」に抵触しない範囲の「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の区分も許されないとする立場がある。この立場からは、「自衛隊」は9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」に抵触しており、「自衛隊」の活動は「軍事活動」であり、「違憲・違法の活動にすぎない」ということになる。


 □「2つ目は、長年の憲法解釈を破ったので『違憲』である、もう少し強い言い方をすれば『立憲主義が破壊される』という意見です。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしながらも、この「自衛の措置」の限界の規範を示した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」も含まれると主張する解釈手続き上の違法(不正)がある。これにより、法の支配、立憲主義、法治主義、「法律による行政の原理」の趣旨、「法律留保の原則」の趣旨、31条の「適正手続きの保障」の趣旨、「デュー・プロセス・オブ・ロー」の趣旨が損なわれている。この意味で「立憲主義が破壊される」との意見は的を得ているものである。


 □「これは言い換えると、内閣法制局が行ってきた9条の解釈が実質的な憲法の中身となった、という見方です。」との記載があるが、「内閣法制局が行ってきた9条の解釈」として1972年(昭和47年)政府見解が存在しており、これが「実質的な憲法の中身となった」のか否かに関係なく、2014年7月1日閣議決定は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は維持されているとしているのであるから、新たに定めようとする「武力の行使」の発動要件は、この枠組みの中に収まるものでなければならない。しかし、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」も当てはまると主張して「存立危機事態」の要件を定めようとすることは、文面上の前提と結論の間の論理的整合性が保たれないのであって、解釈手続き上の不正が存在する。この違法の論点は、文面上の問題であることから、「内閣法制局が行ってきた9条の解釈が実質的な憲法の中身となった」か否かに直接的に関係がない部分である。


 □「本法の問題点をここで一つだけ指摘するとすれば、『集団的自衛権の行使について、国会の事前承認を絶対的な要件にしない』という点です。自国が武力行使の対象となっていない状況であるにもかかわらず事前承認が要らないというのは、憲法の統治機構の観点からすると、国会軽視と言えると思います。憲法学者としては、そうした問題が一つあれば、本法は一発で『おかしい』、つまり『違憲だ』と言わざるを得ない。」との記載があるが、正確ではない。
 まず、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に当てはまらず、違憲である。また、2014年7月1日閣議決定以後定められた「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」についても、同じく1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に当てはまらず、違憲である。そのため、違憲な要件に基づいて「武力の行使」を発動する『権限』は日本国の統治権に対して与えられておらず、その統治権の中の「国会の事前承認」があったとしても、合憲のものに変わるわけではない。もし「国会の事前承認」が得られたならば、違憲の「武力の行使」が合憲に変わるのであれば、憲法に基づいて国家権力を行使する営みである「立憲主義」の精神を損なわせることになる。民主主義の多数決原理よりも「立憲主義」に基づく憲法の規範が優越するのである。
 そのため、「自国が武力行使の対象となっていない状況であるにもかかわらず事前承認が要らないというのは、憲法の統治機構の観点からすると、国会軽視と言えると思います。」との部分については、「自国が武力行使の対象となっていない状況であるにもかかわらず」「武力の行使」を行うことは、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)により違憲となり、国会による「事前承認」があったとしても正当化されない。「事前承認がいらないというのは、」などと、「事前承認」があれば違憲の「武力の行使」が合憲になるかのような認識であれば誤りである。また、「憲法の統治機構の観点からすると」との部分であるが、「憲法の統治機構」である日本国の統治権は、9条の「日本国民」が放棄し、不保持とし、否認した部分についてはもともと授権されておらず、『権限』が発生していない。そのため、「憲法の統治機構の観点からすると国会軽視と言える」などと、あたかも国会が「自国が武力行使の対象となっていない状況であるにもかかわらず」「武力の行使」を行うための統治権の『権限』を有しているかのような前提で考えている部分は誤りとなる。
 「そうした問題が一つあれば、本法は一発で『おかしい』、つまり『違憲だ』と言わざるを得ない。」との部分については、それ以前に1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に当てはまらない「武力の行使」を行う時点で一発で違憲となる。また、この点で違憲であるために「事前承認」をする余地がないことが前提ではあるが、9条は1項で「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」、2項前段で「陸海空軍その他の戦力」、2項後段で「交戦権」を禁じているだけであり、「事前承認」がなければ違憲となるとする具体的な規範を見出すことは難しい。前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」の部分を読み込むことによって、その趣旨を見出すことは可能かもしれないが、「一発で『おかしい』、つまり『違憲だ』」と言える基準があるかどうか、言い換えれば、砂川判決が示した「一見極めて明白に違憲無効である」と認められる程であるかはやや疑問である。ただ、9条の趣旨が日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」の発動を、極めて抑制的なものに抑え込もうとしている点はその通りである。その意味での「事前承認」が求められるとの認識については、9条の規定の文言から直接的に導き出せるものではないが、「武力の行使」の発動を制約することを期待する趣旨は理解することができる。


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「存立危機事態」における武力行使や「国際平和共同対処事態」における支援活動につき、「国会の事前承認」がうたわれ、あたかもそれが歯止めとなるかのように与党内で宣伝されているが、政府による違憲な行為(違憲な集団的自衛権の行使)について、それに承認を与えるような権限は国会に憲法上与えられておらず、国会が事前に承認すること自体が違憲であるといわざるを得ない。国会の事前承認によって違憲な政府の行為から違憲性が取り除かれるわけではない。
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獨協大学法科大学院教授・右崎正博氏 憲法学者アンケート調査


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 「存立危機事態」における武力行使や「国際平和共同対処事態」における支援活動につき、「国会の事前承認」がうたわれ、あたかもそれが歯止めとなるかのように与党内で宣伝されているが、政府による違憲な行為(集団的自衛権の行使)について、それに承認を与えるような権限は国会に憲法上与えられておらず、国会が事前に承認すること自体が違憲であるといわざるを得ないし、国会の事前承認によって違憲な政府の行為から違憲性が取り除かれるわけではない。
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右崎正博(独協大学法科大学院)安保法案学者アンケート 2015年7月17日


   【2ページ目】


 □「集団的自衛権について、その行使容認自体は否定しないというお立場ですね。」との質問に対して、論者は「そうですね。集団的自衛権は国連憲章の下にあるものですから。もちろん日本が、従来の解釈がそうであったように『集団的自衛権はあるが、行使しない』とするのは方針としてはいい。一方で、『もう少し、自衛権の幅を広げます』という方針も、論理的には否定されない、と思います。」と答えているが、認識に整理されていない部分がある。
 まず、「集団的自衛権の行使」については、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない中で「武力の行使」を行うものであるから、1972年(昭和47年)政府見解の枠組みの中に当てはまらず、結果として9条に抵触して違憲である。また、日本国憲法は国連憲章が廃止された場合でも効力を有するのであり、国連憲章の法的効力と直接的に連動する関係にない。そのため、9条1項が禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」とは、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階での「武力の行使」を全て禁じた趣旨であると解することができ、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は9条1項に抵触して違憲となる。そのため、「集団的自衛権について、その行使容認自体は否定しないというお立場ですね。」との質問に対して「そうですね。」と述べていることは、9条解釈においては導き出されない結論を肯定しようとしているものである。
 「『もう少し、自衛権の幅を広げます』という方針も、論理的には否定されない」との記載があるが、「自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、この定義を明らかにするのは国際司法裁判所の管轄事項であり、日本国の政府や日本国の裁判所が定義を行うことができない。そのため、日本国の統治機関が「自衛権の幅を広げ」ることはできない。また、「集団的自衛権の行使」については、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行うものであるから、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では違憲となるし、9条1項が禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」にも抵触すると考えられるため、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」をこの範囲に「幅を広げ」ることはできない。「論理的には否定されない」との記載であるが、9条解釈上は論理的に否定されることとなる。


 □「『武力行使の新3要件』の下で集団的自衛権の行使が認められるケースは、 少なくとも閣議決定の言葉では、かなり限定されています。そんなレアなケースが本当にあるのか、という指摘がされています。他方で、そんな狭い要件のはずなのに、政権側の国会答弁ではできることがどんどん広がっていった。しかも先述の通り、行使に当たって国会の事前承認が絶対的要件になっていない。」との記載があるが、分析する必要がある。

 「新3要件」の「存立危機事態」の要件であるが、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」というものである。まず、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」しているとしても、未だ9条の規範性を通過しているわけではない。そのため、それだけで「武力の行使」を行えば、9条に抵触することは明らかである。次に「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分であるが、具体的にどのような状況であるのか曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがないものとなっている。これでは、政府が「該当する」と言えば該当し、「該当しない」と言えば該当しないとすることができてしまうのであり、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなることが考えられる。そのため、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分に当てはまることを理由として「武力の行使」に踏み切ることができると考えることは、9条が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした趣旨を満たさず、9条に抵触して違憲となる。

 論者は、「かなり限定されています。」と評価するが、従来より1972年(昭和47年)政府見解において、「我が国に対する武力攻撃」が発生したことにより「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」においては「自衛の措置」としての「武力の行使」を行うことができていたが、この「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の部分を切り出して、「我が国に対する武力攻撃」という規範部分を取り外した要件となっているにもかかわらず、この文言に基づいて政府の恣意性を排除する規範が維持されているということはできない。このような要件に基づけば、政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約できないのであり、その範囲を枠づけることができていないことから、「かなり限定されています。」との評価は妥当とは言えないと考える。そのことは、論者も「政権側の国会答弁ではできることがどんどん広がっていった。」と認識していることから、理解していると思われる。
 「国会の事前承認」との記載があるが、前述のとおり、「国会の事前承認」があろうとなかろうと、それ以前に違憲である。


 □「新3要件は『その時の政権の情勢認識や価値判断、決断などによって左右されざるを得ない』という指摘がありますが、まさにその疑念が、国会における政府の答弁でますます深まってしまった。」との記載があるが、その通りである。9条は「その時の政権の情勢認識や価値判断、決断などによって」「武力の行使」が行われることを禁じる趣旨の規定である。これは、前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」という「平和主義」の理念によっても裏付けることができる。そのため、「武力の行使」の発動要件である「新3要件」の「存立危機事態」の要件に該当するか否かという基準そのものが、「その時の政権の情勢認識や価値判断、決断などによって左右され」るものとなっていることは、それ自体で9条に抵触して違憲となるのである。もしそう考えなければ、9条が政府の恣意によって「武力の行使」が行われることを制約する規範として存在している意義を保つことができなくなるのであり、9条の規範性が損なわれ、法解釈として妥当でなくなるからである。


 □「日本の戦後の歴史の特徴は、自衛隊の創設とその後の発展、すなわち再軍備のプロセスが、そもそもまさしく“非立憲主義的”な仕方で行なわれたことにある。」との記載があるが、正確な認識ではない。
 まず、先ほども示したように、9条2項前段の解釈には、①「芦田修正説」、②9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」を13条の「国民の権利」の趣旨が例外的に解除して13条の「国民の権利」の趣旨を根拠とする「武力の行使」を実施する「陸海空軍その他の戦力」の保持が可能であるとする説、③9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」は一切保持できないが、これに当たらない「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」は保持できるとする説、④13条の「国民の権利」を根拠とする例外的な「陸海空軍その他の戦力」や、「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」を一切認めない説など様々なルートがある。
 論者がそれを「“非立憲主義的”」と表現するのであれば、それは論者自身が④の13条の「国民の権利」を根拠とする例外的な「陸海空軍その他の戦力」や、「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」を一切認めない説が正当な解釈であることを前提として、政府が「自衛隊」の存在を認めたと考えていることになる。しかし、政府は「自衛隊」をそもそも「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」を実施する9条2項の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触しない「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」と解しているのであり、9条2項に抵触していないとしている。この解釈によれば、その解釈方法(ルート)の当否が問われることがあったとしても、解釈自体は9条が有する法規範としての規範性を保つ枠内で行われており、解釈手続きそのものに不正や瑕疵はない。そのため、「“非立憲主義的”な仕方」とは言えない。
 もう一つ、「再軍備のプロセス」の文言についても、正確には先ほど述べたように「自衛隊」が「軍」であるか否かについて丁寧に考える必要がある。


 □「そこに、内閣法制局が『憲法の下でも個別的自衛権は認められており、それを行使するための必要最小限のものであれば“戦力”には当たらない』という解釈を出しました。」との記載があるが、確かにそのような政府解釈が示されていることを見ることがあるが、正確に考えると、この文面は正確な表現ではない。
 まず、9条は「自衛権」という国際法上の『権利』の概念を否定する趣旨ではない。これについては、砂川判決でも「同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、」と述べている通りである。
 そのため、日本国は国家承認を受け、国際法上の法主体である国家として認められていることから、「個別的自衛権」に限らず、「集団的自衛権」についても適用を受ける地位を有している。これは、政府解釈でも「我が国が主権国家である以上、国際法上は集団的自衛権を有していることは当然でございますが、(平成16年1月26日)」と述べている通りである。1972年(昭和47年)政府見解の第一段落でも「わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。」と述べられている。
 しかし、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行うことができる範囲については、9条の制約の下で導かれる部分に限られる。この9条に抵触しない範囲を決する基準は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)である。この三要件(旧)の第一要件は、1972年(昭和47年)政府見解が示した「武力の行使」の限界の規範(『自衛の措置』の限界の規範も同様)と同じものである。

 そして、その「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の「武力の行使(実力行使)」を実施するための「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」については、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触しないと説明されている。
 この論者の提示する「内閣法制局」の示した文面からは、あたかも国際法上の「個別的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していれば、日本国の統治権の中に新たな『権限』が発生し、「自衛のための必要最小限度」の「武力の行使(実力行使)」を行うことができることとなるかのような誤解を生みやすい表現となっているため、注意が必要である。日本国の統治権の『権限』は国民からの「厳粛な信託(前文)」によって発生するのであり、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有するか否かには左右されないものである。(これについて詳しくは当サイト『9条解釈の用語』で解説している。)


   【3ページ目】


 □「つまり、9条を字義通りに、素直に読めば自衛隊は違憲だが、無理やりな憲法解釈が行われた。しかしそのことに一定の国民の合意が得られるようになったので、憲法解釈の変更と自衛隊の存在が認められた、と。」との質問に対して、「その通りです。」と答えているが、9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」の解釈について、13条の「国民の権利」の趣旨を根拠とする例外的な「陸海空軍その他の戦力」や、「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の保持を一切認めないとする解釈を正当なものと考えた上で、「自衛隊」は9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲であると解する前提認識が存在し、その他の解釈を「無理やりな憲法解釈」と評価するものとなっている。
 しかし、従来の政府解釈については、その解釈方法(ルート)の当否が問われることがあったとしても、解釈自体は法規範の規範性を保つ枠内で行われており、解釈手続きそのものに不正や瑕疵はない。そのため、この解釈自体は「“非立憲主義的”」なものとは言えず、「一定の国民の合意を得られるようになった」ことを理由に、あたかも「自衛隊の存在が認められた」ことが「“非立憲主義的”」なプロセスによるものであるかのように論じることは誤りである。

 また、付け加えると、9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」の解釈について、13条の「国民の権利」の趣旨を根拠とする例外的な「陸海空軍その他の戦力」や、「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の保持を一切認めないとする解釈であったとしても、「自衛隊」そのものが「警察権」の範囲内であるとして、「第二警察」と位置付ける解釈も存在する。そうなれば、やはり「自衛隊」は9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に該当しないのであり、「自衛隊の存在が認められた」としても「“非立憲主義的”」なプロセスによるものではないことになる。


 □「0から1になるのに長い時間をかけて来たのだから、1から2に行くのも、良い意味での綱引きが続く中で、丁寧な仕方でコンセンサスを作っていかなければならない、という立場です。」との記載があるが、従来の政府解釈の解釈手続きそのものには不正や瑕疵はないが、2014年7月1日閣議決定は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしながらも、「自衛の措置」の限界の規範に示された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」も含まれると主張して「存立危機事態」の要件を定めようとする解釈手続き上の不正・違法がある。そのため、文面上の論理的整合性が保たれておらず、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠から外れることになる。これにより、いくつかある解釈方法(ルート)のどれを選ぶかという当否を議論する「綱引き」や「丁寧な仕方でコンセンサス」を作る以前に、9条に抵触して違憲である。この意味で「1から2」に行くという解釈方法(ルート)の段階の問題ではなく、解釈手続き上の不正・違法により、結果として9条に抵触して違憲となっているのである。


 □「9条の解釈では、国民の意識というものが非常に重要です。10年、20年という時間をかけて、解釈が国会で繰り返し答弁され、それを受けて何度も選挙をし、人々が『これでいい』と思うようになれば、形になるというものです。一度の政府の決断や、一度の選挙で一気に変わるものではありません。」との記載があるが、前提認識を整理する必要がある。まず、論者の意見は、適正な手続きに基づく9条解釈の場合において、解釈方法(ルート)を「武力行使全面放棄説」や「武力行使一般放棄説」、「芦田修正説」のいずれを採用するかについて、「国民の意識」が必要となるとするものである。しかし、2014年7月1日閣議決定における解釈手続き上の不正については、「国民の意識」などという民意によっては正当化することはできない。なぜならば、法の支配、立憲主義、法治主義を採用する以上は、大多数の国民が支持する政策であっても、法に基づいていないのであれば、直ちに違法との評価を免れることはできないからである。もしこれを否定するのであれば、日本国は法の支配、立憲主義、法治主義を採用していないこととなる。


 □「実はそこは微妙な問題だと思います。私は、解釈変更は“望ましくなかったが、全否定まではできない”という立場ですね。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定の内容には解釈手続き上の不正が存在し、違法である。そのため、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の示した枠組みに当てはまらず、「存立危機事態」での「武力の行使」を行うことは9条に抵触して違憲となる。そのため、論者は「“望ましくなかったが、全否定まではできない”」としているが、解釈手続き上の不正が存在するため、論理的整合性が求められる法解釈においては「全否定」されることになるものである。



新安保法はなぜ泥沼の論争に陥ったのか(下) 山元 一・慶応義塾大学教授インタビュー 2015.10.15


   【1ページ目】

 9条が存在する意義などについては、大変重要な論点である。しかし、9条の規範の限界はどこにあるかという内容ではないため、ここではこれ以上論じない。


   【2ページ目】

 □「先述の通り、今では内閣法制局の従来の憲法解釈を変更しないことこそ、『立憲主義』だということになっています。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定の内容は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠組みに論理的整合性なく「存立危機事態」の要件が当てはまると主張する解釈手続き上の違法がある。この点、政府自ら設定している1972年(昭和47年)政府見解の枠を自ら破ることになっており、法の支配、立憲主義、法治主義の精神、「法律による行政の原理」の趣旨、「法律留保の原則」の趣旨、31条の「適正手続きの保障」の趣旨、「デュー・プロセス・オブ・ロー」の趣旨に反している。


 □「これは、官僚組織の中の慣例に法的安定性の最大の砦を求めるようなもので、無理に無理を重ねているという感じです。この慣例が崩れたら終わりになってしまう。これに頼っていいのかは、今後問題になると思います。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定の内容は解釈手続きに不正があり、論理的整合性が保たれておらず、法的安定性も損なわれている。この時点で既に「慣例」は崩れており、法の支配、立憲主義、法治主義と取り戻さなければならない段階にある。


   【5ページ目】

 □「逆に、もしも政府の主張に対する国民の支持が安定的に獲得されれば、新たな憲法解釈が次第に正当なものとして受け入れられていく。これは、まさに自衛隊が辿った道です。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定の内容は法解釈に手続き上の不正が存在しており、前提となる1972年(昭和47年)政府見解で示されている規範と論理的整合性が保たれていないままに「存立危機事態」の要件を結論として定めようとするものとなっていることから、「新たな憲法解釈」としては正当化することはできない。解釈過程に論理的整合性が保たれていない文面は、法解釈として成り立っていないため、たとえ「国民の支持が安定的に獲得され」るようなことがあったとしても、「憲法解釈」として正当化されることはない。

 論者は「新たな憲法解釈が次第に正当なものとして受け入れられていく。」との認識であるが、刑事裁判において、国民の多数派の民意によって被告人の人権を侵害するような措置が許されるということはないのであり、国民の民意よりも法に基づいて判断されることとなる。同様に、憲法解釈の手続き上の論理的整合性が保たれていないのであれば、たとえ解釈の限界を超える規範を国民が支持するようなことがあったとしても、「正当なもの」として合憲に変わるということはない。今回の2014年7月1日閣議決定やその解釈に基づく「存立危機事態」での「武力の行使」を行う法律の制定は、解釈の枠組みの限界を超えるものであるから、たとえ国民が支持するようなことがあったとしても、違憲であることは変わらない。これは、解釈の枠組みの逸脱であることから、「自衛のための必要最小限度の実力」という解釈の枠組みを設定した中において「自衛隊」が設置されていることとは性質を異にしており、「自衛隊が辿った道」とは異なるものである。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)を基にして「存立危機事態」の要件を定めることは論理的に成り立たず、法解釈において新たな規範となることはない。「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲であり続けるのであり、是正される必要があるものである。


 □「さまざまな意見を持った国民は、時に悩み時に苦しみながら、どのような方向性がよいのかを手探りの中で決めていく。そのようなプロセスを積み重ねていくことが、まさしく健全な民主主義の実践である、と言えるでしょう。」との記載があるが、民主主義の多数決原理よりも立憲主義の方が上位概念であり、9条は立憲主義に基づく憲法規定であることから、民主主義の多数決原理による一時期の民意を得た多数派の意思に優越する。そのため、「民主主義の実践」という多数決原理によって生まれた9条に抵触する法律や行政の運営は、立憲主義に基づく憲法によって排除されることとなる。民主主義の多数決原理による一時期の民意を得た多数派の作成した法令が憲法の規範に違反するにもかかわらず、時の経過とともに憲法の規範を上書きする効力を有するようになると考えているのであれば誤りである。

 

 

<参考>

解釈改憲は悪か? 安保法案「違憲論」への違和感 慶応大・山元教授に聞く  2015.07.12
集団的自衛権容認は立憲主義の崩壊か? 山元一 / 憲法学・比較憲法学 2015.08.20

   【参考】九条論に関する山元一氏の議論について 2015年11月2日 





南野森


〇 九州大学 南野森


【動画】2022年度後期・九大法学部「憲法1(統治機構論)」第8回〜平和主義② 2023/02/09


 (27:54)から、新三要件の第一要件後段の「存立危機事態」の要件に「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の文言があることを理由にこれで良いのではないかと述べている。


 しかし、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとの前提をとり、その「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が当てはまるとする不正な手続きが存在しており、法解釈として正当化することができない。

 また、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持している限りは、「我が国に対する武力攻撃」を満たさない中で「武力の行使」を行った場合には、その「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠を超えることを意味し、結果としてその「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。

 そのため、9条に抵触するにもかかわらず、これで良いとする説明をしている点は、法解釈として正当化できないものを許容しようとしていることになり、妥当でない。


 また、論者は、新三要件の第一要件後段の「存立危機事態」の要件に「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の文言があることを理由として、これで良いのではないか述べている。

 しかし、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定であり、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」が可能であるとする要件となっていることは、政府の恣意的な動機に基づいて「武力の行使」が行われることを何ら制約することができないことを意味する。

 そのため、このような内容の要件に基づいて「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となる。

 第二要件についても、同じ理由で妥当でない。


 論者の主張は、政策論として「この場合であれば『武力の行使』を行ってもよいのではないか」という話をしているだけであり、「9条が何を制約しているのか」や「どのような要素を備えた要件であれば9条に抵触しないと評価することができるか」という法解釈における視点を述べているものではない。

 この点で、憲法学者として必要となる法解釈の技術的な視点が不十分である。


 「個別的自衛権なんです」と述べている部分であるが、9条に抵触するか否かは「武力の行使」が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かによって決まるのであり、国際法上の「個別的自衛権」に該当するか否かによって決まるわけではない。


 「日本が攻められていないけれども、行けるってことにしてある」と述べている部分であるが、つまり、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を行うことかできるとするものであるから、9条に抵触して違憲となるものである。


 論者のこの部分の説明は、9条が存在するにもかかわらず、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由とするだけで「武力の行使」を行うことが可能であるかのような前提に立っている点で妥当でない。

 9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由とするだけで「武力の行使」を行うことを許してはいない。

 9条が存在する意義は、「自国の存立」や「国民の権利」の危機となる事態がどのような状態であるかを明確な要件を設けることによって予め明らかにさせ、政府が恣意的な動機に基づいて「武力の行使」を行うことができないように統制するところにある。

 そのため、その時々に政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」を発動できることを前提とした要件を定めていること自体が、9条が政府の恣意的な動機によって「武力の行使」が行われることを制約しようとする趣旨を満たしていないのであり、9条に抵触して違憲となるのである。


 論者は、政策論上の必要性があるとする理由によって「武力の行使」を正当化できるはずであるとの主張となっているが、そのような政策論上の必要性を述べるだけで「武力の行使」が行われることを制約するために9条が設けられているという部分を認識できていない。


(⇒詳しくは「存立危機事態の違憲審査」で解説している。)

 





黒江哲郎


〇 元防衛事務次官 黒江哲郎


有事法制と安保法制 反対、激論、そして決断した政治家たち 2021年09月02日


    【3ページ目


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 2015年(平成27年)9月19日の未明に国会で可決され成立したいわゆる平和安全法制は、長らく憲法解釈上認められてこなかった集団的自衛権の限定的な行使を可能とするなど、安全保障に関連して課題とされてきた法律問題を一挙に解決したまさに画期的な法律でした。防衛政策局長として法案の立案から国会審議まで携わった私は、マスコミはじめ各方面に法案を説明する際にはいつも「この法案により自衛隊にとって必要な法制度はほぼ全て整うので、これ以上のことをやるとすれば次は憲法改正が必要です」と話していました。

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 「集団的自衛権の限定的な行使を可能とするなど、」の部分であるが、国際法上の「集団的自衛権」に該当するのであれば、それは「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な」「集団的自衛権」と、そうでない「集団的自衛権」が存在するとの理解を有しているのであれば誤りである。

 「集団的自衛権の行使」とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する51条の違法性阻却事由の『権利』を行使することを意味するのであり、これを行使する場合とは、国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われている状態である。

 その「武力の行使」が国連憲章51条の「集団的自衛権」の区分に該当するのであれば、それは「集団的自衛権」でしかないのであり、「限定的」という区分が存在するわけではないのである。単に、論者が「限定的」と称する「武力の行使」が行われているだけである。

 その「武力の行使」が「限定的」であると主張しているのかもしれないが、憲法9条の下では「限定的」と称したところで「武力の行使」が9条に抵触しない旨を示したことにはならない。

 そのため、この説明のいう「限定的な」「武力の行使」について、9条に抵触しない旨をここで説明できているわけではないことを押さえる必要がある。


 「安全保障に関連して課題とされてきた法律問題を一挙に解決したまさに画期的な法律でした。」との記載があるが、誤りがある。

 「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」については、「法律問題」として9条に抵触して違憲である。

 そのことから、「解決した」などと、「法律問題」として解決できているかのような認識は誤りである。


 「防衛政策局長として法案の立案から国会審議まで携わった私は、」との記載があるが、これは「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」が9条に抵触して違憲となることに関する責任を負う立場にあることを述べるものと思われる。


 「いつも『この法案により自衛隊にとって必要な法制度はほぼ全て整うので、これ以上のことをやるとすれば次は憲法改正が必要です』と話していました。」との記載がある。

 しかし、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」については、既に9条に抵触して違憲となっており、これを実施するためには「憲法改正」が必要な事柄である。

 そのため、「これ以上のことをやるとすれば次は憲法改正が必要です」などと、「この法案」の「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」があたかも9条に抵触せず、違憲ではないかのような前提で論じようとしているが、誤りである。既に「この法案」の内容で憲法改正が必要な内容が含まれており、「この法案」の内容で「憲法改正が必要です」にあたる事柄である。

 これにより、「いつも」「話していました。」との論旨についても、いつも誤ったことを述べていたことになる。



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 2014年(平成26年)5月に改めてまとめられた懇談会報告書は幅広い法的課題に触れ、特に「保有しているが行使は許されない」という従来の集団的自衛権の憲法解釈を改めるべきことを提言しました。その後、与党内での協議を通じて公明党の賛成も取り付けた上で7月に閣議決定がなされ、政府として正式に憲法解釈を変更し集団的自衛権の限定的な行使を容認することとし、そのための立法作業を開始することを明らかにしました。


 憲法解釈の変更を具体化する方法として、閣議決定により解釈変更を宣言した上で法律案を作成するという進め方は思いもよりませんでしたが、解釈変更の論理については、行政官の立場からも全く違和感はありませんでした。

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 「2014年(平成26年)5月に改めてまとめられた懇談会報告書」であるが、この報告書の誤りについては、当サイト「安保法制懇の間違い」のページで詳しく解説している。


 「7月に閣議決定がなされ、政府として正式に憲法解釈を変更し集団的自衛権の限定的な行使を容認することとし、そのための立法作業を開始することを明らかにしました。」の部分について、認識を整理する。

 まず、「集団的自衛権の限定的な行使」であるが、国際法上は「集団的自衛権」に該当するのであれば、それは「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な」ものと、そうでないものが存在するわけではない。

 また、「武力の行使」が「限定的」であると主張しているのかもしれないが、9条の下では「限定的」と称しただけで「武力の行使」が正当化されるわけではない。


 「憲法解釈の変更を具体化する方法として、閣議決定により解釈変更を宣言した上で法律案を作成するという進め方は思いもよりませんでしたが、解釈変更の論理については、行政官の立場からも全く違和感はありませんでした。」との記載がある。

 「閣議決定により解釈変更を宣言した上で」との部分であるが、2014年7月1日閣議決定の内容は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、ここに「他国に対する武力攻撃」の意味も含まれていると考えようとする不正な解釈過程が存在する。これにより、「解釈変更を宣言」と称する手続きは違法であり、無効である。

 「解釈変更の論理については、行政官の立場からも全く違和感はありませんでした。」との部分であるが、2014年7月1日閣議決定の内容(論理)には、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、「他国に対する武力攻撃」の意味も含まれていることを前提として論じようとする不正な解釈過程が存在する。

 これは、「法の支配」、「法治主義」の理念、「法律による行政の原理」や「法律の留保」の趣旨、31条の「適正手続きの保障」の趣旨に反し、違法な内容である。

 論者は、「行政官の立場からも全く違和感はありませんでした。」と述べるが、「行政官」という有権解釈を行う立場、「憲法尊重擁護義務(99条)」を有する立場の者は、これらの「法の支配」の理念に反する解釈を行うことは正当化されない。


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第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

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 「行政官」の立場として、解釈についての法的責任を負うこととなると考えられる。



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 外国からの武力攻撃により我が国の存立が脅かされるような事態に国民の権利を守るため自衛の措置として行われる武力の行使は憲法9条の下で例外的に許容される、近年の安全保障環境を踏まえれば我が国に対してのみならず我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃によっても我が国の存立が脅かされる場合があり得る、そのような場合に必要最小限度の自衛の措置を講じることも憲法上許容される、という論理です。

 

 つまり、我が国を守るための必要最小限度の武力の行使は憲法上許容される、という基本的な論理を維持しつつ、情勢変化に対応するため最小限の解釈変更を行ったということです。

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 「外国からの武力攻撃により我が国の存立が脅かされるような事態に国民の権利を守るため自衛の措置として行われる武力の行使は憲法9条の下で例外的に許容される」との部分について検討する。

 まず、1972年(昭和47年)政府見解の文面は、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」となっている。

 そのため、論者の言うような形で説明されているものではない。

 また、この1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、この見解が「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中で用いられた文言であることから、ここに「集団的自衛権の行使」を可能とする余地の生まれる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれているはずがない。そのため、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。

 そのことから、論者のいう「外国からの武力攻撃により」にあたる部分についても、もともとは「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言から来ている表現であり、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。

 そのため、この「自衛の措置」の限界を示した規範部分は、「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求める内容であり、この規範の中にこれを満たさない論者の言うような「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃によっても我が国の存立が脅かされる場合があり得る」などの場合が含まれることはない。

 論者は、下記の答弁書や答弁を参考にし、「外国からの武力攻撃」の文言を用いている可能性もある。

 

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 しかしながら、憲法前文で確認している日本国民の平和的生存権や憲法第十三条が生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を国政上尊重すべきこととしている趣旨を踏まえて考えると、憲法第九条は、外国からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合にこれを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないと解され、そのための必要最小限度の実力を保持することも禁じてはいないと解される。

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内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日


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○政府委員(真田秀夫君) 普通に自衛権行使の三原則といわれているものにつきましては、先ほども触れておきましたけれども、まず場合といたしましては、わが国に対して外国からの武力攻撃が行なわれたということでございます。第二番目においては、その武力攻撃を防ぐために他に方法がない、武力をもって反撃するよりほかに方法がないという非常に切迫している場合、それが第二の要件でございます。それから第三番目の要件といたしましては、かくして発動される武力行使は、外国からの武力攻撃を防止する必要最小限度に限るということでございます。

 それから韓国についての、韓国条項についての御質問でございますが、これはわが国の自衛権行使の三要件とは関係がございませんで、いま申しましたように、わが国に対する武力攻撃があった場合に日本の個別的自衛権は限定された態様で発動できるというだけのことでございますから、韓国に対する脅威が、危害がありましても、これは直ちにわが国の自衛権が発動することになるとは毛頭考えておりません。

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第68回国会 参議院 内閣委員会 第11号 昭和47年5月12日


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 しかしながら、憲法前文で確認している日本国民の平和的生存権や憲法第十三条が生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を国政上尊重すべきこととしている趣旨を踏まえて考えると、憲法第九条は、外国からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合にこれを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないと解され、そのための必要最小限度の実力を保持することも禁じてはいないと解される。

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内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日


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○秋山政府特別補佐人

(略)

 それで、政府は、従来から、その九条の文理に照らしますと、我が国による武力の行使は一切できないようにも読める憲法九条のもとでもなお、外国からの武力攻撃によって国民の生命身体が危険にさらされるような場合に、これを排除するために武力を行使することまでは禁止されませんが、集団的自衛権は、我が国に対する急迫不正の侵害に対処するものではなく、他の外国に加えられた武力行使を実力で阻止することを内容とするものでありますから、憲法九条のもとではこれの行使は認められないと解しているところでございます。

(略)

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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


 しかし、「外国から」とは、まさに「外国→から→我が国」のように、「我が国」に対して行われていることを示す文言であり、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。

 そのため、この規範の中にこれを満たさない論者の言うような「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃によっても我が国の存立が脅かされる場合があり得る」などの場合が含まれることはない。

 「そのような場合に必要最小限度の自衛の措置を講じることも憲法上許容される」との部分であるが、もともと1972年(昭和47年)政府見解では「必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と記載されているところから表現がやや変わっている。

 この「必要最小限度(必要最少限度)」の文言は、「自衛の措置」の程度・態様を示す基準であり、「武力の行使」の三要件で言えば第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応する部分である。

 そのため、9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものが基準となっているかのような誤解を生みやすい部分であるが、そういうわけではないことに注意が必要である。


 もう一つ、論者は「自衛の措置として行われる武力の行使」と表現した後に、「自衛の措置を講じること」と表現している。

 しかし、「自衛の措置」の選択肢の中には、砂川事件最高裁判決が示したような「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」が含まれている。

 そのいくつかの「自衛の措置」の選択肢の一つとして、日本国の統治権『権限』による「武力の行使」を選択する場合について、「自衛の措置として行われる武力の行使」と述べている点までは理解できる。

 しかし、その後、既に「武力の行使」という、より狭い範囲の事柄についての説明をしている段階であるにもかかわらず、「自衛の措置を講じること」などと、「自衛の措置」という、「武力の行使」よりも広い概念を用いている点で整合性に不備がある。

 また、論者がこの表現を用いている背景には、論者は「武力の行使」よりも「自衛の措置」の方が言葉の表現として穏やかであると考えたり、「自衛の措置」であれば9条に抵触しないのではないかとの期待があるのかもしれない。

 しかし、1972年(昭和47年)政府見解でも「しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」と示しているように、「自衛の措置」であるとしても無制約ではないし、9条に抵触する場合があり得る。

 そのため、論者の説明は単に理解不足によって整合性が乱れているだけと思われる。


 「近年の安全保障環境を踏まえれば……憲法上許容される」との論旨について整理する。

 まず、「近年の安全保障環境」が変化したとしても、法律論として9条の規範性が揺らぐことはない。9条に抵触する措置を行いたいのであれば、それは憲法改正によって対応する必要のある問題あり、「近年の安全保障環境」を踏まえたからと言って、法解釈の限界が揺らぐわけではないことに注意が必要である。もしこのように「近年の安全保障環境」を理由として法規範が揺らぐのであれば、9条の下にありながら「安全保障環境」の変化によって「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」も可能となってしまうのであって、法解釈として妥当でない。

 「憲法上許容される」との部分であるが、先ほども述べたように、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさない「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」はこの枠を超え、9条に抵触して違憲となる。そのため、「憲法上許容される」との部分は誤りであり、許容されない。



 「我が国を守るための必要最小限度の武力の行使は憲法上許容される、という基本的な論理を維持しつつ、情勢変化に対応するため最小限の解釈変更を行ったということです。」との部分であるが、誤った認識によって混乱が生じている。

 まず、論者の言う「我が国を守るための必要最小限度」とは、従来より政府が「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」と述べているものであるが、これは三要件(旧)の基準のことを指している。

 論者はこれについても「という基本的な論理」などと、「基本的な論理」と称している部分は、誤った認識である。2014年7月1日閣議決定が「基本的な論理」としている部分は、1972年(昭和47年)政府見解の一部分であり、この見解の中に直接的な形で「自衛のための必要最小限度」という文言は出てきていない。

 論者は「我が国を守るための必要最小限度の武力の行使は憲法上許容される、……(略)……を維持しつつ、」としているが、「自衛のための必要最小限度」という基準を維持しているのであれば、「武力の行使」を行うことができる範囲は三要件(旧)の範囲に限られる。これにより、三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を行うことはできないことから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は行うことができない。

 論者はこれについて「解釈変更を行ったということです。」としているが、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲に限られているのであれば、従来と変わりないのであり、「解釈変更」を行ったことにはならない。



    【4ページ目


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質問数が膨大だっただけでなく、細かい内容の質問も多かったのですが、安全保障や防衛に関する知識が豊富だった総理は、最後まで余裕をもって正確な答弁を続けられました。

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 上記であるが、内閣総理大臣「安倍晋三」の答弁の不備については、当サイト「基本的な論理 1」で詳しく解説している。論者はこれらの答弁を「正確な答弁」と述べているが、論者と同様に誤っている。



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 平和安全法制は各界から厳しい批判を浴びましたが、「存立危機事態」のような極限状態において国が生き延びていくためには、必要なことは何でもやらないといけません。防衛行政に携わってきた者としては、この法制により法的基盤が整い、極限状態に対応するための政策の選択肢が広がったことを率直に喜ばしく感じるとともに、強い緊張感で身が引き締まるのも感じました。

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 「『存立危機事態』のような極限状態において国が生き延びていくためには、必要なことは何でもやらないといけません。」との記載がある。

 しかし、「自国の存立」や「国民の権利」の危機(自存自衛)を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験するところであり、そのような「武力の行使」が行われることを制約するために9条の規定が設けられている。

 このことから、単に「極限状態」を理由として「武力の行使」に踏み切ることは、9条に抵触して違憲となる。

 また、その9条の下で「武力の行使」を行うことができるとする場合を見出すとしても、最低限、その「極限状態」とする外苑を政府の恣意性を排除することのできる形で描き出し、9条の趣旨を満たす形で、9条の規範性を保つことができる基準を設定することが必要である。

 「存立危機事態」の要件がそれを満たすものとなっているのかを検討する。

 まず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」の部分は、未だ9条の規範性を保つための基準となるものを通過する要素は存在しない。

 次に、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」との部分についても、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由としているに過ぎず、未だ9条の規範性を保つための基準となるものを通過する要素は存在しない。

 これらの部分を「これにより」の文言で繋いだとしても、未だ9条の規範性を保つための基準となるものを有しないことに変わりはない。

 これにより、「存立危機事態」の要件は、9条の規範性を保つための基準となるものを有しておらず、9条の規範性を損なうこととなる。

 このことから、この「存立危機事態」の要件に基づいて「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となる。

 論者の言う「極限状態」であるとしても、その外苑を9条の規範性を損なわない形で描き出すことができていなければ、それに基づく「武力の行使」は、9条に抵触して違憲となるのである。


 「国が生き延びていくためには、必要なことは何でもやらないといけません。」との部分であるが、内容を整理する必要がある。

 まず、「国」が行使できる『権力・権限・権能』は、憲法によって正当化される範囲に限られる。

 そのため、憲法の範囲内で、適正手続きに基づいて行動することは可能であるが、憲法に違反するにもかかわらず、「必要なことは何でもやらないといけません。」と言えるわけではないことに注意が必要である。

 「国」が行動できる範囲は、憲法で正当化された『権限』の範囲に限られるのである。


 「この法制により法的基盤が整い、」との部分であるが、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」については、9条に抵触して違憲となるため、「法的基盤」が整っているとは言えない。


 「極限状態に対応するための政策の選択肢が広がったことを率直に喜ばしく感じるとともに、」との部分であるが、認識を整理する必要がある。

 まず、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」については、9条に抵触して違憲となるため、無効である。憲法に反する「法律」や「国務に関するその他の行為の全部又は一部」は、「効力を有しない」のである。


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第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない

2 (略)

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 これについて、「選択肢が広がった」との認識を有しているのであれば、誤りである。


 「強い緊張感で身が引き締まるのも感じました。」との部分であるが、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」について、9条に抵触して違憲となるため、これを行使した場合には違法行為となることに注意が必要である。



 この記事のシリーズのタイトルは「失敗だらけの役人人生」である。論者が2014年7月1日閣議決定や2015年の安保法制において「存立危機事態」の要件を設けたことは、解釈過程に不正・違法があるため、「失敗」であったと認めるべきである。

 


 下記は、閣議決定や安保法制の立案を行った時期の幹部名簿を確認することができる。

防衛省内部部局幹部名簿 平成26年4月1日現在  (大臣官房長 黒江哲郎)

防衛省内部部局幹部名簿 平成26年7月25日現在  (防衛政策局長 黒江哲郎)

防衛省内部部局幹部名簿 平成27年10月1日現在  (事務次官 黒江哲郎)



 この記事の編集委員の解説する法的な論点は正確な内容である。


◇藤田直央・朝日新聞編集委員の「補助線」




岩本誠吾

〇 京都産業大学 岩本誠吾


自衛隊と国際法の関係性の変遷 : 自己抑制と法的ズレを超えて 2021-07


(P51~52)

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日本は、対日平和条約5条が規定するように、国家として、国連憲章51条の個別的・集団的自衛権を保有している。憲法9条も自衛権を全面的に否定するものではないが、あくまで必要最小限度の自衛権しか認められない。その中には、個別的自衛権は入るが、集団的自衛権は入らないという。日本政府は、その基本的な論理を維持しつつ、日本を取り巻く安全保障環境の変容により、憲法解釈の枠内で「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」(存立危機事態) にも自衛権行使 (限定的な集団的自衛権) が可能であると解釈するに至った。

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(文中にある『注』の(170)~(172)の番号はここでは省略している。)


 まず、日本国も国際法上の法主体である国家として認められていることから、国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の適用を受ける地位を有していることはその通りである。

 「憲法9条も自衛権を全面的に否定するものではないが、」との記載があるが、確かに憲法9条は国際法上の『権利』である「自衛権」そのものを否定する趣旨ではない。

 「あくまで必要最小限度の自衛権しか認められない。」との記載があるが、誤りである。まず、国際法上の『権利』である「自衛権」は完全に適用されるのであり、「必要最小限度」などという制約は課されていない。しかし、国際法上でいう「自衛権の行使」として日本国の統治権の『権力・権限・権能』によって「武力の行使」を行うことは、9条の制約によって「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たす場合に限られる。この文はこの点に混乱が見られ、誤っている。

 「その中には、個別的自衛権は入るが、集団的自衛権は入らないという。」との記載があるが、先ほども述べた9条の下で行使することができる「武力の行使」の範囲は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たす場合に限られ、この範囲での「武力の行使」は国際法上の『権利』の区分で表現すれば「個別的自衛権」に該当するが、「集団的自衛権」には該当しないというものである。これは、「入る」・「入らない」の問題ではなく、該当するかしないかの問題である点に注意する必要がある。

 「日本政府は、その基本的な論理を維持しつつ、」との記載があるが、正確ではない。まず、2014年7月1日閣議決定の内容が「基本的な論理」と称しているものは、1972年(昭和47年)政府見解の一部分である。論者の「基本的な論理」と称している部分は、その旨を記載したものではないし、論者の理解も正確ではないことから、正しいとは言えない。

 「憲法解釈の枠内で『我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合』(存立危機事態) にも自衛権行使 (限定的な集団的自衛権) が可能であると解釈するに至った。」との記載がある。しかし、「憲法解釈の枠内」のいう「枠」とは、政府によれば1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分であり、ここには「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言があり、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、これを満たさない「存立危機事態」の要件は、この「枠」の中に当てはまらない。これにより、「存立危機事態」の要件は、「憲法解釈の枠内」とは言えない。「憲法解釈の枠内」との基準を示しながら、この中に「存立危機事態」の要件が当てはまることを前提として「自衛権行使 (限定的な集団的自衛権) が可能である」などと、「存立危機事態」の要件はにもづく「武力の行使」がかのうであるかのような前提で論じている点は誤りである。

 そのため、「可能であると解釈するに至った。」との記載があるが、「可能」ではないし、「解釈するに至った」ことは、論理的整合性が保たれたいないことにより、不正、違法、無効である。



(P56~57)

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 日本政府は、平和安全法制の国会審議で、集団的自衛権を他国防衛の権利としての「フルセットの集団的自衛権」と自国防衛そのものではないが、自国防衛直近の限定的な集団的自衛権に区分して、前者は憲法改正しなければ認められないが、後者は憲法上容認されると説明する。従って、①日本と密接な関係にある他国への武力攻撃が発生し、② 日本の存立が脅かされる場合に、③ 当該外国からの援助要請 (又は同意) があれば、日本は、自国が攻撃されていなくとも、限定的な集団的自衛権を発動できるという。

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(文中にある『注』の(185)の番号はここでは省略している。)


 「日本政府は、平和安全法制の国会審議で、集団的自衛権を他国防衛の権利としての『フルセットの集団的自衛権』と自国防衛そのものではないが、自国防衛直近の限定的な集団的自衛権に区分して、前者は憲法改正しなければ認められないが、後者は憲法上容認されると説明する。」との記載がある。

 確かに政府はそのように述べているが、この説明は論理的に誤っている。

 まず、国際法上の「集団的自衛権」に該当すれば、「集団的自衛権」でしかないのであり、「フルセットの集団的自衛権」と「自国防衛そのものではないが、自国防衛直近の限定的な集団的自衛権」などと、区別できる性質のものではない。(政府は『他国防衛』ではないと述べている場合はあるが、ここで論者が述べているような『自国防衛』そのものではない」と述べているのか疑問である。)

 また、「集団的自衛権」の性質を確定することは国際司法裁判所であり、「集団的自衛権」の性質を日本国の政府が勝手に定義することはできない。

 次に、「集団的自衛権の行使」とは、国家が「武力の行使」を行った場合に、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって違法性を問われるところを、国連憲章51条の「集団的自衛権」という『権利』を行使することによってその違法性を阻却することを意味する。このことから、「集団的自衛権の行使」が行われているということは、国家の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われている状態を指す。

 そのため、政府は結局、「自国防衛直近の限定的な」「武力の行使」を行うと述べているに過ぎないことになる。

 しかし、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機(自存自衛)を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを禁じるために設けられた規定であり、『自国防衛』であるとしても、「限定的」と称しても、必ずしも「武力の行使」を行うことが許されるというわけではない。このことから、論者の言うような「自国防衛直近の限定的な」と称したところで、9条の下でそのような理由に基づく「武力の行使」が正当化されるという理由を示したことにはならない。


 「前者は憲法改正しなければ認められないが、後者は憲法上容認されると説明する。」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が許されないことは当然、先ほど述べた理由により、「自国防衛直近の限定的な」「武力の行使」についても、9条に抵触しない旨を示したことにはならないことから、憲法上許容されるとは言えない。

 そのため、「後者は憲法上容認される」と説明していることは誤りとなる。


 「③ 当該外国からの援助要請 (又は同意) があれば、」との記載がある。

 国際法上の「集団的自衛権」に該当するためには、『他国からの要請』が必要となることはその通りであるが、これを得ることによって「武力の行使」を行う時点で、その「武力の行使」は『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」ということができる。

 そのため、『他国防衛』のための「武力の行使」を実施する実力組織の実態を「陸海空軍その他の戦力」と異なるものと説明することはできず、9条2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。


 「日本は、自国が攻撃されていなくとも、限定的な集団的自衛権を発動できるという。」との記載がある。

 しかし、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことはすべて9条に抵触して違憲となる。

 そのため、「集団的自衛権の行使」や、論者の言う「限定的な集団的自衛権」の行使と称するものは、これを満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、9条に抵触して違憲となる。

 「発動できるという。」との記載があるが、論者のいうような形で「武力の行使」を発動することはできない。



(P57)

 「図 4【自衛権の新区分と事態の関係性】」の図であるが、誤った部分がある。


 「日本による自衛権の新区分」との部分で、論者は「フルセットの集団的自衛権」「限定的な集団的自衛権」「個別的自衛権」に分けている。しかし、「自衛権」は国際法上の概念であり、この性質を確定するのは国際司法裁判所であり、日本国が勝手に定義することはできない。そのため、国際法上の「自衛権」の概念を勝手に三分割して論じることは妥当でない。


 図4の中央部の「存立危機事態」での「武力の行使」(ここで『限定的な集団的自衛権』と称しているもの)について、「×他国への攻撃排除 〇自国への脅威排除」と記載している。

 しかし、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」とは、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃(新三要件第一要件後段)」を「排除(第二要件)」するための「武力の行使」であり、「他国への攻撃排除」に「×」が付けられていることは事実に反する。

 また、それを「自国への脅威排除」としているが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「自国への脅威排除」と称する「武力の行使」を行うことは、「自国の存立」や「国民の権利」の危機(自存自衛)を称して「武力の行使」に踏み切るものと何ら変わらないのであり、9条に抵触して違憲となる。そのため、この「自国への脅威排除」に「〇」を付けていることも適切ではない。

 また、その区分の「日本による可能な対処行動」については、「自国防衛に近い他国防衛」としているが、『他国防衛』のための「武力の行使」を実施する実力組織の実態を「陸海空軍その他の戦力」と異なると説明することはできず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。

 先ほど、論者は「存立危機事態」での「武力の行使」について、「×他国への攻撃排除」としていにもかかわらず、「自国防衛に近い他国防衛」のように『他国防衛』と論じている点は、論理矛盾している。


 この図4の「フルセットの集団的自衛権」と称している部分で、論者は「実力行使」の区分で「武器使用」としており、「武力行使」と区別しているとの認識のようである。

 しかし、「武器の使用」という概念の意味は、「火器、火薬類、刀剣類その他直接人を殺傷し、又は武力闘争の手段として物を破壊することを目的とする機械、器具、装置をその物の本来の用法に従って用いること」(平成27年7月17日)であり、「武力の行使」を行う場合についても、「武器の使用」と重なる場合がある。


【参考】3. 放棄の対象(「戦争」、「武力の行使」及び「武力による威嚇」の意味) PDF


 そのため、論者がなぜここで「武器の使用」と「武力の行使」をこのような形で区別しているのかよく分からない。


 また、国際法上の区分で言う「集団的自衛権の行使」を行っているのであれば、それは国家の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われているのであり、「武器の使用」だけでなく、「武力の行使」に該当する。論者がこの図4で「フルセットの集団的自衛権」と称している部分で、「武器使用」という文言を使っていることは、誤りと言うべきである。



(P57~58)

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 集団的自衛権における必要性・均衡性要件の判断は、被攻撃国が受けた攻撃との関係で評価されるべきであるという。フルセットの集団的自衛権の場合には、他国への攻撃を排除するための武力行使は可能である。他方、自国防衛の一環としての限定的な集団的自衛権の場合であれば、他国への攻撃が排除されなくとも、日本は、自国への脅威が除去されれば、武力行使を終了しなければならなくなる。その意味で、日本の実行可能な集団的自衛権は、国際法上一般的に認められる集団的自衛権の要件及び態様と比較して、限定的である。それ故、法理論上、被攻撃国への攻撃排除と日本への脅威排除は同一ではない事例が発生する可能性がある。日本への存立危機状態が終了しても、被攻撃国への攻撃排除が完遂していなければ、被攻撃国は日本に共同交戦国として集団的自衛権行使の継続を要請するかもしれない。日本は、被攻撃国への攻撃が排除されない限り、存立危機状態が継続していると解釈し、攻撃排除の完遂まで被攻撃国との共同作戦を行うのか、被攻撃国と日本の集団的自衛権に関する法的認識 (フルセットと限定) のズレが生じる可能性を検討しておく必要がある。

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(文中にある『注』の(186)~(187)の番号はここでは省略している。)


 「自国防衛の一環としての限定的な集団的自衛権の場合であれば、他国への攻撃が排除されなくとも、日本は、自国への脅威が除去されれば、武力行使を終了しなければならなくなる。」との記載がある。

 まず、「限定的な集団的自衛権」と称するものは、結局「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行おうとするものである。しかし、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たしていない段階で「武力の行使」を行うことは9条に抵触して違憲となるため、禁じられている。これにより、これを満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は行うことはできない。

 「自国防衛の一環として」とあるが、「集団的自衛権」とは『他国からの要請』を受けることによって初めて得られる地位であるにもかかわらず、これを満たす場合の「武力の行使」を『他国防衛』ではなく、『自国防衛』と称することはできない。また、9条の下では『自国防衛』であるとしても、必ずしも「武力の行使」が許されているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たしていない段階で「武力の行使」を行うことは9条に抵触して違憲となるのであり、『自国防衛』を称しても、これを満たしていない中での「武力の行使」であれば、9条に抵触して違憲となる。

 「他国への攻撃が排除されなくとも、日本は、自国への脅威が除去されれば、武力行使を終了しなければならなくなる。」の部分であるが、「自国への脅威が除去され」た状態か否かは、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分に当たるか否かを判断するというものである。しかし、この部分は具体的にどのような状態を指しているのか曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にこれを適用できるか否かを識別するための基準を示すところがない。これでは、政府が「該当している」と言えば該当していることになり、「該当しない」と言えば該当しないこととなってしまうのであり、政府の恣意性を排除することができない。このような要件に基づいて「武力の行使」を行うことができるとすることは、9条が政府の恣意的な動機に基づいて自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした趣旨を満たしておらず、9条の規範性を損なうこととなる。このことから、この部分を含む「存立危機事態」の要件に基づいて「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となる。そのため、9条の下で「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を行うことができるとする前提で論じている点が誤りである。

 もう一つ、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を行ったのであれば、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するために「武力の行使」を行ったことになるのであり、その際には、その攻撃国から日本国に対する反撃があると考えることが通常である。ここでは、「日本は、自国への脅威が除去されれば、」などと、日本国に対する「脅威」が「除去」されるかのような前提で論じているが、むしろ「存立危機事態」に基づいて「武力の行使」を行うことは、他国同士の間で発生している武力紛争に対して、日本国が武力介入することを意味するのであり、日本国に対する「脅威」を増大させることになると考えられる。それにより、結局は一度参戦してしまったならば日本国(自国)に対する「脅威」が「除去」されるようなことはないし、「脅威」の存否も「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という曖昧不明確な要件に政府が「該当する」と言うか「該当しない」と言うかという問題となっているのであり、政府の恣意性を排除することのできるような明確な基準によって制約されているわけではない。これにより、「自国への脅威が除去され」るような場合であるか否かを明確に識別することは不可能であるし、「武力行使を終了しなければならな」い場合か否かも明確に識別することもできない。そのため、このような要件に基づいて「武力の行使」を行うこと自体が9条の趣旨に反して違憲となる。


 「日本の実行可能な集団的自衛権は、国際法上一般的に認められる集団的自衛権の要件及び態様と比較して、限定的である。」との記載がある。

 しかし、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて9条に抵触して違憲であることから、これを満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」はすべて行うことができない。

 そのため、「日本の実行可能な集団的自衛権」の行使としての「武力の行使」は存在していない。

 「限定的である」との記載もあるが、「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかないのであり、「限定的」なものとそうでないものが存在するわけではない。「武力の行使」が「限定的である」と論じようとしても、9条の下では「限定的」と称したとしても、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないのであれば、「武力の行使」を行うことは違憲であることに変わりはない。


 「法理論上、被攻撃国への攻撃排除と日本への脅威排除は同一ではない事例が発生する可能性がある。」との記載がある。

 まず、「被攻撃国への攻撃排除」としての「武力の行使」を行うことは、『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」であり、これを実施する実力組織の実態を「陸海空軍その他の戦力」と異なるものと説明することはできず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。

 次に、「日本への脅威排除」としての「武力の行使」であるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機(自存自衛)を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定であり、「日本への脅威排除」という理由だけでは、「武力の行使」が許されるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない段階での「武力の行使」はすべて違憲である。そのため、これを満たさない「日本への脅威排除」としての「武力の行使」を行うことはできない。


 「日本への存立危機状態が終了しても、被攻撃国への攻撃排除が完遂していなければ、被攻撃国は日本に共同交戦国として集団的自衛権行使の継続を要請するかもしれない。」との記載がある。

 しかし、「日本への存立危機状態が終了」するか否かは、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分に当たるか否かを判断するというものである。しかし、この部分は具体的にどのような状態を指しているのか曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にこれを適用できるか否かを識別するための基準を示すところがない。これでは、政府が「該当している」と言えば該当していることになり、「該当しない」と言えば該当しないこととなってしまうのであり、政府の恣意性を排除することができない。このような要件に基づいて「武力の行使」を行うことができるとすることは、9条が政府の恣意的な動機に基づいて自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした趣旨を満たしておらず、9条の規範性を損なうこととなる。このことから、この部分を含む「存立危機事態」の要件に基づいて「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となる。そのため、9条の下で「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を行うことができるとする前提で論じている点が誤りである。また、このような「存立危機事態」の要件が曖昧不明確な内容であることによって、論者の言う「武力の行使」を実施した場合において「日本への存立危機状態が終了」したと判断できるか否かについても、法的に明確な限界が画されておらず、政府の恣意的に判断を排除することができないものとなっている。このような形で、明確な基準がないこと自体が、9条の規範性を損なっており、9条に抵触して違憲となる。

 「被攻撃国は日本に共同交戦国として集団的自衛権行使の継続を要請するかもしれない。」との部分であるが、日本国は「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことはできないし、他国からの『要請』に応じて「武力の行使」を行うことは、『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」となることから、行うことはできない。


 「日本は、被攻撃国への攻撃が排除されない限り、存立危機状態が継続していると解釈し、攻撃排除の完遂まで被攻撃国との共同作戦を行うのか、被攻撃国と日本の集団的自衛権に関する法的認識 (フルセットと限定) のズレが生じる可能性を検討しておく必要がある。」との記載がある。

 まず、「被攻撃国への攻撃が排除されない限り、存立危機状態が継続していると解釈し、」との部分であるが、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」を実施する実力組織の実態を「陸海空軍その他の戦力」と異なるものと説明することはできず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。「攻撃排除の完遂まで被攻撃国との共同作戦を行う」ことも、同様の理由で認められない。

 また、「存立危機事態」の要件は曖昧不明確な内容であり、「被攻撃国への攻撃が排除されない限り、存立危機状態が継続していると解釈し、」などと、「武力の行使」の限界の基準そのものを政府がその時々の政治判断によって変更できるものとなっていること自体が、9条が政府の恣意的な動機に基づく「武力の行使」を制約しようとした趣旨に反しており、9条に抵触して違憲となる。そのため、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、9条に抵触して違憲であり、これを行うことはできない。

 「日本の集団的自衛権に関する法的認識 (フルセットと限定) 」との部分であるが、国際法上の「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「フルセットと限定」などと、異なる区分のものが存在するわけではない。「集団的自衛権の行使」の内容について「フルセット」と称する「武力の行使」と、「限定」と称する「武力の行使」を考えているのかもしれないが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、これを満たさないそれらの「武力の行使」はすべて認められない。



(P67)

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日本では、第2次世界大戦の猛省から、国内法上、自衛隊が武力行使できるのは自衛権 (個別的自衛及び部分的な集団的自衛) の行使に限定され、海外では武力行使が一切禁止される。そのために、海外に自衛隊を展開させるために「海外派兵」ではない「海外派遣」、海外で自衛隊が兵器を発砲するために「武力行使 (use of force)」ではない「武器使用 (use of weapons)」という国内法的概念が生み出された。その武器使用は、武力行使と明確な線引きをするために、警職法の準用により、警察比例原則や正当防衛・緊急避難の場合のみの危害射撃要件に限定されたことから、自衛隊は、軍事組織でありながら、極めて限定的・自己制約的な手続き規則及び許容範囲に縛られることとなった。自衛隊は、「武器を持って助ける」ことができても、「武器を使って助ける」ことができない。

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(文中にある『注』の(214)の番号はここでは省略している。)


 「国内法上、自衛隊が武力行使できるのは自衛権 (個別的自衛及び部分的な集団的自衛) の行使に限定され、海外では武力行使が一切禁止される。」との記載があるが、理解が十分ではない。

 まず、日本国が9条の下で「武力の行使」を行うことができるのは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たす場合に限られる。この基準を満たす場合とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分で言えば、「個別的自衛権の行使」に該当する。

 また、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たさなければならないとの制約から、「海外派兵」については、一般に「自衛のための必要最小限度」を超えることを理由として許されないとされている。ただ、この「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たす場合については、「海外派兵」についても許されるとする余地は残っているのであり、論者は「海外では武力行使が一切禁止される。」としている部分は誤りである。


 「自衛権 (個別的自衛及び部分的な集団的自衛) の行使に限定され、」との記載がある。

 しかし、「部分的な集団的自衛権」と称するものも、結局は「集団的自衛権」の区分に該当する「武力の行使」でしかない。そして、「集団的自衛権の行使」とは三要件(旧)を満たさない中での「武力の行使」を意味することから、9条の下では許されていない。よって、「部分的な集団的自衛) の行使に限定され、」などと、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が許されるかのような前提で論じている部分は誤りである。


 「海外に自衛隊を展開させるために『海外派兵』ではない『海外派遣』、海外で自衛隊が兵器を発砲するために『武力行使 (use of force)』ではない『武器使用 (useof weapons)』という国内法的概念が生み出された。」との記載があるが、誤った認識がある。

 まず、「海外派兵」とは、「武力の行使」( = 国家の物的・人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為)を伴う概念であり、9条の下では「自衛のための必要最小限度」という「武力の行使」の三要件(旧)の基準を満たす必要があることから、一般に許されないとされている。

 「海外派遣」については、「武力の行使」を伴わない海外での活動を指して用いられる言葉である。

 また、「武器の使用」( = 火器、火薬類、刀剣類その他直接人を殺傷し、又は武力闘争の手段として物を破壊することを目的とする機械、器具、装置をその物の本来の用法に従って用いること)とは、警察官職務執行法7条でも用いられている概念であり、「海外で自衛隊が兵器を発砲するために」この概念が「生み出された。」との認識は誤りである。

 「自衛隊は、軍事組織でありながら、」との記載があるが、「自衛隊」は9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」に抵触しない範囲の「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」とされており、「軍事組織」ではない。


(P68)

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換言すれば、日本独自の主張である「武力行使との一体化論」は国際法上成立するのか、再検討を要する。

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 上記の記載であるが、「武力行使との一体化論」とは、日本国の国内法上の制約において生ずるものであり、「国際法上成立するのか」などと、国際法上で「武力行使との一体化論」を成立させなければならないとの前提で論じており、誤りである。

 「武力の行使」の一体化の意味は下記の通りである。

 日本国は憲法9条の制約によって「武力の行使」の三要件(旧)を満たす範囲内の「武力の行使」しか行ってはならないとの制約がある。つまり、三要件(旧)の基準によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除(第二要件)」したのであれば、それ以上は「武力の行使」を行ってはならないという内容である。

 この制約の中で、外国の領域で他国が「武力の行使」を行っている場合に、日本国の実力組織がその他国の「武力の行使」に一体化する活動を行った場合、実質的には、先ほど示した「武力の行使」の三要件(旧)の基準を超える「武力の行使」を行ったこととなり、憲法9条に抵触して違憲となる。

 これは、憲法9条という国内法上の問題であることから、「国際法上成立するのか」などと、国際法上でこの考え方を「成立」させなければならないとのものではない。

 そのため、「再検討を要する。」とあるが、「再検討」をする必要はない。





 長文、お読みいただきありがとうございました。