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自由民主党
切れ目のない「平和安全法制」に関するQ&A 自由民主党安全保障法制整備推進本部 平成27年5月15日
(切れ目のない「平和安全法制」に関するQ&A 自由民主党安全保障法制整備推進本部 平成27年5月15日)
答5 「我が国が行使する集団的自衛権は、他国に対する武力攻撃をきっかけとするものではありますが、我が国を防衛するための自衛の措置を目的とするものです。」との記載があるが、違憲でない旨を示す根拠はない。9条の制約はたとえ『自国防衛』と称する「武力の行使」であるからといって必ずしも許容しているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであって、これを満たさない「武力の行使」は「我が国を防衛するため」と称しても違憲である。
答8 「外交努力とともに憲法の範囲内で安全保障努力を行うことにより、」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合せず、「憲法の範囲内」とは言えない。そのため「憲法の範囲内で安全保障努力を行うことにより、」「存立危機事態」の要件は違憲となる。
答11 「憲法上許されるのは、あくまで我が国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るための自衛の措置だけです。」との記載があるが、憲法上許されるのは、1972年(昭和47年)政府見解によれば「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」である。そのため、「あくまで我が国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るための自衛の措置だけ」と称しても、「外国の武力攻撃(急迫、不正の事態)」「わが国に対する急迫、不正の侵害」がない中で「武力の行使」を行うことは、違憲である。9条は「我が国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るため」と称して「先制攻撃」や「侵略戦争」に踏み切ることを制約する規定なのであり、この文言や目的のみによって9条の制約を逃れられると考えている部分が誤りである。
「万が一の事態に備えて自衛の措置を十分にしておくことにより、かえって紛争が予防され、日本が戦争に巻き込まれるリスクは少なくなっていきます。」との記載があるが、「自衛の措置」は憲法の範囲内で行わなければならない。憲法上の制約を超える「存立危機事態」での「武力の行使」を行う場合は、憲法改正の必要がある。法治主義を採用する以上は、必要性があるとしても合法的な手段を採用しなければならないのであって、必要性があるからといって憲法上の規範を乗り越えることは正当化されない。
答12 「我が国の存立と国民の命や平和な暮らしに関係のない集団的自衛権の行使の要請が、仮に米国からあったとしても、断るのは当然のことです。」との記載があるが、それ以前に「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲であり、『他国からの要請』に応じる形で「武力の行使」を合憲的に行える部分があることを前提としている部分が誤りである。つまり、「我が国の存立と国民の命や平和な暮らしに関係のない集団的自衛権の行使」について「断るのは当然のこと」としているが、憲法上もともと行使できないし、仮に「我が国の存立と国民の命や平和な暮らしに関係の『ある』集団的自衛権の行使」であったとしても、これも憲法上もともと行使できないものである。
答15 「先の大戦に対する痛切な反省を経て掲げられた憲法の平和主義の理念は、今もこれからも全く変わることはありません。」との記載があるが、誤りである。まず、憲法の「平和主義」の理念は前文に記されている。9条はその「平和主義」の理念を具体化した規定であるとされており、「存立危機事態」の要件が9条に抵触して違憲となるということは、同時に前文の「平和主義」の理念も損なわれていることとなる。そのため、「存立危機事態」の要件を定めた時点で、「憲法の平和主義の理念」は損なわれているのであり、「今もこれからも全く変わることはありません。」との認識は誤りである。
答16 「昨年7月の閣議決定で認めることとした『新三要件』に基づく『武力の行使』は、我が国を取り巻く安全保障環境の大きな変化を踏まえ、これまでの政府見解の基本的な論理の枠内で導いた合理的な当てはめの帰結であり、国と国民を守る自衛の措置であることには変わりはありません。」との記載があるが、長いので整理する。まず、「新三要件」に基づく「武力の行使」が「これまでの政府見解の基本的な論理の枠内で導いた合理的なあてはめの帰結であり」との部分であるが、「これまでの政府見解」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「新三要件」の「存立危機事態」の要件は論理的、合理的に当てはまらない。「存立危機事態」の要件は、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が発生したことを契機とするが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」を意味するからである。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が対外的な「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であり、もしここに「我が国に対する武力攻撃」以外の「武力攻撃」が含まれるとした場合、「我が国と密接な関係にある他国」だけでなく、「我が国と密接な関係にない他国」や「我が国と関係のない他国」などが当てはまることとなってしまい、結局1972年(昭和47年)政府見解そのものが世界のどこかで「武力攻撃」が確認された時点で政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」に踏み切ることが可能な規範ということとなり、9条解釈として成り立たなくなってしまう。
「解釈の再整理という意味で解釈の一部変更ではありますが、憲法解釈としての論理的整合性、法的安定性を維持しています。合理的な解釈の限界を超える『解釈改憲』ではありません。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)との間に「論理的整合性」は保たれておらず、「法的安定性を維持」しているとは言えない。論理的に成り立たないのであるから、「合理的な解釈の限界を超える」のであり、違憲である。
答17 「今回の検討は、これまでの政府見解の基本的な論理の枠内で必要な体制を整えようとするものです。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらない。そのため、「枠内」とは言えず、誤りである。
答18 「昨年7月1日の閣議決定においても、憲法第9条の下で許容されるのは、あくまでも、
国民の命と平和な暮らしを守るため、必要最小限度の自衛の措置としての『武力の行使』のみです。」との記載があるが、「必要最小限度」の意味を特定する必要がある。まず、「自衛のための必要最小限度」と言う場合の「必要最小限度」の意味であるが、これは三要件(旧)のすべてを満たす「武力の行使」のことである。これによれば、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たす必要があるから、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」はここに含めることができず、違憲となる。次に、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味の「必要最小限度」であれば「武力の行使」の程度・態様を示すものであるから、「国民の命と平和な暮らしを守るため」の部分が「武力の行使」の発動要件ということになる。しかし、9条は政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定であり、「国民の命と平和な暮らしを守るため」を理由とするだけで「武力の行使」が可能であると考えることは9条解釈として成り立たない。三つ目に、9条から導かれる規範があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えている可能性があるが、9条は政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定であり、数量的な意味での「必要最小限度」というものが9条の制約の規範となっていると考えることは、政府の恣意性を排除できなくなるのであり、9条の趣旨を満たさず、解釈として成り立たない。このように、「必要最小限度」のどの意味を取っても「存立危機事態」での「武力の行使」を許容する基準は導き出されず、違憲となる。2014年7月1日閣議決定は論理的整合性が保たれておらず、「存立危機事態」を定めたことは適正手続きを欠いた違法なものである。「自衛の措置としての『武力の行使』のみです。」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲であり、許容されない。
「引き続き、『専守防衛』を堅持していくことには変わりはありません。」との記載があるが、誤りである。「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことであり、「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解に適合せず違憲であるということは、「憲法の精神に則った」を満たさず、「専守防衛」は損なわれていることとなる。これにより、「『専守防衛』を堅持していくことには変わりはありません。」とは言えない。
答20 「自衛隊員の任務は、これまでと同様、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるというときに、我が国と国民を守ることです。」との記載があるが、「自衛隊員」に「存立危機事態」での「武力の行使」という違憲な任務を強いることになる点で、「これまでと同様」のものとは言えない。まず、憲法9条は政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨である。そのため、たとえ『自国防衛』が目的であったとしても必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲となるのである。これにより、「自衛隊員」は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される」状況に対して「我が国と国民を守る」ための「武力の行使」の「任務」を引き受けることになるが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないにもかかわらず、「武力の行使」の「任務」を行う必要はないし、憲法上も行ってはならないのである。「存立危機事態」での「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に当てはまらず、違憲である。これにより、憲法上はその「任務」を行う必要はないのであるが、閣議決定や法律によって「存立危機事態」での「武力の行使」に従う義務が課せられているという矛盾した状態にある点で、「これまでと同様」とは言えない。「自衛隊員」は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中では「武力の行使」を行う必要はないし、憲法上も行ってはならないにもかかわらず、この記事の論者によれば「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される」ということのみをもって「武力の行使」を発動することが「自衛隊員の任務」であると考えている部分に誤りがある。
答21 「また、我が国が武力を行使できるのは、「新三要件」という厳しい要件を満たした時だけです。」との記載があるが、「新三要件」の「存立危機事態」での「武力の行使」については1972年(昭和47年)政府見解に当てはまらず、違憲である。また、1972年(昭和47年)政府見解の求める「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないにもかかわらず、「厳しい要件」を加えていれば9条に抵触しないかのように考えている点で誤りである。この主張に合わせれば、「厳しい要件」を満たせば「先制攻撃」や「侵略戦争」についても9条に抵触しないかのように主張することとなり、正当化することはできない。
答22 「『新三要件』は憲法上の明確な歯止めであり、我が国がとり得る『武力の行使』は、自衛のためにやむを得ない必要最小限度のものだけです。」との記載があるが、誤りである。まず、「憲法上の明確な歯止め」について「憲法上の」歯止めとなっているのは9条の規定である。この趣旨を損なわない形で歯止めとなる規範を解釈によって導く必要がある。これについて、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす必要があり、「新三要件」の「存立危機事態」についてはこれを満たさず、違憲となる。憲法解釈から導かれる「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないにもかかわらず、「歯止め」と称する文言があれば9条に抵触しないかのように考えている点が誤りである。「自衛のためにやむを得ない必要最小限度のものだけです。」との記載があるが、「我が国がとり得る『武力の行使』」は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「武力の行使」であり、これを満たさないにもかかわらず、「自衛のため」などと称する「武力の行使」が正当化されることはない。「必要最小限度」の意味であるが、三要件(旧)を意味する「自衛のための必要最小限度」なのか、三要件の第三要件を意味する「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」なのかを特定する必要がある。旧三要件を意味するのであれば、「新三要件」の「存立危機事態」での「武力の行使」は行うことができない。三要件の第三要件の意味であれば、「自衛のためにやむを得ない」の部分が「武力の行使」の発動要件ということになるが、9条の下では「自衛のため」であるからといってすべての「武力の行使」が許容されるわけではないのであるから、9条に抵触しない旨を説明する根拠とはならない。もしかすると9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」というものであるかのように考えている可能性があるが、9条は政府の恣意的な都合によって「武力の行使」が行われることを制約する趣旨の規定であり、数量的な意味での「必要最小限度」というものが基準と考えることは、憲法解釈として妥当性を失い、成り立たない。これにより、「新三要件」の「存立危機事態」での「武力の行使」については、違憲となるため行使することができない。
「従って、他国に『武力の行使』の目的で兵を送らないという『海外派兵は一般に許されない』という従来からの原則は全く変わりません。」との記載があるが、整合性がない。まず、従来から「海外派兵は一般に許されない」としてきたのは、「一般に自衛のための必要最小限度を超える」からであり、この「自衛のための必要最小限度」の意味は、「武力の行使」の三要件(旧)を満たすもののことである。日本国の「武力の行使」は三要件(旧)を満たす場合に限られ、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除(第二要件)」したならばそれ以上の「武力の行使」は行うことができないことにより、「海外派兵は一般に許されない」との結論が導かれるのである。これについて「従来からの原則は全く変わりません。」とするのであれば、「新三要件」を定めた現在においてもなお、旧三要件に基づいて「海外派兵は一般に許されない」としていることとなり、「新三要件」と旧三要件が競合することとなる。もし「自衛のための必要最小限度」の内容が旧三要件から「新三要件」に置き換わったと考えるとしても、「新三要件」の「存立危機事態」での「武力の行使」については、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」を「排除」する必要があるから、旧三要件の「我が国に対する急迫不正の侵害」に限られておらず、「海外派兵は一般に許されない」との結論を導き出すことはできない。これにより、「従来からの原則は全く変わりません。」と考えることには整合性がなく、誤りである。
答23 「我が国に対する武力攻撃がなければ、個別的自衛権で対応することはできません。」との記載があるが、国際法上はその通りである。
「また、既存の法制度で対応できる場合があるとしても、それは限定的なものです。」との記載があるが、憲法9条の下では、1972年(昭和47年)政府見解によれば「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のである。
「そのような場合に、本来は集団的自衛権で対応すべきところを、我が国の独自の考えで個別的自衛権や既存の法制度を拡張して対応すれば、国際法違反になりかねません。」との記載があるが、確かに国際法上わが国独自の考え方を主張したとしても、通用するとは限らない。しかし、国際法上「集団的自衛権」に該当するか「個別的自衛権」に該当するかは、国際法上の基準で判断されるだけであり、国内の法制度に記載されているか否かには直接影響を受けない。また、国内法上「既存の法制度を拡張して対応」した場合に、違憲となることはあり得るが、だからといって「存立危機事態」の要件を定めたとしても、違憲となることは変わらない。国家の権限は憲法の範囲内で行使される必要があり、それを越えた場合には「既存の法制度」の下であろうと、新たな法律で「法制度」を構築しても違憲となるのである。もう一つ、国内法の「既存の法制度を拡張して対応」しても、国際法上の「自衛権」の範囲内であれば「国際法違反」にはならない。憲法違反には該当する可能性がある。
答24
「『新三要件』はこれまでの政府見解に基づく基本的な論理の下で導き出されたものであり、憲法上の明確な『歯止め』となっています。」との記載があるが、誤りである。まず、「憲法上の明確な『歯止め』」についてであるが、「憲法上」というならば、9条そのものが「憲法上の」「歯止め」と考えるべきであり、「新三要件」を「憲法上の」「歯止め」というの適切ではないと思われる。憲法9条に抵触しない旨を示す「歯止め」となる要件についてであるが、これは9条解釈から導く必要がある。「これまでの政府見解に基づく基本的な論理」の意味は、1972年(昭和47年れ政府見解の2014年7月1日閣議決定において「基本的な論理」と称している部分のことであるが、この中の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味しているため、「新三要件」の「存立危機事態」の要件はここに当てはまらない。そのため、「基本的な論理の下で導き出されたもの」とは言えず、誤りである。もしここに「『我が国に対する』外国の武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれると考えた場合、1972年(昭和47年)政府見解が世界のどこかで「武力攻撃」発生した時点で、政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」を可能とすることを定めたものということになり、9条解釈としての妥当性を失ってしまうのである。「新三要件」の「存立危機事態」については、「これまでの政府見解」の「基本的な論理」と称している部分によって違憲となる。
「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより、『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること』をはじめとする『新三要件』に該当するか否かは、全ての情報を総合して客観的、合理的に判断されるものであり、政府が恣意的に判断できるものではありません。」との記載があるが、誤りである。まず、旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否か、あるいは新三要件の第一要件の「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の部分を満たすか否かについては、我が国に対して相手国が行った行為の事実の有無を判定基準としている点で、これら「全ての情報を総合して客観的、合理的に判断」することは比較的容易であり、政府が恣意的に判断する余地は少ない。しかし、「存立危機事態」の要件については、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は我が国が主体となって事実の有無を判定することは極めて難しいと考えられるし、「我が国と密接な関係にある他国」がそれを「武力攻撃」と見なすかという認定行為を介することになるから、我が国の主体的な判断ができないことも考えられる。また、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」についても、具体的にどのような状態であるのか曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがないものである。このような要件に該当するか否かを「全ての情報を総合して客観的、合理的に判断」するとしても、結局その適否を判定できる基準が存在しないのであるから、政府が該当すると言えばそうなるということを前提としており、9条が政府の自国都合による「武力の行使」を制約する趣旨を満たしていない。これにより、9条に抵触して違憲である。また、このような曖昧な要件は、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなることが考えられ、31条の適正手続きの保障の趣旨や、41条の立法権の趣旨からも違憲となると考えられる。「政府が恣意的に判断できるものではありません。」との記載があるが、もともと要件自体を曖昧不明確なものとして政府の恣意性を許容するものとなっているのであるから、その要件に当てはまるか否かについては「政府が恣意的に判断できるもの」ではないとしても、9条に抵触しない範囲を「政府が恣意的に判断できるもの」としてしまっている点で、事実に反する。「新三要件」の「存立危機事態」の要件については、9条の規範性を損なっており、9条に抵触して違憲である。
答39
「『新三要件』とは、我が国が憲法第9条の下で自衛のための『武力の行使』ができる要件であり、」との記載があるが、誤りである。まず、「新三要件」の「存立危機事態」の要件については、憲法9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に論理的に当てはまらない。そのため、9条に抵触して違憲であり、「我が国が憲法第9条の下で自衛のための『武力の行使』ができる要件」とは言えない。
「この『新三要件』を満たす場合には、我が国に対する直接の武力攻撃が発生していない場合であっても、我が国を防衛するための自衛の措置として『武力の行使』が行えることとなります。」との記載があるが、誤りである。先ほども述べたように、「新三要件」の「存立危機事態」の要件については、9条に抵触して違憲となる。1972年(昭和47年)政府見解では「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としており、「我が国に対する直接の武力攻撃が発生していない場合」は許容していない。そのため、「新三要件」の「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は「行えること」にならない。
「この際、従来の自衛の措置を行う場合と同様に、原則として事前の国会承認を得ることとしています。」との記載があるが、誤りである。「存立危機事態」の要件は違憲であり、この違憲な要件に基づいて「国会承認」をしたとしても、その「国会承認」も違憲である。国会も憲法の枠内の権限しか有しておらず、違憲な閣議決定や法律を合憲化することはできないのである。
答40 「存立危機事態」の要件について、「これは、他国に対する武力攻撃が発生した場合において、そのままでは、すなわち、その状況の下、武力を用いた対処をしなければ、国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況を言います。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件が違憲でない旨を示すものとはなっていない。まず、政府は9条解釈において1972年(昭和47年)政府見解を採用しているが、これは「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところに9条の趣旨を生かした歯止めとしての規範を設定したものである。この「わが国に対する急迫、不正の侵害(我が国に対する急迫不正の侵害があること)(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」(『基本的な論理』と称する部分も同様である)を満たさない段階での「武力の行使」についてはすべて違憲となるのであるから、「他国に対する武力攻撃が発生した場合」や「深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況」などとする理由でもって「武力の行使」に踏み切ることは正当化されない。ただ、「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況」について、これが「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」の『着手』を意味するのであれば、これは「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たすとしてその他の要件を同時に満たすことで「武力の行使」が可能である。重要な点は、「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」の『着手』によって、「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況」なのか、単に政府が「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況」という自国の状況に判定基準を置いているかの違いである。なぜならば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」という我が国に対する他国の行為に基準を置かなくては、結局我が国政府が自国都合によって自国の状況を主観的に判断するだけで「武力の行使」が可能となってしまうのであって、これでは9条が政府の自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨を満たさず、9条に抵触して違憲となるからである。
「『存立危機事態』は、事態の個別具体的な状況に即して、主に攻撃国の意思、能力、事態の発生場所、その規模、態様、推移などの要素を総合的に考慮し、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性などから客観的、合理的に判断することになります。」との記載がある。しかし、「存立危機事態」の要件は曖昧不明確であり、そもそも通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがないものである。このような要件に該当するか否かを「総合的に考慮し、」「客観的、合理的に判断」するとしても、結局その該当性の適否を判定できる基準が存在しないのであるから、政府が該当すると言えばそうなるということを前提とするものとなっており、9条が政府の自国都合による「武力の行使」を制約する趣旨を満たしていない。これにより、9条に抵触して違憲となる。また、このような曖昧な要件は、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなることが考えられ、31条の適正手続きの保障の趣旨や、41条の立法権の趣旨からも違憲となると考えられる。
礒崎陽輔
〇 自由民主党 礒崎陽輔
切れ目ない安保法制の整備めざす政権(上) 2015年06月10日
□「新たな解釈が現行憲法に外れているのであれば、それは当然議論しなければならないわけですが、そういう主張をしている人はあまり見当たりません。」との記載があるが、「新たな解釈が現行憲法に外れている」ため、議論しなければならない問題である。
まず、「新たな解釈」である2014年7月1日閣議決定の内容は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持していると主張している。このことは、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分が憲法上許される部分と許されない部分の枠を決しているのであり、この「基本的な論理」と称している部分を外れた場合には当然「現行憲法に外れている」ことになり、違憲となる。
1972年(昭和年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解は第二段落で「集団的自衛権の行使」は「自衛の措置の限界をこえる」と説明しており、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、その「自衛の措置の限界」の規範として示されたものであり、ここに「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃(他国に対する武力攻撃)が含まれるとするならば、「集団的自衛権の行使」が可能となり得るため、「集団的自衛権の行使」は「自衛の措置の限界をこえる」との説明と論理的整合性が取れなくなるからである。もし「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分に「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると考えようとすると、1972年(昭和47年)政府見解そのものが法解釈文章として成り立たっていないものと扱うこととなるのである。
そのため、政府が2014年7月1日閣議決定において1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠の中に「我が国に対する武力攻撃」を満たさない「存立危機事態」の要件が当てはまると主張していることは、論理的整合性が保たれない不正な解釈である。これにより、「存立危機事態」の要件は憲法の枠内であるか枠外であるかを決している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらず、9条に抵触するため、「現行憲法に外れている」こととなる。
□「もっと正確にいうと、公務員に憲法違反の命令はできませんから、憲法解釈をあらかじめ変更することにより新しい法律案を作りなさいという命令ができるようになります。そのために閣議決定を行ったのです。」との記載があるが、先ほど述べたように、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれると主張する論理的整合性が保たれていない解釈手続き上の不正・違法が存在する。そのため、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠内に当てはまらず、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。
これにより、「憲法解釈をあらかじめ変更」しようとした手続きは違法であり、「存立危機事態」の要件も1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の中に当てはまらないことから、9条に抵触して違憲であり、結果として「公務員に憲法違反の命令」はできないことから、これに基づく「法律案を作りなさいという命令」は行うことができない。
憲法98条1項では、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」とされており、2014年7月1日閣議決定は「国務に関するその他の行為の全部又は一部」に該当し、効力を有しない。
□「形式的に憲法違反であるのかないのかが、第1点。2番目が、憲法9条の範囲内であるとしても、その解釈変更に妥当性があるのかどうかという点。いずれも今後しっかりと議論されるべき問題ですが、今回の憲法解釈の変更が違憲という話は聞いたことがないです。」との記載がある。
1点目の「形式的に憲法違反であるか」について、形式的に憲法違反である。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在しており、この「外国の武力攻撃」とは、「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、この中に「我が国に対する外国の武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれることはない。なぜならば、もしここに「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれるとするのであれば、「我が国と関係のない他国に対する武力攻撃」もこの中に含まれると読み解くことが可能となってしまい、結局「国民の権利を守る」との理由で政府が「武力の行使」を行うことを排除できなくなり、9条が存在している意味自体を損なうことになるからである。このように「我が国に対する武力攻撃」という基準を失えば、9条が政府の恣意的な動機によって行われる「武力の行使」を制約しようとした趣旨を満たさないものとなり、9条が有する規範性を損なうこととなる。そうなれば、9条の規範性を確定するために9条解釈として行われた1972年(昭和47年)政府見解という解釈行為そのものの意味を失わせ、1972年(昭和47年)政府見解を憲法解釈として成り立たないものとしてしまうこととなる。形式的に憲法違反である。
2点目の「解釈変更に妥当性があるか」について、解釈変更に妥当性はない。1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中にに「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が当てはまると主張することは、9条が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした趣旨を生かした解釈として示されている1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示す規範を政府の恣意性を排除することのできないものとしてしまうのであり、法解釈として成り立たないものとなる。これにより、9条の規範性を損なわせ、9条に抵触して違憲となる。政府が解釈変更を行う可能性を有することは当然であるが、それは違憲・違法でない形で行わなければならない。「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解という政府が自らが設定した違憲審査基準に、政府自らが抵触するものとなっており、違憲・違法である。解釈変更として妥当性はない。
「今回の解釈変更が違憲という話は聞いたことがないです。」とのことであるが、政府が適正な手続きに則って合法的な範囲内で解釈変更を行うこと自体に違法性はないが、その手続きに不正・違法があったり、その内容が違憲なものであれば、違法な解釈となる。2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の文言と論理的整合性が保たれない形で「存立危機事態」の要件を定めようとした部分は、手続き的に不正・違法があり、「存立危機事態」の要件の内容も憲法の枠を決している1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の中に当てはまらず、9条に抵触して違憲である。これにより、違法・違憲な解釈変更というべきものである。論者は、「今回の解釈変更が違憲という話は聞いたことがないです。」としているが、「今回の解釈変更」は違憲である。
□新三要件について、「たしかに抽象的な文言であることは認めますが、これも今から具体的に立法化していきます。もちろんアバウトなままでいいわけではなくて、しっかりと『こういう場合に集団的自衛権が行使できる』ということを国会の議論を通じて明らかにしていかなければなりません。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は論者の認めるとおり抽象的な文言であり、曖昧不明確である。そのため、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなることが考えられ、9条が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした趣旨を満たさず、9条の規範性を損ない、9条に抵触して違憲となる。た、曖昧不明確な要件を定めることは、31条の適正手続きの保障の趣旨や、41条の立法権の趣旨からも違憲となると考えられる。「もちろんアバウトなままでいいわけではなくて、」との記載があるが、論者の認める通り「存立危機事態」の要件はアバウトであり、立法化されても文言は実質的に変わっていないため、結果として論者自身も「いいわけでは」ないと認めるところなっている。
□「私たちは昭和47年の政府見解(注5)の根本的部分を変えるものではないという議論の中で、最後はああいう形で当時の政府見解を引用する内容の新3要件に落ち着きました。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「根本的部分」と表現している「基本的な論理」と称している部分を変えていないのであれば、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれないことから、新三要件の「存立危機事態」の要件を定めることはできない。あたかも1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件が当てはまる可能性があるかのように論じている部分が誤りである。
□「従来必要最小限度の自衛の措置に収まる集団的自衛権はないという判断をしていました。」との記載があるが、従来より政府が「必要最小限度」の文言を用いるとき、それは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味するものである。そのため、この「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準には第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」が存在しており、「集団的自衛権の行使」とはこれを満たさない中で「武力の行使」を行うものであるため、「自衛のための必要最小限度」の枠を超える(つまり論者の言う『集団的自衛権はない』の部分』とされていたのである。
もう一つ、論者はここで「自衛の措置」と表現しているが、「自衛のための必要最小限度」という基準は「武力の行使」あるいは「実力行使」に関する基準であり、「自衛の措置」と表現するとその実質が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」あるいは「実力行使」であることを覆い隠すことになるため注意が必要である。
□「しかし、国際化が進展し、国際情勢が大きく変化する時代の中で、我が国の安全保障を確実にするためには、必要最小限度の自衛の措置に収まる集団的自衛権もあるのではないかという、中身の議論をしてほしいのですね。」との記載がある。しかし、「必要最小限度の自衛の措置に収まる集団的自衛権」との説明について、内容に混乱がある。
まず、「自衛の措置」とは、我が国が自国を守るための措置である。この「自衛の措置」の中には、砂川判決が示すように「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」「他国に安全保障を求めること」も含まれる。これについては、砂川判決に見られるように、9条の下でも我が国の指揮権・管理権を行使する措置ではないことから、9条にも抵触しないと考えられている。
しかし、この「自衛の措置」として日本国の統治権の『権限』が指揮権・管理権を行使して「武力の行使」を実施する場合には、9条に抵触するか否かが問題となる。具体的には、9条1項の「国際紛争を解決する手段として」の「戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」や、2項の「陸海空軍その他の戦力」「交戦権」への抵触の可能性である。
これについて、政府は従来より「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を用いて、これに当てはまる場合の「武力の行使」や、それを実施する実力組織、それを実施する『権限』は9条1項、2項前段、2項後段に抵触しないと説明していた。
━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━
「武力の行使」の旧三要件
① 我が国に対する急迫不正の侵害があること ← (発動要件が緩和されたら9条に抵触する)
② これを排除するために他の適当な手段がないこと ← (他の手段があれば9条に抵触する)
③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと ← (とどまらなければ9条に抵触する)
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論者は、「必要最小限度の自衛の措置に収まる集団的自衛権もあるのではないか」との疑問を抱いているようであるが、この政府が用いている「自衛のための必要最小限度」という基準が三要件(旧)を意味していることから、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない「武力の行使」は全て違憲であり、「集団的自衛権の行使」はこれを満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、当然違憲である。そのため、「自衛のための必要最小限度」の中に「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が含まれることは論理的にあり得ない。
この第一要件は、1972年(昭和47年)政府見解が「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と述べている部分と対応するものである。
論者は、9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのように考えているようであるが、「必要最小限度」の意味は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味しており、数量的な概念ではない。
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お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)
これにより、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で行われる「武力の行使」は全て9条に抵触して違憲であることから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」はこの要件を満たしておらず、9条に抵触して違憲となるとの結論が導き出されるのである。
論者の言う「必要最小限度の自衛の措置に収まる集団的自衛権」というものは存在しないし、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。
□「合憲性があるのか、ないのかという問題と、その解釈変更の妥当性という観点からしっかり中身も議論していただかないと、憲法解釈の変更がいいとか悪いとかいう外形的な話だけであれば、不毛な水掛け論に終わってしまう気がします。」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠に当てはまらないため違憲であるし、2014年7月1日閣議決定の「解釈変更」は1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」も含まれるとする解釈手続き上の不正・違法が存在し、「妥当性という観点」も満たしていない。「憲法解釈の変更」は憲法の枠内で適正な手続きに則って適法に行うのであれば「いい」ものであるが、これを満たしていない場合には違法であり、無効となる。2014年7月1日閣議決定はこれを満たしていない。
□「今回の政府の見解は最終的に『限定容認論』という言葉になり、我が国の存立が脅かされる場合でないと行使できないという、国際法一般の集団的自衛権よりは随分限定した半分ぐらいのものにしたわけです。だから、国際法の集団的自衛権とは異なり、我が国の集団的自衛権は、我が国の存立が脅かされる場合にしか行使できないわけです。」との記載があるが、認識に誤りがある。
まず、国際法上の「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定」などという区分は存在しない。また、「国際法一般の集団的自衛権よりは随分限定した半分ぐらいのものにしたわけです。」との記載があるが、日本国が国際法上の主体として「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、日本国は国際法上の概念である「集団的自衛権」を勝手に「限定」したり「半分ぐらいのもの」にすることはできない。「集団的自衛権」の定義を行うのは国際司法裁判所の管轄であり、日本国政府や日本国の裁判所が行うことはできない。そのため、論者は「国際法の集団的自衛権」と「我が国の集団的自衛権」を分けたかのように説明しているが、「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかないのであり、「我が国の集団的自衛権」などという概念は存在しない。
また、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」について、「限定」と称している可能性があるが、9条の下ではたとえ「限定」と称したからといって「武力の行使」が許されるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲である。そのため、この意味でも「限定容認論」などという文言を用いようとしても、9条の下では「限定」と称したところで「武力の行使」が許されるわけでもなく、「容認」されない。
論者が「武力の行使」について、「我が国の存立が脅かされる場合でないと行使できない」や「我が国の存立が脅かされる場合にしか行使できないわけです。」と考えているとしても、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした規定であり、単に「我が国の存立が脅かされる場合」であると称したところで、9条が政府の行為を制約しようとした趣旨を満たしておらず、9条の規範性を通過していないため、「武力の行使」ができるようにはならない。「我が国の存立が脅かされる場合」と称するだけで「武力の行使」に踏み切れば、9条に抵触して違憲となる。そのため、「我が国の存立が脅かされる場合」を称する「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は、9条に抵触するため、「容認」されない。
□「集団的自衛権についても、具体的に何を行うのかというのはその事態によるわけです。」との記載があるが、「集団的自衛権」とは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』であり、これを行使するとは、実質的に国家によって「武力の行使」が行われている状態を指す。そのため、「具体的に何を行うのか」というのは、「武力の行使」が行われるわけであり、この日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が9条に抵触するかが問われているのである。
また、「集団的自衛権」の違法性阻却事由の『権利』を得るためには『他国からの要請』が必要となる。そのため、この『要請』に応じて行う「武力の行使」は『他国防衛』の意図・目的を有する。さらに、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行うものであるから、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」となる。この『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」を実施する実力組織や、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」を実施する実力組織を「陸海空軍その他の戦力」と異なるものとする説明は意味が通らず、9条2項前段の禁ずる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」や、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」は、他国間の武力紛争に日本国が介入することになるから、9条1項の禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に抵触して違憲となる。さらに、この行為は9条2項後段の禁じる「交戦権」の行使にも抵触して違憲となる。
□「それは朝日新聞の主張ですからご自由なのですが、先ほど言ったように憲法違反なのかどうかを、はっきり言ってほしいのです。それを言わない人が多い。集団的自衛権が行使できるという新しい政府の解釈は憲法違反だとおっしゃっているのか、いや、憲法違反かどうかはわからないが、手続き的に憲法解釈の変更には問題があるということなのか、どちらを言っているのかということは明確に議論しないと、この話はきれいに整理できないと思います。」との記載があるが、憲法違反であるし、憲法解釈の変更に伴う解釈手続きにも不正・違法があり、問題があるということである。「どちらを言っているのか」との記載があるが、どちらも言っているのである。
□「その前にぜひ聞きたいのは憲法違反なのか、どう考えているのか、お答えいただきたい。」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や、「存立危機事態」での「武力の行使」は憲法違反である。
□「『言い方もできる』では困るので、そこは明確に、憲法違反と言っていただくなら言っていただくで、それなりの憲法上の理屈をきちんと教えてほしいのです。」との記載があるが、明確に憲法違反である。「理屈」は先ほど述べたとおりである。
□「そして現在、いろいろな時代の変化を受けて、必要最小限度に収まる集団的自衛権というのが今の時代では認められるのではないかと考え、私たちは憲法の範囲内で憲法解釈を変更したのであり、憲法を変えたのではないのです。」との記載があるが、誤った認識がある。
政府が従来より「必要最小限度」の文言を用いていたのは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準である。これは第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」が存在することから、これを満たさない中で「武力の行使」を行うこととなる「集団的自衛権の行使」は「自衛のための必要最小限度」の中に入らない。そのため、「必要最小限度に収まる集団的自衛権」などと、あたかも「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が三要件(旧)の基準を意味する「自衛のための必要最小限度」の中に入る余地があるかのように考えている点が誤りである。論者は「今の時代では認められるのではないか」との認識のようだが、論理的に当てはまらないものはいつの時代においても当てはまらない。
論者は9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのように考えている可能性があるが、9条は政府の恣意性を排除するための規定であり、政府が数量的に「必要最小限度」と考えるだけで「武力の行使」が可能となるのであれば、9条の趣旨を満たさず、法解釈として成り立たない。
「憲法の範囲内で憲法解釈を変更した」との記載があるが、憲法の範囲内であるか否かは1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)が定めており、ここに「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や「存立危機事態」での「武力の行使」は当てはまらず、これを「憲法の範囲内」であるということはできない。よって、「憲法の範囲内で憲法解釈を変更した」との認識は誤りである。
□「昨年7月の閣議決定を読んでもらえれば、私たちは、なぜ憲法解釈の変更で対応できるかということは明確に書いており、合憲の理由は示しているつもりです。」との記載がある。2014年7月1日閣議決定を読むと、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を違憲審査基準としており、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれず、「存立危機事態」での「武力の行使」は「基本的な論理」と称している部分に適合せず、結果として9条に抵触して違憲となる。つまり、政府自身の採用している違憲審査基準によって違憲となるのである。「昨年7月の閣議決定を読んで」も合憲の理由は示されておらず、論者の主張には理由がないということになる。
かみ合わぬ憲法論(3) 2015年12月17日
「② 集団的自衛権」において、「今回の平和安全法制により、集団的自衛権のうち、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に行使されるものについては、限定的に『自衛のための措置』として容認されるとする憲法解釈の変更を行いました。」との記載がある。
しかし、9条が禁ずるものは日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」である。9条の下で日本国の統治権の『権限』としての「武力の行使」を行える範囲は何かが問われているのである。ここに国際法上の違法性阻却事由である「集団的自衛権」という『権利』にあたるかなどという基準は一切関係がない。
それにもかかわらず、「集団的自衛権のうち、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に行使されるものについては、限定的に『自衛のための措置』として容認されるとする憲法解釈の変更を行いました。」との説明は、9条の下で行われる日本国の統治権の『権限』によって行われる『自衛のための措置』の範囲を確定する作業において、「集団的自衛権」という『権利』の区分を混ぜ合わせており、混乱を招く表現となっている。
下記に整理する。
◇ 『自衛のための措置』⇒ 日本国の統治権の『権限』の行為
◇ 「集団的自衛権」⇒ 国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分
論者は「集団的自衛権のうち」などと、国際法上の違法性阻却事由の『権利』持ち出すが、日本国の統治権の『権限』の範囲とは関係がないので、取り除いて表現を確認する。
すると、「『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に行使されるものについては、限定的に『自衛のための措置』として容認されるとする憲法解釈の変更を行いました。」となる。
つまり、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に、日本国は『自衛のための措置』として「武力の行使」を行うという憲法解釈を行ったということである。
しかし、9条は前文の平和主義の理念を具体化した規定であるとされており、前文の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」を受けた規定である。また、憲法は我が国の独善主義を排する趣旨で、国際協調主義を採用している。そのため、9条は政府の政治的な都合や国民の権利を実現するという理由によって「武力の行使」を行うことを禁ずる趣旨の規定である。その趣旨から求められる9条解釈における規範性の設定は、9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを禁じようとする意図を生かしたものである必要がある。その意図を活かすことのできる規範性の設定は、受動的・客観的に明確な「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に設けることが妥当である。
しかし、「存立危機事態」の要件は、論者の言うように、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に、日本国が『自衛のための措置』として「武力の行使」を行うことを可能とするものである。これは、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず、日本国の政府が『我が国の存立を脅かす明白な危険がある』との判断を行うことにによって「武力の行使」を行うことを可能とするものである。しかし、9条はまさにこのような自国都合による「武力の行使」が行われることを防ぐために設けられた規定であることから、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。
「その解釈変更の枠組みは、既に述べたように昭和47年の政府見解を基礎としつつ、その具体的なあてはめについては国際情勢の変化に伴って変わり得るというものでした。」との記載があるが、誤りである。
1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の中には、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在しており、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれることはない。このことから、「具体的なあてはめ」を行おうにも、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」を意味する以上、ここに「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」をあてはめることは不可能である。この規範は「国際情勢の変化に伴って変わ」るわけではない。
もし「国際情勢の変化に伴って」、「我が国に対する武力攻撃」が「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」に変化するとするならば、「国際情勢の変化に伴って」、「我が国と関係のない他国同士の武力攻撃」もここに含まれるとする可能性が生まれてしまうことになる。そうなれば、1972年(昭和47年)政府見解が、結局、日本国以外の世界のどこかの地域で『武力攻撃』が発生したのであれば、日本国は政治的な事情や「国民の権利」の実現などを理由として「武力の行使」を行うことができるとする見解を示したものとなってしまう。これでは、1972年(昭和47年)政府見解が9条解釈を行う中で9条が政府の自国都合による「武力の行使」を排除しようとする趣旨を生かして規範を設けている意味を損ない、1972年(昭和47年)政府見解そのものが法解釈として成り立たないものとなってしまう。そのため、「国際情勢の変化に伴って」1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味から「我が国にと密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味を含むものへと変化することはなく、「具体的なあてはめ」が変わり得ると論じることは妥当な解釈とは言えない。
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『軍艦外務令解説』は、満州事変と上海事変を自衛権行使の例とするが、安倍政権による変更前の政府解釈は、①の要件を「我が国に対する武力攻撃の発生」という外形的事実がある場合のみに限定していたため、満州事変や上海事変が再び起きる余地がなかった。だが、「我が国を取り巻く安全保障環境の変化」を理由とする「解釈変更」により、要の安全装置である①の要件が破壊されてしまった(詳しくは、水島朝穂『ライブ講義
徹底分析!集団的自衛権』岩波書店参照)。だから、「我が国を取り巻く安全保障環境の変化」が「自衛」の範囲の「解釈変更」の理由になるのであれば、新9条の「自衛」の範囲も同じ理由で拡大解釈されないという保証はない。北朝鮮でさえ、憲法60条で「自衛的軍事路線を貫徹する」と定めているところである。無自覚に「自衛」を押し出していくことの危うさは明らかではないか。
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安倍流9条加憲は「憲法条文内クーデター」 ――明記しても自衛隊の違憲性は問われ続ける―― 2017年8月21日 (下線は筆者)
「3 憲法解釈の変更は正当な法手続」の項目にて、「憲法の規定の範囲内で、かつ、合理的な必要性が説明できる場合において、憲法解釈の変更を行うことは、何らの問題もありません。要は、それが、憲法の規定に照らし、その許容する範囲内にあって合憲なのか、そうではなく違憲なのかという点に論点は尽きると考えます。」との記載があるが、その通りである。
しかし、「存立危機事態」での「武力の行使」については、憲法規定の範囲を確定する憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の範囲を逸脱しており、違憲である。憲法解釈の変更それ自体は、憲法規定の範囲内であれば可能である。しかし、今回の解釈変更は内容が違憲であるのであるから、憲法解釈の変更それ自体についても、違憲の行為であったということになる。憲法98条には、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と規定されている。違憲な内容の憲法解釈の変更についても、「国務に関するその他の行為」に該当し、「その効力を有しない」のである。
「自衛権については、憲法に具体的な規定はなく、これまでも全て憲法解釈によらざるを得なかったのは、上記に示したとおりです。」との記載があるが、認識に混乱がある。
「自衛権」は国際法上の概念であり、『権利』である。憲法解釈が行っているのは、9条が国家の統治権の『権限』の範囲を確定する作業である。この両者は、国際法と国内法で法分野が違うことに加え、『権利』と『権限』で性質が異なる。そのため、「自衛権にいては、憲法に具体的な規定はなく」との説明があるが、国際法上の『権利』について、憲法上に具体的な規定を設けることはできないのであり、憲法に具体的な規定がなくて当然である。「自衛権」について、「これまで全て憲法解釈によらざるを得なかった」との説明も、誤りである。
「かみ合わぬ憲法論」が起きているのは、論者の認識に誤りがあるためである。
かみ合わぬ憲法論(2) 2015年12月1日
「集団的自衛権は『他国防衛』を目的とするものだから憲法の容認するところではない」との主張を批判しようとしている点であるが、いくつかの誤りでがある。
まず、「集団的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』である。この『権利』を行使する場合とは、基本的に国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われることとなる。この『権利』は、『他国からの要請』が存在することによって初めて発生する『権利』であり、『他国からの要請』が存在しないまま「武力の行使」を行った場合、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則(武力行使禁止原則)」に抵触して国際法上違法となる。
これにより、「集団的自衛権」という『権利』は、『他国からの要請』がなければ発生しないのであるから、「集団的自衛権」の行使としての「武力の行使」が行われる場合は、すべて『他国防衛』を含むことになる。
よって、「『他国防衛』ではなく、『自衛のため措置』であると考えているのです。これが限定容認論です。」との記載があるが、『他国防衛』の意図を含まない「集団的自衛権」という概念が存在しない以上、『自衛のため』『自国防衛のため』と称したところで、『他国防衛に付随する自国防衛』でしかないものである。
加えて、「存立危機事態」での「武力の行使」とは、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で行う「武力の行使」である。これが国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分に該当しようとなかろうと、日本国の統治権の『権限』の範囲が伸縮するわけではない。日本国の統治権の『権限』は、国民主権原理を背景に憲法によって正当化されるものだからである。ただ、9条によって「日本国民」が放棄し、不保持とし、否認した部分については、日本国の統治機関は『権限』を授権されていないため、行使することができない。9条の制約は、日本国の統治権の『権限』に対して、『自衛のため』や『自国防衛のため』であるからと言って必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。なぜならば、『自衛のため』や『自国防衛のため』と称して政府が恣意的な判断によって「武力の行使」を行ってきた歴史は幾度も経験するところであり、そのような「武力の行使」が行われることを排除するために9条の規定が設けられているからである。
「集団的自衛権の中にも『我が国の存立を全うするために必要な自衛のための措置』に該当するものが含まれるのではないか」との記載があるが、「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の区分の話であり、日本国の統治権の『権限』の範囲とは関係がない。9条の下でも行うことができる「武力の行使」については合憲であり、9条の下で行うことのできない「武力の行使」については違憲というだけである。9条の下で行うことができる「武力の行使」の範囲を決した結果、国際法上の「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」は、違憲となるために行使できないという結論が導かれているだけである。それにも関わらず、国際法上の『権利』から「自衛のための措置に該当するもの」などを導き出すということは、そもそも意味の通じない言葉を並べているだけである。
「『他国防衛』ではなく、『自衛のための措置』であると考えているのです。」との記載もあるが誤りである。「集団的自衛権」の行使として「武力の行使」を行うのであれば、国際法上『他国からの要請』が必要であるため、『他国防衛』を含むこととなる。それを『自国防衛』と称しようとも、『他国からの要請』がない段階で『自国防衛』による「武力の行使」を行えば、国際法上違法となるのであるから、『他国からの要請』を必要とする時点で『他国防衛』を含むのである。
そもそも、「我が国に対する武力攻撃」が発生しない段階で行う『自国防衛』と称する「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。これは、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』を有しようと有せずとも、関係なく違憲である。9条は日本国の統治権の『権限』の範囲を制約する規範であり、国際法上の『権利』の区分を示す基準とは関係がないからである。
「限定容認論」との説明もあるが、国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を限定的に行使すると言いたいのかもしれないが、国連憲章51条の「集団的自衛権」に「限定」などという概念は存在しない。「集団的自衛権」という区分に該当すれば「集団的自衛権」でしかないのであり、「限定容認」などという概念は国際法上は存在しない。
そもそも、「限定容認論」という言葉であるが、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』の概念を主軸として説明しようとしている試みが誤りである。問題となっているのは、9条の下で行うことのできる「武力の行使」の範囲であり、9条解釈の範囲内であれば合憲であり、範囲外であれば違憲である。この「武力の行使」が国際法上の「集団的自衛権」にあたるか否かという論点は、9条解釈の結果として現れる副次的なものでしかない。
9条解釈が許容した「自衛の措置」の範囲を示しているものは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分である。ここに「存立危機事態」での「武力の行使」が含まれることはなく、9条に抵触して違憲である。そのため、「限定容認論」と称している部分の「武力の行使」は違憲であり、「集団的自衛権の行使」についても限定的にも容認されない。
「頭から集団的自衛権の全てを『他国防衛』だと決めつけてかかるのは、議論を拒む態度」との記載もあるが、『他国からの要請』がなければ違法性が阻却されない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うとしているにもかかわらず、『他国防衛』の意図が存在しないかのような説明は誤りである。それを『自国防衛』と称するにしても、『他国防衛に付随する自国防衛』であり、『他国防衛』の意図・目的を排除できるわけではない。「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を得るためには、『他国からの要請』が必要であるにもかかわらず、純粋な『自国防衛』だけの「武力の行使」がその中に含まれているかのように説明することは事実を隠ぺいする態度だと言わざるを得ない。『他国防衛』の意図・目的を含む「武力の行使」を行う組織は、2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。また、もし完全な『自国防衛』であるとしても、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定であり、『自国防衛』と称するからといって必ずしも「武力の行使」が正当化されるわけではない。9条は「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行うことを禁じており、これを満たさないのであれば『自国防衛』を称しても違憲となることに変わりはない。9条は『自国防衛』の意図・目的であったとしても必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではないのであるから、『自国防衛』を称する「武力の行使」であることを理由として9条に抵触しないと説明することはできず、誤りである。
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・ところで、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず実力をもって阻止する権利」という定義及び「集団的自衛権を行使するためには、武力攻撃の直接の犠牲国による、武力攻撃を受けた事実の宣言及び他国への援助の要請が必要である」とする国際司法裁判所(ICJ)の判決からは、集団的自衛権行使とは他国防衛の
「目的」と「実質」を有していなければ存在し得ないものであることが理解できる(以下の「C及びD」必須) 。他方、7.1閣議決定の記載からは、「限定的な集団的自衛権行使」とは自国防衛の「目的」と「実質」を有していなければいけないことが理解できる(以下の「A及びB」必須) 。
・そして、こうした理解のもとに、安倍内閣の7.1閣議決定・安保法制の理解を踏まえた集団的自衛権行使の組み合わせの表を作ってみると、結論として、安保国会で明らかになった「限定的な集団的自衛権行使」たる「自国防衛の目的・実質を有し、かつ、他国防衛の目的は有せず他国防衛の実質のみを有する集団的自衛権」(以下の「ABD」)なるものは、国際法違反により存在できないと解されることが理解できる。
・ようするに、他国防衛の目的と実質を有する武力行使を排除する憲法9条の規範に抵触することを回避しようとして、自国防衛を目的とする「限定的な集団的自衛権行使」なるものを捏造したものの、集団的自衛権行使の定義等からの要請である他国防衛の目的と実質の要件から逃げ切ることができず、憲法9条規範と国際法規範の挟み撃ちにより自滅をしている構図であると解される。
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第五章 集団的自衛権行使の新三要件
──歯止め無き無限定の武力行使 PDF (P175~176) (下線・太字は筆者)
(第五章 集団的自衛権行使の新三要件 ──歯止め無き無限定の武力行使 PDF)
「個別的自衛権では、直接我が国が武力攻撃を受けたときでなければ反撃できません。それまで待っていて本当に我が国の存立を全うできるかというのが、最大の論点なのです。」との説明があるが、誤りである。最大の論点は、国際法上の違法性阻却事由の『権利』としての「個別的自衛権」や「集団的自衛権」にあたるかどうかではなく、9条の下で許容される「武力の行使」の範囲である。9条の下で「武力の行使」が許容される範囲が確定し、その許容された「武力の行使」が国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」のどの区分に該当するかという評価が下されるだけである。
論者は、9条解釈の中に国際法上の違法性阻却事由の区分の基準を持ち込もうとしている点で誤りである。国際法上の違法性阻却事由を得たとしても、9条が日本国の統治権の『権限』の範囲が伸縮するわけではなく、関係がないのである。
「集団的自衛権の成立経緯から考えても、大国の侵略から小国を守るための『共同防衛』ということでしょう。」との説明がある。「集団的自衛権」という違法性阻却事由の区分は関係なく、9条は『共同防衛』のための「武力の行使」やそれを行う組織は許容していない。よって、論者の有する「集団的自衛権」に対する概念でもってしても、それを行使する際の「武力の行使」を行う組織は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。
「限定容認論の下の集団的自衛権の中に『自衛のための措置』が含まれ得るのかどうかを冷静に議論をすべきです。」との記載があるが、誤りである。「集団的自衛権」は国際法上の『権利』であって、日本国の統治権の『権限』による『自衛のための措置』の範囲とは関係がないからである。9条の下で日本国の統治権の『権限』が行使できる『自衛のための措置』を検討した結果、国際法上の違法性阻却事由のどの区分に該当するかという問題なのであって、「集団的自衛権」から9条解釈によって生まれる『自衛のための措置』の範囲を決しようという考え方自体が誤っている。
「『我が国の存立を脅かす明白な危険』という新三要件の規定は、そのことを限定的明示的に定めたものです。」との記載もあるが誤りである。三要件は、9条解釈によって確定する要件なのであって、「集団的自衛権の中に『自衛のための措置』が含まれ得るかどうか」などという話とは全く関係がないのである。
武力攻撃の「着手」の論点であるが、そもそも9条の下では「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うことは違憲なのであるから、この国際法上の区分としての「個別的自衛権」の「着手」を拡大しようとすることの危険性を説明したところで「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うことができるとする論理には繋がらない。
安保理に対して「直接の武力攻撃を受けていないにもかかわらず個別的自衛権の行使であると報告すれば、大変な事件になります。」との記載があるが、それは確かであると思われる。しかし、そもそも9条の下では「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たす場合にしか「武力の行使」ができないのであるから、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で行われる「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。これにより、「集団的自衛権の行使」を安保理に報告する機会がないのであるから、この議論は9条の制約の下での日本国には関係のない話である。
「マスコミも、集団的自衛権は、相手国が第三国に対する違法な侵略を開始したときに行使し得る自衛権であることは、ほとんど報じていません。それをとらえて『先制攻撃』などという批判をすることこそおかしな話です。」との説明があるが、論者が国際法上の話と、憲法上の話を区別していないことによるおかしな話をしているだけである。
「集団的自衛権の行使」が国際法上において違法性が阻却されようとも、9条は自国都合の「武力の行使」を禁じており、それを行った場合には憲法上は『先制攻撃(先に攻撃)』にあたるのである。論者は、国際法上と国内法(憲法)上では法分野が異なるために、異なる評価が行われることを理解していない。
「3 自衛権の行使は総合的判断によるもの」の項目にて、「では、あらゆる存立危機事態をどのように規定すれば明確になるのでしょうか。」との記載があるが、そもそも9条の下では「あらゆる存立危機事態」があったからといって、「武力の行使」を許容する趣旨ではない。9条は、まさに自国の存立が危機であるからと言って、他国に向かって「武力の行使」を行うような行為を禁じているのである。これは、我が国の独善主義を排しようとした国際協調主義や「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」ている平和主義の理念からも導くことができる。
論者の支持する国際法上においても国連憲章2条4項では「武力不行使の原則(武力行使禁止原則)」が定められており、「あらゆる存立危機事態」があったからと言って、自国や他国に対する武力攻撃が発生していない段階で行われる「武力の行使」を禁じているはずである。それにもかかわらず、「想定しうるあらゆる事態を法律の規定で書き尽くすというのは、もとより不可能」などといって、「あらゆる存立危機事態」に対応できる曖昧な表現を正当化できる理由にはならない。
そもそも、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たしていない中で「武力の行使」を行うことは9条に抵触して違憲であるため、「あらゆる存立危機事態」を理由とする「武力の行使」についても違憲である。
「事態の認定は、その時の政府の責任により正に総合的判断に基づいて行われるべきもの」との記載もあるが、「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにもかかわらず、政府が総合的に判断して「存立危機事態」を認定して「武力の行使」を行うことができるとすることは、9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨を損なうものであるから、9条に抵触して違憲となる。
「武力攻撃があったからと言って、直ちに戦争に突入するわけではありません。」との主張はその通りである。しかし、「我が国に対する武力攻撃」が発生した時点を基準として、政府が「武力の行使」をするかしないかを決定できるとすることには、9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」を行う可能性を排することのできる規範性を有しているが、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず政府が「武力の行使」をするかしないかを自由裁量で決定できるとすることは、9条の趣旨に反する。
「その時の政府の総合的な判断によらざるを得ません。」との説明があるが、9条の制約の下での「政府の総合的な判断」については合憲であるが、9条の制約を外した形で「政府が総合的に判断」することは違憲である。論者は9条の制約をあたかも努力義務と解し、規範性を有しないかのように読み解こうとしている点で誤りである。
「曖昧不明確ゆえに無効」となる論点であるが、これは、その規定が通常の判断能力を有する一般人の理解においてその規定を適用できるのかできないのかを識別するための基準を示すところがなく、その運用が適用する者の主観的判断にゆだねられて恣意に流れるなど、重大な弊害を生ずることにより違憲となるものである。「人権制約の時の憲法論」との反論があるが、前文には「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」との記述があり、9条はそれら前文の平和主義の精神を具体化した規定であるとされており、9条は政府の主観的判断にゆだねられて恣意に流れるなど重大な弊害を生ずることを防止するための規定であることから、9条の規定が存在する意味から求められる解釈において、その趣旨を生かした規範性を有する明確な基準が求められることは明らかである。
それは、論者のいう「集団的自衛権」の手続き規定があろうとも、国際法上の違法性阻却事由と、憲法上の9条解釈とは法分野が異なるのであるから、論旨が通じない。
「存立危機事態の認定には、原則事前の国会承認が必要です。」との記載もあるが、「存立危機事態」による「武力の行使」そのものが違憲なのであるから、国会の承認を得ようと得まいが、違憲である。
「行政に一定の裁量があるから違憲というのは、おかしな意見です。」との主張もあるが、行政権が憲法上で禁じられた制約を超えて行使されたならば、その行為は直ちに違憲である。行政権に裁量がある部分とは、違憲でない範囲に限られているのである。9条の趣旨より違憲である部分と違憲でない部分を規範性を設けなくてはならないところを、規範性を損い、行政権の裁量にゆだねることは、9条に抵触して違憲となるのである。そもそも、9条2項は軍事権限を許容しておらず、2項に抵触しないとする行政権の範囲を確定せず、曖昧不明確にして裁量判断で行う「武力の行使」に関しては、2項の「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲である。
その後、政府が砂川判決を用い、「集団的自衛権」であっても新三要件は限定的に「自衛のための措置」に該当するとしている点であるが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』が行う「武力の行使」の範囲については何も述べていない。そのため、砂川判決が持ち出されることは不適格な事例である。2014年7月1日閣議決定では、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとされているのであるから、結局、単に1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分によって「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となる。
かみ合わぬ憲法論(1) 2015年11月5日
「憲法には、自衛権について何も規定していません。」との記載があるが、当然である。「自衛権」は国際法上の違法性阻却事由の概念であり、日本国憲法に書き込む必要がないからである。
「吉田総理は、国家として当然自衛権は有しているが、その行使は認められないという趣旨の答弁をしています。」との記載があるが、当然である。日本国は国家承認を受けて国際社会から国家として認められているのであるから、国際法上の違法性阻却事由としての「自衛権」は当然有している。しかし、その「自衛権」という『権利』にあたる活動を行うには、国民主権によって正当化される憲法上の国家の統治権の『権限』による行為が必要である(国民主権原理を採用していない国家も存在することに注意)。しかし、日本国の場合は9条によって国民からの信託(授権)を受けていない『権限』が存在しており、「武力の行使」が制限されているのである。その中でも「武力の行使」ができる範囲を確定したものが、1972年(昭和47年)政府見解である。
「この『必要最小限度』の内容が今問題になっているわけですが、その具体的な基準が憲法の規定から読み取れるわけではありません。」との記載がある。確かに、『必要最小限度』の内容は憲法規定から直接読み取ることができるわけではない。しかし、憲法規定の規範性を損なわない形で解釈を導くことは可能であり、その規範の設定こそが、1972年(昭和47年)政府見解である。
また、『必要最小限度』の意味は、数量的なものではなく、質的な基準で設定しているものである。
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お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)
砂川判決が認めた自衛の措置とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」である。それ以外の措置については、何も語っていないのである。特に、日本国の統治権の『権限』が行う「武力の行使」については判断していない。
「『我が国の存立を全うするため必要な自衛のための措置』とは何かということを虚心坦懐に考察すべきです。」との記載がある。政治的にはその通りであるが、それを行う際には合憲・合法的な範囲内で行う必要がある。それを踏み越えた場合は、直ちに違憲違法である。
1972年(昭和47年)政府見解には、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言があり、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味している。この要件を満たさない中で行われる「武力の行使」が違憲となることから、「集団的自衛権の行使(つまり我が国に対する武力攻撃が発生していない中で行う『武力の行使』)」は違憲という結論が導かれているのである。
これは、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容とする集団的自衛権の行使」の文言の中に、「他国」とあるから、「自国防衛の集団的自衛権ならば行使できるではないか」というような性質のものではない。そもそも、国連憲章2条4項で「武力の行使」は禁じられており、51条の「集団的自衛権」の区分によって違法性を阻却するためには、「他国からの要請」が必要である。この国際法上合法的な「武力の行使」を実施するために「他国からの要請」が必要となる「武力の行使」に、「他国に加えられた武力攻撃を阻止すること」つまり、「他国防衛」が含まれていないはずがないのである。
「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を、「自国防衛」と称したところで、「他国からの要請」によって初めて国際法上の違法性が阻却される区分なのであるから、実質は「他国防衛に付随する自国防衛」でしかないのである。これを「他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容とする」という文言のみを取り上げ、あたかも反対解釈が可能であるかのように読み解こうとすることは、事実を隠ぺいする工作だと言わざるを得ない。マスコミが報じないのは論者の認識に誤りがあるからである。
この議論とは別に、そもそも9条は「武力の行使」を禁じており、国際法上の違法性阻却事由を得ようが得まいが、9条の規範性に影響を与えることはない。そのため、「自国防衛」の「武力の行使」が必ずしも許容されるわけではない9条の下では、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で行われる「武力の行使」は違憲である。
1972年(昭和47年)政府見解について、「要は、『他国防衛』と呼ばれるような内容を含む集団的自衛権を否定しています。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解は、『他国防衛』であろうと『自国防衛』であろうと、「我が国に対する武力攻撃が発生」していない段階で行う「武力の行使」は違憲としているのである。その結果、「我が国に対する武力攻撃が発生」していない段階で行われる「武力の行使」を行うことになる国際法上の「集団的自衛権」という『権利』の区分にあたる「武力の行使」は、違憲としているだけである。これは、9条の下で許容される「武力の行使」を確定した結果として「集団的自衛権の行使」にあたる「武力の行使」が違憲となる旨を述べたものであり、『他国防衛』か『自国防衛』かなどという基準を設けたものではない。
そもそも、論者のように国際法上の「集団的自衛権」の概念を『他国防衛』と『自国防衛』とに区分けすることが、国際司法裁判所の管轄事項を日本国政府が独自に解釈しようとするものであり、日本国の独善主義である。これは、憲法の「国際協調主義」の理念にも反する。1972年(昭和47年)政府見解は、「いわゆる集団的自衛権」との表現をしており、この「いわゆる」は、国際法上の概念であるために日本国政府としてその定義を行ったり、明確な判定を行うことができないことを示唆するかのような躊躇した表現であることも注目すべきである。
国際法上の『権利』の概念を『他国防衛』と『自国防衛』に区分けしたところで、9条の下での「武力の行使」が許容される範囲は揺るがないのである。
「国際法上は他国防衛を内容とする集団的自衛権も当然認められており、このことについて、最近、国連憲章第51条で認められている集団的自衛権のことを『フルスペックの集団的自衛権』と呼んでいます。」との表現がある。しかし、国際法上は「集団的自衛権」は、「集団的自衛権」でしかなく、『他国防衛』や『自国防衛』などという区分は存在していない。それを日本の政治が勝手に『他国防衛』を「フルスペック」、『自国防衛』を「限定的」などと呼んでいるだけである。もともと「自衛権」とは違法性阻却事由であり、「武力の行使」そのものを示す言葉ではない。それにもかかわらず、この違法性阻却事由の概念を用いて「フルスペック」だとか「限定的」だとかを語ること自体が誤りなのである。その行為の実質は「武力の行使」なのである。
結局、この「武力の行使」を行うには、憲法上の統治権の『権限』が必要なわけであり、9条の制約の下では、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」は違憲である。そのため、「フルスペック」や「限定的」などと呼称しようとも、憲法上の違憲性を確定する基準とはならないのである。
「今回、政府は、限定容認論を採り、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に限り、集団的自衛権を認めようとしたのです。」との記載があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』であって、日本国政府が「認めようとした」ところで、国際司法裁判所の管轄事項である。2014年7月1日閣議決定は、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に「武力の行使」を行おうとするものである。しかし、9条の規定は、このような自国の危機を理由として政府が「武力の行使」を行うことを禁じた趣旨であるから、受動的・客観的に明白な規範性を有した「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という要件を満たさない段階で行われる「武力の行使」は違憲である。そのため、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』との理由で「武力の行使」を行うことは違憲である。
「今回の政府の提案はその一部分である限定的な自衛のための措置としての集団的自衛権を認めようとしたもの」との記載もあるが、相変わらず「集団的自衛権」という国際法上の区分は関係がなく、9条に抵触する「武力の行使」は違憲である。「一部分」「限定的」などという言葉を付けても、9条に抵触する「武力の行使」である以上は違憲である。
「何が『必要最小限度の範囲』であるかは国際情勢の変化に伴って変わるものであるというのが私たちの主張です。」との記載があるが、『必要最小限度』の意味に誤解がある。
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お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)
法の規範性とは「国際情勢の変化」に応じる形で簡単に変わるものではない。もし「国際情勢の変化」に伴って法の規範性を無視することができるとの論理を採用するのであれば、もはや侵略戦争でさえも「国際情勢の変化」によって正当化されるとの結論に至ってしまう。「国際情勢の変化」に応じて「武力の行使」を行う幅を広げたいのであれば、それは合法的な手段をとる必要がある。憲法改正である。
「ただ憲法解釈の変更はけしからんという批判は、政治的主張ではあっても、法律論ではありません。」との記載があるが、「国際情勢の変化」に応じて規範性を損なわせる憲法解釈が可能とすることは「法律論」ではない。その意味で憲法改正の手段をとらずに「憲法解釈の変更」を行うことは「けしからん」ということは妥当である。ただ、違憲な「憲法解釈の変更」は、そもそも無効である。
「いずれにしても、砂川判決における憲法解釈が重要であり、『我が国の存立を全うするため必要な自衛のための措置』を憲法は容認しています。」との記載がある。しかし、砂川判決が容認した「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」である。日本国の統治権の『権限』として行われる「武力の行使」については何も述べていないのであるから、砂川判決が持ち出されること自体が不適切である。
「限定容認論の下の集団的自衛権が、本当にそのために必要な措置であるかどうか」との記載があるが誤りである。9条が禁じているのは「武力の行使」であり、「集団的自衛権」という『権利』ではないからである。「限定容認論」という言葉であるが、これは「集団的自衛権」の『権利』の区分を用いてその中で「限定」であるかを問おうとしている概念であり、9条の下で許容される「武力の行使」を確定するための基準とはなりえない概念である。国際法上の「集団的自衛権」の区分であろうがなかろうが、「集団的自衛権」の区分の中の「フルスペック」であろうが「限定的」であろうが、9条の制約の下でもなお許容される「武力の行使」を確定する基準には影響がなく、そもそも関係ない。
「日本国憲法が、国家の存立を全うし、国民の生命身体を保護するために否定的なものであるはずがありません。」との記載がある。しかし、日本国憲法は「国際協調主義」と「平和主義」を採用しており、その下での9条規定は、たとえ「国家の存立」や「国民の生命身体の保護」という名目であっても必ずしも「武力の行使」を肯定する趣旨ではないのである。「国家の存立」や「国民の生命身体の保護」という名目で行われる独善主義的に行われる政府判断による「武力の行使」を排するために9条の規定が存在するのであるから、この論旨は正当化事由とはならない。
「憲法解釈の変更」についてであるが、その基準とは9条の規範性を損なわせない基準の範囲内である必要がある。その規範性を損なった2014年7月1日閣議決定は、「立憲主義」の観点からも問題であることは当然、「法的安定性」も損なわせたものである。具体的な基準とは、「1972年(昭和47年)政府見解」である。これらは「立憲主義」や「法的安定性」を考慮した上で導き出された規範である。「立憲主義」や「法的安定性」といったことを考慮すると1972年(昭和47年)政府見解の規範性を導き出すことができるのであるから、「具体的な基準が出てくる」のである。論者の認識は誤りと言える。
いそざき陽輔のホームページ 私の主張(平成27年(2015年))
【◇憲法解釈変更の4つのキーワード(7月19日) 2015年】
「憲法が禁止しているのは、集団的自衛権ではなく、武力の行使である。」との説明があるが、正しい。しかし、「その中で、砂川判決は、『自衛のための措置』を国家固有の権能として認めたのである。」との説明は、正確には誤りである。なぜならば、砂川判決が認めた『自衛のための措置』とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけだからである。日本国の統治権の『権限』を行使して行う「武力の行使」については何も述べていないのである。よって、この場面で砂川判決が持ち出されること自体が不適切な事例であり、結局、「憲法が禁止しているのは、集団的自衛権ではなく、武力の行使である。」との説明のみが妥当なのである。それにより、論者が「目から鱗が落ちる感」を経験したのは、騙されているための錯覚であると言えるだろう。
「我が国の存立を全うするための集団的自衛権は、必要最小限度の自衛のための措置に含まれる。」との説明であるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」は国際法上の違法性阻却事由の『権利』であり、「集団的自衛権」そのものは日本国の統治権の『権限』による「自衛のための措置」とは関係がないからである。
上記の説明を要約すると、「我が国の存立のための『権利』は、自衛のための措置の『権限』に含まれる」という説明となり、そもそも意味が通じていないのである。
「我が国の存立のための集団的自衛権という『権利』を行使することは、自衛のための措置の『権限』に含まれる」と説明したいのかもしれないが、「『権利』の行使は、『権限』に含まれる」という文の流れから、結局意味が通じない。
「我が国の存立のための集団的自衛権という『権利』にあたる『武力の行使』は、自衛のための措置の『権限』に含まれる」と説明したいのかもしれないが、それは結局「武力の行使」について語っているのであるから、9条の制約する「武力の行使」の基準によって判断するだけであり、「集団的自衛権」という文言が持ち出される必要はないのである。
なぜこのような意味の通じない説明がなされているのかというと、日本国の統治権の『権限』の範囲を確定する作業であるにもかかわらず、国際法上の『権利』の区分を持ち込もうとしているためである。国内法と国際法では法分野が異なることに加え、『権利』と『権限』で性質が異なるにもかかわらず、これらを同一視しているという二重の誤りが存在することによる混乱なのである。
「限定容認論」という文言についても、そもそも「武力の行使」を国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分から読み解こうとする発想に誤りがある。限定容認であろうともなかろうとも、国際法上の「集団的自衛権」という区分に該当すれば、「集団的自衛権」でしかなく、9条の制約を超えた「武力の行使」であれば、違憲であることには違いないのである。9条の制約は日本国憲法という国内法の問題であるにもかかわらず、国際法上の区分を用いて「限定」だとか、「容認」だとか説明すること自体がそもそも誤りである。
「私は、砂川判決の『自衛のための措置』は、我が国の自衛権を国家固有の権能として認めただけであり、それ以上でもそれ以下でもないと考えます。」との説明があるが、その通りである。それ以上でも以下でもない。それにもかかわらず、小松内閣法制局長官の言葉を聞いて「目から鱗が落ちる感」を抱くのはおかしな話である。9条の制約は、1972年(昭和47年)政府見解であり、この「基本的な論理」と称している部分に示された範囲を超える「武力の行使」が違憲であることには変わらないのである。砂川判決は何も語っていないのであるから、結局9条の制約は1972年(昭和47年)政府見解に集約されるのである。
「国際法の概念である個別的自衛権や集団的自衛権という用語を持ち込んで、あたかもその間に越えることができない境界があるように論じられているのは、誠に残念なことです。」との説明であるが、その通りである。しかし、なぜ論者はそう主張するにもかかわらず、9条解釈において、国際法の概念である「集団的自衛権」持ち出し、その「集団的自衛権」を『他国防衛』と『自国防衛』に区分けし、『他国防衛』は違憲だが、『自国防衛』であれば合憲であると論じているのだろうか。9条解釈において、国際法上の区分が関係ないということは、論者も理解しているはずである。論者の主張は意味不明である。
論者の言う通り、9条解釈は憲法解釈であり、国際法の概念である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という用語や基準を持ち込み、その間に超えることができない境界があるかのように論じて違憲・合憲の範囲を確定しようとすることは誤りである。論者自身も気づいているように、9条が制約しているのは「武力の行使」であって、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』ではない。
「一方で、『限定容認論』や『新三要件』も重要な概念でありますが、憲法解釈の変更を当てはめた結果こういうことになるという概念であって、憲法解釈そのものの基準となる概念ではないと考えます。」との説明であるが、『限定容認論』という言葉や、「憲法解釈の変更」において当てはめることができるかどうかは別としても、「憲法解釈そのものの基準となる概念ではない」という点では全くその通りである。
「憲法解釈の基準となる概念は、従来も、現在も、『必要最小限度』の範囲にとどまる自衛のための措置であるかどうかということに尽きる」との説明も、その通りである。そこに間違いはない。ただ、その論者が示している『必要最小限度』の意味については、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準である。
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お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)
この第一要件は1972年(昭和47年)政府見解が「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示している部分と対応する。
「国際法上集団的自衛権の一部とみなされる措置が、『必要最小限度』の範囲にとどまる自衛のための措置であるかどうかということが、憲法論の焦点になるべき」との主張について、趣旨としては全くその通りである。
しかし、論者の「ここで、『必要最小限度』とは、我が国の存立を全うするため、すなわち、我が国を防衛するため、必要な措置であって最小限度のものであるかどうかという意味であると考えます。」との認識は誤りである。「必要最小限度」という用語は、「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる三要件(旧)の基準を意味するものである。この第一要件は1972年(昭和47年)政府見解が結論で「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と述べている部分に対応する。そのため、9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるわけではない。憲法上の規範は、「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる三要件(旧)の基準である。
それにもかかわらず、論者は9条解釈をした結果、どこからともなく数量的な意味での「必要最小限度」という基準が現れ、「必要最小限度」と判断すれば9条の下でも「武力の行使」が可能であると考えている点に誤りがある。
そもそも9条の規定は、論者の言う「我が国の存立を全うするため」や「我が国を防衛するため」であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。なぜならば、『自国防衛』を称する「武力の行使」が行われたことは、歴史上幾度も経験するところであり、9条はそのような政府の恣意的な判断や国民の利益のために「武力の行使」が行われることを禁じようとする趣旨で設けられた規定だからである。そのため、「我が国の存立を全うするため」や「我が国を防衛するため」であれば「必要最小限度」であると見なし、その「武力の行使」が許容されると考えていること自体が誤りである。
9条が存在する限りはその規定から一定の規範性を見出す解釈が求められ、その基準として設けられた線が、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に示された「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」である。この規範を損なわせる形で、どこからともなく『必要最小限度』なる概念が現れ、その「必要最小限度」と見なすかどうかが9条の制約であるかのように論じることは誤りである。
1972年(昭和47年)政府見解の基準は、日本国の「専守防衛」の姿勢の根拠ともなっている。
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1 専守防衛
専守防衛とは、相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢をいう。
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3 基本政策 1 専守防衛 平成30年版
防衛白書 (下線・太字は筆者)
「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、」の部分は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことを求めていることと同じである。
論者の説明している「必要最小限度」とは、従来より政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいた三要件(旧)の基準を意味するのであり、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様の意味とは異なる。
論者は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味する『必要最小限度』の概念と、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様を意味する『必要最小限度』の概念を混同し、あたかも9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのように論じるものとなっている。そもそも、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規定であり、9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としていると考えるのであれば、政府が「必要最小限度」と考えただけで「武力の行使」が可能となってしまうのであり、9条が政府の行為を制約した趣旨を満たさず、9条の規範性は保たれていないこととなり、法解釈として成り立たない。これは、9条という規定が存在するにもかかわらず、一定の規範を設定することで政府の行為を画することができないこととなるから、9条の規定それ自体を無視するものであり、憲法解釈として成り立たないものである。
ただ、実際には論者の説明している「必要最小限度」の概念が「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味しており、この第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の基準がある以上、この要件を満たさない限りは「武力の行使」を行うことはできない。
「我が国の存立を全うするため必要な措置は、憲法が否定するものでは決してありません。」との説明があるが、誤りである。憲法9条の制約は、『自国防衛』と称する「武力の行使」を必ずしも肯定しているわけではないからである。そのため、「我が国の存立を全うするため必要な措置」としての「武力の行使」についても、「憲法が否定するものでは決してありません。」との認識は導くことができない。このような、我が国の独善主義を排するために、憲法は「国際協調主義」や「平和主義」の理念を掲げているのである。論者の主張はそれらの理念に裏付けられた9条の趣旨を無視している点で正当化することはできない。
「従来の憲法解釈との異同についての議論に終始しているのは、国家にとって有益ではありません。」との主張がある。しかし、まず「国家」とは「憲法」である。憲法に違反する行為は、「国家にとって有益」であるかないかにかかわらず、国家の行為として正当化されないのである。「国家にとって有益」であれば、憲法違反を正当化されるとの議論は、そもそも憲法を掲げて国家を定義する営みそのものを否定する暴挙である。国家行為は合法的であることによって正当化されるものであり、「国家にとって有益」であるからといって、正当化され、合法化されるわけではないのである。明らかに誤った認識である。
違憲・違法とならない方法として、「憲法改正」という手段が存在している以上、憲法改正を行わずに違憲な「解釈変更」を行うことは国家の行為として正当化することはできないのである。
憲法が「自衛権」について何も規定していないことは、「自衛権」が国際法上の概念である以上当然である。「国民の幸福追求権を考えれば、」「必要な措置を否定するものではありません。」との説明があるが、これは「国民の幸福追求権のための『武力の行使』」を正当化する議論であり、明らかに9条が設けられている趣旨を踏みにじるものである。平和主義に裏付けられた9条は、政府が政治的な都合や国民の権利利益を実現することを理由として「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨であり、「国民の幸福追求権」のためだけに「武力の行使」が許されるとする規定ではないのである。
「その基準は、『必要最小限度』の範囲に収まるものか否か」との説明があるが、論者の言う『必要最小限度』とは、従来より政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいた三要件(旧)の基準を意味するのであり、この中に「存立危機事態」の要件は当てはまらない。結局、「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにもかかわらず、「我が国の存立を全うするため必要な措置」としての「武力の行使」を行うことは違憲である。
【◇限定容認論はなぜ合憲なのか(6月7日) 2015年】
まず、「限定容認論の下の集団的自衛権の行使」との記載があるが、国際法上の区分としての「集団的自衛権」という言葉を使うのであれば、それは国際法上の「集団的自衛権」でしかない。それをあたかも国際法上の「集団的自衛権」の概念の中に、「限定」などの概念が存在するかのように語ることがそもそも誤りである。そのため、「限定容認論」などという文言が成立しないのであるから、「限定容認論の下の集団的自衛権の行使」などという言葉は、意味が成立しないのである。
9条の制約は、日本国の統治権の『権限』に対するものである。この9条の制約に抵触すれば直ちに違憲である。この9条に抵触するかどうかという基準は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」である。注意したいのは、これに抵触すれば、たとえ国際法上の「個別的自衛権」の区分に該当して国際法上の違法性が阻却される「武力の行使」であったとしても違憲となることである。
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従来の政府解釈では、「憲法第九条の文言は、我が国として国際関係において実力の行使を行うことを一切禁じているように見える」(内閣法制局)が、「我が国に対する武力攻撃の発生」という外形的事実があればさすがに反撃してもいいだろうということで、国際法上の個別的自衛権よりも狭い個別的自衛権の概念を採用し(1981年6月3日衆法務委員会 角田礼次郎内閣法制局長官)、極めて例外的な要件のもとに自衛隊の存在が正当化されていたのである。
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上述したように、従来の政府解釈は、国際法上の個別的自衛権よりも狭い個別的自衛権の概念を採用し、極めて例外的な要件のもとに自衛隊の存在が正当化されていた。角田内閣法制局長官はいう。「個別的自衛権についても、その行使の態様については、わが国におきましては、たとえば海外派兵はできないとか、それからその行使に当たっても必要最小限度というように、一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。そういう意味では、個別的自衛権は持っているけれども、しかし、実際にそれを行使するに当たっては、非常に幅が狭いということを御了解願えると思います。」(1981年6月3日
衆議院法務委員会)と。9条の文言がある限り、「我が国に対する武力攻撃の発生」がある場合に限ってその範囲内で個別的自衛権行使が認められると言わざるを得ず、国際法上の個別的自衛権行使すらそのまま認めるわけにはいかないというのが従来の政府解釈である。
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憲法研究者と安保関連法――元最高裁判事・藤田宙靖氏の議論に寄せて 2016年3月7日 (下線・リンクは筆者)
砂川判決について「この『自衛の措置』が集団的自衛権を射程に入れていたとは言えませんが、それを明確に否定したものでもありません。」との記載がある。ただ、「自衛の措置」が「集団的自衛権」を射程に入れていたか否かという考え方にそもそも誤りがある。日本国の統治権の『権限』によって行われる「自衛の措置」は、基本的に「武力の行使」であり、国際法上の違法性阻却事由の『権利』である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分とは関係がないのである。よって、「集団的自衛権を射程に入れていたとは…」などという考え方が持ち出されること自体に誤りがあるのである。
砂川判決は、日本国の統治権の『権限』において「武力の行使」を行うことができるのかを説明していないのであるから、結局、9条の下でも許容されるとする「武力の行使」の範囲を確定しているのは1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」である。
「砂川判決により、憲法第9条は『武力の行使』を禁止しているが、『自衛の措置』は例外として認められることが明らかになったのです。」との認識に誤りがある。砂川判決の許容している『自衛の措置』とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」については何も述べていないのである。そのため、『自衛の措置』の範囲については政府の憲法解釈が行われることになるのは確かであるが、それは憲法の枠内で行われる必要がある。
1972年(昭和47年)政府見解は、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言があり、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味しており、この要件を満たさない集団的自衛権の行使としての「武力の行使」は憲法上許されないと示したものである。2014年7月1日閣議決定についても、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとされているのであるから、この「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中で行われる「武力の行使」が違憲であることは変わらない。よって、存立危機事態の要件は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」を許容するものであるため、違憲である。
「確かに国際法上の集団的自衛権は自国の危険と関係なく他国の防衛を共同で行うことを含みますが、我が国では限定容認論を採用し、上記のような我が国の存立が脅かされる事態において、必要最小限度の実力の行使しかできないこととしたところです。」との記載がある。しかし、相変わらず「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を示したものに過ぎず、日本国の統治権の『権限』において行う「武力の行使」を確定する作業とは関係がない。それにもかかわらず、日本国の統治権の『権限』における「武力の行使」の範囲を、国際法上の「集団的自衛権」の区分を持ち込んで説明を試み、その「集団的自衛権」の『権利』の区分を「限定容認」するなどという意味の通じないことを試みているのである。
日本国は、国際法上「集団的自衛権」という『権利』はもともと他国と同様に完全な形で有しているのである。「集団的自衛権」自体は、完全に有するのである。その区分にあたる国家の『権限』としての「武力の行使」ができるかどうかに焦点があるわけであり、「集団的自衛権」などという国際法上の区分が「限定容認」などという話にはならないのである。
結局論者は、「我が国の存立が脅かされる事態」において、我が国に対する武力攻撃がないにもかかわらず「武力の行使」を行うことを正当化しようとするものでしかないのである。これは9条の制約から見れば、先制攻撃(先に攻撃)である。国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分に該当し、国際法上の違法性阻却事由を得ようとも、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解によって制約されているのであるから、これを超える「武力の行使」は違憲である。
「必要最小限度の実力行使しかできないこととした」との評価であるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を逸脱する「武力の行使」は違憲であり、「必要最小限度の実力行使」(武力の行使のこと)であれば合憲化されるなどという話にはならない。9条が存在する以上は9条の規範の趣旨を生かした解釈が求められる。その憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「武力の行使」しか許容していない。「必要最小限度」という基準についても「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる三要件(旧)の基準を意味するのであり、論者の言うような数量的な意味での「必要最小限度」という概念ではない。9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」というものであれば、9条の規範性は損なわれるのであり、憲法解釈として成り立たない。
「こうした前提に立てば、このような限定容認論の下の集団的自衛権の行使は、昭和47年見解の『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とするものでは決してなく」との説明があるが、誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解とは、9条の下で許容される「武力の行使」の範囲について述べたものである。その範囲を確定した結果として、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である「集団的自衛権」の行使としての「武力の行使」は、「我が国に対する武力攻撃が発生」していない段階で行われる「武力の行使」であるために、許容されないとするものである。ここで使われている『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とするとの「集団的自衛権」の説明についてであるが、1972年(昭和47年)政府見解とは、『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とするか否かに規範性を設定したものではなく、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たしているかどうかに規範性を設定したものである。
『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とする「集団的自衛権」は行使できないとする説明は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という要件を満たさない「武力の行使」が許容されないことから現れる副次的なものでしかないものである。1972年(昭和47年)政府見解は、「集団的自衛権」の定義を『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』としているか否かを説明しようとするものではないのである。そもそも、「集団的自衛権」とは、国際法上の概念であり、その概念の意味内容を確定する作業は、国際司法裁判所である。1972年(昭和47年)政府見解において、日本政府が国際法上の違法性阻却事由の「集団的自衛権」の概念の中に、『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とするものと、そうでないものが存在するかを論じることはできない。
「『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とするものでは決してなく」との説明であるが、9条の下では、『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とする「武力の行使」を行った場合、2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となることは当然であるが、『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とするものではなく、「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにもかかわらず、「武力の行使」を行えば、9条1項にも抵触して違憲である。違憲・違法な先制攻撃(先に攻撃)である。
「国連憲章で認められている集団的自衛権の一部を新たに限定的に認めたもの」との説明があるが、国際法上の「集団的自衛権」の概念に『他国防衛』や『自国防衛』などという線引きは存在せず、「集団的自衛権」は「集団的自衛権」でしかない。結局はそれは、「武力の行使」であり、9条の制約の下でその「武力の行使」が許容されるか否かが焦点なのであるから、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に含まれない「武力の行使」が違憲であることには変わらない。国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を用いて説明することが誤りである。
「従来の政府見解の枠組みを維持したものとなっています。」との説明があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」は、従来の政府見解の枠組みである1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に含まれることがないことから、違憲であり、枠組みを逸脱する以上は枠組みの意味が損なわれており、維持されていない。維持したものとなっているとの評価も誤りである。
「自衛の措置の『必要最小限度』の内容も変わってくるべきなのです。」との説明があるが、「べき」という願望である。憲法解釈によって設定されている規範性を踏み越える「武力の行使」を行いたいのであれば、憲法改正を行う必要がある。政府が1972年(昭和47年)政府見解において設定した「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の意味する「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の規範そのものが、国際情勢によって変わることはない。
【◇安保法制与党協議の結果(3月27日) 2015年】
「憲法第9条の下で許容される自衛の措置については、昨年の閣議決定でほぼ決着済みの事項であり」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとされているが、実際にはこの「基本的な論理」の中には当てはまるはずのない「存立危機事態」の要件を「当てはまる」などと結論のみを主張しているものであるから、解釈の過程を誤った違憲・違法なものである。よって、決着済みの事項ではない。むしろ解釈上は違憲無効として決着済みと言える。
集団的自衛権を巡る違憲論議について 2016年4月4日
論者が藤田論文について論じる趣旨であることから、藤田論文の内容とそれを論じる論者の見解を、ここで同時に指摘することとする。
「公理」について、
第一 「法解釈が誤ったものであれば、正しいものに改めるのは当然」
第二 「法適用に当たっては、法の内容の確定が必要」であり、「最高裁の判断がなければ自ら解釈することになる」
第三 「最高裁の最終的な判断が出るまでは、他の国家機関の解釈は暫定的なもの」
というのは、その通りである。
このような理論枠組み自体は「立憲主義」に反するものではないということは当然である。
しかし、「安倍政権が『何ら憲法違反はないと主張するのも、まさにこのような理論的根拠があるからである』」との内容については、安倍政権による法解釈について、上記の第一の公理を踏まえてた内容になっていないために誤りとなる。
まず、「違憲であるとする見解が、『憲法によって縛られる政府が、自らの手によって従来の憲法解釈を変更するのは、立憲主義に反する』と主張しているが、」との部分であるが、恐らく論者は内容を正確に読み取れていない。
2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとされている。この「基本的な論理」とは、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在し、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を規範性として設定しているものである。この規範性は、極めて受動的・客観的な要件であり、9条が国民の権利の実現などを理由として政府が自国都合の「武力の行使」を行うことを制約しようとしている趣旨を生かした安定性の高いものである。
しかし、2014年7月1日閣議決定は、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していると主張しながら、結論として「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たしていない「存立危機事態」での「武力の行使」を可能と結論付けようとしたものである。
この点、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の枠内では説明することができないのであるから、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」という政府見解という憲法解釈によって縛られる政府が、自らの手によって従来の憲法解釈を論理的整合性のない形で変更し、結論として「存立危機事態」での「武力の行使」を可能としよう「存立危機事態」での「武力の行使」としていることは、立憲主義に反するということなのである。
「立憲主義に反する」との主張もその通りであるが、憲法解釈の文脈そのものに論理的整合性がないのであるから、「法の支配」にも「法治主義」にも反するのである。
「『従来の説明を見る限り、『法的安定性』が最も重要な論拠とされて』いるが、『具体的にいかなる要請なのかが、より一層明確にされるのでなければな』らないとしています。」との説明との説明に続く、③の「『違憲の理由として『法的安定性』が主張されるとき、実はそこでは、『従来の解釈』こそが内容的に正しく、政府による『新解釈』は誤りであるという実体的判断が、既に前提とされている』という意味です。」については、まさにその通りであると考える。9条の趣旨は、日本国の統治権に対する制約であり、これは国民の利益や国内の政治的な都合によって政府が恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを禁ずる趣旨である。それにより、「従来の解釈(1972年(昭和47年)政府見解)」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言に含まれる「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」との要件に規範性を設定したことこそ内容的に正しく、「新解釈(2014年7月1日閣議決定)」が「存立危機事態」での「武力の行使」を結論として可能としたことは誤りなのである。実体的判断が既に前提とされていることも妥当である。
「『憲法の番人である法制局が従来の憲法解釈を変えることは許されない』という主張には、法理論的な根拠が見出せない」については、まあまあ正しい。しかし、問題は「従来の憲法解釈を変えること」ではなく、論理的整合性がない形で「従来の憲法解釈を変えること」である。これは、「憲法の番人」と呼ばれることもある「法制局」という法整備に関する専門家が、論理的整合性のない形で憲法解釈を変更することは、専門家としてあるまじき行為であり、非難に値するのである。法律の素人が論理的整合性のない見解を述べることはよくあることであるが、法律の専門家として活動している「法制局」たるものが、論理的整合性のない見解を述べることは、国家運営に重大な支障を生じさせるという意味で、許されないのである。解釈内容の妥当性がないことを考えれば、『憲法の番人である法制局が従来の憲法解釈を変えることは許されない』という主張は妥当である。
【参考】「憲法の番人」をめぐる抑制と均衡の力学
「憲法解釈の変更は、『本来よるべき憲法改正手続を回避するための便法であって、権限の濫用であり、それ故に違法・違憲であるといった主張がある』が、『権限の『濫用』は違法であるということは一般的に言えても、何がそこでいう『濫用』に当たるかは、かなり精緻な議論を必要とする問題なのであ』り、今回の閣議決定についても、その違憲性を『経緯からのみ『権限の濫用』と断ずるのは、規範論理的にはいささか粗雑に過ぎる議論であると言わざるを得』ないとしています。」との記載がある。しかし、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していると主張しており、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を踏まえると、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」は違憲である。それにもかかわらず、2014年7月1日閣議決定は、結論において「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「存立危機事態」での「武力の行使」を可能とするものであり、論理的整合性の保たれていない憲法解釈を閣議決定したという意味で『権限の濫用』にあたり、違法となるのである。
2014年7月1日閣議決定が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していると主張していることから求められる「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たしていないことことが、藤田論文に言う「精緻な議論」の部分である。「経緯からのみ『権限の濫用と断ずるのは、規範的論理にはいささか粗雑に過ぎる議論である」との評価についてであるが、2014年7月1日閣議決定自体が論理的整合性の保たれていない不当な内容であるのであるから、「規範論理的」にも粗雑とは言えない。
「今回の事態を巡る憲法問題は、結局のところ、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定及び法案の内容自体が憲法の正しい解釈と言えるか否かという、実態法上の問題を抜きにしては、論じ得ない」との説明はその通りである。
「『旧解釈』の『基本的躯体を残した上での部分的修正に過ぎない』と言えるか否かに問題の枢要はあるとしています。」との記載がある。しかし、2014年7月1日閣議決定は、そもそも『旧解釈』の『基本的躯体』を残した(1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持している)と主張しているが、その内容に論理的整合性がないのである。「部分的修正に過ぎない』と言えるか否かの問題」との記載があるが、「論的整合性があるか否か」の問題である。
「指摘に間違いはないのですが、昭和47年の政府解釈においても、『必要最小限度』という用語は、第3要件のみでなく、自衛権発動の三要件全体を包含する意味においても用いられており、」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「必要最少限度」の文言は「右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」との文であり、この「右の事態を排除するため」の部分は三要件の第二要件の「これを排除するために他の適当な手段がないこと」に対応し、「必要最少限度の範囲にとどまるべきもの」の部分は三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「『必要最小限度』という用語は、第3要件のみ」に対応するものであり、論者の「自衛権発動の三要件全体を包含する意味においても用いられており、」との認識は誤りである。
「必要最小限度」の意味について二段階で同じ用語が用いられていることは確かである。しかし、「論者の中にも勘違いがあるのではないか」と指摘する論者の中にも勘違いがある。
━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━ ← 三要件(旧)の全てを指す意味
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと ← 「武力の行使」の程度・態様の意味
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○秋山政府特別補佐人
(略)
それから、御質問の後段の、憲法解釈において政府が示している、必要最小限度を超えるか超えないかというのは、いわば数量的な概念なので、それを超えるものであっても、我が国の防衛のために必要な場合にはそれを行使することというのも解釈の余地があり得るのではないかという御質問でございますが、憲法九条は、戦争、武力の行使などを放棄し、戦力の不保持及び交戦権の否認を定めていますが、政府は、同条は我が国が主権国として持つ自国防衛の権利までも否定する趣旨のものではなく、自衛のための必要最小限度の実力を保有し行使することは認めていると考えておるわけでございます。
その上で、憲法九条のもとで許される自衛のための必要最小限度の実力の行使につきまして、いわゆる三要件を申しております。我が国に対する武力攻撃が発生したこと、この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきことというふうに申し上げているわけでございます。
お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)
論者が説明する「政府が憲法解釈上重要視しているのはむしろ後者の方であり」については正しい(ここで言っている『後者』とは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)全体のことであり、三要件の第三要件のことではない)。
その「政府が憲法解釈上重視している」1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」から、論者の支持する「存立危機事態」での「武力の行使」を可能とする結論は導き出すことができないため、違憲なのである。
藤田論文の「およそ理論的に『質的な連続性』を欠くものと決め付け得るか否かという問題は、なお残されている」との内容であるが、『質的な連続性』を欠くものと決め付け得るものであるため、問題は残されていない。まず、9条は国民の利益や国内の政治的事情によって政府が恣意的な判断で「武力の行使」を行うことを禁ずる趣旨である。憲法解釈においては、その趣旨を趣旨を生かした規範性の有する基準を設定することが必要である。1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、極めて受動的・客観的に明確な「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範を設定したのである。「存立危機事態」での「武力の行使」については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たしていないのであるから、『質的な連続性』を欠くものと決め付け得ることのできるものである。極めて明白であるが、これを「決め付け得る」と判断できないとでもいうのだろうか。
「存立危機事態」の要件の後半部分の「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」というものは、「我が国に対する武力攻撃が発生」した場合に起きうることは確かである。しかし、未だ「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が発生したというだけで「武力の行使」が可能とすることは、結局国民の権利を実現するために政府が政治的な事情でもって恣意的な判断で「武力の行使」を行うことを排除できないものであるから、この文言に憲法解釈の規範性を設定することは、9条の規定が存在する趣旨を損なうことになるために妥当でない。結局、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」という数量的な判断に基準を置くことは、9条解釈において求められる規範性を有しているとは言うことができない。これにより、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の規範性とは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味しており、この中に「存立危機事態」での「武力の行使」が含まれていると主張することは、『質的な連続性』を欠いているのである。
「非常に微妙な問題となることを否定できない」との記載があるが、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすか満たさないかの問題であり、この論点まで議論を集約できているのであれば、微妙な問題とは言えず、明白な問題である。
憲法学者「水島朝穂」の指摘を参考にする。
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藤田氏は「非常に微妙な問題」というが、従来の政府解釈からは、「我が国に対する武力攻撃の発生」がない以上は武力行使は許されず、いわゆる「敵基地攻撃」の範囲を超えた「先に攻撃」は違憲なので、「微妙」ではなく、明瞭である。これを否定すれば、自衛隊の合憲性の論拠が崩れる。結局、藤田氏が「微妙」と考える前提には、「そうした危ない事態のときには、日本は何らかの武力行使をしてもいいのではないか」という、法の外にしか存在しない、藤田氏個人の主観的な価値判断、政治的な価値判断があるのではないか。
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憲法研究者と安保関連法――元最高裁判事・藤田宙靖氏の議論に寄せて 2016年3月7日
「集団的自衛権の行使を認める場合でも、その範囲は非常に狭く限定的な事態において行使が認められたにすぎない」との記載があるが、まず、9条は「武力の行使」を制約する趣旨であり、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』の行使が非常に狭くとも、限定的であろうとも、「武力の行使」には違いがないのである。9条の制約を超える「武力の行使」は違憲であり、9条の制約の範囲内の「武力の行使」は合憲である。ここでいう国際法上の『権利』の区分を用いて「認められたにすぎない」などいう評価をする認識自体に、議論の本質を捉えていない誤りがある。
「新三要件というのは、現実にほとんど制限的効果を果たさない」との指摘は、妥当である。なぜならば、存立危機事態の要件は、他国に対する武力攻撃が発生した時点で、「これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が発生しているかを政府の総合的な判断という自由裁量にゆだねることになるからである。そもそも、通常の判断能力を有する一般人の理解において、この要件を適用できるか否かを判別することができず、適用する者の恣意的な判断に流れるような要件を設定していること自体が違憲となるべくものである。
<理解の補強>
磯崎陽輔 参議院議員( 大分 ・ 自民 )ってこんな人です 2019年6月26日
岩谷毅
〇 自由民主党 岩屋毅
「安保法制の審議が始まります」 岩谷毅 平成27年05月15日
「たとえ同盟国である米国に対する武力攻撃であっても、それが我が国の安全を根底から覆すようなものでない限りは、集団的自衛権を行使することはしない。」との記載があるが、「我が国の安全を根底から覆す」などという表現は、曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、その条文を適用できるかできないかを判別するところがなく、その条文を適用する者の恣意に流れる要件を設定したものということができる。結果として、31条の適正手続きの保障の趣旨、41条の立法権の趣旨に反し、違憲となる。
「集団的自衛権はあくまでも、万やむを得ない場合に国民を守るためにのみ行使することを可能とする」との記載もあるが、「集団的自衛権の行使」とは、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われている状態を意味するのであり、結局この意味するところは「万やむを得ない場合には国民を守るため」として「武力の行使」を許容するものである。このような自国の政治的な判断によって国民の権利利益の実現を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを制約するために9条の規定が設けられているのであるから、受動的・客観的に明確な「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」はすべて違憲となる。
「国連憲章によってすべての加盟国に認められている集団的自衛権の行使に、これほどまでの限定をかけている例は他に見当たりません。」との記載があるが、そもそも徹底した平和主義を掲げて9条のような規定を有している国自体が「例は他に見当た」らないのである。自らの支持する「存立危機事態」での「武力の行使」について、「これほどまでの制限をかけている」などと評価しようとも、9条の下で行うことのできる「武力の行使」について合憲か違憲かを判定する基準となるわけではない。
「『できるようになる』ということと、『実際に行使する』ということはまったく別の問題です。」との記載があるが、9条の下で『できるようになる』こと自体がそもそも違憲との評価を受けるのであるから、『実際に行使する』ということとの違いを主張したところで、「存立危機事態」での「武力の行使」が合憲となるわけではない。
「すべての自衛隊の活動は最終的に国会の承認、すなわち国民の支持と理解がなければ可能とはなりません。」との記載があるが、たとえ国会の承認があろうとも、「存立危機事態」での「武力の行使」自体が違憲なのであるから、国会の承認を得たところで合憲になるわけではない。国会は憲法の下に設立された機関であり、違憲な「武力の行使」を許容する議決を行おうとも、憲法の制約によって無効となるのである。
論者の考え方は、『できるように』した違憲性を有する条項について、国会の承認があれば合憲となるかのように主張している点で、憲法より国会の多数決原理に正当性があると考えるものであるから、誤りである。
「国民の支持と理解がなければ可能とはなりません。」との説明についても、国民は憲法に基づいて統治権(立法権・行政権・司法権)に対して権力を授権したのであり、これらの権力を持つ「国会」「内閣」「裁判所」が憲法に基づかない『権限』を行使することは、国民の信託がないために違憲となるのである。「国民の支持と理解」とは、一時期の民意によって構成される国会の多数決原理のみによって構成されているわけではない。その一時期の民意が反映された国会に『権限』を授権しているのは、長期的な視野に基づいた民意によって制定された「憲法」という法の枠組みである。憲法に定められた制約も、論者の言う「国民の支持と理解」によってつくられているものなのである。論者はあたかも一時期の民意を構成する国会こそが正当性の拠り所であると考えているようであるが、その国会そのものを構成し、『権限』を与えているのは「憲法」である。「憲法」は、長期的な視野に基づいた国民の意思が反映されて立法(立憲)されたものであり、民意によってつくられたものなのである。これにより、一時期の民意による『権限』の行使は、長期的な視野からの民意を有する「憲法」の枠内でしか正当性を有しないということである。それにもかかわらず、論者が一時の民意のみを正当化根拠であると考えていることは、誤った認識である。長期的な視野からの民意によって制定された「憲法」が禁じている行為については、論者のいう「国民の支持と理解」がないということとなるのである。
論者は、「最後の歯止めは『国権の最高機関たる国会の判断である』と申し上げる以外にはない」との説明をしているが、立憲主義の大前提を理解していないものであり、大きな誤りがある。相変わらず、国会は憲法によって定められた範囲の『権限』しか行使することはできないのであるから、憲法9条の制約を国会の判断によって超えることはできないのである。
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「存立危機事態」における武力行使や「国際平和共同対処事態」における支援活動につき、「国会の事前承認」がうたわれ、あたかもそれが歯止めとなるかのように与党内で宣伝されているが、政府による違憲な行為(集団的自衛権の行使)について、それに承認を与えるような権限は国会に憲法上与えられておらず、国会が事前に承認すること自体が違憲であるといわざるを得ないし、国会の事前承認によって違憲な政府の行為から違憲性が取り除かれるわけではない。
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右崎正博(独協大学法科大学院)安保法案学者アンケート 2015年7月17日
「平和安全法制の基本をなす考え方について」 岩谷毅 平成27年05月21日
「果たして自衛権は認められているのか」との記載があるが、砂川判決においても、国際法上の「自衛権」という『権利』それ自体は有していることが明らかとなっており、認められているのである。
その後「本来は『集団的自衛権』を有しているに違いない。」との記載があるが、「集団的自衛権」という『権利』それ自体は有しているのである。
「『我が国の存立を脅かす場合は自衛権を行使してよろしい』としながら、『集団的自衛権と名がつけばすべて駄目だ』と言っているわけです。今にして思えば、ここにいささか論理の飛躍、あるいは想像力の不足があったと思うのです。当時の政治状況に対する配慮であったのかもしれません。」との記載があるが、認識に誤りがある。
まず、政府は『我が国の存立を脅かす場合は自衛権を行使してよろしい』としているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解にあるように、「あくまでも外国の武力攻撃によって『国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるいう急迫、不正の事態』に対し、国民の権利を守るためのやむをえない措置としてはじめて容認されるもの」としているのである。また、論者は正確に区別できていないようであるが、国際法上の『権利』である「自衛権の行使」とは、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われている状態を意味するものである。この「武力の行使」は、「あくまで外国の武力攻撃」という事態が発生したことに9条に抵触しないことを示すための基準となる規範を設定しているものである。そのため、論者が言うような、『我が国の存立を脅かす場合は自衛権を行使してよろしい』などというものではない。
そのため、『集団的自衛権と名がつけば』との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権の行使」とは、実質的に「我が国に対する武力攻撃が発生」していない中で行われる「武力の行使」を意味するから、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃」の意味する、従来の「三要件」の第一要件である「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさないため、「武力の行使」を行うことができず、結果として国際法上の『権利』の行使ができないとするものである。論者の言う『名がつけば』などという基準によって判定しているものではなく、1972年(昭和47年)政府見解から導かれる規範としての「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たしているかどうかによって判断されているものである。
そのため、「今にして思えば、ここにいささか論理の飛躍、あるいは想像力の不足があったと思うのです。」との記載があるが、論者は未だに1972年(昭和47年)政府見解の論理の正確さを理解しておらず、国内法と国際法の法体系の違いや、『権利』と『権限』の違いに対する理解不足があると考えられる。
これは、「当時の政治状況に対する配慮」というものではなく、憲法解釈によって導かれる法論理によるものである。むしろ1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に、「存立危機事態」での「武力の行使」が含まれるなどと説明している論者の方が、「政治状況に対する配慮」を行おうとしているのではないかと言わざるを得ない。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に、「存立危機事態」での「武力の行使」が含まれるなどと言うことは、「論理の飛躍、あるいは想像力の不足」があると言えるのである。
「我々の長年の問題意識は、この集団的自衛権に関する結論部分が現在の安全保障環境や軍事技術の進展に照らしてみた時に、既に適合しなくなっているのではないか、というものでした。」との記載があるが、「集団的自衛権」とは、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず、「武力の行使」を行おうとするものであるから、1972年(昭和47年)政府見解が「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範を置いている限りは、たとえ「安全保障環境や軍事技術の進展」があろうとも変化することはない。論者の主張によれば、9条という規定が存在しながらも「安全保障環境の変化や軍事技術の進展」によって、侵略戦争さえも肯定することに繋がる主張である。1972年(昭和47年)政府見解に設定された「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という規範が「安全保障環境や軍事技術の進展」などによって変化するわけではないのである。
米艦船に対する武力攻撃を自衛隊が防護することができないことについて、「これでは、『同盟』は成り立ちませんよね。」との記載があるが、論者の主張は、国家そのものである「憲法」よりも『同盟』を優先する考え方である。その「憲法」が制約している『権限』を『同盟』を理由として正当化しようとすることはできない。また、その「憲法」の制約を取り払いたいのであれば、憲法改正を行う必要がある。そもそも、『同盟』のために「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」をするのであれば、『他国防衛』である。この『他国防衛』を行うために「武力の行使」を行う実力組織は、明らかに9条2項後段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。
「これまでの政府の説明の基本的な論理を残した上で、」との説明があるが、これまでの政府の説明の基本的な論理とは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」のことであり、この「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味する。これを満たさない「新たな武力行使の三要件」である、第一要件の「存立危機事態」での「武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合せず、違憲となる。
「最後の『あてはめ』の部分だけを変更したのですね。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たしていない「存立危機事態」の要件が含まれることはなく、『あてはめ』ることはできない。そのため、この「変更」は「論理的整合性」を有しておらず、解釈の過程を誤った違法なものであり、結果として9条に抵触して違憲となるのである。
「つまり、『我が国の存立が脅かされ、国民の生存権が危険にさらされた』場合に限って、集団的自衛権を限定的に行使できるようにしたわけです。」との記載があるが、この論拠によっても合憲化できるわけではない。なぜならば、9条の制約は、「『我が国の存立が脅かされ、国民の生存権が危険にさらされた』場合」であっても、必ずしても「武力の行使」を許容しているというものではないからである。これは、自国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず「自国の存立」や「国民の権利」の危機などを理由として「武力の行使」が行われたことは、歴史上幾度も経験するところであり、9条は、このような「武力の行使」が行われることを制約するために設けられている規定だからである。
また、「集団的自衛権」は国際法上「集団的自衛権」でしかなく、「限定的」などという文言は存在しない。「集団的自衛権の行使」の実質は「武力の行使」なのであるから、「限定的」であれば「武力の行使」が可能であると考えることは、9条の下での「武力の行使」を制約する規範ではないものを用いて「武力の行使」を行おうとするものであり、正当化根拠にはならない。「フルスペックの集団的自衛権」という言葉についても、そのような概念は国際法上存在していない。結局、「集団的自衛権の行使」の実質は「武力の行使」なのであるから、この「武力の行使」を制約する基準である9条解釈によって説明するべきものである。
【動画】<安保法制>自民党・岩屋毅議員に聞く 「戦争法案ではなく戦争回避法案だ」
「我が国を守るための限定的な集団的自衛権であれば憲法の許す必要最小限の自衛権の中に含んでいるのではないか、という見解を出した」との発言がある。
しかし、まず「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由としての『権利』の概念である。憲法9条が制約しているのは日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」であり、国際法上の『権利』の概念とは関係がないのである。そのため、「憲法の許す」などと、憲法が国際法上の『権利』の概念を制約しているかのように論じることは、意味が通じないのである。
次に、「必要最小限の自衛権」の部分であるが、意味が通じていない。9条解釈において用いられている基準は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を示す言葉である。そのため、論者の言う「必要最小限」とは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を指しているが、これは日本国の統治権の『権限』による「自衛の措置」としての「武力の行使」を制約した規範である。そのため、「自衛権」という国際法上の『権利』の概念に対して、憲法9条の解釈によって導かれている「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準が制約をかけているかのように論じることは、意味が通じないのである。また、国際法上の「自衛権」の制約は、「違法性・必要性・均衡性」である。「集団的自衛権」については、『他国からの要請』も必要となる。この国際法上の『権利』を行使できる場合の制約と、憲法9条の制約とは法体系が異なるため、明確に区別して論じる必要がある。
三つ目に、国際法上の「集団的自衛権」の区分に該当させる形で「武力の行使」を行うのであれば、『他国からの要請』が必要なる。これを得ない中で「武力の行使」を行えば、国際法上違法となるからである。そのため、『他国からの要請』が必要な時点で、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は『他国防衛』の意図・目的を含むこととなる。『他国防衛』の意図・目的を含む「武力の行使」を行う組織については、明らかに9条2項前段の禁ずる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。論者は、「我が国を守るための限定的な集団的自衛権」という表現を使い、『自国防衛』の「武力の行使」であれば合憲であるかのように論じようとしているが、「集団的自衛権」に該当すれば、『自国防衛』と称しようとも実質は『他国防衛に付随する自国防衛』でしかないものである。『自国防衛』だけで、『他国防衛』を含まない「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」などという概念は存在しえないのである。
四つ目に、「限定的な集団的自衛権」という言葉であるが、国際法上「集団的自衛権」という『権利』に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的」とか、「完全」などという区分は存在しない。また、「限定的な集団的自衛権の行使」という言葉を使おうとも、結局その実態は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われていることとなる。9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約していることから、「限定的」などと主張したところで、9条の制約の基準が変わるわけではない。
五つ目に、「我が国を守るため…であれば憲法の許す…中に含んでいるのではないか」との全体の説明であるが、誤りである。まず、9条は「我が国を守るため」であるからと言って、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではないからである。9条は、「自国の存立」や「国民の権利」の危機などを理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であり、たとえ「我が国を守るため」であったとしても、それだけで「武力の行使」が許されるわけではない。9条の持つそれらの趣旨を生かした憲法解釈として示された1972年(昭和47年)政府見解によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲である。「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」が発生していないにもかかわらず、「我が国を守るため」などという理由で「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となる。
結局、論者の主張する「存立危機事態」での「武力の行使」については、憲法の許す範囲に含んでおらず、違憲である。
「政府の論理を継承した上で結論を出した」との発言であるが、2014年7月1日閣議決定は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していると主張しているが、この「基本的な論理」の中に「存立危機事態」での「武力の行使」が含まれることはない。そのため、2014年7月1日閣議決定が結論として「存立危機事態」での「武力の行使」を可能としようとしていることは、解釈の過程を誤った違法がある。
「我が国を守るためにやむを得ず行使しなければならない集団的自衛権、しかも必要最小限度であれば憲法の許す範囲に含まれるという結論を出して」との発言があるが誤った認識がある。まず、「集団的自衛権の行使」について、実質的に「武力の行使」が行われている状態を指す。そのため、論者は結局「我が国を守るためやむを得ず行使しなければならない」として「武力の行使」を行おうとしていることとなる。しかし、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることわ制約しようとする趣旨の規定であり、政府が「我が国を守るためやむを得ず行使しなければならない」との認識によってそのまま「武力の行使」を行うことが許されるわけではない。9条は「我が国を守るため」であるからといって、必ずしも「武力の行使」を認めているわけではないのである。「必要最小限度」について、従来より「自衛のための必要最小限度」と呼んでいるのは三要件(旧)の基準であり、これは第一要件で「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことを求めるものである。そのため、「集団的自衛権の行使」とは、これを満たさない中で「武力の行使」を行おうとするものであることから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の中に当てはまる場合があるかのような認識は誤りである。「結論を出して」との部分について、そのような「結論」を出すことは論理的に不可能である。
「これまで政府が言ってきた論理との整合性をとって」との説明があるが、先ほどのべたように、2014年7月1日閣議決定は、解釈の過程を誤ったものである。これまでの政府見解である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」との整合性は保たれておらず、「整合性をとって」と、整合性が取れているかのような認識は誤りである。
その後の論旨も、この論者の他の記事と主張していることが重なるため、ここではこれ以上説明しない。他の記事で解説した。
【動画】集団的自衛権について 衆議院議員 岩屋毅 2013/11/08
この動画も、同じような理由で論旨が通じない部分がある。同じ論点なので、ここではこれ以上記載しない。「まじめに取り組んでいく必要がある」と述べているので、誤りを認めて真面目に取り組むべきである。
「切れ目のない、隙間のない、穴のない」安保法制を実現 岩屋毅・衆議院 平和安全法制特別委員会理事に聞く 2015.05.26
「集団的自衛権を限定的に行使できる事態である『存立危機事態』も入れて、」との記載があるが、正確な概念構成ではない。国際法上の「集団的自衛権」という『権利』に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかないものである。9条は「武力の行使」を制約する規定なのであり、国際法上の『権利』それ自体に制約をかけているわけではない。このことから、国際法上の『権利』の区分の概念に対して、「限定的」などという言葉を加える試みが誤りであり、国際法上「集団的自衛権の限定的な行使」などという概念は存在せず、それは「集団的自衛権の行使」でしかないものである。また、日本独自に概念を創出しようとしても、日本国の統治権の『権限』によって行われる行為(活動)は「武力の行使」なのであって、その「武力の行使」を制約している規範は1972年(昭和47年)政府見解なのであるから、この制約の範囲内であれば合憲であり、逸脱すれば違憲なのである。そのため、「限定的」などという概念を国際法上の『権利』の区分の用語に加えたところで、日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」が合憲となるわけではない。結局、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によって、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は違憲となって行使できないのであるから、「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」については、「限定的」などと称したところで行使することはできない。
「1972年の憲法解釈は、必要最小限の自衛権しか使えないという論理を残した上で、集団的自衛権は全部駄目としていた。」との説明があるが、誤りである。
まず、ここで使われている『必要最小限』の言葉の意味を特定する必要がある。①政府が従来より「自衛のための必要最小限度」と称しているのは三要件(旧)の基準である。この三要件(旧)の基準は、1972年(昭和47年)政府見解が「自衛の措置」の限界の規範として「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と示している部分と対応するものである。この「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」を意味している。なぜならば、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機などを理由として政府が自国都合の恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとする趣旨で設けられた規定であり、この趣旨を損なうことなく憲法解釈を行うと、政府の恣意性の入り込む余地のない受動的・客観的な事態の性質面に着目して規範が設けられる必要があるからである。また、前文で「平和主義」の理念を採用する日本国憲法の立場からは、「平和主義」を採用していない他国同士の武力を背景とした争いから生まれる「他国に対して行われた武力攻撃(他国に対する武力攻撃)」に規範を設定し、「他国に対する武力攻撃」に起因する「我が国の存立」や「国民の権利」の危険を判断して「武力の行使」を可能とすることは、結局、武力を背景とした国際紛争を引き起こす「平和主義」を採用していない他国の姿勢に同調するものとなり、「平和主義」を背景とした9条の規定の趣旨に反するからである。「他国に対する武力攻撃」を1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の中に読み込もうとすることは、「平和主義」を背景とした9条の規定の制約がいかなるものかを確定することを目的とした憲法解釈として導かれるとは到底考えることはできない。このことから、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範として示された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、国際法上の「集団的自衛権の行使」とは、これを満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の範囲から逸脱し、9条に抵触して違憲となる。
②論者の示す「1972年の憲法解釈は、必要最小限の自衛権しか使えないという論理を残した」との文言から、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した上記の規範の「右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」を指している可能性があるが、これは発動した「自衛の措置」の程度・態様の意味であり、三要件(旧)の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応する基準である。「集団的自衛権は全部駄目としていた。」という解釈は、三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かによって決せられていたのであるから、第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」を満たすか否かによって決せられていたわけではない。そのため、この意味の「必要最小限度」を指していると考えるとしても、法解釈として意味が通じない。
次に、「必要最小限の自衛権しか使えない」との記載であるが、認識を整理する。まず、「自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、日本国は、この『権利』を他国と同様に完全な形で適用を受ける地位を有している。日本国も国際法上において「自衛権」という『権利』それ自体は完全な形で使うことができる(主張する地位が与えられている)。しかし、その国際法上の「自衛権」を行使する場合には、通常、国家の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われることとなる。日本国の場合は憲法9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、1972年(昭和47年)政府見解によれば「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」こととなる。これは従来より「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」と対応するものである。そのため、論者の言う「必要最小限の自衛権しか使えない」の意味が、「『自衛権の行使』としての『武力の行使』は『自衛のための必要最小限度』という三要件(旧)の基準の範囲でしか使えない」ことを意味するのであれば、意味は通じる。
「しかし、今日の軍事技術の進展を考えると、集団的自衛権の中でも憲法の解釈で許されるものがあるのではないかということで解釈の変更を閣議決定し、それに基づいて安保法制が作られている。」との記載があるが、誤りである。
まず、9条は、政府が恣意的な都合によって「武力の行使」に踏み切ることを防ぐことを目的として設けられた規定である。この趣旨を生かした解釈である1972年(昭和47年)政府見解の規範は、「今日の軍事技術の進展」などによって揺らぐものではない。むしろ、9条はそのような「軍事技術の進展」などを理由として政府が軍事路線に進んだり、他国を制圧することを考えたり、政治判断によって「武力の行使」に踏み切ろうとしたりすることを制約するために設けられた規定であり、この規範が損なわれることがあれば、9条の規定が存在する意味自体を失わせることとなる。規定が存在する限りは、そこに政府の活動を制約しようとする一定の規範が存在するのであり、1972年(昭和47年)政府見解そのものが憲法解釈として妥当性を失ってしまうこととなる形で「武力の行使」の発動要件を定めることは、9条の規範性を損なわせるものとなるから、9条に抵触して違憲となると言わざるを得ない。
次に、「集団的自衛権の中でも憲法解釈で許されるものがあるのではないか」についてであるが、認識を整理する。まず、「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の概念である。9条は「武力の行使」を制約する規定であり、「集団的自衛権」という『権利』そのものを直接的に制約しているわけではない。国際法上の「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が憲法上許されるか否かであるが、「集団的自衛権の行使」とは「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「許されるもの」は存在せず、9条に抵触して違憲である。これにより、「解釈の変更を閣議決定」した2014年7月1日閣議決定については、違憲・無効である。それに基づいて成立した安保法制の「存立危機事態」での「武力の行使」については、政府自身が採用している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の違憲審査基準によって違憲となる。
岩屋毅・前防衛相に聞く「敵基地攻撃能力」を持つ議論は論理の飛躍だ 2020.8.20
【3ページ目】
「憲法は戦力保持は否定しているが、自衛のための必要最低限の実力は認めている。」との記載があるが、政府解釈はその通りである。しかし、「自衛のための必要最小限度の実力」のいう「自衛のための必要最小限度」とは旧三要件の基準を意味しており、新三要件の「存立危機事態」についてはこの範囲を超えている。そのため、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」を実施する実力組織については、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
【4ページ目】
「安保法制で限定的な集団的自衛権を掲げたのは、確かにミサイル防衛などでの軍事技術の進展があるからだ。」との記載があるが、認識を整理するべき部分がある。
まず、「限定的な集団的自衛権」との部分であるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な集団的自衛権」という区分は存在しない。また、「集団的自衛権」という『権利』を行使する場合とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由を行使することを意味することから、実質的には国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われていることになる。しかし、9条の下では「武力の行使」が制約されており、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲である。それは、たとえ「限定的な」と称する「武力の行使」であったとしても、これを満たさないのであれば違憲である。そのため、「限定的な集団的自衛権」と称する「武力の行使」についても、これを満たさない以上は9条に抵触して違憲であることは変わらない。
「自衛隊の行動の類型として限定的集団的自衛権の行使もあり得るとしただけだ。このことで日米の連携が強化され、抑止力が増すという効果も生んでいる。」との記載があるが、先ほども述べたように、国際法上「限定的集団的自衛権」という区分は存在しない。「限定的」と称しても、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲である。
「このことで日米の連携が強化され、」との部分であるが、これは「集団的自衛権の行使」としての新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」が、『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」であることを示すものである。『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」を実施する実力組織を「陸海空軍その他の戦力」と異なるものであると説明することはできず、9条2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
「装備の内容や規模によっては、まさに専守防衛の逸脱が現実問題になる可能性があるということだ。」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」としての新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」を定めた時点で、「専守防衛」の範囲を既に逸脱しているため、現在「専守防衛の逸脱が現実問題」となっていないかのような認識であれば誤りである。
まず、「専守防衛」とは、「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」をいう。「集団的自衛権の行使」としての新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」については、未だ「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、「専守防衛」の定義の「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、」の部分に当てはまらない。また、「専守防衛」の定義で2回登場する「自衛のための必要最小限」とは、旧三要件の基準を意味するものであることから、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」の場合についてはこの範囲を超えている。そのため、「集団的自衛権の行使」としての新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」の要件を定めた段階で、既に「専守防衛の逸脱が現実問題」となっている。
菅義偉
〇 自由民主党 菅義偉
集団的自衛権 菅官房長官に問う 2014年7月3日
(集団的自衛権 菅官房長官に問う)
論者は「他国を守るための行使はしないとなっている。
他国を守るための戦争には参加しない?」との質問に対して、「それは明言してます。」と答えているが、誤った認識である。「存立危機事態」での「武力の行使」は、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」を排除するために行われる「武力の行使」であり、これを『自国防衛』と称しようとも、『他国防衛』に付随する『自国防衛』であり、『他国防衛』を含むことになるからである。『他国防衛』のための「武力の行使」は当然に9条に抵触して違憲となるが、「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」であるにもかかわらず、これを『自国防衛』のみであると称することは、他国間の紛争に自国の意思で参加することになるから、9条1項の「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に抵触して違憲となる。
「そういう中で、憲法9条というものを私たちは大事にする中で、従来の政府見解、そうしたものの基本的論理の枠内で、今回、新たにわが国と密接な関係がある他国に対する武力攻撃が発生して、わが国の存立そのものが脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険という、そういうことを形の中に入れて、今回、閣議決定をしたということです。」との発言があるが、論理的整合性が存在しないため誤りである。なぜならば、従来の政府見解とは、1972年(昭和47年)政府見解であり、その「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらないからである。「基本的論理の枠内で」「存立危機事態」での「武力の行使」が可能であるかのように述べているが、論理的に導かれないため解釈を誤っている。
拡大解釈の懸念について、「そこは、この新要件の3原則の中で、わが国の存立が脅かされる「わが国」ですから。 そして国民の生命・自由、そうしたものの幸福の権利が根底から覆されるという、ここで1つのしばり。」との発言があるが、合憲性を裏付けるものとなっていない。
まず、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分は、曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解においてその規定を適用できるのかできないのかを識別するための基準を示すところがない。そのため、その運用が適用する者の主観的判断にゆだねられて恣意に流れるなど、重大な弊害を生ずる恐れがある。このような要件を定めたことは31条の「適正手続きの保障」の趣旨や、立法権の趣旨より違憲となると考えられる。
また、それとは別に、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があったとしても、それだけでは未だ9条の規範性を通過していないのであり、「武力の行使」を行うことはできない。この文言に、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」の文言を加えたとしても、「他国に対する武力攻撃が発生」しただけでは、未だ9条の規範性を通過してない。そのため、結局9条の規範性を通過していない中で「武力の行使」を行おうとするものであるから、9条に抵触して違憲となる。
論者は「存立危機事態」の要件が9条の規範性を通過していることを示す必要があるが、示すことができていない。
「非常に密接な関係にある他国が強力に支援要請をしてきた場合、これまでは憲法9条が大きな歯止めになっていたが、果たして断りきれるのか?」(断りきれる?)との質問に対して、「もちろん。」と答えているが、そもそも「存立危機事態」での「武力の行使」そのものが違憲であるから、「存立危機事態」での「武力の行使」ができることを前提としていることに誤りがある。ただ、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲であるため、断りきれる、あるいは断らないと憲法違反になるとの結論は現在でも同じである。ここでは、現在導かれる結論が「断りきれる」という点で同様であっても、その理由となるプロセスが明確に異なるため注意が必要である。
「私、申し上げましたように、日本と関係のある他国に対する武力攻撃が発生をし、わが国の存立が脅かされて、そして国民の生命、そして自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険ということで、しっかり歯止めかけてますから、そこは問題ないと思ってます。」との記載があるが、歯止め以前に、「存立危機事態」の要件は9条に抵触して違憲である。
「もし密接な関係のある他国のために集団的自衛権を行使した場合、第三国を攻撃することになって、第三国から見れば日本からの先制攻撃を受けたということになるのでは?」との質問に対して、「こちらから攻撃することはありえないです。」と答えているが、詳しく内容を見る必要がある。「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」や、「存立危機事態」での「武力の行使」については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われるものであるから、その「第三国」と「我が国」との間では、我が国が先に攻撃することとなる。
論者は「ですからそこは最小限度という、ここに3原則という、しっかりした歯止めがありますから、そこは当たらないと思いますよ。」と答えているが、論者の使う「最小限度」の意味が旧三要件全体を指す「自衛のための必要最小限度」の意味であるのか、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味であるのか、あるいは新三要件の全体を指しているのか明らかにする必要がある。論者が「3原則」と述べている部分について、恐らく新三要件のことを指していると思われるため、論者は「存立危機事態」を含む新三要件それ自体を「最小限度」と述べているようである。しかし、新三要件は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中で「武力の行使」を行うことになる「存立危機事態」の要件が含まれているため、「第三国」と「我が国」との関係から見れば、「我が国」から先に攻撃をしたことになる。
国際法上の「先制攻撃」の意味であるのか、「第三国」と「我が国」との間の「先に攻撃」なのかも、注意して考える必要がある。
「国民の皆さんに間違いなく理解をしていただけると、このように思っています。」との発言があるが、間違いなく理解すると、「存立危機事態」の要件は違憲となる。
【参考】<集団的自衛権>菅官房長官生出演 「クローズアップ現代」2014年7月3日放送(文字起こし)
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○菅国務大臣 個別的にいろいろ挙げることは、これは控えるべきだというふうに思います。例えば百地先生だとかあるいは長尾先生だとか、そうした人たちもいらっしゃいますし、そしてまた、私どもの安保法制懇の中の西先生もいらっしゃいました。そういうことの中で私は申し上げたところであります。
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第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第8号 平成27年6月10日
論者が合憲論を唱える学者として取り上げる「百地章」「長尾一紘」「西修」の論拠の不備については、当サイト「集団的自衛権の合憲性の誤解 1」で解説している。
<理解の補強>
安保法制「合憲」学者、あんまりいなかった? 菅義偉官房長官「数の問題ではない」(書き起こし) 2015年06月10日
岸田文雄
〇 自由民主党 岸田文雄
自民総裁選 岸田氏インタビュー 女系天皇「反対」 2021/9/8
「台湾問題は4月の日米首脳会談でも確認したように平和的に解決すべく努力するのが基本だ。有事になれば存立危機事態に該当するかどうか、具体的な事案をみてみないといけないが、安全保障関連法をはじめ法律の範囲内で国民の命や暮らしを守るため具体的な対応を行い、最善を尽くす」との記載がある。
しかし、9条解釈を示した文章である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」な論理と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、これを満たさない「存立危機事態」の要件は、この「基本的な論理」と称している部分に当てはまらない。これにより、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。
そのため、「存立危機事態」に該当した場合に「武力の行使」を行うことが可能であるとの前提で論じている点で誤りである。
「安全保障関連法をはじめ法律の範囲内で」との部分であるが、「法律の範囲内」で行うことは当然であるが、それ以前に憲法の範囲内で行う必要がある。
「具体的な対応」として「存立危機事態」の要件に基づいて「武力の行使」を行うことは、憲法9条に抵触して違憲となるため許されていない。
河野太郎
〇 自由民主党 河野太郎
集団的自衛権を考える 2015.07.15
集団的自衛権を考える 2015年07月15日
「憲法第九条二項には、『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』とあります。しかし、政府は、『外国からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされる場合にこれを排除するために必要最小限度の実力を行使することまでも禁じていない』という解釈をしており、自衛隊はこれを裏付ける実力組織であります。」との記載があるが、意味を読み取ろうとしても論理展開に整合性がなく、正確に意味を掴めない文章となっている。
まず、政府が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が許容されるか否かを説明する際には、9条1項、2項前段、2項後段のすべてにかかって禁じられているか否かを論点としているのであって、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」だけを取り上げて、「しかし、政府は、……という解釈をしており、」と繋ぐ形で「武力の行使(実力行使)」の可否を説明することは正確ではない。
次に、「外国からの武力攻撃によって」との記載があるが、これは三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を意味するものである。そのため、後に論者が新三要件の「存立危機事態」の要件を正当化しようとしても、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はこの解釈の枠組みに含まれない。よって、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲であるし、そのための「実力組織」についても9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。論者は「外国からの武力攻撃によって」の部分は必ずしも「我が国に対する武力攻撃」に限られていないと主張する可能性があるが、これは1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言から率いてきたものと考えられ、これが「我が国に対する武力攻撃」に限られていることから、その主張は正当化することができない。
ここで用いられている「必要最小限度」の意味であるが、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様に対応するものである。そのため、9条解釈の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えているものではないことを押さえる必要がある。
「このように自衛隊は我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織とされており、「通常の観念で考えられる軍隊とは異なるものであって、憲法第九条二項が保持することを禁止している『陸海空軍その他の戦力』にはあたらない」というのが政府の解釈です。」との記載があるが、「我が国を防衛するための必要最小限度」の意味を理解する必要がある。従来より政府は「我が国を防衛するための必要最小限度」とは、「自衛のための必要最小限度」と同じ意味で使っており、三要件(旧)をすべて満たす「武力の行使」のことをそう呼んでいる。「自衛隊」についても、旧三要件に拘束された「武力の行使」を行うにとどまる組織であるからこそ、9条2項が禁じた「陸海空軍その他の戦力」にあたらないと解釈しているのである。2014年7月1日閣議決定によって新三要件を定めたが、「存立危機事態」での「武力の行使」については、この旧三要件の範囲を意味する「我が国を防衛するための必要最小限度(自衛のための必要最小限度)」の範囲を超えるものであることから、それを行使する実力組織(自衛隊)は9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。もし「我が国を防衛するための必要最小限度(自衛のための必要最小限度)」の意味が旧三要件から新三要件に置き換わったと考えるとしても、「我が国を防衛するための必要最小限度(自衛のための必要最小限度)」であればその中身に「先制攻撃」や「侵略戦争」を行う要件を定めようとも9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触しないと説明することはできないのであり、その中身の要件の適否が問われることとなる。この点、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を満たすことを求めており、「存立危機事態」の要件はこれを満たさないことから9条に抵触して違憲となる。そのため、この「存立危機事態」を含む新三要件を行使する実力組織(自衛隊)については、たとえ「我が国を防衛するための必要最小限度(自衛のための必要最小限度)」の意味が旧三要件から新三要件に置き換わったと考えるとしても、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
「通常の観念で考えられる軍隊とは異なるものであって、」の部分であるが、「存立危機事態」での「武力の行使」とは、「他国に対する武力攻撃(新第一要件)」を「排除(新第二要件)」するための「武力の行使」なのであって、これを行使する実力組織を「通常の観念で考えられる軍隊とは異なるもの」と一定の区別を設けたかのような説明することはできない。「通常の観念で考えられる軍隊とは異なるもの」との説明は、旧三要件の範囲であることに依存する説明なのであって、新三要件を定めているにもかかわらず、この説明を引き継ぐことができるかのように考えている部分が誤りである。
また、直前の文の「必要最小限度」の意味とは、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様に対応する意味の「必要最小限度」であるが、ここで用いられている「我が国を防衛するための必要最小限度」の意味は三要件(旧)そのものの意味である。この両者は異なるものであるため、あたかも「このように自衛隊は我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織とされており、」などと、直前の三要件の第三要件の意味の「必要最小限度」の文言から引き継いだ形で「我が国を防衛するための必要最小限度」を持ち出して説明しているのであれば、誤りである。
「つまり、他の国からの侵略行為を受けたときに自国を守るのが自衛隊の主たる任務です。」との記載があるが、「他の国からの侵略行使」とは、旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」に対応するものである。この意味の中に「存立危機事態」の要件は含まれない。
「日本は、後述するように、憲法上、集団的自衛権を使うことができないとされていたので、」との記載があるが、正確ではない。まず、「集団的自衛権」とは、国際法上の概念である。国際法上は日本国も「集団的自衛権」を行使することが他国と同様に認められており、使うことができるのである。次に、憲法9条は「自衛権」という国際法上の『権利』の概念を直接否定する規定ではない。そのため、「憲法上、集団的自衛権を使うことができない」との文言は、あたかも憲法が「集団的自衛権」という国際法上の『権利』そのものを制約しているかのような記述となっているため、正確でない。三つ目に、「集団的自衛権を使うことができない」との意味が「集団的自衛権の行使は許されない」との意味であれば、それは憲法9条によって「武力の行使」が制約される結果、国際法上の区分でいう「集団的自衛権の行使」となる部分の「武力の行使」を行うことができないとの意味である。この9条の制約は1972年(昭和47年)政府見解が「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としているからである。
「しかし、これまで日本政府は、集団的自衛権は、自衛のための必要最小限度の範囲を超えているため、行使できないと解釈してきました。」との記載があるが、その通りである。付け加えるが、「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)を意味しており、「集団的自衛権の行使」については、この三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことになるから、憲法上許されないとされてきたのである。
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その上で、憲法九条のもとで許される自衛のための必要最小限度の実力の行使につきまして、いわゆる三要件を申しております。我が国に対する武力攻撃が発生したこと、この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきことというふうに申し上げているわけでございます。
お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日
「ところが、今日、どの国も一国のみで平和を守ることはできないという認識が共有されるなかで、我が国を守るための『必要最小限の武力行使』の中に集団的自衛権も含まれるのではないかという議論が出てきました。」との記載があるが、誤った認識である。まず、「必要最小限」の意味を特定する必要がある。①従来より「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するための必要最小限度)」と呼んでいる意味であれば、三要件(旧)を意味する。旧三要件には第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」が存在するため、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が含まれる余地はない。②三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様の意味であれば、「武力の行使」の発動要件とは関係がなく、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」がここに入り込む余地はない。③論者が9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準にしていると考えている可能性があるが、9条は政府の自国都合による「武力の行使」を制約するための規定なのであって、数量的な「必要最小限度」というものを基準と考えることは9条が政府の行為を制約する趣旨を損なうため、法解釈して成り立たない。もし、①の「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するための必要最小限度)」と呼んでいる旧三要件を新三要件に置き換えて「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を含ませることも可能ではないかと考えているのであれば、その論理では結局三要件を「先制攻撃」や「侵略戦争」を行うものに変えたとしても9条に抵触しないと説明することが可能となるのであって、9条解釈としては成り立たないものである。
「我が国を守るための」の部分であるが、9条は政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定なのであり、9条は「我が国を守るため」であるとしても必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中でしか「武力の行使」を許容しておらず、これを満たさない「武力の行使」は違憲である。「我が国を守るため」であれば「武力の行使」が正当化されると考えることができるはずだと考えている可能性があるが、9条はそれだけで「武力の行使」を許容しているわけではないことを押さえる必要がある。
「そんな中で日本を守るために戦う在日米軍が攻撃されたときに、日本がこれを守れないという事態になれば、日米同盟が揺らぎかねません。」との記載があるが、「在日米軍」の意味をよく理解する必要がある。まず、「在日米軍」の「基地」が攻撃された場合、それは日本国の領域に対する武力攻撃であるから、旧三要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」に該当する。ここで新三要件の「存立危機事態」の要件を持ち出す必要はないし、国際法上も「個別的自衛権」に該当する区分であり、「集団的自衛権」を持ち出す必要はない。よって、「日本がこれを守れないという事態になれば、」との部分について、「在日米軍」の「基地」が攻撃された場合には日本は自国の領域を保全する意味で守ることができるため、「これを守れない」かのような説明で「存立危機事態」での「武力の行使」や「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を必要とするとの主張には繋がらない。
「日米同盟が揺らぎかねません。」との記載であるが、「日米同盟」のために日本の領域ではなく「米軍」を守るための「武力の行使」をするということは、『他国防衛』の意図を含む「武力の行使」であり、それを行使する実力組織は9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。
「柳井俊二国際海洋法裁判所長を座長とする懇談会を設置し、」との記載があるが、「柳井俊二」の論拠の不備については「集団的自衛権の合憲性の誤解 1」で解説し、「懇談会」の論拠の不備については「安保法制墾の間違い」のページで解説した。
「一つは、憲法は、『必要最小限度』にとどまる限り、個別的、集団的を問わず、自衛のための武力の行使を禁じていない。また、国連の集団的安全保障など、国際法上禁じられていない活動への参加を禁じていないという考え方です。」との記載があるが、法解釈として成り立たず、誤りである。
まず、「必要最小限度」の意味を特定する必要がある。①従来より「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するための必要最小限度)」の意味であれば、三要件(旧)を意味し、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす必要があることから、「集団的自衛権の行使」は行うことができない。よって、「個別的、集団的を問わず、自衛のための武力の行使を禁じていない。」との主張は論理的に導かれない。②三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様の意味であれば、「武力の行使」の発動要件とは異なることから、この中に「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の行使という「武力の行使」の発動要件が含まれる概念が入り込む余地はなく、論理的に成り立たない。③9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えている可能性があるが、9条は政府の自国都合による「武力の行使」を制約するための規定であり、数量的な意味での「必要最小限度」というものが基準となるのであれば、政府の行為を制約する規範として意味を為さないのであり、法解釈として成り立たない。よって、いずれの意味の「必要最小限度」を取っても9条解釈としては成り立たず、誤った主張である。
次に、「国連の集団的安全保障など、国際法上禁じられていない活動への参加を禁じていないという考え方」についてであるが、憲法と国際法は別々の法分野なのであり、国際法上禁じられていないのであれば、憲法でも禁じていないとの主張は法解釈として成り立たない。また、法解釈として成り立たない主張であることが前提であるが、国際法上禁じられていないのであれば、憲法でも禁じていないのであれば、国際法上禁じられていない「個別的自衛権」や「集団的自衛権」としての「武力の行使」についても憲法で禁じていないと考えるはずであるにもかかわらず、なぜ直前の文では「憲法は、『必要最小限度』にとどまる限り、」という憲法上の制約をかけようとしているのだろうか。「懇談会」の論者の主張の中でも整合性が保たれていない主張となっており、意味不明である。詳しくは、当サイト「安保法制墾の間違い」のページでも解説している。
「二つ目は、我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときは、限定的に集団的自衛権を行使することができるというものです。」との記載があるが、認識に誤りがある。まず、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的に」などという区分は存在しない。また、「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき」についても、「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき」であれば9条の下でも「先制攻撃」や「侵略戦争」が許されるということにはならないのであり、同様にこれだけでは「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を正当化する理由にならない。
「二つ目の考え方は、この国の存立を全うするために必要最小限の武力行使は認められるという従来の政府の憲法解釈を基本的に踏まえた考え方であるとして、」との記載があるが、誤りである。
まず、論者の言う「この国の存立を全うするために必要最小限度の武力行使」という中に使われている「必要最小限度」の意味を特定する必要がある。①「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するための必要最小限度)」の意味であれば、三要件(旧)を意味する。ここには旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす必要があることから、「集団的自衛権の行使」(論者のいう『限定的に集団的自衛権を行使』についても同様)としての「武力の行使」は行うことができない。よって、「従来の政府の憲法解釈を基本的に踏まえた考え方」での「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するための必要最小限度)」の意味によっては、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を正当化することはできない。②次に、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様の意味であれば、論者のいう「この国の存立を全うするために」の部分が「武力の行使」の発動要件となる。しかし、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定であり、単に「この国の存立を全うするため」であるからといって「武力の行使」が可能となるのであれば、政府の自国都合の「武力の行使」を制約しようとする9条の趣旨を満たさない。よって、9条の規範性を損なうものとなるから、法解釈として成り立たない。③論者はあたかも9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準にしていると考えている可能性があるが、9条は政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範であり、数量的な意味での「必要最小限度」というものが基準であるとすれば、この9条の趣旨を満たさないため法解釈として成り立たない。よって、どの意味の「必要最小限度」であったとしても、法解釈として成り立たないのであり、9条の下で「集団的自衛権の行使」(論者のいう『限定的に集団的自衛権を行使』についても同様)としての「武力の行使」を正当化することはできない。
「従来の政府の憲法解釈を基本的に踏まえた考え方であるとして」の部分であるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとする主張を意味するのであれば、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味するから、ここに「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」の要件となる「他国に対する武力攻撃」は含まれないし、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」も含まれない。よって、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとの意味で「従来の政府の憲法解釈を基本的に踏まえた考え方」と説明しようとしているのであれば、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化する根拠にはならない。
「つまり集団的自衛権の中にも必要最小限の自衛権の行使にあたるものがあるというわけです。」との記載があるが、誤りがある。
まず、「必要最小限度」の意味を特定する必要がある。①従来より「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するための必要最小限度)」と呼んでいるものであれば、三要件(旧)を意味しており、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす必要があるから、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を正当化することはできない。よって、「集団的自衛権の中にも必要最小限の自衛権の行使にあたるものがあるというわけです。」との主張は、旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす必要があることから、「あたるもの」は存在せず、誤りとなる。②三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様の意味であれば、前後に発動要件となるものがなく、文章の意味が通じなくなる。③9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であると考えている可能性があるが、その論理を採用すれば「先制攻撃」や「侵略戦争」についても「必要最小限度」の中に含まれると主張することが可能となるのであり、9条解釈として成り立たない。これについては規範性を損なっている意味で、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」に該当する部分ついても同様である。よって、どの「必要最小限度」の意味を取っても「集団的自衛権の中にも必要最小限の自衛権の行使にあたるものがある」ということにはならず、「あたるものがあるというわけです。」との説明は意味が通じず、誤りである。
「必要最小限の自衛権の行使」についてであるが、「自衛権の行使」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』を行使する意味であるから、実質的に「武力の行使」が行われる状態であることを意味する。ここでは「集団的自衛権の中にも」というように、国際法上の「集団的自衛権の行使」となる憲法上の日本国の統治権の『権限』による措置を説明する段階であるから、「自衛権の行使」という言葉を使用するのではなく、「武力の行使」の言葉を使うべきである。そうでないと、「集団的自衛権」という「自衛権」の一種の中に「自衛権の行使にあたるものがある」などという、「自衛権」に「自衛権」を重ねる意味不明な文章となってしまうからである。
「そして、この限定された集団的自衛権を行使できるかどうかの判断基準として新たに三つの要件が定められました。」との記載があるが、誤りがある。「限定された集団的自衛権を行使」についてであるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定された」などという区分は存在しない。「新たに三つの要件が定められました。」という新三要件についてであるが、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に論理的に当てはまらず、9条に抵触して違憲となる。
「この新三要件を満たしているかどうか、政府だけでなく国会も判断することになります。」との記載があるが、新三要件の「存立危機事態」については1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に論理的に当てはまらいことから違憲であり、たとえ「政府」や「国会」が「新三要件を満たしているかどうか」を判断したとしても、違憲であることには変わらない。
「自衛のために限定された集団的自衛権を行使する必要が起きる可能性として、」との記載があるが、誤りがある。まず、国際法上「限定された集団的自衛権を行使」という「限定された」などという区分は存在しない。また、「自衛のために」という文言を付けても、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに9条の下で許される「武力の行使」となるか否かの判定基準を設定しているのであり、これを満たさないのであれば「自衛のため」と称しても「武力の行使」は正当化されず、違憲となる。
「集団的自衛権の行使には地理的な制約はありませんが、前記の例を除き、新三要件に該当するような我が国の存立を脅かす事態が我が国から離れたところで起こることは極めて考えにくいと思います。」との記載があるが、政府は「海外派兵」は一般に許されないとの基準を維持していると説明しているため、政府解釈と矛盾していると思われる。ただ、政府が「海外派兵」は一般に許されないと説明する際に用いている基準は「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するための必要最小限度)」を超えるとするからであり、これは三要件(旧)を意味する。よって、2014年7月1日閣議決定以後の政府解釈は、旧三要件と新三要件の競合状態にあり、論理的に意味が通じていない。いずれにせよ、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲であり、旧三要件を意味する「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するための必要最小限度)」を超える「武力の行使」は違憲となるため、「地理的な制約」もこの基準に基づくこととなる。よって、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は行うことができないし、「地理的な制約」は旧三要件の範囲に限られる。
「この新三要件を満たさなければ集団的自衛権の行使は認められないのですから、」との記載があるが、新三要件の「存立危機事態」については違憲であり、これに基づく「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は認められない。よって、新三要件を満たせば「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が認められるかのような説明は誤りとなる。
「外国を守るために日本が戦争に巻き込まれることもありません。」との記載があるが、誤りである。新三要件の「存立危機事態」については、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃(新第一要件)」を「排除(新第二要件)」するための「武力の行使」であり、「外国を守るため」にあたるものである。よって、この「存立危機事態」での「武力の行使」を行ったことにより、攻撃国は日本国を敵とみなすことになるから、「外国を守るために日本が戦争に巻き込まれる」こととなる。よって、「巻き込まれることもありません。」との説明は誤りである。
「自衛のための必要最小限の武力行使には限定された集団的自衛権も含まれる場合があるという考え方に、私も賛成します。」との記載があるが、誤りである。
まず、従来より「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)を意味しており、これは第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす必要があるから、「集団的自衛権」(論者のいう『限定された集団的自衛権』についても同様)に該当する「武力の行使」は含まれない。よって、「自衛のための必要最小限の武力行使には限定された集団的自衛権も含まれる場合があるという考え方」は、論理的に成り立たず、そのような「考え方」は存在しない。
もし、「自衛のための必要最小限度」の意味が旧三要件から新三要件に置き換わったと考えるとしても、これによって9条に抵触しないことを説明することはできない。なぜならば、従来より「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる三要件(旧)は、第一要件が9条に抵触しないことを1972年(昭和47年)政府見解などにより正当化されていたのであり、この1972年(昭和47年)政府見解の制約を無視して「自衛のための必要最小限度」の中身である三要件を変更することはできないからである。これは、「自衛のための必要最小限度」の中身の要件をどのように変更しても9条に抵触しないと説明できるとしたならば、「自衛のための必要最小限度」の中身の要件を「先制攻撃」や「侵略戦争」を行うものに変更しても9条に抵触しないと説明することが可能となってしまうのであり、9条解釈として成り立たないためである。よって、「自衛のための必要最小限度」の意味が旧三要件から新三要件に置き換わったと考える説明は意味が通らない。
これにより、「自衛のための必要最小限の武力行使には限定された集団的自衛権も含まれる場合があるという考え方」は論理的に成り立たず、そのような「考え方」は存在しておらず、「私も賛成します。」と賛成しようとも、もともと意味が通じないものに賛成していることとなる。「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」あるいは「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化する説明にはなっていない。
「しかし、それがどういう場合なのか、政府並びに国会がそれをどう判断するのか、」との記載があるが、新三要件の「存立危機事態」については違憲であり、「政府並びに国会」が「存立危機事態」に該当すると判断しても、そこで行使される「武力の行使」は違憲である。
山本順三
〇 自由民主党 山本順三
(1)自民・山本順三氏「民主は情緒的議論でなく対案出せ」 2015.7.27
P3に「その最高裁の唯一の判断は『憲法9条が禁止している武力の行使には自衛の措置は含まれない』という砂川判決だ」との記載があるが、誤りである。
まず、砂川判決の類似の部分は、「かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。」である。これは、国際法上の「自衛権」が否定されたわけではないことを示しているが、論者の言う「自衛の措置」とは、憲法上で正当化される統治権によって行われる措置のことであり、概念が異なるのである。
また、砂川判決が「自衛のための措置」として許容しているものは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。そのため、日本国の採りうる「自衛のための措置」の中に日本国の統治権にの『権限』によって行われる「武力の行使」が含まれているか否かについては、何も述べていない。
論者は、「武力の行使には自衛の措置は含まれない」との説明をしているが、意味が通じていない。「自衛の措置」のいくつかの選択肢の中に「武力の行使」が存在するのであり、「武力の行使」の中に「自衛の措置」があるなどと言う話は、論理的に成り立たないのである。
論者は、「自衛の措置」「武力の行使」「自衛権」の違いを学び直す必要がある。
P6に「今回、限定的な集団的自衛権の行使を容認したが、それはまさに砂川判決の言う自衛の措置に限られる。あくまでも国民の命と平和な暮らしを守ることが目的であり、他国を防衛することそれ自体を目的とすることではない。憲法の解釈を最終的に確定する権能を有する唯一の機関は最高裁判所であり、平和安全法制はその考え方に沿った判決の範囲内のものであり、憲法に合致したものだ」との記載があるが、誤りである。
まず、砂川判決の言う「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。そのため、日本国の統治権による「武力の行使」が可能であるか否かについては述べていない。よって、砂川判決を根拠にして「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」が可能であるとする論理を組み立てることはできないのである。
また、論者の言う「まさに砂川判決の言う自衛の措置に限られる。」のであれば、日本国は「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」しか行うことはできないこととなる。
論者は9条の下でも「国民の命と平和な暮らしを守ることが目的」とすれば「武力の行使」が可能であるかのように考えているようであるが、誤りである。まず、9条は『自国防衛』と称して政府が恣意的に「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範であり、「国民の命と平和な暮らしを守ることが目的」とすることのみによって「武力の行使」が可能であるとすることはできないのである。9条が存在する以上は、政府の恣意的な都合によって行われる「武力の行使」制約する基準が求められるのであり、これは1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことである。砂川判決が許容している「自衛の措置」についても、我が国政府の明示の要請によって「他国に安全保障を求めること」が認められているが、これはわが国政府の要請であることから、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たしている状態を意味する。「他国を防衛することそれ自体を目的とする」「武力の行使」が憲法上許容されないことは当然であるが、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で、「自衛の措置」としての「武力の行使」ができるとする論拠は、9条解釈からは導かれない。
論者は最高裁判所の砂川「判決の範囲内のもの」と説明するが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』によって「自衛の措置」として「武力の行使」が可能であるか否かについては述べていないし、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「自衛の措置」が許容されるとする論旨を見つけることもできないため、憲法に合致しないものである。
大野敬太郎
〇 自由民主党 大野敬太郎
集団的自衛権 2014年5月20日
「集団的自衛権の行使については、私個人として憲法を改正し集団的自衛権の行使を明記したのちに(自然権である自衛権を明記するのには少し違和感もあるのですが)」との記載があるが、「集団的自衛権」とは国際法上の概念であり、憲法に書き込んでも日本国が勝手にそう主張しているだけということになり、国際法上の効力を有することはない。また、「集団的自衛権」とは違法性阻却事由であり、「集団的自衛権の行使」が行われる状態とは、通常国家の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われている状態を指す。そのため、憲法上で「武力の行使」ができるようにすることをを明記するのであれば意味が通じるが、「集団的自衛権の行使」を憲法上に明記するというのは、意味が通じないのである。また、「(自然権である自衛権を明記するのには少し違和感もあるのですが)」との認識であるが、「自衛権」とは国際法上の『権利』であり、国家の統治権の『権限』とは異なるものである。国際法上の『権利』を憲法上に明記しても、国際法上は通用しないし、統治権の『権限』によって「武力の行使」が行えるようになるわけではないのである。
「しかし、現行憲法の解釈を変更し限定された領域の集団的自衛権の行使を可能にすることも許容する立場です。」との記載があるが、国際法上「集団的自衛権」に該当するものであれば、「集団的自衛権」でしかなく、「限定された領域の」「集団的自衛権」と、そうでない「集団的自衛権」が別に存在するかのような説明は誤った認識である。まず、論者は「集団的自衛権」が違法性阻却事由であり、それを行使する状態とは「武力の行使」が行われている状態であることを理解する必要がある。
また、「現行憲法の解釈を変更し」との記載があるが、9条解釈の下では、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を許容する余地はなく、「解釈変更」では対応できない。
「その後、自衛隊創設に伴って政策判断によって必要最小限の自衛権が認められるようになった。」との記載があるが、誤りである。従来政府が国際法上の「自衛権」を行使するために「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)に制約された「武力の行使」を許容していたのは、憲法解釈によって導かれたものである。そのため、「政策判断によって」との認識は、憲法解釈という「法律論」上の話であることを理解していない誤りである。
「必要最小限の自衛権」との記載があるが、「自衛権」とは国際法上の概念であり、「必要最小限」の対象となっているものが「武力の行使」の三要件を意味していることを区別して理解するべきである。論者はここに混乱が見られる。
「当時の国際情勢から、自衛権のうち集団的自衛権の行使までは必要最小限の範囲外となった。」との記載があるが、誤りである。論者は、「自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由であり、9条が「武力の行使」を制約している規範であることを理解する必要がある。1972年政府見解が結論部分において、「集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」としているのは、その前段にある「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範から導かれる付随的なものであり、9条が直接「集団的自衛権」という『権利』を制約しているかのような認識は誤りである。
「必要最小限の範囲」についても、憲法解釈によって導き出されている法律論上の規範である三要件(旧)の第一要件を満たしていないとの意味であり、政策論上で「個別的自衛権」か「集団的自衛権」かという認識で「必要最小限の範囲」を確定しているわけではない。
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お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)
「とにかく論理的に言えば憲法改正によってでしか集団的自衛権が認められないということでは全くないわけです。」との認識であるが、論者の認識には混乱があるため、9条は「集団的自衛権」という『権利』それ自体を認めるとか認めないとかそのような対象とはしていないが、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を実施しようとするのであれば、法律論上、論理的に「憲法改正」によるしかない。「全くない」との認識は、憲法解釈の内容を理解していない誤りである。
「あくまで政策判断で憲法解釈は変わっている。」との記載があるが、憲法解釈が変わることはあり得ることであるが、今回の事例は法律論上の規範が論理的に示されたものであり、「政策判断」ではない。
「憲法はそもそも自然権としての自衛権は否定していない。」との記載があるが、この内容それ自体についてはその通りではあるが、論者は憲法上の統治権の『権限』と、国際法上の『権利』とを区別して説明できていない。
「繰り返しますが、政策判断によって集団的自衛権行使は必要最小限を超えると判断してきたわけで、それが現在の憲法解釈になっている。」との記載があるが、繰り返すが、「集団的自衛権」は『権利』であって、9上の制約は「武力の行使」に対するものであり、「必要最小限を超える」との判断は、9条が「武力の行使」を制約する結果として、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範が導かれることによるものである。「集団的自衛権の行使」については、この規範から付随的に認められないとの結論が生まれているだけであり、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を有することを根拠にして、政策判断として「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」が可能となるかのように論じることは誤りである。
「だから論理としていえば必要最小限の範囲ならば解釈を変更することは全然可能です。」との記載があるが、「必要最小限の範囲」とは、三要件(旧)の第一要件を満たすことを意味するのであり、その範囲内ならば確かに「解釈を変更することは全然可能」との意味は正しいが、論者が考えているような「必要最小限」というような数量的な基準でもって「武力の行使」が可能となるかのような主張は誤りである。
「問題は安定性だけです。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分を維持しているとの前提を置いているが、この中に「存立危機事態」の要件が含まれる余地はなく、論理的整合性が存在しない。そのため、論者も「問題は安定性」との認識を有する通り、論理的整合性の存在しない解釈は「安定性」を損なっている。「適正手続きの保障」の観点から違法であるし、その結果9条に抵触してい違憲となる。
「でも論理で言えば解釈変更は可能だということです。」との記載があるが、論理で言えば解釈変更によって「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を許容することはできない。
「しかし、ポイントは必要最小限とはなにかということで、それは自国の防衛であるかどうかということです。」との記載があるが、誤りである。9条は政府が『自国防衛』と称して自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する法規範であり、『自国防衛』であるからといって「武力の行使」が許容されると考えることは法解釈として妥当性を有しないからである。
「ポイントは必要最小限とは何かということ」についてであるが、先ほども触れたが「必要最小限」とは三要件(旧)の第一要件を満たすことを意味するものである。これは、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」であり、「自国防衛であるかどうか」というものとは異なる。論者は勝手に『自国防衛』と称すれば「武力の行使」が可能であるかのように考えているが、これは憲法解釈から導かれる基準となるものではなく、誤った認識である。
「国際情勢の変化によって自国の防衛の概念の中に集団的自衛権が入らざるを得ない状況になった。」との記載があるが、誤りである。「集団的自衛権」とは、国際法上の『権利』である。これを行使するということは、『他国からの要請』に基づいて「武力の行使」を行うことであるから、『他国防衛』の意味とを含むものである。そのため、『自国防衛』のための「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」であると称したところで、『他国防衛』に付随する『自国防衛』の「武力の行使」となる。そのため、『他国防衛』のための「武力の行使」を行う組織の実態は9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。
また、「国際情勢の変化」によっても、法規範そのものが変化するわけではない。「国際情勢の変化」に応じて政策論として「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を実施したいのであれば、憲法改正の必要がある。
「だから解釈の変更は、自国の防衛に必要最小限の範囲で可能になるということだと理解しています。」との記載であるが、「必要最小限の範囲」とは、先ほども述べたが、三要件(旧)の第一要件を満たすことを意味するのであり、この「範囲で可能になる」との認識であれば、「解釈の変更」は行われていないこととなる。
憲法と安保と国会とベテラン元大物政治家 2015年6月13日
「そもそも政府が合憲だと言っているのは極めてロジカルな話です。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解までは極めてロジカルな話であったが、2014年7月1日閣議決定については、全くロジカルではなく、論理的整合性の不備により違憲となる。
「3.その砂川事件では、自分の国の存立を全うする自衛権を憲法は許容していると言っている。」との記載があるが、砂川判決の内容を詳しく読み解く必要がある。砂川判決のは、「かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。」として、9条が「自衛権」という国際法上の『権利』を否定していないことは示している。しかし、日本国の統治権の『権限』による「自衛の措置」については、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を挙げるにとどまっており、「武力の行使」ができるか否かについては何も述べていない。論者は、国際法上の『権利』を有していれば、あたかも国家の『権力・権限・権能』が発生しているかのように考えている点で誤りがある。
「4.その後昭和47年に政府は集団的自衛権は行使できないとの解釈を正式に決めた。」との記載があるが、論者は1972年(昭和47年)政府見解に対して正確な理解を持てていない。1972年(昭和47年)政府見解が「集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」とする理由は、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との憲法解釈上の結論から付随的に生まれるものであり、9条が直接「集団的自衛権」という『権利』を制約するものではないのである。
「5.理由は、自衛権はあるけど必要最小限であるべきである(規範)、というもので、その当時の国際政治環境では集団的自衛権はその範囲を超える(結論)、となる。」との記載があるが、認識に誤りがある。まず、国際法上の「自衛権」を日本国が有するということは、国際法上の違法性阻却事由の適用を受ける地位を有しているというだけである。そのため、「自衛権」の適用を受ける地位を有しているからと言って、日本国の統治権の『権限』が発生するわけではない。次に、「必要最小限であるべである」についてであるが、これは、「武力の行使」の三要件(自衛権行使の三要件)の第一要件を満たすものを「自衛のための必要最小限度」と表現していたものであり、9条解釈から導かれる規範があたかも数量的な「必要最小限度」という基準となっているわけではない。そのため、「必要最小限度であるべきである(規範)」として「必要最小限度」という数量的な基準を政策判断によって変更できる規範であるかのように考えている点で誤りである。もし9条解釈から「必要最小限度」という基準が導かれると考えた場合、結局9条が政府が自国都合によって恣意的に「武力の行使」に踏み切ることを制約する法規範として成り立たないものとなってしまうため、9条の存在意義を喪失させ、憲法解釈という営みそのものを否定することとなってしまうのである。その後、「その当時の国際政治環境では集団的自衛権はその範囲を超える(結論)」との記載があるが、9条は「武力の行使」を制約する規範であり、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を制約しているわけではない。また、9条が「武力の行使」を制約する規範は、国際政治環境によるものではなく、憲法解釈によって導き出される規範である。論者はあたかも憲法解釈上の規範性が国際政治環境によって変化することを前提とした論理を有しいるが、この論理を用いれば、国際政治環境の変化によって侵略戦争さえも合憲となってしまうものである。論者の認識は憲法解釈として成り立たない。
「6.ならば、現在の国際政治環境に当てはめれば、どうなるのかと考えれば、その結論の部分は変わると考えるのが当然で、自国の存立を全うする必要最小限の範囲に、集団的自衛権の一部が入る(逆にいえば、自国の存立を全うするための集団的自衛権のみが許される)となる。」との記載があるが、誤りである。「ならず、現在の国際政治環境に当てはめれば、」との部分であるが、国際政治環境の変化があっても、憲法解釈上の規範性が変化するわけではない。憲法解釈が変更される場合とは、憲法上のいくつかの解釈ルートが存在する場合に、そのいずれかを採用するかを変更する場合を指すのであり、憲法解釈のルートによって導かれている憲法規範そのものを自在に変更できるという性質のものではないのである。「どうなるのかと考えれば」とあるが、どうなるのか考えても、憲法解釈上の規範は国際政治環境の変化によって変化するわけではない。論者は憲法解釈のどのルートを採用するか(全面放棄説、一般放棄説、芦田修正説など)を変更できるということを、あたかも9条解釈の規範そのものが政策判断によって変更可能であるかのように誤った理解をしているのである。そのため、「結論部分は変わると考えるのが当然で、」との記載であるが、憲法解釈上の規範は国際政治環境の変化によっても変わらないのであり、結論も変わらないのである。「必要最小限の範囲」についてであるが、「自衛のための必要最小限度」とは、三要件の第一要件である「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすことを意味していたものであり、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は、これを満たさないため含まれない。また、たとえ「自国の存立を全うする」という目的であっても、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲である。
砂川判決について、「それしかないのであって、確認しているだけです。」との記載があるが、砂川判決を確認すれば、「武力の行使」については何も述べていない。何も述べていない判決を指して「それしかない」というのであれば、論者の主張には「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を実施できるとする根拠がないことを自ら明らかにすることとなる。
「反対論の最大のものは、上記の5の結論も憲法そのものだとするもの。だから違憲だとなる。であれば、当然その前提となる4も違憲となり、3もおかしいとなる。これはロジックです。」との記載があるが、政策論上の当否はここでは論じないが、論者自身が「自衛権」が国際法上の違法性阻却事由であることを理解していないことと、9条は「自衛権」ではなく「武力の行使」を制約する規範であること、「必要最小限度」の意味が三要件(旧)の第一要件を満たすことを意味して使われていることを理解しておらず、論者自身が3、4、5のすべてを間違えている。これは事実とロジックによって明らかなものである。
「私は破たんしていると思います。」との記載があるが、論者自身が複数の理解不足によって、論理的に破綻しているのである。憲法学者の「自衛隊違憲論」についてであるが、いつくかのルートがあるが、論者の指摘しようとしているものとは異なる。論者は憲法学者の主張を正確に理解できていない。
「そもそも政府案では憲法の示すところの規範は変わっていないのです。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の規範が変わっていないということは、「存立危機事態」での「武力の行使」は、政府自身の違憲審査基準によって違憲となる。これにより、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は行うことができない。
日本と関係ない戦争に巻き込まれない理由 2015年7月22日
「簡単に言えば、限定的集団的自衛権は、日本に相当の侵害が起きる明白な危険がない限り発動されませんが、それは憲法の限界だからです。」との記載があるが、認識に誤りがある。まず、国際法上の「集団的自衛権」に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な」などという「集団的自衛権」という『権利』の概念は存在していない。また、「日本に相当の侵害が起きる明白な危険がない限り」との記載があるが、これは「存立危機事態」の「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分を述べていると思われるが、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」というものが、具体的にどのような状態を指しているのか曖昧不明確である。このような要件では、結局政府の主観的な判断によってこの部分に該当するか否かを決することができることとなるのであり、9条が「武力の行使」を制約する基準として規範性を有しない。9条に抵触して違憲である。「それは憲法上の限界だからです。」との記載があるが、憲法上の限界は1972年(昭和47年)政府見解を使用する場合は「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところにあり、「存立危機事態」での「武力の行使」は「憲法上の限界」を超えており、違憲となる。
「自分とは関係のない、あるいは関係の薄い、つまり明白な危険が高くない紛争に関与することは憲法上も法案上も許されていません。」との記載があるが、誤りである。まず、9条は『自国防衛』であるからと言って、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。そのため、自分と関係のある、あるいは関係の濃い、明白な危険が高い紛争であるからといって「武力の行使」が可能となるわけではないのである。1972年(昭和47年)政府見解では、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範を示しており、これを満たしていなければ、憲法上「武力の行使」は許されていないのである。「明白な危険」が高いならば、「武力の行使」ができなくてはおかしいと考える者もいるかもしれないが、従来から「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件は、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』があれば満たすと考えられている。「明白な危険」などという主観的な感覚に基準を定めているわけではないのである。「我が国に対する武力攻撃」の『着手』と、「明白な危険」などという政府の主観的に基準を置こうとする文言は区別して考える必要がある。
「だからNoと答えるしかない。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解で「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と記されている通り、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさなければ、すべて違憲であり、「Noと答えるしかない」のである。しかし、論者は「存立危機事態」の場合は「Yesと答える」余地があるかのように論じているが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解からは導かれないため(その『基本的な論理』と称している部分も同様)、違憲であり、「Noと答えるしかない」のである。
「一言で言えば日本を助けてくれる人は助けようよということであって、それが憲法の限界なのです。」との記載があるが、誤りである。まず、憲法上の限界とは1972年(昭和47年)政府見解では「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と記されている。これを満たさない中では、「武力の行使」はできない。また、この基準は「日本を助けてくれる人」であるからといって、「武力の行使」を許容しているわけではない。さらに、「日本を助けてくれる人」を助けるということは、『他国防衛』の意図を含む「武力の行使」であり、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
「逆に言えば、日本防衛のためのことだったら、その用途に合致した部分の集団的自衛権だけは認められるということです。」との記載があるが、誤りである。9条は『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではないからである。「集団的自衛権だけは認められる」との文言があるが、日本国も国際法上の違法性阻却事由である「集団的自衛権」という『権利』の区分の適用を受ける地位を有しており、もともと認められている。ただ、「武力の行使」が制約されることにより、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」については行うことができないのである。結果として、「集団的自衛権の行使」は憲法上許されないのである。論者は、「集団的自衛権」の区分に該当するということが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことになるにもかかわらず、「日本防衛のためのことだったら」「武力の行使」が可能となるように考えている点で誤っている。9条は1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところに規範を置いたのであり、これを満たさない「武力の行使」はすべて違憲となるのである。
「簡単に言えば、砂川判決は何を言っているかというと、いわゆる傍論ではあるものの、自国防衛の自衛権は否定されませんよ、としか言っていません。」との記載があるが、誤りである。砂川判決は9条が「自衛権」という『権利』を放棄したものではないとは述べているが、「自国防衛の自衛権は否定されませんよ」などとは述べていないからである。
「それを受けて、有権解釈権をもつ政府は昭和47年に公式見解を発表しています。それは、その自衛権は否定されないと最高裁は言ったけど、それはそれとしっても憲法の趣旨に鑑みれば、その自衛権は必要最小限の範囲に限る、というものです。これが規範と呼ばれる部分で、自衛権の解釈の土台。つまり砂川判決をさらに政府は狭めたわけです。ここは新しい安保法制も全く変わっていません。」との記載があるが、誤りである。
まず、砂川判決では「自衛のための措置」について「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」しか述べていない。それに対して、1972年(昭和47年)政府見解では、砂川判決の示した「自衛のための措置」の中に、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を見出しているものである。そのため、論者の「砂川判決をさらに政府は狭めたわけです。」との認識は誤りである。もし砂川判決をさらに狭めるのであれば、「他国に安全保障を求めること」もできないということになる。
「憲法の趣旨に鑑みれば、その自衛権は必要最小限の範囲に限る、というものです。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解は「自衛のための措置」について「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と示したのであり、論者のように「必要最小限の範囲に限る」という数量的な漠然とした基準を示したわけではない。従来政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいた場合の「必要最小限度」の意味は、三要件(旧)を満たす「武力の行使」のことであり、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たしていた。これは1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」について示した規範としては「あくまで外国の武力攻撃によつて」と「急迫、不正の事態」の部分に対応するものであり、第三要件の「必要最小限度にとどまるべきこと」に対応する「必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」の部分の意味とは異なる。
「これが規範と呼ばれる部分で、」との記載があるが、論者の「必要最小限の範囲」の意味するところは、「武力の行使」の三要件の第三要件に対応する「必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」の部分と思われるが、9条解釈において、この部分だけが規範となっているわけではない。もし政府が「必要最小限度」と判断すれば「武力の行使」が可能となるのであれば、9条が政府の恣意的な都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定として存在する意義そのものを失うこととなるため、9条解釈としての妥当性を有しないのである。
「ここは新しい安保法制も全く変わっていません。」との記載があるが、「新しい安保法制」は「存立危機事態」の要件を含んでおり、この1972年(昭和47年)政府見解に適合せず違憲である。
「この規範の次に、では必要最小限はなんぞやということになるわけですが、それはその当時の国際情勢や武器技術に鑑みれば、当然集団的自衛権などは100%認められないよね、となった。いわゆる時代の当てはめの結果と言われる部分です。つまり、規範を更に狭めた結果です。念のため整理しますと、規範があって、時代背景があって、当てはめの結果がある。」との記載があるが、誤りである。
まず、「この規範の次に、では必要最小限はなんぞやということになるわけですが、」との記載について、1972年(昭和47年)政府見解は、論者の考えている「必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」の部分にだけが規範となっているというものではない。「あくまで外国の武力攻撃によつて~必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」までのすべてが規範となるものである。これは、三要件(旧)の内容と一致する部分である。
次に、「それはその当時の国際情勢や武器技術に鑑みれば、当然集団的自衛権などは100%認められないよね、となった。」との認識であるが、誤りである。9条を解釈するということは、法規範を示すものであり、「国際情勢や武器技術」に鑑みて判断するというものではない。それは単なる政策論上の話であり、法律論上の話とは異なるのである。
「当然集団的自衛権などは100%認められないよね」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が認められないのは、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範から付随的に導き出されているだけであり、「国際情勢や武器技術」は関係がない。
「いわゆる時代の当てはめの結果と言われる部分です。」との記載があるが、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範から、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」がすべて認められないことが導かれているだけであり、「当てはめの結果」などというものではない。
「つまり、規範を更に狭めた結果です。」との記載があるが、「自衛のための措置」の規範は「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」であり、この「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」の部分は、「自衛の措置」の選択肢の一つとして示された「武力の行使」の規範である「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」に対応するものである。そのため、規範を狭めている部分はない。論者が勝手に「必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」の部分のみが規範であると考え、「必要最少限度」の意味を数量的なものであるかのように捉えようとしているだけである。論者のように、数量的な「必要最少限度」との認識が規範であると考えるならば、9条の下で「必要最少限度」と称する「侵略戦争」をも許容することができてしまい、法解釈として妥当性を有しないのである。ここで、さらに論者は国際法上の区分である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を持ち出して限度を示すことができると論じようとする可能性があるが、国際法と憲法では法体系が異なることに加え、国際法上の『権利』と憲法上の『権限』とは別の概念である。
「規範があって、時代背景があって、当てはめの結果がある。」との記載についても、誤りである。規範は数量的な意味での「必要最小限度」というものではない。そのため、「時代背景」や「当てはめ」などが入り込んで基準が示されていたわけではない。
「昨年7月1日の閣議決定による集団的自衛権の限定的行使容認は、この公式見解を根拠にしていて、時代背景の当てはめの部分が変化すれば、その結果は変わるのではないか、というところです。」との記載があるが、誤りである。「集団的自衛権」に該当すれば、「集団的自衛権」でしかなく、「限定的」などとい概念は存在しない。「武力の行使」については「限定的」と称したからといって憲法上の制約を回避できるわけではない。論者の言う「公式見解」である1972年(昭和47年)政府見解の規範は、論者の認識しているような数量的な意味での「必要最小限度」という基準を示したものではないため、「時代背景の当てはめの部分」など存在しない。そのため、「その結果」も変わらない。
「規範の部分は自国防衛の意味での自衛権ですから、結果としては、最大限度認めうる必要最小限とは、自国防衛の為という限定された集団的自衛権が認めうることになります。」との記載があるが、誤りである。
1972年(昭和47年)政府見解の「規範の部分」とは、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところであり、「自衛の措置」の部分で言えば、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」の部分である。これは『自国防衛』であるからといって「武力の行使」が許されるとしているものではない。
「最大限度認めうる必要最小限とは、自国防衛の為という限定された集団的自衛権が認めうることになります。」との記載があるが、「集団的自衛権」に「限定された」などという概念はない。また、9条は「自国防衛のため」であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。「必要最小限」の意味についても、数量的な意味との認識は誤りである。論者の論理では、「最大限度認めうる必要最小限」の中に、『自国防衛』と称する「侵略戦争」が含まれるとする論理を導くものであり、法解釈、9条解釈として妥当性を有しない。
「つまり逆に言えば、今後解釈で変更できる部分というのは、時代背景やら武器技術というあてはめの結果の部分ですが、その結果は当然、規範の範疇に入っているわけで、では現在の新解釈以上の解釈拡大の余地があるかというと全くない。なぜならば、自国防衛のための集団的自衛権というものより広い概念がないからです。」との記載があるが、誤りである。
「自衛のための集団的自衛権というものより広い概念がないからです。」について、もともと「集団的自衛権」に該当すれば、「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」であるから、『他国防衛』のための「武力の行使」である。「自衛のための集団的自衛権」の行使という概念がそもそも存在しないのである。そのため、「より広い概念がないからです。」との説明についても、存在しない概念を持ち出して自身の主張の正当性を裏付けることはできない。
「今後解釈で変更できる部分というのは、時代背景やら武器技術というあてはめの結果の部分ですが、その結果は当然、規範の範疇に入っているわけで、では現在の新解釈以上の解釈拡大の余地があるかというと全くない。」の部分についても、そもそも9条が「武力の行使」を制約しており、この制約基準が論者の認識のように数量的な意味での「必要最小限度」であるとすれば、「時代背景やら武器技術」の変化によって「武力の行使」はいくらでも拡大することができる。「では現在の新解釈以上の解釈拡大の余地があるかというと全くない。」についても、論者は国際法上の「集団的自衛権」の概念を持ち出して説明を続けようとしているが、国際法と憲法は法体系が異なるのであり、国際法を根拠として日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する9条の限界を導き出そうとしている過程が誤っている。「拡大解釈の余地」が「全くない。」ことは論者の論理からは導き出されない。
「規範の範疇に入っているわけで」についても、9条解釈から導き出される規範は、論者の認識のように数量的な意味での「必要最小限度」というものではないし、もし数量的な意味での「必要最小限度」であれば、「武力の行使」を制約する限界を画することができないのであり、「拡大解釈の余地」はいくらでも存在する。
「これ以上広げるなら、規範を変えなければなりません。しかし、この規範は先ほど書いたように、憲法の趣旨に直結した論理なので変えようがないのです。」との記載があるが、「憲法の趣旨に直結した論理」による「規範」は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のところにあり、「存立危機事態」の要件は既に違憲である。「これ以上広げるなら、」ではなく、既に違憲である。
「しかし是非ご理解を頂きたいのは、論理としては通っているものなのです。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定と論者の主張は、論理として通っていない。
図解:限定的集団的自衛権と憲法 2015年7月31日
まず、日本国が行使できる「武力の行使」の幅は、他国が行使できる「個別的自衛権」の範囲の「武力の行使」よりも狭い範囲に限られている。
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○角田(禮)政府委員 ちょっと別の例で申し上げて恐縮でございますが、いわゆる個別的自衛権、こういうものをわが国が国際法上も持っている、それから憲法の上でも持っているということは、御承認願えると思います。
ところが、個別的自衛権についても、その行使の態様については、わが国におきましては、たとえば海外派兵はできないとか、それからその行使に当たっても必要最小限度というように、一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。そういう意味では、個別的自衛権は持っているけれども、しかし、実際にそれを行使するに当たっては、非常に幅が狭いということを御了解願えると思います。
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第94回国会 衆議院 法務委員会 第18号 昭和56年6月3日 (下線は筆者)
次に、「自国防衛に資するような他国防衛という意味です。」との記載があるが、『他国防衛』のための「武力の行使」を行う組織の実態は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当に該当して違憲となる。論者は『他国防衛』を含むことを認めているのであり、9条に抵触して違憲である。
「つまり、やられている他国を助けないと、自分の国が危機的状況に陥ることが明らかなときのみに、発動されるものです。」との記載があるが、「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、未だ9条の規範性を通過するわけではない。また、9条の下では、自国の危機を理由とするだけで「武力の行使」が可能となるわけでもない。そのため、この二つの要素を組み合わせても、未だ9条の規範を通過していないのであるから、その中での「武力の行使」は違憲となる。
「だから自分と関係ない外国での戦争に参加することはあり得ない。」との記載があるが、9条の規範を通過していない中での「武力の行使」は違憲であり、あり得るかあり得ないか以前の問題である。
「そして今後どんな内閣が表れてもこれ以上解釈の拡大は起きようがありません。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件が既に違憲であるため、拡大が起きるか起きないか以前の問題である。また、政府は「いかなる事態が存立危機事態に該当するかについては、実際に我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合において、事態の個別具体的な状況に即して、主に、攻撃国の意思、能力、事態の発生場所、事態の規模、態様、推移などの要素を総合的に考慮し、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性等から客観的、合理的に判断することになる(P116 PDF)」と述べており、「存立危機事態」以上の解釈の拡大が起きるか否か以前に、「存立危機事態」の要件そのものが政府に対して広範な裁量権を与え、実質的に「武力の行使」の発動を白紙委任するものであり、9条が政府の自国都合によって行われる恣意的な「武力の行使」を制約する趣旨を損なっており、解釈の拡大を招くものである。そのため、「これ以上解釈の拡大は起きようがありません。」という主張は、既に解釈の拡大を招く要件である以上、合憲性を説明する理由とはならない。
「そもそも憲法が言っているのは、②であって、それは自分の国を守る必要最小限のことは認めます、ということです。あくまで自国防衛。」との記載があが、誤りである。
憲法が言っているのは、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところにある。「必要最小限」の意味も、旧三要件の第一要件である「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことを意味している。この要件を満たす「武力の行使」が『自国防衛』であることは確かであるが、論者のように『自国防衛』と称すれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中で「武力の行使」が可能であるかのように考えることはできない。論者は1972年(昭和47年)政府見解を読み誤っている。
また、「憲法が言っているの」は、論者の図では②でないことは当然、⑤でもない。なぜならば、日本国の行使できる「武力の行使」の幅は、「ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。(上記:角田(禮)政府委員)」だからである。
「で、昭和40年代当時、図にある旧国際環境に対応するために何が必要最小限かが議論され、どう考えても③も④も不要だから、③+④はセットで否定されていた。いわゆる集団的自衛権は憲法上許されないとされていた解釈です。」との記載があるが、誤りである。
まず、憲法解釈にはいくつかのルートがあるが、それは憲法規範の中で行われる解釈を採用するか否かの問題であり、論者のように憲法解釈から導かれる規範自体が「必要最小限」との数量的なものであるかのように考えることはできない。論者は9条の制約があたかも政府の自由裁量を許容する数量的な「必要最小限」との基準であるかのように考えているが、これはどの9条解釈のルートからも導かれないものである。そのため、「③も④も不要だから、③+④はセットで否定されていた。」との記載のように、政策論として自己抑制していたかのような認識は誤りである。
憲法解釈は法律論上の規範が導き出されるものであり、その規範は1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところにある。「集団的自衛権は憲法上許されない」とされてきたことは、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は、この規範を満たさない中で「武力の行使」を行うものだからである。
「これに対応するための必要最小限は何かを議論すれば、③も認めざるを得ない。そしてこれは②の範囲内なのです。」との記載があるが、政策論上の必要性の当否についてはここでは判断しないが、「②の範囲内」として憲法上許容されるかのように説明している点は誤りである。
国際環境が②のラインを突き抜けた場合であるが、「②のライン」そのものが1972年(昭和47年)政府見解や政府答弁によって⑤の個別的自衛権のラインよりも内側にある。国際環境が変化しても、憲法上のラインを超えられないことは確かであるが、「存立危機事態」での「武力の行使」については、既に憲法上のラインを突き抜けており、憲法上の限界を超えている。
「②を突き抜ける解釈は論理がありません」との記載があるが、既に「存立危機事態」での「武力の行使」は憲法上のラインを突き抜けており、論理がない。憲法改正を行わなければ絶対に対応できないものである。
③が「個別的自衛権」で対応できるか否かであるが、憲法上は「武力の行使」が国際法上の違法性阻却事由である「個別的自衛権」に該当するか「集団的自衛権」に該当するかなど問題としておらず、単に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たすか否かの問題である。もし、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たしながらも、国際法上は「個別的自衛権」に該当せず、「集団的自衛権」に該当する場合が存在するとすれば、それは憲法上は何の問題もない。憲法は、単に「武力の行使」を自国の基準で独自に制約を課しているだけだからである。ただ、「自国に対する武力攻撃」が発生していれば、国際法上は「個別的自衛権」に該当することはほぼ確実である。
「上で説明したとおり、論理があるからです。」との記載があるが、ここで説明してきた通り、論理が通じていないため、論理はない。
「明々白々に違憲なのを無理やり解釈変更し立法化しようとすれば立憲主義の否定にあたります。」との記載があるが、先ほども述べた通り、論理が通じていないのであるから、明々白々に違憲なものを無理やり解釈し立法化しようとしているものであり、立憲主義の否定である。論者は自身の論理が誤っていることを理解すれば、まさに立憲主義の否定であることに気づくことができるはずである。
平井卓也
〇 自由民主党 平井卓也
集団的自衛権について 2014/05/28
「これまで集団的自衛権の行使を禁止してきたのは政府の憲法解釈であり、憲法自体が集団的自衛権を禁止しているのではないからです。」との記載があるが、認識に混乱が見られる。まず、「憲法自体が集団的自衛権を禁止しているのではない」との意味は、憲法は国際法上の違法性阻却事由の『権利』である「集団的自衛権」という概念を禁止しているわけではないとの意味であれば正しい。日本国も他国と同様に「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているのである。しかし、「集団的自衛権の行使を禁止してきたのは政府の憲法解釈であり」の部分については、理解に混乱が見られる。「集団的自衛権の行使」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』を行使するというものであり、なぜ違法性阻却事由の『権利』を行使しなければならないのかといえば、国際法上「武力の行使」を行えば国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して違法となるからである。これを回避するために違法性阻却事由の『権利』を行使する必要があるということになっているのであり、その「自衛権」を行使するということは、通常「武力の行使」が行われているのである。9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しているのであり、これが「政府の憲法解釈」となっているのである。
「憲法解釈の変更は憲法解釈で行うのが当然で、これまでもその時の社会情勢に沿うような形で、その時の政府によって幾度か解釈変更が行われてきました。合憲の範囲内での解釈変更であるということは言うまでもありません。」との記載があるが、憲法解釈の作法上の理解不足がある。確かに憲法解釈は変わることがあるが、それは憲法解釈上のどのルートを選択するかを政府が決定するというものであり、選択した憲法解釈のルートの中ではいくら「その時の社会情勢」が変化しようとも法の規範性が揺らぐわけではない。今回の2014年7月1日閣議決定については、9条解釈のいくつかのルートの中から1972年(昭和47年)政府見解というルートを選択しているにもかかわらず、この規範に適合しない形で「存立危機事態」の要件を加えた点で手続き上の不正が存在する。論理的整合性が存在しておらず、違法である。この結果、9条に抵触して違憲となるのであり、「合憲の範囲内での解釈変更であるということは言うまでもありません。」との認識は誤りである。
「従って、憲法解釈の変更は、姑息でも憲法違反でもないのです。」との記載があるが、憲法解釈は法の適正手続きに則って行う必要があるのであり、2014年7月1日閣議決定はこの点で手続き上の不正が存在しており、違法となる。これにより、2014年7月1日閣議決定でも前提として維持しているという1972年(昭和47年)政府見解という違憲審査基準によって、違憲となる。「姑息でも憲法違反でもないのです。」との記載があるが、手続き上の不正により違法性があり、「存立危機事態」の要件も憲法違反である。
「因みに、国際法上、各国が集団的自衛権を有しているのは自明ですが、集団的自衛権の行使ができるかできないかを議論しているのは世界中で日本だけです。」との記載があるが、日本国も国際法上は「集団的自衛権の行使」を行って「武力の行使」の国際法上の違法性を阻却する地位を他国と同様に有している。しかし、「集団的自衛権の行使」するとは、実質的に「武力の行使」が行われているのであり、この「武力の行使」を9条が制約していることから、「集団的自衛権の行使」が可能か否かが問われているのである。論者は「集団的自衛権の行使」が実質的に「武力の行使」を伴うことを正確に理解できていないと思われる。
「皆さんにはこのメルマガを機に、『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(通称:安保法制懇)』の報告書をご覧いただきたいと思います。首相官邸のホームページに掲載されている報告書は、憲法解釈の変更の可能性について、きちんと法的な理論付けを示しています。」との記載があるが、論者には当サイトで紹介している「安保法制懇の間違い」のページをご覧いただきたいと思う。きちんとした法的な理論付けなどなされておらず、論理的整合性が不十分であり、憲法解釈に耐えられないものであることが理解できるはずである。
「百聞は一見に如かず。僅か40ページ弱の報告書です。皆さんご自身でご覧いただき、自国の安全保障に関して真剣に考えていただく機会になれば幸いです。」との記載があるが、当サイトは「安保法制懇」の資料よりも少ない文字数で解説していると思う。論者もご自身でご覧いただき、自国の安全保障の法的基盤の論理的整合性を真剣に考えていただきたいと願う。
なぜ今、平和安全法制が必要なのか。 2015/08/07
国連憲章51条の「集団的自衛権」について、「にもかかわらず、これまでの日本政府は『保有すれども行使できない』という解釈をしてきました。これは日本国内でしか通用しない価値観です。」との記載があるが、この論理は世界で通用するものであるため誤りである。まず、国際法上は日本国も「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分の適用を受ける地位を有している。その意味で「保有する」のである。しかし、「自衛権」とは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』であるから、これを行使するということは通常「武力の行使」が行われることとなる。しかし、日本国の場合は憲法9条がこの「武力の行使」を制約しているため、結果として「集団的自衛権の行使」に該当する「武力の行使」については9条に抵触して違憲となることから「行使できない」のである。憲法中に9条のような規定を有するのであれば、他国も同様にこの論理自体は採用することができるため、「日本国内でしか通用しない価値観です。」との認識は妥当でない。
「今回の法整備は、国際情勢の変化に伴って発生しうる危険な状況に対処するため、『我が国を防衛するためにやむを得ない場合』にのみ、限定的に集団的自衛権の行使を認めるものであり、あくまでも憲法9条の専守防衛、平和主義の範囲内の変更です。」との記載があるが、理解に混乱が見られる。まず、国際情勢の変化があったとしても、憲法上の規範自体が揺らぐわけではない。また、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の下では、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであって、これを満たさないのであれば、たとえ「我が国を防衛するためにやむを得ない場合」と称しても違憲である。「限定的に集団的自衛権の行使を認めるもの」の部分についても、「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、国際法上「限定的」などという区分は存在していない。「武力の行使」についても、「限定的」であると称するからといって合憲となるわけではなく、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないのであればすべて違憲である。「あくまでも憲法9条の専守防衛、平和主義の範囲内の変更です。」との部分も、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解から逸脱するのであり、「専守防衛」の定義である「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」の「憲法の精神に則った」に適合しない。また、9条は前文の「平和主義」の理念を具体化した規定であり、「存立危機事態」の要件が9条に抵触することにより、前文の「平和主義」の理念も同時に損なわれていることとなる。これにより、「専守防衛、平和主義の範囲内の変更」との主張は誤りとなる。
「しかし、今回の解釈変更はあくまでも『憲法の範囲内の変更』であり、過去にも憲法の解釈が変更された事実はあるのです。」との記載があるが、誤りである。「存立危機事態」の要件は2014年7月1日閣議決定でも採用されている1972年(昭和47年)政府見解に論理的に当てはまらないからである。「憲法の範囲内の変更」とは言えない。
「当時の吉田茂総理(当時の日本自由党、後の自由民主党)は、日本国憲法9条は自衛権すら放棄するのだと明言したのです。」との記載があるが、正確な理解を必要とする。
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1946年(昭和21年)
6月26日 衆議院本会議 吉田総理発言
「戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したものであります」
第90回帝国議会 本会議 昭和21年6月26日(第6号)
7月4日 衆議院帝国憲法改正案委員会 吉田首相
「此の間の私の言葉が足りなかつたのか知れませぬが、私の言はんと欲しました所は、自衛権に依る交戦権の抛棄と云ふことを強調すると云ふよりも、自衛権に依る戦争、又侵略に依る交戦権、此の二つに分ける区別其のことが有害無益なりと私は言つた積りで居ります」
第90回帝国議会 委員会 昭和21年7月4日(第5号)
以前の答弁についてこれが「いわゆる自衛戦争の否定の趣旨」と解される補足答弁を行う。(リンク P34)
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これにより、吉田茂総理の発言は、解釈変更ではないと考えられる。
木原誠二
〇 自由民主党 木原誠二
集団的自衛権の一部容認について 2014.12.01
「この危険な状況に対処するために、今回、我々は集団的自衛権を認めることにしたといえます。」との記載があるが、日本国も国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』そのものは適用を受ける地位を有している。このことは日本国も認めているのであるから「今回、我々は集団的自衛権を認めることにした」との認識は誤りである。また、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を認めようとするのであれば、それは2014年7月1日閣議決定でも維持されていると主張している1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)という政府自身の採用している違憲審査基準によって違憲である。
「ただ、その集団的自衛権は、国連で認められているフル装備の集団的自衛権ではなく『限定的』な集団的自衛権です。」との記載があるが、国連憲章51条の「集団的自衛権」に該当すればそれは「フル」や「限定的」などの区分は関係なく「集団的自衛権」でしかないものである。これは『権利』であって、これに該当すれば「集団的自衛権」の区分の『権利行使』をしていることには違いないからである。また、「武力の行使」について「限定的」と考えているのかもしれないが、1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範を示しているのであって、これを満たさない「武力の行使」についてはたとえ「限定的」と称しようとも違憲である。
「本来、集団的自衛権とは、自らに危険が及ぼうが及ばなかろうが、自らと密接な関係がある他国が攻撃されたら、自らが攻撃されたとみなして反撃する権利です。」との記載があるが、法学上の正確な認識で捉える必要がある。「武力の行使」を行った際に国際法上の「集団的自衛権」の区分によって違法性を阻却するには武力攻撃を受けた他国からの『要請』が必要なのであり、「自らが攻撃されたと見なして反撃する権利」というものが『要請』なしに生まれるわけではない。また、『要請』があるということは、他国が攻撃されたものなのであり、自らが攻撃されたものとは異なる。
「しかし、今回、我が国が認める集団的自衛権は、他国への攻撃が『我が国の存立を全うし、国民を守るため』すなわち『我が国を防衛するためにやむを得ない場合』にのみ、行使を認めるものであり、憲法9条が求める専守防衛、平和主義の範囲内のものです。」との記載があるが、誤りである。まず、我が国は「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有していることは以前から認めている。その行使を行うということは「武力の行使」を行うことを意味し、9条はこの「武力の行使」を制約している。1972年(昭和47年)政府見解によって「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範が示されているのであり、これを満たさない「武力の行使」についてはすべて違憲である。そのため、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないのであればすべて違憲となるのであり、これを満たさないにもかかわらず「他国への攻撃が『我が国の存立を全うし、国民を守るため』すなわち『我が国を防衛するためにやむを得ない場合』にのみ、行使を認める」と称する「武力の行使」は違憲である。「専守防衛」とは、「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことを言うのであり、「専守防衛」の定義の中に「憲法の精神に則った」の文言があることから、「憲法9条が求める専守防衛」という表現の「9条が『専守防衛』の定義を拠り所にして規範を定めている」かのような認識は正確ではなく、「9条が『専守防衛』の枠組みを定義している」という認識の方が正確である。「平和主義」についても、9条の枠内であれば前文の「平和主義」の理念も保たれていると考える余地があるが、9条に抵触して違憲となるにもかかわらず「平和主義の範囲内のもの」と評価することはできない。「存立危機事態」の要件は9条に抵触して違憲となるのであり、「平和主義」は損なわれている。論者は論理的理由がないにもかかわらず結論のみを「憲法9条が求める専守防衛、平和主義の範囲内のものです。」と述べようとしたものであり、正当化することができていない。このような論理的な過程を踏まずに結論のみを述べるだけで正当化することができるのであれば、それは「侵略戦争」を行っても「憲法9条が求める専守防衛、平和主義の範囲内のものです。」と主張することで正当化することができてしまうこととなるのであり、法解釈とは言えないのである。
「この憲法9条が定める専守防衛の範囲内で集団的自衛権を一部認めるというのは、敗戦国日本としての誇り、矜持を示すものともいえます。」との記載があるが、「敗戦国日本としての誇り、矜持」というのは法学上の論点ではないため論じないが、9条は1972年(昭和47年)政府見解によって「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範を示しているのであり、これを満たす場合には国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分で言えば「個別的自衛権」に該当するものである。そのため、「集団的自衛権」には該当せず、9条の枠内であることを意味する「専守防衛」の範囲内に「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」は存在しない。「集団的自衛権を一部認めるというのは」との部分は論理的整合性がない。
「いずれにしても、限定的な集団的自衛権は行使を認めますが、」との記載があるが、国際法上「集団的自衛権」に「限定的な」などというものは存在しない。「限定的な」「武力の行使」のことを言っているのかもしれないが、「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解によって「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範が示されているのであり、これを満たさないにもかかわらず「限定的な」と称したならば「武力の行使」が認められるというわけではない。
務台俊介
〇 自由民主党 務台俊介
「備えあれば憂いなしの法制」 ~平和安全法制の衆議院可決を受けて~ 2015年
論者はエアバックの話を持ち出すが、安保法制は「武力の行使」を行うものであり、他国の国民の犠牲を引き起こす可能性が生じる問題であるから、エアバックと同列に語ることは適切とは思われない。
「砂川判決は『我が国の存立を全うするため必要な自衛のための措置』、すなわち『自衛権』を認めた判決であり、それ以上でも以下のことも言ってはいない。」との記載があるが、認識に混乱が見られる。砂川判決が認めた「自衛権」という国際法上の『権利』とは、「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、」の部分である。それに対して、「自衛のための措置」という『権限』は、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」の部分である。「自衛権」は国際法上の『権利』であり、「自衛のための措置」は日本国の統治権の『権限』によるものである。この両者は性質が異なる。
「砂川判決は「自衛の措置」の内容については明らかにせず」との記載があるが、砂川判決では「自衛のための措置」の内容として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を示しており、「明らかにせず」とすることは正確な認識ではない。ただ、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能であるか否かについては述べていない。
「憲法第9条全体の解釈から、自衛権の行使は『必要最小限度』に止まるものでなければならないとし、したがって、『必要最小限度』にとどまる『自衛の措置』とは何かというのが、憲法論議の焦点となるべきだと考える。」との記載があるが、「必要最小限度」の意味を特定して正確に理解する必要がある。従来より、「自衛のための必要最小限度」の意味で用いられていた「必要最小限度」とは、三要件(旧)をすべて満たすことの意味である。そのため、論者のように「『必要最小限度』にとどまる『自衛の措置』とは何かというのが、憲法論議の焦点となるべきだと考える」のであれば、それは三要件(旧)を満たすことを意味することになる。
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お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)
また、この三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」は、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と対応するものである。そのため、論者が「憲法第9条全体の解釈から、自衛権の行使は『必要最小限度』に止まるものでなければならない」と言うように、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の範囲内に留まるものでなければならないのである。そのため、この1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合しない「存立危機事態」の要件は違憲となる。
「先に述べたように、国際安全保障環境が大きく変化する中で、この『必要最小限』について今日的観点から検証した結果、引き続き、国連憲章で認められている丸々の集団的自衛権は認められないものの、我が国の存立が脅かされる明白な危険がある場合に行使する集団的自衛権であれば、『自衛の措置』として認められるという結論に達した経緯がある。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の論理を正確に読み解けば、そのような結論には達しないため誤りである。まず、「国際安全保障環境が大きく変化する中で」との部分であるが、9条解釈のルートはいくつか存在するが、そのどのルートを選択するかについては解釈変更が可能であるが、選択したルートの中での法規範が「国際安全保障環境」の変化によって変わることはない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解のルートを選択したならば、その規範に拘束されるのであり、そこで示された規範が「国際安全保障環境」の変化によって変動するわけではない。また、1972年(昭和47年)政府見解で示された「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」の規範は、9条の政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨を含むのであって、数量的な意味での「必要最小限度」というものによって統制しているものではない。1972年(昭和47年)政府見解の「必要最少限度の範囲にとどまるべきものである」の部分は、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものであり、「武力の行使」の程度・態様の意味であり、「武力の行使」の発動要件の部分ではない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)から導かれる規範は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かであり、論者のように「我が国の存立が脅かされる明白な危険がある場合に行使する集団的自衛権であれば、『自衛の措置』として認められる」としているものではない。「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」については、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないため、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合せず、違憲である。また、「我が国の存立が脅かされる明白な危険がある場合に行使する」「武力の行使」についても、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たしていないのであれば違憲である。「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否かは、「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」の『着手』があるか否かによって判定されることとなる。「結論に達した経緯がある。」との部分であるが、そのように主張するのは2014年7月1日閣議決定であるが、この閣議決定は論理的整合性が保たれておらず、「存立危機事態」の要件は政府自身の設定した違憲審査基準である1972年(昭和47年)政府見解の『基本的な論理』と称する部分によって違憲となる。
「集団的自衛権の『限定容認論』であり、」との記載があるが、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』であり、「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定」か否かなどという区分は存在しない。また、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」が「限定」であると言いたいのかもしれないが、「限定」と称するだけで「武力の行使」が憲法上容認されるわけでもなく、1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。そのため、「限定容認論」の主張は論理的に合憲性を裏付けられておらず、「容認」とはならない。
「それでも『明白な危険』では不明確という指摘もなされているが、犯罪の構成要件ではないのであるから安全保障の全ての事態を法律に書き切るのは不可能で、それを手続的に保障するために、事前の国会承認という手当が加えられていると理解している。」との記載があるが、誤った認識がある。まず、1972年(昭和47年)政府見解の規範である「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないならば、違憲となるのであるから、これを満たさない「存立危機事態」については「明白な危険」の文言があろうとなかろうと違憲である。この違憲な要件に該当するか否かを「国会承認」によって判断しても、もともと違憲なのであるから、「国会承認」を得たとしても違憲であることは変わらない。国会も憲法の枠内でしか権限を有しないのである。
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「存立危機事態」における武力行使や「国際平和共同対処事態」における支援活動につき、「国会の事前承認」がうたわれ、あたかもそれが歯止めとなるかのように与党内で宣伝されているが、政府による違憲な行為(集団的自衛権の行使)について、それに承認を与えるような権限は国会に憲法上与えられておらず、国会が事前に承認すること自体が違憲であるといわざるを得ないし、国会の事前承認によって違憲な政府の行為から違憲性が取り除かれるわけではない。
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右崎正博(独協大学法科大学院)安保法案学者アンケート 2015年7月17日
「『明白な危険』では不明確という指摘もなされているが、」の部分であるが、単なる「明白な危険」などという政府の主観的判断に委ねられるものをそのまま要件とすることだけでは、9条の政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨を満たさず、違憲である。従来より1972年(昭和47年)政府見解の規範(旧三要件の第一要件)の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否かは「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」の『着手』にあたるか否かが判断基準である。この『着手』によって「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たす場合に、未だ我が国の具体的な被害が発生していないという意味で「明白な危険」のある状態と評価するのであれば、9条に抵触しないための規範を満たすものと言うことができる。しかし、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないにもかかわらず、単に「明白な危険」との評価のみによって「武力の行使」が可能となるかのように考えることは、9条解釈として成り立たない。
「万が一の事態に備え、何かあった時の責任を問われるのは政府であり、政治家である。」との記載があるが、政府は憲法の枠内でしか権限を与えられていないのであり、「責任」とは憲法上許容された枠内で対応することである。現在の憲法の枠内で対応できないのであれば、憲法改正を行う必要があるのであり、適切な手続きを無視して憲法の枠を超えて活動することは許されていない。憲法の枠を超えたならば、それは違法性の「責任」を負わなければならないのであり、「責任」を理由として憲法の枠を超えることができるかのような考えているのであれば誤った認識である。
「集団的自衛権をこれまで自ら放棄してきた世界の国は日本以外はそうはない。」との記載があるが、日本国も国際法上は「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているのであり、9条も「自衛権」という概念そのものは否定していない。9条は「武力の行使」を制約している規定である。
平和安全法制について「誤解を払拭する努力をしていく」との記載があるが、まずは論者の誤解を正すことが必要である。
齋藤健
〇 自由民主党 齋藤健
集団的自衛権についてのさいとう健の考え 2015.07.18
【議論の前にどうしても必要な認識】
「せめて、アメリカが他国の攻撃を受けた場合であって、それが日本の存立基盤を脅かすようなケース、せめてそのくらいのケースにおいては、日本もアメリカに軍事的協力ができるようにしようじゃないか、それが今回、国会で審議している集団的自衛権の限定的行使容認なんです。」との記載があるが、「アメリカが他国の攻撃を受けた場合」に「日本もアメリカに軍事協力ができる」ことを意図して「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」を行うのであれば、それは『他国防衛』の「武力の行使」である。『他国防衛』の「武力の行使」を行う組織の実態は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。
「ですから、アメリカに対する支援行動とはいえ、日本の存立基盤が脅かされた場合のみにおける行動でありますから、わが国の自衛のための措置ということなんです。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解での憲法上許容される「自衛のための措置」の範囲を超えるものであり、「わが国の自衛のための措置ということなんです。」と主張しても、法的には違憲の評価を受けるものである。まず、1972年(昭和47年)政府見解は、「平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」と記している。そのため論者が「わが国の自衛のための措置ということなんです。」と主張したとしても、「平和主義をその基本原則とする憲法」は、「わが国の自衛のための措置」であるからと言って、必ずしも無制限に認めているわけではないのである。「憲法の容認する自衛の措置の限界」については、「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と記されており、「『わが国に対する』外国の武力攻撃(急迫、不正の事態)」が必要となる。「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」については、この「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないため、「憲法の容認する自衛の措置の限界」を超え、違憲である。
【今回の法案は違憲か?】
「アメリカに対する支援行動とはいえ、日本の存立基盤が脅かされた場合にのみ行動するというものですから、わが国の自衛のための措置に限定されており、少なくとも、自衛のための措置を認めた最高裁の過去の判決の論理から逸脱したものだとは言えないと考えます。」との記載があるが、誤りである。まず、先ほども述べたように、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「憲法の容認する自衛の措置の限界」は、「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と記されており、「『わが国に対する』外国の武力攻撃(急迫、不正の事態)」が必要となる。「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」については、この「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないため、「憲法の容認する自衛の措置の限界」を超え、違憲である。論者は「わが国の自衛のための措置に限定されており」と述べるが、1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに規範を置いたのであり、これを満たさないのであれば「限定されており」などと何らかの限定があったとしても違憲であることには変わりない。最高裁の砂川判決は、「自衛のための措置」として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」「他国に安全保障を求めること」を挙げるにとどまり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていない。そのため、「最高裁の過去の判決の論理から逸脱したものだとは言えないと考えます。」との認識については、ここで砂川判決の論理が持ち出されることが不適切な事例である。さらに、砂川判決の想定する「自衛のための措置」である「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」「他国に安全保障を求めること」は、どちらも日本国が武力攻撃を受けた場合の事例である。それにもかかわらず、「他国に対する武力攻撃」が発生した場合の「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」がこの「自衛のための措置」の中に含まれるとする考えも、大きな飛躍がある。砂川判決が述べていないことについて、砂川判決を利用して「逸脱したものだとは言えない」と考えることは不適切であるし、砂川判決を丁寧に読み込んでも「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」を正当化できる枠組みを示した部分を見つけることはできない。
「一般的な集団的自衛権の行使はもちろん違憲ではありますが、自衛のための措置に限定するならば、過去の判決の範囲内にあると言えます。」との記載があるが、誤りである。まず、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「一般的な」ものとそうでないものがあるかのような認識は誤りである。次に、1972年(昭和47年)政府見解が「集団的自衛権の行使」を憲法上認められないとしているのは、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」からである。そのため、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中で「武力の行使」をすることはすべて違憲なのであり、論者の言う「一般的な集団的自衛権の行使」はもちろん、「一般的」でないと称する「集団的自衛権の行使」もこれを満たさないため違憲である。「自衛のための措置に限定するならば」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の示した「憲法の容認する自衛の措置の限界」とは、「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」であり、「『わが国に対する』外国の武力攻撃(急迫、不正の事態)」を満たすことを必要とするものである。論者の言う「自衛のための措置に限定」の意味するところがよく分からないが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「自衛の措置」を行うことは「憲法の容認する自衛の措置の限界」を超えて違憲となる。「過去の判決」とは砂川判決を意味すると思われるが、ここで示された「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」「他国に安全保障を求めること」であり、「集団的自衛権の行使」としての日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については、この範囲内と確定することはできない。そのため、「過去の判決の範囲内にあると言えます。」との主張には根拠がない。
「逆に言えば、憲法の範囲内で許される措置として今回提案されているということです。」との記載があるが、先ほど述べたように、「過去の判決の範囲内」であるかについて砂川判決に確定できる要素はないし、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛のための措置」からも逸脱しているのである誤りである。「憲法の範囲内で許される措置」とは言えない。
【終わりに】
「同時に、この法案に基づき実際に自衛隊が武力を行使する場合には、国会の事前承認が必要とされておりますが、われわれ国会議員も、悔いのない賢明な判断が行えるよう一層の研鑽をつんでいかねばなりません。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は違憲であり、違憲な要件に基づいて「国会の事前承認」を行っても、それ自体が違憲となる。国会も憲法の枠内でしか権限を有しておらず、「承認」をしたところで「存立危機事態」の要件が合憲に変わるわけではないのである。
「間違いのない事前承認の判断が国会において行われるためには、」との記載があるが、先ほども述べたように、「存立危機事態」の要件に基づく承認を行ったところで、「存立危機事態」の要件が合憲となるわけではないし、国会の承認も違憲無効である。
集団的自衛権についてのさいとう健の考え(第二弾) 2015.10.07
【<違憲ではないか?>】
論者の言う「一般的な集団的自衛権の行使」が違憲であるとした上で、「ただ、今回のケースは、最近の国際情勢の変化に応じて、わが国の存立基盤が根底から脅かされる場合についてのみ限定的に行使できるようにしようとするものであります。」との記載があるが、誤った認識に基づくものである。まず、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「一般的な」ものとそうでないものがあるかのような認識は誤りである。また、「限定的に行使できるようにしようとするものであります。」との認識であるが、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」に規範を置いたものであり、論者が「限定的に」と称したところで、これを満たさない中で「武力の行使」を行うものはすべて違憲である。
「もし、このようなケースにおいてさえも違憲であるとするなら、わが国憲法は、日本の存立基盤が脅かされるようなケースにおいても、何もせずそのまま存立基盤を脅かされていなさいと言っていることになります。」との記載があるが、「武力の行使」を合憲化する論拠は存在しておらず、誤りである。9条は、自国の都合によって政府が「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範なのであり、たとえ「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、それだけで9条の規範を通過したと考えることはできない。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しているのであるから、「日本の存立基盤が脅かされるようなケース」を理由として「武力の行使」に踏み切れるとするところに基準を設けることは、9条の規範性を損ない、憲法解釈として妥当でなくなる。9条の下では、「日本の存立基盤が脅かされるようなケース」であるか否かを政府の主観的判断に委ねるような要件を設定することは憲法解釈として成り立たないのである。ただ、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たすか否かについては、「我が国に対する急迫不正(我が国に対する武力攻撃)」の『着手』が認められるか否かである。この『着手』が認められた場合については、9条の規範性を通過したと見なして、それが「日本の存立基盤が脅かされるようなケース」と考えることは可能である。
「これは、どの国も持つ自衛という自然権を放棄するということであり、国連でも認められている権利すら放棄す憲法学者の意見は意見として、さいとう健は、わが国憲法が日本の存立基盤が脅かさせる場合においてもアクションを起こしてはいけないと言っているとは到底思えません。」との記載であるが、誤りである。まず、国際法上の「自衛権」が「自然権」と呼ばれる時、それは国連憲章51条の区分で言えば「個別的自衛権」の区分を言うことが一般的である。また、「自衛権」は『権利』であり、その行使には国家の統治権の『権力・権限・権能』が必要である。9条は日本国の統治権の『権限』を制約する規定であり、国際法上の「自衛権」という『権利』を制約する規定ではない。そのため、9条が存在していても、日本国は「自衛権」という『権利』を放棄しておらず、「自然権を放棄するということ」にもならない。国連憲章51条では、「固有の権利」の文言が使われているが、同様に9条はこの『権利』そのものを制約していないし、放棄させる趣旨の規定でもない。
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集団的自衛権は、20世紀半ばに国連憲章が創設した国際法上の権利で、これを行使するか否かは各国の主体的意思による筈である(そもそもその行使は集団的安全保障条約の締結相手国あってのものであり、これを国家の自然権的権利と言うのは無理がある)。
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君塚正臣(横浜国立大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日
【<終わりに>】
「この法律に基づき実際に自衛隊が武力を行使する場合には、国会の事前承認が必要とされており、」と「間違いのない事前承認の判断が国会において行われるためには、」の部分であるが、上記「集団的自衛権についてのさいとう健の考え 2015.07.18」と同じ内容なので、ここでは解説しない。
集団的自衛権についてのさいとう健の考え
(第三弾) 2015.12.01
「<議論の前にどうしても必要な認識>」の項目の、「せめて、アメリカが他国の攻撃を…」の部分と、「ですから、アメリカに対する支援行動とは…」の部分については、上記「集団的自衛権についてのさいとう健の考え 2015.07.18」とほぼ同じ内容なので、ここでは解説しない。
「<違憲ではないか?>」の部分については、上記「集団的自衛権についてのさいとう健の考え(第二弾) 2015.10.07」と同じ内容なので、ここでは解説しない。
【<アメリカの戦争に巻き込まれる?>】
「ですから、限定的ですら集団的自衛権の行使をすべきではないと主張される方は、同時にアメリカが日本を守らなくなってもいいという覚悟も示さねばならないんだと思います。」との記載があるが、憲法上の合憲・違憲の判定と、政策上の必要・不要を分けて考える必要がある。「すべきではない」との主張であるが、「違憲だからすべきでない」のか、「不要だからすべきでない」のかを明らかにする必要がある。論者は合憲であることを前提として「不要だからすべきでない」との主張に反論しているように見えるが、「違憲だからすべきでない」の主張には答えていない。「<違憲ではないか?>」の部分で既に答えたと考えている可能性があるが、そこでは違憲でない旨を説明することができていない。「違憲だからすべきでない」については、憲法改正を行うことを指摘するものであり、「アメリカが日本を守らなくなってもいいという覚悟も示さねばならない」ということにはならない。
【<終わりに>】
「この法律に基づき実際に自衛隊が武力を行使する場合には、国会の事前承認が必要とされており、」と「間違いのない事前承認の判断が国会において行われるためには、」の部分であるが、上記「集団的自衛権についてのさいとう健の考え 2015.07.18」と同じ内容なので、ここでは解説しない。
赤沢亮正
〇 自由民主党 赤沢亮正
集団的自衛権の限定的行使容認について 赤沢亮正 平成26年8月30日 PDF
「集団的自衛権についての閣議決定は、国民の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るために、必要最小限の自衛の措置をとるという政府の憲法解釈の基本的考え方を変えてはいません。」との記載があるが、誤りである。論者の言う「集団的自衛権についての閣議決定」とは、2014年7月1日閣議決定であるが、ここで定められた「存立危機事態」での「武力の行使」については、論者の言う「政府の憲法解釈の基本的な考え方」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分に当てはまらない。また、1972年(昭和47年)政府見解の規範は、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とする規範であり、これを満たさないのであれば、たとえ「国民の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るため」を理由としても「武力の行使」は正当化されない。「必要最小限度」の意味は、①旧三要件を意味する「自衛のための必要最小限度」の意味、②三要件の「武力の行使」の程度・態様を意味する第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味、③9条解釈から導き出される規範が数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのような誤解した意味のいずれかが考えられる。しかし、①は「存立危機事態」の要件が第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないこと、②は「武力の行使」の発動要件が「国民の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るために」の部分であることになるが、これでは9条が政府の自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを排除できず、9条解釈として成り立たないこと、③は9条は政府の自国都合による「武力の行使」を制約する規範であり数量的な意味での「必要最小限度」が基準であるとすれば9条の趣旨を満たさず、法解釈として成り立たないこと、によって、そのどれをとっても「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲でない旨を基礎づける主張とはならない。よって、ここで「必要最小限度」の文言を用いていても「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲でない旨を示すことにはならず、正当化することはできない。違憲な要件を定めたのであるから、「政府の憲法解釈の基本的な考え方を変えていません。」とは言えず、誤りである。
「日本が再び戦争をする国になることは、断じてありません。」との記載があるが、法学的な根拠に基づかない主張である。閣議決定や法律によって「存立危機事態」での「武力の行使」を可能としようとすることは、違憲な要件によって「武力の行使」に踏み切ろうとするものである。これは憲法の許容していない「武力の行使」を行うものであるから、戦争とも言えるものである。「断じてありません。」との認識であるが、政策的に「断じてありません。」と考えているのかもしれないが、法学的には違憲ではあることが前提ではあるが、憲法の容認しない「武力の行使」を行うことができるとするものであるから、政策上も「違憲となるからできない」だったものを政策上は「できる」とした上で「しない」の段階に持ち込んだ点で、違憲な「武力の行使」によって「再び戦争をする国」になれるようにしたということになり、「断じてありません。」との評価には根拠がないことになる。
「海外派兵は一般に許されないという原則は不変です。」との記載があるが、論理的に成り立たない。従来より海外派兵が一般に許されないとする基準は、「自衛のための必要最小限度」を超えると考えているからである。この「自衛のための必要最小限度」とは、三要件(旧)を満たす「武力の行使」であり、この三要件(旧)を超えることにより、一般に許されないの結論が導き出されるのである。つまり、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除(第二要件)」したならば、それ以上は「武力の行使」を行ってはならないという制約があり、「海外派兵」については一般に「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除(第二要件)」する以上の「武力の行使」であると考えられることから、許されないとしているのである。これについて「原則は不変です。」とするのであれば、新三要件を定めた後においても、旧三要件の基準に従って「海外派兵は一般に許されない」としていることとなり、新三要件と旧三要件が競合することとなる。もし「自衛のための必要最小限度」の内容が旧三要件から新三要件に置き換わったと考えているのであれば、新三要件の「存立危機事態」については「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃(第一要件・存立危機事態)」を「排除(第二要件)」するための「武力の行使」であり、ここに地理的な範囲を我が国国内に限るとする基準となるものを見出すことができず、「海外派兵は一般に許されないという原則」なるものは存在しない。このように、「原則は不変です。」との主張は、論理的に成り立たず、誤りである。
「外国の防衛それ自体を目的とする武力行使は、これからも決してありません。」との記載があるが、誤りである。まず、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」であるが、これは「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」であるから、『他国防衛』に該当する。もし「他国に対する武力攻撃」が発生したことに起因する「武力の行使」であるにもかかわらず、その「他国」を防衛する意図がないのであれば、それは国際法上「先制攻撃」であるし、憲法上も「先に攻撃」であり、9条に抵触して違憲となる。また、9条の下では『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではなく、1972年(昭和47年)政府見解によれば「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」。これを満たさないにもかかわらず、『自国防衛』と称すれば「武力の行使」が正当化されるかのように考えている部分に誤りがある。さらに、国際法上「集団的自衛権」の区分の違法性阻却事由の『権利』を得るためには、武力攻撃を受けた国からの『要請』が必要である。この『要請』がなければ「武力の行使」はできず、『要請』を得た段階で「武力の行使」を行うことができるとするものであるにもかかわらず、その『要請』を行った他国(外国)の防衛それ自体を目的とする「武力の行使」ではないと述べることは論理的に成り立たない。「これからも決してありません。」と言うのであれば、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」は「外国の防衛それ自体を目的とする武力行使」を含むこととなるから、行使することができないこととなる。逆に、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」を行うのであれば、「これからも決してありません。」との説明は誤りとなる。
「憲法の下で認められる自衛権の行使は、必要最小限度の範囲内にとどまるという従来の立場は、まったく変わりません。」との記載であるが、「必要最小限度」の意味を明らかにする必要がある。まず、「自衛のための必要最小限度」の意味であれば、三要件(旧)のすべてを満たす範囲内にとどまるということになる。この場合、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」が存在するから、国際法上「集団的自衛権」や「存立危機事態」に基づく「武力の行使」については、これを満たさず、違憲となる。次に、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味での「必要最小限度」であれば、確かに「憲法の下で認められる」のは第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」なのであるが、発動要件について言及がないまま、第三要件のみを取り出している点で妥当な主張とは言い難い。三つ目に、9条解釈から導き出される規範が数量的な意味での「必要最小限度」であると考えている可能性があるが、9条は政府の自国都合によって行われる「武力の行使」を制約する趣旨の規定であり、数量的な意味での「必要最小限度」というものが基準であると考えた場合、9条の趣旨を満たさないこととなる。そのため、このような考え方は憲法解釈として成り立たない。これにより、いずれの「必要最小限度」の意味を選択したとしても、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となる。「従来の立場は、まったく変わません。」と考えるのであれば、論者も「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲であることを認めていることになる。
「『専守防衛』の方針も不変です。 」との記載があるが、「専守防衛」とは、「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことを言うが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に適合せず違憲であり、「憲法の精神に則った」を満たさない。そのため、「専守防衛」の定義を満たさず、「『専守防衛』の方針も不変です。」とは言えない。
「次に歯止めについて、『新三要件』が、憲法上の明確な歯止めであり、政府が都合よく判断できない仕組みになっています。」との記載があるが、誤りである。まず、「憲法上の明確な歯止め」であるが、「憲法上の」「歯止め」とは9条そのものを意味する。9条に抵触しない旨を示す憲法解釈によって導かれる歯止めとなる規範については、1972年(昭和47年)政府見解に示されており、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」である。これを満たさない中で「武力の行使」を行うことはすべて違憲であり、これを満たさないにもかかわらず、「新三要件」の「存立危機事態」の中に「歯止め」と称する文言を入れたところで、9条に抵触して違憲となることは変わらない。また、「存立危機事態」の要件は「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という文言が含まれており、具体的にどのような状態を指しているのか曖昧不明確な内容であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがない。これに該当するか否かを判定する基準となるものがないのであるから、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなることが考えられる。これにより、「政府が都合よく判断できない仕組みになっています。」とはいえない。
「さらに、実際に集団的自衛権を行使する場合は、国会承認を求めることになります。」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」については、違憲であり、違憲な要件に基づいた「国会承認」を行っても、その「承認」も違憲となる。国会も憲法で与えられた権限しか有しないのであり、違憲な要件を「承認」しても合憲化させることはできないのである。
坂本哲志
〇 自由民主党 坂本哲志
なぜ今、平和安全法制なのか 坂本てつしが考える必要性と意義 PDF
P14に、「同盟国、友好国への攻撃に対して、直ちに同盟国、友好国の艦艇などを防護する、いわゆる集団で自衛権を行使することで我が国を守る。」との記載があるが、『他国防衛』の意図を含む「武力の行使」は9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。また、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、これを満たさない「同盟国、友好国への攻撃」に起因する「武力の行使」は違憲である。たとえ「我が国を守る」との目的であっても、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない中で「武力の行使」を行うことは違憲である。
P14に、「限定的な集団的自衛権の行使は憲法上、許容される。事前の国会承認必要(緊急時には事後承認)。」との記載があるが、誤りである。まず、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な」などという区分は存在しない。また、9条の下では「限定的」と称するだけで「武力の行使」が許容されるわけではなく、1972年(昭和47年)政府見解によれば「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や、たとえ論者のいう「限定的な集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」であったとしても、これを満たさないため憲法上許容されず、違憲である。「国会承認」についても、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」の要件が違憲であることから、その要件に基づく「国会承認」も違憲となる。国会は憲法の範囲内でしか権限を有しておらず、たとえ国会の議決があったとしても、「存立危機事態」での「武力の行使」を合憲化することはできない。
P15の「海外派兵」についてであるが、従来より「海外派兵」は「一般に自衛のための必要最小限度を超える」として憲法上許されないと考えられている。この「自衛のための必要最小限度」の意味であるが、三要件(旧)をすべて満たす「武力の行使」のことであり、「海外派兵」は一般にこの三要件(旧)の範囲とは言うことができないため、憲法上許されないとされてきたのである。この「一般に」に対する例外的な場合であるが、これは「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう場合には、そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います。(第24回国会 衆議院 内閣委員会 第15号 昭和31年2月29日)」の場合のことをいう。しかし、論者は「海外派兵の例外措置として存立危機事態と認定。」と考えている部分があるが、従来の「海外派兵」が一般に許されないとする枠組みとは異なる基準によって「例外」を持ち出しており、理解に混乱が見られる。
P19 【[憲法の範囲内で活動]】
「我が国には日本国憲法のおける自衛隊の行動に対しての制約があります。その範囲内で最も効果的に、そして経費の面でも効率的に我が国と世界の安全保障を守ることができるシステムこそが今回の平和安全保障の法整備です。」との記載があるが、論者の言う「今回の平和安全保障の法整備」の中には「存立危機事態」の要件が含まれており、これは「日本国憲法における」「制約」の「範囲内」とは言えず、「その範囲内で」との認識は誤りである。
「『集団的自衛権』と呼ばれるものですが、憲法の範囲内で限定的に行使することは何ら批判されるものではありません。」との記載であるが、認識を整理する必要がある。「集団的自衛権」とは国際法の『権利』であり、これを行使する場合、通常「武力の行使」が行われる。憲法9条はこの「武力の行使」に対する制約であり、「集団的自衛権」そのものが「限定的」であるか否かなどというものには直接関係しない。「武力の行使」が9条の許容する範囲を超えたならば違憲であり、そうでなければ合憲というだけである。そのため、「集団的自衛権」を「限定的に行使すること」の意味が「限定的に」「武力の行使」を行うことであれば、「憲法の範囲内」であれば、確かに何ら批判されるものではない。しかし、論者の言う「限定的な集団的自衛権の行使」というものは、「存立危機事態」での「武力の行使」であり、これは1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に当てはまらないものであり、「憲法の範囲内」とは言えず、違憲となる。よって、「何ら批判されるものではありません。」との認識は誤りであり、「批判されるもの」である。
P20 【[国会の同意が全てに必要]】
「今回の安全保障法制は緊急の時を除いてすべてに国会の同意が必要になっています。私たちは国会で十分な審議をして自衛隊の出動などについて的確な判断をしていきます。」との記載があるが、「存立危機事態」という違憲な要件に基づいて「国会の同意」を行っても、「国会の同意」自体も違憲である。国会も憲法の枠内でしか権限を与えられておらず、「国会の同意」を行ったとしても、「存立危機事態」の要件を合憲化することはできないのである。
「決してアメリカの言いなりになったりはしません。」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」が可能であることを前提として「アメリカの言いなり」になることがあり得る状態に置き、その上で「決してアメリカの言いなりになったりはしません。」との認識であると思われるが、「存立危機事態」の要件は違憲であり、「アメリカの言いなり」になるかならないか以前に、憲法上もともと行使することはできない。
「日本としての最善の判断をします。」との記載があるが、「日本」とは「日本国憲法」によって定義される国家のことを言う。「日本としての最善の判断」であるが、これは日本国憲法の正当な手続きに従っている部分こそが「日本として」の「判断」なのであり、その日本国を定義する憲法に違反する権限や国家行為は、正当性を有する「日本として」の判断とは言えない。「日本として」の判断を行えば、日本国憲法に従って「存立危機事態」での「武力の行使」は違法(違憲)となる。
P20 【[終わりに]】
憲法の「前文」を取り上げて「まさにその条文を実践するために法の整備をしたのが今回の、平和安全法制です。」との記載があるが、憲法前文第三段の部分については、我が国が国家の独善主義を排除し、「国際協調主義」の立場に立つことを宣明したものと解されているが、これは同じく前文の「平和主義」の理念と整合的な形で読み解かなければならないものである。9条は前文の「平和主義」の理念を具体化した規定であると解されており、「今回の、平和安全法制」によって1972年(昭和47年)政府見解に適合しない「存立危機事態」での「武力の行使」の要件を定めたことは、9条の規範性を損ない、同時に前文の「平和主義」の理念も損なわれている。論者は「国際協調主義」などの部分を示し、「その条文を実践するための法整備」とするが、同じく前文の「平和主義」の理念を損なう形で「法の整備」を行うことが正当化されるわけではない。
西村康稔
〇 自由民主党 西村康稔
戦争は絶対に起こさない。その決意のもと、外交力を強化、そして、国民の生命・財産、領土を守るために、速やかな法整備が必要です。 2015.06.17
「(4)集団的自衛権の行使を憲法の範囲内で限定的に容認します」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の示す憲法の範囲内では「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を行うことができないため誤りである。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところに憲法上の限界が示されている。「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」については「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、この限界を超え違憲となるのである。「限定的に」との記載もあるが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」については、たとえ「限定的に」などと称しようともすべて違憲である。
「①日本の同盟国や友好国が攻撃を受け、それが日本の存立も脅かすような『新3要件』にあたる場合に限り、日本防衛のための自衛の措置として、必要最小限の武力の行使ができるようにします。」との記載があるが、違憲となるものである。まず、「新3要件」についてであるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に当てはまらない。これにより、憲法上の限界を超え、違憲となる。次に、「日本防衛のための自衛の措置」との記載があるが、9条は「日本防衛」であるからといって必ずしも「自衛の措置」としての「武力の行使」を許容しているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、これを満たさない中で「武力の行使」を行うことは違憲となる。「必要最小限の武力の行使」の部分であるが、「必要最小限」の意味を特定する必要がる。従来より「自衛のための必要最小限度」と呼ばれている場合の「必要最小限度」であれば、それは旧三要件に該当する「武力の行使」のことである。そのため、「新3要件」を説明しようとしている文の中で旧三要件の「武力の行使」を指すことは論理的に成り立たない。三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味の「必要最小限度」であれば、これは「武力の行使」の程度・態様を示すものであるから、「武力の行使」の発動要件を示した部分は文中の「日本防衛のため」の部分が相当すると考えられる。しかし、9条は「日本防衛のため」であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではないのであるから、違憲でない旨を示す根拠はない。「新3要件」の「存立危機事態」の要件も1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合せず違憲となるのであるから、ここでも違憲でない旨を示す論拠は存在しない。最後に、9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えている可能性があるが、9条は政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範なのであり、数量的な意味での「必要最小限度」というものが基準であると考えることは実質的に政府の行為を制約する規範として意味を為さなくなるため、法解釈として成り立たない。これらの理由により、「必要最小限の武力の行使」の部分よっても「新3要件」の「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲でない旨を示すことはできていない。「新3要件」の「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によって違憲となる。
「③この『新三要件』は憲法上の明確な歯止めであり、我が国がとり得る『武力の行使』は、自衛のためにやむを得ない必要最小限度のものだけです。」との記載があるが、誤りである。まず、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解では、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範が示されており、これを満たさない中ではたとえ要件の中に「明確な歯止め」と称する文言を加えたとしても違憲である。もし「明確な歯止め」と称するだけで9条に抵触しないこととなるのであれば、「先制攻撃」や「侵略戦争」を行っても9条に抵触しないかのように主張することとなり、法解釈として成り立たない。また、「憲法上の歯止め」とは、9条そのものである。「新三要件」が憲法上の規定であるかのような文言は適切ではない。「自衛のためにやむを得ない必要最小限度のもの」の部分であるが、「必要最小限度」の意味がどの意味なのか明らかでない。従来より「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたものであれば、旧三要件に基づく「武力の行使」のことである。三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味であれば、「武力の行使」の程度・態様のことである。ただ、「新三要件」の「存立危機事態」での「武力の行使」については、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に抵触して違憲である。
「そのため、集団的自衛権の行使に当たっても、従来どおり『一般に海外派兵はせず』、他国の領土、領海で戦闘を行うことはありません。」との記載があるが、認識に混乱が見られる。まず、従来より「海外派兵」が一般に許されないとする基準は、「自衛のための必要最小限度」を超えると考えるからである。この「自衛のための必要最小限度」は、「武力の行使」について旧三要件のすべてを満たすことを意味しており、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除(第二要件)」したならばそれ以上は「武力の行使」を行ってはならないとの基準から、「一般に海外派兵はせず」との結論が導かれるのである。そのため、「従来どおり『一般に海外派兵はせず』、他国の領土、領海で戦闘を行うことはありません。」ということは、新三要件を定めた後においても旧三要件の基準に従って判断していることとなる。「集団的自衛権の行使にあたっても、」との記載があることから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」についても、旧三要件の基準が生きていることとなり、旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たす必要があることから、これを満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことはできないこととなる。論者の説明は論理的に成り立っていないが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については、旧三要件を満たす必要があることを認めたこととなるのである。
「(5)「新三要件」に加えて国会承認などの厳しい歯止めがあります」との記載があるが、「新三要件」の「存立危機事態」については違憲であり、「国会承認」を行っても違憲な要件が合憲に変わることはない。「厳しい歯止め」との記載であるが、法律論(憲法論上)は違憲となるのであり、たとえ他の何らかの手続きに比べて「厳しい歯止め」と称する手続きが存在するとしても、違憲であることには変わりない。
「今回の平和安全法制には、厳しい歯止めをかけていますので、むやみに自衛隊を出すことはできないようにしています。」との記載があるが、何らかの他の手続きと比べて「厳しい歯止め」と称する手続きが存在したとしても、「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲であることには変わりなく、その要件に基づいて「武力の行使」を実施するために「自衛隊を出すこと」も違憲である。
「外国の軍隊への後方支援は、『国会の承認』を得なければなりませんし、武力の行使となると、『新三要件』を満たすことに加え、『国会の承認』も必要となります。」との記載があるが、「新三要件」の「存立危機事態」については違憲であり、「国会の承認」を得ても合憲化することはできない。国会も憲法の枠内でしか権限を有しておらず、違憲な要件を合憲化する権限など有していないからである。
「そして、我が国の存立と国民の命や平和な暮らしに関係のない集団的自衛権の行使の要請が、仮に米国からあったとしても、断るのは当然のことです。」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」が合憲であるとする前提で話を進めている点に誤りがある。「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は憲法上行うことができないのであり、要請があっても断ることとなる点では同じであるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができることを前提として「断るのは当然のこと」と考えている点は誤りである。9条の政府の自国都合による「武力の行使」を制約しようとする規範の下では、政府が「我が国の存立と国民の命や平和な暮らし」と関係があると判断しただけで「武力の行使」が許容されるとすることは法解釈として成り立たないのであり、「我が国の存立と国民の命や平和な暮らし」に関係があるものであろうとなかろうと、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が違憲であることが揺らぐことはない。
「そして、それと同時に、『憲法の範囲内』で、切れ目のない平和安全法制の整備を行うことにより、」との記載があるが、「憲法の範囲内」であるか否かの規範は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に示されているところであり、「存立危機事態」の要件についてはここに論理的に当てはまらず、「憲法の範囲内」とは言えず違憲となる。
「日本国憲法は、自衛のための武力行使は容認しており、また、以上の考え方は、国際紛争の解決のために戦争を行わないとしている憲法の規定には反しないものと考えています。」との記載があるが、誤りである。「日本国憲法」が許容している「武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解によれば「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、「自衛のため」と称したからといって「武力の行使」が正当化されるわけではない。「日本国憲法は、自衛のための武力行使は容認しており」との考えは、法規範を示していない点で正確なものではない。「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の規範を満たさない中での「武力の行使」であるにもかかわらず、「国際紛争の解決のために戦争を行わないとしている憲法の規定には反しないもの」と考えることは、9条解釈によって示されている限界を超えても9条に抵触しないかのように主張するものであり、違憲でない旨を論理的に説明したものとは言えない。論者の説明によれば、「自衛のため」と称すれば「先制攻撃」や「侵略戦争」でさえも「国際紛争の解決のために戦争を行わないとしている憲法の規定には反しないものと考えています。」と主張するだけで9条に抵触しないかのように説明することを可能としてしまい、法解釈として成り立たない。また、このような「自衛のため」と称すれば「武力の行使」が可能となるかのような主張は、憲法前文で「平和主義」や「国際協調主義」を採用している趣旨にも反する。
「今回の法制整備は、憲法の範囲内で、」との記載があるが、やはり論者は「憲法の範囲内」であることを論理的に示すことができておらず、結論のみを述べようとしている点で誤りである。「憲法の範囲内」か否かは1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に示されており、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」はすべて違憲である。「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」や、存立危機事態」での「武力の行使」については、これを満たさないことから「憲法の範囲内」とはいえず、違憲である。
中谷元
〇 自由民主党 中谷元
憲法9条の解釈の曖昧さを指摘 中谷元 2019年11月
「存立危機事態など(集団的自衛権行使の)新3要件も。野党はこれを憲法違反と言うが、我々が存立の危機にあるときに、助けてくれる国を守らなくてどうして守られようか。これは憲法の範囲だ。」との記載があるが、誤りである。
まず、「野党はこれを憲法違反と言うが、」との部分であるが、ここでは「与党」か「野党」かという政治論と、憲法に適合するか否かという法律論の問題は区別して論じる必要があるため注意が必要である。
「存立危機事態など(集団的自衛権行使の)新3要件」であるが、これが合憲であるから違憲であるかは9条解釈を行うことによって判定される。政府は2014年7月1日閣議決定において9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとの前提を置いている。そして、この1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在する。この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、1972年(昭和47年)政府見解の第二段落で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことが示され、その「自衛の措置の限界」として示された規範であることから、この中に「集団的自衛権の行使」を可能とする余地が生まれる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれているはずがない。そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分が維持されている限りは、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「自衛の措置」を行うことはできない。「存立危機事態など(集団的自衛権行使の)新3要件」については、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行おうとするものであり、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらない。これにより、「存立危機事態など(集団的自衛権行使の)新3要件」は9条に抵触し、違憲となる。
「我々が存立の危機にあるときに、」との部分であるが、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験するところであり、9条はそのような「武力の行使」を制約するために設けられた規定であることから、論者の言うように「我々が存立の危機にあるときに、」というだけで「武力の行使」を行うことができることにはならない。9条の下では政府の恣意的な動機によって「武力の行使」が行われる余地を排除する必要があり、論者の言う「我々が存立の危機にあるとき」とは具体的にどのような状況であるのか、その外形を政府の恣意性が入り込む余地のない規範によって描き出す必要がある。
その観点から、新3要件の「存立危機事態」の要件の「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」を確認する。
まず、9条の下で「他国に対する武力攻撃」が発生しただけで「武力の行使」を行うことは許されない。なぜならば、「他国に対する武力攻撃」が発生しても、未だ他国の間で武力紛争が発生しているだけであり、その状況下で日本国が「武力の行使」に踏み切れば、国際紛争に対して武力介入したことになり、9条1項の禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に抵触して違憲となるからである。そのため、「存立危機事態」の要件の「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」の部分を満たすだけでは、「武力の行使」を行ってはならない。また、この「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」を満たしたとしても、未だ9条の規範性を通過したことにはならないことから、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を裁量判断として行う余地も生まれていない。これにより、「存立危機事態」の要件の「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」の部分を満たすことだけを理由とする「武力の行使」は違憲である。
次に、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分であるが、先ほども述べたように9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範であることから、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」というだけで「武力の行使」を行うことができることにはならない。これにより、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分を満たすことだけを理由とする「武力の行使」も違憲である。
上記の「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」の部分と、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分を「これにより」の文言で繋いだとしても、もともとどちらの部分も9条の規範性を通過していないのであるから、これらを「これにより」の文言で繋いだところで、9条を通過する規範に変わるわけではない。
そのため、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、9条の規範性を通過していない中で「武力の行使」を行うものであることから、9条に抵触して違憲となる。
実際に「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」状況を防ぐ必要があるとしても、9条の下では政府の恣意的な動機によって「武力の行使」が行われることを排除するための規範が求められる。そのため、「武力の行使」の発動要件を設定する場合には、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という状況がどのような出来事によって引き起こされているのかを識別するための出来事の外形を描き出した具体的で明確な基準となるものが求められる。また、その出来事それ自体は我が国の意思によって作出することのできない受動的な出来事であることや、9条の規範性を通過するものであることが求められる。
「存立危機事態」の要件は「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という状況具体的にどのような出来事によって引き起こされているのかを、9条の規範性を通過する形によって描き出した規範とはなっていない。これにより、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。
「助けてくれる国を守らなくてどうして守られようか。」との記載があるが、「助けてくれる国を守」るための「武力の行使」とは、『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」である。このような『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」を実施する組織を「陸海空軍その他の戦力」と異なるものと説明することはできず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
「どうして守られようか。」の部分であるが、これは日米安全保障条約などの他国との間で締結する条約がどのような内容となっているかの問題である。また、日本国が「守られよう」とするために『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」を実施したいのであれば、それは憲法改正を行う必要がある。それを行わないで、憲法上の規範を踏み越えているにもかかわらず、「守られよう」とする意図・目的をもって「武力の行使」を実施することは、憲法違反と評価せざるを得ないものである。論者は「これは憲法の範囲だ。」と結論付けようとするが、憲法上の規範を踏み越える形で「武力の行使」を実施しているのであれば、憲法の範囲を逸脱するのであり、憲法違反である。憲法規範である9条はこのような恣意的な動機に基づいて政府が「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範であり、論者が政策論上の必要性を述べたとしても、憲法を改正しなければ正当化されることはない。
もう一つ、「我々が存立の危機にあるときに、助けてくれる国を守(らなくて)」るという文脈であるが、明確な意味を特定することは難しい文である。「我々が存立の危機にあるときに、」の意味が、「存立危機事態」を意味するのか、「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」が発生している場合を意味するのかによって、この文は下記の二つの意味を読み取ることができるのである。
①「存立危機事態」において、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」を行うことの意味。
②「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」が発生した場合(これを『我々が存立の危機にあるとき』と考えるもの)に、我が国の行う「個別的自衛権の行使」としての「武力の行使」に加えて、我が国と共に「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行って「助けてくれる国」を守るために、我が国が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことの意味。
この点、論者の発言の意図はどちらの論理であるのかを分析する必要がある。
「私がそのときに感じたのは、平和法制は憲法違反なのか、自衛隊はどの範囲まで活動できるか、国を守るにはどうするのか、これを決めるのは、裁判所ではない。国民だ。国民がどの範囲まで自衛隊を容認するかということだ。」との記載があるが、論者のこの認識によっても「平和法制は憲法違反」となる。
まず、「自衛隊はどの範囲まで活動できるか」との疑問であるが、憲法9条の範囲内までの活動ができることとなる。
次に、「国を守るにはどうするのか」との疑問であるが、これも憲法9条の範囲内でどうするのかを検討しなければならない。もし「国を守る」ために憲法上の規範を上回る活動を行いたいのであれば、憲法改正を行う必要がある。
「これを決めるのは、裁判所ではない。」との記載があるが、憲法の規範の範囲内で行われる活動については、国会で定める法律によって決めることができる。また、自衛隊の活動がその法律に違反するものでないのであれば、裁判所は何ら法的判断を行わない。しかし、憲法の規範の範囲を超えると考えられる場合には、裁判所が憲法81条の「違憲審査権」を根拠として「自衛隊はどの範囲まで活動できるか」や「国を守る」ためと称されている活動の範囲を「決める」こととなる。
憲法
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第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 (略)
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「国民だ。国民がどの範囲まで自衛隊を容認するかということだ。」との記載があるが、この文そのままの意味としてはその通りである。なぜならば、憲法は「国民」が定めた規範であり、「国民がどの範囲まで自衛隊を容認するか」という答えは、憲法規範である9条を解釈することによって決められるからである。
憲法の前文で、国民が憲法を制定していることを確認する。
憲法 前文
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日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
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憲法9条にも、「日本国民」が放棄し、不保持とし、否認した部分については「国権(国家権力)」として行使してはならないことを示している。
憲法
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第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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そのため、論者の言う「国民がどの範囲まで自衛隊を容認するかということ」とは、まさに「国民」の定めた憲法の9条を解釈することによって決せられる事柄である。政府による9条解釈によれば1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)が示されており、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の事態に対処する場合に限られる」との限界が示されている。
論者の意図はその時々の政治的多数派を形成する国民によって「どの範囲まで自衛隊を容認するか」が決められるかのような前提で論じようとしていると思われる部分がある。しかし、憲法はその時々の政治的多数派を形成する国民の意思を上回る規範として、「国民」が定めたものである。
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○泉信也君 今私がお尋ねしましたのは、いずれの国も平和を愛好するということを掲げておる中で個別的自衛権、そして集団的自衛権の行使を認めておる、そういう実態が今日の世界の国々の考え方ではないかと思うわけです。
そこで、もう一つお尋ねいたしますが、集団的自衛権の行使は許されないというふうにお話がございましたけれども、この主体は何が許さないんでしょうか。
○政府特別補佐人(秋山收君) これは正に憲法が禁じているところでございまして、それは憲法を制定した国民の意思であろうと考えます。
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第156回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成15年3月14日
「野党は平和安全法制は憲法違反と言っているので。」との記載があるが、「与党」か「野党」かは法律論上は関係がないことを押さえる必要がある。「平和安全法制」の「存立危機事態」での「武力の行使」については、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠を超えており、9条に抵触して違憲となる。
「国の責務は国民の命、領土、主権を守ることで、この根拠として自衛隊がある。だが、法律がなければ自衛隊も動けない。」との記載があるが、「国の責務」は憲法の範囲内で法律を制定し、その法律を執行することによって政策目的を実現することである。「国の責務は国民の命、領土、主権を守ることで、」との部分であるが、それは憲法の範囲内で国民がどのような政策を実現することを国家権力に託すかによって法律を立法することによって定められるものであり、法律に記載されていない場合に「国の責務」として「国民の命、領土、主権を守ること」という目的が根拠なく生まれるわけではないことを押さえる必要がある。「法律がなければ自衛隊も動けない。」の部分であるが、現在「自衛隊法」は制定されている。ただ、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠を超える「存立危機事態」での「武力の行使」については違憲であり、「自衛隊」はこれに基づいて動いてはならない。「法律」があっても、憲法に違反する場合はその法律自体が無効であり、「自衛隊」は動いてはならないのである。
「やはりきちんと手続きをとって、国民のみんなが納得して、理解して、共感して、初めて自衛隊は機能する。この手続きが今の憲法ではされてないというところが一番の問題ではないか。」との記載があるが、切り分けて検討する。
まず、「やはりきちんと手続きをとって、」の部分であるが、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠を超える「存立危機事態」での「武力の行使」については、9条に抵触して違憲であり、「きちんと手続きをとって」定められたものではない。憲法に違反する「法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。(98条1項)」ため、「存立危機事態」での「武力の行使」を実施する組織として「自衛隊は機能」してはならない。
「国民のみんなが納得して、理解して、共感して、」の部分であるが、憲法を定めたのは「国民」であり、憲法に違反するということは「国民のみんなが納得して、理解して、共感して、」いるとは言えない。
「やはりきちんと手続きをとって、国民のみんなが納得して、理解して、共感して、初めて自衛隊は機能する。」の部分であるが、「自衛隊」は「国民」が定めた憲法の範囲内であることによって「初めて」「機能する」こととなるのである。
「この手続きが今の憲法ではされてない」との部分であるが、「今の憲法」の下では「存立危機事態」での「武力の行使」を定めようとした「手続き」は違憲である。また、「存立危機事態」での「武力の行使」を行うことも違憲であるし、それを実施する組織も違憲である。ただ、憲法に違反しない部分の「自衛隊」の活動については、65条の「行政権」に基づく活動であり、「今の憲法」で正当化することができる。
【動画】オープン講座・ライブラリー 第46回まなびとスコラ(2019.11.28) 2019/12/05 (56:34)
「自衛隊ができた後もですね、えー、そのー、裁判で判決がありまして、まあ判決は、固有の自衛権を何ら否定していない、必要な措置は取り得るということで、ずーっと来ております。はい、そろそろまとめにかかりますが、4年前に私は防衛大臣でですね、この憲法を基に自衛隊の活動をきちんとできるようにですね、法案を作りました。というのはミサイルの時代ですから、日本を守ってくれる米軍、これを助けなかったら、日本の国がやられてしまいます。しかもアメリカは日米安保を破棄するでしょう。従ってそういう事態に限って、存立危機に関してはに関しては米軍を守ることは憲法で許されますという法案を出したんですね。」との発言があるが、誤りがある。
まず、砂川判決の内容であるが、確かに砂川判決は「同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、」と示した部分があり、9条が「自衛権」という概念を否定したものではないとしている。しかし、「自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、国際法上この『権利』の適用を受ける地位を有するとしても、これを根拠として日本国の統治権の『権力・権限・権能』が発生するわけではない。日本国の統治権の『権限』は国民主権による国民からの「厳粛な信託(前文)」の過程を経ることによって発生するのである。そのため、日本国が国際法上「自衛権」の適用を受ける地位を有していたとしても、これを根拠として日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を発動できることにはならない。
次に、砂川判決が「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」と述べている部分であるが、砂川判決が「自衛のための措置」の例として具体的に取り上げているものは「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。砂川判決は日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を発動できるか否かについては、何も述べておらず、砂川判決を根拠として日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を発動できることにはならない。
論者はこの発言の前に「自衛隊」の合憲・違憲の話を持ち出している部分があるが、砂川判決は米軍の駐留が憲法9条に抵触するか否かを問われた事例であり、「自衛隊」とは直接的な関係がない。また、この発言の後に日本国の統治権の『権限』が「存立危機事態」での「武力の行使」を発動する場合について話をするが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行うことができるかについては何も述べていないため、これも直接的な関係がない。論者がこの場面で砂川判決の「自衛のための措置をとりうる」の文言を取り上げることは、それによって「自衛隊」を保持することや「武力の行使」を発動することがあたかも最高裁判所によるお墨付きを得ているものであるかのように装おうとしているように見受けられるが、最高裁の砂川判決は「自衛隊」も「武力の行使」も射程に入れた判断を行っておらず、それらを根拠づけることはできない。
【参考】砂川判決が自衛隊を合憲と判断した…が明らかに嘘と言える理由 2019.02.11
【参考】砂川判決が集団的自衛権を合憲と判示した…が嘘と言える理由 2019.02.14
論者の「日本を守ってくれる米軍、これを助けなかったら、日本の国がやられてしまいます。」や「従ってそういう事態に限って、存立危機に関してはに関しては米軍を守ることは憲法で許されますという法案を出した」との部分であるが、「米軍」を助けるための「武力の行使」や「米軍を守る」ための「武力の行使」は『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」であり、これを実施する組織が「陸海空軍その他の戦力」とは異なるものと説明することはできず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲である。
(54:11)からの吉田茂の答弁の話であるが、下記で詳しく検討する必要がある。
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1946年(昭和21年)
6月26日 衆議院本会議 吉田総理発言
「戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したものであります」
第90回帝国議会 本会議 昭和21年6月26日(第6号)
7月4日 衆議院帝国憲法改正案委員会 吉田首相
「此の間の私の言葉が足りなかつたのか知れませぬが、私の言はんと欲しました所は、自衛権に依る交戦権の抛棄と云ふことを強調すると云ふよりも、自衛権に依る戦争、又侵略に依る交戦権、此の二つに分ける区別其のことが有害無益なりと私は言つた積りで居ります」
第90回帝国議会 委員会 昭和21年7月4日(第5号)
以前の答弁についてこれが「いわゆる自衛戦争の否定の趣旨」と解される補足答弁を行う。(リンク P34)
国務大臣(吉田茂君)「戦争放棄の趣意に徹することは、決して自衛権を放棄するということを意味するものではないのであります。」
第7回国会 衆議院 本会議 第11号 昭和25年1月23日
国務大臣(吉田茂君)「戰争放棄の趣旨に徹することは自衛権の放棄を意味しておるのではないのであります。」
第7回国会 参議院 本会議 第9号 昭和25年1月23日
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これにより、吉田茂が答弁したものは、9条が否定したのは「自衛戦争」と「交戦権」であり、国際法上の『権利』の区分である「自衛権」ではないことについてであると考えられる。
【参考】憲法9条の戦争放棄を吉田茂首相はどう帝国議会に説明したのか 2018.09.21
実際、従来より政府も9条は「自衛戦争」と「交戦権」を否定しているとする趣旨の答弁を行っており、これと重なっている。
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○政府委員(高辻正巳君) 私は非常にそこを区別して申し上げたので、おわかりにくいかと思うのでありますが、自衛のための交戦権というものをもしお考えくださるなら、つまり限界のある交戦権というふうにお考えくださるなら、それを交戦権と申して一向にかまいません。私は、その本質が違うものは、中身の違うものは、自衛行動権というような名前で唱えるべきものであって、その憲法の禁止している交戦権とは違うというふうに思っておるものですから、そう申し上げたわけですが、自衛権からくる制約のある交戦権だというふうにお考えいただいても、それはけっこうでございます。
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第61回国会 参議院 予算委員会 第3号 昭和44年2月21日
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○政府委員(大森政輔君) そこが個別的自衛権に基づく自衛行動と、それから自衛戦争の違いでございまして、先ほど私が申し上げましたのは、個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います。
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第145回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成11年3月8日
また、砂川判決も9条は「自衛権」を否定したものでないとしているし、従来より政府答弁も日本国は「自衛権」の適用を受ける地位を有していると説明しており、吉田茂の答弁と一致している。
9条の下での可否
○ 「自衛権」 (国際法上の『権利』」
○ 「自衛行動権」 (日本国の統治権の『権限』)
× 「交戦権」 (日本国の統治権の『権限』〔政府解釈は国際法上の『権利』としている場合がある〕)
× 「自衛戦争」 (日本国の統治権の『権限』によるもの)
× 「侵略戦争」 (日本国の統治権の『権限』によるもの)
これにより、吉田茂の答弁から2014年7月1日閣議決定までの間に、政府の9条解釈では実質的な解釈変更はなされていないと考えられる。
これについては、論者と同じ政党の「礒崎陽輔」も認めている。
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礒崎 憲法制定議会では、吉田茂総理は、自衛権は当然有するのだが、戦力を持たないので、行使できないと答弁していたのです。ところが昭和29年に自衛隊が発足する。こういうこともあったのでして、憲法制定当時からは大分話が変わってきています。
長谷部 その点も、戦争はできない、戦力は持てないというのは、今の政府でも立場は変わっていないはずだと考えています。
礒崎 それは変わっていないです。
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切れ目ない安保法制の整備めざす政権(上) 2015年06月10日
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○政府特別補佐人(津野修君) 集団的自衛権あるいは個別的自衛権についての政府解釈が一貫しておったかどうかというお尋ねでございますけれども、これは制憲議会当時あるいは日米安保改定当時、あるいは最近までを含めてでございますけれども、基本的に個別的自衛権については、憲法第九条第一項が国際紛争を解決する手段としての戦争、あるいは武力による威嚇、武力の行使を禁じているけれども、我が国が主権国として持つ固有の自衛権までも否定する趣旨のものではなくて、自衛のための必要最小限度の実力を行使することは認められているところであるというふうに、従来から一貫して政府としてこの見解をとってきているわけであります。
御指摘の点は、吉田元総理がかつて制憲議会当時あるいはその後におきまして、多少表現ぶりとしていろんなことをおっしゃっておられる文がございますけれども、ただこの場合も、これは昭和二十六年の十月十八日に吉田元総理が明言されておりますのは、いろいろ私が当時言ったということを記憶しているのは、しばしば自衛権の名前でもって戦争が行われたということは言ったけれども、自衛権を否定した、否認したというような非常識なことはないというふうに思いますということで、これは吉田元総理の場合も自衛権は否定していないということでございまして、そういうことから見まして個別的自衛権につきましては一貫して政府として憲法上否定されていない、認められているというふうに考えているところでございます。
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第151回国会 参議院 外交防衛委員会 第4号 平成13年3月22日
【参考】第65回国会 衆議院 内閣委員会 第20号 昭和46年5月7日
【動画】5月18日 緊急記者会見!今国会で見送りか? 各党幹部に聞く、#揺れる検察庁法改正案 2020/5/18
(16:14~)
「二つ目はあの、平和安全法制。これあの、担当大臣だったんですけれども、あの、衆参二百時間以上の議論の中で、じゃああの、自衛権というものはどこまで使えるんだと、いうことで、結局、限定的な集団的自衛権の範囲でということで、フルな自衛権、集団的自衛権じゃなかったんですね。で、その中でやっぱり与野党こう、激突はしましたけど、お互いに大体この辺の程度ならということが、割と分かってきましたので、最後はあの、強行採決というか、混乱したんですけれども、今落ち着いていますね。ですから、そのような形で誠心誠意議論をすれば、結果は出るんですけれども、……」との発言があるが、誤りがある。
まず、国際法上「限定的な集団的自衛権」という概念は存在しない。また、「限定的」と称すれば9条の下で「武力の行使」が許容されるわけでもないため、「限定的な集団的自衛権」と称しても9条の下で「武力の行使」が正当化される理由にはならない。
「最後はあの、強行採決というか、混乱したんですけれども、今落ち着いていますね。」との記載があるが、政治的に落ち着いているか否かにかかわらず、法学的には「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。
「そのような形で誠心誠意議論をすれば、結果は出るんですけれども、」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」については9条に抵触して違憲であり、「結果」というものがあたかも合憲となったかのような意図で発言している場合には誤りである。
【動画】講師:佐瀬昌盛 防衛大学校名誉教授/テーマ:「日米安保改定」【第14回まなびと夜間塾】 2020.10.9
(30:01)
「今日、佐瀬先生にお伺いしたかったのは、集団的自衛権なんです。五年前に平和安全法制で、ようやく、あの、憲法で、存立危機事態に限定して、集団的自衛権を認めると。その前は、全く憲法で、集団的自衛権を行使できませんというのが政府見解だったんですけれども、これも、あの、この、戦後の歴史の中で、この解釈の変更というのが行われてきたんですけども、この辺、ちょっとあの建設的にですね、どういういきさつがあったのか、先生お話しいただければありがたいと思います。」との発言があるが、誤りが含まれている。
「戦後の歴史の中で、この解釈の変更というのが行われてきたんですけども、」との部分であるが、2014年7月1日閣議決定までの「戦後の歴史の中」で、「集団的自衛権」に関わる「解釈の変更」は行われていない。下記の答弁で、「従来から一貫して政府としてこの見解をとってきている」と述べられている通りである。
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○政府特別補佐人(津野修君) 集団的自衛権あるいは個別的自衛権についての政府解釈が一貫しておったかどうかというお尋ねでございますけれども、これは制憲議会当時あるいは日米安保改定当時、あるいは最近までを含めてでございますけれども、基本的に個別的自衛権については、憲法第九条第一項が国際紛争を解決する手段としての戦争、あるいは武力による威嚇、武力の行使を禁じているけれども、我が国が主権国として持つ固有の自衛権までも否定する趣旨のものではなくて、自衛のための必要最小限度の実力を行使することは認められているところであるというふうに、従来から一貫して政府としてこの見解をとってきているわけであります。
(略)
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第151回国会 参議院 外交防衛委員会 第4号 平成13年3月22日
そのため、論者が「集団的自衛権」に関わる形で「戦後の歴史の中で、この解釈の変更というのが行われてきた」と述べているのであれば、誤りである。
(31:54)
「個別的自衛権」と「集団的自衛権」について、「当時は、ないって言ってたんですね。」との発言があるが、誤りである。当時から「自衛権」は否定されておらず、そのようなことは言っていない。
○国務大臣(吉田茂君)「戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したものであります」
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○政府特別補佐人(津野修君)
(略)
御指摘の点は、吉田元総理がかつて制憲議会当時あるいはその後におきまして、多少表現ぶりとしていろんなことをおっしゃっておられる文がございますけれども、ただこの場合も、これは昭和二十六年の十月十八日に吉田元総理が明言されておりますのは、いろいろ私が当時言ったということを記憶しているのは、しばしば自衛権の名前でもって戦争が行われたということは言ったけれども、自衛権を否定した、否認したというような非常識なことはないというふうに思いますということで、これは吉田元総理の場合も自衛権は否定していないということでございまして、そういうことから見まして個別的自衛権につきましては一貫して政府として憲法上否定されていない、認められているというふうに考えているところでございます。
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第151回国会 参議院 外交防衛委員会 第4号 平成13年3月22日
(34:28)
「そこで先生あの、昭和35年の岸内閣の時に、安保改定、の時に岸総理は、いや、日本は集団的自衛権はあるんだと、一部、行使できると言ったのにもかかわらずですね、昭和47年にはですね、もう一切行使できませんと、なっちゃってんですが、どういうわけなんでしょうね。」との発言があるが、恐らく下記の答弁のことを指していると思われる。
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○政府委員(林修三君) これはいろいろの内容として考えられるわけでございますが、たとえば現在の安保条約におきまして、米国に対して施設区域を提供いたしております。あるいは米国と他の国、米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対してあるいは経済的な援助を与えるというようなこと、こういうことを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、こういうものを私は日本の憲法は否定しておるものとは考えません。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○国務大臣(岸信介君) 日本の自衛、いわゆる他から侵略された場合にこれを排除する、憲法において持っている自衛権ということ、及びその自衛の裏づけに必要な実力を持つという憲法九条の関係は、これは日本の個別的自衛権について言うていると思います。しかし、集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えております。しかしながら、その問題になる他国に行って日本が防衛するということは、これは持てない。しかし、他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうものはもちろん日本として持っている、こう思っております。
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第34回国会 参議院 予算委員会 第23号 昭和35年3月31日
しかし、ここでも述べているように、「米国に対して施設区域を提供」や「他国に基地を貸して、」の場合、「米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対してあるいは経済的な援助を与えるというようなこと」を「集団的自衛権」と呼ぶのであれば、「そういうものはもちろん日本として持っている」と言っているだけである。
これは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対して国連憲章51条の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の概念を行使する形で、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われる場合のことを意味するものではない。
また、上記の「林修三内閣法制局長官」の答弁は、下記の平成16年の答弁で意味が補正されている。
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○秋山政府特別補佐人 昭和三十五年の参議院予算委員会におきまして、法制局長官が、例えば日米安保条約に基づく米国に対する施設・区域の提供、あるいは侵略を受けた他国に対する経済的援助の実施といったような武力の行使に当たらない行為について、こういうものを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、そういうものは私は日本の憲法の否定するものとは考えませんという趣旨の答弁をしたことがございます。
この答弁は、当時の状況において、集団的自衛権という言葉の意味につきまして、これは御承知のように国連憲章において初めて登場した言葉でございまして、その言葉に多様な理解の仕方が当時は見られたことを前提といたしまして、御指摘のような行為につきまして、そういうものを集団的自衛権という言葉で理解すれば、そういうものを私は日本の憲法は否定しているとは考えませんと述べたにとどまるものと考えております。
現在では、集団的自衛権とは実力の行使に係る概念であるという考え方が一般に定着しているものと承知しております。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日
そのため、論者の「一部、行使できると言った」との部分は、「米国に対して施設区域を提供」や「他国に基地を貸して、」の場合、「米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対してあるいは経済的な援助を与えるというようなこと」を「集団的自衛権」と呼ぶのであれば、それは憲法上可能であると述べているだけであり、日本国の統治権の『権力・権限・権能』による「武力の行使」を伴う形で「集団的自衛権の行使」を行うことができると述べているものではない。
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○政府委員(工藤敦夫君) 若干補足させていただきますと、先ほど私、集団的自衛権の定義を申し上げましたように、集団的自衛権と申しますのはいわば実力の行使に係る概念でございまして、そういう意味で経済的な問題というのとはおのずからその範囲を異にしているかと。そして、いわゆる集団的自衛権の議論のときに、経済的問題というところまで私どもは範囲を広げているわけではございません。
それからなお、双務的というふうな御指摘ございましたけれども、これは例えば昭和五十五年に答弁しているところでございますが、いわゆる集団的自衛権は我が憲法において認めていないと解釈しております。御指摘の双務的なものにするという意味が集団的自衛権の行使という意味でございましたら、そういうことは憲法九条に反する、かようにお答えした例もございます。
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第123回国会 参議院 国際平和協力等に関する特別委員会 第11号 平成4年5月22日
「昭和47年にはですね、もう一切行使できませんと、なっちゃってんですが、どういうわけなんでしょうね。」との部分であるが、1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とする規範を設定しており、日本国の統治権の『権限』による「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については、これを満たさないことを理由として許されないとするものである。
そのため、論者の言う「昭和35年の岸内閣の時に、安保改定、の時に岸総理は、いや、日本は集団的自衛権はあるんだと、一部、行使できると言った」の部分は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を伴う措置であるか否かで全く性質が異なっている。
「どういうわけなんでしょうね。」との発言があるが、こういうわけである。
(47:59)
「集団的自衛権はというのは、あの、自然的的権利なんですね、あの、人が生まれて、持って生まれた人が持つべき権利でありますので、いずれの国もですね、自然権的権利、いわゆる正当防衛、これは認められるわけでありますので、集団的自衛権はすべての国が持っている、なのに使えないのはおかしいわけでありますので、あの、やはり同盟関係や、守るということは、一人ではできないんで、やっぱりみんなで守っていこうというのも、小さい国のですね、知恵でありますので、これ、国際法で認められていますので、あの、お話があった同盟であるなら対等であるべきだと、地位協定も、日本も、米側にですね、しっかりと要求をしてですね、まあ、そういうようになるようにと、今日頂いたご意見で素晴らしかったです。」との発言があるが、認識に混乱がある。
論者の述べているのは、国連憲章51条に「固有の権利」と記載されていることから、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を国家の「自然権」と解しようとする説である。ただ、国際法上、国家は国家承認を受けることによって初めて成立する。この国家承認を受けることによって国際法上の法主体として認められた国家に「自然権」として「集団的自衛権」という『権利』を行使する地位が与えられたとしても、これを理由としてその国家の統治権の中に『権力・権限・権能』が発生するわけではない。そのため、国際法上「自然権」として「集団的自衛権」という『権利』を主張する地位を与えられたとしても、それをもって日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行うことができることにはならない。
そのため、論者の「集団的自衛権はすべての国が持っている、なのに使えないのはおかしいわけでありますので、」との発言であるが、日本国も国際法上では「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しており、国際法上で「集団的自衛権」を主張することはできるが、憲法上で日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制限される結果として「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができない(行う機会がない)ことは当然にあり得ることであり、何もおかしくない。論者が「なにの使えないのはおかしい」と発言している部分は、国際法上では日本国も「集団的自衛権の行使」が制限されているわけではないことから、国際法上は「使える」のであるが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制限される結果として「集団的自衛権の行使」を使えない(使う機会がない)との結論に至ることを切り分けて理解できていないための混乱である。
これについて、詳しくは当サイト「9条解釈の用語」でも解説している。
【動画】講師:宮家邦彦 キヤノングローバル戦略研究所研究主幹/テーマ:「朝鮮半島情勢の変化」【第18回まなびと夜間塾】 2020.11.26 (2:17)
論者は「宮家邦彦」の国会での発言を的確であると述べているが、当サイト「集団的自衛権の合憲性の誤解2」で解説しているように、法的に正当化できる論拠となっておらず、的確なものとはなっていない。
また、論者は安保法制について「無事ですね、この法案の成立になったということでございます。」と述べているが、「存立危機事態」での「武力の行使」については9条に抵触して違憲であり、「無事」というものがあたかも合憲になったかのように述べているのであれば誤りである。
【動画】講師:番匠幸一郎 元陸上自衛隊西部方面総監/テーマ:「日本の国際貢献」【第19回まなびと夜間塾】 2020.12.4
(1:09:35)
「やはりその、憲法の関係で見ますと、あのー、武力行使をしてはいけないと、いうことは明確になっていますけれども、それ以上のことは書いてないんですね。ですから、自衛権の話も、集団的自衛権、個別的自衛権がありますけれども、まああの、政府は必要最小限度の自衛の措置と、まあいうことで、必要最小限って何だろうか、ということを基準にやってまいりました。」との発言があるが、誤りがある。
「憲法の関係で見ますと、あのー、武力行使をしてはいけないと、いうことは明確になっていますけれども、」との部分であるが、確かに9条1項では「武力の行使」を制約している。ただ、自衛隊と憲法の関係は、9条2項前段が禁じている「陸海空軍その他の戦力」に抵触するか否かの論点が重要である。この点、「それ以上のことは書いてないんですね。」との発言は誤りである。
「政府は必要最小限度の自衛の措置と、まあいうことで、必要最小限って何だろうか、ということを基準にやってまいりました。」との部分であるが、前提認識が正確でなく、誤りがある。
9条の下で行使できる範囲は、三要件(旧)の基準の範囲の「武力の行使」や、それを実施するための実力組織、その自衛行動のための『権限』だけである。そして、この三要件(旧)の基準の範囲のことを「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」と呼んでいる。
「自衛のための必要最小限度」という場合、それは三要件(旧)の基準を指しているのであり、論者のように「何だろうか」などと疑問が生じることはない。
論者の「必要最小限って何だろうか、ということを基準にやってまいりました。」と述べている部分は、9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものが基準となっているかのような前提認識に基づいて説明しており、誤りである。9条の制約の下では三要件(旧)の範囲内という枠は存在するが、数量的な意味での「必要最小限度」という枠が存在するわけでなはい(数量的な意味となると限度が明らかでないため枠づけられおらず、『枠』とも言えない)。
もう一つ、「必要最小限度の自衛の措置」との表現は、法学的には正確でない。下記を押さえる必要がある。
◇ 「自衛のための必要最小限度」とは、「『武力の行使』の三要件(旧)」(自衛権発動の三要件〔旧〕)の基準のことを指している。
◇ 「自衛の措置」とは、砂川判決で示されたような「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を含む概念であり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」のことだけを指しているわけではない。
そのため、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を持ち出すのであれば、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を対象とするものであるから、「自衛の措置」という表現を用いるべきではない。
逆に、「自衛の措置」の文言を使うのであれば、「自衛の措置」の選択肢の一つである日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲だけを指す意味である「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を持ち出すべきではない。
論者が、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」のことを、敢えて「自衛の措置」という表現を用いようとしていることは、「自衛」であれば9条の制約の下でも許されるのではないかとの期待があるものと考えられる。しかし、法学的には正確な表現ではないし、9条の下では「自衛」や『自国防衛』であるからと言って必ずしも「武力の行使」が許容されているわけではないことを押さえる必要がある。
「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を示す用語を用いる場合には、「武力の行使」と表現しなければ正確とは言えない。
「自衛権の話も、集団的自衛権、個別的自衛権がありますけれども、」の部分については、国際法上の法主体である国家が国連憲章に加盟した場合に適用を受けることができる地位についての話である。
これは、法的には憲法9条の制約対象とは直接的な関係がない。憲法9条の制約の下で行使できる「武力の行使」の範囲を考える際に、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念を持ち出すことは法的には直接的な関係がないし、議論を混乱させるために注意が必要である。この点を切り分けて正確に論じることが必要である。
【動画】敵の射程圏外から撃てるミサイル開発を閣議決定
一方で"敵基地攻撃能力"保有の判断は先送り?議論が進まない憲法改正の行方は?元防衛大臣と考える 2020年12月21日放送
(18:21)
「で、今、敵基地攻撃とかいろいろありますが、憲法に書いているのはですね、武力行使をしてはいけないということだけなんですよ。で、その中身はというと国会で議論してですね、必要最小限度の自衛の措置、これは憲法で認められるということになっていますけど、この必要最小限度って何でしょうかというのが非常に幅があってですね、分かりにくくて、おっしゃるように憲法改正で、日本はどこまでできるかということきちんと国民に提示して、きちんと自衛隊が行動できるようにですね、すべきだと思います。」との発言がある。
また、この発言は文章の記事として下記のようにまとめられている。
「現状では必要最小限度での自衛の措置は憲法で認められるということになっているが、この“必要最小限度”には幅があり、非常に分かりにくい。」
“敵基地攻撃能力”への懸念に中谷元防衛大臣「“撃たせないようにする”抑止力を持たせるのが適切ではないか」 憲法改正、対中政策との関係は… 2020.12.22
“敵基地攻撃能力”への懸念に中谷元防衛大臣「“撃たせないようにする”抑止力を持たせるのが適切ではないか」 憲法改正、対中政策との関係は… 2020年12月23日
“敵基地攻撃能力”への懸念に中谷元防衛大臣「“撃たせないようにする”抑止力を持たせるのが適切ではないか」 憲法改正、対中政策との関係は… 2020/12/22
しかし、論者の主張には誤った前提認識がある。
まず、論者の言う「必要最小限度」であるが、従来より政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいるのは三要件(旧)の基準のことである。そのため、論者が「必要最小限度」と表現し、「自衛のための必要最小限度」という基準を用いている以上は、三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」のことを指している。
そのため、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」を行うことはできない。
論者は「この必要最小限度って何でしょうかというのが非常に幅があってですね、分かりにくくて、」と発言しているが、「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)を意味しており、分かりにくくないし、論者の言うような「幅」もない。
論者が誤っている部分は、9条の下に「自衛のための必要最小限度」という枠が存在しているかのような前提認識を持っていることである。しかし、9条の下には三要件(旧)の基準の枠は存在するが、三要件(旧)の基準を離れて「自衛のための必要最小限度」という枠が独立して存在しているわけではない。
なぜならば、もし9条の下に「自衛のための必要最小限度」という枠が存在するのであれば、「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」についても「自衛のための必要最小限度」の中に含まれると主張することが可能となってしまい、9条解釈として妥当でないからである。
9条は「自国民の利益」の実現や、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規定であり、単に政府が数量的な意味で「必要最小限度」と考えたことを理由して「武力の行使」が可能となるとすると、9条の趣旨を満たさず、9条解釈として成り立たないのである。
また、政府答弁でも下記のように述べており、「自衛のための必要最小限度」と呼んでいるものは数量的な概念ではないとしている。
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お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)
そのため、三要件(旧)の範囲のことを「自衛のための必要最小限度」と呼んでいるのであり、「自衛のための必要最小限度」という枠が存在し、その中に三要件(旧)の基準を当てはめているという性質のものではない。
論者が「この必要最小限度って何でしょうかというのが非常に幅があってですね、分かりにくくて、」との発言についても、「自衛のための必要最小限度」と呼んでいるものは三要件(旧)のことであり、「幅があって」などという数量的な概念であるかのような認識は誤りである。
もう一つ、「必要最小限度の自衛の措置」との表現は妥当でない。
まず、「自衛のための必要最小限度」とは「武力の行使」の三要件(旧)の基準のことを指している。
次に、「自衛の措置」とは、「武力の行使」のことだけを指しているのではなく、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」や「他国に安全保障を求めること」を含む広い概念である。
そのため、「自衛のための必要最小限度」という「武力の行使」の三要件(旧)の基準を示している段階では、意味の幅が広い「自衛の措置」という概念を用いるのではなく、より範囲の絞られた「武力の行使」の概念を用いることが妥当である。
論者の中には、「武力の行使」よりも「自衛の措置」という表現の方が印象が穏やかに感じられることや、「自衛の措置」であるならば9条の下でも許されるのではないかとの期待があるものと思われる。
しかし、1972年(昭和47年)政府見解が「しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、」と述べている通り、憲法の下では「自衛の措置」であるからと言って無制限に認められるわけではない。そのため、「自衛の措置」と表現したからといって憲法違反とならないわけでもないことを押さえる必要がある。
田村重信
〇 自由民主党 田村重信
【第1節 憲法と自衛権に関する一般常識チェック】
□政府の見解を取り上げて「したがって、自衛のためには、『必要最小限度の武力を行使することは認められている」ということになります。」との記載があるが、正確には誤りである。
まず、政府の見解は「自衛のための必要最小限度の武力を行使することは認められている」と記載されており、従来より政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいるものは三要件(旧)のことである。論者は「自衛のためには、『必要最小限度の…」と記載しているが、「自衛のための必要最小限度」で抜き出すことが正確である。また、この「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)を意味し、この第一要件には「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」との要件があることから、数量的な概念ではない。
□「サンフランシスコ講和条約 第5条」と「国連憲章 第51条」を取り上げて
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この事実を踏まえると、日本は独立国で固有の自衛権を持っている、つまり自分の国を守るという権利はあるのだという理路に行き着きます。
だから、自分の国を守るための必要最小限度の実力組織を持つことは憲法に何ら反してはいない、その組織が自衛隊です、というのが先の政府解釈です。
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との記載があるが、確かにその政府解釈の文面からはそのような誤解を生じさせるものとなっているが、理論的には論者の認識は誤りである。
まず、「自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、国家承認を受けて国際法上の法主体として認められているのであれば、この『権利』の適用を受ける地位を有することとなる。日本国も独立国として認められていることから「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有している。
しかし、国際法上で「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行うことができるか否かや、実力組織を保持できるか否かには因果関係かなく、別問題である。なぜならば、日本国の統治権の『権限』は国民主権原理を採用する以上は国民からの「厳粛な信託(前文)」によって発生し、正当化されるのであり、国際法を根拠として発生するわけではないからである。また、「自衛権」は『権利』の概念であり、その適用を受ける地位を有する国家に対して統治権の『権力・権限・権能』を付与する意味を持たない。そのため、「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有することを根拠に、「だから、自分の国を守るための必要最小限度の実力組織を持つことは憲法に何ら反してはいない」のように憲法上で正当化される国家の統治権の『権限』によって実力組織の保持を正当化できるかのように論じることは誤りである。
また、論者のような論理に基づけば、日本国は国際法上では「集団的自衛権」の適用を受ける地位も有していることから、これを根拠に「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」までも憲法上当然に許容されるかのように論じることが可能となってしまうのであり、論理的に成り立たない。論者のような論理に基づけば、国際法上「先制攻撃(先に攻撃)」や「侵略戦争」が可能となった場合、憲法9条の下にありながらも「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」までも合憲であるかのように論じることが可能となるのであり、法解釈として成り立たない。
「自分の国を守るための必要最小限度の実力組織」との記載があるが、従来より政府は「自衛のための必要最小限度」あるいは「我が国を防衛するため必要最小限度」の文言を用いているため、用語の表現を独自に変更すると混乱を招くため好ましくない。
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つまり、自衛隊は我が国を防衛するための「必要最小限度」の実力組織であるから、憲法に違反しないというロジックなのですね。ただし、必要最小限度という範囲を超えると、憲法第9条第2項で禁止する戦力になってしまいます。
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との記載があるが、「必要最小限度」の文言のみを抜き出しているが、政府は「我が国を防衛するため必要最小限度」と表現しているため、このように抜き出すべきである。また、「我が国を防衛するため必要最小限度」とは「自衛のための必要最小限度」と同じ意味であり、三要件(旧)を意味する。政府は従来より、この三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」を実施するための実力組織の保持は、9条2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触しないと説明している。この「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」という三要件(旧)の範囲を超えると、9条2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
この「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」とは三要件(旧)を意味することから、数量的な概念ではない。そのため、数量的な意味で「必要最小限度」と考えたならば全て合憲となるかのような認識であれば誤りである。
□「でも、決して詭弁などではない。いうなれば、「必要最小限度」という言葉によって、時の政府はいわく言い難い『生の現実』を何とか表現しようとしたのではないでしょうか。」との記載があるが、「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」は三要件(旧)を意味していることを押さえるべきである。
□「Q6 日本は集団的自衛権を保有している → はい」の部分について、「日本はこの集団的自衛権を保有しています。」との記載があるが、この意味を詳しく明らかにする必要がある。「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念である。また、これは国家承認を受けて国際法上の法主体となっている国連加盟国に対して適用を受ける地位を与えるものであり、これを根拠にして加盟国の国家の統治権に対して『権力・権限・権能』を発生させる意味を持っていない。そのため、国際法上で日本国が「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているとしても、日本国が憲法上で正当化される統治権の『権限』によって「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができるか否かは全く別問題である。
□「日本はこの種の条約を多くの国々と結んでいますから、国際法上、日本は集団的自衛権を保有していると見なすのが妥当でしょう。」との記載があるが、そのままの意味としてはその通りである。日本国は国際法上においては「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているのである。ただ、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができるか否かは別問題である。
□「昭和47年の政府見解において、憲法の前文及び第13条も前提に、『必要最小限度の範囲』の自衛のための措置は認められるとしましたが、集団的自衛権の行使はこの『必要最小限度の範囲』に入らず、憲法上許されないとしていました。」との記載があるが、誤りである。
まず、1972年(昭和47年)政府見解で用いられた「必要最少(小)限度」の文言は、「自衛の措置」を発動した場合の程度・態様を意味する。これは「武力の行使」の三要件で言えば第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味である。そのため、論者が先ほどから表現している「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」という三要件(旧)そのものを意味する「必要最小限度」とは意味が異なる。そのため、論じの理解に基づく「『必要最小限度の範囲』の自衛のための措置は認められるとしました」との認識は誤りである。
また、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言があり、これは「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを示す中において用いられた文言であることから、ここに「集団的自衛権の行使」を可能とする余地が生まれる「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれておらず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのことから、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範の下では、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を正当化する余地はない。
【回答1 憲法を解釈するのは行政府】
□「閣議決定は、我が国を取り巻く安全保障環境の大きな変化を踏まえ、「昭和47年の政府見解」(「第一章第一節」参照)の基本的な論理の枠内で導いた合理的な当てはめの帰結です。」との記載があるが、誤りである。
2014年7月1日閣議決定は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとの前提を置いているが、この「基本的な論理」と称している部分に記載された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、ここに「他国に対する武力攻撃」の意味も含まれると不正に意味を読み替えて「存立危機事態」の要件を定めようとするものとなっている。これは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範の中に「存立危機事態」の要件は当てはまらないのであり、これを「基本的な論理の枠内で導いた」との認識は誤りである。
また、論者は「合理的な当てはめの帰結です。」と結論を述べているが、法解釈は結論を述べるだけで論理的な過程を無視して正当化できるわけではない。もし結論を述べるだけで正当化できるのであれば、「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」を行う要件を定めたとしても、「合理的な当てはめの帰結です。」と表現するだけで正当化できてしまうのであり、法解釈として成り立たない。
□「解釈の再整理という意味で一部変更ではありますが、憲法解釈としての論理的整合性、法的安定性を維持しています。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言があり、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は含まれない。そのため、「基本的な論理」と称している部分の中に「存立危機事態」の要件が当てはまるとする主張は論理的に成り立たず、「論理的整合性、法的安定性」は維持されていない。「維持しています。」との主張は誤りである。法の支配、立憲主義、法治主義を採用している限りは、法解釈の過程の論理的整合性を追求しなくてはならないのであり、「論理的整合性、法的安定性を維持しています。」と主張するだけで「論理的整合性、法的安定性」が維持されるかのような認識は誤りである。
□「合理的な解釈の限界を超えるいわゆる『解釈改憲』ではありません。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれないことから、これが含まれることを前提として「存立危機事態」の要件を定めようとしていることは「合理的な解釈を超えるいわゆる『解釈改憲』」に当たる。「『解釈改憲』ではありません。」との認識は誤りである。
□「集団的自衛権の検討に当たっては、現行憲法の下で認められる自衛権の行使は、必要最小限度の範囲内にとどまるという従来の基本的立場を変えるものではなく、自衛権発動の新三要件は憲法上の明確な歯止めとなっています。」との記載があるが、誤りである。
まず、「必要最小限度」とは従来より政府が「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」と呼んでいるものであるが、これは三要件(旧)を意味している。そのためこの三要件(旧)の下では第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」があることから、これを満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は行うことができない。そのため、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行おうとしているにもかかわらず、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内であるかのような主張は論理的に意味が通じていない。
次に、「自衛権発動の新三要件は憲法上の明確な歯止めとなっています。」との部分であるが、「憲法上の明確な歯止め」とは9条そのものである。そして、9条という憲法上の歯止めの意味を明らかにした1972年(昭和47年)政府見解の中に「新三要件」の「存立危機事態」の要件は当てはまらないことから、「新三要件」の「存立危機事態」の要件は憲法9条に抵触しないことを示す歯止めともなっていない。論者の「新三要件は憲法上の明確な歯止めとなっています。」との認識は誤りである。
□「これまで述べてきた通り、今回の安保法制の整備は、従来の憲法解釈の基本的考え方を変えるものではなく、立憲主義に反するものでもありません。」との記載があるが、誤りである。「存立危機事態」の要件は憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に論理的に当てはまらないため、これを当てはまると主張することは法の支配、立憲主義、法治主義に反するものである。
□「平和国家の原則と法的安定性は全く揺らいでいません。」との記載があるが、誤りである。
まず、「平和主義」の理念は前文に記載されているが、この理念を具体化した規定が9条である。その9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらないことから、これを定めることは9条に抵触することとなり、9条の規定の趣旨が具体化されていないこととなる。すると、前文の「平和主義」の理念も同時に損なわれることを意味し、「平和国家の原則」は損なわれている。このような論理的整合性が保たれていない中で「存立危機事態」の要件を定めることは「法的安定性」も損なわれている。「平和国家の原則と法的安定性は全く揺らいでいません。」との認識は誤りである。
【回答2 最高裁が唯一憲法第9条を解釈した「砂川判決」】
□「平和安全法制は、憲法のもとで、国民の生命と我が国の平和を守るために必要な法律を整備したもので、決して憲法違反だとか立憲主義の逸脱ということはありません。」との記載があるが、誤りである。
「平和安保法制」の「存立危機事態」の要件は憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないことから、9条に抵触して違憲である。
「国民の生命と我が国の平和を守るために必要な法律を整備したもの」との記載であるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定であり、「国民の生命と我が国の平和を守るため」という目的であるからといって、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。そのため、論者は「憲法のもとで、」や「決して憲法違反だとか立憲主義の逸脱ということはありません。」との認識であるが、そもそも9条の下では「国民の生命と我が国の平和を守るため」を目的とするからといって必ずしも「武力の行使」が許されるわけではないのであるから、「国民の生命と我が国の平和を守るため」を理由とすれば憲法違反にならないと考えている部分に誤りがある。
「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、「憲法違反」であり「立憲主義の逸脱」である。
□「最高裁は日本が主権国家である以上、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために自衛権の行使ができるとしたのです。最高裁の言う自衛権に個別的自衛権か集団的自衛権かの区別はありません。」との記載があるが、誤った認識である。
まず、砂川判決は9条は「自衛権」という概念を否定したものではないと述べているが、「自衛権」の適用を受ける地位を有しているとしても、日本国の統治権の『権限』によって「自衛の措置」としての「武力の行使」を行うことができるか否は別問題である。
また、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有していても、憲法上において日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を発動できるか否かは別問題であるから、「最高裁の言う自衛権に個別的自衛権か集団的自衛権かの区別」がないことを理由に「個別的自衛権の行使」や「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができるとする理由にはならない。
□「複雑化する世界情勢のなかで、他国が攻撃された場合でも日本の存立を根底から覆すような場合があります。そのような場合、集団的自衛権を行使することはなんら憲法に反するものではないのです。」との記載があるが、誤りである。
まず、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲であり、「集団的自衛権の行使」についてはこれを満たさない中で「武力の行使」を行おうとするものであるから違憲である。「なんら憲法に反するものではないのです。」との認識は誤りである。
また、「他国が攻撃された場合でも」の部分について、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」を行う組織の実態は9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲である。
さらに、「日本の存立を根底から覆すような場合」についてであるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定であり、「日本の存立を根底から覆すような場合」を理由とするからといってそれだけで「武力の行使」を許容しているわけではない。また「他国が攻撃された場合でも」の部分についてであるが、「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、それだけでは9条の規範性を通過していないのであり、その下で「武力の行使」を行うことが政策判断として許されるわけでもなし、「他国に対する武力攻撃」が発生したことを理由として9条の規範性が緩められるわけでもない。
そのため、「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を行うことは9条に抵触して違憲であるし、「日本の存立を根底から覆すような場合」を理由とするだけで「武力の行使」を行うことも違憲である。
□「自衛隊は一般的には海外での武力行使を禁止されており、無法な戦争に駆り立てられることはないのです。」との記載があるが、論者の理解に混乱がある。自衛隊の海外派兵が一般に許されないとされているのは、海外派兵が一般に「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超えるからである。論者が「自衛隊は一般的には海外での武力行使を禁止されており、」との認識を有しているということは、新三要件を定めた後においても旧三要件に基づいて海外派兵(海外での武力行使)を禁じていることを意味する。
長島昭久
〇 長島昭久
「集団的自衛権の行使を容認した政府解釈の変更」再考 2016年04月24日
(「集団的自衛権の行使を容認した政府解釈の変更」再考 2017年04月22日)
(「集団的自衛権の行使を容認した政府解釈の変更」再考 2016年04月22日)
(「集団的自衛権の行使を容認した政府解釈の変更」再考 2016年04月22日)
「したがって、従来の政府の定義(最終的に昭和56年に確立)も『他衛』としての集団的自衛権でした。
」との記載があるが、前提認識に誤りがある。まず、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国連憲章51条に記載された違法性阻却事由としての『権利』である。これは国家承認を得ることで国際法上の法主体として認められた国家が国連に加盟した場合に、その加盟国に与えられる地位である。この概念は、国連加盟国が「武力の行使」を発動した場合に、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって国際法上の違法性を問われるところを、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の区分に該当した場合にはその違法性を阻却することができるとするものである。
そのため、この「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という概念は、国際法上の区分でしかないので、日本国の統治権の『権限』が行うことのできる「武力の行使」の範囲を決する基準とは関係がない。
論者は、「従来の政府の定義」が『他衛』であるとしているが、政府が『他国防衛』と定義したか否かにかかわらず、「集団的自衛権」の定義を行うのは国際司法裁判所の管轄事項である。日本国政府や日本国の裁判所に「集団的自衛権」という国際法上の『権利』の概念を定義する『権限』は存在しないのである。
「典型的な政府による集団的自衛権の定義です。」との記載もあるが、国際法上「集団的自衛権」の区分に該当すれば、「集団的自衛権」でしかなく、「典型的な」ものとそうでないものがあるかのような認識は誤りである。
その後「この定義からは、」と「集団的自衛権」の意味を読み解こうとするが、「集団的自衛権」という『権利』の概念の意味を読み解こうとしたところで、国際法上の『権利』でしかなく、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否の基準とは関係がない。「集団的自衛権」という概念がいかなるものであるかという議論は脇において考える必要がある。
議論の対象となっているのは、国際法上の『権利』の意味ではなく、日本国の統治権の『権限』の範囲であり、9条が日本国の統治権を制約する中で「武力の行使」がどこまで許容されているかである。
「集団的自衛権をそのような概念で捉えて、そのような自衛権の行使は我が国の憲法上認められるものではないと結論付けたのです。
」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解が「集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」としているのは、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としていることから付随的に現れる結論である。「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」が全て違憲であることから、これを「集団的自衛権の行使」に基づく「武力の行使」は違憲となるり、許されないとしているのである。これは、論者の言うように「集団的自衛権」という『権利』の意味がどういう概念であるかという問題ではない。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲が決せられる結果により、国際法上の『権利』を行使する場合の区分で表現した場合には「個別的自衛権の行使」となるが、「集団的自衛権の行使」には該当しないとするものである。
論者の間違いは、日本国の統治権の『権限』の中に「集団的自衛権」という名前の『権限』が存在すると考えていることである。「集団的自衛権」は国際法上の『権利』であり、日本国の統治権の『権力・権限・権能』の中には存在しないのである。
「すなわち、そのような集団的自衛権の定義を前提とすれば、」との記載があるが、「集団的自衛権」の概念がどのような定義に基づいていたとしても、9条の下で行使できる日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲は変わらない。
「これが、『昭和47年見解』で示された政府の『いわゆる集団的自衛権』を違憲とした基本的論理なのです。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範を定めたものであり、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」を満たさない中での「自衛の措置」を全て違憲とするものである。この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られる。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解は冒頭で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」としており、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言はこの「自衛の措置」の限界の規範を説明する中で用いられた文言であり、「集団的自衛権の行使」を可能とする「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるはずがないからである。そのため、論者の取り上げる「いわゆる集団的自衛権」の行使としての「武力の行使」が違憲となるとする結論は、この「自衛の措置」の限界の規範が「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言を有しており、この文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることにより、この「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を行うとしても、この規範に拘束されることによる付随的な結論である。論者のように「基本的な論理」と称している部分が直接的に「集団的自衛権」という概念を違憲としているわけではないのである。
「改めて集団的自衛権の概念(定義)を見直してみたところ、」との記載があるが、「集団的自衛権」という概念の定義にかかわらず、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している。そのため、「見直し」を行っても9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している範囲は変わらない。
「武力行使の新三要件に基づく限りで」「合憲と判断し得るのではないか」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「新三要件」の「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は当てはまらない。そのため、「基本的な論理」と称している部分から「存立危機事態」の要件を導き出すことはできないのであり、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を逸脱し、9条に抵触して違憲となる。
「閣議決定を通じて政府解釈をアップデート(修正)した、ということだと思うのです。 」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定は論理的整合性なく「存立危機事態」の要件を許容しようとしているものであり、「アップデート(修正)」ではなく、単なる不正であり、手続きの適正を損なった違法がある。
「したがって、私は、一昨年7月の閣議決定をもって昭和47年見解の基本的論理を維持しているとの政府の説明も十分成り立つのではないかと考えるのです。」との記載があるが、「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれないため、政府が2014年7月1日閣議決定において1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持していると説明することは全く成り立たない。
「すなわち、『外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置』としてならば、そのような自衛の措置は、たとえ我が国に直接武力攻撃が加えられない(つまり、当該武力攻撃に対する反撃行為は個別的自衛権では説明し切れない)ような場合であったとしても、憲法上『容認されるものである』とされたのです。」との記載があるが、ここで示されている「外国の武力攻撃」とは、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、「我が国に直接武力攻撃が加えられない」ような場合に「自衛の措置」を発動することはできず、「武力の行使」を行うことも許容されることはない。これは日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲の問題であることから、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」のどちらの区分に当てはまるかという問題とは関係がない。また、9条が日本国の統治権を制約する趣旨は、たとえ国連憲章が廃止されたとしても効力を有するのであり、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の区分と連動する性質を有していない。
「換言すれば、この『47年見解』で違憲と断定された『いわゆる集団的自衛権』とは、」と、「集団的自衛権」の性質を説明しようとしているが、国際法上の『権利』と日本国の統治権の『権限』の範囲については直接的な関係がなく、連動するかのように論じている部分が誤りである。
「問題は、政治部門が、法規範論理(憲法規範の枠内に収まる論理)に基づいて、過去に積み重ねられた解釈と整合性のある解釈変更の根拠を示せるか否かということです。それをはみ出すようであれば、憲法を改正するしかないことは論を待ちません。」との記載があるが、まったくその通りである。「過去に積み重ねられた解釈」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これが「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれると主張して「存立危機事態」の要件を定めようとしていることは、「整合性のある解釈変更の根拠」を示したものではなく、解釈手続き上の不正である。そのため論者が言うように「それをはみ出す」ものであり、「憲法を改正するしかない」ものと言えるのである。論者の言う「法規範論理(憲法規範の枠内に収まる論理)」に基づけば、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となるのである。
「自分たちの気に入らない政府解釈の変更を捉えて『立憲主義の蹂躙だ』と叫ぶのは、法規範論理というより感情論といわざるを得ません。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定が、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」も含まれると主張して「存立危機事態」の要件を定めようとしていることは、解釈手続き上の不正・違法がある。そのため「自分たちの気に入らない政府解釈の変更を捉えて『立憲主義の蹂躙だ』」と叫んでいる者がいるか否かは存じないが、2014年7月1日閣議決定の内容は、法の支配・立憲主義・法治主義の精神、「法律による行政の原理」の趣旨、「法律誌留保の原則」の趣旨、31条の「適正手続きの保障」の趣旨、「デュー・プロセス・オブ・ロー」の趣旨に反するものということができる。2014年7月1日閣議決定の内容は、論者の言う「法規範論理」を満たしていないのである。
「しかし、この点でも、繰り返しになりますが、憲法が要請する法規範論理に基づいて検証、立論していただかねば、議論は最後まで噛み合いません。」との記載があるが、論者の言う「憲法が要請する法規範論理」に基づいた「検証、立論」は、先ほど示した通りである。これにより、論者が2014年7月1日閣議決定やそこで定められた「存立危機事態」の要件を9条の枠内であるとする主張には誤りがあり、「存立危機事態」での「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の枠を外れ、9条に抵触して違憲である。
長島昭久 Twitter
1972年(昭和47年)政府見解が示した「自衛の措置」の限界を示した規範は、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」との表現である。
これは、「自衛の措置」は「外国の武力攻撃」(我が国に対する武力攻撃)によって「急迫、不正の事態」が発生したときに、「やむを得ない措置として初めて容認される」ものであり、それはその「事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきもの」に限られるとする意味である。
これは、「武力の行使」の旧三要件に対応する規範である。
━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━ ← 三要件(旧)の全てを指す意味
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと ← 「武力の行使」の程度・態様の意味
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1972年(昭和47年)政府見解の中で用いられている「必要最少限度」の文言は、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものであり、三要件(旧)の全てを指す意味での「自衛のための必要最小限度」という基準とは異なる。
また、「自衛のための必要最小限度」という基準も、三要件(旧)に基づく基準であり、9条に抵触しないことを示す基準が数量的な意味での「必要最小限度」という文言となっているわけではない。そのため、「我が国を取り巻く安全保障環境や軍事技術の進展など状況の変化」があったとしても、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たすか否かという基準は変わらないのであり、数量的な意味で「必要最小限度」と考えたならば、「武力の行使」が可能となるかのような認識は誤りである。
ただ、「武力の行使」の程度・態様を意味する第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」については、「我が国を取り巻く安全保障環境や軍事技術の進展など状況の変化」があった際に変化しうることは確かである。
「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除する(第二要件)」ために必要な措置の内容や、それに応じた実力組織の規模、装備に関しては、「その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面があり、毎年度の予算などの審議を通じて国民の代表者である国会において判断されます。(政府解釈)」とされている。
しかし、その「武力の行使」の発動要件については、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、「我が国を取り巻く安全保障環境や軍事技術の進展など状況の変化」があっても変わらない規範である。
なぜならば、9条は「自国民の利益」の実現や、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が恣意的な判断によって自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であり、その9条解釈として示された1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を記した規範は、政府の恣意性を排除することのできる基準が設定されていると解することが妥当であり、その「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、政府の都合によっては作出できない受動性や・客観性を有していなければならず、ここに「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると解した場合、「自衛の措置」の限界の規範のその他の部分にこれを満たす基準を見出さなければならないが、その他の部分には「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとする趣旨を満たす基準となるものは存在しないのであり、結局1972年(昭和47年)政府見解そのものが9条解釈として成り立たないものとなってしまうからである。
もしこの「あくまで外国の武力攻撃によって」の中に、「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれていると解釈しようとした場合、「我が国と関係のない他国同士の武力攻撃」もこの中に含まれることになってしまう。すると、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の内容が、結局「国民の生命、自由及び幸福追求の権利」という国民の権利利益を実現するために政府の政治的な都合による恣意的な「武力の行使」が行われることを排除できないものとなってしまう。これは、9条の規定が政府の恣意的な都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範として意味を為さなくなり、9条の規定が存在している意味を失わせ、9条解釈として成り立たなくなるのである。そのため、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の中に、「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれていると解することは妥当でない。
よって、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)」の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす必要がある。
しかし、「存立危機事態」の要件は、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」に起因する「武力の行使」であり、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の中に当てはまらない。これにより、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に適合せず、9条に抵触して違憲である。
論者が「ナイフを持つのは必要最小限度か」という話をしているが、それは、第三要件の『武力の行使』の程度・態様の意味の「必要最小限度」ではなく、『戦力』についての「必要最小限度」の話である。
◇ 『戦力』の必要最小限度とは
「マシンガン」「地雷」「ダイナマイト」「戦車」「軍艦」「戦闘機」「核ミサイル」 …
◇ 『武力の行使』の必要最小限度とは
「ナイフ」で1回攻撃 10回攻撃 20回攻撃 30回攻撃 …
「戦車」で1発攻撃 10発攻撃 20発攻撃 30発攻撃 …
「核ミサイル」で田舎を攻撃 都市を攻撃 国土殲滅 地球破壊 …
『戦力』の必要最小限度と、『武力の行使』の必要最小限度では性質が異なる。これを区別していない論者は誤った認識を有している。下記<参考>の「(1)保持できる自衛力」と「(2)憲法第9条のもとで許容される自衛の措置」は別である。ここで使われている「必要最小限度」の概念も、それぞれ対象とするものが違う。
<参考> 憲法と自衛隊 防衛省・自衛隊
また、『武力の行使』の必要最小限度については、それ以前に、その『武力の行使』を発動するかどうかという別の基準が存在する。『武力の行使』の程度以前に、『武力の行使』をするか、しないかの問題である。その「武力の行使の発動基準」こそが、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によって」との文言である。この意味は「『我が国に対する』外国の武力攻撃」である。
国会議事録でも確認する。
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○秋山政府特別補佐人
(略)
それから、御質問の後段の、憲法解釈において政府が示している、必要最小限度を超えるか超えないかというのは、いわば数量的な概念なので、それを超えるものであっても、我が国の防衛のために必要な場合にはそれを行使することというのも解釈の余地があり得るのではないかという御質問でございますが、憲法九条は、戦争、武力の行使などを放棄し、戦力の不保持及び交戦権の否認を定めていますが、政府は、同条は我が国が主権国として持つ自国防衛の権利までも否定する趣旨のものではなく、自衛のための必要最小限度の実力を保有し行使することは認めていると考えておるわけでございます。
その上で、憲法九条のもとで許される自衛のための必要最小限度の実力の行使につきまして、いわゆる三要件を申しております。我が国に対する武力攻撃が発生したこと、この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきことというふうに申し上げているわけでございます。
お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字・色は筆者)
(http://konishi-hiroyuki.jp/wp-content/uploads/2014/05/5-20140421182051996.pdf)
(http://w2.konishi-hiroyuki.jp/wp-content/uploads/2014/05/5-20140421182051996.pdf)
論者は、この「自衛のための必要最小限度を超えるものという説明をしている局面」で使われている「必要最小限度」の文言に惑わされており、その実質は「第一要件(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)を満たしていないという趣旨」であることを理解していないと思われる。そのため、1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味しており、「存立危機事態」の要件が必要最小限度であるために1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に当てはまると考えることは誤りとなる。
━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━ ← 三要件(旧)の全てを指す意味
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと ← 「武力の行使」の程度・態様の意味
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<参考> Twitter
防衛白書の「専守防衛」の定義も参考となる。
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1 専守防衛
専守防衛とは、相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢をいう。
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3 基本政策 1 専守防衛 平成30年版
防衛白書 (下線・太字は筆者)
「必要最小限度」の用語とは、「相手から武力攻撃を受け」ていないにもかかわらず、必要最小限度であるならば『武力の行使』が許されるとするものとは違うのである。
ここで言う『ルール』とは、9条解釈の「武力行使全面放棄説」「武力行使一般放棄説」「芦田修正説」であると思われる。現在の政府見解は「武力行使一般放棄説」を採用しており、この見解は確立しているとのことである。その後、この「武力行使一般放棄説」という『ルール』の中に、「存立危機事態」の要件を『当てはめ』ることができるかどうかについて述べていると思われるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに示された『ルール』の中に、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は当てはまらない。そのため、設定された『ルール』の枠を外れ、9条に抵触して違憲となるのである。
「状況の変化によってはルールもあてはめも変わり得る」というのは、『ルール』である「武力行使全面放棄説」「武力行使一般放棄説」「芦田修正説」が変わり得る可能性を持っていることと、『当てはめ』である『戦力』に抵触しない「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の規模や装備についてや、「武力の行使」の程度・態様である三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべき」として行われる措置の内容がが変わり得ることである。
しかし、この1972年(昭和47年)政府見解という『ルール』は確立しており、この中の「自衛の措置」の発動要件を決している「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言もその『ルール』によって示された規範である。
論者はこの違いを区別できていないと思われる。
緒方林太郎
集団的自衛権の合憲性 2017-10-28
集団的自衛権の合憲性 2017年10月29日
「重要なのは『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態』なのであれば、それは当然、自衛権行使になるはずです。」との記載があるが、誤りである。
まず、ここで述べられている「自衛権行使」とは、国際法上の『権利』の概念を行使するという言葉であり、この『権利行使』が行われる状態とは実質的に国家の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われていることになるものである。
しかし、9条は「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」であるからといって、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。なぜならば、「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として「武力の行使」が行われたことは歴史上幾度も経験するところであり、9条はそのような政府の行為を禁じるために設けられた規定だからである。そのため、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態
」があろうとも、それを認定するだけで他国に向かって「武力の行使」を行うことが許されるわけではない。そのような「武力の行使」は、我が国の独善主義によるものであり、憲法の国際協調主義の精神にも反することとなる。
論者は、「これを否定する人は居ないと思います。」と考えているようであるが、憲法9条はまさにこのような「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを禁じる趣旨の規定であるため、9条はこれを否定するものである。
論者の中には、恐らく「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」が発生したことの原因が、ある特定国の攻撃によって引き起こされている問題であるとの前提認識が存在しているように思われる。しかし、その特定国の武力攻撃は、「我が国に対する武力攻撃」ではなく「他国に対する武力攻撃」であり、未だ「我が国に対する武力攻撃」は発生していないものである。9条が日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」を制約している趣旨は、政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを禁ずることにあるから、ある特定国が他国に対して武力攻撃を行ったとしても、この9条が「武力の行使」を制約する規範が変化するわけではない。
そのため、「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」したとしても、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規範が変化するわけではない。それは、「これにより」とその影響が発生したとしても、だからといって9条が政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範が変化するわけではない。たとえ、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」状況が発生したとしても、「他国に対する武力攻撃」があったことを理由として政府が自国都合によって「武力の行使」を行う余地が生まれることはないのである。それは、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを禁じている規定だからである。
9条解釈として示された1972年(昭和47年)政府見解は、政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとする9条の趣旨を生かした解釈であり、この趣旨から「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすか否かに規範を設定したものである。
「存立危機事態」での「武力の行使」については、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の規範である「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中で「武力の行使」を行おうとするものであるから、違憲である。1972年(昭和47年)政府見解の規範の下では、たとえ「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」が発生したとしても、それだけで他国に向かって「武力の行使」を行うことを正当化することができるわけではない。
「なので、法文上は合憲です。」との記載もあるが、誤りである。
前文の「平和主義」の理念や9条の趣旨は、「自国の存立」や「国民の権利」の危険などを理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを禁じる趣旨の規定であり、たとえ「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という状況であったとしても、必ずしも他国に向かって「武力の行使」を行うことを許容しているものではないからである。
また、9条の下で極めて例外的に「武力の行使」を行うことができる場合を見出そうとしても、その「武力の行使」を発動する場合の要件は、政府の恣意性を排除することのできる受動性・客観性を有する明確な規範を設けることが求められる。
「武力の行使」の発動要件として「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を設定することは、外国の行為を基準としており、我が国政府が意図して作出することができない点で受動性を有しており、内容もある出来事があったかなかったかを明確に判別できるものとなっていることから客観性も有していると考えることができる。その意味で、政府の恣意性を排除することのできる受動的・客観的に明確な要件を設定したものと考えることができ、9条が政府の自国都合によって「武力の行使」が行われることを制約しようとする趣旨を満たしており、9条の規範性を損なっておらず、9条に抵触しないと見る余地がある。
しかし、「存立危機事態」の要件については、「他国に対する武力攻撃」の影響が我が国に及んでいるか否かを政府の主観的な判断によって認定するものであり、さらに「自国の存立」や「国民の権利」の危険を政府が主観的に総合判断するとするものである。これは結局、「他国に対する武力攻撃」が発生した時点で、自国の政治的な都合や「自国民の利益」の実現などを勘案して政府が自国都合によって恣意的に「武力の行使」に踏み切ることが可能となるものであり、9条の趣旨に反するものである。そのため、「存立危機事態」の要件は「法文上」、9条に抵触して違憲となる。
「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由に「武力の行使」に踏み切って良いかどうかを考える際、国際法上の「個別的自衛権」の要件を考えると分かりやすい。
たとえ「自国の存立」や「国民の権利」の危険が発生したからといって、「自国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行った場合、国際法上「先制攻撃」となり違法となる。国際法上では「集団的自衛権」の区分が存在していることは別として、「個別的自衛権」においては「自国の存立」や「国民の権利」の危険のみをもって「武力の行使」を発動することが許されることはないのである。
このことは、9条の規範においても同様に考えることができる。たとえ「自国の存立」や「国民の権利」の危険があろうとも、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となる。たとえその「武力の行使」が国際法上の「集団的自衛権」の区分に該当し、国際法上の違法性が阻却されるとしても、9条解釈における結論は異ならないのである。
9条1項の下でももともと国際法上の「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」を行う余地があるのではないか考える者もいるかもしれないが、「他国に対する武力攻撃」に起因する「武力の行使」を行う組織は、『他国防衛』を行う組織であり、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。なぜならば、9条1項と2項の制約の下でかろうじて許容される「武力の行使」とそれを行使する実力組織は、13条の「国民の権利」を保障する目的での国内行政の範囲にとどまる必要があり、『他国防衛』を行う「武力の行使」や実力組織は、9条1項、2項に抵触するからである。
「法文上」違憲となる論点には、「存立危機事態」の規定が曖昧不明確であることも挙げることができる。
「存立危機事態」の曖昧不明確な要件
① 「我が国と密接な関係にある他国」との要件であるが、どの国を指しているのか分からず、政府が裁量判断するものであるため曖昧である。
② 「これにより」との説明であるが、具体的に相当因果関係が認められるかどうかについて政府が裁量判断するものであり、曖昧である。
③ 「我が国の存立が脅かされ」とは、一体どのような状態を指しているのか分からないため、曖昧である。
④ 「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される」とは、一体どのような状態を指しているのか分からないため、曖昧である。
⑤ 「明白な危険がある」との言葉であるが、「危険」とは、害悪発生の可能性を意味するものであり、「明白」との文言を加えても、結局「明白な可能性」でしかないものである。可能性が明白とは、結局条文を適用する者がどう感じるかに委ねたものであり、客観的な基準となるものは存在しないために曖昧である。
これら「存立危機事態」の曖昧不明確な要件は、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなるために違憲となると考えられる。「法文上」違憲である。
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さて上記のうち①に言う、「我が国の存立が脅かされ」と「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される」とは、 国家安全保障局が作成した「自衛権などに関する政府見解の想定問答集」によると、「国家と国民は表裏一体のものであり、我が国の存立が脅かされるということの実質を、国民に着目して記述したもの(加重要件ではない)
」とされている。そうすると結局①は、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされる明白な危険がある場合」ということになり、生身の国民を離れた抽象的、観念的な概念となる。そこで思い出されたい。日米同盟は、わが国の安全保障の機軸、わが国の存立の基盤と安倍政権は説明しているではないか。そこで、米国が、戦争を開始したら、わが国もともに戦わないことは日米同盟を危殆に陥しいれ、わが国の存立を脅かすことになる。従って、当然に、わが国も「武力行使3要件」に基づき参戦を余儀なくされることにある。勿論、地理的限界はないし、他国領域(領海)を除外する理屈を見出すことはできない。
そもそも「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」というのは、一義的明確性を欠き、政府の判断を限定することはできないし、また政府が特定秘密保護法施行により安全保障に関する重要な情報を独占する法体制の下で、誰からも検証・批判を受けないことになる。
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「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定」を読み解く 深草徹 (下線は筆者)
論者の「①『我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し』た時に、そういう事態が起きるか」についてであるが、相当因果関係や切り離すことのできない結合関係が認められないため、「武力の行使」を正当化する理由とはならないと考えられる。何らかの因果関係が存在したとしても、9条は政府が恣意的な理由によって「武力の行使」に踏み切ることを制約しているのであり、「他国に対する武力攻撃」が発生したからといって、9条の制約する規範性が緩められ「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として「武力の行使」に踏み切るとすることができるようになるわけではない。前文で「平和主義」を採用し、その理念を具体化した9条の規定によって「武力の行使」を制約している憲法によって設置された日本国政府は、日頃から「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、それによる影響を受けない形で国家を運営する義務を有するのであり、日本国政府が不作為によってあえて「自国の存立」や「国民の権利」が危険に陥る事態となるような脆弱性のある状態をつくり出し、意図的に「存立危機事態」の要件に該当させることで、「武力の行使」に踏み切ることができるとすることができてしまうような要件を定めることは、9条の趣旨に反するというべきものである。
論者の「②『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態』は何処まで広がるのか」についてであるが、この部分は、9条が政府の恣意的な都合によって「武力の行使」が行われることを制約しようとした趣旨を満たす基準となるものを有しておらず、9条に抵触するか否かという限界をどこに見出すかという基準そのものをその時々の政府の裁量判断に任せるものとなっている。9条の下では、政府の恣意性の入る余地のない規範を設定し、「武力の行使」が発動されることを明確に限界づけることが求められるが、その基準を損ない、実質的に政府の裁量判断に委ねることとなっていること自体が、9条の趣旨に抵触して違憲となる。
「何処まで広がるのか」との記載であるが、「何処まで広がるのか」分からないということ自体が、政府の恣意的な動機によって「武力の行使」が行われることを制約する9条の趣旨に抵触して違憲となるのである。
「例えば、日本海で米軍と何処かの国が海戦をやっていて、戦況が不利となり、どう見てもあと数時間したら防衛線が破られそうだ、という状況です。さすがにそういう事態であれば、自衛権発動でしょう。」との記載があるが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で行われる「武力の行使」については、結局「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」となるのであり、『他国防衛』のために「武力の行使」を行うものである。「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」を行う組織や、『他国防衛』のために「武力の行使」を行う組織は、9条2項前段の禁ずる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
また、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を発動するということは、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「先に攻撃(先制攻撃)」を行うものであり、9条1項の禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」や、9条2項後段の禁じる「交戦権」に抵触して違憲である。また、9条1項や2項後段の「交戦権」に抵触する行為を行う組織についても2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
「そこが拡大していくのであれば運用上違憲となる可能性が高いです」との説明があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」を定めた規定は、「法文上」違憲である。また、これにより「運用上」も違憲である。
「集団的自衛権の扱いについては、法文上、これを違憲というのは相当に難しいと思います。」との記載であるが、上記の理由により、「法文上」違憲ということができる。
【参考】第五章 集団的自衛権行使の新三要件
──歯止め無き無限定の武力行使 PDF
上原広
〇 上原広
必要最小限の集団的自衛権における「あてはめ」の法的意味 上原広(衆議院議員政策担当秘書)
【参考】議員秘書 上原広
『本閣議決定は、昭和47年の政府見解*4(「47政府見解」という)に基づき、その「あてはめ」から必要最小限の集団的自衛権の行使を容認しているに過ぎない。』との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「集団的自衛権の行使」(存立危機事態での武力の行使)の要件はあてはまることはない。
2ページ目の冒頭、国際法上の『権利』として「自衛権」を放棄していない点についてはそうであるが、これは国家の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲を確定する9条解釈とは直接関係がない。また、その後の「自衛力」の範囲が「必要最小限度のものでなければならない」との話に移っているが、「自衛の措置(武力の行使)」と「自衛力の限度」とは別の論点であり、ここで「自衛権」の「必要最小限度性」と話しを重ねようとしている点は誤りである。
国連憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」という国連憲章2条4項の「武力不行使の原則(武力行使禁止原則)」に対する違法性阻却事由としての『権利』を有していることと、日本国の憲法上で正当化される統治権の『権限』によって「武力の行使」ができるかどうかは別問題である。この点に留保の論点は関係なく、留意する必要はない。
「集団的自衛権の行使はできないと主張されている。」との記載があるが、9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の範囲を超えた場合は、たとえ国際法上の「個別的自衛権」にあたる区分の「武力の行使」も行うことができない。「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の範囲を明らかに超えているために、行使できないのである。
高度に政治的な問題として「統治行為論」に持ち込もうとしている論旨があるが、論点は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件が「あてはまる」か「あてはまらない」かの一点である。これは高度に政治的な問題というものではなく、法論理が通じているかどうかの問題である。
内閣法制長官が『昭和四十七年の政府見解の基本論理と整合」*8する 』と答弁していても、論理的に整合することはなく、それも誤りである。
1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合するかしないかという「適正手続き」の論点は、「極めて明白に違憲無効である」と認めることのできる論点である。これは解釈の「適正手続き」の論点であり、条文解釈において統治行為論が持ち出される論点とは別問題である。
「必要最小限度以上の集団的自衛権の行使するためには、」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の中に国際法上の「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行う要件は入り様がなく、新三要件を修正しても無理である。「フルセット」かどうかは関係なく、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらない「武力の行使」がすべて不可能である以上、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」はすべて無理である。
1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合しない「武力の行使」はすべて違憲となるのであるから、「必要最小限度という制約を内在する」などという考え方が入る余地はない。この論者の話している「集団的自衛権」にあたる「存立危機事態」での「武力の行使」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分にあてはまらない。
舟槻格致
〇 読売新聞調査研究本部主任研究員 舟槻格致
[憲法70年・中] 9条を縛る「法解釈の美学」 舟槻格致 2017/04/24
【1ページ目】
「法律の最大のポイントが、『集団的自衛権の行使を、限定的に認める』という点だった。」との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権」という概念に「限定的な」などという区分は存在しないため、誤った認識である。「集団的自衛権」に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかないからである。
「なぜなら、『必要最小限度というが、それでは自衛隊は具体的には何ができ、何ができないのか?』という疑問がなお、未解決だったからだ。」との記載があるが、従来から「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる「必要最小限度」の意味は、「武力の行使」の三要件(旧)を満たすことを意味であり、「何ができ、何ができないのか?」という疑問は解決している。「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」については、この三要件(旧)の第一要件を満たさないという意味で「必要最小限を超えてしまう」ため違憲となるのである。
「そこで、政府は『個別的自衛権なら必要最小限度のものがあるが、集団的自衛権となると、もはや必要最小限度とはいえない』とした。」との記載があるが、誤りである。憲法上許容される「武力の行使」は三要件(旧)によって制約されており、その三要件を満たす「武力の行使」のことを「自衛のための必要最小限度」と呼んでいた。その三要件の中で行う「武力の行使」を国際法上の違法性阻却事由の区分を用いて表現すれば、「個別的自衛権の行使」に該当するというだけのものである。そのため、国際法上の違法性阻却事由の区分を用いて「個別的自衛権」ならば「必要最小限度」であり、「集団的自衛権」はそうでないというような基準で判断していたわけではない。
「自国か他国かという、外形的に見分けやすい基準を『必要最小限度』といえるかどうかのリトマス試験紙の一つとした。」との記載があるが、誤りである。9条は自国都合によって政府が恣意的に「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた基準であるから、たとえ『自国防衛』と称するからといって「武力の行使」を許容しているわけではないのである。また、ここで出てくる「必要最小限度」の意味は、「自衛のための必要最小限度」の意味であり、三要件(旧)を満たすか否かの基準である。つまり、この三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否かが、最も重要な基準となっているのであり、数量的な意味での「必要最小限度」という感覚に基準を置いたわけではない。
「個別的自衛権を認めるために、集団的自衛権を封印したといってもいいだろう。」との記載があるが、誤りである。9条は「武力の行使」を制約する基準であり、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』そのものを制約する規範ではない。また、「武力の行使」が憲法上認められるか否かは、三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の規範を満たすか否かによって判定されるのであり、国際法上の『権利』の区分を用いて線引きを行っているわけではない。
【2ページ目】
1972年(昭和47年)政府見解の内容を説明しようとしている部分があるが、特に内容の「3」と「4」が誤っている。
まず、「3」について、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」に関する規範は、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」というものである。ここで出てくる「必要最小限度」の意味は、三要件で言えば「第三要件」の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味である。論者は恐らく9条から数量的な意味で「必要最小限度のことは認められるはずだ。」との基準が導かれているのだと誤解している。もし論者が「あくまで外国の武力攻撃によつて~とどまるべきものである。」の規範のすべてを指して「必要最小限度」と表現しているのであれば、それは「自衛のための必要最小限度」と同様の意味であり、「武力の行使」の三要件(旧)と対応するため、正確な認識である。もちろん、三要件(旧)の第一要件である「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさなければならないからである。
次に、「4」について、1972年(昭和47年)政府見解は、「武力の行使」について、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範が導かれており、「集団的自衛権」としての「武力の行使」はこれに該当しないために憲法上許容されないとの結論となっているのである。そのため、論者の言うような、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」についての規範があたかも数量的な「必要最小限度」を意味し、これに国際法上の違法性阻却事由である「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の区分を当てはめて考えたかのような認識のものではない。
「この『4段論法』のうち、3番目までは『必要最小限度』の理屈を詳しく説明したものだ。安倍内閣は、3番目までは守った上で、4番目だけについて変更することにした。」との記載があるが、誤った部分が存在する。論者は「3番目」の「必要最小限度」の意味を数量的なものであると誤解している。そのため、「3番目」の規範が「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味する以上、「4番目」の中に「存立危機事態」の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」の部分は含めることはできない。安倍内閣の2014年7月1日閣議決定は、「3番目」に解釈上の不正が存在し、それによって「4番目」には論理的整合性が存在しない。
「日米同盟の本来の役割が全うできるようにしたのだ。」との記載があるが、「日米安全保障条約」の5条には「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」との記載があり、「本来の役割」とは、憲法上の手続きに則ることである。「存立危機事態」での「武力の行使」については、憲法に適合しないことから、違憲であり、「日米安全保障条約」の「本来の役割」とは言えない。ここでは論者が論者の評価として勝手に「本来の役割」と思い込んでいるだけである。
「3番目までの『屋台骨の理屈』は、頑丈に残ったままで、」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定はその部分の解釈を誤っているものである。
【3ページ目】
「芦田修正説」を採用した場合について、「集団的自衛権の行使だって自衛の一種だから認められる」との記載があるが、9条は憲法上の規定であり、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を用いて意味を確定することは必ずしも正確なものではない。そのため、「芦田修正説」を採用したからといって、9条1項が「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」を許容しているとは限らない。
「9条の解釈は依然、従来の『必要最小限度』という屋台骨の理屈を引きずっているため、」との記載があるが、これが「自衛のための必要最小限度」の意味であれば、論者は「武力の行使」の三要件(旧)を維持していると説明していることになる。もし三要件の「第三要件」の「必要最小限度」の意味であれば、意味は意味は通じていない。この論者の発言は、9条解釈から導かれる基準が、あたかも数量的な「必要最小限度」であるかのような誤解した理解に基づくものと思われる。
「集団的自衛権の行使もきわめて限られた場合にしかできないし、行使にあたっては厳格な判断基準を満たすことを迫られる。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分を維持している限り、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は違憲となるため行うことができない。
「再び芦田修正論に乗り換えようとすれば、」との記載があるが、「芦田修正論」を採用したとしても、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」ができるようになるわけではない。
高橋洋一
〇 高橋洋一
【◆米軍に協力して軍事的な貢献をする日本】
「現実として日米安保条約を結び、米軍に日本国内の基地を提供していること自体、集団的自衛権の行使をしていると捉えている。」との記載があるが、誤りである。国連憲章51上に記載された「集団的自衛権」とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由である。そのため、「集団的自衛権」を行使するということは、違法性を阻却するという意味となるから、「武力の行使」が行われていないにもかかわらず、違法性阻却事由である「集団的自衛権」という『権利』が持ち出されることはないのである。
また、日本国に対する武力攻撃が発生した場合に、日本国の『援助要請』を受けて米国が「武力の行使」をする場合に、米国が国際法上の「集団的自衛権」という『権利』の区分を用いるのであって、日本国が「集団的自衛権」の区分を用いるかのような認識は間違いである。
「さらに米軍への基地提供まで大々的に行っている日本は、立派に集団的自衛権を行使していると考えられているのだ。」との記載もあるが、先ほども述べたように、「武力の行使」がなければ違法性阻却事由の『権利』の区分を利用することはないし、日本国に対する武力攻撃が発生した際に、日本国の『援助要請』に従って米国が「武力の行使」を行った場合に、国際法上は米国が「集団的自衛権」を行使することになるが、これは日本国の行う「集団的自衛権の行使」というものではない。
「そういう場面で、国内向けの『日本は個別的自衛権は行使するが、集団的自衛権の行使は本来、憲法上許されないはずだ』などと言った意見を開陳しても、相手には『いまさら、何を言っているのだろう?』と受け取られるのがオチだ。」との記載があるが、日本国は1972年(昭和47年)政府見解によって、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」というだけのことであり、論者の認識のように「『日本は個別的自衛権は行使するが、集団的自衛権の行使は本来、憲法上許されないはずだ』などと言った意見を開陳」しているわけではない。
日米安保条約についても、5条で「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」と記載されており、「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」行うことが確認されている。
【◆国連軍への全面協力は集団的自衛権の行使ではないのか?】
「国連憲章によって認められ、日米安全保障条約でも明記されている集団的自衛権について権利を持っているだけで行使はしない、許されないなどと言っても国際社会では通用しない。」との記載があるが、「集団的自衛権」とは「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』であり、この区分が適用される地位を有しているとしても、憲法上で「武力の行使」が制限されることによって、『権利行使』を行わないことは何も矛盾しない。法論理に従えば、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」はできないのであるから、論者のような認識は法治主義を逸脱するものであり、不信感を抱かれる以上に国家としての信用を失うことになる。
【Column1 川を上れ、海を渡れ】
「集団的自衛権を行使しないという、従来の政府答弁のおかしさも自ずとわかってくるであろう。」との記載があるが、国際法上の『権利』と、憲法上の『権限』の違いが理解できれば、従来の政府答弁は正確なものであり、論者の認識のおかしさが自ずとわかってくるであろう。
【◆個別的自衛権の拡大論は、集団的自衛権の容認と同じこと】
「《世界標準》の国際法の見地からすれば、個別的自衛権はよいが、集団的自衛権は行使できないとする以前の憲法解釈のほうが、明らかに異常で非常識なのだ。」との記載があるが、政府の憲法解釈はそのような国際法上の違法性阻却事由の区分を利用して、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の間に線を引いているわけではないため、誤りである。
【◆9条のような不戦条項を持つ国はたくさんある】
「ところが、これらの国では集団的自衛権は憲法の規定上行使できない、などという議論はまったくされていない。」との記載があるが、国際法と国内法の違いを理解していないため混乱している。日本国も国際法上は「集団的自衛権」という違法性阻却事由の適用を受ける地位を有している。しかし、「武力の行使」が制約されるため、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」の部分は違憲となるため行使できないというだけである。
「比較憲法学の視点で言えば、こうした現実がある以上、日本だけが集団的自衛権を行使できないと解釈するのは、『誤っている』と言わざるをえないのだ。」との記載があるが、国際法と憲法の違いを理解し、「自衛権」という『権利』と「武力の行使」という国家の『権限』の違いを理解すれば、論者が「誤っている」と言わざるをえないのである。
中西輝政
〇 京都大学名誉教授 中西輝政
【正論】安保法案は日本存立の切り札だ 京都大学名誉教授・中西輝政 2015.6.10
2ページ目で、「この法案では、いわゆる集団的自衛権の行使には『新三要件』として、『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること』など、きわめて厳しい限定条件が付されている。」との記載があるが、これをもって9条に抵触しないことを根拠付けることはできない。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、これを満たさないのであれば、「極めて厳しい限定条件」と称する文言が加わっているとしても違憲となるからである。また、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」とは具体的にどのような状況を指しているのか意味が明らかでなく、このような曖昧不明確な要件では、これに該当するのか否かを結局政府が主観的に判断することに委ねたものということができ、9条が政府の自国都合による恣意的な「武力の行使」が行われることを制約する趣旨を満たしておらず、9条に抵触して違憲となる。
3ページ目で、「これは1959年の最高裁判所の出した『砂川判決』がつとに認めた、主権国家としての『固有の自衛権』(個別的自衛権ではない)に収まるものである。」との記載があるが、前提認識に誤りがある。まず、「自衛権」とは国際法上の『権利』であるが、砂川判決はこれを日本国も有していることを明らかにしているが、それを行使するための「自衛のための措置」としての「武力の行使」ができるか否かについては何も述べていない。そのため、国際法上の『権利』である「自衛権」の範囲に収まったとしても、そもそも「武力の行使」ができるか否かについては判断していないのであるから、「集団的自衛権」に基づく「存立危機事態」での「武力の行使」が合憲であるとする根拠にはならない。
3ページ目で、「また60年3月に当時の岸信介首相が参議院予算委員会で答弁しているように『一切の集団的自衛権を(憲法上)持たないというのは言い過ぎ』で、集団的自衛権というのは『他国にまで出かけていって(その国を)守る、ということに尽きるものではない』として、現憲法の枠内での限定的な集団的自衛権の成立する余地を認めてきたのである。」との記載があるが、論者の示しているのは下記の答弁と思われる。
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○国務大臣(岸信介君) 日本の自衛、いわゆる他から侵略された場合にこれを排除する、憲法において持っている自衛権ということ、及びその自衛の裏づけに必要な実力を持つという憲法九条の関係は、これは日本の個別的自衛権について言うていると思います。しかし、集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えております。しかしながら、その問題になる他国に行って日本が防衛するということは、これは持てない。しかし、他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうものはもちろん日本として持っている、こう思っております。
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第34回国会 参議院 予算委員会 第23号 昭和35年3月31日
この事例は、「他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなこと」について話しており、これを国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』としての国連憲章51条の「集団的自衛権」を意味すると考えることができるのかはやや疑問もあるが、今回の「存立危機事態」での「武力の行使」が許容される余地があると話したものとは異なる。この事例は、集団で防衛することになるが、結局日本国の統治権による「武力の行使」については、「個別的自衛権」として整理されるものだからである。そのため、これを根拠にして「現憲法の枠内での限定的な集団的自衛権の成立する余地を認めてきたのである。」との説明を行うことは適切ではない。
3ページ目で、「この法理は、もとより安倍首相が岸元首相の孫にあたるということとは何の関係もない普遍的なものである。」との記載があるが、国際法上の「自衛権の行使」を行う場合、通常「武力の行使」が行われているのであり、9条が「武力の行使」を制約する規定であることを考えれば、「この法理は」として国際法上の自衛権の区分を用いて憲法上の制約の範囲を確定しようとする議論は成り立たない。そのため、「普遍的なもの」でもない。
3ページ目で、「また昨年5月15日に出された安保法制懇(第2次)の最終報告書が言う通り、一般に集団的自衛権の行使を禁じたとされる内閣法制局の見解に対しては、我が国の存立と国民の生命を守る上で不可欠な必要最小限の自衛権とは必ずしも個別的自衛権のみを意味するとはかぎらない、という論点にも再度注意を払う必要があろう。」との記載があるが、「安保法制墾(第2次)の最終報告書」の論理の不備については、当サイトの「安保法制墾の間違い」のページで解説した。従来の政府見解は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない「武力の行使」を禁じたのであり、「集団的自衛権の行使を禁じた」というのはこのことによる付随的に生まれるものである。そのため、「集団的自衛権の行使」を禁じたから、「個別的自衛権の行使」はすべて合憲であるとの結論には繋がらず、「個別的自衛権」の範囲であっても憲法上の制約を受けることはあり得る。
3ページ目で、「そしてこの『必要最小限』について具体的に考えるとき、現下の国際情勢とりわけ日本を取り巻く安全保障環境の激変というか、その急速な悪化にこそ目が向けられるべきだろう。」との記載があるが、9条の制約は数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としてるわけではないため、誤った認識である。9条は1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところに制約があるのであり、「必要最小限度」の文言が基準であるかのような前提を持っている部分が誤りである。従来より「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたのは、三要件(旧)を満たす「武力の行使」のことをであり、この旧三要件には第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を有していた。これによって9条の規範性が保たれていたのであり、9条が数量的な意味での「必要最小限度」という基準によって制約を課しているかのような認識は、法解釈から導かれたものではない。
山岸純
〇 弁護士法人AVANCE LEGAL GROUP・パートナー弁護士 山岸純
「集団的自衛権は違憲」はまやかし?「米国が攻撃受けたら日本も一緒に戦闘」は正しい? 山岸純 2015.07.17
【2ページ目】
「(d)の場合、『国際紛争解決手段としての戦争だけを放棄する』という目的のために『軍や戦力』を放棄するので、例えば『自衛のための戦争』のための『軍や戦力』はOKとなります。」との記載があるが、正確には誤りである。(d)の解釈ルートによれば、9条1項の限定放棄の目的を達するためにすべての「陸海空軍その他の戦力」を不保持とする場合と、1項の限定放棄の放棄した部分に該当する「陸海空軍その他の戦力」を不保持とする場合とがあるからである。論者のように、「『自衛のための戦争』のための『軍や戦力』はOK」という結論に直ちに繋がるわけではない。
【3ページ目】
政府見解について「『自衛のための戦争はできるし、そのための戦力(自衛隊)も持てる』としているようです。」との記載があるが、誤りである。政府は9条2項にいう「戦力」は一切持てないとしており、その「戦力」に抵触しない「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」は許容されると解しているからである。また、「自衛のための戦争」との表現は使っておらず「自衛のための必要最小限度」の「武力の行使(実力の行使)」の行使としており、「戦争」という言葉を使っていない。言葉の表現の問題であり、実質的には同じではないかとの疑問もあるかもしれないが、「自衛のための必要最小限度」については「『武力の行使』の三要件(自衛権行使の三要件)」によって統制されており、一般に言う「戦争」の言葉を使用していない。
「とはいえ、国連に参加しているからといって、日本にも集団的自衛権が固有の権利として認められる、ということが簡単に導かれるわけではなく、」との記載があるが、日本国は主権国家であり、「集団的自衛権」という違法性阻却事由の適用を受ける地位は他国と同様に認められている。ただ、これを行使するということは、実質的に「武力の行使」が行われるのであり、この「武力の行使」を9条が制約しているため、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は認められないのである。
【4ページ目】
「『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険』というのは、結局は直接攻撃を受けるのと同レベルの危険というのが素直な読み方になるかと思います。」との記載があるが、これは曖昧不明確な要件であり、通常の判断能力を有する一般人の理解においてその規定を適用できるのかできないのかを識別するための基準を示すところがなく、その運用が適用する者の主観的判断にゆだねられて恣意に流れるなど、重大な弊害を生ずる恐れがあることから、31条の「適正手続きの保障」の趣旨や41条の立法権の趣旨から違憲となると考えられる。また、このような曖昧不明確な要件は、9条の規範性を損なっており、9条に抵触して違憲となる。
「憲法上で『自衛のための戦争』と『自衛戦争のための軍や戦力』が認められていることは間違いないでしょう。」との記載があるが、政府は「自衛のための戦争」という言葉を使用していないし、9条2項の「戦力」に該当するものは一切持てないとしている。また、砂川判決でも「自衛のための戦力」を持てるか否かについては判断していない。ただ、政府は「自衛のための必要最小限度の実力」を保持し、行使することは可能と解している。
その後の「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」についても、1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としており、たとえ『自国防衛』と称してもこの規範を超えることはできない。そのため、論者の言う日本国民を守ることを理由としても、それだけでは「武力の行使」を行うことを正当化することはできず、9条に抵触して違憲となる。
高橋淳
〇 弁護士 高橋淳
「集団的自衛権の行使を明らかに違憲と断定する根拠は見いだせない」が、故に解釈をあらためても良い? 2015年06月23日
1,2,3,4,5を示し、解釈論としてあり得るかのような記載が見られるが、3にあたる部分について、日本国が国際法上「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有していることと、憲法上日本国の統治権の『権限』が「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を行うことができるかどうかは別問題であり、直ちに「許される」とする結論は導かれない。
4について、「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、憲法上で直接この『権利』を制約する規定は存在していないことは確かである。しかし、国連憲章51条のいう「自衛権」とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』であり、この『権利』が行使される状態とは、実質的に「武力の行使」が行われている状態を意味する。憲法9条はこの「武力の行使」を制約しているのであり、「武力の行使」の範囲が確定することによって、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」の部分を行うことができるか否かは変わってくる。それにより、「集団的自衛権の行使」の可否も変わるのであり、論者の言おうとしている国際法上の表現でいう「集団的自衛権の行使」にあたるものを、憲法上を禁ずる規定としては、9条が存在するということなのである。論者は、日本国の統治権の『権限』の中に「集団的自衛権」という概念が存在しているかのように考えてしまっている点に誤りがある。
5についても、9条は「侵略戦争」を禁じたものと表現されることがあるが、厳密には「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を禁じたものと解されることが多い。国際法上の概念である「自衛権」そのものを禁じているわけではないが、「武力の行使」が制約されることにより、国際法上の表現で言う「自衛権の行使」が可能か否かは分かれるのである。
よって、3,4,5については、解釈論としてあり得ない。
「集団的自衛権の行使」について、もともと「可能であった」との記載があるが、確かに国際法上「集団的自衛権」を行使することは日本国も他国と同様に認められている。しかし、「『行使はできない』という誤った解釈を採用していた」との記載があるが、認識に混乱が見られる。
政府が1972年(昭和47年)政府見解において「集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」としていたのは、同じく1972年(昭和47年)政府見解の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範が存在するからである。
「集団的自衛権の行使」とは、集団的自衛権の行使」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を行使する場合の表現であり、実質的には「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」が行われている状態である。9条はこの「武力の行使」を制約している規定であり、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲となることから、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」はこれを満たさないことが明らかであるから、「集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」との結論が導かれているのである。
「正しい解釈に直す」との記載もあるが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)を正しく読めば、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」や、「存立危機事態」での「武力の行使」がこの中に含まれることはないため、それらの「武力の行使」は違憲となる。これらの「武力の行使」を実施するためには、憲法改正が必要であり、憲法改正を不要とする考えは誤りである。
確かに通説が絶対に正しいという保証はないが、1972年(昭和47年)政府見解の正確な論理を読み解けば、論者よりは妥当な結論を導き出すことができる。主流派の学者に支持されない理由は、この論者の説には整合性がないからである。
伊藤哲夫
〇 日本政策研究センター代表 伊藤哲夫
集団的自衛権の行使は「国家固有の権能」 2014/04/14
「つまり、ここでは個別的自衛権と集団的自衛権は何ら区別されておらず、また『自国の存立を全うする』ためには、その保持のみならず、行使もまた『国家固有の権能』に他ならない、とされているということだ。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能か否かについては何も述べていない。「自衛の措置」という「国家固有の権能の行使」についても、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」が可能である旨を示しただけに留まる。そのため、これを根拠として国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」に基づく日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能であるとの話には繋がらない。
「内閣法制局がキーワードとする『必要最小限度』という言葉もないことを併せて強調したいところだが、」との記載があるが、内閣法制局が「武力の行使」について答弁する際の「必要最小限度」の意味は、旧三要件を満たす「武力の行使」を「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる場合と、その「武力の行使」の三要件の第三要件の「必要最小限度にとどまるべきこと」の意味で使われている場合があることを押さえておくべきである。
「いずれにしても、これは憲法解釈についての最終的な権限をもつ『最高裁の見解』というところがミソであろう。」との記載があるが、最高裁は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていないということが正確な認識である。
岡田真理
〇 フリーライター/予備自衛官 岡田真理
問題。「集団的自衛権の行使は憲法違反である」……マルかバツか?! 岡田真理 2016年05月06日
(■問題。「集団的自衛権の行使は憲法違反である」……マルかバツか?! 2016年05月06日)
【1ページ目】
「そして、『平和安全法制で定められている集団的自衛権の行使』は憲法違反ではありません。」との記載があるが、誤りである。国際法上の「集団的自衛権」に該当する「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲である。
「・集団的自衛権の行使には、憲法違反のものと、憲法違反じゃないものとがある」との記載があるが、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、すべて違憲である。
「・1972年に、政府は『他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない』と答弁したが、このときは冷戦中だった」との記載があるが、法解釈上で導き出される規範は、国際情勢の変化によって揺らぐことはない。
「・平和安全法制での『集団的自衛権の行使』はとても限定的」との記載があるが、「限定的」と称しても「武力の行使」が9条に抵触するものであれば違憲であり、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさないため違憲である。
「・『新三要件』を読めば『平和安全法制で定められた集団的自衛権の行使は憲法違反じゃない』ことが分かる」との記載があるが、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。
「・平和安全法制は憲法違反ではありません」との記載があるが、いくつかの違憲論点があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」については明らかに違憲である。
「・そして憲法13条を考えれば、『平和安全法制を廃止する』ことこそが憲法違反です」との記載があるが、先ほども述べたが、「存立危機事態」での「武力の行使」については明らかに違憲である。
【3ページ目】
「こういった背景から、冷戦真っただ中の1972年に、『他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない』と政府が答弁したのは、『なるほど、そうだろうな』と思います。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解は法解釈であり、政策的に「こういった背景」を勘案して基準が定められるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解が「集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」と結論付けられているのは、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」ことから付随的に生まれたものであり、法解釈上の規範であって、政策判断として選択されたラインというわけではない。
「『最大の尊重』ならば、個別的自衛権でも集団的自衛権でも、あらゆる手段で日本国民の生命・自由・幸福追求権を守る最大限の努力をしなければなりません。」との記載があるが、9条は「自国民の権利・利益」の実現や自国の都合によって「武力の行使」を制約する規範なのであり、このように「自国民の権利」を追求することによって9条の規範が緩められるかのように読もうとすることは法解釈として妥当性がない。
1972年(昭和47年)政府見解の結論部分を示して、「という選択をしました。」としているが、1972年(昭和47年)政府見解は「武力行使全面放棄説」や「芦田修正説」を採用していないという意味ではいくつかある9条解釈のルートの中から「選択」されたものではあるが、1972年(昭和47年)政府見解の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範自体は法解釈上唯一の規範であり、この中に他の「選択」が存在するかのように考えることはできない。論者はあたかも法解釈が政策上の都合に左右されるかのような認識を有しているが、誤りである。
「集団的自衛権の行使」について、「『憲法9条に反する場合』と『憲法9条に反しない場合』のどちらもがあります。」との記載があるが、「集団的自衛権」に該当すれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさない中での「武力の行使」であるから、すべて違憲である。そのため、「憲法9条に反しない場合」は存在しない。
【4ページ目】
「新三要件を満たす範囲のみで、『国民の生命・自由・幸福追求権に最大の尊重する』ための武力行使をします。」との記載があるが、新三要件の「存立危機事態」に基づく「武力の行使」は既に違憲である。
「憲法を順守し、その上で日本の平和と安全を守ることができます。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件が9条に抵触することから、「憲法を遵守し」を満たしておらず、誤りである。
「でも、こうやって『正しい情報』を得ることができれば、『政府が憲法解釈を変えた』のではなく『世界情勢が変わった』と理解できます。」との記載があるが、「正しい情報」を得ると、2014年7月1日閣議決定には法解釈に手続き上の不正があり、論理的整合性が成り立っていないことが理解できる。
「『平和安全法制で認めている集団的自衛権の行使はとても限定的』で、『平和安全法制は憲法違反ではない』と理解できます。」との記載があるが、「正しい情報」を得ると、「集団的自衛権」という区分に「限定的」などというものは存在しておらず、論者の言う「平和安全法制」についても「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となると理解できる。
篠山半太
〇 陸上自衛隊予備陸曹長 京都大学学士(法学) 篠山半太
集団的自衛権は違憲であったのか 篠山半太 2017年10月26日
「そして法学的に論ずるならまた、本解釈改憲は実体法的にも手続法的にも合憲である。」との記載があるが、誤りである。
まず、「存立危機事態」の要件は、実体法的に違憲である。9条解釈の全ルートからそれぞれに違憲となるからである。
次に、「存立危機事態」での「武力の行使」を許容しようとした2014年7月1日閣議決定は、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分が「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味するにもかかわらず、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」も含まれると主張している点で、論理的整合性が存在しておらず、手続き的に違法である。
「結論としては、いわゆる『安倍解釈改憲』の内容は極めて自制的かつ限定的であり、『政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすること』という平和主義の原理とも一切矛盾しない。よって、実体法的には全くもって合憲である。」との記載があるが、誤りである。
政府は、「いかなる事態が存立危機事態に該当するかについては、実際に我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合において、事態の個別具体的な状況に即して、主に、攻撃国の意思、能力、事態の発生場所、事態の規模、態様、推移などの要素を総合的に考慮し、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性等から客観的、合理的に判断することになる(P116 PDF)」と述べているが、その「存立危機事態」の要件は曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解においてその規定を適用できるのかできないのかを識別するための基準を示すところがないものである。そのため、その運用が適用する者の主観的判断にゆだねられて恣意に流れるなど、重大な弊害を生ずる恐れがあり、前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすること」の理念を生かした形で解釈する必要がある9条の規範性を損なっている。これは、平和主義の原理と矛盾するものということができ、実体法的に全くもって違憲である。
「以上に申し述べた理由により、いわゆる『安倍解釈改憲』は実体法的にも、また手続法的にも合憲である。」との記載があるが、誤りである。先ほど申し述べた理由により、「存立危機事態」の要件は実体法的に違憲であり、「存立危機事態」での「武力の行使」を許容しようとした2014年7月1日閣議決定は手続き法的にも違法である。
木村正人
〇 在英国際ジャーナリスト 木村正人
小林節先生、それでも安全保障関連法案は「合憲」です 木村正人 2015/6/22
「日本国憲法は自国防衛の権利を否定していない。」との記載があるが、誤りである。まず、日本国憲法の9条は国家の統治権の『権力・権限・権能』に対する制約であるから、「権利を否定していない。」との『権利』で説明することは誤りである。また、9条は『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。なぜならば、『自国防衛』と称して「武力の行使」に踏み切ることは歴史上幾度も経験しているところであり、そのような政府の行為を制約するために9条の規定が設けられているからである。ここでは、政府の恣意性の入る余地のない規範性を有した基準が求められるため、1972年(昭和47年)政府見解では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」に規範を設定していたのである。
「そこで、今回の解釈変更では地理的範囲でなく、『他国防衛』と『自国防衛』に整理し直し、『他国防衛』のための武力行使はしない(赤色の部分)という形にした。
」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、2014年7月1日閣議決定は論理的整合性が存在しておらず、「適正手続きの保障」の観点から違法である。また、『他国防衛』と『自国防衛』に整理したとしても、9条は『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解に記されたように、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たすことが求められるのである。「存立危機事態」については、9条に抵触しないことを示す基準が存在しないことから、9条の規範性を損なっており、その中での「武力の行使」は、たとえ『自国防衛』と称したとしても違憲である。さらに、国際法上「集団的自衛権」という違法性阻却事由を得るには武力攻撃を受けた『他国からの要請』が必要であるが、「存立危機事態」での「武力の行使」については「個別的自衛権」の区分に該当しないため、『他国からの要請』を得て「集団的自衛権」の区分に該当させる必要があるが、『他国からの要請』を得て「武力の行使」を実施するということは、『他国防衛』の意図を含む「武力の行使」ということになる。そのため、「『他国防衛』のための武力の行使はしない(赤色の部分)という形にした。」との認識は論理的に成り立たない。
「自国防衛のためなら必要最小限の集団的自衛権行使は厳格な条件のもと認められるという考え方は基本的に『合憲』である。 」との記載があるが、憲法上の基準に国際法上の基準が混じっているため、整理し直す必要がある。
まず、「集団的自衛権行使」が実質的に「武力の行使」であることを理解する必要がある。そして、「必要最小限」とは、従来「武力の行使」の三要件(旧)をすべて満たすことを「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたものである。これは三要件(旧)の第一要件である「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすことを指していたのであり、数量的に政府が「必要最小限度」と認定すれば「武力の行使」が可能となるような基準ではない。また、9条は政府の恣意的な行為を制約するための法規範であり、数量的な「必要最小限度」という基準が9条解釈から導かれることはない。1972年(昭和47年)政府見解でも明確に示されている通り、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のである。
論者は、恐らく「必要最小限」の「武力の行使」は「合憲」と言いたいものと思われるが、これは、「武力の行使」の三要件(旧)の第一要件である「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たす「武力の行使」は合憲という意味ならば通じるのであるが、「集団的自衛権行使」については、この第一要件を満たさない中での「武力の行使」となるため、違憲である。
「基準の明確化を」というタイトルが記載されているが、基準は1972年(昭和47年)政府見解によって既に明らかであり、明確でないのは論者の理解が誤っているためである。
「これまでの安保法制は基準が明確化されていたのに対し、今回の安全保障関連法案では地理的制約が取り除かれ、何が『自国防衛』に当たるのかはっきりしない問題が残っている。 」との記載があるが、その通りである。「存立危機事態」の要件についても、曖昧不明確な要件であり、それ自体が9条の規範性を損なわせ、9条に抵触して違憲となる。
「憲法がフルサイズの集団的自衛権行使を認めていないのは明らかだ。」との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権」に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかなく、「フルサイズ」か「限定的」かなどという区分は存在しない。また、1972年(昭和47年)政府見解にある通り、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであるから、「フルサイズ」であれ「限定的」などと称しているものであれ「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」はすべて違憲である。
テイジン
〇 テイジン
砂川事件判決〜政府与党が集団的自衛権行使合憲の論拠と読める部分があった! テイジン 2015年6月15日
「田中耕太郎最高裁長官の補足意見」については下記の通り。
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―― 当時の田中耕太郎最高裁長官の補足意見、「自衛はすなわち『他衛』、他衛はすなわち自衛」も同じく集団的自衛権についての発言として取り上げられています。
長谷部 補足意見は、それぞれの国が自衛をしないと世界の平和も保てない、だから「力の空白」によって日本への侵略を誘発しないために、日米安保条約があるのだと言っているだけです。真面目な議論とは思えません。
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長谷部恭男教授に聞く 安保法案は、なぜ違憲なのか ――「切れ目」も「限界」もない武力行使
「集団的自衛権の行使については、政府の裁量であり、違憲でないと考えていた以上、政府与党が、同様に考えてはいけない理由はありませんね。」との記載があるが、誤りである。砂川判決は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能か否かについては何も述べておらず、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」が政府の裁量であるとも述べていないし、違憲であるとも合憲であるとも述べていないからである。
屋山太郎
〇 評論家 屋山太郎
【正論】戦後70年に思う 安保法制論議で甦る「曲学阿世」 評論家・屋山太郎 2015.8.7
「日本では長い間、集団的自衛権について『権利はあるが、行使はできない』と解釈してきた。権利があって行使ができない“定義”はどこの国の辞書に載っているのか。」との記載があるが、十分な理解を有していないための混乱である。「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』であり、この『権利』の適用を受ける地位を有していることと、日本国の統治権の『権限』として「武力の行使」を実施できるかどうかは別問題である。そのため、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制約されることによって、国際法上の『権利』を行使できないことも当然にあり得るのである。「権利があって行使ができない」のは、法解釈上の当然の論理であり、どこの国であっても通用する論理である。
論者は、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を有すれば、直ちに日本国の統治権に『権力・権限・権能」が発生すると考えている点で誤りである。統治権の『権力・権限・権能』は国民主権原理の過程によって発生するのであり、国際法上の『権利』から生まれるわけではないのである。
藤田宙靖の論文
元最高裁判事「藤田宙靖」の論文について、情報を収集する。
藤田論文を読む 2016年05月30日
集団的自衛権を巡る違憲論議について 2016年4月4日
こちらの記事は、上記の「自民党 礒崎陽輔」の項目で論じている。
憲法研究者と安保関連法――元最高裁判事・藤田宙靖氏の議論に寄せて 2016年3月7日
この記事の最後に、「藤田宙靖」について「裁量処分の司法審査に関連して『判断過程統制』という手法を開拓したことなど、学者としても最高裁判事としても、きわめて重要な足跡を残された」との記載がある。
2014年7月1日閣議決定の内容の中の、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」から「存立危機事態」での「武力の行使」を導き出すという点も、まさにこの『判断過程統制』という手法を使って適正手続きの保障の論点から、行政権の裁量を逸脱した違法な閣議決定であることを導き出せるのではないか。なぜ自身の専門分野を活用してその論点を論じないのだろうか。
2014年7月1日閣議決定という「内閣の公権力行使」に関して、9条解釈の論理的整合性や体系的整合性に「裁量統制」を行い、違憲審査を行うことができるはずである。
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裁判所がそれを問題にできるのは、裁量権の逸脱(踰越)や濫用があった場合である。法が許容する裁量の範囲を逸脱した場合、また許容の範囲内であったとしても、法の趣旨に反して行使されるなどした場合(濫用)には、処分が取り消されることがある。
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最高裁は変わったか――「君が代訴訟」判決と裁量統制 2012年1月23日
「藤田宙靖」は行政組織法の書籍も書いているではないか。行政権に基づく自衛隊の活動の限界について、詳しく検討する基礎力は有しているはずである。
行政組織法 著者 藤田宙靖 (著)
憲法記念日に「安保法制」論議を問う(無論長文!) 2016年5月5日
憲法論戦は甦るか――藤田「ガリレオ論文」を読む・・・調査研究本部主任研究員 舟槻格致
「集団的自衛権 違憲」に対抗、憲法より行政重視の元最高裁判事・藤田が “安倍支持論”
集団的自衛権を論じる。裕 2016年03月15日
「『覚え書き:集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について』に失望。」 Twitter
「自治研究」2016年2月号 覚え書き -集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について 藤田宙靖 2016年08月29日
自衛隊法76条1項2号の法意-いわゆる「集団的自衛権行使の限定的容認」とは何か 2017-06-10
(自治研究 第93巻第6号 通巻1120号 第一法規(株))
□ この論文は、「必要最小限度」の意味が整理されておらず、混乱がある。「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の意味と、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」(+この三要件の第三要件に対応する1972年〔昭47年〕政府見解の「必要最小限度」の文言)を使い分けて論じることができていない。
□ 「国際法上の集団的自衛権」や「憲法上の個別的自衛権」という言葉が出てくるが、「自衛権」は国際法上の概念であり、これを行使する場合とは、国内法であるの憲法上では「武力の行使」が行われている状態となる。そのため、「憲法上の個別的自衛権」などと、憲法解釈において「自衛権」という言葉が存在するかのような前提で論じようとしているところが誤っている。
『藤田宙靖 集団的自衛権に関する第二論文』(自治研究93-6)を読んで、確かに役所の法律担当官の発想の視点を明らかにしていることは確か。 2017/6/2
その7 有権解釈とは何なのか 長谷部恭男 2017/7/3
「ご見解を修正する再論文を書かれています。」 Twitter
複数名
検証“安保法案” いま何を問うべきか 2015年7月23日
安倍首相「私たちはこの正当性、合法性については完全に確信を持っている。」との認識であるが、誤った認識である。
まず、政府は2014年7月1日閣議決定において、1972年(昭和47年)政府見解の一部分を「基本的な論理」と称し、これを維持しているとしているが、「存立危機事態」の要件は、この「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分に論理的に当てはまらない。それにより、「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解という政府自身の設定した違憲審査基準によって違憲となる。「正当性、合法性について完全に確信を持っている。」と結論のみを述べても、法解釈は適正な手続きに則って行う必要があり、過程に整合性がなければ結論を正当化できないのである。
「その考え方がまとめられたのは1972年、田中内閣のときです。 憲法は、自衛の措置を禁じているわけではない。 その上で、自衛の措置は必要最小限度の範囲にとどまるべきとしています。 そして、自衛の措置が認められるのは、自国が攻撃されたときのみだとして集団的自衛権の行使は憲法上許されないとしたのです。」との記載があるが、正確な表現ではない部分がある。
まず、「憲法は、自衛の措置を禁じているわけではない。」については、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」の部分であり、趣旨はその通りである。
「その上で、自衛の措置は必要最小限度の範囲にとどまるべきとしています。」との内容であるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の規範部分は、「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」である。ここで示された「必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」の部分は、「武力の行使」の三要件でいう第三要件にあたる部分であり、「自衛の措置(武力の行使)」を発動した場合の程度・態様の意味である。発動要件そのものは、「外国の武力攻撃によつて(急迫、不正の事態)」の部分であり、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味する。
「そして、自衛の措置が認められるのは、自国が攻撃されたときのみだとして集団的自衛権の行使は憲法上許されないとしたのです。」との記載があるが、おおよそその通りであるが、1972年(昭和47年)政府見解は、「自衛の措置」の規範を示し、それに対応する「武力の行使」の規範を示し、最後に「集団的自衛権の行使」が憲法上許されないとする段階を踏んでおり、この記事のように「自衛の措置」と「集団的自衛権の行使」が直接繋がっているかのような記載したものではない。「集団的自衛権の行使」とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』であり、これが行使される状態は「武力の行使」が行われていることになる。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「武力の行使」の規範について述べた部分の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」の部分によって「集団的自衛権の行使」が否定されていると考えることが正確な認識である。
長尾一紘「そもそも政府見解を変えてはいけないというルールはない。」との記載があるが、確かに複数の解釈が可能である場合、政府見解を変えること自体は可能である。しかし、選択した解釈のルートの中では、論理的整合性や体系的整合性を保たなければならないのであって、2014年7月1日閣議決定については、1972年(昭和47年)政府見解の文言を恣意的に読み替える不正が存在する。そのため、「政府見解を変えてはいけないというルールはない」としても、政府見解そのものが適正な手続きに則ったものでなければならないことはルールとして存在するのであり、これを損なって「存立危機事態」の要件を定めたことは違法である。また、それにより9条に抵触して違憲である。
木原淳「自衛に必要かどうかの判断は、国際関係や軍事的な判断が不可欠」との記載があるが、法解釈として合憲性を裏付ける論拠にはなっていない。
井上武史「日本国憲法を見ると、集団的自衛権の行使についても明確な禁止規定は存在しない」との記載があるが、誤りである。国際法上の評価で言う「集団的自衛権の行使」とは、実質的に「武力の行使」が行われる状態であり、9条がこの「武力の行使」を制約している規定であることを理解すれば、「明確な禁止規定」となるものは存在するからである。この「武力の行使」の範囲に関する解釈が、1972年(昭和47年)政府見解であり、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とされている。これを満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については、9条に抵触して違憲となるのである。
「横畠裕介長官は、集団的自衛権の限定的な行使は自国防衛のためであり合憲であると繰り返し答弁しています。」との記載があるが、誤りである。まず、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的」などという区分は存在しない。「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解が示しているように「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たす必要があり、これを満たさない中で「武力の行使」を行えば、たとえ『自国防衛』のためであろうと違憲である。そのため、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、違憲である。「合憲である」とはならない。
「憲法が公布された直後、政府は自衛のための戦争も放棄したとしていました。」との記載があるが、現在でも政府は「自衛戦争」を否定していると思われる。
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○政府委員(大森政輔君) そこが個別的自衛権に基づく自衛行動と、それから自衛戦争の違いでございまして、先ほど私が申し上げましたのは、個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います。
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第145回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成11年3月8日
ここに記載された「憲法が公布された直後」というものは、下記の答弁と思わる。
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1946年(昭和21年)
6月26日 衆議院本会議 吉田総理発言
「戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したものであります」
第90回帝国議会 本会議 昭和21年6月26日(第6号)
7月4日 衆議院帝国憲法改正案委員会 吉田首相
「此の間の私の言葉が足りなかつたのか知れませぬが、私の言はんと欲しました所は、自衛権に依る交戦権の抛棄と云ふことを強調すると云ふよりも、自衛権に依る戦争、又侵略に依る交戦権、此の二つに分ける区別其のことが有害無益なりと私は言つた積りで居ります」
第90回帝国議会 委員会 昭和21年7月4日(第5号)
以前の答弁についてこれが「いわゆる自衛戦争の否定の趣旨」と解される補足答弁を行う。(リンク P34)
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これにより、これに続く「自衛のために戦うことは合憲という解釈を打ち出しました。」との記載であるが、「自衛戦争」は今も否定しているし、ここで「自衛のために戦うこと」が意味している「自衛行動」とは性質が異なるのであるから、憲法解釈は変わっていない。記事には「北岡さんが指摘するのは、憲法の解釈を事実上変えてきた歴史です。」との記載があるが、憲法解釈は変わっておらず、誤りとなる。
北岡伸一「憲法の解釈を変えてはいけないという人が多いのだが、1954年の解釈が変わったことを認めておられないのでしょうか。 集団的自衛権は一部くらいいいんじゃないかということになったのは、54年の解釈の変更に比べれば、はるかに小さな解釈(の変更)だと思います。」との記載があるが、先ほど示した資料により、政府は憲法の解釈を変えていないと思われる。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、これを満たさない「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」については、「全部」であれ「一部」であれ違憲である。「はるかに小さな解釈(の変更)との記載があるが、法は論理に基づいて正当性の有無を追求するのであり、「はるかに小さい」との理由で正当化できるわけではない。
Wikipedia
〇 日本の集団的自衛権 Wikipedia
日本の集団的自衛権 Wikipedia 2018年11月5日版
【概要】
『日米安保と集団的自衛権』
この項目で、「— 1955年6月16日、衆議院内閣委員会」と引用されている記事の内容は、国会議事録の下記のものである。
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○鳩山国務大臣 私が先ほど申し上げましたことで、憲法を改めなくても自衛力が持てると申しましたのは、言葉が足りなくて誤解を招きましたが、その真意は、自衛のため必要最小限度の防衛力を持てると申したのでありまして、決して近代的な兵力を無制限に持ち得ると申したのではありません。また自衛のためというのは、他国からの侵略を受けた場合に、これを排除するため必要な限度という意味で申したのであります。吉田内閣当時、戦力という言葉を解しまして、近代的戦争遂行能力というふうに言っておられましたのは、もちろん傾聴すべき見解と思うのでありますが、私は戦力という言葉を、日本の場合はむしろ素朴に、侵略を防ぐために戦い得る力という意味に使っていまして、こういう戦力ならば自衛のため必要最小限度で持ち得ると言ったのであります。その意味において、自由党の見解と根本的に差はないものと考えております。独立国家としては主権あり、主権には自衛権は当然ついているものとの解釈に立って、政府は内外の情勢を勘案し、国力に相応した最小限の防衛力を整えたいと考えているのであり、従ってその限界は、国力の現状においてはきわめて限られたものになるのでありまして、他国を脅威するような原水爆等の攻撃的武器を持つ考えもなく、また憲法を改めない限り持てないものであると考えております。江崎君が本会議で六カ年計画を示せとおっしゃいましたが、防衛庁で検討の最中であり、さらに慎重に各方面から検討するため国防会議に付する必要を認めますので、ここに国防会議法案を提出した次第であります。私が野党時代に表明した見解は、その後変えたことは先ほど申し述べた通りであります。また先ほど述べました答弁のうちで言葉の足りなかった点は、何とぞこの際御了承をいただきまして、本会議の審議に御協力を賜わるようお願いをいたす次第でございます。
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第022回国会 内閣委員会 第23号 昭和30年6月16日 (太字は筆者)
(Wikipediaの記事中の引用部分は、文章の最後に「。」が付いている。しかし、この引用部分は文章の途中で内容を切っているため、文末を示す「。」を打ってあることは不正確である。)
この答弁から分かるように、この内容は実力組織(自衛力・防衛力)が9条2項の「戦力」に該当して違憲となるかどうかが問題となっているものである。それにもかかわらず、このWikipediaでは「憲法上許される自衛の範囲としては、この『必要最小限度』という抽象的なラインが以降永らく維持されるようになる[6]。」として、「自衛の範囲」について『必要最小限度』であるかどうかという話となっているのは正確ではない。
また、「自衛のため」について、「自衛のためというのは、他国からの侵略を受けた場合に、これを排除するため必要な限度という意味」とも述べており、抽象的ではなく具体的なラインも示されている。
安全保障に関わる論点で、「必要最小限度」の意味は、異なる次元で用いられている。
━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━ ← 三要件(旧)の全てを含む意味
「武力の行使」の旧三要件
① 我が国に対する急迫不正の侵害があること
② これを排除するために他の適当な手段がないこと
③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと ← 第三要件の程度・態様の意味
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「とされ、『集団的安全取極』[注釈 1]としての日米安保条約が合憲であるとされた[9]。 」との記載があるが、誤りと考えられる。
砂川判決は「本件安全保障条約」について「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの」との前提を置いた後に「かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留」は「違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。」としており、法的判断を行っていないと考えられる。そのため、あたかも「合憲であるとされた。」かのように説明することはできない。
砂川判決
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ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。
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果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。
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その後の「— 1960年3月31日、参議院予算委員会」の引用部分については、国会議事録の下記の部分である。
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○国務大臣(岸信介君) 日本の自衛、いわゆる他から侵略された場合にこれを排除する、憲法において持っている自衛権ということ、及びその自衛の裏づけに必要な実力を持つという憲法九条の関係は、これは日本の個別的自衛権について言うていると思います。しかし、集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えております。しかしながら、その問題になる他国に行って日本が防衛するということは、これは持てない。しかし、他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうものはもちろん日本として持っている、こう思っております。
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第34回国会 参議院 予算委員会 第23号 昭和35年3月31日
この引用の後のWikipediaの説明では、「と答弁するなど、新条約によって集団的自衛権が名実ともに行使されるようになったことを強調することに務めていた[12]。 」との記載があるが、誤りである。
まず、日本国は主権国家である以上、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有している。これは、国際法上で日本だけ『権利』を剥奪されているなどということはなく、他国と同様に適用を受ける地位を有しているという意味である。その『権利』を行使するということは、通常「武力の行使」が行われることとなる。しかし、この「武力の行使」を行うためには、憲法で正当化される国家の統治権の『権限』が必要となるが、日本国の場合はこの「武力の行使」を行う統治権の『権限』が9条によって制約されている。これにより、「武力の行使」を行うことができる場合が限られており、9条の下では「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は行うことができず、結果として国際法上において「集団的自衛権の行使」を行うことができない(機会がない)との結論に至っているのである。
このWikiediaには、「新条約によって集団的自衛権が名実ともに行使されるようになったことを強調することに務めていた」などと記載されているが、日本国の統治権の『権限』によって「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が行われる余地については常に否定されており、このような認識が出てくることはないため、誤りである。
『ベトナム戦争と集団的自衛権の概念の変化』
「— 1969年2月19日、衆議院予算委員会」の引用部分については、国会議事録の下記の部分である。
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○高辻政府委員 これも実は初めて申すことではございませんことをお断わりして申し上げたいと思いますが、先ほども自衛権との関連でちょっと申し上げましたように、集団的自衛権というものは、国連憲章五十一条によって各国に認められておるわけでございますけれども、日本の憲法九条のもとではたしてそういうものが許されるかどうか、これはかなり重大な問題だと思っております。われわれがいままで考えておりますことから申しますと、やはり憲法九条のもとで軍事力を発揮できるというのは、まさに、先ほど来申し上げておりますような、一国の安全が害される、国民の生存と安全が危うくされるという場合に、国民あっての憲法である、この憲法がそういうものを否定しているというふうに解する余地はない、個別的自衛権というものは、これは憲法が否認しているものとは考えられない、これは終始一貫した考え方でございます。しかし、他国の安全のために、たとえその他国がわが国と連帯関係にあるというようなことがいわれるにいたしましても、他国の安全のためにわが国が兵力を用いるということは、これはとうてい憲法九条の許すところではあるまいというのが、われわれの考え方でございます。
したがって、そういう見地から申しますと、いま御指摘のような関係に立つような集団的安全保障機構というのは、憲法上重大な疑義がある、こういうふうに私どもは考えております。はっきり申し上げます。(「疑義じゃだめだよ」と呼ぶ者あり)
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第61回国会 衆議院 予算委員会 第14号 昭和44年2月19日
このWikipediaの記事では、「と答弁、集団的自衛権の合憲性に初めて否定的な見解を示した。以降も日本政府は、集団的自衛権は違憲である、という趣旨の答弁を一貫して行うようになる[15]。」との記載があるが、日本政府が否定しているのは「集団的自衛権」ではなく、「集団的自衛権の行使」である。『権利』の適用を受ける地位は有しているのであり、否定されていないのである。ただ、「行使」にあたっては、統治権の『権限』による「武力の行使」が行われる状態を意味するのであり、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の下では「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中での「武力の行使」を全て違憲としているために、「集団的自衛権の行使」は行うことができないのである。政府答弁でも正確な表現が使われていない部分があるが、憲法上の『権力・権限・権能』がいかなる過程によって正当化されているのかというバックグラウンドを理解した上で読み取れば、意味は明らかとなる。
「— 1972年10月14日、参議院決算委員会提出資料」は、当サイトでも何度も取り上げている1972年(昭和47年)政府見解のことである。
この資料の引用後、「この見解文書によって、『必要な自衛の措置』は『必要最小限度の範囲にとどまるべき』なので、集団的自衛権は違憲である、という論理構成が定まった[17]。」との記載があるが、誤りである。
ここで使われている『必要最小限度』の意味は、「右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」の文言から来たものであり、「自衛の措置」の程度・態様を意味するものである。これは、この「自衛の措置」として「武力の行使」を行う場合の「武力の行使」の三要件の第三要件に対応するものである。
━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━ ← 三要件(旧)の全てを含む意味
「武力の行使」の旧三要件
① 我が国に対する急迫不正の侵害があること
② これを排除するために他の適当な手段がないこと
③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと ← 第三要件の程度・態様の意味
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また、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が「憲法上許されない」理由は、この1972年(昭和47年)政府見解の結論部分で「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と記載されていることによるものである。「集団的自衛権の行使」とは、この「我が国に対する急迫、不正の侵害」が発生していない段階で「武力の行使」を行うものであるために、行使することが許されないのである。これは、「武力の行使」の三要件(旧)で表現すれば、第一要件を満たしていない中で「武力の行使」を行うことが許されないという意味である。
━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━
「武力の行使」の旧三要件
① 我が国に対する急迫不正の侵害があること ← 第一要件
② これを排除するために他の適当な手段がないこと ← 第二要件
③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと ← 第三要件
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このWikipediaの1972年(昭和47年)政府見解の文言上の「右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」から抜き出して「『必要最小限度の範囲にとどまるべき』なので集団的自衛権は違憲である」との認識している部分は誤りである。
「1981年、政府は稲葉誠一衆議院議員(日本社会党)への答弁書」で用いられている「必要最小限度」は、「我が国を防衛するため必要最小限度」の意味である。
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国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利を有しているものとされている。
我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている。
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この「我が国を防衛するため必要最小限度」とは、「自衛のための必要最小限度」と同じ意味である。
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お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)
つまり、「1981年、政府は稲葉誠一衆議院議員(日本社会党)への答弁書」で用いられた「必要最小限度」の意味は、1972年(昭和47年)政府見解で示されている「武力の行使」の三要件の第三要件に対応する意味ではなく、三要件全てを指す意味の「必要最小限度」である。
━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━ = 【我が国を防衛するため必要最小限度】
「武力の行使」の旧三要件
① 我が国に対する急迫不正の侵害があること
② これを排除するために他の適当な手段がないこと
③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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その後、このWikipediaでは、「この時点で政府解釈では、
・個別的自衛権=必要最小限度の範囲内の自衛措置=合憲 ・集団的自衛権=必要最小限度の範囲を超える自衛措置=違憲 というラインが自明のものとして採用されており、」などと記載しているが、9条の下で行使できる「武力の行使」の範囲については、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たしているか否かで判断しているのであり、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』の区分を用いて判断しているわけではないため、誤りである。「ラインが自明のものとして採用されており」との認識であるが、「集団的自衛権の行使」が憲法上許されないとの結論は、「武力の行使」を発動できる場合が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たしているか否かによって決せられる副次的なものである。そのため、国際法上の『権利』の区分によってラインが引かれているかのように論じることは誤りである。
「さらにそれにあわせて個別的・集団的自衛権が日本国憲法の独自の基準で再定義されていた。」との記載もあるが、誤りである。「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国際法上の概念であり、その内容を決するのは国際司法裁判所などの国際機関である。「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を日本の政府や裁判所が独自に定義することはできない。日本国憲法の中に9条の規定が存在していることから、日本国の統治権は「武力の行使」を発動できる場合が他国には見られない独自の基準によって制約されることになることは確かであるが、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の『権利』の区分を「日本国憲法の独自の基準で再定義」したなどということはなく、誤りである。
「『現在の日本政府の解釈上の集団的自衛権を、日本は行使できない』という自家撞着的結論が定められた[18]。 」との記載もあるが、9条によって日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制約される結果、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については行うことができないというものであり、「日本政府の解釈上の集団的自衛権」などというものを行使できるか否かなどは論じられていない。このWikipediaを記載した論者が、「集団的自衛権」が国際法上の法主体に与えられる『権利』の区分であり、これを「行使」する場合とは通常「武力の行使」が行われることとなり、9条はその日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」を制約しているという論理を理解していないだけである。
『自衛隊の海外派遣と再度の解釈改憲』
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閣議決定によると、日本における集団的自衛権の行使の要件として、日本に対する武力攻撃、又は日本と密接な関係にある国に対して武力攻撃がなされ、かつ、それによって「日本国民」に明白な危険があり、集団的自衛権行使以外に方法がなく、必要最小限度の実力行使に留まる必要があるとしている[23]。これを自衛の措置としての武力の行使の「新三要件」という。また、あくまで集団的自衛権の趣旨は日本国民を守るものであるため、密接な関係にあったとしても、他国民の保護のための行使はできない。また、専守防衛は堅持していくとし、先制攻撃は許されていない。海外派兵についても許されていない[要出典]。
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との記載があるが、誤りがある。
まず、「集団的自衛家の行使」とは「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行うものであるから、「集団的自衛権の行使の要件として、日本に対する武力攻撃、」などと、「集団的自衛権の行使」であるにもかかわらず「日本に対する武力攻撃」を要件としている点が誤りである。
「日本と密接な関係にある国に対して武力攻撃がなされ、かつ、それによって『日本国民』に明白な危険があり、集団的自衛権行使以外に方法がなく、必要最小限度の実力行使に留まる必要があるとしている[23]。」との部分であるが、新三要件の「存立危機事態」の要件は下記のとおりであり、正確な表現ではない。
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「武力の行使」の新三要件 〔存立危機事態〕
◯ わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
◯ これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
◯ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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「『日本国民』に明白な危険」の部分は、正確には「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」である。
また、「集団的自衛権行使以外に方法がなく」の部分についても、第一要件を引き継ぐ形で「これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと」としているものであり、「武力の行使」の発動要件に「集団的自衛権行使」という国際法上の『権利』の区分を持ち出すことは誤った表現である。
「集団的自衛権の趣旨は日本国民を守るものであるため、密接な関係にあったとしても、他国民の保護のための行使はできない。」との記載があるが、「集団的自衛権」は『他国からの要請』に応じる形で行使できる『権利』であり、この『他国からの要請』に基づく「武力の行使」である点で『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」であり、「他国民の保護のための行使はできない。」との認識は論理的に成り立たない。また、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」については、「他国に対する武力攻撃(第一要件・存立危機事態)」を「排除(第二要件)」するための「武力の行使」であり、これを『他国防衛』の意図・目的を有しない「武力の行使」であると説明することもできない。実質的に『他国防衛』の意図・目的を有することとなる「武力の行使」を実施する組織を「陸海空軍その他の戦力」でないと説明することはできず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
さらに、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であり、「日本国民を守るもの」を理由としてもそれだけでは必ずしも「武力の行使」が許されるというわけではない。そのため、「他国民の保護のため」の「武力の行使」が許されないことは当然、「日本国民を守るもの」を理由としても9条に抵触しないことを説明したことにはならない。「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても未だ9条の規範性を通過していないのであり、それだけで「日本国民を守るもの」を理由とする「武力の行使」を行うことが許されることになるわけではなく、9条の規範性を通過していない段階で「武力の行使」を行うことは、日本国が国際紛争において自国の意思を貫くために「武力の行使」を選択したことになるため、9条1項の禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に抵触して違憲となる。また、同様の理由で9条2項後段の禁じる「交戦権」に抵触して違憲となる。さらに、それらの「武力の行使」や「交戦権」を行使する組織についても、9条2項の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
この記事の『出典』の 2.~20. は、【篠田英朗 『集団的自衛権の思想史 憲法九条と日米安保』】から引用しているようである。しかし、篠田英朗の集団的自衛権行使の合憲論については、当サイトの「篠田英朗」の項目で詳しく論じているが、論理的整合性なく、論拠の不備がかなり見られる。このWikipediaの記事についても、「篠田英朗」の書籍を参考としている点で、同じような誤りが見られる。
このWikipediaの記事からは、他の不審な点も見ることができる。記事中に存在していた「自衛権の必要最小限度の範囲と質的・量的概念」の項目が削除されているのである。
日本の集団的自衛権 従来の政府見解 2018年3月8日 (木) 06:11 Wikipedia
「自衛権の必要最小限度の範囲と質的・量的概念」
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日本の集団的自衛権 従来の政府見解 2018年3月8日 (木) 06:15 Wikipedia
⇒(削除されている)
編集履歴を確認すると、「Susuka」という利用者が行ったようである。
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(最新 | 前) 2018年3月8日 (木) 06:15 Susuka (会話 | 投稿記録) . . (43,270バイト) -7,334 . . (→自衛権の必要最小限度の範囲と質的・量的概念: 重複する部分を削除。) (取り消し)
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この「Susuka」という利用者は、においても「参考文献」として「篠田英朗 『集団的自衛権の思想史 憲法九条と日米安保』 風行社〈選書 風のビブリオ〉、2016年7月15日。ISBN 978-4-86258-104-4。」を加えている。
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(最新 | 前) 2018年3月1日 (木) 03:06 Susuka (会話 | 投稿記録) . . (53,258バイト) +18,441 . . (取り消し) タグ: サイズの大幅な増減
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しかし、当サイトで指摘しているように、「篠田英朗」の論旨は整合性がない。そもそも、「必要最小限度」の言葉の意味を誤っているからである。この「Susuka」という利用者は、自らの望む合憲という結論に持ち込むために、事実を意図的に消去しているようにも見受けられる。
Wikipediaの情報を読み取る際は、情報そのものだけでなく、どのような意図を持って編集されているのかについても確認しておきたい。
ただ、以前Wikipedia内に「抵抗の憲法学」という記事があり、「篠田英朗」の書籍から取ったと思われる内容のものがあったが、既に削除されたようである。
抵抗の憲法学 Wikipedia
Wikipedia:削除依頼/抵抗の憲法学 Wikipedia
〇 平和安全法制 Wikipedia
<沿革>
【安保法制懇報告書】
「安保法制懇報告書」については、「安保法制懇の間違い」のページで詳しく解説した。ここでもいくつか解説する。
3.で、「憲法第9条1項で、自衛のための武力の行使は禁じられておらず、国際法上合法な活動への憲法上の制約はない。」との記載があるが、誤りである。国際法と憲法では法分野が異なるのであり、「国際法上合法」であったとしても、憲法に違反することは当然にあり得る。それにもかかわらず、「国際法上合法な活動への憲法上の制約はない。」との認識は誤った認識である。また、このような認識は国際法優位説に基づくものであり、憲法よりも国際法を上位と見なすものであるから、国家の主権(最高独立性)の独立性を損なわせる点で妥当な解釈とは言えない。
3.で、「同条第2項は、自衛やいわゆる国際貢献のための実力の保持は禁止されていない。」との記載があるが、「自衛」の範囲について、政府は従来から「自衛のための必要最小限度の実力(組織)」と表現しており、三要件(旧)を満たす「武力の行使」の範囲に限られるとしていた。「自衛」のためであれば9条2項のいう「陸海空軍その他の戦力」を保持できるとするものとは異なることを押さえておくべきである。
3.で、「『必要最小限度』の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の憲法解釈は、『必要最小限度』について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではなく、『必要最小限度』の中に集団的自衛権の行使も含まれると解すべきである。」との記載があるが、誤った認識である。まず、従来から政府が「自衛のための必要最小限度」と読んでいるのは三要件(旧)を満たす「武力の行使」のことである。これは、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否かによって「武力の行使」の可否が決せられるという基準を有していたため、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」については、この第一要件を満たさないために、9条の許容する範囲に「含まれない」と導かれていたのである。1972年(昭和47年)政府見解においても、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示し、これを満たさない「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は、違憲と導かれていたのである。そのため、「抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではなく、」との認識は誤った認識である。「『必要最小限度』の中に集団的自衛権の行使も含まれると解すべきである。」との認識についても、従来より「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる基準は、第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること」が含まれているのであり、これを満たさない「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」がこの第一要件を含む「自衛のための必要最小限度」に含まれるはずはなく、「含まれると解すべきである。」と望んでも、論理的に不可能である。論者は9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えている可能性があるが、9条は政府が自国都合によって「武力の行使」等に踏み切ることを制約する規定であり、数量的な意味での「必要最小限度」などという基準が制約の基準となるのであれば、それは政府の行為を制約する法規範として成り立たず、「努力義務」のような規定と解するものとなってしまう。これでは憲法解釈として妥当性を有しないのであり、9条の制約を数量的な意味での「必要最小限度」と考えることはできない。
7.で、「武力攻撃に至らない侵害への対応については、自衛隊の必要最小限度の国際法上合法な行動は憲法上容認されるべきである。」との記載があるが、国際法と憲法は法体系が異なるのであり、「国際法上合法」でも、憲法に違反することはあり得るのであり、「国際法上合法な行動は憲法上容認されるべきである。」との認識は論者の願望としか言いようがない。また、ここで使われている「必要最小限度」についても、法解釈上で用いられている意味のものか定かでない。
8.で、「必要最小限度の範囲の自衛権の行使には個別的自衛権に加えて集団的自衛権の行使が認められるという判断も、政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることによって可能であり、憲法改正が必要だという指摘は当たらない。」との記載があるが、誤りである。まず、「必要最小限度」の意味であるが、従来から政府が「自衛のための必要最小限度」と読んでいたものは、三要件(旧)を満たす「武力の行使」のことである。この第一要件には「我が国に対する急迫不正の侵害があること」が示されており、これを満たさない「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」が、「自衛のための必要最小限度」の中に含まれることはない。論者は9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えている可能性があるが、従来から9条は数量的な意味での「必要最小限度」という基準による制約を課すものだという解釈は為されていないし、政府答弁でも否定されている。
【憲法解釈を変更する閣議決定】
「2014年(平成26年)7月1日閣議決定」については、「集団的自衛権行使の違憲審査」のページで詳しく解説した。ここでもいくつか解説する。
〔憲法第9条の下で許容される自衛の措置〕
この2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の一部分を抜き出して「基本的な論理」と称している。しかし、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の規範について述べた部分は「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」との文言であるにもかかわらず、2014年7月1日閣議決定では、「一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の『武力の行使』は許容される。」と記載されており、正確に抜き出したものとは言えない。そもそも、「この自衛の措置は」と書き出しているにもかかわらず、語尾は「『武力の行使は許される。」となっている。文章としての概念構成が整合的に組み立てられていないのである。
「この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。」との記載に続き、結論として「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。」と記載しているが、「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分は、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味するため、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに含まれない。そのため、「この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。」との認識によって「基本的な論理」が維持されているとするのであれば、「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している違憲審査基準によって、違憲となる。
その後「憲法上許容される上記の『武力の行使』は、」や「憲法上『武力の行使』が許容されるとしても、」、「憲法上許容される『武力の行使』を行うために」との記載で、「存立危機事態」での「武力の行使」が憲法上許容できるかのように話を進めようとしているが、先ほども述べたように、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の違憲審査基準によって違憲となることから、許容されない。
「我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものである。」との記載があるが、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の下では、「我が国を防衛するため」であるからと言って必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のである。「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合しないにもかかわらず、「初めて許容されるものである。」などと、あたかも憲法上許容されるかのような前提で話を進めようとしている点で誤りである。
<平和安全法制への意見>
【賛成意見】
〔国際法上、集団的自衛権の行使は合憲〕
まず、タイトルの「国際法上、集団的自衛権の行使は合憲」との記載があるが、国際法は憲法ではないため、「国際法上」とするのであれば「合法・違法」との表現となり、「合憲」との文言を使うことは誤りである。論者は、「国際法上…合憲」との表現を用いており、「国際法では、憲法違反」との意味となり、意味不明なのである。
「国連憲章51条では集団的自衛権は個別的自衛権と共に全ての国連加盟国に認められた『固有の権利』と定めており、憲法にも自衛権の行使は否定されていないことから、日本も集団的自衛権を有しており、行使が可能であるため合憲である[67]。」との記載があるが、誤りである。「集団的自衛権」や「個別的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』である。この違法性阻却事由の『権利』は、国家が「武力の行使」を実施した場合に、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して違法となるところを、その違法性を阻却して有責性を問われないようにするものである。そのため、これらの「自衛権」を行使するということは、実質的に国家による「武力の行使」が実施されているのである。憲法は国際法上の『権利』に対して制約を課したり否定したりはしていないが、この日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規定である。そのため、たとえ日本国が国際法上の「集団的自衛権」や「個別的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していたとしても、日本国の統治権の『権限』が行使できる「武力の行使」の幅は、憲法解釈によって確定されるのである。よって、論者のように「集団的自衛権」を有しているからと言って、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」ができるということには繋がらず、「合憲である」との結論も直接的に導かれることはない。
「日米同盟を結んでいる日本の集団的自衛権の行使は可能である[68]。」との記載があるが、誤りである。まず、国家の統治権の『権限』の範囲は憲法によって決せられるのであり、国際法上の『権利(right)』を有していたとしても、『権限(power)』の範囲は変わらない。また、条約は憲法よりも下位の規定であり、違憲審査が可能である。同盟関係などを取り結ぶ条約によって「武力の行使」などを定めたとしても、憲法に抵触するものであれば違憲であり、行使できないことには変わりない。
<平和安全法制に関する見解>
【個人の見解】
項目に「賛成・合憲」「反対・違憲」との記載があるが、正確には誤りである。まず、憲法上(法律論上)行使できるか否かを決する合憲・違憲と、政策論上の適否を示す賛成・反対の議論は異なるものである。「違憲ではあるが、賛成(憲法改正すべき)」の場合や、「合憲ではあるが、反対(政策上すべきでない)」の場合もあり得るのである。そのため、「賛成・合憲」「反対・違憲」とすることは、「賛成と考える者が合憲であると主張している」や「反対と考える者が違憲であると主張している」との誤った認識を招いてしまいかねない点で適切ではない。
その他
〇 下記のサイトは、理解の不十分な点が見られる。
木村草太教授の「将棋」としての「抵抗の憲法学」
幼稚な詭弁 『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』
幼稚な詭弁 『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』 (アゴラ) : 憲法学者 木村草太の 矛盾だらけのお粗末な主張
「自衛権を13条で基礎づけるのは無茶である」などの趣旨があるが、「自衛権」とは憲法上の「行政権(65条)〔明治憲法下では統帥権、他に王権などがあり得る〕」を外国からの攻撃に対して自衛的に行使した際に、国際法上「自衛権」と呼ばれているだけのものである。
これは、「13条権限」というような国家の統治権の『権限』ではない。13条は日本国の統治権の『権限』を行使する場合の『目的』となる人権規定であり、『手段』としての統治権の『権限』(65条・行政権にあたるもの)ではないからである。
安保法制に関する9条と13条の関係は、『行政権の目的外使用』が問われているわけであり、日本国の統治権の行う自衛のために行使している『権限』の根拠が「13条権限」とでもいうものによって行使されているわけではない。
そのため、「13条を根拠にして個別的自衛権が行使できるならば、同じく13条を根拠にして集団的自衛権も説明できる」という結論にはならないと考える。
なぜならば、9条の制約の例外性を基礎づける意味で13条の「国民の権利」を保護する趣旨が存在しているわけであり、これを他国民を保護する集団的自衛権にまで拡大的に適用することは、例外性を基礎づける13条の中に読み込むことはできないからである。
加えて、13条を根拠とする解釈は憲法学者独特のものというわけではない。これは政府見解となっているものである。これらの記事は、一見憲法学者を批判しているように見えるが、実は政府解釈を批判していることになっているということを押さえておきたい。
政府見解
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憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、1972(昭和47)年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところです。
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憲法と自衛権 防衛省・自衛隊
木村草太が「13条代用論」を書いた時に、「解釈が強引」「憲法破壊」との批判が上がったが、政府の憲法解釈と同じなのである。 Twitter
〇 下記も解説する。
(連載2)憲法学者による憲法9条と13条の倒錯的な理解 ← (連載1)憲法学者による憲法9条と13条の倒錯的な理解 2017-06-06
(連載1)憲法学者による憲法9条と13条の倒錯的な理解 2017-06-05
(連載2)憲法学者による憲法9条と13条の倒錯的な理解 2017-06-06
まず、国民からの「信託」によって国家の権限が成り立つことは正しい。これが国民主権原理による国家の統治機関が成立する過程である。この成立した国家の権限を、統治権という。日本国は三権分立の形式をとっているため立法権・行政権・司法権がそれにあたる。
しかし、この主権者である「日本国民」が9条において、軍事に関する権限を放棄しているわけである。よって、信託によって樹立した政府に対して9条が制約をかけているのではなく、主権者が放棄した権限は、もともと国家の権限として発生していないのである。
9条で国際法上の概念である自衛権が放棄されているわけではなく、放棄されているのは憲法によって発生しうる軍事に関する国家の権限である。13条の権利の保障に役立つために9条のやり方が導入されているというものではない。「たとえ他国の防衛にあたる行為であっても13条(国民の権利)に役立つのであれば、対外的な戦争行為や武力の行使が許される」との発想で国家の権限が行使されることを防ぐために、9条が存在しているのである。つまり、13条という「国民の権利」の実現という、自国都合によって国家が武力の行使に踏み切ることを禁止するために9条が設けられているわけである。
憲法典上の国家の権限の根拠は、統治権(立法権41条・行政権65条・司法権76条)である。13条権限というような国の権限は存在していない。13条は、国家が国民の自由や権利を侵害せず、保障し、実現することを示した規定である。
「国際法上の概念である自衛権を、13条で基礎づけようと」しているわけではない。国際法(国連憲章51条)の自衛権とは、違法性阻却事由のことである。これは、各国の憲法によって発生している統治権が、「武力の行使」を行った際に、それが違法性阻却事由である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」にあたるかどうかの話でしかないのである。つまり、日本国の統治権による「武力の行使」が、国際法上の集団的自衛権という権利を行使することで国際法上の違法性を阻却できるものにあたるかどうかである。この「集団的自衛権」というものは、国の権限の根拠を示したものではない。
国際法上の民族「自決権」や海洋での「無害通航権」などの権利も、国家の行動を基礎づける権限(権力)ではない。これは、国際法における権利を示したものに過ぎず、国家行為の権限の根拠ではないのである。
「国家の行動」「国家行為」の根拠である統治権(立法権・行政権・司法権)が9条によって制約されているだけであり、日本国は国際法上の諸権利を9条によって制約されているわけではない。
国際法上の「権利」は、憲法典で基礎づける必要は全くない。国際法上の「権利」を行使する幅が与えられていることと、「国家の権限(国家の行為)」が制約されていることは、全く次元の異なる話である。この点についての混乱は、論者の思い込み以外には、全く何も他に理由がないと思われる。
国家は国民からの「信託」によって発生することは、その通りである。政府が立憲主義の原理に沿って行動すべきであることも、その通りである。「信託」にそっているかどうかは、憲法の条文に裏付けられた審査基準を用いるべきであることも、その通りである。その審査基準となるものは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」として示されているものである。2014年7月1日閣議決定においても、この審査基準は維持されているとしているが、その論旨の結論として「存立危機事態」での「武力の行使」を容認した旨は、この審査基準との論理的な整合性が保たれておらず、結果として審査基準の範囲を超えることとなる。よって、「存立危機事態」での「武力の行使」は、9条に抵触し違憲となる。これにより、日本国は国際法上の違法性阻却事由としての集団的自衛権にあたる国家の権限が存在しないことから、「集団的自衛権にあたる国家の権限」の行使は違憲となるということである。
これらは、抽象的な絶対平和主義を包括的に設定したというものではない。論者の誤解によるものと思われる。
この論者は、「国際法上の集団的自衛権にあたる国家の権限」が違憲と言うべきところを、省略し、「集団的自衛権は違憲」との表現に、かなり惑わされていると思われる。「権利」と、権力に裏付けられた「権限・権能」の意味となる「権」の違いを正確に読み解くことで、誤解を解消することができると思われる。
〇 下記のサイトは、理解に混乱が見られる。
安保法制、集団的自衛権の違憲理由を憲法学者が説明できないワケ 2016-09-21
憲法学者「木村草太」の論旨は、1972年(昭和47年)政府見解(従来の政府見解)の「基本的な論理」に書かれている13条の趣旨について述べたものである。1972年(昭和47年)政府見解は、集団的自衛権にあたる国家の権限(武力の行使)を違憲と結論付ける解釈のものである。よって、このサイトの論者は「集団的自衛権を合憲とする政府見解を引っ張ってきて、集団的自衛権を違憲とする自説の根拠にしたのであるから」とあるが、これは事実に反している。
この論者は、2014年7月1日閣議決定の文書を読んだ際に、「1972年(昭和47年)政府見解の『基本的な論理』を維持している」と記載されている部分に対して、あたかも2014年7月1日閣議決定が集団的自衛権にあたる国家の権限を合憲と結論付けようとした際に、初めて13条を根拠とする解釈を導いたかのように誤解しているのである。この主張は、ウソの部類である。
憲法学者「長谷部恭男」も、集団的自衛権にあたる国家の権限(武力の行使)は、1972年(昭和47年)政府見解(従来の政府解釈)の「基本的な論理」の枠内では説明できない旨を述べており、違憲判断の理由を答えている。「長谷部氏は違憲判断の理由を全く答えていない。」との部分も、この論者の理解不足によって意味を正確に読み取れなかったことによるものであり、全くお話にならない。
国会議事録を確認する。
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○長谷部参考人 安保法制というのは多岐にわたっておりますので、その全てという話にはなかなかならないんですが、まずは、集団的自衛権の行使が許されるというその点について、私は憲法違反であるというふうに考えております。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつきませんし、法的な安定性を大きく揺るがすものであるというふうに考えております。
それからもう一つ、外国の軍隊の武力行使との一体化に自衛隊の活動がなるのではないのか、私は、その点については、一体化するおそれが極めて強いというふうに考えております。
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第189回国会 衆議院 憲法審査会 第3号 平成27年6月4日 (下線・太字は筆者)
存立危機事態の要件は、従来の政府見解である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」では説明がつかないため、違憲としているのである。法的安定性を揺るがすとしている点は、1972年(昭和47年)政府見解の中に、存立危機事態の要件が当てはまるとする解釈は、社会通念に照らして妥当でないことによるものと考えられる。
また、自衛隊が外国の軍隊の武力行使と一体化した場合、9条1項の「武力の行使」や9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当し、違憲となることを指摘していると思われる。
この論者は、論理の破綻以前に、議論されている事柄の論点を正しく抽出できていないのである。
〇 「自国防衛を目的とする措置」であっても、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を逸脱すれば違憲であることを理解していない。
憲法学者らの集団的自衛権行使「違憲論」を排す 2015-06-26
憲法学者らの集団的自衛権行使「違憲論」を排す 加藤成一 2015-06-26
「かれらは『たとえ自国防衛を目的とする措置であっても、それらが集団的自衛権の行使にあたれば、これらの措置は違憲であり、認められない』と主張している。」との記載がある。しかし、「集団的自衛権の行使」にあたれば、違憲となるとの判断は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を禁じている帰結によって導かれているものである。そのため、「集団的自衛権の行使にあたれば違憲」というよりも、「1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)を逸脱すれば違憲」なのである。これによれば、たとえ「個別的自衛権」にあたる「武力の行使」であっても、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)を逸脱する場合には違憲となるのである。
「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国連憲章51条が違法性阻却事由として示した『権利』である。その『権利』を行使する行動とは、各国の憲法上で定められた国家の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」である。9条はこの「武力の行使」を制約する規定であり、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」が全て違憲となるのである。
9条は「自国民の利益」の実現や、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による恣意的な動機によって「武力の行使」に踏み切ることを禁ずる規定であることから、たとえ「自国防衛を目的とする措置である」との理由であっても、その時々の政治判断の恣意的な判断によって「武力の行使」を可能とする解釈は、9条の規範性を損なうため許容されない。
「存立危機事態」の要件は、「自国防衛が目的」としているものではあるが、「他国に対する武力攻撃」に起因している点で相当因果関係が認められず、9条の禁じている「武力の行使」に該当して違憲となる。また、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という要件も、政府の恣意性を排除することのできない要件の設定であり、9条の規範性を損なっている。
よって、「自国防衛を目的とする措置」であっても、国際法上の「集団的自衛権の行使」の要件としての「武力の行使」にあたるか否か以前に、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に逸脱するものであれば、違憲となるのである。政府は「存立危機事態」の要件は、この「基本的な論理」から逸脱していないと結論のみを述べようとしているが、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」はここに含まれない。そのため、「存立危機事態」の要件が「基本的な論理」と称している部分に当てはまるとする主張には論理的整合性がなく、31条の「適正手続きの保障」の趣旨を満たさない法的安定性も損なっている。「存立危機事態」の「武力の行使」は1972年(昭和74年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠を外れ、9条に抵触して違憲となるのである。
〇 国連憲章が日本国の統治権に権限を付与すると考えている点に誤りがある。
「その自衛権を個別的と集団的の二つに分けて後者の行使を禁じるなどという、世界で類例のない、粗放、大胆不敵な判断を最高裁が下すはずはない。」との記載があるが、まず、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国際法上の『権利』の概念であって、その概念を基に判断を下すのは、国際司法裁判所であり、日本国の裁判所ではない。日本国の裁判所が判断しうるのは、日本国の統治権の『権限』が9条によりいかなる制約を受けているかのみである。その9条に制約を受けた中で、政府が「武力の行使」を行うことのできる場合と、できない場合の線引きを判断するわけである。ここに、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分の枠組みは関係ない。
この、9条の下で日本国の統治権の『権限』が行うことのできる「武力の行使」の範囲を示しているのが、1972年(昭和47年)政府見解である。この9条解釈は、「武力行使全面禁止説」や「芦田修正説」に比べて法の論理的整合性や体系的整合性の高い安定した解釈である。この1972年(昭和47年)政府見解に示された範囲内であるかどうかは、裁判所で示される可能性のある基準である。
「権利があって行使できないなど、ばかな話はない。」とあるが、国際法上の『権利』を有していることと、国家の統治権の『権限』が制約されていることは、全く別の議論である。国連憲章が憲法の規定に則って国会が承認し、批准されたことは確かであるが、この国連憲章は国家の統治権に対して「武力の行使」の『権限』を付与する意味を持っていない。国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由としての『権利』であって、国家の統治の『権限・権能・権力』ではないのである。
憲法98条2項の「条約・国際法規の遵守義務」についても、国連憲章を遵守したところで、日本国の統治権の中に国連憲章51条の言う「個別的自衛権」や「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」の『権限』が付与されるわけではなく、相変わらず日本国は9条で制約された範囲内の「武力の行使」しかすることができないのである。
国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」について、憲法98条2項に「条約・国際法の遵守義務」が設けられているとしても、矛盾するものではない。
〇 勉強不足です。国連憲章(条約)と憲法の上下関係と、国際法上の「権利」と憲法上の「権限」の違いを勉強してください。
安保法案を『違憲だ!違憲だ!』と叫ぶ全ての方へ 「勉強不足です。勉強してください」 長谷川豊 2015年07月21日
国連憲章51条は、国連憲章2条4項に対する違法性阻却事由としての『権利』である。9条は、この『権利』を制約しているわけではないが、憲法上の統治権(立法権・行政権・司法権)の『権限』を制約しているのである。
また、論者の取り上げている砂川事件判決を読めば分かるように、裁判所は条約についても違憲審査できるとの立場に立っていることから、「憲法優位説」が採用されている。
さらに、「9条の2項は違憲」との主張があるが、まず、9条は憲法規定である。そのため、憲法規定に合致するかを審査するものが違憲審査であるのであるから、憲法規定である9条2項は違憲とはならない。「国連憲章違反」との主張についても、主権国家である日本国は、「憲法優位説」を採用することで、国家の主権(最高独立性)が保たれているのであるから、国連憲章に違反したところで、国連憲章は憲法を是正する効力を持たない。
このことから、国連憲章を国家の統治権の根拠として説明することはできず、国連憲章自体も、国家に統治権を付与する意味を持たず、国連憲章51条も相変わらず違法性阻却事由としての『権利』について述べたものであるから、憲法9条の規定が日本国の統治権を制約することは揺るがない。
その9条の制約の範囲がいかなるものかを示したものが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分である。2014年7月1日閣議決定は、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を採用しているが、結論として述べられている「存立危機事態」の要件は、この基準から逸脱するものである。
よって、2014年7月1日閣議決定の「存立危機事態」の要件や、安保法制の「存立危機事態」の条項は、政府自身の違憲審査基準によって違憲となるのである。
〇 国際法の「権利」と国家の「権限」を区別できれば、情報を見誤らないはずである。
「集団的自衛権が憲法違反とは一言も言っていません」との記載があるが、国際法上の『権利』を制約する旨の憲法規定がないことは確かであるが、憲法9条は国家の統治権による「武力の行使」を制約している。この「武力の行使」の制約された区分が、国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の区分に該当するという話である。
「海外派兵を避けたいという政府の思惑から」「集団的自衛権ではなく、個別的自衛権の発動ということにしたのです」との記載があるが、誤りである。日本国の統治権が制約されていることとと、国際法上の違法性阻却事由の区分である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」は異なる概念である。日本国の統治権の制約を、国際法上の区分に従って行う意図の下に判断したのではなく、憲法解釈として、日本独自の9条の制約の基準で判断しただけである。
「集団的自衛権があるのに行使しないという矛盾は」との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由としての『権利』を有することは確かであるが、やはり国家の統治権の『権限』は9条によって制約されているという意味であり、矛盾は存在しない。
「憲法学者としては、従来の解釈を繰り返すほか無かったのでしょうが、集団的自衛権を違憲と断定する憲法解釈には大いなる疑問を抱きます」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定においても、従来の政府見解である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分が維持されているとしており、この基準に「存立危機事態」での「武力の行使」が含まれると読むことはできないことから、この「存立危機事態」での「武力の行使(国際法上の集団的自衛権の区分に含まれるもの)は違憲となるのである。
「この会の皆さんは未だに安保条約が集団的自衛権であることも認めておられないようです」との記載があるが、安保条約は「集団的自衛権」の『権利』について定められていたとしても、国家の統治権の『権限』はやはり9条によって制約を受けており、『権利』の部分を国家の『権限』として行使しないことに全く矛盾はない。
「最高裁が日米安保条約を違憲とは言えないとされていることは、集団的自衛権も違憲とは言えないと判断したものではないでしょうか」との記載があるが、誤りである。「集団的自衛権」という『権利』を有していても、日本国の統治権の『権限』は9条によって制約されているのであり、この違いさえ理解できれば、最高裁の判断が「集団的自衛権」にあたる日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を認めたとの判断にはならない。続いて「そう理解するのが自然であり」とあるが、上記の点の違いを理解すれば、あまりに不自然である。
〇 やはり「権利」と「権限」の違いを理解していない。「権」の文字に惑わされている。
2015年安保|集団的自衛権を斬る① そのゆるぎない合憲性と、岩盤の様に固い根拠の砂川判決、転載フリー 2016.08.21
日本国が国連加盟国として国際法上の違法性阻却事由としての「集団的自衛権」という『権利』を行使する幅を与えられていることは確かであるが、日本国の統治権は9条によって制約を受けており、この幅(権利)にあたる『権限』を行使することはできないのである。この事実は、「全国の不勉強な憲法学者」が問題なのではなく、唯一九州大学の準教授がこの違いを区別できていなかっただけである。
2015年安保|分りやすい集団的自衛権 2016.08.21
「違憲とする憲法学者は日本の司法制度の本質を知らない無知な学者たち」との記載があるが、誤りである。違憲とする憲法学者は、『権利』と『権限』の違いも理解しており、国家の『権限』が自国の憲法によって国民主権原理を基に正当化されているものであることも理解しており、司法制度の本質も理解しているのである。
〇 砂川判決の「権利」と「権限」の違いを読み間違えたものである。
集団的自衛権は 憲法9条に違反しておらず 合憲と考えられる 2014年6月28日
国際法上の違法性阻却事由としての「自衛権」という『権利』を有することと、日本国の統治権の『権限』によって行うことのできる「自衛の措置」の範囲は別の問題である。
国際法上の『権利』を有するからと言って、日本国の統治権の『権限』の幅がその『権利』の範囲に拘束されることはない。
国際法上の「集団的自衛権」にあたる国家の統治権による「武力の行使」は、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって制約され、行うことができない。
〇 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」という違憲審査基準を捉えられていない。
集団的自衛権とかの件も自分の頭で考えないと 2015/06/18
「まず,気に入らないのは,違憲と言いながら,何が違憲なのかさっぱりわからないってことです。」や「従来の解釈の幅の範囲で,集団的自衛権が合憲だと結論づけるのはそんな難しいことじゃないと思うのです。」との記載がある。
まず、違憲の理由は、2014年7月1日閣議決定においても、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分が採用されいることである。この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の違憲審査基準に照らすと、「存立危機事態」の要件は違憲なのである。「従来の解釈の幅の範囲で」というのは、政府が述べていることではあるが、これ自体が法論理上不可能なのである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を採用する限りは、国際法上の「集団的自衛権」にあたる国家の『権限』としての「武力の行使」を行うことは無理である。
「個別的自衛権」や「集団的自衛権」というのは、日本国が統治権として行使する「自衛の措置(武力の行使)」が、国際法上のどの違法性阻却事由としての『権利』の区分に該当するかという問題でしかなく、違憲審査基準それ自体は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分なのである。
〇 9条解釈の論理を知らず、解釈内の論理的整合性が保たれていないことを理解できていない。
解釈改憲こそ改めるべきー的外れの違憲・合憲論ー その1 2015.7.4
三段落目に「どこに、そんなことが書いてあると言うのか。」との記載があるが、9条解釈について政府が採用している1972年(昭和47年)政府見解に書いてあるのである。この見解の「基本的な論理」は、2014年7月1日閣議決定においても前提として採用されているとしているのである。
「自らの強引な解釈を言っているに過ぎない。学問的な説得力はまるでない。」としているが、1972年(昭和47年)政府見解とは、9条解釈が大きく「武力行使全面禁止説」「武力行使一般禁止説」「芦田修正説」の三つに分けられる中から、最も学問的な説得力を有する説である。憲法学者はこれを述べているだけであり、「自らの強引な解釈を言っているに過ぎない。」というわけではない。実際に、従来から政府は採用してきた見解であるし、2014年7月1日閣議決定においても、その「基本的な論理」の部分は維持しているとしているのである。
「このような筆者の指摘には、反論できないであろう。」とあるが、まず、この論者は先ほど述べた2014年7月1日閣議決定の中に含まれている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」という前提から、「存立危機事態」での「武力の行使」の要件を論理的に導き出すことができない点について理解が不足している。そのため、解釈変更の可能性自体は当然あり得るのであるが、それを論理的整合性のない形で行っている政府の解釈に問題があることを理解できていない。その結果、「解釈改憲で自衛隊を合憲としてきたのであるから」との説明は、論点がズレている。よって、この論者の指摘には、反論する必要がなく、呆れる他はない。
最後に、政府解釈を挙げているが、上記、2014年7月1日閣議決定の中に含まれている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」という前提から、存立危機事態の要件を導き出すことは、論理的整合性はなく、法的安定性も保たれていないのである。結果として、政府自身の採用する1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持する以上は、「存立危機事態」の「武力の行使」は違憲となる。
〇 「憲法優位説」や「権利と権限の違い」、1972年(昭和47年)政府見解の理解が十分でない。
我が憲法論の補足 2015.9.5
「国連憲章は憲法の規定に優先し、国連に加盟している日本はこれを尊重する義務がある。したがって集団的自衛権の行使を憲法で否定することはできない。」との記載があるが、誤りである。まず、国連憲章は条約であり、憲法の規定に優先することはない。砂川判決においても、裁判所は条約についても違憲審査できる趣旨を示しており、憲法優位説が採用されている。また、日本が国連に加盟しても、国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という自衛権は『権利』であり、統治権の『権限』というわけではない。そのため、各国に統治権としての『権限』を割り振った意味を持たないことから、国連憲章を尊重したところで、日本国の統治権における9条の制約が揺らぐことはない。
「いずれにしても『解釈改憲』では、自衛隊を認めた時と同じように、こじつけの屁理屈で十分なのであるから、問題はなかろう。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解は法学上の論理解釈においても無理はなく、こじつけでも屁理屈でもない。しかし、2014年7月1日閣議決定は、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を前提として維持しているとしているが、この中に「存立危機事態」の要件を見出すことは法解釈として無理があり、こじつけや屁理屈に該当する。よって、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。
〇 集団的自衛権にあたる国家の権限の合憲性を砂川判決で裏付けることはできない。
橋下市長「集団的自衛権の行使を認める最高裁判決が必要なのでなく、それを否定する最高裁判決があるかどうかがポイントとなる」6/15ツイッター 2015/6/16
「自衛権」が国際法上「国家固有の権利」であったとしても、各国の憲法によって定義される統治権が「武力の行使」を制約している場合は当然にあり得る。
「今回の新3要件は、純粋な他国防衛ではない。存立危機事態の定義からすれば自国防衛。」との内容は正しい。しかし、他国に対する武力攻撃であるにもかかわらず、自国の防衛のために「武力の行使」を行うことは、まさに9条の規範性を踏み越え、違憲との評価を免れられない。自国の防衛であれば、政治的な判断によって「武力の行使」ができるとするのであれば、国際法上の「集団的自衛権」にあたるか否かとは関係なく、9条の規定が存在している意味から求められる規範性を損ね、結果として違憲なのである。
「集団的自衛権の行使を否定した最高裁判決は存在しない。」との説明は正しい。しかし、砂川判決は「集団的自衛権」にあたる国家の『権限』を許容しているかどうかは全く触れていないのであるから、「集団的自衛権の行使」を主張する側がそれを裏付ける最高裁判決として砂川判決を持ち出すこと自体の妥当性がないのである。そこを批判されているわけである。
〇 権力者の権力の源が法に裏付けられていることを理解しておらず、人治主義を擁護する主張となっており、法学上の正当性を議論できる前提にない。
集団的自衛権=違憲? 「国民主権」をも縛る「立憲主義」の愚 2015.06.05
「憲法9条自体が国民主権に違反し、憲法違反である」と述べているが、9条は憲法規定であり、憲法違反にはならない。この場合、「国民主権に違反する」と言いたいのかもしれないが、憲法以前に「国民主権」という原理が自然法的に存在しうるのかどうかという議論をする必要がある。なぜならば、大日本帝国憲法では、「天皇主権」であり、「国民主権」ではなかったからである。主権が国民にあることを定めたものが、憲法なのである。
もし、憲法以前に自然権として人権概念が存在するとしているように、その人権概念から国民主権の原理を導き出すことができるとしても、その国民主権によって日本国憲法が制定されたことになるから、9条は国民主権に裏付けられていることになる。よって、9条は「国民主権に違反する」という主張も誤りである。
確かに法は万能ではない面が存在する。しかし、ここで述べられている「校長や教職員の判断」が憲法や法律などの法令から逸脱したならば、直ちに処分が下されるはずである。場合によっては刑事罰を受けることになる。国家の場合も同様で、憲法や法律などの法令に違反した場合は、刑事罰や処分を受けるのである。
予想されていなかった国際情勢の変化があり、解釈変更では限界に達し、憲法違反となるようであば、憲法改正をとるしか合法的な手段がないのである。
国民を説得しようとしても、2014年7月1日閣議決定において、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に存立危機事態の要件が含まれるとしている点は、法の論理に基づかない論理的整合性のない解釈であるため、日本国が法治主義を廃止することを国民に説得しない限りは不可能である。
法学の学習の際は、「法の支配」「立憲主義」「法治主義」のキーワードを理解するところからはじめることをお勧めする。当サイトも、学習段階にある者に、正しい理解をしていただけるように努めていこうと思う。
〇 概念構成が誤っているため、全体として意味を理解しづらい。
「集団的自衛権」という衣を身にまとった「個別的自衛権」 ―違憲/合憲解釈の物議を眺めて― 2015/08/14
「政府が提示する『集団的自衛権』は、政府が示した見解のとおり合憲だと筆者も認めます。」との記載があるが、まず、「集団的自衛権」とは国連憲章2条4項の武力行使禁止原則に対して51条で認められた違法性阻却事由としての『権利』の区分である。よって、「政府の提示する『集団的自衛権』」との言葉であるが、政府は「存立危機事態」での「武力の行使」を提示しており、それが国際法上「集団的自衛権」に該当することがあるとしているものであり、政府が「集団的自衛権」という『権利』を提示しているわけではない。また、「存立危機事態」での「武力の行使」については、2014年7月1日閣議決定の中で示されている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」という政府自身が設定した違憲審査基準によって違憲となる。よって、合憲とは認められない。
「それは、政府が提示する『集団的自衛権』は、実のところ『集団的自衛権』という衣を身にまとった『個別的自衛権』なので、合憲だということです。」との記載があるが、誤りである。まず、政府は「存立危機事態」での「武力の行使」を提示しているだけであり、その「武力の行使」が国際法上「集団的自衛権」に該当する場合があるとしているだけである。また、「集団的自衛権」と「個別的自衛権」とは、国際法上別の概念であるため、実際に「武力の行使」が行われた場合、国際法上「集団的自衛権」にあたるか「個別的自衛権」にあたるかは明確に区別されることとなる。そのため、「『集団的自衛権』という衣をまとった『個別的自衛権』」などと概念は成立しない。「存立危機事態」での「武力の行使」については、「我が国(自国)に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」であるため、国際法上も「個別的自衛権」に該当しない。また、「存立危機事態」での「武力の行使」については「他国からの要請」を得て行使することが前提となっており、国際法上も「集団的自衛権」に該当すると思われる。さらに、9条が制約しているものは「武力の行使」であり、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を制約しているわけではない。よって、「『個別的自衛権』なので、合憲だということ」との記載があるが、9条の下では、たとえ国際法上の「個別的自衛権」という『権利』に該当して国際法上の違法性阻却事由を得られたとしても、その「武力の行使」が必ずしも許容されるわけではない。9条の下では「個別的自衛権」に該当する「武力の行使」であっても、9条に抵触して違憲となる場合があるのである。
【2.1. 「武力の行使」に関するもの】
「一言で言うと、『武力の行使』は広い意味で個別的自衛権の範疇内に制限されているので、憲法違反には該当しないというのが政府の見解の主旨でしょう。」との記載があるが、意味がよく分からない。まず、9条は「武力の行使」を制約しているが、これは1972年(昭和47年)政府見解が制約しているものであり、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である「個別的自衛権」によって制約しているわけではない。よって、論者の「個別的自衛権の範疇内に制限されている」との記載は誤りである。「政府見解の趣旨でしょう」という記載についても、政府はそのようには述べておらず、誤りである。
また、論者は「武力の行使」と「武器の使用」について、区別した理解を持っていないように思われる。そのため、この項目のその後の論旨も意味が通じないように思われる。
「つまり、『武力の行使』は広い意味で個別的自衛権の範疇内に制限されています。 」との記載もあるが、誤りである。国際法上は「武力の行使」について、「自衛権」としての制約の範囲である必要があるが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解によって制限されているのである。この違いを理解していないと思われる。
【3. 筆者の見解: 合憲だけど「クラゲの骨」】
「当該文書が砂川事件の判示に触れているのは、日本国には個別的自衛権があることを確認する文脈の中です。」との記載があるが、誤りである。砂川判決が認めた「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけであり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていないのである。よって、日本国は国際法上の「自衛権」を有していることは確かであるが、論者の主張しようとしている「個別的自衛権があることを確認する文脈」の意味であるが、恐らく「『我が国に対する武力攻撃が発生したこと』の要件を満たす『武力の行使』ができることを確認する文脈」と言いたいのかもしれないが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていないので、そのような文脈は存在しておらず、誤りである。
「私の見立てによると、政府のいう『集団的自衛権』は、政府が示したロジックのとおり、概念的には合憲です。」との記載であるが、「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の概念なので、9条が日本国の統治権の『権限』に対して制約をかけている趣旨とは異なるものであるから、違憲や合憲の対象とならない。政府が示したのは、「存立危機事態」での「武力の行使」についてであり、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」であるから、政府自身が2014年7月1日閣議決定の中で違憲審査基準として採用している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって違憲となる。概念的に違憲である。
【3.1. 政府のいう「集団的自衛権」は、実のところ「集団的自衛権」という衣を身にまとった「個別的自衛権」】
「この意味の通らないアクロバティックな概念上の結合関係は、ある意味、政府が『これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性』を保つことに最大限注意を払ってきたことを黙示していると、私は理解しています。 」との記載であるが、全体として「意味の通らない」概念であるとの認識は正しい。なぜならば、政府は「集団的自衛権」という「他国からの要請」が必要となる違法性阻却事由の『権利』の行使としての「武力の行使(存立危機事態での武力の行使)」を行おうとするが、それを『自国防衛』と称している点で、論理的に矛盾しているからである。また、それとは別に、9条は『他国防衛』の「武力の行使」はもちろんであるが、『自国防衛』の「武力の行使」であるからといって必ずしもその「武力の行使」を許容する趣旨の規定ではない。なぜならば、9条は政府が自国都合によって恣意的な判断で「武力の行使」に踏み切ることを禁ずる趣旨の規定であり、『自国防衛』であるからといって「武力の行使」が合憲となると考えた場合、9条の規定が存在している意味を無視するものとなるからである。このような理由で「武力の行使」が合憲となると考えることは、9条解釈において一定の規範性を確定する憲法解釈という営みそのものを否定することとなるため、憲法解釈として妥当でないのである。このことから、9条の趣旨を生かして解釈された1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に、「存立危機事態」での「武力の行使」の要件が適合しないのであるから、「政府が『これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性』」を保っているなどと主張している点は解釈の過程を誤っており、31条の適正手続きの保障の趣旨を逸脱した違法なものというべきである。「最大限注意を払った」などとの評価もあるが、論理的整合性は保たれておらず、注意を払おうとも違憲であることには変わりがないのである。
「そして、政府は、多くの憲法学者と同様、憲法解釈上正当化できるのは、『個別的自衛権』に限られると考えています。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。「個別的自衛権」とは、国際法上の『権利』である。憲法上正当化できる日本国の統治権の『権限』とは、1972年(昭和47年)政府見解に示された範囲内での「武力の行使」である。政府は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に「存立危機事態」での「武力の行使」が入ると主張しているが、多くの憲法学者は論理的整合性がないと主張しているのである。
「実際のところは、『集団的自衛権』という衣を身にまとった『個別的自衛権』です。 それが、『個別的自衛権』のパラフレーズの1つであるかぎり、概念的には合憲ということになります。」との記載があるが、誤りである。実際のところは、「存立危機事態」での「武力の行使」は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」である。これは、国際法上も自国に対する武力攻撃が発生していない中で行われる「武力の行使」であるため、「個別的自衛権」の区分に該当しない。また、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない限りは「武力の行使」は違憲としているのであるから、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず「武力の行使」を行うこととなる「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、すべて違憲である。「存立危機事態」での「武力の行使」についても、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさないために違憲である。
【(筆者の見解のまとめ)】
(1)と(2)については、どちらも上記に示した通り、概念設定が誤っているために意味が通じない。
「それゆえ、『個別的自衛とはそもそも何か?どのような条件なら個別的自衛権を行使できるのか?』について、政府と国民が一体となって、様々な想定を継続的に検討してみることが、大切です。」との記載があるが、「個別的自衛権」とは国際法上の権利であり、「そもそも何か?」とは、国際司法裁判所の見解を精査するべきである。また、日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことができる場合とは、1972年(昭和47年)政府見解に示された通りである。これは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たした場合にのみ「武力の行使」ができるとするものである。「個別的自衛権を行使」できる場合については、国際司法裁判所の見解を精査するべきである。
〇 最初から最後までかなり間違っている。
あなたが選ぶ9条はどれ? Twitter
自分の頭で考える人。高橋裕行先生の拒絶【集団的自衛権】は違憲?
まず、「国家としての自衛権」が『在り』『無し』に分かれているが、その意味するところを正確に捉えられていないため、誤りと言うべきものである。まず、「自衛権」とは国際法上の「武力不行使の原則」などに対する違法性阻却事由の『権利(right)』の区分である。日本国は主権国家であり、国際法上この違法性阻却事由としての「自衛権」の適用を受ける地位を有しているのであるから、「自衛権」という『権利(right)』それ自体は『在り』である。
9条は「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」を行っているが、国際法上の「自衛権」を否定する趣旨の規定ではないのである。国際法上の『権利(right)』を有することと、9条が日本国の統治権の『権力・権限・権能(power)』を制約する趣旨とは性質が異なるのである。
この「自衛権」という『権利(right)』を有するか否かという議論は、その後のカテゴリーで示されているような、【侵略戦争の否定】【自衛は肯定】や【武力保持の否定】【自衛も否定】(自衛隊も違憲)などという話とは関係がない。
「憲法学者に多いタイプです。」との記載があるが、ここは政府答弁や憲法学の教科書の記述も混乱している点が見られるため、著者の意味するところを正確に読み取らなければ間違った理解をしてしまうので注意が必要である。
【自衛権に他国の防衛は含まれるか】との項目であるが、「自衛権」の内容を理解する必要がある。
まず、不戦条約の下で使用されていた「自衛権」の文言は、国連憲章51条で言えば「個別的自衛権」の部分である。そのため、この場合は『他国の防衛』を「含まない」のである。
政府答弁で「自衛権」の文言が使われる際、必ずしも「武力の行使」が行われる状態を意味していない場合があるが、一貫して日本国が「自衛権」を行使する場合は、『自国の防衛』(正当防衛の範囲)であり、『他国の防衛』は含まれていなかった。
「自衛権」を広義に捉えると、国連憲章51条の「集団的自衛権」についてもここに含まれると考えられる。
ただ、この「含む」「含まない」の項目に続く【フルスペックの自衛権肯定】【個別的自衛権のみ肯定】とのカテゴリーは、意味が通じない。
なぜならば、9条が制約しているのは「自衛権」ではなく、「戦争」と「武力の行使」、「戦力」、「交戦権」だからである。この9条の下で『他国防衛』の「武力の行使」が可能か否かを問われているのであり、国際法上の「自衛権」という『権利(right)』に『他国防衛』が含まれるか否かという話は、9条とは関係がないからである。
「制限付きで含む」の項目であるが、続いて【個別的自衛権は肯定】【集団的自衛権は制限付き】との記載があるが、やはり9条は「自衛権」という『権利(right)』に対して何ら制約をしていないのであるから、肯定も否定も制限もしていない。論点は、9条の下で「武力の行使」ができる範囲の一点であり、その「武力の行使」が国際法上の違法性阻却事由の区分の「個別的自衛権」にあたるのか、「集団的自衛権」にあたるのか、「集団安全保障」にあたるのかは、9条の下で許容される「武力の行使」の範囲が確定することから生まれる付随的な問題でしかないのである。
「制限とは?」とあるが、その後に続く「存立危機事態」を含む新三要件は、「自衛権」という『権利(right)』に対する制限ではなく、日本国の統治権の『権限(power)』によって行われる「武力の行使」に対する制限である。
ただ、この「存立危機事態」の要件は、9条の規範を通過していることを示す規範性を設定した基準を見出すことができないため、9条に抵触して違憲となる。
「以上のような前提をへて尚、これが他国防衛にあたるのでしょうか?」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」は、「わが国に対する急迫、不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中で、「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を行うものである。また、国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由を得るためには、『他国からの要請』が必要であり、この『要請』の存否によって「武力の行使」の可否が決せられることとなっている。このことは、『他国防衛』を含む「武力の行使」であるということができる。政府は「我が国を防衛するため」であると主張するが、『他国防衛』の意図を含んでいるか否かを明確に識別できる基準を有しない中で「武力の行使」を行えるようになっていること自体が、9条に抵触して違憲となるのである。
また、「これが他国防衛にあたるのでしょうか?」との記載であるが、この図の作成者は【自衛権に他国の防衛は含まれるか?】から棒線を導いた部分には、「制限付きで含む」と書かれている。自分で「他国防衛」を「含む」と分類しながら、「これが他国防衛にあたるのでしょうか?」と疑問を呈することは、矛盾した内容となっている。
「あなたが選ぶ9条解釈はどれ?」とのタイトルであるが、内容が誤っているためにどれでもないという結論が正しい選択と思われる。
〇 砂川判決の論旨を読み誤っている。
[「海外への自衛隊派遣を進めて、外国との摩擦の機会を増やす安倍政府。」って、なんだかなぁ、いまだにこの水準ってのが悲しくなるよね、というお話。] 2020/05/06
「この『国家固有の権能』とは『自然権』を指すと思えるが、これについて『個別的自衛権』のみを指すという見解もある。」との記載があるが、誤りがある。
まず、砂川判決が「国家固有の権能」として示しているのは日本国の統治権の『権限』による「自衛のための措置」の問題である。そのため、「自然権」であるか否かという話題とはなっていない。また、「自衛権」が「国家固有の権利」や「自然権」と表現される場合についても、「自衛権」が国際法上の法主体に対して与えられる『権利』の概念であり、日本国の統治権の『権限』とは性質が異なる。よって、「『国家固有の権能』とは『自然権』を指すと思える」との認識は誤りとなる。
次に、「これについて『個別的自衛権』のみを指すという見解もある。」との部分であるが、これは国際法上の「自衛権」という『権利』の概念について、国家の成立によって当然に持っているものとしての「自然権」の性質を意味する場合、国連憲章51条の区分で表現するのであれば「個別的自衛権」に該当するものと考える説についての議論である。しかし、「個別的自衛権」は国際法上の『権利』の概念であるため、論者の示すような「国家固有の権能」という国家の統治権の『権力・権限・権能』の概念とは異なる。この点に混乱が見られる。
「しかし判決当時は、『集団的か個別的か』というような、そのような問題の立て方そのものが存在しなかったのだ。」との記載があるが、前提認識に混乱が見られる。
まず、砂川判決が「自衛権は何ら否定されたものではなく」と述べているのは、9条が国際法上の『権利』の概念を直接的に制約している規定ではないことを示しているだけである。
また、日本国は国家承認を受けており、国際法上の法主体として認められていることから、他国と同様に「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有している。
しかし、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していても、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約していることにより、国際法上の『権利』の行使として行われる「武力の行使」を行うことができない場合があり得る。
そのため、「『集団的か個別的か』というような、」などと、国際法上の『権利』の概念の区別がなされていないとしても、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を伴う「自衛の措置」を行うことができるか否かは別問題である。
「『個別的自衛権のみ合憲』という考え方は、その後になんとか、すでに国民に承認された感がある自衛隊を合憲とするために、ある意味捏造というか、それこそ『解釈改憲』された法理にすぎない。」との記載があるが、認識に誤りがある。
まず、従来より政府は9条の下で行使することのできる「武力の行使」とは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲に限られると説明していた。そして、自衛隊についても、「自衛のための必要最小限度」という旧三要件を実施する範囲に留まるのであれば、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触しないと説明している。
そして、この旧三要件の範囲の「武力の行使」を行う場合、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触するところを、国連憲章51条の区分で言えば「個別的自衛権」に該当して違法性が阻却されるとするものである。
そのため、国際法上の区分である「個別的自衛権」に該当する「武力の行使」の全てが「合憲」となると理解しているのであれば、正確には誤りである。政府解釈によれば、9条の下で「合憲」と解することができるのは「自衛のための必要最小限度」という旧三要件の範囲の「武力の行使」や、それを行使するための実力組織だけである。
「すなわち同判決の『国家固有の権能』とは、集団的かつ個別的自衛権を指しており、したがって最高裁判決は集団的自衛権の保持と行使を認めている。」との記載があるが、誤りである。
まず、砂川判決の「国家固有の権能」とは、「自衛のための措置」を指すものである。「『国家固有の権能』とは、集団的かつ個別的自衛権を指しており、」との理解は誤りである。
次に、「最高裁判決は集団的自衛権の保持と行使を認めている。」の部分であるが、最高裁判所の砂川判決は「自衛権は何ら否定されたものではなく」と述べているだけであるため、「集団的自衛権」については直接的に触れていない。ただ、9条は日本国の統治権の『権限』に対する制約であると考えられ、国際法上の『権利』を直接的に制約しているとは考えにくい。日本国が国際法上の「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していることはその通りであると思われる。
しかし、その「集団的自衛権」を行使する場合についてであるが、これは国家が「武力の行使」を行った場合に国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して違法となるところを、国連憲章51条の「集団的自衛権」という『権利』を用いてその違法性を阻却することを意味することから、実質的に「武力の行使」が行われている状態である。
9条はこの「武力の行使」を制約する概念であり、砂川判決では日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。そのため、砂川判決を基にして「集団的自衛権の行使」という日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を伴う措置を「認めている」と表現することは誤りである。
「さらに憲法81条は最高裁を『違憲法令審査権を有する終審裁判所』と認めており、最高裁判決が集団的自衛権の保持を認めているのだから、これを認めることは何ら憲法違反ではなく、むしろ認めないほうが憲法違反だ。」との記載があるが、誤りである。
まず、最高裁判決の砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。そのため、仮に「自衛権は何ら否定されたものではなく」の部分を基にして「集団的自衛権」という国際法上の『権利』の適用を受ける地位についても否定されていないと考えることができるとしても、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を正当化することはできない。
論者は、「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有していることと、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができるか否かが異なることを理解していないと思われる。論者があたかも砂川判決が日本国の統治権の『権限』によって「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことを認めているかのように認識している部分は誤りである。
お読みいただきありがとうございます。次は、「集団的自衛権の合憲性の誤解4」へどうぞ。