まず、前文を見てみよう。
【前文】
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日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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前文の世界観を図で表してみた。
前文の内容分類
政府見解を確認する。
〇 平和主義について
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二について
憲法の基本原則の一つである平和主義については、憲法前文第一段における「日本国民は、・・・政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」の部分並びに憲法前文第二段における「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」及び「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」の部分がその立場に立つことを宣明したものであり、憲法第九条がその理念を具体化した規定であると解している。
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集団的自衛権並びにその行使に関する質問に対する答弁書 平成26年4月18日 (下線・太字は筆者)
〇 国際協調主義について
質問主意書情報 小西洋之 平成30年7月31日
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一 政府は、憲法前文の「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」との規定の趣旨についてどのような意味であると考えているか、分かりやすく答弁されたい。
二 政府は、憲法前文の「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」との規定の趣旨についてどのような意味であると考えているか、分かりやすく答弁されたい。
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憲法前文の「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」の規定の趣旨等に関する質問主意書 平成30年7月31日
↓ ↓ ↓ ↓
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一及び二について
お尋ねの憲法前文第三段の趣旨は、我が国が国家の独善主義を排除し、国際協調主義の立場に立つことを宣明したものと解している。
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憲法前文の「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」の規定の趣旨等に関する質問に対する答弁書 平成30年7月31日
〇 政府見解を参考に内容を分類する
【前文】
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日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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> 『国民主権』及び間接民主制
> 『基本的人権の尊重』(自由・権利)
> 『平和主義』の立場に立つことを宣明したもの
> 我が国が国家の独善主義を排除し、「国際協調主義」の立場に立つことを宣明したもの
前文と憲法の体系との関係
前文の性質や憲法の体系との関係を整理してみよう。
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日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、 「第4章 国会」
われらとわれらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と、
わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、 「第3章 国民の権利及び義務」
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、 「第2章 戦争の放棄」
ここに主権が国民に存することを宣言し、 (第1条〔主権在民〕)
この憲法を確定する。
そもそも国政は、
国民の厳粛な信託によるものであつて、 (第15条〔公務員の選定罷免権、公務員の本質、普通選挙の保障及び投票秘密の保障〕)
その権威は国民に由来し、 (第1条〔天皇の地位〕)
その権力は国民の代表者がこれを行使し、 (第4章 国会、第5章 内閣、第6章 司法)
その福利は国民がこれを享受する。
これは人類普遍の原理であり、
この憲法は、
かかる原理に基くものである。
われらは、
これに反する一切の憲法、
法令及び詔勅を排除する。 (98条〔憲法の最高性〕)(第81条〔最高裁判所の法令審査権〕)
日本国民は、
恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。 (9条1項〔戦争の放棄〕)(9条2項〔戦力及び交戦権の否認〕)
われらは、
平和を維持し、
専制と隷従、
圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、 (97条〔基本的人権の由来特質〕)
名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、
全世界の国民が、
ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 (13条〔幸福追求権〕)(97条〔基本的人権の由来特質〕)
われらは、
いづれの国家も、
自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、
政治道徳の法則は、
普遍的なものであり、
この法則に従ふことは、
自国の主権を維持し、
他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 (98条2項〔条約及び国際法規の遵守〕)
日本国民は、
国家の名誉にかけ、
全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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前文と憲法の体系を照らし合わせて確認してみよう。下の図では、前文と条文体系の関係性を「→」で示した。
前文のキーワード
繰り返し使われている用語やよく似た用語の対応関係を検討する。
【前文】
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日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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【似たものを集める】
・日本国民 われら
・わが国 自国
・国際社会 各国 いづれの国家
・諸国民 全世界の国民
・主権(最高決定権) 主権(最高独立性)
・国政 権力 政府
・行為 行使
・自由 権利 安全と生存
・原理 法則
・正当 公正
・信託 信義 信頼
・権威 厳粛な
・人類普遍の原理 政治道徳の法則は普遍的なもの 人間相互の関係を支配する
・名誉ある地位 国家の名誉
・隷従 従うこと (通じて行動?)
・平和 協和
・恒久 永遠
・全土 地上
・恵沢 福利
・成果 達成する
・由来 基く
・一切 全
・決意し、 決意した。 念願し、 誓ふ。 宣言し、
・思ふ。 信ずる。 深く自覚する
・確保し、 占めたい 享受する。
・確定する。 確認する。
・保持しよう 維持し、
・排除する。 除去しよう
・努めてゐる 専念して
・存する 有する
・地位 立とうとする
〇 4回出てくる「平和」とは何か
「恒久の平和を念願し、」
「平和を愛する諸国民」
「平和を維持し、」
「平和のうちに生存する権利」
9条「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」
〇 原理・関係・相互
> 人類普遍の原理
> 人間相互の関係を支配する崇高な理想
> 政治道徳の法則は、普遍的なもの
これらは、
> 人類普遍の原理 ⇒ 「基本的人権+国民主権」
> 人間相互の関係を支配する崇高な理想 ⇒ 「平和主義」
> 政治道徳の法則は、普遍的なもの ⇒ 「国際協調主義」
に対応しているのだろうか。
それとも、3つとも「基本的人権」も当てはまるのだろうか。
> 人間相互の関係を支配する崇高な理想 ⇒ 「基本的人権」
> 政治道徳の法則は、普遍的なもの ⇒ 「基本的人権」
「政治道徳の法則」は「国民主権」も意味しているのだろうか。
> 政治道徳の法則は、普遍的なもの ⇒ 「国民主権」
〇 「関係」とは何か
> 人間相互の関係
> 他国と対等関係
〇 「人類普遍の原理」とは何か
「人類普遍の原理」とは、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」の部分を意味し、「国民主権」とそれに基づく「代表民主制の原理」のことを言っていると思われる。
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お尋ねの趣旨が必ずしも明らかではなく、お答えすることは困難であるが、憲法前文の「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」の意味は、人類普遍の原理である国民主権に反するような一切の憲法、法令及び詔勅を排除するとの意味であると理解している。
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憲法前文と武力の行使に係る憲法解釈に関する質問に対する答弁書 平成26年6月27日
ただ、「人類普遍の原理」の中には、「基本的人権」も含まれているという説もある。
「憲法」 第三版(芦部信喜・高橋和之補訂) (第三版の場合はP37)
第一部 総論
第三章 国民主権の原理
一 日本国憲法の基本原理
2 基本原理相互の関係
(一) 人権と主権
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このように、国民主権(民主の原理)も基本的人権(自由の原理)も、ともに「人間の尊厳」という最も基本的な原理に由来し、その二つが合して広義の民主主義を構成し、それが、「人類普遍の原理」とされているのである(第十八章三3図表参照)。
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(下線・太字は筆者)
【参考】「人類普遍の原理」とは何か 2016年2月15日
立憲主義、自由主義、民主主義の関係性について
【動画】【司法試験】2021年開講!塾長クラス体験講義~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~<体系マスター憲法4-6> 2021/02/09
〇 「政治道徳の法則」とは何か
「政治道徳の法則」とは、国家間の「政治道徳」を意味するのか。それとも、「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国」は、自国民の中の関係で「政治道徳の法則」に従うべきと述べているのか。あるいはその両方を意味するのか。
〇 「この崇高な理想と目的」とは何か
「崇高な理想」という文言は、2回登場する。これらの意味は異なるのだろうか。
・ 第二段第一文「人間相互の関係を支配する崇高な理想」
・ 第四段「この崇高な理想と目的を達成すること」
> 第二段第一文の「崇高な理想」は、第二段が「平和主義」についての内容であるから、「平和」に関することであるようにも思われる。
> 第四段の「崇高な理想」の内容は、第二段第一文と文言が重なっていることから、同様に「平和」に関することと考えるべきだろうか。
第四段の「崇高な理想」の前には、「この」の文言が付いている。「この」が指し示しているものを、明確に特定することができない。第二段第一文と同じであれば、「平和」について述べているのかもしれない。もしかすると、直前の第三段の文全体(国際協調主義に関する部分)を指しているのかもしれない。
読み方のバリエーション
・ 「この崇高な理想」と「目的」
・ この「崇高な理想」と「目的」
・ この崇高な「理想と目的」
前文の中に、この用語に対応するものが明確に存在するのかもよく分からない。
それとも「この『崇高な理想と目的』」と全体で読んで、第一段、第二段、第三段をすべて指しているのかもしれない。また、前文のすべての内容を指して「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」(国際協調主義)を読み込んでいるのかもしれない。もしかすると、憲法典全体を指しているのかもしれない。
「目的」というのは、「諸国民との協和による成果」と「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢」を指しているのかもしれない。その場合、「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」を「目的」に対する「手段」と考える。
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日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動【手段】し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果【目的1】と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢【目的2】を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
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しかし、この第一段の第一文の内容は、「この憲法を確定する。」に続く部分であり、「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」の部分は憲法を確定する過程を示すものに過ぎないのかもしれない。すると、「諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、」の部分は、戦争終結後の各国との間での戦後処理を終わらせ、日本国民(正確にはその地域の人々)に自由があることを確保した上で、その日本国民(その地域の人々)の自由な意思によって「憲法を確定する。」との過程を示しているだけであり、『目的』とは関係がないようにも思われる。
ただ、そのように読む場合にはこの日本国憲法が確定するまでは正式には大日本帝国憲法下での「帝国議会」しか存在しないはずであり、この憲法によって初めて確定するはずの「国会」が「この憲法を確定する。」よりも前に登場することは不自然に思える。また、日本国憲法が確定するまでは、正確には大日本帝国憲法下での「臣民」であり、「日本国民」ではないことから、「日本国民は、~確定する。」の意味も不自然である。
この『目的』にも、「平和」に関することが当てはまるのだろうか。
ただ、『崇高な理想』の文言は、第二段落一文目にも使われており、文の内容は「平和主義」に関係するものである。
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日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する『崇高な理想』を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
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この場合、「この『崇高な理想』と『目的』」と区別して読むのであれば、「崇高な理想」は「平和主義」を、「目的」は「国際協調主義」による「諸国民との協和による成果」「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢」ぐらいが当てはまるように思われる。
ただ、「人間相互の関係を支配する崇高な理想」というのは、「基本的人権の尊重」や「国民主権」の原理による政治、諸国との「国際協調主義」を示しているようにも読み取ることができそうである。そうなると、「この崇高な理想と目的」の文言は全体として第一段、第二段、第三段のすべてを指しているのかもしれない。
他にも、「この崇高な理想と目的」の文言は、特に前文に限らず、大きく憲法の条文全体も含めるとする説もあるようである。
第四段の最後の部分である「この崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」という記載を起点として検討してみる。これを起点として考えると、この第四段落より前に記載された第一段落から第三段落までの部分に「この崇高な理想と目的」の内容となるものが存在しているはずである。
そして、憲法には、「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」という三大原理(三大原則)があり、前文の中では「国際協調主義」についても触れている。
そのことから、第二段落・第一文は「平和主義」に関係する文であり、その中に記載された「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、」の部分の「崇高な理想」の意味は、「平和主義」に関係する内容であるように推察される。また、「平和主義」と「国際協調主義」は密接に関係していることから、「崇高な理想」の意味の中には、「平和主義」に限られず、「国際協調主義」の意味も含まれていると仮定することができる。
そうなると、第四段落の「この崇高な理想と目的」の「目的」となるものは、「基本的人権の尊重」と「国民主権」に関係するのではないかと導かれる。
・「崇高な理想」 → 「平和主義」「国際協調主義」
・「目的」 → 「基本的人権の尊重」「国民主権」
◇ 第二段第一文の「崇高な理想」について、政府の答弁は下記の通りである。
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また、憲法前文第二段第一文に規定する「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは、友愛、信頼、協調というような、民主的社会の存立のために欠くことのできない、人間と人間との関係を規律する最高の道徳律をいい、同文に規定する「深く自覚する」とは、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚した結果、自ら進んで決意したことを示したものであり、憲法前文第二段第三文に規定する「恐怖と欠乏」とは、「平和のうちに生存する権利」の言わば対極にある戦争によってもたらされる様々な惨禍などのことをいうものと解している。
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憲法の平和主義及び憲法前文の趣旨等に関する質問に対する答弁書 平成27年1月9日 (太字・色は筆者)
◇ 第四段について、政府答弁は下記の通りである。
質問主意書
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八 憲法前文の「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」という文言の趣旨について、特に、「この崇高な理想と目的」という文言の意味について具体的かつ網羅的に示しつつ、最大限に具体的かつ詳細に説明されたい。
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↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
答弁書
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お尋ねの憲法前文第四段の趣旨は、憲法前文全体でうたわれている理想と目的を達成することを誓うものであると解している。
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憲法の平和主義及び憲法前文の趣旨等に関する質問主意書 平成27年1月9日 (太字は筆者)
<理解の補強>
小学校社会_6学年_下巻(前文) Wikibooks
憲法の平和主義及び憲法前文の趣旨等に関する質問に対する答弁書 平成27年1月9日
(憲法の平和主義及び憲法前文の趣旨等に関する質問主意書 平成27年1月9日)
第一段・第一文の文構造
前文の第一段の第一文は非常に読みづらい。どのような意味か検討してみる。
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日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
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読み方A
前文は最後に、「この崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」との記載があることから、「目的」となるものが何かを探す読み方である。
分割してみよう。
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日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と、
わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、
ここに主権が国民に存することを宣言し、
この憲法を確定する。
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「確保し、」の文言を、「〇〇を確保すること」が【目的】となっているのではないかと解し、「諸国民との協和による成果」と「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢」を【目的】と仮定する。
「諸国民との協和による成果」「を確保」する内容は、徹底した「平和主義」が実現されて初めて実現するものであり、未だ達成されていないと考え、「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」する内容は、未だ憲法中に示した自由は十分に実現されていないと考える説である。
この読み方の延長線上で、次の文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすること」についても、将来に渡って実現していかなくてはならないものであるから、達成されているわけではなく、【目的】の一つであると考える。
すると、「することを決意し、」の文言は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに」「すること」だけでなく、「諸国民との協和による成果」「を確保」「すること」や「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」「すること」にも及んでいる(掛かっている)と考える。
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日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、
「諸国民との協和による成果と、
わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」し、
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに」「することを決意し、」
ここに主権が国民に存することを宣言し、
この憲法を確定する。
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【目的】 「諸国民との協和による成果」「を確保」「することを決意し、」
【目的】 「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」「することを決意し、」
【目的】 「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに」「することを決意し、」
この読み方は、『諸国民との協和による成果』と、『わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢』は未だ確保されておらず、既に実現されているわけではないことを前提とすることで、それらを確保する「決意」に繋がり、その後「宣言し、この憲法を確定する」と読み解くことで意味が通じると考えるのである。
(いや、国民の自由な意思によって憲法を確定することこそが国民主権を示すことになるからこそ、この文言なのか?)
この読み方は、第一段は「~し、」の文言が4回連続しているが、それらを並列に読み解くことはしない。
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日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と、
わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、
ここに主権が国民に存することを宣言し、
この憲法を確定する。
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ただ、「~し、」を基準に見てみると、「することを決意し、」「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」にも当てはまるように思われる。
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日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、「することを決意し、」
われらとわれらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と、(を確保し、)「することを決意し、」
わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、「することを決意し、」
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに「することを決意し、」
ここに主権が国民に存することを宣言し、
この憲法を確定する。
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上記のように、「することを決意し、」の文言は、他の部分にも適用できると考えられる。
これを裏付けることは、「諸国民との協和による成果」と「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢」が未だ確保されていないと考える読み方をしているのであれば、もし「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」をカットした場合、文の意味が全体として通じないことがある。
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日本国民は、①正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、②諸国民との協和による成果と、③わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、(カット)④ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
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上記のようになると、①②③は既に実現した過去のものとなってしまう。すると、【目的】を失ってしまうのである。
よって、「することを決意し、」の文言は、下記の四つのすべてに及ぶと考えるのである。
【目的】 正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、「することを決意し、」
【目的】 諸国民との協和による成果と、(を確保し、)「することを決意し、」
【目的】 わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、「することを決意し、」
【目的】 政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに「することを決意し、」
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日本国憲法はその前文で憲法制定の目的を2つ掲げました。1つは「わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保」するため、すなわち、日本中に自由と人権をもたらすという人権保障のために憲法を作りました。これは立憲主義の第2ステージです。もう1つの目的は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」、政府に二度と戦争をさせないために憲法を作りました。この点が立憲主義の第3ステージであり、その具体化として憲法9条、前文の平和的生存権規定を設けたのです。
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第八十九回 憲法施行70年にあたって 〜9条、13条、24条を考える〜 伊藤真
【動画】伊藤塾塾長 伊藤真 特別講義「行政書士と憲法」 2021/2/23
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前文は四つの部分からなっている。一項の前段は、「主権が国民に存すること」および日本国民が「この憲法を確定する」ものであること、つまり国民主権の原理および「国民の憲法制定の意思(民定憲法性)を表明している。ついで、それと関連させながら、「自由のもたらす恵沢」の確保と「戦争の惨禍」からの解放という、人権と平和の二原理をうたい、そこに日本国憲法制定の目的があることを示している。それを受けて、一項後段は、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、訴その福利は国民がこれを享受する」と言い、国民主権とそれに基づく代表民主制の原理を宣言し、最後に、以上の諸原理を「人類普遍の原理」であると説き、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」として、それらの原理が憲法改正によっても否定することができない旨を明らかにしている。
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憲法 第三版 芦部信喜・高橋和之補訂 (P35) (下線は筆者)
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第2節 日本国憲法の成立
日本国憲法の条文は、全部で103か条ある。その前書きとして書かれている前文は、誰がこの憲法を作ったのか、どのような考えに立って作ったのかを示している。したがって、憲法条文の意味を解釈しようとするとき、前文に書かれていることが大いに参考となる。前文は、主権が国に身にあること、国民がこの憲法を制定することを宣言し、国民の信託による国政として、代表民主制の原理を闡明し、自由のもたらす恵沢の確保と戦争の惨禍からの解放、恒久平和の希求をうたう。日本国憲法の基本原理は、前文に表れているということができる。一般に、日本国憲法の基本原理として、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つが挙げられる。
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憲法概説(再訂版) 最高裁判所職員総合研修所監修 平成20年4月 (P7) (下線は筆者)
(憲法概説 (再訂版) (日本語) 単行本 –
2018/11/15 amazon)
読み方B
上記の考え方は、下記の資料では否定されている。
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日本国憲法が大日本帝国憲法の改正手続によつて有効に成立したものであることは、一についてにおいて述べたとおりであり、日本国憲法の前文における「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、…この憲法を確定する」との文言は、日本国憲法が正当に選挙された国民の代表者によつて構成されていた衆議院の議決を経たものであることを表したものと解される。
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日本国憲法制定に関する質問に対する答弁書 昭和60年9月27日
(質問名「日本国憲法制定に関する質問主意書」の経過情報)
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〔2〕「正当に選挙された国会における代表を通じて行動し」とはどういう意味か?
この文句は、日本国民が正当に選挙した代表者より成る議会を通じてこの憲法を制定するのであるということ、すなわち、この憲法の制定権者が日本国民であることを宣言したものであり、この憲法によって日本国民が国会を通じて行動すること、すなわち、この憲法が直接民主制ではなく間接民主制ないし議会主義を採用するということを意味するものではない。文字の上からいえば、「行動」することを「決意し…」と読むべきではなく、「行動し」は「この憲法を確定する」にかかる(事務局註:前文の第一段前半の文章構造は、「日本国民は、…行動し、…確保し、…決意し、…宣言し、この憲法を確定する」というのであって、すべて「確定する」に掛かる。)。すなわち、この文句は冒頭の「日本国民」を形容することばである(「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」したところの「日本国民」が「この憲法を確定」したということを述べているのである)。したがって、ここに「国会」とあるが、それは事実としてはこの憲法を議決した「帝国議会」を意味する。ただし、この憲法を議決した帝国議会(第九〇回帝国議会)においては、衆議院は公選であり、また憲法審議のために特に行われた総選挙によって成立した衆議院であったから「正当に選挙された」ものといいえたが、貴族院は公選ではなかったのであるから、その点では厳密にはこの帝国議会は「正当に選挙された」ものとはいいえない。すなわち、歴史的事実を述べたものとして見る場合には、この帝国議会において貴族院は衆議院の意思に反して行動することはなかったのであるから…、この帝国議会において国民の意思が妨げられることはなかったと解することによって、この制定手続を「正当に選挙された国会における代表者を通じ」たものとみなすほかはないであろう。
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日本国憲法前文に関する基礎的資料 最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会(平成15年7月3日の参考資料) 衆議院憲法調査会事務局 平成15年7月 PDF (P3)
この読み方は、第一段は「~し、」の文言が4回連続しているが、それらを並列に読み解くものである。
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日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と、
わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、
ここに主権が国民に存することを宣言し、
この憲法を確定する。
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「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」の部分は、何ら「決意」とは繋がっておらず、「この憲法を確定する。」に繋がっている。
「諸国民との協和による成果」「を確保」することや「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」することは、既に実現されており、国民の自由な意思が確保された中で行われる国民主権の過程を通して「憲法を確定する。」ことこそが正当な手続きによって定められた正当な憲法であることを示すことになるとする意図である。
【過程】 正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、「この憲法を確定する。」
【過程】 諸国民との協和による成果と、(を確保し、)「この憲法を確定する。」
【過程】 わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、「この憲法を確定する。」
【過程】 政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、「この憲法を確定する。」
【過程】 ここに主権が国民に存することを宣言し、「この憲法を確定する。」
ただ、この読み方は最後の「この崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」に書かれた【目的】となるものをこの第一段・第一文から読み取ることはできないことになる。
前文から【目的】とはならないと考えられるものを白色で消して確認する。
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日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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上記から、考えられる【目的】を探してみる。
【目的?】 人類普遍の原理
【目的?】 これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する
【目的?】 恒久の平和
【目的?】 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持
【目的?】 平和を維持
【目的?】 平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去
【目的?】 国際社会において、名誉ある地位を占め(る)
【目的?】 全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有すること
「政治道徳の法則」「に従ふことは、」「各国の責務」としているから、「政治道徳の法則」は【目的】でないと思われる。
このように、「~し、」の文言を並列に読み解き、すべて「この憲法を確定する。」に掛かっていると考えると、第四段の最後の「この崇高な理想と目的」の【目的】に対応するものを見出しづらくなるのである。
「基本的人権の尊重」を【目的】とすることは理解しやすいが、この読み方に直接的には表れない。「人類普遍の原理」が「国民主権」や「間接民主制」を示していることから、「国民主権」の前提して国民が「基本的人権」を有しているとする形で「基本的人権」の趣旨を読み取ることはできるが、【目的】として示すほど明確には表れていないように思われる。また、「平和のうちに生存する権利」から「基本的人権」を読み取ることは可能かもしれないが、この文は「有することを確認する」としており、直接【目的】に対応するように示したものとは思われない。
「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」ことを【目的】とする場合であるが、なかなかイメージしづらいものがある。また、「排除する」ことは、【目的】を達成するための手段であり、【目的】とは異なるようにも思われる。
「恒久の平和」を【目的】と考えた場合、「崇高な理想」についても「平和主義」と関連性が高いものと考えられるから、第四段の「この崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」は前文すべてを統括する趣旨ではなく、「平和主義」のみを「達成することを誓ふ。」ものとなり、当初のイメージよりもややスケールが小さくなる印象を覚える。確かに「この崇高な理想と目的」との表現は、『これら』ではなく『この』としていることから、「平和主義」の一つを指していると考えてもおかしくはないが、妥当であろうか。この場合、「国家の名誉にかけ、」の部分については、「平和主義」に徹することで「国家の名誉」を得ようとしているのであり、「基本的人権の尊重」や「国民主権」が実現されている近代国家としての側面では「国家の名誉」を得ようとはしていないこととなると思われる。この読み方は、やはり当初のイメージよりもスケールが小さくなるような印象である。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」について、「安全と生存」のみを【目的】と考える場合、それは「平和主義」や「国際協調主義」を採用しない形での「安全と生存」を達成する手段も存在し得たはずであり、妥当でないように思われる。ただ、「崇高な理想」を「平和主義」を示す部分と考えるならば、第四段で「この崇高な理想と目的」と表現する場合には、「平和主義」と共に「安全と生存」を達成することになるから、整合するようにも思われる。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」のすべてが【目的】となるか否かであるが、「われらの安全と生存を保持」の部分は【目的】にはなり得ても、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、」の部分は、手段にあたると思われる。すると、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」のすべてを【目的】と解することは妥当でないように思われる。
「平和を維持」を【目的】と考える場合、上記と同様に「崇高な理想」が「平和主義」と関連性が高いと考えられるため、第四段の「この崇高な理想と目的」は「平和主義」ばかりを述べたものとなる。ただ、この「平和を維持」の部分は、日本語の前文では「われら」が「平和を維持」しようとしていると読むこともできるが、英語では「国際社会」が「努めてゐる」ことが明らかとなっている。
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We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of
peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time
from the earth.
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この観点から、第四段の「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」との文面の【目的】の中に、「国際社会」が「努めてゐる」「平和を維持」することが含まれると考えることはやや不自然である。確かに、日本国民も「国際社会」の一員であるし、「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」のであるが、そうであるならば「平和を維持」だけでなく、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」の部分も【目的】に含めて考えるべきである。
「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」を【目的】と考える場合、日本国も「国際社会」の一員として「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」ことになるが、この第二段・第二文の「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」の文言は「国際社会」について説明したものという印象から、日本国も「国際社会」と同様に「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」することを【目的】に有していることを示す文に変わる。ただ、この読み方も当初の印象からやや飛躍があり、「この崇高な理想と目的」と表現した場合の【目的】としてイメージできるかといえば、かなり難しいように思われる。
「国際社会において、名誉ある地位を占め(る)」ことを【目的】と考える場合、「崇高な理想」が「平和主義」に関連していると考えれば、「目的」は「国際協調主義」と「国際社会において、名誉ある地位を占め(る)」ことであり、整合性は高いように思われる。第四段の「国家の名誉にかけ」というのも、「国際社会」との間に「名誉ある地位」であるか否かを問われるものであることを考えると、整合性が高いように思われる。ただやはり前文の最後の文言であるにもかかわらず、三大原理(三大原則)の「基本的人権の尊重」と「国民主権」を含めていないことはスケールダウンする印象がある。
「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有すること」を【目的】と考える場合、それが実現されることは大切ではあるが、文尾が「有することを確認する」となっていることから、直接【目的】に対応すると考えることはやや遠いように思われる。
これらの中から最も整合性が高い形を表すと、前文の内容はかなりスケールダウンする印象を抱かせるものがある。
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【第一段】
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。 (⇒ 憲法制定の【過程】を示しただけ。)
……………………………………………………………………………………………………………………(ここでほとんど意味は断絶する)
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
……………………………………………………………………………………………………………………(ここでほとんど意味は断絶する)
【第二段】
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
【第三段】
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
【第四段】
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
(⇒ 「平和主義」の「崇高な理想」と、「国際協調主義」による「名誉ある地位を占め(る)」る「目的」を達成すること誓うものとなる。)
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この読み方の場合、最後の「誓ふ。」の中には、「基本的人権の尊重」や「国民主権」の趣旨を誓う趣旨が含まれていなくとも良いのか気になるところがある。
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○政府委員(角田禮次郎君) 先ほども申し上げましたように、前文では平和主義及び国際協調主義という憲法の理想を高く掲げるとともに、その理想が実現されることを全国民がみんなでやろうと、そういうことで誓っているわけであります。……(略)……
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第96回国会 参議院 予算委員会 第6号 昭和57年3月12日
その他、「読み方A」の場合でも、「読み方B」の場合でも、「われらとわれらの子孫のために、」の位置は疑問である。
第一段・第二文の文言
〇 「権威」は「天皇」を指すのか
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そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
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大日本帝国憲法と異なり、日本国憲法では「権威」と「権力」を分離している。そのため、この第一段第二文で敢えて「権威」に触れていることは、「権力」とは切り離された「権威」としての存在である第一章「天皇」を示している可能性がある。
「その権威は国民に由来し、」としていることも、1条の「天皇は、……この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と一致していると考えられる。つまり、「国民に由来し、(前文)」「日本国民の総意に基く」形で位置付けられた「権威」=「天皇」と見なす考え方である。
ただ、「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」との部分に対して「これは人類普遍の原理であり、」と表現することはできるが、「権威」としての「天皇」の制度を「人類普遍の原理」の中に含めることは妥当でないとの考え方もあり得る。
単に、「その権威は国民に由来し、」としているだけであるから、たとえ「権威」が「天皇」を意味しているとしても、「国民に由来」しているという部分を「人類普遍の原理」と見なせばよいのかもしれない。
また、「その権力は国民の代表者がこれを行使し、」の部分は「権力」について示すものではあるが、「権力」の形は国家によって三権分立の形を採用しているものから、そうでないものまで様々であることが前提である。それでも、「権力」について「人類普遍の原理」としていることからは、この文言の中で「権力」の形までは問われていないとも思われる。そうなると、単に「国民の厳粛な信託」や「国民に由来」していることを満たしているのであれば、「権威」が「天皇」を意味していたとしても「人類普遍の原理」に含めていいように思われる。
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(ウ)天皇と内閣の両者で元首の役割を分担して果たしているとする意見 この見解は、前文に「国政…の権威は国民に由来し、その権力は国民の代表がこれを行使」するとあるのを捉え、英国流に、元首の有する「権威」 と「権力」とを「天皇」と「内閣」とに分けて考えることもできるのではないかというものであった。
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「第一章(天皇) 」に関する資料 衆議院憲法審査会事務局 平成29年6月
「天皇には権力はないが権威がある」という発想は、間違いだったことが判明 2021/04/04
上記の記事には、「国民が主権者なのですから、国民が権力に正統性を与える『権威』であるということは当たり前であり、それ以外のものから正統性=権威を引き出せるはずがありません。」(下線は筆者)との記載がある。
しかし、国民が「権威」というわけではなく、国民が国民主権に基づいて前文のいう「権威(天皇)」と「権力(国会・内閣・裁判所)」を同時に構成するという読み方も存在することを見逃しているように思われる。これは、国民は「権威」と「権力」を同時に構成する主体として「主権(最高決定権))」を有しているという考え方である。
◇ 国民の「総意(1条)」による「天皇」の地位を、前文では「国民に由来」する「権威」と表現している。
◇ 同じく、国民が構成した「国会(41条)」「内閣(65条)」「裁判所(76条1項)」を、前文では「国政」の「権力」と表現している。
〇 「国政」に「天皇」を含むのか
「権威」を第一章「天皇」を指したものと考える場合、「その権威は国民に由来し、」の「その」の文言が指しているものは「国政」であると考えられるため、「天皇」も「国政」に含まれていると考えることになる。
ただ、一般に「国政」と表現する場合、三権分立を採用している日本では「立法権」「行政権」「司法権」を指す場合が多く、直接的に権力を有しない「天皇」が「国政」に含まれると考えることは不自然であるようにも思われる。
しかし、4条では「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」とあるが、ここでは「権能」、つまり『権力・権限・権能』を有しないとしているだけであり、「国政」そのものに関わっていることを否定する趣旨ではないとも思われる。この4条にも示されている「国事に関する行為」も、広く「国政」の一部であると考えることもできるように思われる。
【参考】国政の「信託」と天皇の「象徴」との関係 2020年01月19日
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○高辻政府委員 法制上の問題でございますので、私からお答え申し上げます。
まず第一に、国事に関する行為、国政に関する権能、それを対比してのお尋ねでございますが、お話のとおり、国事に関する行為も、広い意味では国政に関する事項であるということは、そうでございますけれども、憲法をごらんになればわかりますように、憲法の七条、それからいまおあげになったような事項、そういうものを称して国事に関する行為、実は一括してそういう称呼を用いているわけです。それと相対比しまして、国政に関する機能を有しないということは、そういう事項は、国政に関連があるけれども、むしろ実体的にながめまして、国政に━━何といいますか、天皇の御意思によって、国事行為にわたる事項についての御行為のほかに、国政に影響を及ぼすような権能、そういうものはお持ちにならないということを憲法の四条は規定しているものと了解をされるわけでございます。
それから行為と権能というのはどうかというお尋ねでございますが、行為は、まさに七条にありますような行為をいっておるわけでありまして、行為をするということも、それは一般的にいえば権能には違いありませんけれども、この四条の行為、それから後段で「国政に関する権能」といっておりますのは、もうつとに御存じのように、憲法の国事行為というのは、むしろ、あるいは「内閣の助言と承認により、」あるいは「国会の指名に基いて、」というように、その実体的な意思というものは、天皇の御意思と別の機関の助言なりあるいは指名なりということによってその行為が行なわれるというところに、実はその行為の形式性というものが出てまいるわけでして、そのほかに天皇の御意思によって国政に影響を及ぼすというふうなものが、憲法では考えられておらないというような実体的な意味におとり願っていいのではないかというふうに思うわけです。
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第46回国会 衆議院 内閣委員会 第11号 昭和39年3月19日
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○金森国務大臣 ……(略)……前文にあります信託は、本来は国民に属するものであります、それを承けて国政、即ち政治機関が運用して行く、だから本体は国民であるけれども、やつて行くのは政治機関である、斯う云ふ意味であります、……(略)……
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○金森国務大臣 信託と云ふ言葉は一つの沿革のあるものでありまして、実は前文を御説明申上げまする為には、其の基本の考へから申上げなければ分らないと思ふのであります、基本の考へと申しまするのは、例を取つて見ますれば日本の法律制度の中に信託会社と云ふ風なものがありまして、そこに信託と云ふ法律関係が行はれて居ります、大体是は法律関係を指して居る訳ではありませぬが、考へ方は其の考へでありました、本来政治と云ふものは国民が行ふべきものであります、是は誰が考はてもさうだらうと思ひます、併しながらそれでは国民の全体が政治を行ふことが出来るが、国民が一固まりになつて裁判をすることが出来るか、国民が一固まりになつて或る特定人から税金を取立てることが出来るかと云へば、是は出来ませぬ、そこで実行の面に於きましては、政治は必ず或る特殊の人が政治をしなければならぬ、或は国会に於て法律を議するとか、或は内閣に於て国の行政方針を決するとか云ふ風にやつて行かなければならぬことになります、さうすると、本来働くべきものは国民であります、けれども現実に行ふものは議会の議員とか役人とか云ふものであります、此の間の関係をどう云ふ言葉で説明したら宜いか、普通の言葉で申しまするならば使用人とか、雇主が雇人に物を命じてやらせる、斯う云ふやうな考へも浮ぶかも知れませぬ、が併し斯う云ふ国家の政治の基本に付きましては、左様な関係はないのであります、本来は国民自らがやるべき政治であるけれども、其の政治と云ふものは其の国民の為に国家の色々な機関が之を担任して行くのであります、と云ふ意味で国政は大事な信託である、斯う云ふ言葉を使つて此の前文が出来て居ると思ひます、だから其の点に於きまして分りにくいことは実はないと思つて居ります、それから憲法の第一条によりまする天皇の御地位は是は日本国民の至高の総意に基くのでありまして言葉に依つて明かでありまするが如く、本来至高の総意と云ふものが基本にありまして、さうして天皇の此の御地位が決まる訳であります、でありますから或る意味に於て信託と云ふ言葉の中にも入つて入り得ないことはありませぬ、併し信託と云ふことは政治として現実に働く方を指して居るので、第一条は現実に働く意味はない其の中心点であります、仰ぎ見て天皇を以て日本の徴象とすると云ふことであります、それが現実に現はれて来ますのは四条以下の天皇の種々の御権能の中に現はれて来ます、其の部分に於てはやはり信託に基いて居ると云ふことは、是は一点の疑ひはないと思ふ訳であります、……(略)……
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第90回帝国議会 衆議院 委員会 昭和21年7月11日(第10号)
〇 「権威」が「天皇」を指すわけではない場合
「権威」の文言が必ずしも「天皇」を指すものでないのであれば、単に「国政」の『権力・権限・権能』を行使する仕組みが、国民からの「厳粛な信託」によって与えられる「権威」ある存在であることを示すものになると考えられる。
これは、41条が「国会は、国権の最高機関であつて、」と記載されているが、「国会」が「内閣」や「裁判所」よりも優越した『権力・権限・権能』を有していることを示すものではなく、「政治的美称」であると解する説に類似した読み方である。
ただ、この読み方をする場合、「国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、」と「国民」の文字が二つ連続することは不自然である。敢えて「国民」の文言が二回連続することを前提として「国民に由来し、」を強調していることからは、憲法が「天皇」の地位は「国民に由来」しないものであるとする説を採用していないことを示す意図があるように思われる。
「天皇は神さまの意志によってその地位にいらっしゃる」から「天皇は國民の意志にもとずいて、その位にいらっしゃる」、つまり、「天皇はもはや神の天皇ではなくて、國民の天皇、すなわち、民の天皇である。」になったことについて下記で述べられている。
第二段・第二文の構造的曖昧性
第二段の第二文には構造的曖昧性がある。
読み方A 「われら」が「平和を維持」すると読む場合
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われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
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この読み方の場合、「われら」が「平和を維持」することにより、「名誉ある地位を占めたい」と思っていることになる。
読み方B 「国際社会」が「平和を維持」しようと「努めてゐる」と読む場合
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われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
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この読み方の場合、「国際社会」が「平和を維持」しようと努めており、その中で「名誉ある地位を占めたい」と思っていることになる。「われら」が「名誉ある地位を占め」るために何をするかはこの一文の中では特定されていないこととなる。
英文では、「平和を維持し、」の部分は「国際社会」に掛かっているため、「読み方B」のようである。
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We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery,
oppression and intolerance for all time from the earth.
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<理解の補強>
草案段階の前文の文言も見ておこう。
帝國憲法改正案(憲法改正第一號) 昭和21年10月3日
前文の文法
指示代名詞
「これ」「ここ」「その」などの指示代名詞を明らかにしていこう。
【前文】
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日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここ<①>に主権が国民に存することを宣言し、この<②>憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その<③>権威は国民に由来し、その<④>権力は国民の代表者がこれ<⑤>を行使し、その<⑥>福利は国民がこれ<⑦>を享受する。これ<⑧>は人類普遍の原理であり、この<⑨>憲法は、かかる<⑩>原理に基くものである。われらは、これ<⑪>に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この<⑫>法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの<⑬>崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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ここ<①> 〔近称の指示代名詞〕
・話し手が現にいる場所
・話し手や周囲の人が源に置かれている状況や程度、局面 「←この意味と思われる。」
・現在を中心としてその前後を含めた期間
(大辞泉より)
この<②> 「現行の日本国憲法」を指しているとしか思われない。
パターンA
その<③> 「国政」と思われる。
その<④> 「国政」と思われる。
これ<⑤> 「(国政の)権力」と思われる。
その<⑥> 「国政」と思われる。
これ<⑦> 「(国政の)福利」と思われる。
そもそも国政は、
国民の厳粛な信託によるものであつて、
その権威は国民に由来し、
その権力は国民の代表者がこれを行使し、
その福利は国民がこれを享受する。
パターンB
(<③~⑤>は上記と同様)
その<⑥> 「国民の代表者がこれ(権力)を行使し、」を指していると考える。
(<⑦>は上記と同様)
そもそも国政は、
国民の厳粛な信託によるものであつて、
その権威は国民に由来し、
その権力は国民の代表者がこれを行使し、
その福利は国民がこれを享受する。
パターンC
その<③> 「厳粛な信託」かもしれない。
その<④> 「国民に由来する権威」かもしれない。
これ<⑤> 「権力」かもしれない。
その<⑥> 「行使」かもしれない。
これ<⑦> 「福利」かもしれない。
そもそも国政は、
国民の厳粛な信託によるものであつて、
その権威は国民に由来し、
その権力は国民の代表者がこれを行使し、
その福利は国民がこれを享受する。
これ<⑧>
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【一】日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。【二】そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。【三】これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。【四】われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
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パターンA
【二】の「そもそも国政は、~その福利は国民がこれを享受する。」のみを指す考える。
「権威」の文言を第一章「天皇」を指す意味と考える場合、これは日本固有の制度であるから、「人類普遍の原理」に含めることは妥当でないようにも思われる。
「権威」の文言が必ずしも第一章「天皇」を意味せず、広く「国政」の「権威」を認めたものであると考える場合には、「人類普遍の原理」としても特に違和感はない。
パターンB
【一】+【二】の「日本国民は、~この憲法を確定する。」の両方を含んでいると考える。
ただ、第一文を憲法制定の過程を示したものであると考える場合、憲法制定の過程として「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」することや「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」することまでも「人類普遍の原理」に含めることには違和感がある。
この<⑨> 「現行の日本国憲法」を指しているとしか思われない。
かかる<⑩> 「このような」、「こういう」の意味であると思われる。
これは、「人類普遍の原理」を指すか、上記「これ<⑧>」と同様に「パターンA」または「パターンB」、あるいはその両方を指すと思われる。
【参考】政府解釈(『六について』の部分)は「パターンA」である。
これ<⑪> 「人類普遍の原理」と思われる。
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【一】日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。【二】そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。【三】これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。【四】われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
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パターンA
【一】+【二】+【三】のすべて
パターンB
【二】+【三】の部分
パターンC
【三】の部分
パターンD
「人類普遍の原理」+「かかる原理」の文言
パターンE
「人類普遍の原理」の文言
パターンF
「かかる原理」の文言
この<⑫> 「普遍的な政治道徳」と思われる。
この<⑬> 不明。
パターンA
「崇高な理想」の文言が第二段一文の「人間相互の関係を支配する崇高な理想」と対応するものであると考える場合、「この崇高な理想」の文言であることは、「人間相互の関係を支配する」を省略したものと考えるべきなのかもしれない。
パターンB
「崇高な理想」に対応するものは、第一段から第三段までのすべての内容を指してるのかもしれない。
ただ、その場合には、「これら」のように、複数形とするべきであったのではないだろうか。敢えて複数形としていないのであれば、第一段から第三段までのすべての内容を指しているわけではないのかもしれない。
その他
〇 「こと」の文言は、動詞を名詞化している言葉であると思われる。
〇 「し」「する」「ずる」などの動詞の活用を探してみよう。
〇 似たような接続の言葉も探してみよう。
【前文】
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日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる<⑩>原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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革命的意志
前文には、現行の法秩序を立ち上げた者の「革命的意志」が含まれている。そして、一定数の人々がこの者の意志に権威を認めて賛同し、その意志に自ずと従うことによって初めて、法がその社会の中で通用する実力として成り立ち、法に実効性が生まれるのである。つまり、前文の「革命的意志」の観念が、現行法の法秩序の効力を生み出す実質的な根拠となっているということである。
また、前文に含まれた意志の観念は、97条の「人類の多年にわたる自由獲得の努力」によって生み出された人権概念を創造するという人権保障への意志や、12条の「不断の努力によって」「保持しなければならない」という人権概念を保持し続ける意志とも密接な関係を有している。
それは、「人類の多年にわたる自由獲得の努力」や「不断の努力」の中には、価値絶対主義に対抗する価値相対主義の苦悩が含まれており、その難しい対立の中においてもなお「人権という概念が存在する」という建前を守り抜き、これによって多様な価値観を保障するための基盤(近代立憲主義の観念)を維持しようとする意志の観念が示され、人々に訴えかけるスタンスが記載されているからである。
これは、前文が人々に意志の観念を訴えかけるスタンスで記載されていることと共通する部分である。
憲法制定権力者が、憲法の前文に込めた意志を読み解くため、前文の文言をいくつか抜き出してみる。
前文から抜粋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「決意し」「宣言し」「念願し」「自覚(し)」「信頼し」「決意し」「努め」「思(い)」「確認(し)」「信(じ)」「誓ふ」
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人権保障のための憲法という最高法規は、結局はこのような宣言的なものであり、決意表明とそこに込められた主観的な意志によって人々に訴えかけるものでしかないのである。特に、自然権としての人権概念を人々の意識の中に確定させようと意図した実存主義的な価値相対主義の世界認識を持った憲法制定権力の人々は、すべての法の効力の正当性の源泉となる『人権』という基礎的概念の本質はそのようなものであると認識し、理解していると考えられる。
この主観的な意志の観念に、共感した者たちが、その意志の観念に権威を認めて従うことで初めて法に効力が生まれ、その広がりによって、法が社会の中で通用する実力として成り立ちはじめるのである。
そのため、法の強制力や拘束力の大本にあるものは、人々が「権威を認めて従おうとする気持ち」を抱くきっかけとなる「憲法制定権力者の意志の観念」ということである。
つまり、その「憲法制定権力者の意志の観念」と、それに従って誠実に行動しようとする人々との信頼関係によって法の効力が成り立っているのである。
憲法制定権力との信頼関係
憲法の効力の大本は、最終的には人々の「権威を認めて従おうとする気持ち」に頼っているものである。それ以上の上位に、何らかの拘束力や強制力となるものは存在していない。
そのため、憲法を運用する際は、この人々の「権威を認めて従おうとする気持ち」を引き起こす「憲法制定権力者の意志の観念」との信頼関係を破壊するような法運用は慎まなければならないのである。
なぜならば、人々が法に抱く「権威を認めて従おうとする気持ち」を損なわせるような運用を行えば、人々の認識の中にある法の秩序そのものへの信頼感を薄めてしまうことに繋がり、その気持ちの広がりは、法の効力それ自体を失わせてしまう事態を招くからである。人々の「権威を認めて従おうとする気持ち」が損なわれてしまうことは、法秩序そのものを失わせてしまう危うさがあるのである。
このような法の効力それ自体が揺るがされてしまうような危険な事態を回避するために、憲法中には憲法保障の仕組みの「宣言的保障」の意図として、憲法の運用者である公務員等(国の機関に集まる者)に対し「憲法尊重擁護義務(99条)」を課している。
これは、法の効力が、人々の「権威を認めて従おうとする気持ち」に頼って成立するものである以上、その運用主体が自らそれを「権威を認めて従おうとする気持ち」を持って運用し、人々の「権威を認めて従おうとする気持ち」を壊さないようにすることが、法の効力を維持することに繋がるからである。
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法の運用者による受容
(略)
つまり、日本国憲法が国の最高法規なのは、「日本国憲法を最高法規として扱うべし」という実質的意味の憲法が事実上存在するからであり、そのような実質的意味の憲法が存在するのは、それを法の運用者が事実上受け入れ、それに則って行動するからである。
もちろん病理的な政治体制を除くと、法の運用者によって受け入れられているルールは、社会の大多数のメンバーによっても受け入れられているであろう(ハート・法の概念第6章参照)。
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◆1.3 憲法の法源と解釈 ◇1.3.3 最高法規
しかし、内閣が「国会召集決定義務(53条)」に違反したり、憲法秩序の安定性の観点から慎むべき7条解散を濫用したりすることは、「憲法制定権力者の意志の観念」との信頼関係を損なうものである。
このように、法の運用者が憲法を軽視した法運用を行うと、次第にその気持ちの広がりは人々が憲法に対して抱いている「権威を認めて従おうとする気持ち」を薄めてしまい、法の効力それ自体を弱めてしまう事態を招くことになる。
これは、人権保障のためにつくられた憲法秩序そのものを不安定化させるものであるから、人々に対して保障される人権の質を下げることに繋がってしまうのである。
憲法学者「小林節」の憲法審査会での発言を読み解き、法の効力の起源について考える。
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○小林参考人
(略)
既に憲政の現実の中におられる先生方はお気づきと思いますけれども、憲法というのは、六法全書の中で唯一最高権力を縛る位置にあるものですから、最高権力の上に置かれるものだから、ありがたくも最高法という名前で神棚に載っちゃうんですね。でも、逆に言えば、最高法である以上、後ろ盾は何にもないんですよね。
例えば、私が民法とか刑法に反することをして逃げ回っていたら、最終的には、日本国憲法が機能している限り、裁判所と法務省でけりをつけられてしまうわけですよね。ですから、民法とか刑法などは憲法がきちんと機能している限り機能できるんですけれども、憲法というのは、最高権力を管理しなければならないから最高法の位置に上げられているということは、後ろ盾が一つもない。よく考えたら、ただの紙切れになってしまうんですね。ですから、権力者が開き直ったとき、ではどうするかという問題に常に直面するわけであります。
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参考人 小林節(慶應義塾大学名誉教授)(弁護士) 第189回国会 衆議院 憲法審査会 第3号 平成27年6月4日
【動画】九大法学部・法学入門第5回〜憲法入門②・2021年度前期 2021/05/18
【動画】2023年度前期・九大法学部「憲法1(統治機構論・後半)」第13回〜憲法保障 2023/07/26
実はこのような憲法への信頼関係を損ねるような国家運営がなされる危険性について、立法当初から想定されている。国に集う者に対して、そのような慎みのない法運用をさせないために、天皇の勅語にて「この憲法を正しく運用」することや、「節度と責任を重ん」じることについての言葉が述べられている。
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本日、日本国憲法を公布せしめた。
この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたのである。即ち、日本国民は、みずから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたのである。
朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。
朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
御名 御璽
昭和21年11月3日
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日本国憲法 参議院
(【動画】主権、国民の手に 新憲法公布)
法とは結局、人の意志の観念によって生み出され、その法の効力は「権威を認めて従おうとする気持ち」を抱く人々の存在に頼って成り立っているものである。
そのため、人々が法に対して抱く信頼感を壊してしまうような行為や、人々の「権威と認めて従う気持ち」を損なわせるような行為は慎まなければ、法秩序が成り立たない事態を招いてしまうのである。
この問題に関して語っている憲法学者「長谷部恭男」の言葉を紹介する。
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一般の人々とは、革命やクーデターのような非常時を除いて、こうした問題には滅多に出くわさない。不磨の大典と見えるものの底にある奈落を垣間見ることもない。日々こうした問題とつきあうために、奈落を見ても平気でいるのが憲法の専門家である。
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憲法学のフロンティア 1999/10/24 amazon (P224)
<理解の補強>
立憲主義へのちょっとした疑問:憲法は「国家権力を縛る」ためにあるのか? 2016-11-03
【対談】 國分功一郎×木村草太 【哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(1)】――憲法制定権力とは何か? 2014年11月10日
憲法53条に基づき臨時国会の召集を「速やかに」決定するよう求めます
臨時国会の召集義務に「応じない」内閣 憲法違反では? 2017/7/1
法の効力と天皇の権威
憲法制定権力の意志との信頼関係を保つことは、それが憲法上の文字の中からしか読み取ることができないものであるため、なかなか難しいものがある。法の原理を詳しく分析していない者には、憲法制定権力の意志を十分に理解することができないからである。
そこで、憲法制定権力の意志を十分に理解できない者に対しても、法に対して「権威を認めて従う気持ち」を抱いてもらうことができるように、天皇制を設けていると考えられる。これは、法という文字の羅列でしかなく、人々の頭の中で構成される意味の集合体でしかないものが、「確かに存在するのだ」と公示する役割である。人々に対して分かりやすい形で表現することを目的とした制度である。
天皇制を廃止する主張も存在する。ただ、憲法秩序の中に誠実さや善意の極みとしての象徴的な存在を備えておくことは、人々の人権保障の質を保つためにも有効に作用することがある。それは、「憲法制定権力者の意志の観念」との信頼関係を保とうとせず、人々が法に対して感じている「権威を認めて従う気持ち」を破壊するような法運用を行う『慎みなき権力者』が現れた際に、法の秩序そのものの効力を一定程度守る機能があると考えられるからである。
現実の「政治の実力」に対して、人々はなかなか逆らうことができない。このような中で、政治が法を無視し始めた際に、人々は法ではなく、「政治の実力」に権威を認めて従ってしまうことになりやすい。なぜならば、法とは文字の羅列や意味の集合体でしかないものであり、それ自体が圧倒的な支持を得て人々が自ずと従おうとすることによってしか効力が生まれないものだからである。法の規範力は、人々の「法という合意事を保とうとする意欲」が薄れてしまうと、失われてしまう性質のものなのである。これでは「政治」が「法」を無視し、人々の人権が損なわれる事態に陥ってしまう。
しかし、法を象徴する存在は、このような政治権力が法を軽視する状況下で、「政治の実力に権威があるのではなく、法に権威があるのだ。」という認識を人々に思い起こさせるものとして機能する。「政治の実力」ではなく、「法」に対して抱く「権威を認めて従う気持ち」という認識を回復させるのである。これは、法秩序そのものの効力を守り、法の規範力を向上させ、人々の人権保障の質を保つことに繋がると考えられるのである。
天皇は「国政に関する権能を有しない(4条)」とされている。しかし、法秩序そのものの効力を保つことに対する影響力に関しては、相当の存在感があると思われる。
日本国憲法での「権威」と「権力」の分離について、イギリスの例を参考とする。
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バジョット(Bagehot, W.)は、『イギリス憲政論』(1867)の中でイギリスの国家体制を分析する際、憲法の尊厳的部分と機能的部分とを区別した。
前者は、国民の崇敬と信従を喚起し、維持する部分であり、後者が実際の統治に携わる。
バジョットによれば、当時のイギリスの国家制度のうち王室や貴族院は前者であり、庶民院や内閣は後者にあたる(バジョット
[1970] 第1章)。
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◇1.2.7 憲法の尊厳的部分と機能的部分 (下線・太字は筆者)
下記は、「天皇制」、前文の「平和主義」、「戦争の放棄」、「地方自治」を除いた場合の憲法の最小構成要素の体系である。「天皇」という日本の象徴が失われると、かなり寂しい印象となるのではないだろうか。
あまり、技術的な法学を語る者が言うことではないのかもしれないが、憲法それ自身の威厳と言うのか、権威性というのか、魅力というのか、引き締まるものというのか、そういうものがなくなってしまうようにも思われる。アイデンティティを示す手がかりが存在せず、個性のない国となってしまうのである。
日本国内に法の秩序が存在することを象徴するものが失われてしまうと、人々は憲法や法秩序自体の存在の確からしさを感じ取ることができず、結果として法に対する「権威を認めて従う気持ち」が弱まってしまい、法の秩序の効力も損なわれてしまうと考えられるのである。
もちろん、「君主制」を持たない国もある。その場合、それに代わって「大統領(行政府の長)」が国の象徴的存在となり、ファーストレディなどが皇室に代わる役割を担うようである。例えば、アメリカ合衆国がそうである。
ただ、やはり権力分立制により分権された中でも、政治性を帯びた権力機関によって法秩序や国家の存在が象徴されてしまうことは、多数派支配という制度としての「力」の側面が露骨に出てしまうことが考えられる。すると、少数派にとって、国家そのものに対する魅力が著しく下がってしまうことから、自ずと法に従って行動しようとする意欲が失せることに繋がってしまうと考えられる。すると、結果として法の効力が維持されず、法秩序の実効性や安定性が弱まってしまうのである。
このことから、政治性を帯びた存在が国家を象徴することは、「法の支配」よりも「政治の支配」を優先させるような認識を人々に与えてしまい、人権保障のための法の機能を阻害してしまいかねない点で妥当とは言いがたい。
これを防ぐため、権力と分離した形で「法の正当性の権威を司る象徴」が存在することには、政治が「法」を無視するようになった際に、人々に対して「政治的な実力」に正当性や権威の源があるわけではなく、「人権概念」を基軸とした立憲主義や、「国民からの信託」という民主主義の制度を形づくっている「法」そのものに正当性の権威があることを思い起こさせるためにも意義があると考えられる。「政治の支配」が「法の支配」を上回ることがないように、歯止めをかける役割となる一種の「憲法保障」としての機能を有するのである。
また、政治からは切り離された存在として、道徳的・倫理的な共生性の意志を思い起こさせる象徴天皇制を用意することで、多数派支配からはどうしてもこぼれ落ちてしまう弱者に対するきめ細かい心配りをすることが可能となる。それは、その弱者にとっても国家という共同体に対して抱く魅力を保つ可能性が高まると考えられる。その魅力は、憲法が生み出す法秩序の効力の確からしさ、法秩序の実効性や安定性を維持することにも繋がると思われるのである。
これは、威厳や権威性をどこに定めるかという、国民の精神的な拠り所となるもののポジションの問題である。機械的に機能するシステムとしての法ではなく、法それ自体の実効性を高めるために必要な魅力づくりである。この意図が、法の効力それ自体を普及させ、質の高い人権保障が実現される社会をつくり出すことに繋がると考えられるのである。
権力と切り離された形で法の正当性を象徴する存在を備えておくことには、人々が、法に対して「権威を認めて従う気持ち」を抱くよう意図し、法の実効性を保ち、人権保障が実現されていく機能の生命力を保つためにも、意味があると考えられる。
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〔天皇の地位と主権在民〕
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
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「日本国」とは、つまり、この憲法によって構成される国家であるから、「日本国の象徴」というものは憲法という法を象徴する存在でもあるわけである。
「日本国民」とは、つまり、この憲法によって示される国民であるから、「日本国民統合の象徴」とは、憲法秩序を中心として繋がりを持った国民を象徴する存在なのである。
天皇は、「法(国家)」と「国民」を結びつける役割を担っているのである。
<理解の補強>
【動画】【NHKラジオ】木村草太
「天皇のお言葉は危険物である、天皇が政党に投票呼びかけ特定秘密保護法や安保法制に述べたら大混乱」 2016/10/21
【動画】石川健治「天皇と主権 信仰と規範のあいだ」 2017/04/29
(15:27より国家象徴について)
【動画】【竹田恒泰】天皇と憲法!象徴と知っておくべき最低限の知識! 2018年1月
天皇って人権がなくてヤバくないですか? 知ってるようで知らない「憲法」 高橋源一郎✕長谷部恭男「憲法対談」#2 2018/8/26
令和のはじめに 天皇と憲法 インタビュー 三谷太一郎 東京大名誉教授 2019年5月1日
日本国憲法の立法過程での天皇制の意図も確認する。
七・十一(水) ケヂス、金森会談ノ際ノ原則ヲ翻訳手交ノ為、加藤氏手記ニ手ヲ入レタモノ 17 July, 1946
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國民の大多数はなぜ、天皇制をつづけていきたいと考えたか。それは日本で民主政治をうちたて、平和國家をきずき上げるために、どうしても天皇制が必要だからである。これからの政治は政黨政治になる。そこで、これからはいろいろな政黨のあいだの爭いがはげしくなろう。ことに住居が足りなかったり、着物が足りなかったり、食べものが足りなかったりすると、國民のあいだにも何とか爭いが强くなるにちがいない。そういうばあいに、政黨などの爭いと關係のない天皇がいらっしゃることは、民主政治を平和のうちに秩序正しく動かしていくうえに、きわめて必要である。民主政治が平和のうちに秩序正しく動いていかないと、無秩序と混亂が生じ、その結果は暴力がものをいうことになり、またふたたび軍國主義や獨裁主義が行われるようになる。日本がそういう無政府狀態におちいり、もういちど獨裁政治の國になることを防ぐためには、天皇制をつづけることが必要なのである。
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【動画】2024年度前期・九大基幹教育「法学入門」第3回〜法とは何か・法学とは何か 2024/05/08
上記の動画では、日本国憲法に効力があるとされる理由について、日本国憲法は大日本帝国憲法を改正したものであり、大日本帝国憲法に効力があったことを根拠としている。
大日本帝国憲法
↓(改正)
日本国憲法
その大日本帝国憲法に効力があるとされたことの背景には、天皇が大日本帝国憲法を定めたという事実が存在する。
天皇
↓(制定)
大日本帝国憲法
↓(改正)
日本国憲法
そこで、天皇とは何かが問われるが、竹田恒泰はこの歴史的な事実を重視する立場から論じている。
【動画】講師:作家 竹田恒泰 氏/テーマ:「日本を楽しく学ぼう」(公家の政権700年)【第2期まなびと夜間塾開講講座】 2021.2.19
◇ 竹田恒泰:「天皇っていうのは、総選挙の公示とか、法律の公布とか、総理大臣の任命とかですから、疑問をさしはさむ余地があっちゃいけないんです。天皇の権威にもし疑問が投げかけられたら、国家統治そのものが揺らぐんです。」
皆がそれを権威として受け止めているという事実によってのみ法の効力が維持されるという部分について、上記一つ目の動画で南野森は下記のように説明している。
◇ 南野森:「みんなが、全員である必要はないんですけれども、この国の大体の人、そして重要なのは法を司る人たち、法を使う人たち、裁判官、国会議員、官僚たち、公務員たち、こういう人々が、憲法が憲法だと信じている、あるいは憲法は憲法だと思って行動しているということなんです。もしもそういう人たちの半分ぐらいが、『いや、俺はもう日本国憲法嫌いやけん。日本国憲法に従わないでやろう』と言い出すと、なかなかそれを止めることは難しいと思います。」
竹田恒泰が述べている意味も、南野森が述べている意味も、法の効力の根拠が人々の頭の中の合意事でそれを権威として受け止めていることによってのみ維持されるものであることを述べている意味で同様のことを述べるものである。
ただ、当サイトは、人間である一人一人に法的な主体としての地位(日本国憲法では個人の尊厳や人権と呼んでいるもの)があるという前提となる認識そのものを人々の意識の中に創造し続けている少数の法原理の理解者(実存主義的な価値相対主義者)が存在し、その者がその法的な主体としての地位(人権にあたるもの)を起点として憲法を構成するに至るという点に憲法の効力の源泉があると考えている。
つまり、文字として記されている憲法上の条文の背景には、頭の中の合意事としての憲法の概念を構成する体系が存在しており、その効力の源泉は法的な主体としての地位(人権)の存在と価値と正当性を人々の意識の中に創造し続けようとする少数の法原理の理解者(実存主義的な価値相対主義者)の意志(当サイトが『最高法規の意志』と呼んでいるもの)があり、これこそが憲法の効力の源泉であると考えている。
この観点から見れば、その憲法が不文法であっても、不文法の中で天皇のような地位を活用してその実態を具現化するという統治体制を採用している場合であっても、文字によって具体化されていようとも、天皇(君主)がいるとしても、いないとしても、大日本帝国憲法であっても、日本国憲法であっても、その効力を根拠付けているこの仕組みに大きな違いはないと考えている。
そのため、この観点からは、日本国憲法の効力の源泉を説明する際に、大日本帝国憲法からの改正の経緯やそれ以前の時代に存在した権威(天皇)からの継続性という歴史的な事実に遡る形で説明する必要はない。
この観点からは、天皇の存在についても、その最高法規の意志を基に体系化される頭の中の合意事としての統治のあり様(憲法の体系)を目に見える形で具現化するための仕組みとして設けられた表現者という位置づけであり、法の効力に実効性を持たせるために人々の意識(認識)の中に映し出されることを意図した仕掛け(演出)にすぎないといえる。
そのため、天皇とは、法の効力に実効性を持たせることを目的として頭の中の合意事としてのみ存在する統治のあり様を人々に見える形に表現したものにすぎず、天皇という存在そのものに法の効力の根拠があるわけではないと考えている。
よって、日本国憲法の効力の根拠を、改正前の大日本帝国憲法の効力を基にして説明するという方法を採用するとしても、その大日本帝国憲法の効力の根拠となるものとして単に天皇が存在したという事実を説明すればよいということではなく、結局は、天皇という表現者を通して目に見える形で表現しようとしたことの背景にある頭の中の合意事として存在していた統治のあり様(不文法の憲法)を捉えることが必要であるということになる。
そしてその頭の中の合意事として存在していた統治のあり様の中には、人と人との関係を結び付ける際に必要となる法的な主体としての地位を形成する起点が存在しており、その起点そのものの存在と価値と正当性を人々の意識の中に定着させようとする者の意志が存在していたといえる。
これが、どのような憲法を構成する際にも普遍的に必要となる意志であり、法の効力の源泉にあるものである。
歴史的には、人と人との関係を結び付ける際に必要となる法的な主体としての地位を形成する起点に当たるものとして、天皇の赤子という表現を用いていたこともある。
赤子 Wiktionary
ただ、当サイトは、このような表現は天皇という表現者を基にした演出の部分を中心にした表現であり、頭の中の合意事としての法の概念そのものを指し示すものとしては若干リアリティを持ちすぎるため、表現として余計であると感じている。
「山」「川」「海」など、頭の中の抽象表現としてイメージすることが相応しい場面で、具体的な「高尾山」「荒川」「東京湾」などの写真を持ち出すと、そのリアルさ故に余分な情報が多くなり、その場面で伝えたい本質部分が上手く伝わらないという支障が生じることがある。
同様に、法的な主体としての地位そのものは、目には見えない合意事としての存在であり、それはとても大切にしなければならないものであることは確かであるが、それを目に見える形でリアル化し過ぎると余分な情報が目に付くようになり、逆に本質を読み取る際には邪魔な表現となるということもある。
そのため、この天皇の赤子というような表現についても、この点のフィクションとして目に見える形で便宜的に表現している事情によるもの(法的な知識の少ない者や抽象概念をイメージすることが困難な層の人たちに向けた演出)と、その背景にある本質部分とを区別して読み解くことが必要である。
下記の記事では、「宗教を政治の道具として使い大衆を説得しようとする立法者の「高貴な嘘」」として下記のように述べている。
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直ちに想起されるのは、ジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』第2篇第7章で描く立法者の物語である。立法者は人民に政治制度の枠組みを与え、それを通じて彼らの人間性を変革することができるほどの異能の持ち主である。立法者の考えは、そのまま人々に説いても、あまりに宏大で長期にわたる人民の利益にかかわるものであるだけに、理解されることがない。そのため、立法者は分かりやすい神の権威に頼って制度の軛を課し人々を公共の福祉の実現に向かわせる。宗教は政治の道具である*19。
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憲法学の散歩道 第40回 エウチュプロン──敬虔について 2024/8/6 (下線は筆者)
「日本国民」とは誰か
憲法中では「日本国民」の文字が、前文で3回、条文で5回の計8回登場する。
この「日本国民」の文言は、下記の二つの意味が考えられる。
◇ 『憲法制定権力』の意味
◇ 『現在及び将来の国民』の意味
文言が同じであるとしても、その意味がすべて同じであるとは限らないため注意を要する。下記で一つ一つ確認する。
【前文】
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日本国民(憲法制定権力)は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは(憲法制定権力)、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民(憲法制定権力)は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われら(憲法制定権力)は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われら(憲法制定権力)は、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われら(憲法制定権力)は、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民(憲法制定権力)は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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「決意し」、「宣言し」、「確定(し)」、「排除(し)」、さらに「決意(し)」、「思(い)」、「確認(し)」、「信(じ)」、「誓ふ」のは、「日本国民」の中でも『憲法制定権力』である。
この『憲法制定権力』の意志の観念を、『現在及び将来の国民』が権威を認めて従うことで、法に効力が生まれ、社会の中で通用する実力となっているのである。
この前文の「日本国民」は『憲法制定権力』であり、正確には我々『現在及び将来の国民』ではない。
しかし、「古典的認識の価値絶対主義」から「実存主義的な価値相対主義」の認知に至った者は、自らと他者の自由や権利を守るために、「『人権概念の存在と価値と正当性』を人々の認識の中に保ち続ける」というこれらの決意に共感し、この意志を引き継ぎ、『憲法制定権力』に成り代わって自らの決意とすることが多いと考えられる。
もしその意志が続いていないとしたならば、既にこの憲法は人々に支持されず、効力を有さず、社会の中で通用していないはずだからである。
(実際には、多くの人々は法の原理をそこまで深く理解しているわけではなく、何となく従っているのだと思われる。ただ、その人々が何となく従うことができる前提となっているものは、法の原理がここまでしっかりと綿密につくり込まれていることを一部の理解者〔専門家やマニア〕が理解し、そこに権威を認めて自ずと従うという秩序が形成されていることに対する信頼感によるものであると思われる。)
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第1章 天皇
〔天皇の地位と主権在民〕
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民(現在及び将来の国民)統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民(憲法制定権力)の総意に基く。
第2章 戦争の放棄
〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第9条 日本国民(憲法制定権力)は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第3章 国民の権利及び義務
〔国民たる要件〕
第10条 日本国民(現在及び将来の国民)たる要件は、法律でこれを定める。
第10章 最高法規
〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民(現在及び将来の国民)に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
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このように「日本国民」の文言に二つの意味が含まれていることは、憲法制定権力者は、実は非常に身勝手に革命的意志を持って「人権」という概念の存在を"あるかのように"見せかけて憲法を確定したのであるが、その際に、これらが憲法制定権力者の身勝手な「前提創造」であることを隠蔽し、あたかもすべての「日本国民」がそう決意し、国民主権によって憲法が創造されたかのように見せかける建前としての側面を持っている。
この側面は、憲法制定権力が、自ら生み出した法に効力を持たせるため、「この憲法には権威がある」と多くの人々を納得させるためにつくられたトリックなのである。
法秩序に効力を持たせるためには、「しっかりと納得して従っている人」だけでなく、「何となく従っている人」の存在も必要である。そうでないと、人々の意識の中に法の効力が広まらず、社会の中で通用する実力として普及しないからである。
しかし、すべての人がそこまでしっかりと深く理解し、納得することは不可能である。そのため、「何となく従う人」を、「何となく納得させる」ために、『敢えて触れない』、『詳しく書かない』、『もともとあるかのような前提をつくってしまっている』などの意図して隠された真実が存在しているのである。
憲法の真髄を知るためには、このトリックに惑わされずに、その隠された意図や憲法制定権力の真意をしっかりと読み解くことが大切である。
97条、11条、12条の条文にも『憲法制定権力』と『現在及び将来の国民』を補って読み解いてみる。
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〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民(現在及び将来の国民)に保障する基本的人権は、人類(先人)の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として(先人や憲法制定権力より)信託されたものである。
〔基本的人権〕
第11条 国民(現在及び将来の国民)は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民(現在及び将来の国民)に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に(憲法制定権力より)与へられる。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条 この憲法が国民(現在及び将来の国民)に保障する自由及び権利は、国民(現在及び将来の国民)の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民(現在及び将来の国民)は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
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間違えてはいけないのは、96条の「国民」は憲法改正権力となる『現在の国民』である。
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第9章 改正
〔憲法改正の発議、国民投票及び公布〕
第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民(現在の国民)に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民(憲法改正権力となった現在の国民)の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
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また、この『現在の国民』には、法律上は国民投票に参加する権利を持たない者(有権者でない者)は直接的には含まれていないように思われる。
このように、憲法上の規定によって「日本国民」や「国民」の言葉の意味や対象範囲はいろいろ変わるものである。注意して読み解きたい。
国民主権という建前
人の持つとされる「人権」という概念は、たとえ国民主権の多数決原理を行使した決定であっても、決して奪うことのできない概念として創造されている。
正確には、実存主義的な価値相対主義者がそういう前提をつくって、人々に普及させたということである。この趣旨は、97条の「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」という文言に表れている。
もちろん、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者は、今なお、その前提を維持し続けている。これは、12条の「不断の努力によつて」「保持しなければならない。」という文言に表れている。
しかし、その人権概念の本質を理解する者は、人類の中でも少数派である。
そこで、憲法の正当性の根源が実は少数の法原理の根本問題の理解者によってつくられていることを知らない大多数の者を納得させ、社会で通用する法の効力をつくり出すための手段として、「日本国民」という文言を用い、あたかも「『君たち自身』が主役であり、憲法の正当性は『君たち自身』の主権によって成り立っているものである」との国民主権原理の権威性の建前を強調して見せかけることにしている側面があると考えられる。
なぜならば、法とは本来的に人々の意識の中にしか存在しないものであり、人々が権威を認めて自ずと従うことによってしか、社会の中で通用する実力として成り立ちえないものだからである。
「現在及び将来の国民」は、実は、「憲法制定権力者」が身勝手に発した革命的意志に拘束されて法秩序の中に組み込まれた存在である。しかし、前文で「日本国民」という言葉を使うことで、「現在及び将来の国民」に、あたかも自らがそれを望み、自らの意思が正当性の根拠であり、国民主権を通して憲法が成り立っているかのように認識させることで、その憲法に権威を認めて従う気持ちを抱かせようとしているのである。つまり、前文の「日本国民」という言葉には、法に効力を持たせるための方便(都合の良い言葉)としての役割が含まれているのである。
「人権概念が存在し、価値と正当性がある」という認識を人々の意識の中に生み出すことでしか法秩序の効力は成り立たないことを知っている『憲法制定権力(狭義:少数の人権の根本認識の理解者)』が、そもそも存在しないはずの人権概念をあるかのように見せかけて憲法を制定したのであるが、「日本国民」の文言は、そのことを理解していない大多数の国民に、「国民主権」の権威性(正当性)を意識させておくことで、その憲法に権威があると納得させ、自ずと従おうとする気持ちを簡単に抱かせ、法に効力を生み出すための建前なのである。
法という秩序自体の実効性を保つという大きな目的のためには、このようなトリックも、多少は仕方のない部分である。
実は、このような仕掛けは他にも存在している。例えば、憲法中に国政に関する権能を有しない「天皇制」を含ませておくことは、法の実効性を高めるための魅力づくりの一つである。法として書かれた文字の羅列だけでは、その存在を確からしく感じることのできない者に対して、日本国(つまり日本国憲法)を象徴する存在を用意することで分かりやすく示し、人々に権威を認めて従おうとする気持ちを抱かせることで、法の効力を生み出す仕組みである。
同じように、「日本国民」の文言についても、「国民主権」を強調することによって人々からの支持を集めようと意図する仕掛けの一つであり、法の実効性を高めるための魅力づくりの一つと解することが妥当と考えられる。たとえそれが、多少の錯覚を有していたとしても、法に効力を持たせることで人権保障という最大の目的を達成するためには仕方がないと考えられる。
ブランドストーリーの真意
前文に記された憲法制定権力としての「日本国民」というのは、ある意味においてはフィクションに近いものがある。
このフィクションの意図を明らかにするため、例を挙げる。
例えば、天皇を代々遡っていけば、初期の天皇は通常の人類では考えられないような内容の歴史を持っている。それを実在した人物の「真実の歴史」であるとは、到底考えることができない。これは、伝説や神話としてつくり出された物語と考えることが妥当である。
つまり、"そういうことにしておく"ことで成り立つ、今ある天皇という存在が、他と区別された何者かであると権威づけるための「ブランドストーリー」としての意味を持つものである。
このような「ブランドストーリー」は、企業の製品や、宗教の神話などにも見ることができる。
それらの物語は、本当に存在した実話のこともある。しかし、実話ではなく、聞き手のレベルに合わせた物事の起こりや経緯を分かりやすく示すためにつくられたフィクションとしての側面を持っていることも多い。
そのため、それらの権威の確からしさを正確に把握するためには、それらのブランドストーリーが暗示するブランドストーリーの作り手の真意を探る必要がある。
この意味において、前文はこの憲法の権威性を伝えようとする憲法制定権力の意志の観念を示したブランドストーリーとしての側面が強いと考えられる。
「日本国民は、」や「われらは、」の文言に含まれる「日本国民」や「われら」というのは、『憲法制定権力』であると見なすのが妥当である。
しかし、「日本国民」の文言に含まれる『憲法制定権力』となっている者は、主権を持つとされる「憲法制定時の全日本国民」であると考えることは、現実的には非常に困難である。
なぜならば、憲法の保障しようとする「人権」という概念自体の存在根拠は、哲学や心理学、宗教学や法哲学の入り乱れる中に誕生した、少数の理解者によって維持されている極めて難しい概念であり、これらをすべて理解している者は、「憲法制定時の日本国民」の中でも極めて少数であると考えることが妥当だからである。
そう考えると、実際には、この憲法の『憲法制定権力』となっている者は、「人権概念の本質を理解している『少数の法原理の理解者』」であり、前文の内容もその者の意志の観念を示したものであると考えることが妥当である。これにより、この「日本国民」も、実は「人権概念の本質を理解している『少数の法原理の理解者』」のことであると導かれる。
また、前文の「日本国民」が「憲法制定時の全日本国民」と考えることが難しいことは、10条に「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と定められていることからも裏付けられる。この10条は、「日本国民たる要件」は、この憲法の効力によって初めて正当付けられる「法律」によって定めるというものである。つまり、憲法が確定しなければ、「日本国民」という枠組みさえも、法的に効力を持った概念(用語)としては未だ存在しないはずなのである。歴史的経緯としては、この日本国憲法が定められる以前には大日本帝国の「臣民」は存在しても、「日本国民」は今だ存在しないからである。もし、前文の「日本国民」を「憲法制定時の全日本国民」と読み解くならば、この法的に未だ存在しないはずの「日本国民」が、「この憲法を確定する。(前文一段落)」としていることに矛盾が生まれてしまうのである。
(長谷部恭男の「日本国憲法」を読みながら気づいたが、第十一章「補則」の章が関わってきそうな論点でもある。)
加えて、そもそも人に「人権」がなければ、その人に「主権(最高決定権)」を付与することもできないわけである。よって、「人権」の性質を実定法として定義するものが憲法なのであるが、その未だ成立していない憲法中の「人権」を根拠とした「主権」の概念によってその憲法を確定(制定)するとするならば、それも矛盾することとなる。
これについて、「実定法以前の人権概念(自然権)」によって、人々に「主権(最高決定権)」が付与されるとするのであれば、説明は可能である。しかし、それらの「実定法以前の人権(自然権)」という前提をつくった者こそ、「少数の法原理の理解者」のことである。この前提をつくった者は、「憲法制定時の全日本国民」という意味の憲法制定権力(広義)の中に含まれていても、「憲法制定時の全日本国民」というわけではない。
また、「実定法以前に『日本国民』という枠組みがある」という前提をつくった者がいるとするのであれば説明は可能である。その「実定法以前に『日本国民』という枠組みがある」という前提をつくった者によって「全日本国民」に「主権(最高決定権)」が付与され、それらの者が憲法制定権力(広義)となって憲法を確定(制定)したという考え方である。しかし、この場合でも、その実定法以前に「日本国民」という枠組みを設定した者こそ、「少数の法原理の理解者」ということになる。また、人々に人権がなければそもそも「主権(最高決定権)」を付与することができないことから、「憲法という実定法が制定される以前に人は自然権を有している」という前提が確立している必要がある。ここでもやはり、その前提を設定した者こそが、「少数の法原理の理解者」なのである。つまり、この場合での「主権(最高決定権)」を持つとされる「憲法制定時の全日本国民」を『憲法制定権力』と考えるとしても、その中には、「主権者(日本国民)」を定義する『憲法制定権力を創造する者』とでも言う、根源的な法の創造者が存在するということになるのである。この者こそが、真の『憲法制定権力』というのではないかという疑問である。
また、そもそも人権概念とは、国民主権の多数決原理によっても奪うことのできないものとしているものである。その性質上、たとえ「憲法制定時の全日本国民」の「主権(最高決定権)」をもってする多数決原理によっても人権の性質は奪ったり、適用しなかったりすることのできない普遍性を持つとされているはずである。このことから、「憲法制定時の全日本国民」の国民主権原理の多数決というような『憲法制定権力(広義)』であっても、その者たちの多数決原理の決定は、人権保障を目的とする憲法原理の基盤となっている価値観(価値相対主義の基盤)の正当性を基礎づけることはできない。「憲法制定時の全日本国民」の国民主権の多数決原理によって正当性を基礎づけることが可能な部分とは、せいぜい、立法府の「一院制」「二院制」「三院制」の選択、行政府の「大統領制」「議院内閣制」の選択、司法府の「一審制」「二審制」「三審制」の選択、各機関の権限に関する細目ぐらいのことである。多数決原理としての「国民主権」を行使することで憲法を制定する『憲法制定権力(広義)』を想定したとしても、人権保障を目的とする憲法原理の基盤となっている価値観(価値相対主義の基盤)自体は、この原理を理解する「少数の法原理の理解者」にしか創造しえないのである。
こうしたことからも、人権保障のための憲法の存立根拠を、「憲法制定時の全日本国民」の「主権(最高決定権)」であると考えることには限界がある。
これらのことから、前文の「日本国民」の意味は、一応の国民主権原理としての建前を通して憲法が確定したという「ブランドストーリー」によって、人々を納得させ、この憲法に効力を持たせるための方便であると考えることが適切と考えられるのである。
(大日本帝国憲法では、『少数の法原理の理解者』の役割を天皇が担っており、天皇の言葉として示されているように思われる。)
〇 大日本帝国憲法 「朕か現在及将来に臣民に率先し此の憲章を履行して愆らさらむことを誓ふ」
〇 日本国憲法 「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
フィクションで欺く
憲法改正の議論において、「日本国民自身が、国民投票によって直接主権を行使し、この憲法を確定したのだ」というブランドストーリーを重視することで、その憲法の正当性をより強く確定させようとする主張が見られる。確かに、憲法に含まれる「人権」という認識それ自体が、実は「少数の法原理の理解者」によって生み出されていることを示唆している憲法中の文言を読み解けない者に対しては、憲法の権威性のすべてが「国民主権」によるものであるかのように普及させるためには有効な手段とも思える。その面では、「国民主権こそが正当性のすべてだ」と考える一定層の人々の法に対して抱く権威性の観念が向上する可能性があるため、その一部の層の人々の間では、現在よりも法の効力が強くなる可能性が考えられる。
しかし、その実質は、憲法の権威性を人々に普及するためにつくられた「ブランドストーリー」としてのフィクション(建前)を、現在よりもクリアに示す意味しか持たないものである。なぜならば、「人権概念と法の効力の権威性は、実際には『少数の法原理の理解者』の意志の観念によってつくられているものである」という憲法原理が存立している本質的な要素とは違うものだからである。
そのため、ある意味においては人権概念と法の効力の権威性を詳しく理解しない人々を、より強力で確からしく見える、クリアにつくられた『フィクション(建前)』で欺く側面を有するのである。
(サンタクロース人形が、リアル・サンタクロース人形に変わったぐらいの話なのである。しかし、それによってサンタクロースを信じる人が増えてしまったら、もともとフィクションであるため、真実らしく見えることによる弊害が生まれることがある。)
人権概念は国民主権の多数決原理によっても奪うことのできないものであるにもかかわらず、「憲法は国民主権によってつくられた」という正当性の在り方の一部分を殊更に強調するための憲法改正を実現しようとすることは、憲法原理の根本に関わる「憲法改正の限界」を超えようとする試みにも繋がるものである。
これは、「国民主権の多数決原理の正当性によっては、少数派に対する人権の剥奪も可能である」という主張に根拠を与える極めて危険な考え方である。
また、この主張は「日本国民」という文言に含まれた『憲法制定権力』と『現在及び将来の国民』、憲法改正権を行使する憲法改正権力としての『現在の国民』の意味の違いを区別しない意味でも、混乱したものである。(他にも、この『憲法制定権力』を「憲法制定時の全日本国民の主権」と見るのか、『少数の法原理の理解者』と見るかによっても意味が異なる。)
憲法上の「主権」の概念が『最高独立性』『統治権』『最高決定権(国民主権)』の3種類存在していることはよく知られているが、これと同じように、「日本国民」の概念に含まれる意味の違いも押さえて考えるべきである。
また、前文の「日本国民」の文言が『憲法制定権力』を意味する側面が強いとしても、憲法原理の本質である人権概念は、憲法制定権力の中でも極めて少数の「法原理の理解者」によって、その存在と価値と正当性が生み出されているものである。
このような、前文の「日本国民」という言葉に含まれた、聞き手の理解に合わせたフィクション(建前)や方便を絶対視することなく、その本質を読み解いていく必要がある。
憲法中から「日本国民」と「国民」をすべて抜き出して意味をまとめてみよう。
一応、『憲法制定権力』、『現在及び将来の国民』、『現在の国民』の三種類を用いているが、正確にはこれらの違いが明確に区別できないものも存在している。
また、『憲法制定権力』は、憲法制定と同時に、『現在の国民』の中に吸収されると考えられる。
憲法制定前 | 国民(憲法制定権力) | |
↓ ↓ ↓ | ↓ ↓(吸収)↓ ↓ | |
憲法制定後 | 国民(現在の国民) | (将来の国民) |
国民(現在及び将来の国民) |
加えて、前文には「諸国民」、「全世界の国民」の文言があり、これは(人類的な意味)の国民として、上記の国民とは区別した。
【前文】
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日本国民(憲法制定権力)は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われら(憲法制定権力)(現在の国民)とわれら(憲法制定権力)(現在の国民)の子孫(将来の国民)のために、諸国民(人類的な意味)との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民(憲法制定権力)(現在及び将来の国民)に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民(憲法制定権力)(現在の国民)の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民(憲法制定権力)(現在の国民)に由来し、その権力は国民(現在の国民)の代表者がこれを行使し、その福利は国民(現在及び将来の国民)がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われら(憲法制定権力)は、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民(憲法制定権力)は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民(人類的な意味)の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われら(憲法制定権力)は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われら(憲法制定権力)は、全世界の国民(人類的な意味)が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われら(憲法制定権力)は、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民(憲法制定権力)は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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第1章 天皇
〔天皇の地位と主権在民〕
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民(現在及び将来の国民)統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民(憲法制定権力)の総意に基く。
〔天皇の国事行為〕
第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、日本国民(現在及び将来の国民)のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九 外国の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。
第2章 戦争の放棄
〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第9条 日本国民(憲法制定権力)は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第3章 国民の権利及び義務
〔国民たる要件〕
第10条 日本国民(現在及び将来の国民)たる要件は、法律でこれを定める。
〔基本的人権〕
第11条 国民(現在及び将来の国民)は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民(現在及び将来の国民)に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条 この憲法が国民(現在及び将来の国民)に保障する自由及び権利は、国民(現在及び将来の国民)の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民(現在及び将来の国民)は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
〔個人の尊重と公共の福祉〕
第13条 すべて国民(現在及び将来の国民)は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民(現在の国民)の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
〔平等原則、貴族制度の否認及び栄典の限界〕
第14条 すべて国民(現在及び将来の国民)は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
〔公務員の選定罷免権、公務員の本質、普通選挙の保障及び投票秘密の保障〕
第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民(現在の国民)固有の権利である。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
〔生存権及び国民生活の社会的進歩向上に努める国の義務〕
第25条 すべて国民(現在の国民)は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
〔教育を受ける権利と受けさせる義務〕
第26条 すべて国民(現在の国民)は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民(現在の国民)は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
〔勤労の権利と義務、勤労条件の基準及び児童酷使の禁止〕
第27条 すべて国民(現在の国民)は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3 児童は、これを酷使してはならない。
〔納税の義務〕
第30条 国民(現在の国民)は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
第4章 国会
第9章 改正
〔憲法改正の発議、国民投票及び公布〕
第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民(現在の国民)に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民(現在の国民)投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民(憲法改正権力となった現在の国民)の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
第10章 最高法規
〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民(現在及び将来の国民)に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
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<理解の補強>
憲法制定権力を制限するもの(作成中)
前文に示されている「日本国民」とは、「憲法制定権力」の人々を意味している。
しかし、この「憲法制定権力(広義)」の人々であるとしても、全能(万能)の制定権(制憲権)を有しているわけではない。その制憲権の行使には一定の限界がある。
その理由は、いくつかの側面から説明することができる。
〇 人が持っているとされる人権という概念は「侵すことのできない永久の権利」という普遍性の建前がある。また、人権という概念は憲法が制定されるよりも以前からもともと存在するものとされている。
この人権という概念は、この「憲法制定権力」の有する「主権(最高決定権)」によっても剥奪するような決定を行うことはできない。
これは、もし「主権(最高決定権)」を行使して人権を剥奪することができることとなれば、そもそも「侵すことのできない永久の権利」という人権の性質が成り立たなくなるという論理矛盾に陥るからである。
そのため、憲法上に「人権」という概念を位置付ける以上は、そこに人権の性質を損なわせることはできないという一定の限界が、「憲法制定権力」を拘束する規範として存在するということになる。
〇 もし「国民主権」の多数決の手続きに基づいて制定された憲法典に記された条文そのものが人権という概念の存在根拠であると考えるとする。
すると、「国民主権」の多数決手続きによって憲法改正を行えば、人権の剥奪も可能となってしまう。
これでは、そもそも「侵すことのできない永久の権利」であるはずの人権概念の性質に反した結果を生む。
また、多数決の手続きによって人権を剥奪することができてしまうのであれば、「国民主権」のいう主権者そのものの存在を侵害することが可能となるため、「国民主権」が成り立たなくなるという矛盾も生じる。
そのため、「国民主権」の多数決の手続きに基づいて制定された憲法典に記された条文そのものが人権という概念の存在根拠であると考えることは、妥当でない。
このように、人権概念は「国民主権」の正当性を裏付けるための基底的な要素となっている。
「国民主権」を採用する以上は、その基底的な要素として人権概念が存在しており、これを「国民主権」の多数決原理によって剥奪することはできないという一定の限界が存在することとなる。
〇 「憲法制定権力」となっている人々が「主権(最高決定権)」を有しているという前提そのものは、人々が人権を有するという前提から生まれている。
そのため、「主権(最高決定権)」を有する「憲法制定権力」そのものが、自分自身の有している「主権(最高決定権)」を定義づけて、その正当性を裏付けている人権概念を損なわせるような形で憲法制定を行うことができないという内在的な制約が存在する。
このように、「国民主権」に基づいて憲法が制定されるとしても、その「国民主権」は万能の制憲権を有しているわけではない。
その過程では、「国民主権」の正当性を裏付ける人権概念による拘束を受けることとなる。
憲法学者「芦部信喜」は下記のように述べている。
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近代憲法は、沿革的にも、人間の自然権を保障する永続的な規範に国家権力を服せしめるために制定されたものである。憲法が法律と質的に区別され、最高法規たる性格を与えられる実質的根拠は、そこにある。この憲法の理念、すなわち基本的人権を保障することによって国家権力を制限し、かつ国家権力に一定の形体を与える立憲主義(法の支配)の原則は、古典的な自然法の理論をはなれて独立に意味をもつ憲法の本質とも言うべきものであろう。国民の制憲権の思想は、かような人権の憲法的保障をかちとるための手段として、アメリカ独立革命・フランス大革命に至ってはじめて体系的に主張され、憲法制度にもとり入れられたイデオロギー的概念であったのである。この立憲主義と国民主権(制憲権)との相互補完または目的・手段の関係は、現代においても基本的には少しも変わらない。自由と平等、自由と生存は民主的政治秩序に不可欠の前提であり、また民主政治秩序においてのみ自由と平等は権力の濫用からみずからを防衛し、真の生存が確保されるからである。私がかつて、基本的人権を最高の法価値とする近代憲法の根本規範は、実体化された超実定法として、「制憲権が自己の存在を主張するための基本的な前提であり、制憲権の活動を拘束する内在的な制約原理である」と述べた(本書四一━四二頁)趣旨は、そこにある。そうだとすれば、人間人格の自由な発展と尊厳を犯す人権保障規定の変更、および人権の保障にとっての必須の━━その意味では日本国憲法前文のいう「人類普遍の原理」としての━━民主制の原則の変更を憲法改正権によって行なうことは、法理上不可能というほかなかろう。
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憲法制定権力 芦部信喜 1983/1/1 (P100~101) amazon (下線は筆者)
「国民主権」を重視する「憲法制定権力(広義)」についても、そもそも、その「国民主権に基づく形で憲法を制定しよう」という意志を持った人々(少数の法原理の理解者)が「国民」の範囲を定義し、その国民に対して「主権(最高決定権)」を与えない限りは、「国民主権」に基づく憲法制定などあり得ないわけである。
そうなると、そもそも「憲法制定権力(広義)」による憲法制定行為は、「国民主権」による作用なのかという疑問が湧いてくる。
「国民主権」を採用するという前提が、誰かによって意図的に作られているということは、その誰かこそが、真の意味での「憲法制定権力(狭義)」であり、真の意味での「主権者(最高決定権者)」なのではないかということである。
「憲法制定権力(広義)」が選択可能な部分と、「憲法制定権力(広義)」であっても選択が不可能な部分を明らかにしていく。具体的にリストアップしていくことで、「憲法制定権力」や「憲法改正権力」とは何なのかが明らかとなると考えられる。
広義の憲法制定権力 ⇒ 「憲法は国民主権によって制定された」と考える場合の憲法を制定した国民である。「憲法改正の限界」に関する議論と同じように、国民主権を基にした「憲法制定権力」の行使においても、近代立憲主義の普遍的価値とされる建前を採用しないことは不可能である。あまり議論されないが、現在の人類の知の到達点として、近代立憲主義の法原理に反するような憲法は、「憲法制定の限界」とでも言う価値的限界に抵触するため、そのような実定法を制定することはできないと考えられる。
狭義の憲法制定権力 ⇒ 実存主義的な価値相対主義の認識から人権の存在と価値と正当性それ自体をつくり出すことによって近代立憲主義という価値観自体をつくり上げた者である。この者は、多数決原理によっても奪うことのできない普遍的価値とされる建前を創造した「少数の法原理の理解者」である。この者は、「憲法は国民主権によって制定された」と考える場合においても、その「広義の憲法制定権力」の中に含まれているが、非常に少数の者である。
憲法改正権力 ⇒ 国民主権の行使によって憲法を改正する国民である。しかし、多数決原理によっても奪うことのできない普遍的価値とされる建前を改正することは、近代立憲主義という価値観それ自体を壊してしまうことに繋がる。このような改正は、憲法が憲法でなくなってしまうために「憲法改正の限界」の価値的限界に抵触するため理論的には不可能である。
〇 「憲法制定権力(広義)」が選択することができると思われるもの
「憲法制定権力(広義)」は、せいぜい下記の程度の選択権(制定権)しか有していないと考えられる。
・ 天皇制を採用するかどうか
・ 平和主義を採用するかどうか
・ 立法権の「一院制」「二院制」「三院制」など
・ 行政権の「議院内閣制」「大統領制」
・ 司法権の「一審制」「二審制」「三審制」など
・ 議会の長が行政の長となる制度にするか
・ 地方自治という垂直的な権力分立構造を採用するか
・ 議員の任期など、運用上の細かい事項
・ 予算や条約などの処理形式など細かい事項
・ 三権分立のバランスに関わる技術的事項
・ 改正規定の強度
・
〇 「憲法制定権力(広義)」でも選択できないと思われるもの
これは「少数の法原理の理解者(狭義の憲法制定権力)」によってつくられる部分である。
・ 近代立憲主義
・ 人権の普遍的価値の建前
・ 価値相対主義の人権観
・ 人権保障のために統治機構が存在するという関係性
・ 国民主権
・ 言語を用いていること
・ 権利章典と統治機構が存在すること
・ 憲法の特質の「自由の基礎法」「制限規範」「最高法規」
・ 改正限界の論点
・
◇ なぜ「憲法制定権力(広義)」でも選択できない部分があるのか
・ 学術的な人類の知の到達点としての理論が存在し、敢えて知の後退による理論を採用することはできないから。
・ 「憲法制定権力(広義)」と言えども、人と人との共生性を成り立たたせようとする意志に背くことは、社会的動物として秩序をつくろうとする人間の持つ道徳的・倫理的な感覚に馴染まず、法の観念が成り立ちえないから。
・
〇 憲法改正権力が選択できると思われるもの
・ 立法権の「一院制」「二院制」「三院制」など
・ 行政権の「議院内閣制」「大統領制」
・ 司法権の「一審制」「二審制」「三審制」など
・ 議会の長が行政の長となる制度にするか
・ 地方自治という垂直的な権力分立構造を採用するか
・ 議員の任期など、運用上の細かい事項
・ 予算や条約などの処理形式など細かい事項
・ 三権分立のバランスに関わる技術的事項
・
〇 「憲法改正権力(広義)」では選択できないと思われるもの
・ 「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」の三大原則(改正不能と思われる)
・ 前文(改正できないのかもしれない)
・ 天皇制(憲法改正の公布には天皇が必要であることなどが理由)
・ 平和主義(戦争を永久に放棄したと思われる部分があること等が理由)
・ 近代立憲主義(学問上の人類の知の到達点であり、知の後退は選択できない)
・ 人権の普遍的価値の建前(上記に同じ)
・ 改正規定の改正(改正限界説あり)
・
「憲法制定権力(広義)」の行う多数決の手続きを正当性の根拠として、憲法の保障しようとする人権概念の正当性を根拠付けることはできない。
もし「憲法制定権力(広義)」の多数決の手続きが憲法の保障しようとする人権概念を正当付けることができるというのであれば、「憲法制定権力(広義)」の多数決は万能であり、それ以後の国民は「憲法制定権力(広義)」の多数派の行った身勝手な制定行為によって法秩序の中に組み込まれ、「憲法制定権力」を「神」として信仰し続けるように強制されていることとなる。
これは、多様な価値観を保障しようとする近代立憲主義の基盤となる「思想良心の自由」という人権が制約されていることになり、憲法を打ち出して人権を保障しようとした本来の理念とは異なってしまうこととなる。
この「憲法制定権力(広義)」の多数派によって憲法が制定され、そこに正当性の根拠があるという物語(フィクション)を信じ込まされること自体が、一つの価値観としての絶対性(宗教性)を帯びることとなり、多様な価値観を保障しようとするはずの近代立憲主義という性質に馴染まないということである。
他の価値観を排除する形で「憲法制定権力(広義)」の物語を正当化根拠として優越的価値を認めさせようとすることは、人権保障を目的とする近代立憲主義の本来の価値観と相いれないのである。
よって、「憲法制定権力(広義)」の多数決の手続きによっても、憲法の基盤となる価値である人権保障の仕組みの中核にある人権概念を正当化することはできない。
その正当性の基盤は、「少数の法原理の理解者(実存主義的な価値相対主義者)」によって創造され、維持されているものなのである。
前文には、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」とある。
しかし、この文言だけでは、下記を区別できず、はっきりしない。
◇ 「国民主権」によって発生した「憲法制定権力」が憲法を制定した。
この場合、「主権が国民に存することを宣言」するという前提に憲法を確定する正当性の基盤を置いているという意味であるとすれば、この憲法が「主権が国民に存することを宣言」していることが、この憲法の制定そのものが「国民主権」に基づいて定められたことを指し示すことができるのかという疑問がある。
つまり、法段階説の上位規範によって正当性が裏付けられているのではなく、この憲法そのものが宣言していることが、この憲法そのものを正当化できるのかという問題である。
◇ 「憲法制定権力」の憲法制定行為によって「国民主権」が確立した。
この場合、この「主権が国民に存することを宣言」しているのは、この憲法の中身が国民主権である旨を宣言するものという意味と考えるものである。これは、憲法の正当性を裏付けているものには触れられていないという読み方である。
この前文で「宣言し」ているのは、憲法制定権力(広義・狭義は不明)である。
この憲法制定権力は、一応「日本国民」とされているが、この憲法が制定されるまでは日本国という国家は未だ存在しないはずであるから、厳密には未だ「日本国民」というものは存在しないはずである。
10条でも「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」とあるように、憲法制定によって効力を有した法秩序の下で、日本国民の要件が決せられるとしている。
すると、この「日本国民」とは、大日本帝国下にいた全臣民を指しているわけではなく、一部の憲法制定権力の予備軍が、勝手に「日本国民」を自称しており、その予備軍が憲法を制定する際に、「日本国民は、~~ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と宣言しただけであるように思えてくる。
その後、10条の「日本国民たる要件」を法律で定め、「日本国民」が適用される対象となる人々の範囲を広げたという論理である。
この場合、一部の「日本国民」を名乗る憲法制定権力が、憲法制定を行ったことによって、国民主権が誕生したと解することになる。これは、国民主権をもともと持っていることを前提とする「全日本国民」、あるいはその「全日本国民を代表する者」が、「日本国民」を名乗って憲法を制定したという考え方とは異なるものである。
いや、もしかすると、その地域の人々を代表する何らかの秩序(選挙システムなど)が憲法制定以前に存在することを前提としており、その地域の人々は未だ主権を有していないが、それでもその人々を代表する者が既に「日本国民」を名乗っており、その者が「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定」したことによって国民主権が発生したのかもしれない。
しかし、どの説においても、憲法制定権力(広義)の行う多数決という形を正当性の根拠として、憲法の保障しようとする人権概念の正当性を根拠付けることはできない。
憲法学者「木村草太」が解説する、憲法学者「長谷部恭男」の表現を紹介する。
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少し前なんですが、公法学会の総会報告の冒頭、一番偉い人がやる報告で長谷部先生が何を話したかというと、「憲法制定権力という概念は無意味であって、国民主権とか国民の憲法制定権力という概念は有害なので、捨てましょう」と言いました。
これは非常に恐ろしいことです。これは、まさに哲学的な論点なのであとで議論させていただこうと思っています。
予めポイントだけ指摘しておくと、国民主権とか国民の憲法制定権力という概念を使うと、国民が憲法を制定する権力があるんだ、だから今ある憲法を国民が変えてもいいし、あるいは、国民が新しい憲法を制定してもいいというタイプの議論につながっていくわけです。
けれども、では、そこで言う「国民」を定義しているのは、誰かという問題があるわけです。そこには、果たして在日外国人が入っているのかいないのか、それによって全然国民主権の内容が違ってきますね。あるいは「国民」というけれども、実は国民の範囲が東京都民に限定されていたとかという可能性もあったりするわけです。
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【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(4)】――二つの憲法の対立 2014年10月31日 (下線・太字は筆者)
【参考】「打倒 芦部憲法学」弟子の長谷部恭男早大教授が語る 2020年03月15日
憲法学者「長谷部恭男」の解説も確認する。
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憲法典以前に、憲法典より上に、君主がいて、本来、彼(彼女)が全国家権力を行使することができるという言明は、それとしてまだ理解可能ではある。他方、憲法典以前に、憲法典より上位に、何千万もの人民がいて、それらの人民が本来、全国家権力を行使できるという言明は、にわかには理解ができない。
何千万もの人民は、どのようにして意思決定できるのであろうか。単純多数決だろうか。単純多数決で主権者たる人民が意思決定できることは、誰が決めたのだろうか。全人民だろうか。全人民はどのようにして、そう決めることができたのだろうか。事態は無限後退の様相を示す。
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第29回 憲法学は科学か 2022年6月14日
憲法制定権力と憲法改正権力を制限するもの
憲法の生み出す法秩序は、人々に受け入れられ、その社会の中で通用する実力となっていることこそが、その効力の本質である。
ということは、受け入れられて通用する実力として機能している以上は、その法がどんな内容であったとしても、そこに秩序は存在し、法の効力が成り立っているということとなる。
そう考えるならば、「人権の普遍的価値の建前」を採用していない憲法や、「国民主権の民主主義」を採用していない憲法など、近代立憲主義でない法の秩序も存在し得たはずである。もちろん、以前の時代の法は、近代立憲主義とは異なったものであり、それを採用していなかった。
しかし、他の可能性があるにも関わらず、現在において、近代立憲主義としての「人権の普遍的価値の建前」や「国民主権の民主主義」を採用し、それを逸脱する改正に対しては「憲法改正の限界を超える」とする学説は、一体どのような価値基準に基づく認識枠組みに裏付けられたものなのだろうか。その価値基準の正当性の観念は、確からしく証明することが可能なのだろうか。
また、憲法の廃止を選択し、「無秩序」を選択することは可能だろうか。もし「無秩序」を選択することを「改正の限界」と考えて不可能と判断するのであれば、なぜそれを正当性がないと判断できるのだろうか。
ここには、憲法制定権力、憲法改正権力の両方を同様に制約する、何らかの価値観、価値基準が存在しているように思えてならない。その価値観、価値基準は、一体どのような形でその社会の中で正当化されているのだろうか。ここを明らかにする必要がある。
そこには、「価値相対主義の優越性」という価値観が存在しているのではないだろうか。
「人権の普遍的理念の建前」を否定する者や、「人権は存在しない」との考え方を絶対的な価値観とする者の思想を守る(保護する)ためには、前提としてその者に「思想良心の自由」という人権が保障される必要がある。
このことから、人権概念の存在を正当化することは、優越的な価値を持つと考えるものである。つまり、相対的優位という絶対的な価値観である(価値相対主義が価値絶対主義となるパラドクス)。
ただ、その優越的な価値を持つとする「人権」という価値観さえも、それを否定する価値観との間の相対的優位の中に現れるものに過ぎないものである。その「優越的な価値」という考え方を、「絶対的な価値観」として人々に押し付けることは、その者の「人権概念を否定する自由」という人権を奪ってしまうことになるため行うべきではない。この価値観は、自分自身の中の確信として抱かれるものではあるが、それを他者に押し付けることとなれば、その価値観の本質を失う行為となるのである。
しかし、そうなると近代立憲主義とは、自分自身の中で「相対的価値観の優越性」を確信している者による恣意性が本来的に備わった秩序観ということとなる。
となると、この「相対的価値観の優越性」の認識こそが、近代立憲主義の憲法の人権観の本質であり、「自然権」、「国民主権」、「民主主義」、「多数決原理」などは、絶対的な認識を持ちやすい者たちを欺くみせかけの正当性に過ぎないということとなる。
我々は、憲法を目にし、その法の原理に従う時、そのような前提を理解して従っていると言えるだろうか。「自然権」「国民主権」「民主主義」「多数決原理」などを絶対的な正当性であると盲目的に信じてしまいやすい者たちは、欺かれたままで良いのだろうか。
また、その者たちが「国民主権」や「多数決原理」を絶対視することによって引き起こされる憲法改正によって、「相対的価値観の優位性」を前提とする近代立憲主義の価値観が破壊されてしまう事態が起きた際には、その憲法は正当性を持っていると言えるのだろうか。
この場合、恐らく一定のレベルでは社会的に通用する実力としての側面は失われず、慣習として機能し続けると思われる。しかし、やがて絶対的価値観による他の価値観を排除する思想によって、少数派の自由や安全を侵害する事態が引き起こされ、絶対的な価値観とする憲法観の不備が現れることとなると思われる。
すると、また相対的な価値観の憲法観へと改正する機運が現れるかもしれないが、相当数の堪えがたい犠牲が出た後に初めて多数派が絶対的な価値観の不都合に気づき始めたことによるものとなることが考えられる。そうなると、その際に起きる相当数の堪えがたい犠牲を防ぐ力となりえない近代立憲主義の憲法のあり様は、それが限界なのかと問いたくなる。
ただ、元に戻った相対的価値観をベースとした憲法によって人権が普及すると、それを絶対的な価値観であると信じてしまった多数派が、再び絶対的な価値観の憲法へと改正を行ってしまうことが考えられる。
ここには、「自然法の人権観」と「法実証主義の人権観」の対立のような構図が浮かび上がってくる。
ただ、最終的にはこのような永遠のサイクルを想定し、できるだけ相対主義の憲法観を維持しようとし続ける者の強い意志が、近代立憲主義を成り立たせる力の本質であると思われる。
下記は、上記の「ただ、そうなると近代立憲主義とは、自身の中で相対的価値観の優越性を確信している者による恣意性が本来的に備わった秩序観ということとなる。」の部分と同様の問題提起がなされている。
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まず、立憲主義は一切「善き生」の追求に関与していないとまでいえるのか。つまり比較不能な個々人の「善き生」の追求のための最低限のそれ自体価値中立的な共通の基底と解することができるのかが疑わしい。この問題は、「善き生」の追求と「正義の基底性」という井上達夫の議論にも関連することだろうし、延いてはリベラリズムやコミュニタリアニズムとの関係にもコミットする問題であるだけに根が深い問題かもしれないが、いずれにせよ、こうした思考の前提には、基底としての立憲主義をそれ以外の主張と整然と区別でき、かつそれをメタレヴェルにおけるとする考えと同じかまたは極めて酷似するものと見なせる思考が潜んでいるように思われる。であるならば、こうした二元的秩序を頭ごなしに押しつけることもできないではないかという疑念をつい抱いてしまいたくなる。少なくとも、その主張も一つの「善き生」の追求に他ならないではないかとの疑念を払拭するに足る説得的な理屈がない。
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芦部信喜と憲法第九条 2019-04-13
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しかしながら、ここまで繰り返し述べてきたように、人がどう生きるべきかについてはさまざまな考え方があり、その中のいずれがより善い、優れた価値かを客観的に決めることはできない。それは各人の主観による。よって、その中の特定の価値観―「善き生の構想」―に依拠した上記各説の論理では、他の価値観(を支持する人)に対して憲法の正当性が示せない。そもそも憲法とは、一国の国民すべてを対象に成立し適用されるもので、その国民の価値観は多様である。誰もが「自律的な生き方」や「政治参加する生き方」にコミットしているわけではない。憲法がこうした特定の生き方を保護する枠組みであるなら、別の生き方を価値とする人(国民)にとっては、それが「自分の支持しない価値を守る手立て」「自分が善しとするのとは異なる生き方を保護する枠組み」となる。そこに正当性は認められず、むしろそれは「不当」な手立て・枠組みである。こうして、憲法の「価値押しつけ」性という芦部以来の課題は現在まで解決されず、価値の多元性、価値観の多様性が認められる中で―佐藤、松井、長谷部の3人の理論という限定的な範囲ではあるが―日本の憲法学は立憲的憲法を正当化できない(できていない)というのが本稿の結論になる。
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憲法学は立憲的憲法を正当化できるか?(2・完)―日本の憲法理論の検討 PDF
憲法学者「石川健治」の講義を参考にする。
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(12:07~)
立憲主義っていうのは、実はあの、そのまま放っておいて実現するものではなくて、放っておいたら倒れちゃうもんなんですよね。だんだん、だんだんこれ、みんなこんなもの支えなくてもいいんじゃないかなってことで、公共がが小さくなってやせ細っていくということになるのが当然で、これ立憲主義の抱えているジレンマなんです。
逆に言うと、立憲主義が実現しているということは、この仕組みの外から何らかの意味でこの熱源がですね、別のところにあって、そこからの熱で公が支えられている。でもその熱源が「特定の価値観だ」ってことは絶対に言っちゃいけませんので、いろんな人が思い思いに支えている、という感じになるんです。
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
(13:36~)
立憲主義とか、憲法学者ってのは、それが何であるかっていうことを、この語るわけにはなかなかいかないんですけれども、それは結局、自分が特定の色でこれを染めようとしていることになっちゃうんです。ジレンマです。
で、しかも、じゃあ何も言わないって言うと、倒れちゃうんですよね、この線が破れちゃう。そこのジレンマが実際一番問題で、ですから例えば公のためにもっとその「生活や生命を投げ打つ日本人になってもらおう」ということになった場合には、これを「愛国心」っていう言い方で、特定の色に染めていくしかないということになるわけで、ということがまあその、みんなこの、公を支えるのをサボり始めててですね、公が小さくなっていって、この線が怪しくなっているということでもあるんだろうと思うんですが、とにかくそのいざとなったら国のために命を投げ出すような状況を生むためにはですね、熱く燃える何かで充填しないといけないということがあると。
でもこれやっちゃうとこの線が消えてしまう。というジレンマの中に現在あって、第一次安倍政権は、ここ(愛国心)に手を付けたということになってるし。
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【動画】立憲主義と9条③ 私的領域を守る立憲のシステム 石川健治 立憲デモクラシー講座⑥ 2018/03/13 (6:32~が立憲主義の説明)
この動画を見た人の感想も参考にする。
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lesson underdogs'
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というボルテールの主張が多くの人には賛同しかねるもの、そうであるから日本国憲法9条のような別の見かけを持つ柱が(民主主義に)必要だということですね。
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(上記動画のコメント欄より)
【参考】「憲法9条の規範力」 石川健治 PDF
〇 パソコンは機械的であるが、電源となる電気がなければ作動しない。
〇 エンジンは機械的であるが、燃料がなければ作動しない。
同様に、憲法のメカニズムも機械的であるが、熱源となるものがなければ作動しないこととなる。
〇 憲法は機械的であるが、それに自ずと従おうとする人が一定数いなければ効力は生まれない。
この熱源を破壊するような憲法改正は、憲法のメカニズムがその社会の中で作用しなくなる危険性、つまり、法の効力が損なわれることに繋がる。この点を考える必要がある。
<理解の補強>
日本国憲法前文に関する基礎的資料 衆議院憲法審査会
【社説】憲法公布71年 平和主義は壊せない 2017年11月3日
日本国憲法前文 Wikipedia
憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その3)――憲法前文とその意義 2017年10月19日
憲法前文が理想主義すぎるだって? 2015年5月26日
書籍『文学部で読む日本国憲法』 2016年8月
憲法の三原則(基本原理)はなぜ改正できないのか 2019.01.03
この記事には、「日本国憲法が採用した『国民主権』と『基本的人権の尊重』『平和主義』という三つの基本原理は宇宙の『真理』となる絶対的普遍的な価値にすでに到達している」と記載されている。しかし、そのような考え方を国民に押し付けるような憲法となってしまうことは、多様な価値観を保障しようとする近代立憲主義の憲法として相応しいとは言えない(詳しくは当サイトの人権の本質に関連するページで解説している)。
憲法学者「長谷部恭男」の説明も参考にする。
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外敵の侵略を受けたときも、日本国民としては何らの抵抗をすべきではない。ただ、ただ、殺されるがままになることが、人としての正しいあり方だという考え方は、理論的にあり得ないとは言いませんが、それは相当に強烈な価値観を前提としなければ、支えられない考え方でしかありません。そんな特定の価値観を全国民に押し付けても構わないという立場は、根源的に異なる多様な価値観の存立を前提としつつ、そうした多様な価値観の公平な共存をはかろうとする狭義の立憲主義とは両立しません。ということは、日本国憲法そのものと両立し得ないということです。
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その2 表現の自由と公共の福祉 2017/1/20
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しかし、この立場をすべての国民に押し付けることは、特定の価値観・世界観をそれを共有しない人々にも押し付けることである。それは、多様な価値観・世界観の存在を認めた上で、それらの公平な共存を目指す近代立憲主義と真っ向から衝突する。
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その10 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない 2017/10/23
「長谷部恭男」がここで批判しているのは、前文の「平和主義」や9条の規定を「無防備・無抵抗」を強制するものとして読み解こうとする立場である。
しかし、注意したいのは、「平和主義」の理念そのものと、9条の解釈における「武力行使全面放棄説」とは必ずしも連動するわけではないことである。
また、9条を「武力行使全面放棄説」で読み解き、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を一切しない立場を採用するとしても、日本国を防衛するための「自衛の措置」を砂川判決で示されている「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」や「他国に安全保障を求めること」によって行う立場もあり得る。
そのため、「長谷部恭男」のこの説明を根拠とすることで、直ちに日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行うことが正当化されるということにはならない。
ただ、この記事はその他の理論的な部分に関してはかなり参考になる。