近年、政党や政治家、団体などが改憲案を発表しています。しかし、それらいくつかの改憲案を詳しく見てみると、人権に対する認識が非常に危ういものが見られます。
より確かな洗練された憲法を考えていく上では、憲法の中核にある「人権の根拠」を理解することが重要です。
また、その「人権の根拠」に対する考え方の違いによって、様々な問題が起きうることも想定しておくことが必要となります。
特に、「人権の根拠」に対する考え方が異なると、その影響で「国民の人権を制限する際の調整方法や権力の行使範囲」や「緊急事態条項の創設意図」、「安全保障政策の方針」、「9条の認識」などに対する考え方も大きく異なってくることがあります。
そのため、政党や政治家などが発表する改憲案の個別の条文を見る以前に、その改憲案に含まれる「人権の根拠」に対する認識や、そこから現れる憲法観の違いを分析ことが必要です。
私たち自身の人権を維持していくためにも、「人権の根拠」の違いを明らかにし、より洗練された憲法とは何かを考えることが大切です。
現行憲法に込められた人権保障の高度な仕組みの本質についても理解し、「人権の根拠は何か」、また「人権はどのように維持されているのか」というテーマについて考えを深めていくことが必要です。
● 人権の根拠の比較
自民党改憲案を取り上げ、人権の根拠や現行憲法に含まれた人権保障への本質的な意図を考えます。
自民党の考える人権の根拠は、草案のQ&Aで「人権規定も、国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要」などと説明しています。また、草案の条文中では
自民党草案 第11条「国民は、すべての基本的人権を享有する。(以下略)」
と表現しています。つまり、自民党草案では「国民は、すべての基本的人権を(国家によって)与えられる。」という趣旨の意味にも読み取れます。人権の根拠を「国家」というものを拠り所にしているならば、現行憲法の人権観と大きな違いです。
現行憲法では、
現行憲法 前文「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
現行憲法 第11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。(以下略)」
と表現しています。つまり、現行憲法は「(人は生まれながらに人権を持っており、)国民は、すべての基本的人権の享有を(国家によって)妨げられない。」ということを意味しています。このように現行憲法は、人であれば国家や法律に先立って個人が本来的に人権を持っているという自然権の発想を根拠にしています。そして、その自然権としての人権は、この憲法によって国家が誕生しても妨げられることがないということを記載しています。
人権の根拠を「国家」においている自民党草案と、人権の根拠を「自然権」においている現行憲法では、この点が決定的に違っています。
自民党の憲法草案のように「国家の歴史や文化、伝統を根拠に人権が生み出され、国家によって人権が与えられ、国家によって人権が保障される」という考え方で憲法改正がなされてしまったならば、国家の都合によって人々の人権が侵害されてしまう危険性が非常に大きくなってしまうことが考えられます。人権の根拠を国家を拠り所とすると、国家の都合によって個々人の人権が制限されてしまうような制度の創設や政策の執行を大胆に行うことができるようになるからです。
これは現行憲法の体制下で守られている個人の権利利益の質を下げてしまう結果になりかねず、国民にとって非常に大きな問題です。そのようなことになると、自民党案を支持する改憲派自身にとっても、後々、自分たちの人権が侵害されてしまう事態に直面することが起きうると考えられます。これは改憲後に非常に後悔することになると思われます。そのような事態はすべての国民にとって不幸なことになると思われます。
一神教的世界観
唯一の真理を求める目的論的な考え方に近いものがある。
キリスト教など
(多神教的世界観)
実存主義は認識論として仏を目指す観念とも整合性がある。これは神や真理を求める考え方とは違うものである。
仏教など
この立場は、価値絶対主義者から、法以前に人権の存在を認めるという点は「人権が神から与えられたもの」と見なしているのではないかと指摘されることがある。しかし、それは実存主義的な価値相対主義の認識より、万人に法の前提として人権があると認知されるように意図することが人権保障にとって有利であるとの考えの下に合意されているものであり、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者はそもそも「人権」という概念を一神教の目的論的な真理として捉えているわけではない。価値絶対主義者にはどうしてもこの意味をまさしく読み解くことができない。なぜならば、この認識は哲学や心理学、宗教学などにおいて共通して見られる認識論の発達段階の高い部分にあたるからである。
哲学
古典的認識
↓
目的論的認識
↓
価値絶対主義
↓
正義 理性 倫理 道理
↓
不安・恐怖・苦悩・絶望
↓
実存主義的認識
↓
価値相対主義
↓
正義 理性 倫理 道理
↓
法哲学
万人普遍の正義
↓
多数決の正当性への確信
(多数決万能・法による人権)
↓
法実証主義
↓
個々人の世界認識
↓
人権概念の正当性の創造
(個人の尊厳・人権による法)
↓
自然法論
↓
法学
実定法
憲法
法律
政令
省令
訓令
要綱
条約
条例
判例
実定法の解釈
多数決に正当性が存在すると考えるため、憲法では多数決によって立法できるとの規定がある。多数決で決めた法であれば、どんな決定も正当化される。
憲法改正も多数決で正当性が保障されると考える。法の原理はすべて多数決で決定できるため、憲法改正の国民投票(96条)ももちろん多数決で正当性が保障されると考える。民主主義は多数決で成り立つものであると考える。
↓ ↓ ↓
自民党憲法草案の立場
日本のこころ憲法草案の立場
日本青年会議所憲法草案の立場
ナチス時代のドイツ・ワイマール憲法の運用の立場
自民党憲法草案や日本のこころ憲法草案では、現行憲法の97条の実質的最高法規性を削除している。そのため、法以前に人権概念に正当性が存在しているという前提が失われてしまっている。これは、ナチス時代のドイツ・ワイマール憲法の法実証主義的な運用と同じことになる。多数決によって生まれた法そのものを絶対視してしまうことは、大量虐殺などの侵害をも引き起こしかねない法運用となってしまう恐れがある。
実定法の解釈
多数決によって正当性は保障されないが、最大幸福を実現するための意思決定においては他に手段がない。そのため、憲法ではとりあえず法律の立法の際は多数決を採用することを規定している。多数決の正当性とは、その程度のものである。
多数決は人権保障を実現するというものではないので、憲法改正の国民投票(96条)も民主主義の正当性を一応示しておく建前にすぎず、実際は多数決の決定よりも人権概念の正当性による自然法が優越する。多数決では正当性を十分には保障できないので、硬性憲法という形で多数派が安易に改正することができないようにしていると考える。
↓ ↓ ↓
現行日本国憲法の立場
現行憲法は価値相対主義の自然法論によってつくられている。法以前に人権概念が存在しており、その人権概念の正当性根拠は個人の尊厳によるものとしている。
現行憲法97条の「実質的最高法規性」は、価値相対主義の中に人権概念が法の条文よりも優越していることがその最高法規性の根拠であると示している。
現行憲法98条の「形式的最高法規性」は、実定法の中では他の一切の法は憲法に優越しないことを定めている。
法によって人権が認められる。
法の多数決が絶対である(と信じがちである)。
↓
多数決原理そのものに正当性があると信じている。そのため、憲法改正の国民投票を通せば憲法に正当性が保障されると信じている。
法制度としての多数決に絶対的な正当性があると信じている。そのため、人の人権は多数決で剥奪可能であり、際限がないことが前提となる。そうなると、そもそも「人には侵すことのできない人権が存在する」という前提さえも存在しなくなるはずである。しかし、「人権が神から与えられたというような認識は科学に沿わない」という考え方をしているため、論理的帰結としてのその矛盾を越えられなくなっている。
この点について、神という抽象的なものが一体どのような認知によって生まれているのかという哲学の科学的知識に基づく熟考が足りていないと考えられる。実存主義的な価値相対主義の認識に至ると、それを十分に理解できると思われる。
人は生まれながらに人権がある。
法制度以前に人権概念が存在する(ということにしておこう)。
↓
多数決原理の正当性以前に、人権の正当性が存在すると認識している。そのため、憲法改正の国民投票は法制度上の建前であると認識している。
法制度以前に人権概念が存在しているという考え方であるため、法制度の多数決原理に絶対的な正当性があるとは考えていない。それは、意思決定を導く際の仮のものに過ぎないという前提認識を持っている。
ただ、法制度以前に「人権概念に確かな正当性がある」という認識自体を人々の認識の中に維持されるように守り通さなくてはならなくなる。その認知を守るためには実存主義的な価値相対主義者の認識が必要となる。
人権概念に正当性が生み出されている経緯は実存主義的な価値相対主義者の認識によって生み出されているものだからである。つまり、実存主義的な価値相対主義者こそが、「法の正当性以前に人権概念に正当性がある」とする自然権の人権概念それ自体の価値と正当性の創造者というわけである。
これは、神という存在をつくり出している宗教の活動に似た側面がある。しかし、「人権概念は神によって与えられたもの」などという前提はない。言い換えるならば、「人権概念は実存主義的な価値相対主義者の認識によってつくられ、すべての人々を対象に与えられたもの」ということが妥当だろう。
法の具体的な条文
<自民党改憲草案>
⇒ 現行憲法97条の人権の本質を示した実質的最高法規を削除している。法制度以前に人権が存在しているという前提を削除し、自然法論の憲法から法実証主義の憲法につくり変えている。
<日本のこころ改憲草案>
⇒ 現行憲法97条の人権の本質を示した実質的最高法規を削除している。法制度以前に人権が存在しているという前提を削除し、自然法論の憲法から法実証主義の憲法につくり変えている。
⇒ 国民に憲法を尊重するよう求め、「憲法を信じない自由」などの思想良心の自由を制限している。これによって、「信じるか信じないかは、あなた次第。」という現行憲法の姿勢から、「信じない者は認めない。」という強硬な姿勢に変わっている。
⇒ 国民に歴史や伝統、文化などを尊重するように求め、「歴史や伝統、文化などを尊重しない自由」などの思想良心の自由を制限している。
これらの点は、憲法自体が絶対的な価値観であることを前提として考えられた、価値絶対主義の憲法であることを示している。
<ナチス時代のドイツ・ワイマール憲法の法運用>
⇒ 法実証主義の考え方により、成立してしまった悪法も無効とはならず、機械的に適用された。そのため法による暴力ともいうべく人々の自由や安全に対する侵害が横行する悲惨な状態となった。しかし、その当時はそれが法の正当性であると信じられていたため、その法運用を誰も覆すことができなかった。
ほとんどの宗教でもそうだと思うが、その神を信じるように強制したり、「自分の言葉が絶対的な権威である」という考え方を押し付けたりするような宗教は、あまり良い結果を生まない部分があるのではないかと思われる。今までの様々に事件を起こした宗教団体も、そういった側面があったように思われる。
国家権力がそれらの団体の活動を規制したり、事件を捜査することができるのは、「違法性」というラインを越えているからである。しかし、それらの団体の活動によって、金銭を取られたり、人が死んだり、人生を奪われたりするようなことになっても、もし法秩序がなければそれらの「違法性」を認定することができなくなってしまう。
この「違法性」とは、「人権」を基にした憲法の法秩序の観念が人々に広く普及しているために、憲法に正当付けられた法律によって、その効力が認められるものである。この法秩序の観念が人々の間に普及していない世界では、そのような事態が起きても、国家権力が適切に取り締まることのできる正当な秩序観念が存在しないのである。
この法認識とは、人権をベースとした秩序観念である。これは多数決制をベースとした秩序観念というものではない。また、この人権という秩序観念を「絶対的なもの」と信じるように強制するようなことがあっては、人々の「思想良心の自由」を侵害することになってしまう。こうなると、保障されるべく自由や安全を、国家権力が奪うことになってしまう。これではもう、国家権力でさえ、事件を起こした宗教団体と同じことをしているようなものではないだろうか。
信じるように強制したり、信仰を押し付けたりする宗教者は、価値絶対主義の観念に留まっていると考えられる。しかし、信じるように強制せず、信仰を押し付けたりしない宗教者は、価値相対主義の実存的認識を有しているために強制しないスタンスを貫くのであると思われる。
法秩序の観念もまさにそのようなものである。価値絶対主義の認識の者には「人権」というものが存在し、絶対的な権威であると見せかけるのであるが、そもそも実存主義的な価値相対主義の者がその存在しない権威を"あるかのように"つくり出しているだけのものである。
しかし、法秩序を絶対的なものだと見なして、国民に対して法を信じるように強制したり、憲法を尊重するように義務付けたりする考え方の憲法へと改憲しようとする勢力は、価値絶対主義の認識を持っている。これは、事件を起こす宗教団体の信仰強制と同じような危険な考え方である。
宗教団体の場合は、違法なことをした場合には、その活動を法秩序の観念から生まれた国家権力によって取り締まることができる。
しかし、法秩序そのものがそのような価値絶対主義的な観念によってつくられ、運用され、少数派や弱い立場の人に対する自由や安全を侵害するような残虐な行為を起こしてしまった場合には、その行為を是正することができない事態に陥ってしまう。それは、法秩序そのものの観念が既に乱れており、人々の自由や安全を擁護することができないものとなっており、その国家行為をそもそも違法化することができない事態に陥ってしまうからである。
すると、それらの行為は違法とはならないので、取り締まる機関は存在せず、それらの横暴に歯止めをかけることができなくなってしまうのである。
これが、価値絶対主義の認識から生まれる憲法観の危険性である。
評判や規模ではその実質を見抜くことができないために判断が難しいところであるが、ある程度の宗教の観念の本質に共通するのは、実存主義的な価値相対主義の認識によるものである。それを知らずに信仰している信者も一緒に共存しながら宗教は成り立っている。実存主義的な価値相対主義の認識は、価値絶対主義の認識の者とも共存を目指すことのできる寛容性を有しているからである。
法秩序の観念も同じようなものである。現行憲法の法の効力の源泉は、実存主義的な価値相対主義の認識を持った憲法制定権力者が、自由や安全を生み出すために人権をベースとした法の観念を人々に訴えかけていることによるものである。そして、その思いに共感してその憲法の意志に賛同し、集う者と共につくり上げていこうとするものである。それは、絶対的な観念として押し付けるものではなく、個々人の中で自ら湧き上がる意思によって成り立たせるところにその本質があるのである。
しかし価値絶対主義の認識の者は、それを見て「法」という秩序がもともと普遍的に存在し、絶対的なものだと考えてしまいがちなのである。そして、価値絶対主義的な憲法に改正しようとしてしまうのである。
しかし、価値絶対主義者のそれらの考え方や主張や行動は、実存主義的な価値相対主義者の寛容性を持った意思によって「絶対的に間違っている」と否定されることはなく、共に穏やかに共存できるように生かされているだけなのである。
人権保障のためにつくられた法の実質は、やはり実存主義的な価値相対主義の認識によって生み出されるべきものである。なぜならば、他者を強制するかのような絶対的な価値観として確立させようとする憲法観では、そもそも「人権保障のための法」という憲法としては成り立ちえないものとなってしまい、人権保障の質を下げることになってしまうからである。
憲法の実質を見抜くためには、この点に注意を払って考えていくべきである。
下線部は美称的な意味合いが強いと思われる。
太字部分は価値相対主義の本質的な態度であると思われる。
<現行 日本国憲法>
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
⇒ 「われら」が排除しているわけであり、この憲法が法実証主義的に他の法令等を排除しているわけではない。つまり、その効力の源泉は、憲法制定権力の意志なのである。
「日本国民は」としているが、その効力の源泉がすべての人の総意であると見せかけることによって、人権の本質と法の効力の源泉が何であるかを理解していない人を納得させる効果を持たせていると思われる。この効果は、「侵すことのできない永久の権利(11条、97条)」などの表現と同じようなものであると考えられる。第41条の「国会は、国権の最高機関であって、」の文言が、三権の中で優越するという意味ではなく、政治的美称説を採用しているような考え方と同じようなものであると思われる。その正当性の源泉の美称説としての見栄えと、実質の違いである。そうすることで、実質を理解していない人にも分かりやすくその権威性と絶対性を印象付ける効果を持たせていると考えられる。
⇒ 法の効力が、「決意し、思い、確認し、信じ、誓う」ことによって、支持する者たちの意識の中に自覚的に生まれることによって認知され、認められるに至るものであることが示されている。そもそも、この憲法のいう法というもの自体が、一つの価値観であり、様々な秩序観念(人治主義の統治や、宗教の神による統治、民主主義でない統治、友好関係だけで成り立つ秩序などあらゆる秩序)の中の一つの在り方にすぎないのである。そこに、効力を生み出す力とは、まさに、あらゆる人々に自由な意志の中に自らの思いによって自然に支持されるような制度である必要があるのである。そのためには、あらゆる人の人権を保障し、あらゆる考え方や生き方を許容しうるものでなければならないはずである。その考え方自体が、価値相対主義による多様な価値観や認識を受け入れた上で、自らの思いによって決意に至る宣言的な意志なのである。そのような意志によってつくられる秩序でしか、あらゆる人々の人権が保障された自由で幸せな生活を維持することができず、この法秩序それ自体が今後も支持されて維持されるようなものにはなりえないとの理解によって生み出されているものなのである。そのため、その相対主義の認識に至り、その人権と法という価値観に賛同する者には、この憲法によって規定された国の機関に関わって働く者として、第99条で憲法尊重擁護義務を規定しているのです。
そのように、支持しない人には極力何も求めない精神でつくられた憲法が、価値相対主義の精神によってつくられた現行憲法の本質なのです。
第三章 国民の権利及び義務
〔基本的人権〕
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
⇒「享有」とは、権利や能力など、人が生まれながらに持っていることをいう。それを、「妨げられない」という考え方であることから、自然権の考え方をベースとしていることが分かる。
⇒ 「侵すことのできな永久の権利」というのは、人が生まれながらに持っている権利や能力などの人権が、妨げられず、侵すことのできない性質であり、かつその保障が永久のものであるということを示している。つまり、これも自然権の考え方をベースとしていることが分かる。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
⇒ 「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」としている点について、この憲法のいう人権の概念は、自然権の考え方を前提としているが、それでもやっぱり以前の時代には人に人権がなかったわけであり、その実質が人以外の何者かの第三者のパワー(神の力?)などによって保障されるわけでもないわけで、その安全を確保するのは結局自分たち自身であることを記載していると考えられる。「人権は、生まれながらにもともと持っている侵すことのできな永久の権利」ということにしておくが、その実質を保障するのは、自分たちの不断の努力であることを示しているのである。
言い換えれば、「生まれながらにもとも持っている侵すことのできない永久の権利」という概念上のイデア(理想状態)を目指して、それをつくり上げるのは自分たちであることを言っているのである。
〔居住、移転、職業選択、外国移住及び国籍離脱の自由〕
第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
⇒ 職業の選択に関しても、思想や考え方、価値観などが強く表れるため、強制するようなことはしていない。
〔個人の尊重と公共の福祉〕
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
〔思想及び良心の自由〕
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
⇒ 自由な思想が絶対的に保障され、考え方を強制するようなことはしていない。
〔信教の自由〕
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
〔集会、結社及び表現の自由と通信秘密の保護〕
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
〔学問の自由〕
第二十三条 学問の自由は、これを保障する。
〔自白強要の禁止と自白の証拠能力の限界〕
第三十八条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
第四章 国会
〔議員の発言表決の無答責〕
第五十一条 両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。
第六章 司法
〔司法権の機関と裁判官の職務上の独立〕
第七十六条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
〔最高裁判所の法令審査権〕
第八十一条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。
〔対審及び判決の公開〕
第八十二条 裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
2 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。
第九章 改正
〔憲法改正の発議、国民投票及び公布〕
第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
⇒ 憲法改正に高いハードルを設けた硬性憲法の意図であり、少数派である価値相対主義の価値観によってつくられている人権の本質が無理解な多数派によって侵されてしまうことがないようにしていると考えられる。。
第十章 最高法規
〔基本的人権の由来特質〕
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
⇒ この憲法が「人権は法以前に存在している」という自然法思想を採用していることを明確にしている条文である。これは、法以前に存在している人権概念の至上性を示しており、実定法としての憲法が自然法の人権概念より導かれていることを示している。
そして、その「自然法の人権概念」であるという認識自体を獲得し、その後の試練に堪えて受け継がれてきたということを示している。何者から獲得し、何者からの侵害の試練に堪えているのかというと、それは「法以前に人権概念が存在する」という認識に立たない者からである。しかもそれは、多くの場合多数派を形成する多数決原理を絶対視する価値絶対主義者であったり、独裁者的な指導者に先導された全体主義に陥りやすい価値絶対主義者である。その侵害をから人権概念を守ろうとするこの考え方こそが価値相対主義の憲法であることを裏付けている。
この条文こそが憲法の実質的最高法規性の根拠となっている。
〔憲法の最高性と条約及び国際法規の遵守〕
第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
〔憲法尊重擁護の義務〕
第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
⇒ 国民にこの憲法を尊重することを強制していない。この憲法に込める「法」という認識自体が相対的な価値観の一つでしかないものであるということを前提にしているのである。そのため、この法という作用にできるだけ関わらずに自由に生きる権利も与えることで、より質の高い人権保障を実現しようとしているのである。
【価値絶対主義】【法実証主義】の憲法は、人権概念の根拠が条文にあると考える。
【価値相対主義】【自然法】の憲法は、人権の根拠は条文に実定化される以前に存在していると考える。
<理解の補強>
「争点はアベノミクス」だったのか、それとも「改憲勢力3分の2」だったのか? 詭弁と隠蔽で自民大勝の参院選、その意外な顛末 by 藤原敏史・監督 2016年7月21日